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俺解釈三国志  作者: じる
幕間7 酷吏二人(熹平六年/177)
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5 東観

 洛陽城の南宮に聳える東観閣。ここには漢家の収集した典籍と、太史寮の記録する天文や歴史の資料が収納されている。その上階では選ばれた議郎や博士らがこれら史料に基づいた議論を行なっている。

 ここ東観は洛陽の学問の最高府である。誰もがそう認めるだろう。太學はもはや学問の場として認識されていない。万を超える学生が所属する利権団体であり、十四人の博士でどうにかなる状態を超えていた。

 その東観の最近の話題といえば学問の深淵に関する高尚な議論……などではなかった。


「芸人共の小屋、もう完成しそうですな」


 南の窓の方を向いてぼやいたのは張馴ちょうじゅん、字は子雋ししゅん。太學で夏侯尚書を学んだ議郎である。


 洛陽南宮の南端にある鴻都門。帝が行幸しやすいそこに、巨大な建物が建造されつつあった。そこには帝がお好みの諸芸の達人が集められる予定である。東観はその話でもちきりなのだ。


(これが洛陽学問の最高府で学究のする話だろうか?)


 諫議大夫の馬日磾ばじつていはちいさく息を吐いた。

 そのため息に気付かず、韓説かんせつが続ける。


「帝が芸人の芸を楽しまれる。それだけで済まないのが考えものです……」


 韓説、字、叔儒しゅくじゅ。五経に通じ、さらに図緯の学にも通じた議郎である。


「嘆かわしい事よ。敬宗様の頃にも威宗様の頃にもなかった事だ」


 老人が嘆く。五官中郎将の堂谿典どうけいてん。大長秋曹騰に抜擢され官途に就いた、という経歴で、ここの長老格である。敬宗は孝順皇帝、威宗は孝桓皇帝の廟号である。


「こんな事は漢家の先例にありませんよ……」


 これは太史令の單颺 。


「帝は今でも学問を大変お好みなのだ。だが、それ以外もお好みなのが困った所でな」


 光祿大夫の楊賜、字は伯獻。かの大儒、楊震の孫であり、今上が即位してすぐ、侍講として欧陽尚書を伝授した、つまり皇帝の師である。


 今上は学問を愛好される方である。自ら皇羲篇、と称する伏羲に関しての書五十章を認められる程の方だ。だが、今上がお楽しみになるのは学問だけに限らない。書画、辞賦、音楽……そういった諸芸も愛好されている。とにかく遊び好きなのである。


 それだけなら別に目くじらを立てる程の問題ではない。だが、帝は気に入った芸人を役人に取り立てる悪い癖がおありなのだ。すでに樂松や梁鵠などの小人が二千石の官僚としてのさばっている。東観の士太夫達は聰明である。この先に待っているものが読めていた。帝は鴻都門に、太學の代わりになる機関を作ろうとされておいでなのだ。


(だからといってこんな話をしていて何かの役に立つというものでもあるまい)


 馬日磾は実りのない噂話にうんざりしていた。


 馬日磾、字、翁叔おうしゅく。かの馬融ばゆうの族子である。十年ばかり前に馬融が亡くなってからは、馬融の学業を継いでいる。とはいえ、馬日磾自身はあれ程の大儒の跡継ぎをできているとは思っていない。


(堂と蔵書を引き継いだだけさ)


 馬融は四百人という門徒が参集できる屋敷と、有望なもの五十人を収容できる講堂を持っていた。馬氏の中で有望だった、という理由でそれを引き継いだからと言って、自分が馬融に並び称される人間になれたとはとても思えない。


((あの人は破格過ぎた)


 馬融は歴史に残る大儒であり、盧植、鄭玄という、大儒の師でもある。

 

(私は常識人だしな)


 馬融は女を侍らせ、女達に楽器を奏させながら講義をした。弟子の寄り好みも激しかった。大いに欠点だらけの人間だった。それでいて尊崇されていた。あんな怪物は一族でも馬融だけである。


(……いや、案外うちの一族には奇行の血が流れているかもな)


 自分の父を思い出した。西漢は武帝の頃の名臣、金日磾。その名と、字までを息子に付けたのだ。いくら名臣でも、匈奴ではないか。おかしいだろう。しかし、何故とは聞けなかった。不孝だからである。


(だが私は凡人に過ぎない)


 大きく切り欠かれた東の窓から日光が降り注ぐ。


(もし、あの人と並び称される士太夫がいるとしたら)


