3 潜入
大きい、とは言えないが、粗末、とも言えない。そんな小ぶりの屋敷である。国相の屋敷としては分相応、という所か。
質素な屋敷の門前を曹操は通る。門番は芒洋とした顔でつっ立っていてこちらを見もしない。
屋敷を遠巻きにぐるりと一周回った所で結論した。
(隙だらけだな)
塀は低く、見張りは少ない。どこからでも忍び込めそうだ。
だが不安がよぎる。
外が手薄だからと言って、中も手薄とは限らない。ここで忍び込んで中の見張りにでも捕まったら言い逃れも出来ない。
(どうしても考えすぎてしまうな)
忍び込めそうな低い塀だが、実際に忍び込む、との間の気持ちの壁は、この屋敷の塀よりずっと高い。勇気と臆病、無謀と慎重の間で揺れる気持ちを整理しようともう一度屋敷の回りを歩く。
再び門の前を通った時、門番がちらりとこちらを見た気がした。
曹操はずんずんと早足で歩き、視線を振り切る。だが早足で歩いたため、既に屋敷の外周を半分回った所にきてしまった。
正門と丁度反対の角を曲がったところの事である。
後ろから伸びた手が、突然曹操の左腕を掴んだ。
!
曹操は反射的に振り向き、右の裏拳をふるう。予見していたのか、相手はすでに飛びすさっていて拳は空を切った。
「何者だ!?」
塀の向こうを気にして、押し殺した声で曹操は誰何する。曹操の視線の先に居たのは、曹操より少し年嵩の青年。
襦褲を纏った庶民の風体だが、鋭い眼差しがそうでないことを告げていた。
「何者だ、じゃなかろう。また門へ戻る気か?目立つ奴が三度も門前を通れば魯鈍な門番でも怪しむぞ。」
そういうと男は曹操の首から下を顎で指した。
曹操の袍は上質で良家のぼっちゃん風。確かに目立つことこの上ない。
少し弱った顔で見返す曹操に、
「今騒ぎは困るんだ。場所を変えよう。」
男はそういって踵を返した。
***
男は曹操を連れ、ゆったりした足取りで歩く。自分に背を向けていることになんの心配もしていないごく自然な雰囲気に、曹操は逆に気押される。
男の足は町の中心部に向かっている。連れて行ったのはまさかの市場であった。
「こんな繁華な所に来るとは……」
「まぁまぁ」
男はそう言うと迷わずに市に入る。
筵を敷いて様々な商品を並べる、坐賈の商人達の並ぶ間を抜け、市の壁側に立ち並ぶ列肆に向かう。
酒を秤売りする店の立ち並ぶ一角で男は歩みを止めた。
色とりどりの幟で飾られた店の入口に顔だけ突っ込み、亭主に声を掛ける。
「親父、これに頼む」
そう言うと懐から取り出した油嚢を渡す。
「酒かよ……」
もしや洛陽の間者かも?などと訝しんでいた曹操は落胆した。
男はそのつぶやきを気にも留めない様子で、ただ親指で店内を指して言った。
「払いは頼む」
「ただの集りじゃないか……」
曹操の落胆は深まった。
***
ぐびり。
雎水のほとり、人気のない木陰の地面に腰を降ろすと、男は油嚢の口を握って酒を直呑みした。にっと笑うと油嚢をそのまま曹操に突き出して聞いた。
「すまんな。軍資は預かっているが、あれは良民のために使うべきで、酒まではな」
「軍資……?」
そうつぶやきながら曹操は油嚢を受け取るが、
(呑めということだろうか?)
