2 掖庭
彼女の顔を疲れさせているのは洛陽までの長い旅だけではなかった。
「ん、顔はまぁまぁですな」
にょっきりと高い冠を被った小太りの男が、彼女の周りをぐるぐると回り、失礼な感想を述べる。
男は郭勝。中常侍だという。中常侍という役職は聞いたことがある。話に聞く宦官の筈だ。同郷の誼で長兄に賄賂をもらってお前を呼んだとあからさまに語った。つまり、こんな所へ自分を拉致した犯人ということだ。
「胸と尻は……ま、及第点というところですな」
宦官は男の機能を持たない、と聞いていたものの、彼女の目から見れば宦官はぶよぶよとした体系なだけの嫌らしい男以外の何者でもない。実際その視線は嫌らしく、薄く透けた衣装で立たされ、体をじっくりと観察されるのは屈辱以外の何者でもなかった。
とはいえ、その程度、
「ふむ、調べによるとちゃんと処子のようですな。ええ、結構なことです」
掖庭……帝の女が集められたこの場所に入る時、しわしわの婆ぁの女官にされた、女陰と尻の検査に比べたら、なにほどの事でもなかった。
「背は……報告通り高いですな。和熹鄧太后陛下以来かもしれません」
また言われた。思わず彼女は口答えしてしまった。
「あたしの背がにょろにょろ高いからって何か悪いかよ!」
郭中常侍は特に表情を変えず、さらりと答えた。
「背の高い子が産まれましょう。大変結構な事です」
男は身長が高い、というだけで世間の評価からは高くなる。この世で一番偉い帝ですら外見を気にするんだ、ということに彼女は気付いた。
(そうか、あたしは背の高い皇太子を産むために連れて来られたんだ)
自分が牧場の牝牛の如く扱われている事に彼女は衝撃を受けた。いろんな検査を受けさせられ、疲れ切った心が思わず泣き事を吐かせた。
「もういいから帝とかいうのの前に連れてってよ。足だってあたしの方から開くからさ。さっと種付けして家へ返してよ。子供くらいぽんと産んでやるからさ……」
「しばらくは陛下の御前には出せませんよ。呂不韋の例もありますのでね」
郭勝のその答えは彼女には理解できなかった。妊娠した状態で後宮に入り、託卵する事例が歴史にあったのである。
「まずは月の障りを二、三度はお見せいただかないと」
見せる?月のモノを?この男に?
あまりの事に言葉も出ない彼女に、郭勝は淡々と告げた。
「我々を男とも人とも思わない事です。お慣れください」
そして付け加えた。
「私は慣れました」
***
暇である。
何美人は女官として呼ばれたわけではないので、昼の仕事を割り当てられていない。なのに夜のお勤めも当分許されない。掖庭の外周には塀が在り、その外に出ることは一切許されていない。なのにやることもないのである。昼の間、何美人はその辺をぶらぶらと回っていた。本当に暇なのである。
掖庭は女と宦官の住む、洛陽南宮の一角である。皇帝の住居の掖にあるから掖庭という。城内とは思えない広い敷地に、驚く程豪華で巨大な建物が連なり、庭や小さな池まであった。
だがその巨大な建物内は女達でごった返していた。
掖庭の頂点は皇后である。皇帝の正妻であり、皇帝が儚くなった時は皇太后となって政務を行なう。皇后に次ぐ地位として、帝に寵愛された選ばれた貴人達がおり、その下に美人、そして宮人が皇帝の寵愛を受ける日を待つ。さらに、働き手として多数の采女が居る。
洛陽の掖庭にはこの采女だけでも四千人。いかに広い掖庭でも、建物の中では働く女達がひしめきあう。彼女の同年配の年若い者から、老婆まで──が忙しそうに働き、それを監督する偉そうな宦官達。この何千人もが、全て、たったひとりの男を満足させ、跡継ぎを作らせる為にいるのだ。
(なんてばかばかしい)
そんな掖庭の渡り廊下を、ゆったりと歩く者達が居る。
貴人。皇帝の寵愛を受けた彼女達は、まるでその証かの様に紫の綬を腰に下げて衣装をひらひらさせながら優雅に歩く。
(みんなすごい綺麗……)
何美人は賄賂での別枠だが、通常は毎年八月の案比──人頭税を決めるための役人の戸別訪問──の際、役人が見出した年十三から二十までの美少女が洛陽へ集められ、姿色端麗な者を宦官達が審査し、合格したものだけが掖庭に入るのだという。美しいのは当然で、最低限なのだ。
正直な話、宛の市場近辺では自分より綺麗な顔の女はいない、というのが何美人の認識である。しかしここでは自分は平凡な顔立ちで、色もなんだか浅黒い。所作もあらっぽい。というか雑である。自分が勝てているのは身長ぐらいじゃないだろうか。
女達がこれ見よがしに紫綬をひらひらさせながら自分の前を通る。彼女らは何故か何美人を睨みつけ、くすくすと嘲笑いながら。
