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俺解釈三国志  作者: じる
幕間3 黄天當立(建寧三年/170)
47/173

1

 冀州、鉅鹿。


 大地を風が削って行く。

 曇天の空を覆う灰色の雲が、驚く程の速さで西から東へ流れている。


 天を振り仰ぎ、男が一人、何かをつぶやき続けている。


 痩せぎすな男である。背は高いが貧相で薄い胸板をしている。

 目は白目を剥き、口は半開き。涎も垂れ流しである。


 男は天に手を伸ばすと、頭を前後、左右、上下にがくがくと振り回し始めた。

 背中まである髪はその動きに追随し空中を叩く。

 だが下半身は微動もせず、大地を踏みしめている。


 冠が吹き飛んだ。しかし冠が取れたのを気にする様子もない。


 男から少し離れた荒野の叢に、蹲る男が二人。

 太った男と、背の低い男である。


 太った方が、背の低い男に語りかけた。


「梁」


 背の低い男が応える。


「なんです?兄者」


 会話の間も二人は奇妙に踊る男から目を離さない。


「大兄は、まだかな?」

「あの感じだともう少しですかね……」


 それだけ話すと、二人は口を閉ざし、男の動きを見守る。


 しばらくして、遠くからゴロゴロと雷の音が聴こえてきた。


 それが切っ掛けだったのか、男の頭の動きは速度を増して行く。


 やがて動きは頭だけでなく、肩から腕へ、背から腰へ伝わり、上半身がバラバラに、ちぐはぐに、動きはじめる。


「来ました」

「ああ」


 太った男は大きな麻布を取り出す。

 背の低い男は木牘と筆を取り出した。


 男の動きは時を追って激しくなっていく。

 突然、絶叫と共に突き出した腕をぐるりと回すと、男の動きがぴたりと止まった。

 その瞬間、地平遠くで雷が落ちた。


「行きましょう」


 二人は駆けながら立ち上がり、男の方へつっ走る。


 ゆらりと倒れ込む男を、すんでの所で二人は受け止める。

 大男が男の全身に流れる大粒の汗を手早く拭い始める。

 男はぶるぶると全身を奮わせながら、何かをつぶやいている。


「……」

「梁」

「判ってます」


 背の低い男は、倒れた男のつぶやきを聞くため、口元に耳を近づける。


「蒼天は既に死んだ……」


 その言葉を木牘に書き写して行く。


「黄天が……立つべき時だ」


 男はうわごとの様に、かぼそくつぶやいた。


「甲子の年に、天下は大いに吉くなるだろう」


 そういうと、男の体からは力がぐにゃりと抜け、太った男はあわてて支え直した。


 男からすうすうと寝息が漏れる。


 太った男は力を失って支えにくくなった男の体を、必死に支えながら汗を拭き続ける。


 倒れている男は張角ちょうかく。太った男は張寶ちょうほう。背の低い男は張梁ちょうりょうといい、兄弟である。


 張家はここ鉅鹿の地で、道術……それも符水による治療で身を立てている一家であった。


 呪力のある符を描き与え、霊力を込めた水を飲ませる。

 これで多くの病人が救われ、家の危難が防がれた。


 だが兄はそれで満足しなかった。


「符水の術は、人は救えるが、国は救えない」


 そう言って長兄は激しい修行を行った。石の粉を嘗め、木の皮をかじり、神に通じようとした。


 いつ頃からだろう。長兄の張角が、身に降ろした神からさまざまな助言を貰えるようになったのは。


 神が降りる霊験あらたかな符水師として張角の人気は高まり、張家の家業は繁盛した。


 しかし張寶は危惧している。


 神からの言葉なんて過ぎた力ではないか?

 その力は何か悪いものを呼ばないだろうか?


 そして汗だくの長兄の体を拭いてやりながら思い出す。

 かつて堂々とした偉丈夫であった長兄の肉体を。


 長兄はこの力を得てから、衰弱し続けている。

 どうしてこんな枯木の様な体になってしまったのだろうか?

 体に障る前に神降ろしを止めねばと考えていた。


「梁…」

「なんです?」

「兄者はなんて言ってたんだ?」


 張寶には兄が身を細らせてまで紡いだ言葉の意味が判らなかった。

 兄の張角自身、目覚めたときには神がかっている間に自分が何を口走ったのか覚えていない方が多い。兄の言葉を解釈できるのは、末弟の梁だけだった。


「まず、黄天ってのが、判りますか?」

「そりゃお前、俺ら黄老の徒の事だよな?」

「はい。ということは黄天ってのは我々が支配する天ってことですよ」


 張寶の顔に理解の色が浮かばなかったので、張梁は続けた。


「そもそも、高祖様が長安で西漢を建てた当初は、我ら黄老道は儒教と並んで貴ばれ、政ごとに参加していたんです。でも、光武帝が王莽を倒し東漢を建てられて以降、漢家は儒者だけがのさばる朝廷になってしまいました。」

「じゃあ既に死んだ蒼天ってのは……」

「はい、東漢の王朝を支配する儒教の天です。去年の党錮で、名だたる儒者が殺され、儒家は衰退しています。あれが『蒼天は既に死んだ』ってことだと思います」


 弟の説明に張寶は納得できなかった。


「漢は赤の国じゃなかったか?」


 赤帝の子劉邦の建てた漢は、火徳の国とされ、その色は赤である。


「そうですね。だから漢家は倒さず、儒家だけ倒そう。そういう意味だと思います。つまり、黄老の我々が漢家を儒家から取り戻す。それが太乙が大兄に授けた助言なのでしょう」

「じゃあ『甲子の年に』ってのは」

「蜂起の時期でしょうね。暦は六十年で一周し、その最初は甲子ですから」


 張寶は両手で指折り数え、驚いた。


「十年よりまだ先の話じゃないか?」

「兄上。十五年しかないんですよ。」


 張梁は眠る兄を起こさないよう、静かな声で言った。


「資金を集め、支援者を増やし、組織を作り上げ、秘密を守りながら中原に勢力を伸ばす。宦官を抱き込み、儒者を蹴落とす方法を考える。どれも一筋縄ではいかない難問です。」


 兄も自分も、実務面では末弟梁の才覚に頼らざるを得ない。だが寶は弟の力を信じていた。


「判った。なんでもやる。言ってくれ」


 これが黄巾賊、と呼ばれた者達の始まりの日であった。


 張寶が兄を抱き上げ、荷車へ運ぼうとする。

 その時、微かにつぶやいた張角の声は、か弱すぎて結局誰にも届かなかった。


「ああ、太乙よ……なぜそこに貧道が居ないのです……」


(了)


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