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俺解釈三国志  作者: じる
第七話 黄龍(熹平三年/174)
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2 郎中出仕

「もし、先生」


 曹操を呼び止めたのは実直そうな身なりのいい若者。洛陽南宮へ向かう道端に少し困った顔で立っていた。まだ時間はある、というのと、何かの売り込みかな?というちょっとした好奇心で曹操は立ち止まった。


「先生は本日、郎中として南宮に招集された方ではありませんか?」

「左様ですが、何か?」


 若者は刺を出すと丁寧に鞠躬おじぎをした。


「書生は金城から来たかん文約ぶんやくと申すものです。郎中になられる方にお願いがあり、ずうずうしくもお呼び止めさせていただきました」

「何故……ああ、私がま新しい朝服を着ていたからですね」


 曹操は両手を上げ、自分の袖を見た。今日は孝廉で郎中に除される招集初日。曹操同様新しい朝服がちらほらと目立つ。


「はい。実は五十になる私の父も、本日孝廉で南宮に参っているのです」

「ほう」


 郡国で評判の孝行者を推挙するのが孝廉だが、これはそもそも儒教的に徳のある人物を官僚に採用しよう、という制度である。別段年齢制限は無い……いや、親孝行するにふさわしい老齢の親を持つ高齢者が本来の趣旨なのであるが、実態としては豪族の若い子弟が察挙される事が多い。曹操もその一人、という事になる。老齢の、それ以降官界での活躍が望めないような年齢の人物が察挙される場合は、大概の場合は出世が目的でなく、都で郎になり帝に近侍した、という実績自体が目的のものである。つまり思い出作りである。


「故郷への箔付けなので、近いうちに病いで辞する予定なのですが──」


 若者の言葉がそれを裏付ける。


「──宮中でなにかしでかしてしまうのではないかと、そこがヒヤヒヤでして。身勝手なお願いなのですが……もし父が困っていたらこっそり手助けいただけないでしょうか?」


 なるほど。如何に孝行息子とは言え、宮中にまで付き添う、という訳にはいくまい。


 曹操が諾と答えようとする直前、唐突に横に来た誰かが強引に曹操に肩を組んだ。耳のま横で、その誰かがわめいた。


「聞いたぞ。大した孝子だ。襄陽のさい徳珪とくけい、微力ながら力を貸そう!」


 目を横にやるとわさわさと鬚の生えた、見知らぬ青年だった。やはりま新しい朝服を着ていた。隣からの圧の強さに少し辟易したが、振り解く程ではない。曹操は微笑んで了承を告げた。


「沛国譙の曹孟徳です。私でよければお力になりましょう」


***


 南宮の朝堂の広い庭に男達が並ぶ。

 順に名が呼ばれ、光禄勲丞から郎中の証である銅の印と黄色い綬を授けられる。


「孝廉沛国、曹孟徳。前へ」


 ただの印と布切れである。そんなもので何事かが変るわけではない。自分の身に何かが起きるわけではない。そう思っていた曹操だが、実際に印綬を受け取った瞬間にほほが緩むのを必死に堪えねばならなかった。


(そうか、俺は官界での出世の第一歩を踏み出すのだな)


 三百石という(曹操から見れば)微禄だが、中央官僚の一員になったのである。


 列へ戻って来た曹操を蔡徳珪……蔡瑁さいぼうがひやかすような笑みで迎える。


(う、顔に出ていたか)


 なにくわぬ顔に整えた曹操を蔡瑁が肘でこづく。避けると目立つので曹操は甘んじて受けた。


 次々と名が呼ばれるが、式はなかなか終わる様子を見せない。蔡瑁が小声で囁く。


(いつまで掛かるんだ、これ?)

(三百人は居るんだ。我慢しろ)


 全国にある郡国は百を超える。そこから最低でも一人、大きな郡だと複数が選出される。さらに年一度各郡国から会計報告ニ来る上計掾も残留した場合は郎中に除される。合計すればそれほどの人数になるのだ。


 ついに金城の孝廉が呼び出される。太った老人……韓約かんやくの父親がよたよたと前に出る。


 蔡瑁と曹操は目を見合わせ頷きあう。それとなく助けてやろう、と。


***


 郎中は二千石に至る高級官僚への入口である。


 地方で役人をしていた、という経験者もいないではないが、本当に布衣へいみんの孝行者も来る可能性がある。また、地方官経験者であっても必ずしも中央官僚としての振る舞い方を知っているわけではない。郎中はそれを学ぶ、官僚としての見習い期間である。


 帝に呼ばれたら、どうお答えするのか。

 はしって御前に出るとは、どの速さでどういう姿勢で走るのか。

 ここはどこで、どこかの宮や台や寺へ入るのには誰の許可がいるのか。


 そういったこまごまとした事を学ぶのである。


 三百人を十に分け、各組ごとに先任の郎中から指導を受ける。蔡瑁と曹操は韓約の父と同じ組に紛れ込んでいた。


 韓約の父は動きは鈍いがさほど出来が悪いわけでなく、覚えのあやふやな所をそれとなく教えてやるだけで済んでいる。


(文約の杞憂だな)

