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俺解釈三国志  作者: じる
第七話 黄龍(熹平三年/174)
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7 別れ

 橋玄は宮城外の便利な場所に、そこそこ広い敷地の邸宅を構えていた。しかしながら、その邸宅は美々しく塗られ飾られているわけではない。住居の房と倉庫になっているささやかな楼。橋君学の講義の為の舎があるものの、どちらかというと殺風景で、口に絹着せぬならば「古ぼけた寂しい家」と言う人もいるかもしれない、そういう建物である。かつての度遼将軍として東方を鎮め、つい先日まで司空に司徒にと三公を歴任していた人物の家にはとても見えないだろう。


その広い中庭で、ここの主である橋玄が七つ八つかの子供と遊んでいる。曹操が門前でぺこりと頭を下げると、橋玄は中へ入ってくるよう手招きした。


正房の中に消えて行った橋玄を追うと中庭で子供と虫と遊んでいる子供とすれちがう。


(もう少ししたらうちの子を連れて来て友達になってもらおう)


 まだ三才の長男では遊んでももらえまいな。そう考えながら橋玄の家の正房に上がる。


正房には一対のしょうが向かい合わせで置かれており、酒肴がすでに用意されていた。


 梁でも、洛陽でも、橋玄の正房は謹厳な道場のような場所だったので面食らう。


「ま、座ってくれ」


橋玄の指示で牀に座ると、二人だけの宴会が始まる。


「なかなか頑張っている様じゃな。噂は聞いておる」


 そう言うと、橋玄は曹操の杯に酒を注いだ。


「は……」


 曹操は恐縮する。そして回りを見回すと尋ねる。


「本日はお招きいただきありがとうございます……が、この酒宴の趣旨は」

「話を急ぎすぎるのはお主の悪いところじゃぞ。酒を飲むのに理由なぞ要るまい?」


 橋玄は盉を上げたまま。曹操に呑み干させ、さらに注ごうというのだ。曹操は急いで杯を干す。


「うちの台所で蜜を甜めていた子供と杯が汲み交わせるんじゃ。少しは感慨を楽しませてくれてよかろう?」


 少年時代……といってもまだ十年も経っていないのだが、祖父に連れられて訪問した橋玄の梁の旧宅も子供には退屈だった。曹操は台所にもぐり込んではつまみぐいばかりしていた。なかでもお気に入りは涼州から取り寄せられた蜂蜜だった。

 二杯目を干してから曹操が盉を掲げる。橋玄が杯を差し出す。橋玄がちびり、と酒をすすりながら、ぽつりと言った。


「まぁ、強いて言えば別れの会じゃな」

「は?どちらへ行かれるのです?」


 辺境の鎮撫という言葉が曹操の脳裏に浮かぶ。橋玄は先帝の時代は度遼将軍であった。洛陽から離れるならそれだろうか。実際涼州三明が辺境を離れ、手薄な状況ではあった。


「行くのはわしではない。お主じゃよ」

「は?」


 橋玄の言葉は曹操の意表をついていた。


「お主はな、まもなく県令に栄転、と言う名目で地方に放逐される。選部では、どこの県がいいか議論されておる」

「操は洛陽北部尉に除されてまだ半年も経っておりませんが……」


 振って湧いたような話に、曹操の声が上ずる。橋玄はふん、と酒の香りを鼻から吐いた。


「やり過ぎたのよ。お主が都に居るのを煙たい、そう感じる連中が出るくらいには、な」

「ああ、あの件ですか……任官、断われないものですか?」


 洛陽北部尉の業務がせっかく軌道に乗ったのである。統制の取れるようになった部下を離れ、洛陽北部の治安維持から手を離すのは辛い。ここで名声を博せれば、地方なぞに行かなくても衛尉であるとか、城門校尉であるとか、中央官としてのし上がれるのではないか?曹操は夢想しはじめていたのである。


「なんだか回り道な気がします」

「地方官も経験しておけ。まずは三年勉強だと思え。お主はあれじゃな、生き急ぎ過ぎじゃぞ。」

「しかし……」

「大丈夫じゃよ」


 橋玄は寂しそうに笑った。


「まだ漢家は衰亡せんよ。だから君はもう少し緩る緩ると生きて行く方法を覚えるがいい」


 曹操は密かな自分の懸念が読まれている事に息を呑んだ。


 しばしの沈黙の後、尋ねてみた。


「何故そう言えるのでしょうか?」


 答えは簡にして要を備えていた。


「わしが居るからじゃよ」


 橋玄は笑って杯を干した。


「その後のことは……誰か優れた才がなければ、どうにもならんじゃろうな」


 曹操は黙って橋玄の杯に酒を注いだ。


「君がその才であることを願おう!」


 橋玄がそういて杯を掲げた。曹操はさすがに唱和することができなかった。


 ちびり、と酒を啜ると、橋玄は少し寂しそうに言った。


「わしも老いた。後の事を考えねばならぬくらいには。願わくば、君の様な若者に妻子を託したいものだ」


杯を干す。そして、空いた杯を手中で弄ぶびながら、


「わしが死んだら──わしの墓を通る時、酒と鶏を備えてお参りに来ないようなら、三歩も過ぎないうちにぽんぽんを痛くしてやるからな」


 そう言って橋玄は自分の杯を置くと、盉を持ち上げた。


 曹操は自分の杯を持ち上げながら思った。


 ──わかった。これは自分に宛てた遺言なのだ。


 どこかの県を任期の三年務めたからと言って、三年で帰って来れるかわからない。別の県の令に異動される可能性もある。洛陽に戻れるのはいつかなぞ判らないのだ。であれば、これが最後、とお会いする度に思う必要があるのだ。


 曹操は黙って杯を差し出し、返杯を受けた。



***


 その日は思っていた以上に、そしてすんなりとやってきた。新しい任地は兗州。東郡にある頓丘県である。


 河水こうがの北岸とはいえ、思った程辺境でない事に曹操は安堵した。劉夫人にまたも妊娠の徴候があったからである。丁夫人は呆れ顔ともあきらめ顔ともつかぬ表情。三年は洛陽を離れるのである。置いて行くわけにもいかなかった。


「なんだよ!俺はおいてけぼりかよ!?」


 曹操は夏侯惇を留守居として洛陽の邸宅に置いて行く事とした。夏侯惇には大いに不満である。


「元讓は俺の耳目であり手足だ。これからどんな政変があるか判らん。洛陽で変あらば頓丘まで伝えてくれ」


 曹操は中央官に未練がある。中央復帰の際に状況を見極めるのに無駄な時間を掛けたくないのである。


「お前の交遊は引き継げないぞ」

「しなくていい。むしろするな」


 夏侯惇は実直過ぎて袁紹に引き会わせたらおそらく便利に使いつぶされる。


「仕送りはする。あと、この家に女を引っ張りこんでもいいぞ」


 あけすけな許可にようやく夏侯惇が笑った。


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