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俺解釈三国志  作者: じる
第六話 孟徳出世 (熹平二年/173)
65/173

1 人有辱其師者

「孟徳っ!すまない───」


 曹操そうそうの朝の平穏は震える声で破られた。


 曹操、字は孟徳もうとく。十九歳。十六の時に加冠元服し吉利から名を改めている。宦官の最高位、大長秋曹騰の孫であり、その遺産を継ぎこの地の随一の分限者となった曹嵩の長子である。


「───俺は、俺は人殺しだ!」


 彼の朝の平穏を破ったのは夏侯惇かこうとん、字は元讓げんじょう。夏侯惇の父は曹操の亡き生母の弟である。つまり夏侯惇は曹操の外従弟いとこ、と言うことになる。少々早く元服した十四歳のいとこにして幼馴染は、この朝、混乱の中にあった。


「待て待てわからん。何がどうしたかまず落ち着いて話せ」

「今朝、県令から元讓の所へ使いが来た。こっそりと、な」


 曹操に答えたのは夏侯惇ではなく、付き添って来ていた夏侯淵かこうえん、字は妙才みょうさい。彼は夏侯惇の族弟であり、曹操の幼馴染みであり、曹操の認識では子分の一人である。


「国から県へ命令があった、元讓がたんで人殺しをしたから捕まえろ、だとさ」


 この場合、国とは漢王朝ではなく譙のある沛国を指す。ここ沛国は通常の郡ではなく、王族の裔えである劉氏が封じられた王国である。


「なるほど。県令が気を利かせてくれたわけか……」


 沛国譙県に赴任してきた県令はことごとく曹嵩の財力に屈している。夏侯惇が曹家の縁者であるのも知っていて注意してくれたのだろう。


「元讓。お前、本当に人を殺したのか?」

「……実を言うと身に覚えがないではないんだ。気に食わない奴をぶん殴ったのは確かなんだ。まさか死ぬなんて……」


 曹操は夏侯淵の方を向き、問うた。


「妙才」

「なんだ?」

「お前、元讓の拳骨、何発食らったら死んでやれる?」

「無理を言うな。百発食らっても死ねねぇ」


 曹操は夏侯惇に向き直ると告げた。


「俺達はお前が人を殺したのではない、そう信じている」

「孟徳……いや、その、ありがとう」


 夏侯惇は苦笑しながら謝意を示した。彼ら三人の力関係の中で、夏侯惇の腕っぷしはからっきし。喧嘩は最弱と評価が定まっていた。


「何があったか聞かせろ」


 ため息をついた跡、夏侯惇は訥訥と語り始めた。


「知っているとは思うが……俺は鄲の塾に通っている」


 最近、夏侯惇は唐突に学問に目覚め、私塾に通っていた。夏侯惇が十四にして早めの元服をしたのも、子供では私塾に入れて貰えなかったからである。何故学問に目覚めたのかいまだに夏侯惇が口をつぐんでいるから曹操達には謎のままだったが、いつも何をするにしても三人であった二人にとって、ここ最近の夏侯惇はすっかり付き合いが悪い男になっていた。なので曹操、夏侯淵もその事自体は知っていた。


「講義のある朝は早起きして鄲まで歩いて、市場で腹ごしらえしてから師匠の家にお伺いすることにしているんだ」


 鄲は譙から濄水かすいを渡り、東に二十里ばかり進んだところにある小さな県だ。

曹操ならば馬で行きたい距離であるが、夏侯惇の家はそこまで恵まれていない。私塾に通うだけで精いっぱいだろう。


「昨日、飯を食おうとしたらとなりの席の奴が絡んできたんだ。で、そいつはうちの師匠はインチキだって言いやがった。しつこく、しつこく。それで腹が立ってさ、とうとう」

「ぶん殴ったわけか」


 こくりと頷く夏侯惇の背を夏侯淵が手荒く叩いた。


「上出来だ。元讓が腰抜けでなくて安心した」


 親や主は当然だが、故主や師匠も敬うべき対象である。そこで引き下がっては男ではない。


「で、殴った後は?死んだを見たのか、それともまだ生きていたか?」

「判らない……ぐんにゃり伸びたのは見たが、あまりに腹が立っていたので飯も食わず店を出たから……」

「じゃぁ本当に相手が死んだのか確かめなきゃな」


 曹操の言葉に夏侯淵が異議を唱える。


「孟徳。県令がせっかく目をつぶってくれたんだ。元讓を逃そう」

「逃して、その後どうする?」

「いつか大赦があるだろう?そこまで逃げ切ればいい」


 曹操は首を横に振った。


「いつになるか判らん大赦の為に元讓を日陰の道を歩かせてはおけない」


 大赦は必ずしも無条件の赦免を意味しない。「天下繋囚(既に捕まっているもの)罪未決(判決を受けていないもの)」といった前提が付く事があると曹操は知っている。今上は……いや今上をとりまく宦官達は党錮の逃亡者を許さない為にそういった条件をつけがちなのだ。