(孝心の篤さ故だ。感心な事ではないか)


 二人の結論はそれだった。課試に合格して来ているので、全く駄目な筈はないのだ。


 そちらの心配があまり要らない、となった曹操は、どこに連れて行かれる時も、回りの風景に目をやる余裕までできた。


 (ここがお爺様がお過ごしになられた洛陽の宮城か……)


 北宮徳陽殿。南宮雲台。話に聞いた場所に来るたび、祖父を偲びながら歩くことになった。


 が、それも善し悪しである。南宮、それも長秋宮の近くに案内された時の事である。長秋宮の門の前に男達が十人ばかり並んでいた。独特の高い冠をつけて帯剣していた。みな一様に小太りで鬚が無かった。この段階で曹操は逃げ出したくなった。


 こちらを見て一斉に拱手した。にこやかな笑顔だった。


「大長秋殿のお孫さんですな。洛陽へようこそおいでなさいました。なにか困った事があったらご相談ください。お力になりますよ」


 ざあっと音を立てて曹操の血の気が引いた。身なりからして下級の宦官であろう。祖父を尊敬していたのであろう。悪意なく純粋な好意で声をかけてくれたのであろう。だが、勘弁してくれ、と心の中で叫び声を上げた。


 王甫の養子、王吉に推薦された自分である。宦官連中は自らの側と思っているだろうとは察していた。だからこそ距離を置きたかった。


 唇をぐっと噛んでぺこりと会釈し、組の中に戻った。皆の目が気になって顔を上げれなくなった。


 とぼけた声が曹操を救った。


「若い頃、清廉さと高潔さで曹大長秋の名声は天下に鳴り響いていました。遺芳は不滅ですなぁ」


 韓約の父だった。のんきな顔が敬意に満ちていた。


***


「お助けするどころか、むしろお父上には救って頂いたよ」


 曹操はそう言いながら温めた酒の入った盉を傾けた。

 韓約は恐縮しながら、しかし満更でもない顔で耳盃を持ち上げた。


 着任後の最初の五日間が過ぎた。新任の郎中が一斉に休沐となり、曹操は蔡瑁と洛陽宮の門を出たその足で韓約を誘ったのである。


「孟徳殿はかの大長秋のお孫さんだったんですね」

「他人がどう言おうと俺にはやさしい祖父だったよ」


 蔡瑁はにやっと笑って耳盃を差し出した。


「……俺は察してたけどな」


 注げというのである。

 曹操が盉の口を向けている間に蔡瑁は続けた。


「俺の伯母の嫁ぎ先は大長秋に引き上げていただいた一人だ。沛国譙の曹って名乗ったんでその時点でピンと来たね」

「……よく俺と連む気になったな」


 孝廉は儒教的価値観の高い者を招き、郎中にしよう、という人材登用の仕組みである。宦官勢力の一員である、という悪評は忌避される原因になってもおかしくなかった。


「馬鹿を言え」


 蔡瑁がにやりと笑う。


「今時孝廉に来る奴がそんな殊勝な連中かよ。そもそも選んだ太守が宦官に繋がってるんだぜ。んなお綺麗なもんかよ」

「それでも士太夫は士太夫だ。建前があるからこそ見栄も外聞もあるってものさ」

「俺は荊州から来た楚人だぜ?知った事かよ」


 そう言って盃をあおった。楚人は昔から中原の士太夫に蛮人の如く扱われている。士太夫の気持ちなど知ったことか。実際蛮族と共存しているしな。蔡瑁の主張である。


「そう言われると涼州人の自分も似たようなもんですね」


 韓約もにっと笑った。この孝子が少し獰猛そうな表情に見えたので曹操は目をしばたいた。


 曹操は本題を切り出す。


「申し訳ないが、ここからは皆ばらばらになる。お父上の側に居てさし上げる事は難しくなりそうだ。無論、ご一緒できる限りはお助けするつもりだが」


 最初の休沐こそ同じだが、次の出仕がいつになるかは人により違う。次以降の休沐を分散させる為である。さもないと三百人もの郎中が一斉に出仕して一斉に休むを続けることになってしまう。