矯めつ眇めつ手の中の油嚢を見る。
曹操はこう見えて酒を袋から直呑みなどという行儀の悪いことをしたことが無い。放蕩息子とはいえ育ちはいいのである。
困惑する曹操を放置して、男は川面を見つめながら告げた。
「俺はな、とある結社に属している……党錮で虐げられた士太夫や良民を救う結社よ」
四年前の党錮の禁で指名手配された士太夫達を助け、逃す組織がある。そう聞いたことはある。
だが本当だろうか?言うだけなら誰だってできる。目の前の男が元讓をハメた側の人間で、ただ詐称しているという事だってありえる。
曹操はじっと男を見た。
豊かではないが鍛えられた体躯。そこに座った不敵な面構え。知性の籠った瞳。
(信じてみるか)
曹操は決心し、手中の油嚢から酒を直呑みした。水洩れを防ぐために染ませた油の香りがきつい。顔を顰めながら曹操は答えた。
「そういう結社があると聞いたことはある──が、魏愔は党錮に関係ないだろう?」
「刺史、国相、太守、県令。宦官の息が掛かっていない奴なぞいない」
男は胸を張って続けた。
「我々は宦官の害をこの世から除くために活動している。関係ないわけがあるものか」
曹操は苦笑した。
「俺は曹孟徳。宦官の孫だぞ」
「知ってるよ郎君。調べは付いている。素行から何から、な。お前が宦官の害なら、除かねばならんからな」
(……いつの間に)
身辺に反宦官結社の目が光っていた、相手の気持ち次第では突然暗殺されていたかもしれない、と聞かされるのはあまりいい気分ではない。
口を閉ざした曹操に、
「名乗っては貰ったが……悪いがこちらは名乗れん。追われる身なんでな」
「なるほど。すると卿は八厨とか八及とか呼ばれる方のお一人か」
太學で番付され、党錮の際に狙い撃ちされた名士、三君八俊八顧八及八厨ではないか、そう疑ったのである。
「……私にそんな名声はないよ」
流れる川面を見ながら、男は少し寂しげに言った。
「しかし、曹家の御曹司がなぜ魏愔の屋敷を?国相と確執があるとは聞いていないが」
「友人が殺人者の濡れ衣を着せられている」
男は少し考えてから答えた。
「魏愔がそういう職権濫用をしていたという話は聞いたことが無い。が、御友人には災難だったな」
男は曹操の目を覗きこんで言った。
「奴の弱みを握りたい。屋敷の回りをうろうろしていたのは、明日の下見だろう?」
曹操は頷いた。陳国……とはまだ確定していないが、上流から舟でやってくる使いが来るのは明日である。
「塀は低く隙だらけには見えたが、中の警備まではわからなかった」
曹操の判断を聞くと、男は足元の小石を取り、地面に四角を二重に描いた。
「ここが門。南房抜けると東西の房と中庭があって、奥が国相の正房だ」
「普通だな」
「当り前だ。歴代の国相が休沐に使うだけの屋敷だ。豪勢にする意味なぞない」
男はいくつかの小石を取り、四角の中に置く。
「門には門番二人。南房に厨人一人と婢二人。魏愔は家族を連れて来ていない」
「手薄だな。こちらが心配になるくらいだ」
「五日に一度使うだけだからな。だが国相が休沐の時は外周の巡回が増える」
「なるほど。じゃぁ明日、忍び込むのか」
「いや。使いが来るのは明日だが、魏愔が城を辞して休沐に帰って来るのは今夕だ。それまでに忍び込む必要がある」
「そんなすぐに?」
「魏愔の話を聞きたいんだろう?じゃあただ忍び込めばいいってわけじゃない」
***
陳からの遣いが静かに正房に入って来る。
遣いに対し、旧主への尊重を示す為、遣いを奥の上座に迎え、魏愔は平伏し挨拶する。
「陳王様に於かれましては、ご健勝であられましょうや?」
上座に座らされ、窮屈そうに遣いが回答する。
「は。日々、鍛錬を怠られてはおられません」
「はは。そうでありましょうとも」
言いながら魏愔は弩を構える真似をした。
陳王劉寵は弩の愛好家であり、自身十発十中と言われるだけの腕を持っていた。劉寵の日常は弩を集め、磨き、撃つということに費されていた。
「王より伝言がございます」
「謹んで承ります」
遣いからの言葉に魏愔は姿勢を正した。
「弩を使うのはいつになるか、と」
「主には、今少しお時間を、とお答えください」
魏愔は胸を張って続けた。
「各所に手のものが参り、傭兵を集める手筈は済んでおります」
ここで魏愔声の調子を少し落した。
「残る問題は雇う資金だけです。譙には曹騰の養子が住んでおりますので、そこから調達します。息子を罠にはめました。その免罪を条件にすれば落ちるでしょう。銭は抱えていますが、しょせん宦官の家です。こちらが強く出ればなびくでしょう」
「……王はいつ頃かをお尋ねです」
「半月。半月お待ち頂くようお伝えください。その頃にはそちらへも軍資をお届けできましょう。決起はそれをもって」
