8 四面楚歌
結局、兵力の再編成は年明けまで掛かった。
「兵はまだ揃わんのか!」
「各県の兵がまだ来ておりません」
尹端の焦りは大変なものになっており、朱儁はそれをなだめるのに苦労した。
他郡の力を借りない、抜け駆けでの乱の鎮圧が尹端の狙いだが、正月が明けたらいつ臧揚州が軍を進めるかわからない。尹端は決断した。
「県の徴集兵はあきらめる。ここに居る軍勢で東に進み、上虞と餘姚の徴集兵を加え、句章を討つ」
いかに相手が弱兵でも侮りすぎではないか、と朱儁は思った。だが、それを指摘するのは憚られた。尹會稽に余裕が無くなりすぎている。下手なことはいえない。
「県の兵が来たら後詰めに送ってくれ。お前は留守居を頼む」
「刺史から連絡が来たら如何いたしますか?」
「病いで応対できないとでも言っておいてくれ」
朱儁は尹端を諌める事は無理、と判断し、部下を同行させることとした。
任務は朱儁への状況報告。前線で起きた事を郵で送り朱儁に伝える。また、万一の場合は駅の馬を乗り継いで報告に来る。前線と連係し、対応を決めるのだ。
***
尹端が出立し三日。
軍は上虞を通過した、との報告が来た。
そして各県からの徴集兵達も山陰城にやって来た。
本隊は今日夕方には餘姚に入るだろう。後を追わせてもしかたがない。この兵達は直接句章に向かわせるべきだ。朱儁はそう判断し、兵を率いて来た県尉達に手早く指示を与える。
「尹會稽は既に出陣されております。敵は弱兵ですが、句章の城に立て籠って抵抗すれば、尹會稽も苦戦なさるやもしれません。城攻めには兵力が必要です。急ぎ後を追われますよう」
翌日、臧揚州からの書簡が届けられた。
「壬戌、山陰城下で集合するので準備をするように」
五日後、臧揚州の軍がやってくる。朱儁は戦況をつかんでから返答しようと考えた。尹會稽が鎧袖一触で賊を倒しているなら、病などという嘘は不要だからだ。
だが、その日、部下からの連絡は来なかった。
翌日の夕方、部下は駅の馬を馳せさせ、自ら凶報と共居に帰って来た。
「尹會稽、大敗」、と。
部下の語る戦況は、朱儁のまったく想定しなかったものであった。
***
餘姚を出た尹端の軍は、句章の城へ向かった。
句章の配備を確認する為に放たれた斥候が、意外な情報を持ち帰って来た。
尹端の想定は、賊が句章に立て籠っていたら包囲。無抵抗ならそのまま鎮圧、というものだった。先日の様子から、賊軍は弱すぎて野戦には耐えられないだろう。そう思っていた。
だが、賊は三千ばかりの兵力で陣を引いて城外で待ち構えているのだという。
「一蹴できるな」
こちらは四千。弱卒ばかりの相手なら余裕だろう。
尹端は笑って敵陣から少し離した所に布陣。そしてしずしずと兵を進めた。
もうすぐ交戦、という所で、賊軍で異変が起きた。
陽・明・皇・帝!
陽・明・皇・帝!
陽・明・皇・帝!
賊軍が叫びだしたのだ。
「こけ脅しだ。鼓譟せよ!」
尹端は無視して兵を進ませた。太鼓を叩かせ、鬨の声を上げさせた。
前面が接敵した。
官兵が戟で賊を叩き、突く。賊が鍬で官兵を叩く。
陽・明・皇・帝!
陽・明・皇・帝!
賊兵は叫びながら耐えるが、皮の鎧を纏った官兵の方に利がある。
間もなく前線が崩れる。尹端は確信した。
その時、両側面から叫びが起きた。
陽・明・皇・帝!
陽・明・皇・帝!
