4 逃亡
譙に帰った曹操がその足で向かったのは父の部屋である。
陳王と沛国相が共謀し反乱を企図する以上、一銭でも提供してはならない。ずるずると反乱に荷担させられれば一族が亡びる、そう危険性を説明した。
「でもさ、脅されれば仕方無くないかい?」
小さな体をさらに縮めて父親は答えた。軽い頭痛を覚え、曹操は父を諭す。
「そこらの庶民が脅されて仕方無く賊軍に穀物を提供した、という様な話であれば罰せられはしないでしょう。ですが我が家の財は桁が違います。賊軍に注がれば戦乱は長く尾を曳く事になりましょう。鎮圧した後で朝廷が許すとは思えません」
しばらく考え込んだ父は、悲しそうな目でつぶやいた。
「いろいろ考えてはみたんだ……だが、もしお前が捕まって、処刑される!となったらわしは金を払うと思うよ。息子が死のうとしてるのに目を瞑るなんて無理だよ……」
親の愛情はありがたいが、子を守るために結果といて一族が亡びるのもどうかと思う。
曹操はため息をついた。
「……わかりました。捕まらない様に努力します」
それがせいいっぱいの回答だった。
***
「留守の間をここを頼む……何かあったら使いを」
「任せろ」
夏侯淵が答えを聞きながら曹操は馬上の人となった。
馬は譙の町の回りを駆ける。曹操は城外に出ている人達にこれみよがしにその姿を見せると、馬首を西に向けた。町の回りの畑を抜け、川沿いの道を走る。みるみる譙の町が遠ざかる。
何顒はきっと、橋玄に魏愔らの陰謀を伝えてくれるだろう。橋玄はきっと、この件を朝廷に伝えてくれるだろう。今は役を解かれているとはいえ、橋玄にはそれだけの力がある。
曹操は二人の正義感になんの不安も抱いていなかった。何顒は今も宦官と戦い続ける男であり、橋玄も若き日に陳国相を告発した事で名を上げた士太夫なのだ。
いずれ朝廷の軍が鎮圧に来れば、たかだか二国による反乱など消しとぶだろう。こういう反乱は洛陽で軍が編成される前に蜂起しないと成功しない。
だが国軍が来るには、いくばくか時間が掛かるだろう。曹操はその期間を二ヶ月と見ていた。その期間身をくらます事くらい、自分と夏侯惇には可能だろう。
だが曹操は一つだけちくりと心の痛みを感じていた。自分の初子が生まれる瞬間に立ち会えないだろうことだけは。
道を離れ、馬を浅瀬に進め河を渡る。渡し舟を使わないのは危険だが、狩りの途中で何度もやってきた事である。これで曹操は何の痕跡も残さずに濄水の北岸に渡った事になる。
馬首を北東に返し、曹操は費亭へ向かった。
***
「あら、久しぶりねぇ。……もしかしてもう生まれたの?」
「残念ながら。でも、もうすぐお見せできるかと思います。」
「早く赤ちゃんが見たいわ。ひ孫なんてはじめてだもの」
そういって祖母はにっこりと笑った。
かつて祖父が住んでいた費亭の地に、祖母の呉夫人は今も住み続けていた。
去年まで曹操は狩りの途中に立ち寄っていた。夏侯惇と夏侯淵を連れてご機嫌伺いをし、ついでに歓待されるのを楽しみにしていたものだ。
劉夫人の妊娠が気がかりなのと、夏侯惇の付き合いが悪くなったのでここしばらく狩りから遠のいていたのだ。
(あいかわらずお美しい)
祖母は祖父曹騰が費亭に隠居する時に家に容れた女性である。若い頃は美女として天下に名が轟いていたと聞く。まだ五十にはなっていない筈だ。
祖父曹騰は宦官であった。宦官が人と見倣されずに世襲ができなかった昔ならいざしらず、当世は宦官も妻帯するのは当然とされていた。
(……お爺様も残酷な事をなさる)
曹操は祖父曹騰を敬愛していたが、呉夫人を娶った事には賛成できなかった。
肉体的に女性とつながれない宦官は、女性を鑑賞の対象にしかできない。そこで宦官達は争って美女を妻にしたのである。だが宦官と婚姻した女性はごまかしが効かない。妊娠は即ち不貞を意味する。
