10 狩り
「議郎の蔡邕は、大鴻臚の劉郃がかつて濟陰太守であった時、吏の張宛に休暇百日を与えよう頼みましたが郃は三日のみを与えました。郃が司隷校尉の時には河内の郡吏の李奇を州の書佐に就けようと頼みましたが郃は引き受けませんでした。太山の羊捗、胡母班を党人として取り調べる時、邕と叔父の質は特別の便宜を求めましたが郃は配慮しませんでした。邕は郃を怨み中傷いたしました」
尚書令の陽球が粛々と告発を読み上げる。
帝劉宏の反応は困惑である。
(変な話だな。蔡邕がそんなつまらない事をするのかな?でもそうでなければ劉郃が嘘吐きだって事になるのか……)
見回すが蔡邕も劉郃も出席していない。放っておいてよい話ではなさそうだ。劉宏はため息をついて陽球に命じる。
「尚書。邕に詰問の状を出す。陳述を返すよう詔を」
陽球はこの詔を遂行する際に、尚書台に一つの噂を……いや、事実を流布した。程中常侍の指示で婿である陽球が讒言した、という事実をである。
反応はまちまちであった。尚書台には宦官側の人間も、宦官もいる。だが尚書劉納の陽球への視線は怒りに燃えていた。
陽球はこの件を蔡邕に伝達する使者として劉納を選んだ。彼ならば必ず蔡邕に同情し、この背後情報を伝えるだろう。そうすれば蔡邕の反論は士太夫と宦官の対立と言う文脈で書かれ、自分は宦官側の人間として士太夫という士太夫から指弾されるはずだからである。
***
翌日、早くも届いた蔡邕の自陳を陽球が読み上げる。
「臣は征営怖悸、肝胆は地に塗れ、死命の所在も知りません」
聞いた諌議大夫の馬日磾は思った。
(美辞麗句を連ねてる場合か?)
馬日磾は、いざと言う時弁護してやろうとしてここにいる。
「窃かに自問し考えますに、確かにそのような部下がおりましたが、羊捗、胡母班の件は身に覚えがございません。部下の休み程度の事で怨みはいたしませんし、羊捗とは姻家である以上、どうして敢えてかばいだてするでしょうか?」
(妥当な反論にはなっているな)
「もし臣と叔父が郃を怨み傷つけようとするなら、台閣へ出て具体的に陳述いたします。臣を郃と対面し審査してください」
(筆先が熱い。伯喈、堪えてくれよ)
馬日磾は祈った。届かなかった。
「臣は学問を以て褒異を蒙り、東観で筆を操って姓名と容貌を聖心におとどめ頂いたものです。七月に召されて金商門に至り、災異について封事せよとお誘いいただきました。臣は愚かにも命を投げ出し、忠を尽くそうとして、後の害を厭わず、公卿を名指しし寵臣まで批判しました。」
「あ」
馬日磾は思わず声を洩らした。心の中では絶叫していた。全身から血の気が引いていた。
(駄目だ!止めろ!止めろ!)
続きの想像がついた。これは陛下への怨み事だ。
「私は聖問に応え康寧の策を計ろうといたしましたのに、陛下は忠臣の直言を掩蔽する配慮を怠られました。これでは皆、口を閉ざしてしまいますぞ」
馬日磾は蔡邕の欠点をもう一つ知った。
(なんて弁解の下手な奴なんだ。ここは平謝りしておけばいいのに……)
帝の方をひそかに窺う。聖顔は不快に歪んでいた。
「──乞うらくは質が連座されませぬように。さすればこの身が死んでもなお生きるというものです。あとはただ陛下が養生なされ、萬姓の為にご自愛なさいますことを」
陽球が最後の部分を読み終える。侍御史が前に出て帝に言上した。
「邕、質をすみやかに洛陽獄に収容されますよう。奉公人に怨みを持ち大臣を害するような意見を述べる大不敬の者ですので棄市なさるのが適切かと」
(いかん)
このまま話が進むと大変な事になる。馬日磾は弁護の為に口を開いた。
「お「お待ちください!」
かん高い声が割り込んだ。皆の視線の先には高冠の老人。中常侍の呂強である。呂強は宦官の中では清忠の人として知られる、珍しい人物である。
「陛下。議郎は大鴻臚に対し少々失礼な行いがあった様ですが、死を賜わる程の罪に当たるとは思えません。無罪といって差し支えない程です。邕、質はお許しいただいた方がよろしいかと」
帝の顔に、聞こう、という姿勢があったので呂強は続けた。
「邕は陛下が御許可あそばした石経建立の主筆でございます。今、議郎を棄市してしまえば、百姓の石経を見る目はどうなりましょうか?石経は陛下の学識を後世に残す不滅のものです。無闇にその権威を傷付けられませんよう」
劉宏はしばし考え、頷いた。
蔡邕と蔡質は死一等を減じられた。鉗刑で髪を剃られた上、家族と共に北の果て、朔方に流されることとなった。