上虞と餘姚の徴集兵に、賊徒が混じっていたのだ。
「くそっ」
彼らが両翼の隊列を乱した為、賊への圧力が減衰する。
「太鼓を叩かせろ!」
混乱が広がる前に賊を擦り潰す。
太鼓の連打の中、尹端の本隊は中央突破を図り、前への圧力を加える。
が、
陽・明・皇・帝!
陽・明・皇・帝!
叫ぶ賊兵は、血塗れになりながら耐える。耐える。
その時、尹端は自分の本隊のそこかしこからの叫び声を聞いた。
陽・明・皇・帝!
陽・明・皇・帝!
「捕虜にも賊が残っていたか!」
あまりに弱い許昌を見限り投降した連中が、前線のがんばりを見て信仰心が戻ったのだ。
隊列の後ろの味方から一撃を食らった兵が倒れる。
助けようとした友軍が、別の賊に蹴り倒され、前進する他の兵に踏まれる。
周囲の誰が賊に変わるか判らず、その場で全周を警戒する兵。
後続が追随してくれないのに気付いた前線が崩壊する。
周囲のどちらを向いても陽明皇帝を唱える声がする。
恐怖にかられた兵士達が我先に逃げ出す。
會稽の軍勢は大混乱となった。
尹端は自分の軍が自分の統制から外れ、立て直せないと判断した。
大声を上げ、周囲の味方を集結させる。自分の声の届く範囲だけでも助けねば。尹端は鉄剣を抜き、飛び掛かって来た賊徒を切り捨てる。
「こんなに!」
混乱する戦場の中を切り裂いて離脱する。
前を塞ぐ賊を切り倒して。
「こんなに弱い奴らなのに!」
***
部下は尹會稽が脱出できそうなのは見届けてから報告に来たという。
朱儁はさらさらと状況を木簡に認める。
こうなっては臧旻に報告を入れないわけにもいかない。
その報告を郵で臧揚州へ届けるよう指示すると、朱儁は立ち上がった。
***
尹端が残った兵を取りまとめ、ほうほうの体で山陰へ戻って来たのは三日後である。
途中で県の兵士達と合流したが、再戦を挑む気力は萎え果てていた。
「朱主簿!怪我人の対応と飯の手当を!臧揚州はなんと言っている?」
城内に入るなり、矢継ぎ早に命を発した。
応答は無かった。
代わりに県丞が答えた。
「朱主簿はあれきり出仕しておりません」
と。
見捨てられたか。
仕方無いかなと尹端は思った。
「県の金を持ち出したようです」
苦笑した。
そこまでする男とは思わなかったが。
脱力しているうちに臧旻が陳夤を引き連れ、山陰城下までやってきた。
「尹端。君のしでかした事は棄市に値する。刑の執行は国家に判断いただくが、揚州刺史として君を解任し、洛陽に送還する」
臧旻は訴状を認め、洛陽へ送ると、尹端を檻車に乗せ、都へ送り出した。
***
朱儁は薮をこぎ、間道を抜け、山を走り、河を渡り、野宿を繰り返しながら洛陽へ向かっていた。
臧旻は形式を大事にする循吏だ。尹會稽をその場で処刑したりはするまい。
尹會稽を訴える上奏を洛陽へ送るはず。郵の取り次ぎより早く洛陽へ着ければ、尹會稽を救う手もある。
だが、十里毎に置かれた郵の取り次ぎよりも早く洛陽に着くのは至難である。郵間を馬で繋ぐ場合もあるのだ。
朱儁は睡眠も最低限にした。日が登らぬ間も、日が暮れた後も、走り続けた。
懐の金を章吏……宦官の中書に渡し、奏上を改竄させるのだ。
***
尹端を乗せた檻車が洛陽に着いた。
旅の途上で尹端は既に死の覚悟を決めていた。
なので「左校での労働刑」を言い渡された時、喜びよりも驚き、驚きよりも疑問が勝った。誰かが手を回してくれたのだ。
朱儁の顔が浮かんだ。
だが、會稽太守を解任され、左校に労働に行く尹端には確かめる手段がない。
朱儁はなにくわぬ顔で、會稽に帰り、この事を誰にも話さなかった。