祖母に対し不孝で不道徳なのであまり意識しないようにしているが、
(こんな美人を処女のまま老いさせるなんて……)
という気持ちはどうしても晴れない。曹操は女性が好きなのだ。敬愛しているのだ。
「元讓はもう来ていますか?」
夏侯惇は家の舟を使い、裏から先に送り出しておいた。
「奥よ」
祖母は従弟の夏侯惇を孫同然に扱い、いつも奥まで入れて歓待してくれていた。
案の定、奥の間では夏侯惇が干した千年棗をかじっていた。
「今日は狩りじゃないみたいね」
二人の持ち物が、衣装が、狩りの時のものではない事に祖母は気付いたようだ。
曹操がちらと夏侯惇の方に目を遣ると、夏侯惇はバツの悪そうな顔になった。先には着いたが説明はしなかったらしい。
ため息をついてから曹操は説明を始める。
「実は──」
夏侯惇がはめられた罠。国相宅の梁の上に潜んで陰謀を聞いた顛末。国相が反乱を起こす為に曹家の財産を狙っている事。うなづきながら説明を聞いていた祖母だが、曹操が話終えた時の感想は予想外のものだった。
「……やっぱりあの人の孫ね」
「なにが、でしょうか?」
「武勇伝の時は目が輝いていたわ」
曹操の祖父曹騰は、子供時代に順帝と政変を経験し、以後皇帝三代に仕え激動の時代をくぐり抜けた。そりゃあ相当の経験はしているだろうが、あの謹厳な祖父が過去の武勇伝を目を輝かせて話していた、というのがそもそも想像できなかった。
「もしかして男の人ってみんなそうなのかしら?」
曹操にできたのは
「さぁ……どうなんでしょうか?」
口を濁すことだけだった。
「わかったわ。そういう事ならいつまでも居てくれて良いのよ」
祖母の好意はありがたいがそうはいかないだろう。
ここは誰もが知る曹家の領地。いずれここにも国相の手が伸びてくるのは確実である。
曹操が夏侯惇と合流する場所として使わせてもらったが、ここで捕まったら祖母にも迷惑が掛かってしまう。
「いえ、あまり御迷惑をお掛けするわけにはいきません。すぐに出て行きますよ」
「そんな。どこへ行くつもりなの?追われているんでしょう?」
祖母の心配そうな表情に、曹操は申し訳なく思う。
「なあに。この辺の山も林も狩りで走り回った庭です。野宿するぐらいなんてこともありませんよ」
それを聞いた夏侯惇が嫌そうな顔をした。
「一日中狩りをして過ごせるんです。ちょっとしたご褒美みたいなものです。ご心配いりません」
夏侯惇の顔がさらに曇った。それを見た曹操は
(ここに残ってお婆様の出すおやつでも食べていたいのか?事態の深刻さが判ってない。まだまだ子供だな)
そう思った。
***
曹操が飛び出して行ってから半日。相県からやって来た役人が曹嵩の廛を訪れた。
「殺人で逃亡中の夏侯惇を匿った罪状で曹操を取り調べる。出て来てもらおう」
(来たか)
曹操が事前に想定した通りの流れで事態が進んでいる。曹操に代わって事態を見、その変化を曹操へ伝える。その為に夏侯淵は残っていた。
「郎君は洛陽に遊学する、そうおっしゃって今朝旅立たれました。この辺の皆様は旅立つ郎君のお姿を見ている筈ですよ」
家宰の応対を聞きながら、夏侯淵は曹操の去り際の言葉を思い出していた。
『あいつらが兵を徴募したって話はどこからも聞こえてこない。徴募には銭が要るからな。だから奴らはまず親父にたかる必要がある。すぐには強硬手段に出れないだろう』
現時点で国相が握っている兵は郡国の徴集兵である。だがこれは大した兵力でもなく、強くもない。かの光武帝が郡国の兵を削減したからだ。むろん反乱防止の為である。以来、郡国には諸施設を警備する人数しかおらず、またそれも農民が一年年期の兵役で来ているだけであって大した訓練を受けてはいない。
つまり国相の握る兵力だけでは反乱が成立しない。金銭を撒いて兵を雇う必要がある。