「俺には元讓が人を殺したとはどうしても思えない」

「じゃぁどうする?」

「俺とお前で調べに行くんだ」


***


「大丈夫かい?」


 先程までとはまったく違った、甘くやさしい声で曹操は語りかけた。


「うん……めまいがしただけ」


 ぐったりとベッドに横たわっていた女は、か細い声で答えた。


 曹操の正妻である劉夫人は、同郷同世代の友人である劉岱の一族から迎えた、儚く優しい女性である。

 曹操の目が横たわる劉夫人の腹部に吸い寄せられる。


(もうすぐ俺も父親か)


 曹操の目が優しくなる。

 劉夫人は、臨月を迎えていた。産まれれば曹操にとっての初子となる。


(お爺様にひ孫を抱かせてあげたかったな)


 曹操はじっと見ていたくなる気持ちに逆らい、努力してお腹から目を逸らせた。

 うれしさと同時に、折れそうな細い腰から突き出した大きなお腹を見ると、無性に心配でたまらなくなるからだ。

 寝込んでいる劉夫人の手に、曹操は自分のそっと手を重ねた。


「ちょっと出かけてくる。日が暮れる前には戻って来るから」


 彼女に触れる時、曹操は細心の注意と優しさでそっと触れるようにしている。彼女は体が弱いのだ。


 彼女の健康状態はずっと曹操の懸念であった。譙の町には華佗かだ、という医師が居る。風采のあがらない中年だが、実は齢百を越えていて、その若さの秘訣は導引たいそうなのだという。腕は優れていると評判の彼に、曹操は彼女の体質改善と出産を打診したことがある。だが


「妊婦に何をさせる気だ?あとお産は病気じゃない。俺に持ち込むな」


 そう断わられている。


「うん、わかった……ご免ね、寝てばかりで」

「謝るようなことじゃないさ」


 いつもなら夫人が眠りにつくまでやさしく手を握り続けるところである。

 曹操は断腸の念で立ち上がった。


***


「すまん」


 厩で先に馬の準備をしていた夏侯惇が謝った。いつ子供が産まれるか判らない曹操の元にやっかいごとを持ち込んだことを謝っているのである。


「ふ」


 曹操は鼻で笑った。嘲笑ではない。水臭い奴だな、の意図の照れ笑いである。それに気付き、夏侯惇が照れて頭を掻いた。


「俺らが戻るまでうちから出るなよ?」


 そう言い残し、曹操と夏侯淵は馬を曳いて曹家の門に向かう。


 譙の町の城壁の外、濄水に面して曹家の巨大なやしきはある。曹嵩は家を拡張するにあたり、譙の狭い城内では手狭だとして、城外にわざわざ建て直したのである。


 曹操の祖父曹騰は、この譙の出身者としてはここ最近では最大の成功者であり、その莫大な財は費亭侯の爵位と共に曹嵩が引き継いでいる。その財を守るために版築──突き固めた土──の高い壁に囲まれたこの廛は、曹嵩の私兵が詰め、砦にも匹敵する威容を誇っていた。

 美々しく彫刻で飾りたてられていた豪壮で巨大な門を抜ける。

 曹操はこの門が好きではない。曹操の美的基準で見ると、けばけばしくうるさく、あまりにも成金的なのだ。だが、金があるのは悪いことではない。こんな時に使える馬を何頭も持っていられるのは父曹嵩の財力のおかげに他ならない。


 門を出た曹操と夏侯淵は馬首を北東、鄲の町に向けた。


***


「昨日の朝、なにやら騒ぎがあったらしいじゃないか」


 曹操は注文を取りに来た店主にそういうと銭を握らせた。


 鄲の市の外周に並ぶこの列肆みせはそこそこの賑わい。客層は悪め。味はおそらく期待できない。曹操はそう評価した。


「ああ、喧嘩ですよ。常連さんが相席の客をぶん殴ったんですわ」

「喧嘩かぁ。そんなのよくある話じゃないのかい?」

「それがね、殴られた奴が死んじまったらしいんですよ。当たりどころが悪かったですかねぇ?」


(らしい?)


