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俺解釈三国志  作者: じる
第七話 黄龍(熹平三年/174)
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4 月旦

 許劭きょしょう、字は子將ししょう。汝南郡平輿県の人である。


 汝南の人相見の達人として知られ、数年前まで月に一度、月旦評と称する人物鑑定を発表していた。月旦評で高く評価すれば必ず出世できるさえと言われていた。

 今は洛陽に遊学し、悠々と交遊の日々を送っている。月旦もやめてしまっていて、今ではおいそれと人物鑑定をする人ではない。それだけに評価してもらえれば自分の名は広まるだろう。


「主人はお会いしたくないとのことです」


 だが結果は家人による一蹴である。当人の顔すら拝めなかった。


(座り込んででも面会を強要するか?)


 いや、休沐の僅かな合間に来ているのだ。短時間座り込んだら会えるというものでもなかろう。


(公祖様に紹介をお願いできないだろうか?……いや)


 紹介が必要なのであれば、最初から書いてくれているだろう。つまり


(俺は才覚を試されている……?)


 多分、そういうことなのだろう。曹操は時間を無駄にしなかった。すぐに自宅へ戻ると夏侯惇に告げた。


「汝南の許子將殿に関する噂を、なんでもいいから集めてくれ」


 許劭、という高名な人物と誼みを結ぼうというのだ。

 相手について何も知らないまま、というのがおかしかったのだ。


 日夜宮城に詰めている曹操が求めにくい市井の噂でも、夏侯惇なら集めてくれるだろう。


「判った」


 夏侯惇はそのまま出て行き、夜になっても戻って来なかった。

 曹操が夏侯惇に会えたのは次の休沐の時である。夏侯惇は無言で木牘の束を差し出した。


「助かる……」


 かつて相県で聞き込みをした時の苦労を思いだし、曹操は夏侯惇に感謝して木牘を押し頂いた。一枚一枚に目を通す。


 片っ端から集め、書き留めたのだろう。誰でも知っている様なこともあった。とにかく何でも収集し、取捨選択を曹操に委せようということだろう。


 過去の月旦評で誰が鑑定され、その後どうなったか。

 汝南の袁某は許劭を恐れるあまり、許劭の家の近くを通る時に衣服を変え、随伴を減らしたという逸話。

 今現在の許劭が誰と交遊しているか。

 数年前まで客として招かれただけで出世が約束され、登竜門と言われた李膺その人と並び称されるほどになっていること。


 それらの中で曹操の目を惹いたのは、従兄の許靖についての事である。


 許靖きょせい、字は文休ぶんきゅう。人物鑑定に優れ、汝南でも高名な儒者である。許劭と共に月旦評を主催していた。

 だが、許劭は許靖を評価しなかった。

 許劭は汝南郡の人事を握る功曹となったが、太守に許靖の悪評を吹き込み、役職を与えなかったという。その為、許靖は困窮し、馬を磨いて日銭を稼ぐ生活を送った。汝南の士太夫達はこの件では許靖に同情し、許劭を非難したという。

 その後太守が変った事で許劭は罷免され、後任の功曹は許靖を抜擢した。計吏からの孝廉で洛陽で郎となり、今では尚書郎にまで出世しているという。そして許劭が洛陽に遊学したのは許靖が郎になったのと同じ頃なのだという。


(これはどういう一致だ……?)