(結局何も出来なかったのか、私は……)
馬日磾は無力感に苛まれた。
***
尚書台の雰囲気は異常だった。
粛として静まりかえり、時折、墨を摺る音、筆の音、簡を削る音がするだけ。誰もが会話を避けているようだった。
当然だ。陽球は思った。
宦官の側に立ち、かの蔡邕すら陥れる尚書令である。目立ってしまって自分の存在を印象付けたら何が起こるか判らない。亀の様に首をすくめるのが賢明というものであろう。
(これ以上無い程、俺の名は地に落ちている様だな)
蔡邕という犠牲の羊を狩る事で、自分の宦官の犬という地位は確立したと思った。
(いや、念には念を入れよう)
陽球は程璜の店を訪ね、切り出した。
「蔡邕の始末をつけたい」
「流刑でカタがついたのではなかったかね?」
程璜にとっては既に終わった話になっていた。それをむし返す為に陽球は来たのである。
「主上は蔡邕がお気に入りだ。今はお怒りでも、気が変るかもしれない。そうしたら呼び戻すかもしれぬ。大赦だってあるかもしれぬ。その前に刺客に襲わせる。伝手はないか?」
「……徹底したものだな、婿殿は」
程璜は感心し、豪商時代からの伝手で殺し屋を雇った。陽球は流刑先、朔方の県令に賄賂の金を送り、蔡邕の殺害を依頼した。
***
蔡邕ら一家は、見張りに引き連られながら、北へ北へと、とぼとぼと歩んでいた。どんどんと寒さが増しているのは剃り上げられた頭頂部のせいだけではあるまい。危険な僻地に妻を、娘を連れて行くのが心苦しかった。
ある夜、亭の一室で蔡邕は目を覚ました。高名な蔡邕である。各地の守、令、亭長は罪人には過分な丁重な扱いをしてくれている。ここでもきちんとした部屋が割り当てられていた。だが、夜半のすき間風に目が醒めたのである。
蔡邕が起き上がると、牀の足元に平伏する姿があった。心臓が早鐘の様になった。冷静を装い、静かに声を掛けた。
「どなたでしょうか?」
平伏する男は顔を上げず答えた。
「あなたを殺すよう頼まれたものです」
そこまで怨まれる事をしたのだろうか?疑問と同時に死を覚悟した。
「では、あなたのするべき事をなさいませ」
「自分の様な小人に貴方様の様な大人物を害する事などできましょうか」
そういうと男は立ち上がった。すき間風が吹いて止まった。男は消えていた。
蔡邕はもう眠れなかった。
***
蔡邕は、今日もふらふらと歩む。いつ次の刺客が来るか判らないので恐怖で寝不足な日々が続いている。
ようやくたどり着いた朔方県であったが、出迎えた県令の顔はすまなそうだった。
「高名な皆様をお迎えし光栄なのですが……ここに居ては危険です」
そういって小さな金の塊を見せた。
「陽司隷校尉からのものです。あなたを殺すよう言われています。断わるつもりですが、私や郡太守がいつまで抵抗できるか自信がありません」
悲しげな顔の県令に蔡邕は困惑しつつも深く感謝した
「ここでもですが……」
実をいうとこのような告白は初めてではない。経路の県令や亭長から何回か、陽球からの指示を受けた事を聞いている。もしかすると命を受けたが言わずに黙ってもてなしてくれた県令もいるのかもしれない。
(そこまで怨まれていますか……私も、叔父も、彼に何かをした覚えがないのですが……むしろこちらが怨んでいいのではないでしょうか、)
しかし困った。ここは流刑の目的地なのである。ここにいられないならどうすればいいのだろう?塞外にでも行くしかないのか?
「すぐ隣りの安陽県は、五原郡に属しています。県令には話を通してあります。あちらであれば朔方に来る命令が届きません。難を避けられるとよろしかろう」
県令の助言に感謝し、蔡邕は急ぎ安陽へ移動した。
安陽では下にも置かぬもてなしで、ようやく蔡邕は安住の地を得た気がした。
十日も経たぬうちに、安寧は予想もしない形で奪われた。五原郡の太守が挨拶に来たのである。
「かの蔡伯喈をお招きできたのはこの身の栄誉。なんでも都合をつけますので欲しいものを言ってください」
実に親身に言ってくれた太守の名は王智。中常侍王甫の弟である。
「まずこの辺に家を建てましょう。立派な奴をね。私の奴隷を何人か進呈しますよ」
親しげに話かけてくる王甫の弟に、蔡邕は生きた心地がしなかった。
***
「大人。司隷校尉を手にいれて欲しい。蔡邕の息の根を止められなかったのは、私の権限が弱かったからだ。司隷校尉になれば、もっと皆さんのお役に立てるだろう」
陽球の言に、程璜は頷いた。
「婿殿……この父にお任せあれ」