「……面白そうだ。詳しく聞きたいね」


 曹操は追加の銭を取り出した。店主はもみ手をしてから受け取った。


***


 昨日、列肆は早朝から賑わっていた。いや、賑わうどころか、店主の記憶にない程の混雑で、ほとんどずっと満席状態。店主は配膳に忙殺されていた。


 空き席が最後の一つ、という所に、見知った若者が来店した。

 この町の者ではないが、決って朝早くやってくる。近所の私塾に通っているとのことで、講義の前に立ち寄るらしい。少なくとも本人はそう言っていた。ぎりぎり空いていた席に案内し、いつもの飯の注文を受けた。


 しばらくして飯を持って出ようとした時、店内で大声があがった。

 店主が飛び出した時、若者は声を荒げて隣の男と口論していた。仲裁しようとしたが、野次馬が取り巻いていて近付けない。若者は激高して相手を殴った。相手は倒れ、飯が届くの待たず若者は出て行った。

 殴られた男はぐったりと倒れ、連れらしい男が介抱していたが、男は


「死んでる!」


 そう叫んだ。騒ぎを聞きつけ、市掾やくにんがやってきて、男を運び出した。しばらくして、別の役人が来て亭主に人相を確認し、犯人を夏侯惇と断定したと言う。


***


「……妙才、どう思った?」


 蒸した粟粒を箸先で弄びながら曹操が小声で問う。椀の粟飯につけものを載せた夏侯淵が箸を止めてから小声で答える。


「本当に死んだのかな?店主ははっきりとは確かめてないようだ」

「だが市掾は確かめた上で殺人と断定した」

「じゃあ市掾は元讓をはめた側ということか」


 二人は夏侯惇は殺していない、という前提で話をしている。死んでもいない男を役人が死んだと認定してまで手配がされたのは、仕込み、という事になる。


「となると相手は役人を抱き込める立場の奴か」

「おそらく相席自体から仕込みだな……ここが満席になる店か?」


 曹操の声が小さくなった。曹操のこの店に対する評価は「出て来るのが早い」それぐらいしかない。飯の蒸し具合も、もち粟を混ぜる比率も、どれも曹操の気に入らない。口に入れる気がしないので食が全然進まない。だが、あんな話を聞きながら飯を残して去ると悪目立ちしてしまう。我慢して口に運ぶ。


「そこまでするかな?」

「死ぬ真似のうまいわざおぎの隣の席を用意したのかもしれない。あと、役人が人相で確認、というのも妙だ。なんで元讓の人相を知っている?」

「人相か……案比のかな?」


 人頭税である算賦の徴収人数を確定させる為、年に一度、秋になると全ての民は戸別に官の訪問を受ける。この時虚偽を防ぐため、姓名だけでなく、人相までも確認され、記録される。これを案比という。


「ああ、だが案比の人相書きは譙の役場で保管している筈だ。あらかじめ取り寄せてあったとしか思えない。それができるのは──」


 曹操の声がさらに小さくなった。


「──国だけだ」


(沛国の上層に仕掛け人が居る……?だが、なぜこんな事を?)