 東の窓の側。日差しを頼りに黙々と書き物をしている男に馬日磾の目が注がれる。


 男は右に積まれた真新しい竹簡を手に取ると、すらりすらりと書き込み、順が狂わないよう左に並べて行く。男の左には既に十何枚かの竹簡が積まれていた。


 男は蔡邕さいよう、字、伯喈はくかい。四十半ばのこの男は今、洛陽でもっとも知られた儒者であろう。いや、もっとも知られた、では言葉が足りない。もっとも敬愛された儒者、と言った方がいいだろう。


(伯喈殿の美点はあの人に勝る)


 馬日磾は聞いている。蔡邕は孝の人であるという。


 病気の母に付き添い、三年の間、寒暑に構わず襟や帯を解かず看病した。寝ずの番七十日の後に母を亡くし、母の眠る塚の側に住んだ。その動静があまりに礼にかなっていたため、家の側には兎が憩い、連理の木──枝の繋がった瑞象の木──が生え、遠くからも人が見に来るほどだった、という。


 蔡邕は篤の人であるという。


 叔父や従弟と同居したが、家財を争わずに仲良く暮らしたので郷里では義の人と呼ばれていたという。

 実態はどうであったか馬日磾は知らない。しかし、蔡邕は良き親である事は知っている。娘の物覚えが素晴らしいと惚気る、一人の親馬鹿である。


 馬日磾は思い知らされている。蔡邕はほとんど万能の人である。


 儒者としては先の太傅胡廣に学び、辞章、数術、天文を好んだだけでなく、音律にも優れている。儒学というのは葬儀祭礼を中心に置いた教えである。音楽とは切っても切れない関係があり、孔子も琴の名人として知られていた。そもそも蔡邕の名声が都に知られたのは琴の名人としてである。先の帝の頃、宦官達は彼の鼓琴を聞きたがった。中常侍は帝に願い、勅を以て蔡邕を呼び寄せさせた。蔡邕は勅命に逆らえず、止むを得ず都へ向かったが、病と称して途中で引き返した。そして一旦世を捨てたのである。


 蔡邕は博識の人である。故郷陳留での隠棲中に朝廷の様々なしきたりを認めた「独断」などはその最たるだろう。


 蔡邕は能書家である。篆書、八分体、隷書などの多数の書体を使いこなし、飛白体の創始者として知られていた。洛陽では多くの人が彼に碑文の揮毫を頼んだ。


 そしてなにより、蔡邕は碩学の人である。馬日磾はこの件に関しては屈辱すら抱けない。差がありすぎるのだ。


 帝が今上に替わって後である。橋玄の招きで蔡邕は洛陽へ戻った。そして議郎として東観閣に属した。


 二年前……熹平四年の事である。蔡邕は言った。


「世に広まっている六経に間違いが多過ぎます」


 六経は周、あるいはそれ以前の時代から伝わる儒経の経典の総称である。これらの書物は竹を革紐で繋いだ巻物に書かれている。ところが、この革紐が切れる等して文が抜けたり、順番が変ったりという誤りが起きていた。また、書写で受け継いでいるうちに誤字や脱字も起きていた。それでも多くの書物が世にあれば相互に確認され間違いは正された筈であったが、あいにくと秦の始皇帝により焚書が行なわれ、多数の書物が失われてしまったのである。結果として誤ったものが残り後世に伝わっていたのである。

 蔡邕はこれを正しい文章に直し、世に広めたい。そう考えたのである。


 馬日磾は、六経は聖なるものであり、無謬だと考えていた。少々おかしな所があっても、自分の学習が足りないのだと納得していた。だが蔡邕はそう思わなかった。このことで馬日磾は、蔡邕の才に打ちのめされたのである。

 東観の面々は連名で帝に願い出た。無論、六経を改訂し広める事業を行なわせて欲しい、という事をである。帝は学問を愛する方である。この事業は無事許可された。


 しばらくして将作大匠の配下の石匠が高さ二丈の巨大な石を次々と切り出して来た。蔡邕が経書の誤りを正し、石に書きつける。石匠はそれを石に刻む。一基あたり両面で四千字を超える石碑……石経が完成すると、それは洛陽南郊に運ばれた。太學の門外に並べられるのである。最初の石経が置かれた時、書写に行こうとした士太夫達の車が千両以上連なり、洛陽から太學への街道はふさがってしまったという。二年経った今も作業が続き、終わりはまだ先になりそうだ。