その後、ささやかな宴席があり、遣いは帰途に付いた。
***
(……やっと……)
魏愔が城へ戻ったのは昼を大きく過ぎた頃であった。
曹操はぐったりしていた。それも狭い梁の上で、である。体が固まり節々が痛い。口の渇きも酷い。持ち込んだ水の袋はとっく空になっていた。
曹操が横たわる枕元で男は静かに起き上がった。慣れた様子で肩を軽く動かし、血行を整えた。そして静かに下を指さした。
曹操も起き上がると尿を溜め込んだ油嚢を拾い、気色の悪さを感じながら懐に収める。
そしてゆっくりと梁から懸垂で降りる。幸いにも大きな音は立たなかった。
結局二人は丸一日近く正房の天井の梁の上に居たのである。
寝ることも、身じろぎすることも、咳をすることもできない、苦しい一日だった。
聞き耳の後、静かに正房の戸を開け中庭へ出る。塀の影から回りを見計らい、塀を越える。
平然を装い、二人は他愛の無い話を談笑しながらゆったりと町を歩く。
そのまま並んで城門を出る。
段々と早足になって、遂には駆け始めた。
しばらく駆けた後、二人は振り向いて、相城の土壁が遠ざかった事を確認して、少し歩みを緩める。
息を整えてから曹操が切り出した。
「──罠に掛けられていたのは、俺──だったんだな」
男は息がなかなか整わない。
「──連座、──身の代、」
だが言っていることは判る。
夏侯惇へ濡れ衣を掛け、曹操に庇わせ、連座させて死刑を宣告する。慌てた曹嵩が身の代金を払う。魏愔は曹嵩からぎりぎりと絞り取り、その富から軍資を得る。
そういう絵図面だったのだろう。
しかも曹操は国相の遣わせた役人に、夏侯惇は居ない、と答えてしまっている。これを言質に「匿まった」として罪を問われてもおかしくない。一旦捕まってしまえば、曹家として出来ることは最早ないだろう。
「だが、なんで元讓を?直接俺を狙えばいいのに」
曹操にとっての夏侯惇は善良で正直な幼馴染みであり、こういった陰謀に巻き込みたくない存在であった。
「お前に隙が無かったからだろう。」
ようやく息が整ったのか男が答える。
「譙にいるお前には国相も手出しできまい」
「確かに俺は親父が金を撒いてる場所にしか行かないな……」
曹操は他県に出る習慣がない。遊び場は費亭と譙城の往復の間である。ここで濡れ衣を着せても譙の県令がたやすく握りつぶすだろう。桓曄が偽道場を訴えたので夏侯惇の存在が魏愔に知れたのだろう。
「……正直言うと、親父の銭で丸くおさめるつもりだった」
「そうは行かなくなったな」
どうやら陳王と魏愔は結託し、陳と沛で一斉反乱を起こそうとしている。この反乱に銭を出すと朝廷からは反乱側に与したとして処分されるだろう。
「しかし困ったな……反乱ともなると我々の手に余る」
男は嘆息した。
「あんたの結社には朝廷への伝手がないわけか」
「朝廷ってのは今や宦官と同義だぞ。あるわけがない。いや、ないではないが、無いも同然かな。……まずは刺史への密告が筋だろう」
刺史は州の監察を司る役職である。豫州刺史は沛国の政情を確認し、国相だろうが弾劾できる。だが曹操の感覚では違う。
「今の刺史は使い物にならん。親父達が使えない奴を送らせた」
厳しく監察されたい人間はいない。曹嵩や他の豪族は厳しい豫州刺史を望まず、宦官に賄賂を撒いて無能な人物を派遣させたのである。州治、つまり刺史の本拠地は譙だが、赴任以来一切存在感というものがない。
沈黙が流れた。
曹操は──潜入前に瀟洒な袍を粗末な襦褲に交換していた──左の袖に手を掛けた。そして勢い良く引きちぎる。次いで袖口に両指を引っかける。ビッという音と共に袖が解かれ、一枚の布になる。
それを手近な地面に置くと懐から出した筆で、すらすらと字を書いていく。袖布を男に突き出し、頼んだ。
「これを雎陽の橋公祖殿へ届けてもらえないか?きっと動いてくださる」
橋玄、字を公祖。祖父の代からの付き合いで、曹操も祖父に連れられ自宅に伺ったこともある。橋玄は司徒まで上りつめたが、一昨年、病で官を辞し故郷の雎陽で療養していた。
「そういう縁があるなら自分で行けばよかろう?」
曹操は首を振った。
「俺は狙われている。梁国への途中で捕まり兼ねない。元讓とどこかへ身を隠すさ」
男は曹操から袖布を受け取ると丁寧に畳み、懐へ収めた。
「だが俺も脛に瑕持つ身。橋司空には届けないかもしれんぞ」
「何伯求ともあろうお人がそんな事はしないさ」
男は額をぽんと叩くと聞き返した。
「……どこでバレた?」
「党錮で逃げ延びている士太夫の中に、その若さにして太學での番付にない人物は一人しか知らない」
「俺は無名だと思っていたんだが……いかんな、気を付けるとしよう」
まんざらでも無さそうに何顒は笑った。




