3 犬と羊
朝議が終わり帝がご退出あそばされた。近侍の者達が北宮徳陽殿前庭より退出する。門を出て、城下への道の途中、議郎の陽球は立ち止まると、大きなため息をついた。
つい先月まで平原相であった陽球が議郎になっているのには訳がある。
今年……熹平六年の春は全国的に雨が降らず、播種に遅れが出、今年の作行きが懸念された。旱魃の様な災変異常の責を負う太尉の張顥は、これを苛酷貪汚の長吏が居る事による天の警告と判断し、そういった噂のある全員を罷免することにしたのである。
厳しすぎる刑罰を罪に問われた陽球は洛陽の廷尉の元に送られ、そこで平原相を解任された。これは左校での強制労働や庶民に落される事も覚悟する事態であった。
「ずいぶんな長嘆息だな」
声を掛けてきたのは廷尉の陳球である。
「議郎には慣れたか……と聞きたかったんだが、それどころではなさそうだな」
洛陽獄に陽球を収監したのが廷尉の陳球である。陳球は陽球の罪状を報告する際、九江賊の討伐の功があったという点を忘れず報告してくれたのだ。帝はそれを読んで陽球に功績があった事を思い出し、議郎に取り立ててくれたのである。
「議郎や尚書台は私の志すところではありません」
その恩人に対し、陽球は噴懣やる方ない、という顔で答えた。
「県令の時は太守に邪魔をされました。太守の時は太尉に邪魔をされました。正義を為すのはむずかしいものです」
陽球はまたため息をついた。その様子に陳球はかすかに微笑み、小さな声で誘った。
「愚痴は洛陽獄で聞いたよ……場所を変えて話さないか?」
***
麒麟にしては勢いがなく、羊にしては躍動している、なんとも中途半端で不思議な動物を象った土偶が部屋の奥に鎮座していた。土偶の額からは一本の角突き出している。これは伝説の司法官である皋陶が飼っていた聖羊、獬豸である。罪あるものを見分ける能力があったという。
洛陽北宮にある洛陽寺。そこは洛陽の司法の中枢である。巨大な洛陽獄を中心に、裁判の為の施設が整えられている。その主である廷尉には、被疑者に権威を見せつける荘重な居室が与えられていた。獬豸もその荘重の一環である。
陳球はその荘重な部屋ではなく、奥の資料室に陽球を招きいれた。大量の竹簡が巻かれたり束ねられた状態で所狭しと積み重なっていた。
「ここなら誰にも聞かれない」
陳球はそういって笑った。
(陳伯真は宦官の耳目を気にしておられる)
二年前、全ての部署に宦官が配属される様になったからだ。ここまで警戒するからには、それなりの内容を期待していいのだろうか?
「用件をお聞きしたい」
「君の噴懣は、思い通りに法の執行ができない事に起因する。そうだね?」
陽球は頷いた。
「思い通りに法を執行していると、上役がそれを止める。それが辛いんだろう?」
それも一度ではない。二度目である。
陽球は再度頷いた。
「ならば帝その方以外の誰にも邪魔されない役職に就けば良い」
「──司隷校尉」
考えなかったといえば嘘になる。司隷校尉は他の州でいえば刺史相当の監察職であるが、実質はそれ以上の職である。司隷校尉の手は洛陽宮にまで及ぶのだ。そう、三公にすら。
だが。
「司隷校尉は二回続けて地方官を馘になっている様な者がなれるものではない。三公府から辟招されるような名高い人が就くものだ。そう、卿のような」
陽球は冷たい声で答えた。目は笑っていなかった。陳球は笑って応じた。
「司隷校尉になりたくない、というわけではなさそうだな」
「現実には無理だろう。私なぞより卿こそが司隷校尉になって正義を為されればよろしかろう」
陳球は最初は孝廉から繁陽県令になったものの、郡太守の賄賂要求に応えなかったことで清廉を知られた為、公府から辟された人物である。荊州の賊徒反乱を鎮圧し、将作大匠として先帝桓帝の墓所となる宣陵を建設し、しかも巨萬を節約してみせた。陽球の視点からでは、自分より陳球の方がよほど司隷校尉に近い。
だが陳球は小さく首を横に振ってから答えた。
「私に司隷校尉の目はない」
五年前の熹平元年。竇武の娘である竇太后は幽閉の末崩御した。宦官達は竇武への怨みから彼女の遺体を辱め、その葬儀を格下げしようとした。
帝はその正否を討論の場で決めさせることとし、その場で趙忠に公然と反論したのが陳球である。
最終的に帝は陳球の側に立ってくれた。だから表立って宦官からの反撃を受けてはいない。しかし、彼の反骨は宦官の記憶には残っている。
「私の様に公然と宦官に逆らった者が司隷校尉になろうとしても宦官共はそれを許さない。全力を以て妨害してこよう。何故なら李校尉が再来することを畏れているからだ」
かつて李膺が司隷校尉だった時、宦官は内宮から一歩でも出れば逮捕されると畏れ、休沐を与えられても自宅へは戻らなかった。たかが八年前の事である。宦官の記憶は薄れていなかった。
「今や司隷校尉になれるのは宦官に従順な犬だけだ」
涼州三明の一人、段熲の様に、宦官の犬に成り下がらなければ司隷校尉にはなれないのだ。
陳球の言葉に陽球は目を閉じ、しばらく考えてから切り出した。
「奴らの沓を甜めろと?」
だが陳球は首を横に振り、それすら否定した。
「奴らの沓を甜める犬などいくらでも居る。それだけで認めてはもらえまい。君には耐えがたい悪名を被ってもらわねばならん」
容姿と並んで、評判や名声は大事である。それを守るために死すら辞さない程、大事なものなのだ。
「……俺にいったい何をさせる気だ?」
陳球は涼しい顔で答えた。
「虎豹の君に申し訳ないが犬羊の真似をしてもらう。いや、違うな。奴らの犬である証明として羊を狩ってもらう」




