3 寵愛
掖庭にいくつも建物があるが、その中心にあり、最も大きく立派なのは皇后の住まう長秋宮である。その周囲にあるやはり立派な建物は貴人の位にある愛妾達の宮である。さらに外周を美人、宮人達の雑居する房がある。当然、建物の格も低い。
張讓は何美人をその雑居房から連れ出し、宮の一つに案内して告げた。
「本日より、こちらがあなたさまの住いです」
細かな細工のある門と高い塀。入る前から判る。見たこともないような豪邸である。
はあ。それを見上げて感嘆の息を吐いてから、門を指さし張讓に確認する。
「……あたしはここで働けばいい、ってこと?」
やっとふさわしい働き場所ができた、という気持ちで、彼女の顔は晴れやかだった。腕まくりまでした。
「いえ、それには専属の宦官、采女がおります」
「じゃあ、あたしは……?」
張讓が少し困った顔をしていた。はじめて見る表情だった。
「陛下の行幸をお待ちいただきます。お体を磨き上げなさいませ」
「へ?」
それでようやく、彼女は自分が「何貴人」と呼ばれる存在になった事を知った。
実際、彼女には専属の宦官と采女が傅いた。贅沢な部屋で贅沢な食事を摂る事ができるようになった。自分が何もしなくとも、身の回りが整って行く。だが。
(気が休まらないっ!)
いつも身の回りに誰かが立っているのである。
昼に何もすることがないのは以前と一緒だが、暇潰しもできないのだ。状況は悪化したといっていいだろう。
「外へ出たい!」
そういうと、
「どちらへ?」
「ご一緒致します」
とくる。宦官たちが付き従おうとするのである。とても池に小石を投げに行く、などと言えない。出る気が萎えた。ため息をつくしかなかった。
だが、夜は違った。頻繁に……ほとんど毎夜、帝が訪れるのである。
「其方は嬌声をあげぬのだな」
何度目かの後の帝の感想だった。
「はぁ……特に必要ないので」
ぐったりとうつぶせに倒れ伏したまま答える。
「そういうのは他の女に頼んでください」
特に愛情のない相手に抱かれているのである。楽しいわけがない。作業に過ぎぎない。しかも自分はじっとしているだけである。暴れたりしないだけで感謝してほしいくらいである。
その答えに帝はくすりと笑った。
「いや、其方はそのままでいい」
帝は彼女のうつぶせの背中に唇を這わせながら続けた。
「田舎の野蛮で野暮な女のままの方が気が休まる」
「褒めてませんよね?」
いいながら起き上がりかけたが、とっさに我慢する。帝が唇でも切ったら族滅されるかもしれない。
「其方の美点だ。名家の女は……なんというか……朕の事を見下している気がするからな」
「やっぱり褒めてませんね……」
話をするようになってみると、帝は案外きさくな若者だった。田舎の貧乏王族から若くして抜擢されたので、市井の苦労も多少は知っている様だった。市場の出来事を聞くのを喜んでいた。そしてまた、市井から王宮に入る、という苦労も知っていた。
「宦官が付いて来たいというなら、付いて来させればよいのだ。居ても石ころだと思って無視することだ」
助言してくれた。
「いや無理でしょ」
「無理なものか、慣れる慣れる。朕の我が母は厠の中に同行してきて尻まで拭いてくれるが、どうということはない」
我が母とは中常侍の趙忠の事だと何貴人にももう判っている。今も寝室の扉の外に立っていて、帝が事を終え、夜が更けようとする頃に連れて帰る宦官である。
……面倒くさい、と思っていた自分の宦官達は、あれで手加減してくれている方らしい。
彼女はため息ではなく、安堵の息を吐いた。
***
久しぶりの外出である。後ろには宦官が付き従っている。
(いないいない、宦官なんていない)
石ころを引き連れて自分の宮から出る。
建物に入る。
廊下を抜ける。
渡り廊下を渡る。
次の建物に入る。
また廊下を抜ける。
目的とする池になかなかたどり着かない。原因は判っている。
(う、動きにくい!)
貴人にふさわしい衣装、というのを着せられているせいである。
美人だった頃には支給されていたのは皆一様に同じにしか見えないお仕着せだったが、貴人は美々しい袍を何着もの中から選ぶ事ができる。だがその衣装がすべてひらひらが付いて動きにくいものなのである。
(どうせ仕事の時は何も着せてもらえないのに、面倒くさいったら!)
長い紫の綬が垂れ下がっているのも邪魔だし、金印も小さいがずしりと重い。
(次は動きやすいもっと質素な部屋着をおねだりしよう……)
以前見掛けた貴人達は、こんな衣装を着て優雅に歩いていたのか。なんか厭味な連中だったが、ほんの少し尊敬する気になった。
疲労困憊の末、ようやくいつもの池にたどり着いた。
(居ない……)
織女の姿はない。地味で寂しい池のほとりには場違いにきらびやかな貴人が一人と、それをとりまく宦官達が立つばかりだった。
(……しばらく来れなかったからなぁ。約束したわけでもないし)
「しゃーない」
一言つぶやく事で気を取り直した。
「帰えっか」
宦官達はきょとんと突っ立っていた。何も言わずに掖庭内を歩き回り、突然小さな池の前で立ち止まったのである。ようやく説明不足だった事に気付いたが、
(ええい、石ころ石ころ!)
