7 陽明皇帝
年が明けるのを待たず、尹端は行動を開始した。
「捕虜を返さない……ですか?」
朱儁は思わず尹端に聞き返した。
「そうだ。句章攻めの戦力に編入する」
「捕虜といっても彼らは被害者です。それにもうすぐ正月です。早く家に返してやりたいのですが」
「聞けば家を焼かれた連中じゃないか。軍に居る間は食には不自由させない。それだけでも恩恵だろう?賊に怨みもあるだろうしな」
これは聞き届けてはいただけないな。朱儁の意識は各県の復興から軍の兵糧計算に移った。
だが、続く尹端の言葉で、朱儁は計算を続ける事ができなくなった。
「各県で兵を募れ。むろん、上虞、餘姚でもだ」
え?兵を増やす?
「尹會稽。丹揚兵も来るのです。これ以上の兵は必要ないのでは?」
尹端は震える声で告げた。
「三輔では董卓に出し抜かれ、會稽でも州の助力で取り返しました……では俺の武名は地に堕ちる。我々だけで句章は落す」
***
句章の町は悲しみに沈んでいた。
家に戻らなかった親を子を家族を悼む泣き声。
敗北に打ちのめされるうめき。
弔問し、励ましと飛び回っている許韶も、自分に突き刺さる冷たい視線の痛みを感じ続けている。
父、許昌は元県庁舎の自室に引き籠っている。
だが、いつまでも引き籠らせているわけにもいかない。
「親父。大丈夫か?」
暗い部屋の牀に、許韶の父はうずくまっていた。答えはない。
「親父……これからどうする?」
勝ち目はもうなさそうだ。降伏した方が死者は少ない。うまくいけば自分ら二人で済むだろう。許韶はそう計算していた。
許昌がぽつりと答えた。
「いっぱい死んだなぁ」
許昌親子を逃すため、熱心な信者が後拒した。肉の壁となって散った。
「わしは全員の名を言える。何をお布施にしてくれたかも覚えている。わしの信者だもの」
許昌はため息をついた。
「信者を殺したわしの来世は、虫けらだなぁ」
許韶が、許昌を手伝って広めている浮屠の教えでは、人は善行を為せば来世も人として生まれるが、悪行を為せば畜生や虫けらになってしまう。そう教えている。
許韶は本気にはしていなかったが、かつて父はこれは真実だ、と言った。でなければ人は善い行いをしないし、悪人が勝ったままでは弱い者は報われない。そうでなくては困る。そうも言った。
許韶は町で拾った噂を伝えた。
「官軍が来るらしい。上虞でも、餘姚でも、兵を募っている。親父。どうするか決めたい」
「死んだ連中の中には善行する暇もなく、死んだ奴もいるだろうな……。そいつらから善行の機会を奪ったのはわしだ。わしは虫けらだなぁ」
「親父……?」
許韶は父の精神状況を確認しようと顔を見た。
許昌は突然許韶の目をみつめて言った。
「わしが虫けらになるのはいい。だが、死んだ皆を虫けらにするわけにはいかない。そうは思わないか?」
父の目に宿った力は、息子の初めて見る類のものだった。
「みんなを集めてくれ、あいつらの死は善行だった……そうなるようにしたいんだ」
***
夕方、日が沈もうとする頃、皆がぞろぞろと県庁舎前に参集する。
諦めと、悔悟と、冷淡を纏って、重い足取りでやってくる。
日が落ち、暗くなりつつある空だったが、県庁門前では贅沢にもそこ、ここで焚火が焚かれ、煌々と庁舎を照らしていた。嗅いだ事の無い香の匂いが漂っていた。
県庁舎の門前を人が埋めた頃、県庁の楼の上に、許昌が現われた。
庁舎を照らす焚火も、許昌には届いていないのか、許昌の姿はうすぼんやりとして見えた。そして頼りなさげに見えた。
許昌は皆を見下ろす位置から語り掛ける。
「みんな!聞いて欲しい!」
門前の皆の反応は冷淡だった。
声が聞こえていないと思ったのか、許昌はもう一度声を張り上げた。
「みんな!聞いて欲しい!」
視線が許昌に集中し、聞こえていることを理解した許昌が続ける。
「わたしは──」
そこまで言ったところで許昌は言葉を切った。
そしてばたりと倒れた。
ざわめく信者達。
「どうした?」
「頓死?」
「越王!」
口々に叫び声が交わされる中、ゆらりと許昌が起き上がった。
ごうっと焚火の強く燃え上がる音がする。
明るくなった焚火が下から照らし上げた許昌の顔は、まるで別人だった。
堂々とした態度。ゆるやかな落ち着き。強い力に満ちた輝く目。
皆のとまどいの中、その人物は言った。
「我は大毘盧遮那なるぞ……」
深く通る声だった。説法の中で何度も聞いた名であった。
「……大いなる日輪の化身が、請願によりこの矮小な男の身に顕現した」
集団は息を止めて見守った。
「男は願っておる。法敵に勝てる力が欲しいと」
許昌が何に勝ちたいかは聞くまでもなかった。
「お前達はそれを望むか?」
門前は静まり返っていた。
「望むか?!」
許昌の姿をしたそれは、もう一度問いかけた。
おう!おう!各所で声があがりはじめた。
許昌は両手を掲げ天を仰いでから、信者達に語りかけた。
「陽明皇帝の名を唱えるが良い。太陽を司る我が、お前達に加護を与えよう」
陽・明・皇・帝!
誰かが声を上げた。
陽・明・皇・帝!
陽・明・皇・帝!
声がそこここで上がった。
皆が追従して大音声となった。
陽・明・皇・帝!
陽・明・皇・帝!
陽・明・皇・帝!
門前は熱狂の坩堝となった。