 二人の間隙こそが突破口になる。曹操はそう直感した。


***


 許靖は尚書郎である。郎中の曹操と同じく、宮城で宿直する身分である。

 門に宿直する郎中と違い、尚書台に宿直するため、今一つ会いづらい相手ではあったが、幸い宮中の儀式で官吏が整列する機会があった。


 手近な宦官に尋ね、どれが許靖かを特定すると、曹操は許靖を呼び留めた。

 許靖は想像よりずっと若い男で、年齢の不足によりやや貫禄に欠ける士太夫、という風体である。曹操の目ではあまり有能そうには見えなかった。


 だが、刺を捧げて話掛けようとする曹操に、許靖は先手をとって言った。


「子將への口利きなら無駄だぞ。あれは俺の事が嫌いだからな」


 眉の角度が、冷やかな目が、口角の下げ方が、それぞれ不機嫌を主張していた。

 よほど多くの人間が許劭への伝手を頼んでいるらしい。

 曹操はかぶりを振って否定した。


「いえ。私は人相鑑定家としての許文休殿にお願いがあって参りました」

「ほう?」


 許靖の表情が好奇の方へ変った。


「お前の人相を鑑定すればいいのか?」


 そういうと目を眇め、顔を近付けたり、遠ざけたりしはじめた。


 曹操は顔の前に刺をかざして遮った。


「いえ、違うのです。お教え頂きたいのは、文休殿から見て、子將殿はどういう人相に見えたか、ということなのです」

「ほう。変った事が気になる御仁だな」


 許靖が腕組みをして上を向いた。


「アレはな……」


 曹操から許靖の顔は見えない。


「何にもなれない、そういう相だぞ」


 そう答えた。許靖の頭がゆっくりと降りてきて曹操にも顔が見える様になった。満面の笑みだった。


「少なくともあやつに貴人になれる相は何一つ備わっていないな」


 その視線は最終的に曹操の捧げ持つ刺に重なった。


 弟子曹操再拝 間起居 字孟徳。


 許靖の目が、侮蔑の色に変った。

 眉が上がり、唇がうすく引き絞られた。


「なんだ。宦官の孫か」


 そう言うと許靖はくるりと曹操に背を向けた。小さな舌打ちの音を残して。


***


「主人はお会いしないと思いますよ」


 曹操の取り次ぎを申し込みに応対した許劭の家人は、顔を見るなりそう言った。半月前に一瞬会っただけの自分の顔を覚えているとはさすが。そう思った。戻ろうとした家人の袖を曹操は掴んだ。


「御伝言をお願いする。何にもなれない相、というのを拝見したい、と。」


 しばらくして、戻って来た家人は曹操を正房へ案内した。


「文休に聞いたか。痛い所を突くじゃないか」


 そう言って出て来た男に、曹操は軽く驚いた。


(若い)


 自分とさほど変らない年の男がそこには居た。


 許劭は許靖の従弟である。であれば考えるまでもなく若い筈である。この年で人相学を極め、名声を博しているとは……人相学とは底の浅い学問なのでは?曹操は心に浮かんだその考えをつまんで捨てた。


 意識を許劭へ戻すと、目の前には二つの目があった。目と目の間には鼻の頭が見えた。

触れんばかりの近さに、許劭の顔があった。


 驚きにザザッと音を立てて曹操は後ずさった。

 驚くことに許劭は逃げる曹操を追いかけてきた。

 顔と顔の距離は広がらず、壁で止まった曹操の顔に、生暖かい許劭の鼻息が届いた。

 今息を吸いたくないし吐くのもためらわれ、呼吸を止めた曹操から、許劭の顔がゆっくりと下がって行く。


「なるほど……面白い」


 くるりと許劭は後ろを向き、ようやく曹操は大きく息を吐いた。


 どっかと安座した許劭は、にやっと笑って言った。


「面白い人相だな、お前は」

「三公に成るツラかね?」


 曹操のぶしつけな質問に許劭は静かに首を横に振った。


「三公に成れそうなツラ、というのは文休のようなツラをいう。ああいうしかめつらしいツラ構えの奴でないと三公には選ばれない。お前のツラは全く三公向きではない」


 曹操は少しがっかりした。


「だが、お前の人相は三公如き蹴飛ばしてやる、という意気に溢れた面だ。もしお前が三公に上ることがあるとしたら、それは国家にとっては非常の時だろうな」


 許劭の回答は、喜んでいいのかがっかりすべきなのか曹操には判らなかった。


「結局俺はどういう奴なんだ?」


 曹操は尋ねた。許劭は上を向いて答えなかった。


「教えてくれ!」


 曹操の詰問を許劭は片手で遮った。


「待て待て。言葉を選ばせろ。人物鑑定というのはな、短くとも覚えやすく巷で評判になる様な言葉に落し込まねばならんのだ」


 上を向いたまま、流し目が曹操を睨んだ。


「お前を知らぬ者はお前に興味を抱き、お前を知るものが『なるほど』と思う言葉に」


 ぶつぶつと許劭がつぶやく。


(清平の……いや違うな)


 いくつかの、やたら気になる言葉が聞こえて来た後、ようやく許劭は顔をこちらに向けた。そして曹操の目を見つめた。


「お前は治世にあっては能臣どまりだろう」


 曹操はわずかに落胆した。大器ではない、そう言われているように感じたから。


「だが乱世が来れば姦雄となるだろう」


 続く許劭の言葉が耳から心に届いた瞬間、


「は、はははははははははははははははははははははは」


 曹操は声を上げて笑った。少し涙も出た。そうだ、自分はお行儀よく正道を歩いていける様なタマじゃない。姦雄、いいじゃないか。ちっとも褒めていないのに印象に残る。許劭の言葉選びの凄みが判った気がした。


 別れ際に尋ねた。


「文休殿は三公に上る人相、というのは本当かね」


 許劭が許靖をそう評した、などという話は夏侯惇の集めた噂には無かった。


「本当だとも。だがあの男は晩成でね。若い間は苦労させて屈ませねばならない。でないと躍飛できない人相なのさ。俺はあの男が慢心しない様、いろいろ気を配っている。内緒にしてくれよ」


 本当かな?そう思ったものの、人相を見てもらったのに疑義を挟むわけにも行かなかった。


***


「どうじゃね?名が広まった感想は?」


 橋玄の質問に青年はしぶしぶ答えた。


「はぁ、こんなものか……そんな感じでした」


 橋玄は高らかに笑った。


「自分の人となりを知らない赤の他人の口の端から『沛国の曹孟徳、治世では能臣、乱世なれば姦雄』という言葉が出て一人歩きするのです。虚名とはこういう事か、と思いました」


