4 防衛線
越王許昌の本体が會稽の郡治所である山陰の県城を包囲している間に、大将軍許韶の遊撃隊は北西へ進んだ。
目指すは浙江。そして対岸の呉郡である。
浙江はいずれ北から来るであろう官軍からの防衛線になる。錢唐の富を軍資金に兵備を整える。
浙江の南岸にある余曁県をやすやすと降伏させ、そこの民を吸収し手勢は三千を越えた。余曁の河の民から小船を接収し、浙江を越える手段も手に入れた。
句章で蜂起してからまだ四日。州郡の体制の整わないうちに、できるだけ支配面積を広げるのだ。
(州郡が動く前の今なら行ける!)
許韶は浙江の北岸への渡河を企図した。
一度で渡河できる数の舟はない。まず隊を五つに分割した。
第一陣が上陸したら舟を戻し、第二陣と運び、中軍で指揮を執る許韶は第三陣で上陸する予定だった。
第一陣が兵を満載し、次々と南岸を離れる。
浙江は長江ほど広い河ではない。対岸まで四里もない。舟は小さくなり、載っている信者達が飛び降りる様で、北岸についたと知れた。
第一陣を任せた男がこちらに振り向き手を振る。
許韶も笑って手を振り返し……た所で男は倒れた。
次々と対岸の信者達が倒れて行く。
許韶の笑みが凍り、北岸での出来事を信じられない、という顔で見つめた。
第一陣が全滅し、舟が戻って来ない。
何が起きたか判らない。いや、待ち伏せに引っかかったのだ。それは判った。だがそんな筈はない、こちらの蜂起に対し、州郡が対応できる余裕は無かった筈だ。
では、なぜ彼らは斃れ、我々は渡河できなくなってしまったのか。
「大将軍、どうなさいますか?」
信者が縋る目で見つめてくる。
許韶は急になにもかもが煩わしくなった。
***
「うまくは行きましたが……本当に大丈夫なんですか?」
呉景の疑問に答えず、孫堅は無言で南岸を睨み続けていた。
対岸から賊軍の姿が消えるのを待ってから、孫堅はつぶやいた。
「追撃するべきだな」
「やめてください!こっちは千しかいないんですよ!」
残念そうに実に残念そうに首を振ってから、孫堅は叫んだ。
「舟を陸に揚げろ!!草むらまで引きずって、整列させろ!」
この舟はいずれ反撃に使おう。その決意だった。
***
話は二日前に遡る。
呉郡の役場に會稽句章での反乱の第一報が届いた。
呉郡太守はその報に驚愕した。だが、数瞬後、もっと驚愕した。
太守の部屋に部隊長の一人でしかない孫堅が飛び込んで来たからである。
「賊が来るんだろ。兵を出すぜ。叩き潰す」
全くの越権である。太守はその堂々とした越権行為に動揺しながら、なんとか答えた。
「都尉はそんな命令は出していないはずだが」
「どうせ出すことになる。やるなら早いほうがいい」
「まずは各県を守らせるに決まっているだろうが!」
郡太守は郡内の成年男子に一年の兵役を課す。それが通常の郡の戦力である。呉郡では一万にも満たない。
それ以上の兵が必要な時は兵役経験のある者から徴募して兵力とすることもできるが、それは太守が勝手にしていいこととではない。反乱を企てていると断罪されかねないからだ。
その少ない兵で対応できることは、まずは郡境の各県の防衛強化である。
じっと太守の目を見た孫堅は
「わかった。勝手にやるさ」
そういって退出した。
***
呉郡の郡治である呉県から太湖、谷水と速舟を使い、孫堅は錢唐に帰って来た。舟で移動できるのは妻の実家、呉家の力である。
呉郡に出仕することなった孫堅と生活する呉夫人は、いつでも実家に戻って経営できるように舟を準備していたのだ。
「あなたの器が見れるわね」
妻はそういって孫堅を送り出した。
錢唐に戻った孫堅はそのまま呉家に入ると、当主の呉景の元に突撃し、開口一番、こういった。
「兵が欲しい。ありったけ」
呉家の用心棒をやっている荒くれ共を中核に、千名ばかりの軍が急造された。
孫堅は義弟に有無を言わせなかった。金は出させた。
「うちがお金出すのおかしくない?普通は郡が招集するもんだよね?」
「郡の許可は得ていないからな」
「はぁ?!」
「だが申請はした。活躍すれば追認いただけるさ」
勝手にやる……という宣言が、申請として受け止められていればであるが。
許韶の浙江渡河を阻止した防衛線は、こうやって作られたのだ。