「いえ、父がうまくやっていけているとお聞きできたので十分です」


 韓約が会釈する。そして盉を持ち上げ、曹操の杯に酒を注ぐ。


「父はもう大丈夫でしょう。私は金城に帰ります。路銀が嵩むばかりですから」

「そうか。帰路の平安を祈ってるぜ」


 蔡瑁が杯を韓約にかざすと、報告の宴は別れの宴へ変わる。


「お世話になりました。機会があればこのご恩に報いたいのですが……」

「恩と言うほどの事はしていないさ。またいつか飲めればいいな」

「ま、俺が金城の太守になればいやでも会うことになるさ」


 広い国土である。遠い涼州である。曹操も蔡瑁も、韓約と会う機会は二度とないと思っていた。蔡瑁に関して言えばその通りだった。


***


 夜更けて門を叩くものがある。


「俺だ……開けろ……」


 か細い声とともに扉を叩いた音は数回で絶えた。


 曹操の留守宅を守っている夏侯惇は、声を聞いて立ち上がった。

 夏侯惇が閂を持ち上げると、外からの重みで門が少し開く。

 すき間から下に誰かの頭が覗いている。門の外に男が座っていてその冠を見下ろす形である。

 閂を完全に外すと、支えを失った門がゆっくり開き、外に居た男が倒れ込む。曹操である。いびきをかいて眠っていた。酒の匂いがプンプンとした。


「起きろ、起きろ孟徳!」


 頬を叩いた。駄目だった。


 ため息をつくと、夏侯惇は曹操の脇に両手を差し込み、門内に引きずり込む。それでも起きる様子のない曹操を正房まで引きずっていく。


「俺は!酔っ払いの!介護をするために!洛陽へ!来たんじゃ!ないんだがな!」


 ずる、ずる、と音を立てて曹操が運ばれる。


 曹操は郎中着任の半年も前に洛陽に居を移していた。財力の為せる技である。

 夏侯惇も一緒に上洛し、曹操宅の用心棒として暮らしている。夏侯惇には別に役職の辞令があるわけではないので本籍は譙のままである。当然人頭税などは沛に納める必要があるが「お前の畝まで面倒見てやる。いいから行って来い」という夏侯淵のありがたい申し出に甘えたのである。


「それがこれかぁ……」


 ぼやきながら、そして曹操の体格が小さいことに感謝しながら、ようやっと正房に引きずり込む。


「あらあら、また呑んで来たのね」


 正妻の劉夫人が苦笑する。夫人の腹はまた膨れていた。第二子がいるのである。


 丁夫人が、抱いている赤子に笑顔で話しかける。昨年劉夫人が産んだ長男である。


「都に上ったからって阿翁パパは羽根を伸ばし過ぎでちゅよねぇ?」


 赤子は意味も判らず微笑み返した。数え二歳となってずいぶん重くなった子を身重の劉夫人に抱かせるのは危ない、というのが丁夫人の判断である。


 先程まで愚痴を言っていた夏侯惇だが、風向きの悪さに思わず曹操の弁解に入る。


「初任官して宿衛五日。ようやく解放されたんだ。少しくらいは」


 三人揃って孟徳への陰口で盛り上がるわけにはいかないではないか。


「そうなのよね。これからは五日に一度しか帰って来ないのよ?しゃんとしておいてもらわないと困るわ」


 劉夫人が丁夫人に視線を送り、にっこりと笑う。


「ねぇ?」

「……」


 丁夫人がその意図を解し、赤面する。


 夏侯惇は少々生々しい話に咳払いする。劉夫人は出産以後、なんだかず太くなった気がする。自分の居る場所でこういう話で盛り上がらないで欲しい。

 本来、弟ですら兄嫁とは言葉を交わさないのが節義と言うもの。ましてや別姓の外従弟である。こんな会話をしているのは少々慣れ慣れしすぎる。


「都には珍しい文物がいっぱいだし、孟徳はそういうのが好きだから、少しくらい遊び歩くのは仕方ないよ」


 そう切り替えし、なんとか話題を変える。実際、胡人の踊りに遭遇した時など引き剥すのに苦労したものである。


「まぁ呑んで来ても女の匂いはしないからいいけれど……それも時間の問題かしら?」


 話が戻されてしまった。夏侯惇はひそかに落胆した。


「それより元讓はどうなの?いいヒト見つかった?」

「う」


 戻ってきたどころではない。劉夫人の鉾先はこちらに向いて来た。


「いや、そういうのは正業についてからですよ」


 片手を挙げて話を遮る。現状夏侯惇はただの居候でしかない。嫁探しするどころか遊びに行くのもままならない。


 会話の方向性がよろしくない。増援が必要だ。夏侯惇はこっそりと曹操の肩を揺すった。だが曹操に起きる気配はない。


「早く見付けないと妙才君に先を越されちゃうわよ」


 丁夫人まで追い打ちを掛けてきた。


「はは。まさか」


 話の流れから、夏侯惇は自分の立場を感覚で悟っていた。


(もしかして俺、元服前の子供として扱われてる……?)


 曹操が劉夫人を娶った時点で夏侯惇は元服していなかった。丁夫人に至っては子供の頃からの遊び友達である。今更立場が変らないのかもしれない。


「妙才君、うちの妹とずいぶん親しくなってるらしいわよ」

「え……ええっ!?」


 そんな話聞いていない。

 虚ろな顔でもう一度曹操の肩を揺する。曹操は安らかに眠り続けている。もしかして装睡たぬきねいりなのでは?夏侯惇は疑いを捨てられなかった。


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