9 陰謀
熹平七年は正月早々、南方の交州は合浦で交阯烏滸蛮の反乱から始まった。二月には日食と地震があった。三月に天下に大赦を行ない光和と改元した。だが四月、またも地震。更に南宮の侍中寺で雌鶏が雄と化した。そして光和元年五月。
その日、白衣を纏った見知らぬ男が徳陽殿にやってきた。
そもそもそれが異常だった。徳陽殿は洛陽北宮にある。胡乱な男がやって来れる場所ではない。
男は徳陽殿の門から中へ入ろうとした。時によっては帝が居られる場所である。当然門番は誰何し止めた。男は言った。
「私は梁伯夏である。私を上殿に案内し天子とせよ」
四十年近く前に死んだ筈の順帝の外戚、梁商。つまり梁冀の父を自称した。
門番は押し留めようとしたが、男は押し切ろうとした。異常な力であった。
門の近くにいた中黄門の桓賢らが止められぬと見て、門吏僕射を呼びに行った。だが役人達が到着する前に男は消えていた。
六月。北宮溫德殿の東庭に黒い気が堕ちて来た。顔は車の天蓋の如く黒く,立ち上がると身は五色に輝いていた。体長は十余丈。容貌は龍に似、虹に似ていた。
相続く異変怪異に人々は騒然とした。
帝、劉宏は曹節、王甫らに命じた。
「大長秋、中常侍。東観の人を金商門へ呼んで。対策を聞きたい」
金商門は徳陽殿の西の門である。皇帝自ら東観に諮問したいというのだ。
詔により蔡邕、單颺、楊賜、馬日磾、議郎の張華が招集された。
帝劉宏ははりきって尋ねた。
「昨年、平城門の内屋と武庫の東垣が倒壊したのはなぜじゃ?」
他の士太夫は沈黙を守る中、蔡邕が答えはじめた。
「平城門は郊祀の法駕が出立する門であります。門の中でも最も尊いものです。武庫は禁兵を蔵し東垣は庫の外の守りです。易伝では小人が位に登ると上下が皆乱れ、妖が門を内に崩すと言います」
(ん?)
劉宏は答えに少し引っかかりを感じたが、次の問いを投げかけた。
「侍中寺で雌鶏が雌の鶏冠のまま雄の様な羽毛に変化したという。実際に朕も見に行ったらまことその通りであった。これは何を意味するのか?」
蔡邕は答えた。
「宣帝の黄龍元年。めんどりが雄に化したとあります。この年は元帝が即位され、王皇后が立たれました。臣はひそかに思いますに、頭とは元首、人の君を象ります。今、鶏の一身に変化があり、頭に至らないのであれば、何かが起ころうとしているがまだ終わっていない、ということです。変に応じて政を改めなければ、患いは大きくなるでしょう」
王皇后の甥が王莽である。彼の手で漢は一度滅んでいる。凶兆である。
帝は更に問うた。
「この数年冬になると蝗が飛ぶ。これは何の咎であろうか?」
蔡邕は答えた。
「臣が聞くところでは、易伝に曰く、時を得ない工事には天が災いを降らせる、それは蝗として来たる、とあります。また、河圖祕徴篇に曰く、帝が貪れば政は暴となり吏は酷となる。酷であれば誅する為に蝗が来る、とあります。蝗害は貪苛の致すところなのです」
劉宏は滔々と流れる回答にうっとりしていた。さすがの学識だと思った。
「では溫德殿の黒い気はどうじゃ?あれは龍か?虹か?」
期待した通り、流れるように答えが返ってきた。
「天が虹を投げたのでしょう。足と尾は見えず龍と称し得ないものです。易伝曰く、虹は無徳の象徴で色に親しむ者也といいます。春秋潛潭巴に曰く、虹出るは后妃が王たる者を陰で脅やかす、又言います、五色が宮殿を照らさば兵事が有ると。演孔圖に言います。天子が外で兵を苦しめ内で奪うと、臣の忠が無くなり、即ち天が虹を投げると。変は理由があって生じ、占いは理由があって言うのです」
(その「変の理由」が知りたいんだけどなぁ。もしかして遠慮している?誰が悪いか名指しを避けているよね……)
そう思った帝、劉宏は蔡邕に告げた。
「災異がいろいろあったのに、何が原因なのか誰も朕に教えてくれなかった。邕は経を深く学んでいるのだから特別に尋ねる。何が悪かったか判るように朕に教えて欲しい。黒絹で封じた表を出すように」
名指しでの封事の依頼である。同席した曹節は大いに焦った。
(陛下がこんな事を言い出されるとは!)
