3 天姓
「おいらさ、爺さんがなんかたくらんでる時、匂いで判んだよ」
燻ぶりはじめた枝を火の中に投げ込むと、少年は言った。
「だから爺さんがおいらを殺そうとしてるのが全部判った」
老人には少年の言うことが理解できなかったが、合点はいった。
匂いとやらでばれているなら失敗しても仕方が無いではないか。
「爺さん。おいら、ここを出て行くよ。この村に居たら、おいらずっと奴卑だからな」
「……そうか」
「何にもないおいらに、いったい何が出来るか試してみたいんだ」
「厳しいぞ」
「うん、判ってる」
学も戸籍もない奴卑の子供である。老人には悪の道に堕ちた姿しか
想像ができなかった。殺しか盗みかで官兵に追われる身になるだろう。
そう思っていたので少年の次の言葉に、老人は目を瞠った。
「……爺さん。爺さんを最期まで看取ってやるから、読み書きを教えてくれよ。里の他の奴から教わったけど、あんまり難しいのを知らないんだ。爺さんは里で一番学があるんだろう?」
確かにその通りで、学があった老人は若い頃に郡の役人になった事も有る。
その時に郡太守の苛斂誅求に荷担した為、里での立場が今でも微妙なのだ。
少年がこの村を去った後、老人を養ってくれる者は居ないだろう。
「あともう一つ、おいらどうしても欲しいものがあるんだ」
ひどく真剣な目で少年は切り出した。
「わしがくれてやらなんでも、お前は勝手に手に入れて来ただろうが。今更この死にかけから、何を奪う気だ?」
少年は少し恥ずかしそうに微笑むと、静かに答えた。
「欲しいのは物じゃないんだ……名。それと字が欲しい。」
この少年を赤子から育てたが、名は付けなかった。
老人はやっとその事を思い出した。
「みんなおいらの事を、お前、ガキ、奴、大耳児、としか呼ばねぇ。おいらも人並みに字で呼ばれたい。」
老人は初めてこの少年に申し訳ない気持ちを抱いた。
しばらく考えた後で老人は言った。
「お前の名は『備』だ。」
そう言って、老人は指で土間の土に「備」と書いた。
「備わっている、という意味だ。お前は何も持っていないからな。
これくらいで丁度釣り合いが良かろう」
話し終えると老人は咳込みはじめた。
老人の咳が続く中、少年はじっとその字を見つめてつぶやいた。
「備……」
しばらくして咳が治まり、老人は言った。
「字は、そうじゃな『玄徳』が良かろう」
そう言って、また指で書いた。
「どういう意味だい?」
「特にないわ。立派そうな字面を選んだだけじゃ」
「字ってのには皆、伯とか叔とか付いてるんじゃないのかい?」
「阿呆う。そんなものが付いていたら、兄上は何をされてますか、弟ごは何人おられますかとか聞かれるじゃろうが。付いていなければこそ何か理由有りだろうと聞くのを遠慮してもらえるもんじゃ」
「なるほど……」
少年はにっこりと笑って言った。
「じゃぁ、今日からおいらは『毛玄徳』ってわけだな!」
「ならん!」
老人は自分でもまだこんな大きな声が出せることに驚きながら挙止した。
「毛を名乗る事はならん」
「なんでだい?ここは毛家里じゃないか」
ここの住民はみな毛姓の同族なので、里の名を密かに毛家里、と呼んでいた。
(こいつに毛姓を称させてしまったら、どんな禍いが里に降ってくるか判ったもんではない!連座族滅で里が滅んでしまうわ!)
老人は血管が切れそうな程に考えてから、やっと答えを見付けた。
「備よ、お主は今後姓を劉と名乗るがいい」
「なんで劉なんだ?里にそんな男いないだろう?」
女なら居る。同姓では婚姻できない為、この里の男は他の里から妻を
貰わねばならず、苦労していた。
「まぁ聞け。」
老人は神妙な声色を作って言った。
「お前は捨て子だ」
「ああ。だから何だ?」
僅かに不機嫌が、玄徳の声に籠る。
「つまり天から頂いた子だ」
「ふん?」
「天から頂いた子なのだから、名乗るのは天の姓でなくてはならん」
「天の姓?」
「そうだ。だから劉よ。洛陽の天子様が代々劉姓なのだから、その父たる天の姓は劉に決まっておる。だから、お前は劉玄徳だ」
「ふーん」
少年はまんざらでもなさそうにつぶやいた。
「劉玄徳……」
(了)