 ここ東観は洛陽の学問の最高府である。だが、現在東観がそう思われているのは、蔡邕がここに所属しているからである。少なくともここにいる全員がその認識で一致している。


 一通り書き終わったのか、蔡邕は左に積まれた大量の竹簡を揃えると、もう一度読み返し、左から右に置きはじめた。黙々と読み、時に小刀で削り、書き直す。


 蔡邕は新しい竹簡を持って来た。先程までの竹簡を横に並べ、清書をはじめる。

しばらくして、蔡邕はつぶやいた。


「できた」


 蔡邕が順を確認しながら、二十枚ばかりの竹簡を並べ、かわひもでもたもたと編んで行く。終わるとくるりと巻いてうやうやしくだいに置く。じゃらりと重い音がした。油抜きしたばかりで水分の多い、竹瀝のしたたりそうな、そんな新しい竹簡である。


 馬日磾は手伝ってやりたかったが、この件ばかりはそうはいかない事を知っていた。


 蔡邕が黒く染めた絹の布を取り出し、竹簡を包む。包みを泥で封をし、印を押す。これは封事といって、密閉した状態で帝へ提出する、機密の意見書である。余人が目にしてよいものではないのだ。


***


 今年、熹平六年は二月の怪異から始まった。南宮の平城門と、武器庫の垣屋が突然倒壊したのだ。

 四月には全国で旱魃が起きイナゴが発生した。そこへ加えて鮮卑が国境を侵した。護烏桓校尉の夏育かいくが反撃に出た。王甫に口効きを頼み、蔡邕らの反対を押し切り塞外……長城の外へ進撃したのである。鮮卑の英雄檀石槐(だんせきかい)が迎撃した。八月には結果が届いた。夏育らは敗れ、生還できたのは十人に二人という大敗であった。


 この天変、怪異、脅威に帝劉宏は宣言した。「この咎は朕の不徳である。政策の要所を封事で出すように」と。自分の悪政が呼んだ事態だとして、それを是正する意見を求めたのである。


 慌てたのは宦官達である。彼らは自分達に不利な上奏を握り潰して有利な立場を得ている。封事で勝手な意見が帝に開陳されるのは大いに困るのである。


(封事は改竄できぬ。しかも帝御自身が封事を求めておいでなのだから、握り潰すこともできぬ)


 曹節は困惑していた。


(段々と扱い難くなられておいでだな)


 帝の性は暗愚ではない。だからこそ、目と耳を塞いで枉げて来たのである。だが、いつまでも子供ではない、ということだろう。


 さて、その至尊の人はというと、陛の段上にしつらえられた帝の座で、だらしなくも安座し、


「ふふふ」


 笑い声を漏らしながら、竹簡を読んでいた。


 脇には黒い布と竹簡が点々と転がっており、帝の回りは人払いされ、宦官すら付き従ってはいない。


 帝は誰邪魔されることもなく、一巻の上奏を、韋編がちぎれる勢いで読み返していた。


 実のところ、劉宏は自分の政治に反省していたわけではない。いや、全く反省していないわけではないが、どちらかというとこの機会にかこつけて、蔡邕の筆跡を得たかったのである。


わたくしは伏して聖旨を読みますに、周成は風に遇いそれを執事に訊ねられ、宣王はひでりに遭うとつつしみ畏れはげまれたといえども、それに加える事はありません、か」


 思わず小声で音読する。


(周成は周の成王だよな。風が吹いたので家臣に理由を尋ねた人だ。宣王は旱魃の時に行ないを整えた人。僕が反省して封事を求めたのでこの二人に例えているわけか)


 古典を勉強している劉宏には内容が判る。楽しい。


──臣は噴懣に勝てず、施行すべき所七事を謹んで条します。


 後に陳政要七事疏と呼ばれる書奏を読み進める。


一事 天子は四立(立春・立夏・立秋・立冬)や夏の終わりには近郊へ五帝を迎えるものです。これは神気を導き、豊年の福を祈る為です。清廟で祭祀して往を偲ぶ孝敬と、老人を辟雍に養いて、礼化を人に示すのは皆、帝たるの大業で祖宗の祇み奉じる所なのです──


 これは自分の怠慢を諌めたものだ。


(確かに怠りすぎたかも。……だって行くの面倒なんだもの)


 だが、祭祀を怠れば天の怒りがあってもおかしくはない。


(やるしかないかー)


二事 臣は、国のまさに興らんとする時、至言がしばしば聞かれ、内には己が政を知り、外には民情を見ると聞きます。陛下が即位されてから災異が頻発しているにも関わらず、特に人材を広く求めさせたということがございません──


