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俺解釈三国志  作者: じる
幕間7 酷吏二人(熹平六年/177)
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2 挨拶(熹平六年/177)

 春まきの麦の為に小さな畑を耕していた夏侯淵の手が止まった。


 鼻を突く匂いがした。かすかな匂い。腐った肉と乾いた血の匂い。死体の臭い。夏侯淵は顔を顰める。屍臭が、からりとした冬の風に乗ってやってきたのだ。


 その臭いで誰が近付いて来たかが判った夏侯淵は妻に告げる。


「家に戻っていなさい」


 妻の丁夫人が頷き、駆け去っていくのを確認すると、夏侯淵は鍬を置き、風上の方向、畑を囲む林の切れ目の方を向いて跪く。


 跪礼のまましばらく待っていると、車輪の軋む音、そして縄のこすれる音が近付いてくる。


 悪臭と共にやって来たのは一両の車。四頭引きの大きな車。屋根があるだけでなく車体の四方に壁がある軒車である。だがその屋根と側壁には人の形をした何かが縛り付けられている。


 腐敗した死体。まだ腐敗しない死体。ほぼ骨になった死体。ぶらぶらと揺れるそれらは強烈な臭いを放つだけなく、得体の知れない汁を垂らしながら近付いてくる。


 通り過ぎてどこかへ行って欲しい、という願いが叶わない事を夏侯淵は知っている。鼻が早く馬鹿になってくれればいいのに。せめてそれくらいは願ってもいいだろう。


 濁った目の禦者が奇怪な車を夏侯淵の麦畑の脇に止める。ポタ、と汁が垂れる音がする。徒歩の随行員二人が軒車の後ろに回り、両開きの戸を開く。

 中から一人の士太夫が顔を出す。そして堂々と悠々と降りてくる。この悪臭と惨状を気にした風はない。そして快活な声音で夏侯淵に語り掛けた。


「頭をあげたまえ。妙才君」


 夏侯淵が顔をあげると、涼しげな若者が目を細めて微笑んでいる。男は王吉。この沛国の国相である。


「君はいつも仕事熱心で感心だね」


 王吉の微笑みは優しい。だがその業績は恐ろしいものだ。


 王吉の父──宦官なので養父だが──は王甫。貪欲で悪名高い中常侍である。その養子である王吉は貪欲でも汚穢でもない。清廉である。正義の人である。沛国の国相に就いての四年間で彼がもたらしたものは国いっぱいに蔓延する正義であった。それは死の形をしていた。


 過分な酒肉を貯えていた者を殺した。我が子を養わない父母を切り刻み、二人の死体を混ぜて土に埋めた。殺人を犯したものは車上に磔にした。腐敗し崩れそうになったら縄で縛って骨を繋げた。王吉の車が沛国を巡回する事で、磔の死体は国中に晒される事になる。


 殺された者の数は一万人を超える。沛国の人口は二十五万。つまり二十五人に一人が王吉により処刑されていた。


 夏侯淵の前に立っているのは横暴な士太夫ではない。人間よりも処刑器具に近い存在なのだ。夏侯淵は対応を誤らないように気を引き締めながら黙礼した。


「そうかしこまる事はない。君は悪ではないし、孟徳の親族だ。多少なら目こぼししてやってもいいくらいだ」


 曹操が孝廉の体をとって沛から追放された際、曹家と彼の親戚婚家には手を出さない様、王吉は約束してくれた。とはいえ、昨年永昌太守の曹鸞が党錮の解除を訴え、帝の逆鱗に触れ棄市された件では曹家の一族に少なからぬ連座者と逃亡者が出た。そういった国家の件までは王吉は許してくれなかった。曹操の関係者に彼自身の正義の尺度を適用しない、というだけの事ではある。


