9 家族
馬はゆっくりと丘陵を走る。
夏侯惇、曹操、夏侯淵の順に並んでゆっくりと走る。
曹操の馬が時折突出するが、
「孟徳!」
そのたび夏侯惇が馬の先を横切ってたしなめる。曹操の焦りが馬に伝わっているのだ。
事後処理に移った王吉、橋玄の元を辞し、借りた馬で丁家の牧場へ向かう途上である。焦りは判るが馬がへばっては仕方がない。夏侯惇が歩調を維持させる。
やがて森に入り、また丘が開ける。間もなく丁家の牧場、という所で向こうから馬が駆けて来て、すれ違う。速い!曹操が振り向くとすれ違った馬が急制動していた。誰かと思えば丁斐である。
「産婆!」
それだけ叫ぶと馬腹を蹴って再び走り出した。
聞いた瞬間、曹操も馬腹を蹴った。全力疾走である。もう止められない。惇、淵も続いた。
***
青い顔をして、脂汗をかいた劉夫人が苦しんでいた。
駆け込んだ曹操は牀の横に跪まづき、劉夫人の手を取った。劉夫人が自分をちらと見た気がした。弱く微笑んだ気がした。しかしそれは苦しみもがく動きの中に消えていった。
横で丁家の少女が劉夫人の汗を拭っていた。
「文侯とすれ違った」
「産婆さんを呼びにやったんだけど……間に合いそうもないわ」
牧場は人里離れている。戻って来るには半日は掛かるだろう。
曹操は決意した。
「俺の子だ。俺が取り上げる」
「馬鹿ね。男の出る幕じゃないわ」
一蹴された。
だが、この牧場に居る女は少女だけだ。大人の……出産経験のある女はいない。
少女はため息をついた。そして強い決意を込めた、しかし震える声で言った。
「私が取り上げるわ」
「やったことあるのか?」
「馬なら」
「待て、馬と人は違うだろう?」
「そりゃ違うわよ!でも、ないよりマシ!男共は出て行って!」
追い出された。
ぴしゃりと戸が閉ざされた。その向こうから呻き声と、励ます声が聞こえる。
曹操には何もやる事がない。ただ隣室の気配を窺いながら、部屋の中でうろうろするばかりである。
「孟徳、落ち着いて座れ。病気の鶏みたいだぞ」
夏侯淵にたしなめられるが、首を振って拒絶する。
曹操にとって、いたたまれない時間が過ぎていく。どれだけの時間が経ったのか判らない。隣室でひと際大きな呻き声が上がり、やんだ。
曹操の動きが止まった。じっと待つ。
しばらくして、大きな泣き声が上がった。
曹操の動きは止まったままだが、顔は笑み崩れていた。
戸を細く開けて少女が顔を出した。憔悴していた。
「行ってあげて」
曹操は飛び込んだ。
ぐんにゃりと倒れたままの劉夫人の腕の横でまだ血に塗れた赤子が泣いていた。男の子だった。
「よくやった!愛してるぞ!」
劉夫人は弱々しく微笑んだ。
曹操は赤子と劉夫人を併せてかき抱いた。顔に血がついたが気にしなかった。そして劉夫人の耳もとに報告した。
「孝廉に察挙される。この子は都で育てる事になるな」
少女はその光景をまぶしい目で見つめていた。
曹操が、二人を抱いたまま振り向いて横顔で言った。
「我が愛。何年か帰って来れない。君も来てくれるね」
不安げな顔だった。
少女は苦笑いした。そして
「しょうがないなぁ」
そう応えた。
(了)