もし国相が端から十分な兵を持っていたら、夏侯惇を罠にはめるようなまどろっこしい真似をせずにその兵力で譙を攻め曹嵩を殺し家財を接収する……ような事をした筈なのだ。
実際、やってきた役人は三人で、とても曹家の私兵をどうにかできる数ではない。案の定、役人達はすごすごと引き下がった。
(次は本気で来るってことだな)
夏侯淵が覚悟を新たにした翌日、扁が譙の、相の、沛国内のあらゆる城門に掲示された。夏侯惇および曹操を指名手配するものであった。
***
「お断りだ。息子は洛陽へ遊学しておる。そんな事件など関係があるものか」
翌々日。来訪した国の役人に対する曹嵩の答えは強気だった。
「息子さんへの指名手配の解除」という提案を曹嵩は蹴った。
私兵に守られ警護十分の曹家の奥まった部屋である。用心棒達に囲まれた役人達は萎び、縮んでいた。圧倒的な優位で曹嵩の鼻息が荒くなるのは無理からぬところだった。
曹家から悄然と辞去した役人達だが、このまま帰るわけには行かない。
彼らの想定では、昨日の段階で曹操は逃げる間もなく捕まる筈で、今日の交渉も曹操の死刑からの減罪を梃に交渉する予定だったのである。
聞き込みの結果、曹操が馬で西に向かったのはおそらく確実。だが、実際にどこへ向かったかは足取りが掴めていない。
手配の竹簡は郵を通じて各地の亭に送られている。
郵は国内におおよそ十里毎の間隔で設置されている国の機関であり、行政文書、つまり竹簡などを郵から次の郵へ次々と受け渡す。だが、それは原則徒歩なのだ。曹操が馬で洛陽に向け移動しているなら、郵行での手配書は追い付けない。
郵と同様に国内に設置されている機関に駅がある。駅は馬を飼っており、伝令する者に馬を提供することができる。だが、駅馬と乗り手には限りがあり、曹操の行方を特定できない今、駅行の伝書で後を追うことは難しい。
そこで役人達は沛国の亭という亭に曹操の目撃報告を要求したのである。
亭も同様に十里毎に設けられた機関であり、ここは公用旅の宿泊所であるが、その亭長は近隣の治安維持の担当者である。もし本当に洛陽に向かっているなら、どこかの亭で目撃されないわけがない。馬に乗った私人旅行は目立つのである。
実際の所、役人達は本当に曹操が洛陽に向かったとは考えていない。この近隣のどこかに潜伏しているか、そう考えている。譙周辺は曹嵩の息が掛かっているから信頼できる回答は得られないだろうが、他の県からの回答を集めればどこに潜伏するか見込みが立つだろう。
***
「何故だ、何故逃げられた!?」
魏愔は震える声でうなった。
役人の一人が譙から戻り、魏愔に直接報告したのである。さすがに陰謀の連絡を郵を通すわけにはいかなかったのだ。封をした密書を送ったとしても郵行中に封が取れる場合があるからだ。
「誰が漏らした?」
つり上がった目が役人を睨む。
考えられない事態だった。
曹嵩の息子の従弟を罠に掛け、それを庇わせて息子を捕まえ、それで曹嵩を脅す、という迂遠な手である。勘づかれる筈はない。
だが曹嵩はこの豫州でも有数の大身である。役人の一人や二人、買収するだけの金は持っているだろう。
「めっそうもございません!小臣はもちろん、皆その様なそぶりはございませんでした!」
平伏し弁解する役人に、魏愔は僅かながら平静を取り戻した。
「……で、どうする気だ?」
「二日お待ちを。亭からの報告が戻り、曹操の居る範囲が絞れるかと」
「手温い!時間を掛ければ掛けるだけ、遠くへ逃げられるだろうが!」
無言で平伏したままの役人を見下ろしながら、魏愔は次の手を思い付いた。
曹操を連座させたのはあくまで手段である。結果として曹嵩を脅せればいいのだ。
捕縛できるか判らない曹操を捕まえる労力を割くくらいないなら、できないなりに手を打ち、曹嵩を脅し金をゆする事に注力すべきだ。
