15 碑の裏
上虞江のほとりで、川面に向かって石に腰かける男が一人。その背中は誰が見てもしょぼくれていた。
蔡邕である。
(流れ流れてここまで逃げて来たが……これからどうしたものか)
職なく伝手なく、だが守るべき家族はいる。名声はあるが、うかつな事をすると刺客がやってくるかもしれない。それが怖くて親戚である太山の羊氏にしか、自分の場所は知らせないでいる。
(官にはつけないな)
そもそも中央で名声のある自分がこんな田舎──楊州の、しかも長江も浙江も渡った先で呉の地で下級官になるなど、県令や太守が困るだろう。
(道場でも開くか…?)
家族を連れて逃げる。呉の蛮地に逃げる、と決意した段階で心配していた断髪文身の蛮人習俗の人こそ見ないが、こんな田舎で儒を学ぶ人はいるのか?と自問自答を繰り返してしまう。
ため息をついて、立ち上がった。
ふと路端に大きな石が立っているのに気付いた。字が刻まれていた。石碑である。
石碑の右端を上から下に読む。「孝女曹娥碑」とあった。職業柄、字があったら目が追ってしまう癖が抜けない。
序文は「孝女曹娥は上虞曹盱の娘也」から始まっていた。字はさほどうまくない。
今から三十年ばかり前、順帝の御世の出来事である。この会稽に曹娥という齢十四の少女が居た。
祭の日、父が川で溺れ、沈んでいった。待っても死体はあがってこず、葬儀もできなかった。曹娥は父を思い昼夜哭いていたが、十七日の後、遂に自身も川に身を投げた。
曹娥の遺体は上がって来たのはそれから五日も経っての事である。驚く事に曹娥の遺体はその両手で父の屍を抱いていた。死して父の遺体を捜し出したのである。当時県令だった度尚(八厨の一人である)が彼女の為にこの石碑を作らせた、というのである。
彼女を讃える文面はこのように始まっていた。
伊惟孝女、曄曄の姿。偏其返而令色は孔儀。
窈窕淑女、巧咲《笑えば》倩兮其家室に宜しく洽の陽に在り
洽の陽は周の文王が妻である太姒を迎えた場所である。窈窕淑女も太姒を讃える詩からの引用だ。
(十四の未婚の少女に大胆な褒めようだが、こんな田舎ではこれくらい大げさな方がいいのかもしれないな)
少し感心した。絶妙な好辞だと思った。
蔡邕は自分が微笑んでいるのに気付いた。逃亡をはじめてから消えた笑顔が初めて戻って来たのだ。
微笑みを楽しみながら帰路につく。
五里《2キロ》程歩いた所でいたずら心が涌き上がって来た。
来た道を戻り、石碑の裏に立つ。
小刀を取り出すと、石碑の裏に刻んだ。
黄絹幼婦外孫齏臼
謎掛けである。
(この八字を解読できる者が出るといいな。)
蔡邕は思った。
自分に余裕が生まれていると知った──ここでも、やって行けそうな気がして来た。
(了)