1 姐御
中原、洛陽を出て豫州、揚州と東南に進むと、いずれ雄大な長江に突き当たる。
揚州はこの長江により南北に二分されるが、それを渡って更に南に進むと、巨大な湖である太湖に着く。そこを抜け、更に南下すると、別の大河、浙江が立ちふさがる。
その浙江を河口から内陸に向かい少しのぼった場所に錢唐はある。
浙江河口の潮流は複雑で、年に何回か海からの水が逆流してくる。錢唐はこの複雑な潮流からの避難場所として、そして南方貿易の拠点として、内陸に位置しながら栄える港である。
その錢唐の町に、ひときわ大きな屋敷があった。貿易商として急成長している吳家である。
その豪壮な門の前に若者が一人立って吠えていた。
「オイ!いつまで待たせやがる!」
若者の袖は切り取られ、鍛え上げられた両腕をさらけだしていた。荒ぶる様がなくても堅気には見えない。
普段なら館への出入りで賑わう門前も、若者を恐れて一通りもまばら。
「早く女に逢わせろ!」
若者は吠え続けていた。
***
「孫文臺……ね。何者かしら?誰か知ってる?」
屋敷の最も奥にある建物の一室で、ひらひらと木片を振りながら取り巻きの男達に女は尋ねた。
木片……名刺には「弟子孫堅再拝 間起居 字文臺」と書かれている。
「最近錢唐に流れついたゴロツキでやす、姐御」
取り巻きの一人が答えた。
「名刺を出して来たんだから、字は書けるし、最低限の礼儀は知っていると思っていいと思います。姉上」
弟の吳景が答える。
「判んないわよ?誰かに書いてもらったものかもよ?」
女が手にした名刺をじっと眺めて聞いた。
「で、どう思う?会ってやるべきかしら?」
「姐御がお会いになる程の者じゃありやせん。」
「そうだね。僕も会わない方がいいと思う」
皆の否定的な意見に、女は答えた。
「じゃあ連れて来なさい。会ってみましょう」
「姐御?」
「どうしてです?姉上!」
「あなたたちの逆を行った方が大概うまく行ったからよ。これまではね」
***
「お前がこの大商を取り仕切っている、吳家の娘か?」
たった一人で大勢に取り囲まれながら、若者は全く萎縮した風は無かった。鈍感な馬鹿なのか、と思いながら女は顎を弟に向けしゃくり指示した。弟が若者に告げる。
「主である。敬意を払え、吳大人、とお呼びしろ。」
若者はその言葉がまるで耳に入って来なかったようにつぶやいた。
「美しいな。噂通りだ」
「甜めた口叩いたらブッ殺すわよ」
「それに強そうだ」
傍若無人に振舞う若者に女は軽いめまいを感じた。
「で、何の用で来たのかしら?私も暇じゃないのよ」
「俺の嫁になれ!」
硬直する周囲の取り巻き達を横目に、女はため息をついて尋ねた。
「坊や、おいくつ?」
「十七だ。坊や呼ばわりされる齢ではない」
「私から見たら、まだガキよ」
「俺はお前が年上でも気にしないぞ」
ようやく硬直から解けた取り巻き達が騒ぎ出す。
「姐御。殺しましょう」
「刻んで魚の餌にしやしょう」
女が片手を挙げて制止する。
「あなたと婚がって、私になんの得があって?」
「強い子を生ましてやる」
「それはあなたの得でしょう。そもそも婚姻は家と家がするものよ。あなたの家は裕福なの?代々二千石を出す著姓なの?」
「俺が孫家の初代さ」
回答に、また女はため息をつく羽目になる。
「あのね、坊や」
女は言い聞かせる様に語りかける。
「こう見えて私は、この錢唐でこれだけの商家を作り上げたの。私の商才と、吳家の家格に、あなたでは釣り合いがとれないわ」
「なら、俺の人生をまるごとくれてやろう。これでどうだ?」
女は中空をしばらく睨んでから答えた。
「そうね。あなたの人生が貰うに値するかどうか、試してあげましょう」
「ほう?言ってみろ」
「胡玉、という海賊がいるわ。錢唐を荒しに来るので困っているの」
「それで?」
「坊やの力で潰してみせなさい」
「心得た!」
若者はくるりと向きを変えると、ずかずかと出て行った。
部屋に静寂が戻ると、弟が聞いた。
「姉上。そんな約束していいの?」
「約束?していないでしょう?試してあげるって言っただけよ」
「うちの私兵でも追い払うのに苦労するのに、一人でどうにかできる相手じゃないと思うよ」
「それぐらいできる男でないと、ねぇ?……それより景、あなた何をのんびりしてるの?早く一緒に行って見届けなさい」
吳景は、自分自身を指さし目を白黒させていた。