(取り澄ましやがって)
実に腹立たしい事態だったが、だからといってし返しできる状況でもなかった。
(ここに居てもむかつくだけだ)
建物を離れる。建物と建物は廊下で繋がり、廊下と外壁の間は庭になっている。庭には小さな池があった。大した大きさでもなく、何か飾りが置かれているでもない平凡な池である。
池のはたの地面に、汚れるのも構わずに腰掛ける。どうせおしゃれをしても帝に会えるわけではないのだ。
小さな石を拾い、投げる。小石は池まで届かず、ほとりを転がった。
もう一つの小さな石を拾い、投げる。先の小石の横に落ち、そこで止まった。
(おしい)
そうやって暇をつぶしていると日が傾いて行く。
(ばかばかしいけど、なんにもすることないし)
書でも読めればいいのだろうけど、字なんて数字しか知らないし。
「あら、先客?」
後ろから声がした。少し振り向いて、声の主を見た。
地味な女性だった。地味な服を来ていた。でも采女の服ではない。働く服ではなくて、楽な部屋着で外に出て来てしまった、という感じだった。
ふりむいた何美人に、その女性は目もくれなかった。先程のは呼びかけではなく、単なるつぶやきだったらしい。
女性は自分よりもっと前まで歩くと、池のほとりに座り、やはり小石を取って池に投げ込んだ。ぽちゃん、という音がして波紋が浮かんだ。
直後、別の小石がその波紋を打ち消す。彼女の小石が池に届いたのだ。
女性はちら、と彼女のほうを見たが、何も言わず石を投げる作業に戻った。しばらくの間、二人はそれぞれに小石を池に投げていた。
たくさんの波紋が複雑に重なりあった。ようやく女性が手を止めて言った。
「あなた暇なのね」
阿呆でも判ることだろ?何美人は答えた。
「こんなトコに連れて来られたのに、主上に会うこともできないし、あたしにはすることもなんもないんですよ」
彼女の答えに女性はにっこり笑って言った。
「私と同じね」
***
女性は「織女」と名乗った。「牽牛の来ない織女なの」と。
その日以降、何美人の足はこの池のほとりに向かうようになった。毎日織女と会って、二人で暇を潰している。たとえ何することもない暇な身でも、一人ではできない暇潰しがあるからだ。そう、おしゃべりである。
「で、こうやって手を突っ込んで、ドクドクいってる太い血管があるからそれを指で摘んで、お腹の中で出血させるの。それだと血が無駄にならないし、手もあんまり汚れないし」
とはいえ、何美人が豊富な話題を持っているわけでもなく、羊の締め方、などという掖庭にふさわしいんだか話している自分でも疑問しかないような話題しかない。しかし織女はそういう話にも感心してくれた。
「みなの食べる肉って、そうやって手に入れているのね……」
織女の反応から、織女は結構な家柄のお嬢様であろうと思った。市井の話にいろいろうといのである。
そして──織女と話していて判明したのだが──織女は掖庭入りの時に老婆に体のいろんな穴を点検される、などという事はなかったという事だ。
(もしかしてあれは、庶民の出のあたしが信用できないから?)
ちょっとむっとしたが、逆に織女が王朝から信頼される名家のお嬢様だと確信できた。
(箱入りのお嬢様か……もっと楽しい所に嫁ぐこともできたろうに)
可哀想、とは思わなかった。こんな所に放りこまれた、という点で言えば自分と対等だったから。
***
ついにその日が来た。
采女達がやってくるとよってたかって何美人の体を洗った。口からあそこから、穴と言う穴を点検された。
牀に裸で座らされている何美人に、中常侍の郭勝は告げた。
「何進からの依頼分はこれで終わりだ。ふたたびのご寵愛がなければ、私にもどうにもならない」
この宦官はこれで兄の支払った賄賂分の仕事をした、ということらしい。
「もし、二度と呼ばれなかったら、あたし、どうなるの?」
「どうにも」
多分、死ぬまですることもなくここで暮らす、という事だろう。ぞっとしない話だった。
別の宦官がやってきて郭勝と交替した。その宦官は慇懃だった。
「何美人様。これよりお側にお仕えする張讓と申します。讓の事はどうぞ張讓、とお呼び捨てくださいませ。あるいは中常侍、とでも。呼びやすい方を」
すごく遜っていたが、目は笑っていなかった。得体の知れない怖さがあった。だが、彼女にも掖庭へ来てから学んだ処世術がある。彼女は昔牧場で見た雄牛の去勢の様子を思い出した。
……この人も、去勢された時には悲痛に鳴いたのかな?モウモウって。
それを思い出すとなんだか少し怖くなくなった。
「では主上の所へお連れします」
「服!服!」
まだ全裸のままである。こんな姿で廊下を歩かされるの?
