6 妻
暗い夜道。森を抜ける街道を、ゆっくりと、ゆっくりと、ゆらめく明りが向かって来る。曹操と夏侯惇は道の脇の森の中、くさむらにしゃがんでその明りを待ち構える。
明りが近付くにつれ、それは下人の持った松明の炎であることが判る。
さらに近付いて来ると、その後ろに明りに照らされた車が付いて来るのが見える。
車は曹操が費亭から借り出した臥車であり、濄水まで迎えに行った帰りである。曹家の裏口から舟で出た劉夫人が乗っている筈だ。
車上に居るのは曹家の用人。妊婦に障らない様、慎重に馬を禦してる。
逃亡犯曹操が捕まった、という状況から曹嵩の廛の監視は緩んでいる筈だったが、曹操も夏侯惇も曹家に近付くという愚は犯せなかった。そこで曹家の家宰と用人に手引きを頼んだのである。実のところこの逃走は曹嵩にすら秘されていたが、家宰も用人も喜んで応じてくれた。彼らは曹嵩がやすやすと廛に役人を容れた事に憤慨していたのである。
臥車はギイギイという音を立てながらゆっくりと目の前に来て、そしてそのまま通りすぎて行く。明りが去って行くと周囲は闇に閉ざされて行く。
二人はすぐに劉夫人に合流しようとはせず、車をやり過ごし、更に待った。尾行されているなら、後方に誰かがついて来る筈だ。
臥車が視界の向こうに消える程の時間が経っても、尾行者は現われなかった。
曹操が夏侯惇に向け頷く。あたりはすでに暗く、白目ばかりしか判別できないが、夏侯惇も頷き返す。
曹操は静かに立ち上がると、車の後を追う。車を費亭に戻る道から外させ、新たな潜伏場所に向かわせる為だ。
夏侯惇は更にしばらく待ち、曹操を尾行するものがいないかどうか確かめてから立ち上がった。
***
「いったいどういうつもりでここに来たワケ?」
少女は眉をつり上げた。
「色々理由はあるけど──」
曹操は少女の手を取り、握った。
「──君に会いたかった、というのが一番かな?」
その手は即、はたき落された。
「追われているなら、助けてあげるのはやぶさかではないわよ」
そういうと少女は曹操の胸元に指を突き付けた。
「でも、身重の奥さんの目の前であたしを口説くってのはどういう了見?」
「?」
曹操は心底不思議そうな顔で答えた。
「婚約者に愛を囁く──何もおかしくないと思うけど?」
譙と費亭の間、その北側の一帯に丁家の牧場が広がっている。曹操と夏侯惇、そして劉夫人が逃げ込んだのは、この丁家の牧場である。家畜の匂いが届く、そんな牧場の母屋に一行は居る。
丁一門は牧場の経営で財を為す一族であり、曹操の父曹嵩は、地縁で結ばれた丁家との関係を血縁に強化すべく丁家から妻を娶った。正妻の丁夫人である。残念ながら丁夫人は子宝に恵まれず、夏侯家からの妾である夏侯夫人が曹操を産んだ。だが曹嵩は丁一門との血縁を諦めず、曹操の妻として丁夫人の姪を選んだ。
曹操にとって、彼女は結婚を約束された幼馴染であり、家同士の付き合いの中での遊び友達でもある。将来は彼女と結婚する、それを当然と思って育ったのである。彼女だってそう思っていた筈だ。曹操はいまも確信している。だが。
「それは断わった事でしょう?」
そう、彼女は長じてから、突然曹操との結婚を拒んだのである。曹操にとっては大変不可解で、残念な事であった。
儒教の礼が定める元服は二十才であるが、当世それよりも前に元服し、妻を娶る事が一般化している。曹操も元服と同時に別の女性を妻とした。もちろん劉夫人である。
「私はね、ここでずっと馬の世話をして過ごすの。ほっておいて」
そういって少女はくるりと回った。男のように動きやすく、馬に乗りやすい短襦姿である。女らしい恰好をして結婚し家に入る気は無い。そういうことらしい。
「俺はそう思ってないし、家と家もそう思っていないよ」
「だから、そういうのが嫌なの!親が決めた相手なんて……。判る!?」
曹操は今度はがっちりと少女の手を掴んで言った。
「最初は親が決めたとしても俺の気持ちは君にあるんだ我が愛よ」
「妊婦の前で口説こうとするな!」
少女は二回、三回と強く手を振って、曹操の手を振り切る。
寂しい顔をする曹操を置き去りに少女は劉夫人の処へ駆け寄った。
「騒がしくてごめんなさい。丁家は御正室の御来訪を歓迎致します。こんなところですが御ゆるりとお過ごしください」
「いえ、こんな状況で受け入れてくださって感謝に堪えません」
劉夫人はにっこり笑って続けた。
「それで、貴女はいつ、夫の元に来てくださるの?」
少女はがっくりと肩を落した。
「あなた、本当にそれでいいの……?」
「孟徳は愛情の多い方。私一人では受け止めきれませんもの」
少女の肩がさらに落ちた。
端で見物を決め込んでいた夏侯惇が曹操に近付いて囁いた。
「孟徳……あんまりこういう事してると、いつかしっぺ返しされるぞ」
曹操は無表情に言った。
「俺が妻に背いても、妻が俺を背くようにはさせないさ」
夏侯惇はあいた口が塞がらなかった。




