9 岑晊の事
南陽郡棘陽県。ここにひっそりと暮らす士太夫がいた。
岑晊、字は公孝。かつて南陽太守成瑨の功曹として一世を風靡し、「南陽太守は岑公孝、弘農成瑨は座ってるだけ」と言われる程地方官として評判高かった男である。
三年前の党錮で成瑨が逮捕された際、岑晊は同僚の張牧と共に逃亡した。齊魯の間、即ち、徐州北部から豫州北部に掛けての地域に潜伏したのである。
潜伏の間に新帝即位の大赦があり、二人は許され、故郷の南陽郡に帰れるようになったのである。
新帝即位当初の陳蕃と竇武による政治は宦官に厳しい態度を取れる人材を求めていた。州や郡は二人を察挙し、三府が辟した。だが、二人が公職に就くことはなかった。
今の岑晊は晴れていれば鍬を振るい、雨が降れば読書する、というつつましやかな日々を過ごしていた。
そして今日の日を迎えたのである。
***
油煙の漂う部屋の、ほのかな灯りの元で男は言った。
「お逃げください。党錮が再開されました。楚毒の害で都は酷いありさまです」
楚毒とは拷問の事である。
この男が何者か岑晊は知らない。知己ではないし誰の紹介状も持って来ていない。そもそも名乗ろうともしない。だが想像はついた。誰かが党錮に対抗するための結社を作ったのだ。
岑晊は答えた。
「自分は既に大赦を受けた身です。」
永康元年六月の先帝の大赦は「党錮を除く」という条件がついていた。しかし、翌年建寧元年二月の、新帝即位の大赦は、そういった条件が無く、党錮をも許すものであった。実際、党錮された面々が次々に朝廷に復帰していた。
「つまり、終わった話です」
岑晊はその大赦以降、官職に就いていない。そんな自分を罰する事は、大赦を反故にする事であり、今上の権威を傷つける事である。
岑晊はこの男を信用しきれず、まずは正論で返した。
「今の宦官共は道理なぞ気にもしません。難癖を付けられれば、北寺獄で拷問を受け、無い罪を自白することになります」
答える男の目に真摯なものが浮かんでいるのを見て、岑晊は本音を話すことにした。
「自分は死んでも構いません。既に死んでいるのと同じですから」
岑晊の声が震えた。
「自分は、太守を守れなかった男です」
***
いい気になっていた。全能感に酔っていた。
本来弘農から来た太守がやるべきこと、南陽郡の人事を、行政を一手に握った。「弘農成瑨は座っているだけ」と友人達に言わせて平然としていた。
南陽の、宦官を憎む士太夫を続々抜擢した。自分の癒着は正義の癒着だと思っていた。
あの郭泰や朱穆に友と呼ばれた。
あの李膺や王暢に国器と呼ばれた。
あの范滂と並び称された。
もう誰も自分を罪人の子とは呼ばない。
自分は常に取り締まらせる側だった。
中賊曹史の張牧に命じ、厳しく取り締まらせた。
その自信がそうさせた。
そして、やりすぎた。
太守が棄市されたと聞いて思わず逃げ出した。
張牧を連れ、東に逃げた。太守の復讐を誓い、捲土重来を期すつもりだった。
幸い、友人は多い。友人の間を転々とし、匿ってもらった。
親友の賈偉節なら匿ってくれるだろう。そう思って訪ねた時、酔いは醒めた。
彼は門を開けようともせず怒った声で告げた。
「公孝、あなたは主君を傷つけ、自らその咎を受けている。追っ手が来たら私にも戈を振るえというのか?」
そうだ。
自分は成幼平の故吏だ。見出してもらった深い恩がある。
にも関わらず、彼が死ぬ原因になってしまった。
なのに殉じる事もなく、ただ逃げたのだ。
こんな恩知らずが今更官界に戻れようか?
その後悔の日々が終わるなら、宦官共の手に掛かってやってもよいのではないか?
「それは困ります。」
男は続けた。
「岑公孝を殺した、となればそれより著名でない士太夫は別段殺しても問題ないだろう……宦官どもはそう考えるでしょう」
岑晊はため息をついた。
(生きるもままならず、死ぬもままならず、か。)
「では、私はどうすればいい?皆の為に従おう」
「隠れ家を用意しました。お移り頂ければ」
「どこに?」
「荊州、江夏山」
荊州も黄河近くにまで南下すると未開の土地がまだまだ広がっていた。
そこここに蛮族が住んでおり、そういった場所は太守や刺史の手が届かない場所であった。
江夏は荊州でも大都市であるが、真近に江夏蛮が居住する場所でもあった。
「載叔鸞が余生を過ごした場所か」
山中に隠棲した岑晊は、そのまま歴史から姿を消した。




