近づく距離
お読みくださりありがとうございます。お楽しみいただけていますでしょうか。
観劇デートの後からウィスタリアの雰囲気が柔らかくなったような気がした。
ロビンは、寝るまでに帰れたら部屋を訪れてもいいだろうかとお伺いを立てた。
疚しい気持ちは持っていないので少し話ができれば良いのだと付け加えるのは忘れていない。
了承を貰ったロビンは仕事を大急ぎで片付けてウィステリアに会う時間を作った。
宮殿の執務室の文官達は宰相の仕事のスピードが更に速くなったので、どうしたことかと侍従であるシンを見たが素知らぬ顔をされるばかりだった。
湯浴みを済ませきっちりとガードの固い寝間着を着て、ガウンを着るのがウィスタリアの恒例になっていた。
旦那様がワインと花を持って部屋を訪れるようになったからである。
「お帰りなさいませ、お迎えもせず申し訳ありません」
「いや、私の時間に合わせていたら君の健康が損なわれる。気楽にしていてもらったほうがいい」
「世の中の奥様方はお迎えしておられると聞いておりますが宜しいのでしょうか?」
「そんな知識をどこで仕入れた?私がいいと言っているのだから気にしなくていいよ」
「では遠慮なくこのままで。情報はどこからともなく入ってくるものですわ、旦那様が一番良くお分かりですわよね」
「今日は美味しいワインを第三王子殿下に頂いたので、一緒に飲もうと思って持ってきたんだ。めったに手に入らない品だそうだ。つまみは軽食といっしょにシンが持ってくることになっている」
「そんなに珍しいものを飲むことができるのですか?貴重な体験ですわね」
その時扉がノックされてシンがワゴンにチーズやトマトのサラダ、鴨肉のローストなどを運んできた。
「失礼致します。軽食をお持ちいたしました」
「ありがとう、もう休んで良いぞ」
「ではお休みなさいませ」
「お休みなさい、シン」
「お休みなさいませ、奥様」
「さあ、今日も君とこの時間が過ごせることに乾杯しよう」
「えっ、私とこうしている時間をこの高価なワインと一緒にされるのですか?」
「たかがワインだ。君と居られることとは比べものにならない」
「旦那様って気障なセリフを言う方だったのですね」
「今までが言わなすぎて気持ちが伝わっていなかったと反省したのだ。これからはどんどん気持ちを言葉にしようと思う」
「そうですか、受けて立ちましょう」
可笑しくなったロビンは緩みそうになった顔を引き締めた。
「どうしてそうなる、さあつまみもどんどん食べて」
「あまり寝る前に食べますと太りますので、旦那様がお召し上がりくださいな」
「貴女は全然太ってなどいないじゃないか、気になるものなのか?」
「気になりますわ、この間作っていただいたドレスが着られなくなります」
「ドレスくらいいくらでも買ってあげるよ」
「女性は美容上寝る前の飲食は控えたいものなのです」
「夜ワインを飲むのは嫌だったのか?」
一気に萎れてしまった様子のロビンにウィステリアは慌ててしまった。何この人可愛い、よしよししたくなるじゃないの、大型犬なの?と。
「嫌ではありませんわ、こうして頑張って帰ってきてくださって何気ないことを話す時間は必要なものだと思います。このワイン流石に特別美味しいですわね」
何気ない善意の一言がロビンの心を抉った。
「明日殿下にお会いしたらお礼を言っておこう」
「そういえば旦那様は夕食はどうなさっていますの?」
「宮殿の食堂からシンが適当に買って来てくれるものを食べている」
「そうですか、私だけ美味しいものを頂いているのではないかと罪悪感を持っていたのですが、シンが選んだものなら安心ですわね」
「えらく信用しているのだな」
拗ねたような口調でロビンが言った。
「旦那様への献身ぶりを見ていますもの、信頼いたしますわ」
「言いたいことを遠慮なく言ってくれる貴重な存在だ。それに貴女が屋敷で美味しいものを食べていてくれると思ったら安心して働ける。罪悪感など持つ必要はない。美味しいものをまた一緒に食べに行こう」
「誘ってくださるのですか?」
「是非お付き合いください、奥様」
「まあ酔っていらっしゃるのですか?早くお休みなさいませ」
「ワインには酔っていない。貴女に酔っている」
「そうですか、今日はこれくらいにしておきましょう。殿下のワインも、おつまみも終わりました」
「そうだね、ではおやすみ」
そう言って髪をひとすくいして口づけを落とし、ロビンは部屋から出て行った。
ウィステリアはメイドをベルで呼び後片付けを頼んだ。
今夜の旦那様はやけに色気を撒き散らしていたと思いながらいつの間にか眠っていた。
朝になり眩しい陽射しが部屋に届いた。流石に良いお酒は残らない、侯爵家のワイン類は全て上等だけど殿下のワインは更に美味しかった。
飲ませていだたきありがとうございますと感謝申し上げたい。私ってこんなにお酒が好きだったのかしらと思うウィステリアだ。
散歩に出ると珍しく旦那様が来られた。一緒に散歩をされるそうだ。健康のために良いと思う。
「おはようございます」
「おはよう、今日も綺麗だね」
今朝も髪に口づけされた。どうしたの旦那様、色気作戦かしら。
「ありがとうございます。褒めていただくと前向きになれますわ」
「朝の空気は良い物だね、貴女と一緒だからだろうか」
やけに旦那様の言葉が甘くなった気がする。負けるな私、目指せ自立。本当に?
絆されかけているのかもしれない。私に酷いことをした旦那様を直接知っている訳ではないから。でも記憶が戻ったら許せるのかしら、そして記憶を失った今の記憶はどうなってしまうのだろう。日記の中の私は帰ってこない旦那様を諦めて自分で生きて行こうとしていた。色々な考えが頭の中でぐるぐる回る。
気がつくと心配そうな顔をした旦那様が顔を覗き込んでいた。
「どうしたの?顔色が悪いよ。部屋に帰ろうか」
「大丈夫です、少しそこの東屋で休めば治ると思います」
「食事は部屋に運ばせよう。医者も呼んだほうがいいね。夜ふかしをさせたからかな、控えるようにしよう」
「本当に大丈夫です。記憶のことを考えていて不安になっただけなのです。ご心配をおかけして申しわけありません」
「不安になるよね、自分の存在を証明する物が僅かしかないのだから。原因を作った私は罪人だ」
「現在の旦那様は良い方です。離縁していただこうと足掻いて無理をしたのは私ですから」
「貴女は優しすぎる、罪滅ぼしをさせて欲しい。貴女が満足するまで罰を与え続けて貰いたい」
「何も覚えていないので恨む気持ちはありませんわ。過去の私も初夜のこと以外は恨んではいなかったようですし」
「きちんと離縁を言いに来てくれた、逃げられても仕方がなかったのに。
貴女が倒れてベッドで眠っているのを見た時に頭を殴られたような気がした。
このまま目を覚まさなくていなくなってしまったら、悔やんでも悔やみきれないところだった」
「日記を読んで一言物申し上げたかっただけですわ。まさか拒否されるとは思ってもみませんでしたので」
「文句を言ってもらえて良かった。お陰でこうして話ができるようになった。
とんでもない意気地なしなんだ私は」
「そろそろ朝食の時間ですわね。皆が心配しているかもしれません」
「そうだね、貴女と話ができて良かった、朝食で会おう」
朝の散歩は習慣になったらしく二人でするのが当たり前になった。
誤字脱字報告ありがとうございます。大変助かっています。言葉って難しいですね。