「孟徳君は息災かな?」


 そして、どういうわけか王吉は曹操に好意をもっていて、時折その動静を夏侯淵に聞きにやってくる。曹操が夏侯淵に私信を送っていると知っているのだ。


「奥方の件は大変残念だったが……」


 つい先日の事である。曹操の正夫人である劉夫人は、曹操の第三子となる女の子を産んだ後、帰らぬ人となっていた。そんな最近の家庭の事情まで、王吉は知っていた。


「私の妻の姉が子育てを引き継ぎ、孟徳は精力的に県令を続けていると聞いています」


 夏侯淵は答えた。こちらが黙り続けていて気分を害されたら困るからである。


「それはよかった」


 王吉は心から曹操を心配しているように見えた。


「彼はもう一人の私だからね。いつだって気にしているのさ」


 いつも彼はそう言う……照れくさそうに。夏侯淵には意味が理解できなかった。宦官の親族である、という以外全く似ていないではないか。


「今日はちょっと残念なお話だ」


 王吉の言葉に夏侯淵は内心で身構えた。嫌な展開を想像したからだ。だが王吉は気にした風もなく朗らかに続けた。


「沛を巡回する度、君に会いに来たが、これが最後になる」


 夏侯淵は唾をのみこんだ。こんな大きな音で咽を鳴らして大丈夫か?夏侯淵は心配になった。


「都に帰ることになった。後任がようやく決まったんだ」


 夏侯淵はゆっくり肩の力を抜いた。


 国相の任期は三年。熹平二年の途中で着任した王吉は、三、四、五年が正規の任期であり、この正月に次の国相に交替する筈であった。だが、既に三月。後任が来ないため、王吉は五年目の業務を継続していた。


 夏侯淵にもその理由は判る。


(こんな国の後始末やりたい奴なんて居ないだろうよ)


 一万人が刑死した国である。旨味よりも面倒の方が多いに決まっている。


「次の国相は楽ができてうらやましいよ。私は大変だった。悪い奴が多すぎたからね」

「だからってこんなに殺さなくても……」


 失敗した!


 気楽な口調の王吉に、夏侯淵はついうっかり反感を口に出してしまった。虎の尾を踏んだと思った。頭から喰われずに済むかどうか。しかし、聞かれた王吉は悲しそうな顔になった。


「……皆、死なせたくなぞなかったなぁ。私の民だもの。だが肉刑の禁止は漢家の御法なんだ。悲しいことだよ」 


 性器や鼻を削いだり左右の足を切断する肉刑は残酷である、として禁止されていた。そういう場合、減刑はされない為に刑はより重いものが適用される。つまり死刑になる。


「だが、正義は為されないといけないからねぇ」


 王吉はにっこりと笑った。


「妙才君は漁陽の陽方正という方をご存じかな?今は平原の相をなさっている」


 夏侯淵は首を横に振った。士太夫の事情など判らない。自分は一介の農夫なのだ。


「私はね、彼の人の様な政治をしたいんだ」


***


 陽球ようきゅう、字は方正ほうせい。幽州漁陽郡泉州の人である。


 母を辱めた役人へ復讐し孝行者として評判となり孝廉に挙げられた。

 郎中から尚書侍郎となった。陽球の書く文章は故事に通じ解釈に議論の余地がなく、尚書台でその文才を崇信された。

 高唐県令として平原国に赴任。理に過ぎた苛酷で厳しい政治を行なった。高唐県の住民が苦しむのを見兼ねた平原国の国相により逮捕されたが、大赦があり許された。


 その才を惜しんだ司空の劉寵りゅうちょうが彼を司空府へ辟招した。九江山で賊の反乱が起きた時、三公府すべてが彼の能力を買い、九江郡の太守に任命した。着任した陽球はあの手この手で賊を、ついでに郡中の悪い役人を殺し尽くした。これが数年前のことである。


 その功績を以て彼は平原相に遷った。かつて自分が逮捕された場所である。


 赴任早々、陽球は宣言した。


「私は昔、高唐の県令として姦を除こうとしたが、この国の相により逮捕されてしまった。私に不徳があったかもしれないので昔の事は許すが、今度はうまくやるつもりだ。もしこの後も心を改めないようなら絶対に許さないのでそのつもりで」


 平原国中が畏れ震え上がったという。


***


「陽方正殿の件で判る事は、真に悪を取り除くには、何度だって立ち上がり、悪を滅ぼし尽くす必要があるという事だよ」


 王吉の目に明らかに思慕のきらめきがあるのを見て夏侯淵は一層どんよりした気持ちになった。王吉は豫州刺史になってここに戻って来たいのだ。そう悟ったからである。


「だから妙才君。また会おう。それまで壮健でな」


 言いたいだけ言うと、王吉は車上の人となった。


 ギシギシ、ユサユサ、ポタポタと嫌な音を立てて王吉の車は去って行く。


 夏侯淵の眉は始終怪訝と不快の角度だったが、王吉が気付いていたかどうか。


 いらいらする程ゆっくりと王吉の車が遠ざかっていく。見えなくなってようやく、夏侯淵は全身の緊張を解いた。

 思わずため息を吐いた後、うっかりと口で息を吸ってしまった。鼻は腐臭に馬鹿になっていたが、口はそうでもなく、得体の知れない味の空気を味わうことになった。思わず唾を吐く。

 ついでに自分の体に付いた臭いを確認する。臭いのか臭くないのかさっぱり判らなかったが


(こりゃ水浴びしないと家に入れないな)


 顔を顰めて思った。


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