8 巴肅の事
(弱い……)
中常侍の曹節は、今回の党錮に関し、不足を感じていた。
朱並、なる無名の士太夫が張儉と山陽の田舎儒者を告発した程度では、洛陽の士太夫を一掃するには理由が弱すぎる、という点がである。
(やはり二年前の件にかこつける必要があろうな)
陳蕃と竇武の件への関与であれば、王朝の転覆を目指した大悪人に仕立て上げられる。
曹節は宦官達に手分けさせて二年前の事件を洗い直させた。士太夫に頼むわけにはいかなかった。どう庇いあうか知れたものではなかったからである。
教育の足りない宦官達が、苦労して洗い直した結果、二年前、政変直後の混乱した状況の中、処罰の網の目を抜けた者が居ることが判明した。
巴肅、字は恭祖。八顧の三位である。
巴肅は、陳蕃に辟されて中央官として出世した、陳蕃の故吏である。それを理由に巴肅は禁錮処分を受け、故郷の勃海郡高城県へ帰っていた。
だが、陳蕃の件に関与した中央官僚の何人かを任に就けるための上申が、筆跡から巴肅の書いたものと同定されたのである。
(これは北寺獄でおもてなししてやらねばなるまい)
曹節は珍しく残酷な気分になっていた。
***
高城県の県令は、一枚の木簡を見ながらうなっていた。
その木簡には、党錮されている、地元のとある人物を捕縛し、都へ送還するよう命令が書かれていた。
この命令を履行したくないが故に、県令はこれを受け取ってからこの方、ずっと悩みの中に居たのである。
それは、門番が持って来た一尺の木牘で終わった。
木牘の表には「謁 奉高城県令」とある。県令への面会を求めている時に渡す名謁である。
誰から?と県令が木牘を裏返すと、そこには「高城巴恭祖再拝」と
書かれていたのである。それは県令が頭を悩ましている人物の名前だった。
巴肅は自ら県令の元へ出頭して来たのである。
「私を捕縛する命令が来ていると聞きましたので、出頭致しました。」
巴肅は県令にそう告げた。
聞いた県令は、黙って立ち上がると県令の使う印を袋ごとその場に置き、身につけていた県令の綬を解いて横にならべた。
これは辞職し、ここを去る、という意味の所作である。彼は県の誇る巴肅を逮捕するに忍びなかったのである。
巴肅は首を振って県令を止めた。
「謀が露見したからといって、いまさら逃げたり隠れたりするのは人臣として潔くないでしょう。既に私の謀は露見しました。いまさら刑から逃れる気はありません。県令殿が気に病むことではありませんよ」
自首して来た巴肅は丁重に都へ送還された。
彼は北寺獄へ送られた。そして出て来る事はなかったのである。