 夏侯惇を罠に掛ける理由が判らない。夏侯惇とその家はさほど裕福ではなく、親が大した役についているわけでもない。


「あいつの師匠を探そう。何か知ってるかもしれん」


 夏侯惇から聞いたここに習いに来ていた相手である。ここには桓家家伝の欧陽尚書の師匠が居るらしい。

 呆れる程薄い味のスープを飲み干すと、曹操は乱暴に立ち上がった。


***


 みすぼらしい家だった。ごく当り前の普通の家だった。多くの門人を抱え、門前まで弟子が並び講読を受ける精舎、という想像をしていた曹操は、拍子抜けした気分を味わった。

 だが、よく見るとそこはみすぼらしいだけではなかった。門が壊されている。破損は新しい。荒されている。しして、中から人の気配がする。


 曹操が目くばせをすると夏侯淵は無言で刀に手を掛けた。


「どなたかご在宅ですか?」


 曹操は静かに門前から問いかけた。答えは返ってこないが、ゆっくりとした足音が室内からこちらへやってくる。

 巻いた竹簡を抱えた男が破れた門を避けるように現われた。

竹簡が門に当たり、よろけたる。なんとか踏みとどまった男は曹操も見知った顔だった。


「なんだ、閹人かんがんか。お前も詐欺の片棒を担いでたんじゃなかろうな?」


 開口一番こうである。夏侯淵が嫌な奴に遭ったという顔になる。自分も同じ顔になっているんだろうな、と思いながら曹操は答えた。


「知人がここに通っていたというのでな、精舎を拝みに来ただけだ」


 桓曄、字は文林。龍亢桓氏の一族である。、譙県と龍亢県とはそこそこ距離が離れているので、普通だったら知己になるほどの付き合いは生まれないのだが、宦官嫌いを公言してやまないこの青年は遭う機会があるたびに曹操の祖父と父について面罵してくるため、嫌でも顔を覚えてしまったのである。


「そりゃお気の毒。このインチキ道場は終わりだ。道場主も捕まった」

「……ここで、何が?」

「知らんで来たのか?ここは龍亢桓氏うちの一族を名乗って、でたらめに欧陽尚書を講釈していた詐欺師の道場だ。」


 そういうと桓曄は抱え得ていた竹簡を持ち上げてみせた。


「かろうじて尚書自体は本物だったがな。だが欧陽学とは解釈の学問、畏れ多くも陛下へもご講義さしあげるものなのに、町方の道場で嘘を吹聴されてはかなわん。二月前にお上に訴えでて、ようやく今朝官が動いたのよ」

「お前が告発したのか?」

「……うちの商売道具だぞ。どこも問題無かろう」


 肩をすくめて消極的な同意を示した曹操に桓曄が追い討ちを飛ばした。


「通ってた奴に伝えろ。本物が知りたければちゃんと龍亢まで来いってな……まさかお前じゃなかろうな、閹人」


***


「とだな、いけすかない奴が言っていた」


 曹操からこの話を聞いた夏侯惇は、正座のまま膝を握りしめ、唇を噛んで聞いていた。譙へ戻った二人は、夏侯惇の師匠の身に起きた事を伝えないわけにもいかなかったのである。


 しばらくの沈黙があって、夏侯惇がぼそりと破った。


「……先生が、龍亢桓家の人ではないってのはうすうす判っていた。」


 夏侯惇がわざわざ元服してまで通った私塾である。曹操も、夏侯淵も、それまがいものであったことを指摘するのが心苦しく、黙り込んでしまった。


「でも俺にはそこしかなかった。龍亢に弟子入りする程の金もなかったから」


 それだけ言うと、夏侯淳はまた黙り込んだ。


 曹操が頼めば父は外従弟の為に学費を出してくれたかもしれない。だが、それを言っては夏侯惇の誇りを傷つけるだろう。


「元讓……お前、なんでったって急に学問なんてはじめたんだ?」


 夏侯淵が尋ねた。沈黙に耐えられなくて、前からの疑問を口に出したのだ。


「……」


 以前に聞いた時同様、夏侯惇は沈黙を守っていたが、自分の方に目がちらちらと動くのを曹操は見逃さなかった。


「言ってくれ、元讓、頼むよ」


 そう促して、やっと夏侯惇が口を開いた。


「孟徳はもうすぐ世に出て大きく羽ばたく人だ。こんなトコで人生を終える人じゃない」


 確かに曹操は孝廉に察挙される数え二十才に近付いている。孝廉は郡国が親孝行で優秀なものを洛陽に推挙する仕組みだが、実態としては土地の有力者の子弟が選ばれることが多い。そして父曹嵩は、この一帯で一番の有力者なのである。望めば簡単だろう。