説明も難しいので勢いで乗り切る事にした。もと来た道へ引き返したのである。
(あ、また結構歩かなきゃだ)
目的の達成できなかった帰路の足取りは重かった。
……行きに気付かなかった事がある。
建物の中を通っていて、宦官や采女達の所を通りすぎようとすると、彼女らは後ずさりして壁や柱に貼り付く様にして道を譲るのだ。
(この紫のひらひらのせいか)
金印紫綬といえば王侯の格である。貴人とは名ばかりではないのだ。
(しまった。貴人が通る時は避けなきゃいけなかったんだ)
睨まれるわけである。とんだ無作法者だった。
(あ、これ癖になりそう)
調子に乗って采女達を退けながら廊下を通る。
いい加減自分の宮へ近付いたあたりで、地味な服を来た見知った顔が、美しい貴人達と睨みあっていた。その後ろ彼女らの宦官達がおろおろしている。
「どきなよ」
「無理……」
織女!
ようやく見付けた友人は、なぜか貴人と廊下の真中で向かい合い、道を譲るの譲らないのという喧嘩寸前の状況になっていた。
「すいませんすいませんすいません!」
友人を庇ってあげないと!当然の事として何貴人はこの対峙に割り込んだ。
「この娘、しきたりを知らないんで、勘弁してあげてください!」
代りに釈明した。織女がすごく迷惑そうな顔になった。
「あたしが言って聞かせますんで!」
そう言って友人の肩を掴み、廊下の柱の陰へ押し出そうとした。何貴人は織女と比べ、ひとまわり以上身長が高い。体重も重いし、肉屋で仕事をしていたそれなりの筋肉も備えている。だが織女はびくとも動かなかった。
織女は何貴人の方をちらと見て、
「私は道を譲るわけにいかないの」
はっきりとそう言った。声は力みに震えていた。この場からびくとも動かない為に全力を振り絞っているのが彼女の両手に伝わって来た。
「皇后はけっして貴人に道を譲らないものなの」
織女が振り絞った震える言葉を、相対する貴人が嘲り飛ばした。
「皇后ったって年イチの儀式用のお飾りじゃない」
更に追い打ちした。
「美人や宮人にだって陛下に抱いてもらったのがいるのに」
と。
***
はじめて入った長秋宮はがらんとして、寂しい空間だった。
「ここには采女は何人もいないから、大したおもてなしはできないわ」
織女……いや、宋皇后はあらかじめそう断わった。人払いして、ここには二人しかいない。だが酷く居心地が悪かった。
宋皇后は何貴人の紫綬を見て言った。
「ご寵愛いただけたようね」
「皇后陛下とは知らなくて、いろんな無礼をして……えっと、ごめんなさい」
「いいのよ。あいつらのいう通り、名ばかりなんだから」
実際、宋皇后は今も地味な服装のままで、皇后の風格や威厳など感じられない。
「皇后になって三年経つけど、陛下はここに一度も通われていないわ──だから私、処子のままよ」
「そんな」
自分は兄に売られ、好きでもない男に抱かれ、どちらかというと不幸だと思っていた。でも、夫と定められた男に一切見向きもされない、という方が酷いと思った。お手付き済みの貴人に馬鹿にされるのはもっと酷いと思った。
「私はね、年一回、先蚕の儀式のためだけにここにいるの」
はるかな古代。偉大な三皇の後を継ぎ、五帝のはじめの皇帝として中国を治めた伝説上の人物、黄帝。彼には西陵氏という妻がいた。西陵氏は蚕から糸が取り出せることを発見し、民に広めた伝説上の人物である。西陵氏を祀っているのが先蚕壇で、毎年三月、皇后がそこで感謝の祭を行い、宮中で蚕を育てる事になっているのだ。
「蚕を育てる事は許されているからね。この着物も自分で織ったのよ」
「だから織女だったのね……」
宋皇后が織女、と名乗っていた事を思い出し、何貴人まで悲しい顔になった。
「判ったでしょう?これで私達の関係もおしまい。はやく自分の宮に戻って、陛下を迎える準備をしなさい。こんなトコに居てもなんの得もないわよ」
ちっとも気にしていないよ、と顔で表そうとして微笑み、どう見てもそれに失敗している宋皇后の顔を見て、何貴人の眉はきりきりとつり上がった。ゆらり、と立ち上がって叫んだ。
「酷すぎる!こんなのってないよ!」
目には怒りが燃えていた。
「陛下ってもう少しマシな人間かと思っていたのに!」
どうだろう?本当にそんな事思っていただろうか?宦官にあてがわれるままに次々女を抱く男がマシな人間だろうか?
「いいのよ。いずれ誰かに皇太子が産まれたら、その母が新しい皇后になるでしょう。それまで我慢すればいいだけ」
別の皇后が立つ、となったら、宋皇后はどうなってしまうのだろう?何貴人は疑問を感じたが、怖くて聞けなかった。
「あたし、陛下に話してみる!」
宋皇后の手がおそろしい程の勢いで彼女の手首を掴んだ。凄い力だった。
「やめて!」
振り絞るような声だった。
「私がみじめになる……あの人が来ても、来なくっても」
宋皇后の手はガタガタと震えていた。
もうそれ以上、何貴人には掛ける言葉がなかった。