「息子が居ないなら、妻でも孫でも連座させろ。邪魔する奴も全部だ」
***
パチパチと爆ぜる枯れ枝。肉の焼ける匂い。竹の焦げる香り。梟の声。何かがくさむらを揺らす音。青い月の光。夏侯惇が焚火に枯れ枝をくべると、炎がひときわ燃えあがり、曹操と夏侯惇を照らす。
費亭から離れた森の中。いつも来ている狩り場の一つ。曹操と夏侯惇はそこで野宿をしようとしていた。
曹操が事前に夏侯淵に話した計画では、通い慣れた狩り場四箇所を二日単位で取り決め通り移動することになっていた。
夏侯淵はもちろん、曹家の用人の何人かはその場所を知っている。万が一の連絡が付くように、という手筈だった。
「熱いぞ」
夏侯惇が焚火の脇に刺していた大きな竹筒を抜き、曹操に渡す。
筒には煮えた粟が入っていて、枝を削った箸ですくい、食べる。
「べちゃっとしてるな……」
「こんな状態で味の文句かよ」
不機嫌な曹操の率直な感想に夏侯惇は苦笑した。
森の中では、曹操が計画した通りには行かなかった。馬の面倒を見れないから徒歩で来たので、ここに辿り着くのにすら難渋した。
狩りは、それはもうさんざんだった。
(勢子も犬もいないんじゃ、獲物を追い出すこともできないじゃないか)
森では遠く鹿の声が聞こえたものの、近付くこともできなかった。自分の経験して来た狩りは「金持ちの道楽」という前提があったことを思い識らされた。
(もし追い出せたとても、馬も無いんじゃ追えないし弓もなくてどうやって仕留めるんだ?)
森で生き延びるにはあきらかな準備不足だった。
夏侯惇が仕掛けた罠に兎がかかったのが唯一の収穫で、いつもの狩り場なら二ヶ月やそこら過ごせる、という曹操の過信は小さく萎びていた。
曹操はこんがりと焼けた兎の腿をかじる。野兎特有の獣の臭い。焦げた肉と脂の香り。それらが口一杯に広がるが、曹操の口からはため息しか出ない。自分はもっと出来ると思っていたのに……曹操がしょんぼりする横で夏侯惇は雨避けの付いた寝床をこしらえ、焚火を熾こし、兎を焼き、荷物から粟まで取り出して竹筒で煮始めた。圧倒的な差だった。
「ん?生焼けか?」
手の止まった曹操に、歯で腿肉を骨からこそぎ取りながら夏侯惇が尋ねた。曹操はかぶりを振った。
「……今日の俺は駄目すぎた」
夏侯惇は、口の中の肉を嚥下してから答えた。
「いいんだよ。孟徳はそれで」
「いいわけあるか。野宿で追及から逃れよう、なんて言っておいて、こんなに何もできないなんて」
焚火に照らされ揺れる曹操の顔が苦渋に歪む。その表情を見て、夏侯惇は苦笑した。
「なぁ孟徳……もしかしてお前、自分の事をなんでもできる神人かなんかだと思ってたのか?」
「……」
「俺の知ってる孟徳は背が小さいのを気にしていて見栄っぱりで女にだらしなくて飯の味にうるさくて、いろいろ大言壮語する割には……結構抜けたトコのある奴だぞ」
「待て」
曹操は片手を挙げて夏侯惇を制止すると、夜空を見上げた。暗い空にぼんやり赤い火の粉が廻りながら立ち上って行く。短い逡巡の後、曹操は夏侯惇に向き直った。
「元讓……おまえそんな大した事無い奴の為にわざわざ私塾に通っていたのか?」
「俺の知ってる孟徳は、志が深くて正しいと思う方向に歩く事をためらわない、大した奴だよ。だから些事になんぞかまけない方がいい。お前の抜けてる所は俺や妙才や……お前の回りにいる誰かがなんとかすればいいだけさ」
そういうと夏侯惇は枯れ枝を折って火に焚べた。その夏侯惇の表情はあまりに平静で、自分の子分が自分の事をずっとそう思って自分に付いて来ていた、という事を曹操に悟らせてくれた。
(……参ったな。)
大した奴じゃないって知ってるのに慕ってくれてたわけか。
(俺も足踏みしてられないって事か)
バチンという音と共に枝が爆ぜた。