「孟徳を側で支えていくなら、無学じゃ務まらない」

「お前そんな事を考えていたのか……!」


 夏侯淵は驚愕した。夏侯惇は曹操が立身出世して行くことを確信し、それに随伴する準備をしていたというのである。元服して、身銭を切ってまで。

 驚いたのは曹操も同じである。幼馴染がそんな覚悟で自分に接してくれていたとは思いもよらなかった。だが、その意は曹操自身のものと、いささか相違があった。


 曹操も意を決して答えた。


「俺を高く買ってくれて嬉しいよ、元讓」


 曹操の目は優しかった。


「けど、俺はね、世に出る気は更々ないんだ、すまない」


 こんどは夏侯惇が驚く番であった。


「う、嘘だろ?」

「俺みたいな奴が渡るには世間は煩わし過ぎるんだ」


 宦官の孫。曹操が言外に込めた意味を二人も理解した。


「俺が何か為してもきっと爺様や親父の七光りと言われるだろう。俺が善を志してもきっと欲得と言われるだろう。」


 曹操は夏侯惇を見つめて言った。


「そんな目に遭うなら、ここに居座って放蕩息子を続けた方が楽なのさ」


 州も郡も県も、そのことごとくが宦官の伝手で職を得た連中で、誰もが私欲を肥している。中央には清廉な士太夫達が居なくもないが、宦官の権勢に圧倒され、何もできないでいる。曹操は大長秋曹騰の孫であり、その財を受け継ぐ曹嵩の嫡子である。宦官の縁故を辿り、まいないを惜しまなければ出世なぞいともたやすいだろう。


 だが、夏侯惇は知っている。曹操はそんな生き方を望まないだろうということを。曹操と言う大器は、自分の実力で世間をねじ伏せたいのだと。


 だから、曹操は血縁財力に頼らず、自分の実力で世間に飛び出して行くものだと夏侯惇は確信していた。敬愛する兄貴分にはその力がある、足りない分は俺が支えよう。それが夏侯惇の信念だった。


「……おかしいよそんな弱気なんて。俺の知ってる孟徳はどこに行ったんだ?」

「周りが全部敵ってのは萎えるもんなんだぜ?」


 曹操が実力を奮えば宦官の全部が敵に回るだろう。でもそれがどうしたんだ?宦官なんて無能に決まってる。曹操なら簡単にあしらえる筈。そう思ったところで夏侯惇は気付いた。曹操が宦官に敵対したからといって、士太夫達は宦官の孫を理解ってはくれないだろう、と。


「俺がいるじゃないか。全部が敵なんて言うなよ……」


 絞り出すような声を出した夏侯惇に曹操が苦笑したその時、部屋の外から家宰の遠慮がちな声が響いた。


「郎君、門前に国の役人が来ております」


***


 役人は居丈高で、そして大声だった。


「殺しの下手人、夏侯惇がここに匿われているという訴えがあった!引き渡してもらおう!」


 その声はそばの高楼から覗く曹操の元でも充分に聞き取れた。


(見たことのない男だな)

(譙の役人ではございません)


 家宰はこの譙の役人全ての顔と弱みを覚えて適切な賂いを渡している。信頼に足る回答だった。やはり国から派遣されたものか?


(俺が出よう)


***


「ずいぶんと騒がしいな。何事かね?」


 門から出た曹操は良家の貴公子然とした風で堂々と役人と相対した。


「この家に夏侯惇という犯罪者が匿まわれている筈だ。出してもらおう」

「夏侯元讓であれば、あいにくとこちらへは来てはいないが」

「隠し立てする気か?党錮を忘れたか?」


 党錮の際、逃亡する張儉を匿い、助けたものは皆処刑された。役人はそれを言っている。役人の気勢に対し、曹操は澄ました顔で応対を続けた。


「で、いったい何故元讓をお探しかな?」

「言ったろう、殺人だ!」

「あいつは実に無害な男だ。それがいったい誰を殺したというんだ?」

「鄲でゆきずりの男をだ。」

「行きずりと言われてもなぁ。本当にそんな奴はいるのか?」

「死体は鄲の役場に安置されておるわ!夏侯惇めがやったということは何人もが見ている!」


 その即答に曹操は顔をしかめた。


(実際に人が死んでいる?それが本当なら、そして元讓が本当に殺していないなら……人を殺すことに躊躇しない奴が仕掛けてきているのか?)


 まずは知りたい事は知れた。言質を取られる前に切り上げるべきだろう。


「ところで俺は譙の役人は大概知合いだが、お前を見た覚えが無い。役人というのは騙りではないだろうな?」

「馬鹿にするな!俺は国から派遣された立派な」


 そういうと男は青い紐が通された細長い袋を掲げて見せた。

 入っているのは半通印という、下級官吏の身分を証明する印である。


「見せんでいい。ここは譙だ。県令殿に話を通してから来い」


 曹操はそう言い捨てて踵を返した。


「おい!」


 呼び止められたが、無視して家へ戻る。

 国の役人は追いすがり、肩を掴もうとした。


 役人風情に主人に手を触れられてはたまらない。無言で家令が割って入る。睨み合いの気配を残し、曹操の後ろで門が閉ざされた。


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