 これは人材登用を求めたもの。


(これって天変の対策だよね?そう言えば即位したての頃陳蕃に言われてやらされたっけ……)


 あの頃はわけもわからず言われた通りにしていた。陳蕃が死んでからは自分からやっては来なかった。


(でも宦官達がうるさいからなぁ……)


 士太夫に政治を独占させると士太夫がわがままになって、陳蕃竇武の様に自分に盾突いて武装蜂起する様になってしまう。だから宦官や、字のうまいだけの芸人など、様々な人材を配置して士太夫のわがままを抑えよ、というのが宦官達の意見である。

 そこへ全国から賢者を募集すると士太夫に天秤が傾いてしまう。


(むずかしいなぁ)


 とりあえず保留、そういう事にした。


三事 賢を求める道は一つではありません。徳によって顕かに成ることもあれば、言葉を以て揚がるものもあります。朝廷の士太夫は忠信で賞されず、常に誹られ誅されるので口を塞いでおります。郎中の張文は狂直の言を聖聴納受いただき、三司が責めを負う事となり、臣子は曠然とし衆庶は悦びました。愚かにも臣は張文をより重い職に抜擢したいと考えます──


 忠言には応えよ、という事か。


(でも皆嫌な事しか言わないし……)


 とりあえずその張文とやらを引き立ててやろう。覚えていればだけど。


四事 司隷校尉や諸州の刺史は姦枉を督察し白黒を分別するものです。伏して見るに幽州刺史の楊憙ようき、益州刺史の龐芝ほうし、涼州刺史の劉虔りゅうけんには奉公の心がありますが他は皆枉橈の者で職を称すにあたわずのものです。昨年の制書どおりに監察の八使を遣わし、奉公の者に志を得させ、邪枉の者に色を失わせてください──


 監察官である刺史を監察して綱規を粛正せよ、と。


(じゃぁ刺史を監察する人を監察しなくていいのかなぁ?きりがないよ)


 劉宏は考えるのが面倒になって見なかった事にした。


五事 臣はいにしえは士を諸侯より必ず歳ごとに貢させていたと聞きます。武帝の世より郡が挙げる孝廉、賢良があり、文学の選があります。これによって名臣が輩出され、文武が並び興ったのでございます。漢が人を得る方法はこれに限られるのです。書画や辞賦のような小さい才の者に国をただし政をとりさばく能力はありません。人材登用は博打ではございません──


(ああ、蔡邕は僕のお気に入りの芸人が気に入らないのか……それは判る。判るけど)


 劉宏はしばし黙考して結論した。


(そうかぁ……蔡邕は自分は芸人枠じゃない、そう思っていたのか)


六事 墨綬の長史(県令)は人をとりさばく職です。人民に恩恵を与えた年月で評価される様、褒責を明らかにするべきです。しかし今、実績もなく県から戻り、議郎郎中に還っている者がいます。能力、成果を計り、昇進させるあるいは罰するべきです──


(そんな事知ってるさ。僕は解瀆亭侯だったんだぞ。クソみたいな県令が居るってことくらい。でも県令なんてそんなもんだろ?いったいどうやって評価するのさ)


七事 伏して見ますに宣陵孝子を太子舎人になさったとか。かつて孝文皇帝が皇帝たるもの喪に服するのは三十六日までと定められました。肉親や臣下として重恩を受けたものすらそれを守っておりますのに、虚偽の小人、骨肉でもなく私の恩のないものがどういう情で行なっているのでしょうか?姦軌の人が混ざっているかもしれません。彼らを官から追放し、詐偽を明らかにしてください。


 宣陵孝子は先帝の墓である宣陵に住みついた市賈民しょうにん達であり、先帝の喪に服している、という触れ込みでそこに泊り込んでいた。つい先日、劉宏はその孝に感心し、彼ら数十人を太子舎人に取り立ててやったのだ。太子舎人は皇太子府の宿衛であり、まだ皇太子の居ない朝廷においては二百石の捨て扶持という扱いになる。


(会った事もない先帝に孝行してますって言い張るのに便利だったんだけどなぁ。でも得体の知れない連中が内官になって洛陽宮を闊歩するのも確かに問題か…)


 劉宏は宣陵孝子を洛陽宮の外の官職に移動することを決意した。


(でもなぁ)


 儒者ですらじぶんに刃を向けるのである。


(忠だの孝だのって本当に良く判んないや)


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