 青年の弁解に、橋玄の笑い声はさらに高くなった。


「君は名より実を大事にしておるんじゃな。だが、今のは他の士太夫には言わん方がいい」


 橋玄は顔を突き出してニッと笑った。


「──虚名で食っている連中が気を悪くするからな」


 橋玄は身を引き、姿勢を正すと


「名は広まった様じゃな。では次の手を打とうか」


 それを聞いて曹操もかしこまった。


「来年の人事を調整するのは選部尚書じゃ。ここへ陳情したまえ。洛陽の中央官に就けてくれ、とな」


 正月に行なわれる任期切れに伴う人事の刷新は、全国各地の県にだけ起きるものではない。洛陽の中央官にも起きることである。ただ、郎中の多くが志望するのは県令なのである。


 県令はその県の行政と司法、軍事全てを握っている。百姓の生殺与奪を握るという意味では神の如き権限を有する。汚職も苛斂誅求も可能である。だからこそ刺史が監察するのであるが。


 そういった身入りの期待できる県令と違って、中央官は人気がない。司隷校尉の監視する洛陽で、郎中あがりの半端な中央官にできる汚職など限られている。わざわざ宦官に賄賂を送って中央官になろう、という物好きはいない。競争率が低ければ、実績など無くても評判でなんとかなる。それが橋玄の教えであった。


***


「梁尚書殿。この件、如何に対応なさいますか?」


 司馬防しばぼうが一枚の木簡を渡そうとしたが、梁鵠りょうこくは軽く顎を振って説明を求めた。


「沛国の郎中、曹孟徳よりの嘆願です」


 司馬防は説明をそれで打ち切って木簡を押しつけた。梁鵠はそれを読んでこう言った。


「まぁまぁの字だな」


 司馬防は頭を抱えたくなったが、外面に表すような事は無かった。


 司馬防、字は建公けんこう。選部尚書右丞である。

 謹厳として知られる士太夫だが、当人としてはごく当り前の事をしているに過ぎない。そう思っている。


 対面するは梁鵠。字は孟皇もうこう。選部尚書、つまり司馬防の上司である。選部は人事を担当する尚書の一部門であり、その責任者と補佐として、梁鵠と司馬防は来年一月の人事を調整しているところなのだ。


「曹孟徳は初任地として洛陽令を望んでおります」

「はて?洛陽令は決まっていなかったかな?」


 多くの士太夫は梁鵠を士太夫と認めていない。字がうまいだけの書道家。いや、芸人と思っている。帝が書の鑑賞を好み、字のうまい者を寵愛した結果出世できた男である。徳も、品も、知識も備えてはいない。


 梁鵠が漢家の屋台骨を決める人事の責任者に選ばれたのは帝の意志であり、宦官が帝に働きかけた結果でもある。宦官は各地の県令や太守を望む人物から賄賂を受け取っている。賄賂で県令の地位に就き現地で職権を濫用して取り返す。それを通すのが梁鵠の仕事、という事になる。


 実際、梁鵠はその為の県令希望者の一覧を書いた竹簡を宦官達から渡され、この場に持ち込んでいる。そしてそれを通す助けをするのが司馬防の仕事、という事になる。士太夫としては忸怩たるものがあるが、せめて少しでもまともな結果に終わるよう、努力するのが自分の仕事である。司馬防は既にそう割り切っていた。


 なので、司馬防は梁鵠に、敬意を込めて丁寧に説明する。


「いえ。洛陽令はまだ決まっておりません。しかし洛陽令や長安令は千石程度の役職の割には大役で、二十を過ぎたばかりの郎中に割り当てる事などあり得ません」

「はぁ、ならば嘆願なぞ無視すればよかろう」


 それも一つの手ではある。どうやってもあぶれる者は出るものだからだ。だが、そうもいかない事情もあった。


「この者、少々巷で知られた男で、あの許子將が『治世之能臣、乱世之姦雄』と評したとか」

「……それが何か?」

「巷で評判の人物にはなにかしら役を与えるべきでしょう」

「なぜ?」

「無役のままにすると我ら二人の目が節穴であると悪評が立つからです」

「……なるほど。面倒なことだ」


 はぁ、と梁鵠はため息をついた。


(そのため息、私がずっと押し殺していたものです。宦官からの任官を割り当てている間にね)


 司馬防は無表情を保ちつつ、そう思った。


「で?」

「そうですな。確か洛陽四尉のどこかに空きがあった筈……」


 司馬防は新年の任官を整理する竹簡の、洛陽の巻を広げた。任期が満了しない役は名前が記され、任期が満了する役は空白になっている。


「洛陽北部尉が空く予定ですな。千石の洛陽令に比べれば四百石の微職ですが、評判だけの男にはまぁ、適切、でしょう」


 それを聞いた梁鵠は筆を取り、洛陽北部尉と書かれた下に、


 沛国譙県 曹孟徳


 と書いた。すばらしく美しい字であった。


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