誰が悪いか言え、そう命じたのである。蔡邕が宦官を指すのは目に見えていた。狼狽した曹節は動揺して王甫の方を見た。緊張した顔で王甫が目配せを返した.
***
程璜の娘は、父が宦官になった事で自分がもはや良縁に恵まれない立場になっていることをきちんと認識していた。
だから陽球に既に正妻が居て、自分は第二夫人、つまり妾であることに不満はなかった。実に盛大な親迎の宴もしてもらったし、父程璜の望みである孫の顔が見せられればどうでもいい、そう考えていた。
程夫人、と呼ばれる様になって知った夫としての陽球は、やさしく、いつも笑顔で、丁重な人物だった。正妻との間に差別はなく、二回に一回は自分の元へ訪れた。
ただ、閨だけは少し荒々しかった。
自分は婚期を逃し、結婚自体を諦めて遊び歩いた時期がある。生娘ではなかったし、そこそこいろいろな男を知っていた。
夜の陽球は激しく自分を蹂躙するが、情欲に衝き動かされている様には思えなかった。快楽の中で薄目を開けて見る陽球の顔は眉の間に険があった。
この激しさがどこから来ているか判らず、程夫人は困惑した。
***
人払いした陛の上で、帝、劉宏は届けられた黒い絹の袋を手に取る。封印を確認し、中身を抜きだし竹簡を拡げて確認する。
(また蔡邕の筆跡が手に入った)
にやけるほほを引き締める。そんな事に喜んでいる場合ではない。自分に足りないものは何か?名君たろうと志して蔡邕に封事を依頼したのだから。
臣、伏して思いますに、陛下は臣のつたない学を褒められ、特別にご下問あそばされました。臣の様な螻蟻に出来る事ではございませんが、命を掛けて述べさせて頂きます──
劉宏は、時に小声で音読しながら読み進める。
臣、伏して諸々の異を思いますに、全て亡国の兆しです。虹と鶏の変は政治に女人が関与しているからでございます。前に乳母をしておりました趙嬈は天下に重んじられ、生前は国庫と等しい富を貯え、死後も皇帝陵を超える丘墓に入り、その子ら封を受け、郡を私物化しております
(そんな事になっていたのか……)
劉宏は亡き乳母を特別に優遇した記憶はなかった。と言う事は竇太后に阿っていた時期の成果か?
永樂門史の霍玉は寵愛を頼みに姦邪を為しています。
永樂宮は母のいる宮である。誰の寵愛かは考えるまでもない。
(母上の側近か……言いにくいな)
霍玉とやらが自らそう振舞っているのか、母の命によるものなのかも判らない。
今、世間を騒がせているものに程大人なるものがおります。その噂の数々から、国の患いとなるものです。今のうちになんとかせねばなりません
中常侍の程璜の事だろうか?あまり接する事がないが、そんな悪い事をしているのだろうか?……僕が市井の噂など知る筈がないじゃないか。封事なんだからどういう噂か書いて欲しかった。
太尉の張顥と光祿勲の姓璋は、霍玉の推薦したもので汚貪と聞きます。長水校尉の趙玹 《ちょうげん》、屯騎校尉の蓋升は富を貪っております。この様な小人が位に在る咎を避けてください。
(張顥と姓璋は罷免かな。でも)
趙玹と蓋升はどちらも自分のお気に入りである。弾劾されたのを庇ってやった事もある。
伏して見ますに廷尉の郭禧は清純にして徳篤く純厚老成、光祿大夫の橋玄は聰明にしてまっすぐな人柄です。元太尉の劉寵は忠誠高く正しきを守る人です。この様な方々としばしばお会いになり、お尋ねください。
(どいつもうっとおしいじじぃばっかりじゃないか)
立派な天子になるってのは楽しくないことだと痛感する。
封事は次の文で終わっていた。
臣は愚かにも感激の余り敢えて忌諱を犯しました。もし君臣が秘密を守らなければ上には漏洩の戒めが在り、下には身を失う災いがあります。願わくば臣のこの文書をお隠しください、忠をつくすものに姦仇の怨みを受けさせないでください
「……」
一通り読み終わると、劉宏はため息をついて立ち上がった。
自らの足で陛を降りる。
降りた所で待機していた宦官達がひれ伏して問うてきた。
「陛下、いかがなされましたか?」
「おしっこ」
手近な皇帝専用の厠へ案内される。こんな事ですら何をするか尋ねられ、厠の中にまでついて来られる。最初はいらいらしたが、十年近くそんな生活ですっかり慣れてしまった。宦官監視の元で用を足す為に装飾過多な厠へ向かう。
