1 肉屋(熹平四年/174)
南陽の郡治所、宛城の賑やかな市場で、もっとも繁盛している肉屋、といえば何進の店である。
店頭を切り盛りするのはもちろん、店主である何進。
「へい、腿肉を一斤ね!オイ!皮付きでうまそうなトコをな!」
何進の気風のいい指示で、弟の何苗が豚肉を切り分ける。何進の妻がそれを竹皮に包み、何進の妹に手渡す。
「あいよ、腿のいいトコだよ〜」
客は肉を受け取りついでに彼女の手を握ろうとした。
「おおっと、それは豚足じゃないねぇ」
さらりと躱わす。でも笑顔は忘れない。軽く手を振って愛想を振りまき、次の肉を受け取りに行く。もう次の客が待っているのだ。
彼女は、この店の美人売子として市場では名高く、彼女に肉を手渡してもらおうという客で店はごったがえしていた。
客の値切る声と何進の威勢のよい応対の中、店は早朝から戦さ場の様なありさま。明け方に潰した豚は昼までに売り切れ、ようやく客足が途絶えた。腕まくりした袖で顔の汗を拭うと、彼女はようやくひと息付くことができた。
(今日のお客はなんか変だったな)
いつもの常連のお客さん以外の、知らない顔が何人も店に入って来た。そして何も買わずに帰っていった。
(邪魔だし迷惑。客じゃないなら来ないで欲しい……)
その日の夕食。
食事が並べられた房には、家長の何進とその家族……つまり何進の妻と息子の座る輪と、彼女と母と次兄、そして末の妹が座る輪と、二つに分けて席がしつらえてある。兄の妻が弟と同席する、というのは礼に外れるので、どうしてもこういう配置になってしまう。だがそのせいで、家長である兄の一家と、継母と連れ子と腹違いの妹達、というなんとなくすき間を感じる二つに分かれざるを得ない。
あまり会話の弾まない、静かな食卓である。父が存命の間は、もっと和気藹々として会話もあったと思う。父の急死後、長兄が家を継いでからこんな感じになってしまった。父よりも長兄のほうが商才に恵まれていたのか店はいっそう繁盛するようになったが、よそよそしい空気が流れるようになったのは彼女にとっても残念なことであった。
汁を啜る音、肉を咀嚼する音。そんな音しかしない食卓の沈黙を、彼女は勇気を奮って破る。
「今日のお客さん、なんか変だった。買わないのに店に入ってくる人が多くて」
母が時間を掛けて煮込んでくれた肉の羹をつつきながら、今日の感想を持ち出す。長兄はちらりと自分の方を見たが、結局何も答えてくれなかった。次兄がぼそりと
「お前目当てだろうさ」
そう言った。そしてまた食卓は沈黙に覆われた。
***
十日程が経った。その日、長兄は朝からおかしかった。
日が昇っても豚を潰さなかった。店は休みにする、と宣言した。
……どこかから、綺麗な着物を持って来た。しかも自分に着ろという。母が化粧をしてくれた。
「ねぇ?何?あたし売られるの?それとも誰かと結婚するの?全然聞いてないんだけど」
長兄は何も答えてくれなかったが、ほどなく立派な車に乗ったお役人がやってきて、その予想はそれほど間違っていない事がわかった。
「何進よ。そこに居るのが話のあった妹か?」
諱で呼ばれてもにこにことぺこぺこと応対する長兄に、家の皆が呆気に取られる。
役人はずかずかと家の中に入り込んで来た。案比の時ですら中には入ってこないのに。無遠慮に彼女の下から上までを舐める様に眺め、見上げた。
「なるほど。報告通り、なかなかに大柄な女だ」
──気にしている事を。
唇を噛んだ。自分は七尺一寸の長身で、可愛らしさはかけらほどしかない。古着だと着る物に困る程である。だが報告、という言葉で、何日か前の怪しい客達がこの役人の下見に来たのだとピンと来た。
だが、そういういろいろの考えは次の言葉に吹き飛ばされた。
「よろしい。これならば洛陽へ連れていき、掖庭に納めても問題なかろう」
家族全員が一斉に長兄の方を見た。兄何進はにこやかに微笑んで、彼女に告げた。
「お前にはこれから都へ行ってもらう」
兄が次に言うことはもう予想がついた。
「帝の後宮に入るのだ。なんとしてもご寵愛いただくのだぞ」