ふわり、と薄布が頭から掛けられた。こんなのたいして隠れてるとは言えない。
「だから服!」
さすがに声を荒げた。張讓の反応は冷淡だった。
「お仕着せで着飾っても、帝は別に喜ばれませんので」
自分の部屋に帝をお招きできる調度のある宮をあてがわれている貴人と違い、美人、宮人の位の女は小さな部屋に押し込められ、官給の服を着せられている。そこから用のある時──夜のお勤めだ──だけ、帝の部屋に送られる。
だがその移動方法が、三人の宦官に横抱きにされ、荷物の様に運ばれる、とは聞いていなかった。
宦官達は誰もいない掖庭の廊下を歩く。いくつかの門をくぐるともう彼女の見覚えのない場所になった。より豪華で荘厳な内装の通路を通ると、最後は巨大な牀のある部屋にたどり着いた。彼女はその牀にやさしく放り出された。
(ここで顔も見たことのない相手に抱かれるのか)
ため息しか出ない。
兄に売られて──彼女の認識ではそうだ──こんな所へ来たが、別段野望もやる気もないのである。客に肉の包みを渡す時以上の媚びなど売った事はないのである。
(困ったな)
しばらくすると、廊下に繋がる大きな扉が音もなく開いた。二人の宦官が左右の扉を開いている間を、薄着の若い男が入って来た。
(あれが帝、ね)
どちらかというと貧相な若いあんちゃんである。帝王の風格、とかは感じられなかった。帝は金糸で龍とかが刺繍されたゴツい服で着飾っていると想像していたが、意外や寝巻きである。
宦官達は深くおじぎをすると、後ずさりながら部屋を出て行き、扉が閉ざされる。それを確認して、若い男は無言で寝巻きを脱ぎ始めた。
(そっか、どうせ脱いでヤるだけだもんね)
適当に寝巻きを脱ぎ捨てた男が牀に乗って来た。
(初対面の裸の男に、言葉も交わした事もない相手に、いったいどんな気持ちをいだけばいいんだか)
愛とか情とかの抱きようがない。
何家の肉屋は、一族経営の牧場があっての商売。彼女は子牛の誕生から潰して解体するところまで、全部を知っている。
今、彼女の脳裏にあるのは優秀な種牛を待たせておいた牝牛の所に連れて行き、種付けさせる所である。
彼女はヤケになって足を開いた。
「いいよ、さっさとしなよ。噛み付きゃしないからさ」
彼女のはすっぱな物言いに、帝は目を白黒させていた。
***
一通りの事が済んで──帝が、彼女の事を特に慮らず自分が好きな様にした、ということだが──皇帝は何美人に尋ねた。
「其方は庶民の出か?」
「宛の肉屋の娘で……ございます」
ぐったりしながらも、なんとか教わった言葉遣いを思い出せた。くすり、と皇帝は笑い、鷹揚さを見せた。
「話しやすい様に話せばよい」
「あっ、ありがと」
不敬が許容されたのを幸い、雑な言葉遣いで答える。
「宛の市で店をやっているのか?」
「は、はい!兄の店で売子してました……」
答えながら彼女はもぞもぞと体を縮める。自分は裸で、この部屋に来た時点で服を与えられていない。だから体を隠すこともできない。牀にうつぶせになって体の前面をなんとか隠した。
「市場の賑わいか……懐かしいな」
大股を開いて安座で座る帝は、自分が裸である事を意にも介していないようだった。
「天子になって以来、朕はほとんどこの洛陽宮の中で過ごしている」
尻を撫でながら言わないで欲しい。彼女は牀に顔を押しつけているので、もごもごとした声で答える。
「……市場くらい好きに行けばいいんじゃないですかね?」
「民に迷惑が掛かるので止められているのだ」
「不便なんですねぇ……」
帝なんて横暴でなんでもできるものだと思っていた。でも意外にそうでもないらしい。尻を撫でていた帝の手がぴたりと止まった。
「え?」
唐突に背中に重みを感じる。帝にのし掛かられたのである。
「ちょっ!」
(またするの?!)
男の欲望、というものがよく判らないので混乱する。思わず身をすくめたが、帝に逆らったり怪我をさせるわけにもいかないので、動かない様に努める。
^
だが、想像したような二回戦はなかった。
バンッと扉が開く音がした。
「ヒッ」
彼女は小さな悲鳴を上げた。宦官達が入ってきたのである。二人ともが裸の、事後の場所に入ってこられたのだ。恥ずかしくてたまらない。
「陛下、お時間でございます」
声は張讓とは別の宦官であった。かん高いが、やさしい声だった。
「我が母か」
母?
聞き間違えたかと思った。
帝の重みが消える。立ち上がったのだろう。うつぶせだから見えなかった。
衣摺れの音がして、人の出て行く音。扉の閉まる音。そして部屋から自分以外の気配が消えた。
起き上がって、回りを見回し、確認する。……誰も居ない。
(もう居なくなった……本当に牛の種付けみたいだったな)
視線がなくなったので、やっとため息をつく事ができた。全身の緊張を解き、確認する。体はべとべとするし、痛みもある。
バン!とやさしくない音を立ててまた扉が開く。反射的に身をすくめる。
「美人。お部屋へお送りいたします」
張讓たちだった。