劉宏が中座した瞬間、陛の上へ駆け登る影が一つ。曹節である。高齢に似合わぬ猿の如き俊敏さで、置き捨てられた竹簡の元へたどり着く。劉宏が置いた形を目に焼き付け、急ぎ目を通す。
慣用表現や美辞麗句には用は無い。誰が、どう、非難されているのか。
それだけを暗記し、竹簡を元の通りに投げ置いた。
***
「程大人、お呼びと聞きましたが」
本来、義父とも呼ばねばならないが、抵抗があって未だ陽球はそう呼べていない。とはいえ、用件はとっくに判っている。落ち着いた心で陽球は尋ねた。
「た、た、た、大変なんだ……わしの事を陛下に悪く言った者がおる」
程璜は哀れなくらい震えていた。
蔡邕が自分の名を帝への封事で名指ししていた、と誰かに聞いたのだろう。
「蔡邕めが、わしの名を、帝への封事で名指ししていたと!……そう大長秋が言っておられた!」
それはそうだろう。程璜の悪事の噂を蔡邕の近辺にばらまいたのは陽球なのだから。
「わしだけだ!中常侍ではわしだけが讒言されておる!」
ああ、この男には自分のやってきた事への後悔も反省もないのだな。そう思ったが、陽球は全力で痛切な表情を作り、答えた。
「どうなさりたいですか?球は大人のお言葉に従いますぞ」
「殺してやる!わしを讒するような奴がどういう目に遭うか、世に知らしめねばならん!」
程璜の目には、ただ自分を指弾した者への憎しみだけが燃えていた。
「……お任せください。こういう時の為に、球はいるのです」
陽球は涼しい顔で請け負うと店を出て行った。
その足で陽球が向かったのは陳球の屋敷である。陽球の口元は綻んでいた。
***
数日後、前司空の陳球が、大鴻臚の劉郃を招き、酒宴を開いた。陽球は既に悪名が高くなりすぎ、会ってもらえないだろう、という判断である。
酒を口にするより前、早々に劉郃が切り出した。
「私に何か?」
劉郃と陳球は三公九卿として知己ではある。しかし個人的な付き合いまではしていなかった。急に招かれた事で劉郃も何事かを感じていた。
「卿は蔡邕と確執がある。そう聞いている」
陽球は切り出した。
大鴻臚の劉郃の兄は、かつて解瀆亭侯だった劉宏を河間まで迎えに行き、大将軍竇武と最期を共にした劉儵である。
今上は劉儵を恩人として未だに慕っており、その余録で劉郃は引き立てられ、濟陰太守、司隷校尉、大鴻臚と昇進した。
「昔、役目の事で頼まれたのをいろいろ断わったので気まずくなっているだけだ。気にするほどのことではない」
陳球が見るに、劉郃の表情はその言葉より沈痛だった。
「それだけではなさそうですな?」
「……」
劉郃の脳裏には今も蔡邕の声がこだましている。
──司隷校尉になられたのに、何故何もなさらないのです?
余計なお世話である。
──せっかく兄君の驥尾に付されたのです。御意志を継がれてはいかがです?
誰もがあの兄の様には生きられるわけではない。
無邪気な蔡邕の声が不快だった。やさしげな声だが、自分にとっては面罵されたも同然だった。
「卿は蔡伯喈に何かするつもりかね?」
「申し訳ないが失脚してもらいます」
「何のために?彼は高名ではあるが、ただの議郎だ」
「陽方正の悪名を高める為です」
「……全くわからん」
「いずれ判ります」
(話にならん)
劉郃は押し黙った。沈黙が訪れたが、陳球は口を開かない。耐えられず劉郃は尋ねた。
「それは陛下の為になることなのか?」
「陽方正が悪名を轟かしているのも、陛下への赤心故。他意はありませんとも」
劉郃はしばし考えてから口を開いた。
「何をすればいい?」
「かつての色々を教えてください。あと、十日程病気になっていただけば結構。その間に全てが済みます」
結局、劉郃は酒にも肴にも手を付けずに帰って行った。
手付かずの酒肴が並ぶ部屋で、ぽつんと一人っきりになった陳球は懐から小さな像を取り出し、うやうやしく上座に置いた。不思議な微笑みを湛えた金の立像だった。
陳球は両手を合わせ像を拝む。
「儒者も、宦官も、皆死に絶えますように」
祈りは誰の耳にも入らなかった。




