6 孔融の事
朝の涼やかな庭を、箒で掃き清めていた少年は、弱々しく門を叩く音でその手を止めた。
父が生きていた頃なら誰かしら門生が居て賑わっていたこの家も、今は人影もなく、家長として母を支えている兄は、今朝日の出と共に魯相の史伯時殿の所へ出かけている。
母を守れるのは自分一人、という事を確認した少年は門の内側から外の人物に声を掛けた。
「どなたさまでしょうか。ここは孔文禮の精舎でございますが」
答えはなかった。
少年は意を決し門を少しだけ開いた。
門の外では年の頃五十くらいの男が倒れていた。
髪は乱れ、裾は破れ、足は傷だらけ。頭から爪先まで汗だくだった。
厄介事の予感がした。
男は朦朧とした顔で応えた。
「おお、ここは文禮殿のお宅であったか……」
語尾はひゅうひゅうと喉を鳴らす音に変わり、男は咳込み始めた。、
「み、水を」
少年が椀に水を持ってくると男は咽せながらそれを飲み干した。
ようやく一息つくことができた男が椀を返して言った。
「吾は山陽高平の張元節と申します。文禮殿には以前、孔廟を祀らせて頂いた時にお世話になりました」
少年はその名を聞いて思わず息を飲んだ。知った名であった。
噂から判断するに、張儉殿のこの風体は宦官に追われているのだろう。最早まごうことなき厄介事である。匿うと連座させられるおそれがある。
だが、一息、深く息を吸って吐き終わった時、少年の腹は決まっていた。
「文禮の弟で孔文擧と申します。どうぞ奥へお入りください。」
孔子の子孫として恥ずかしくない士太夫らしい振舞いをしなければならない。
宦官の味方など以ての外である。それで連座する様なら、自分が死ねばいいのである。それが孔子二十世の孫を自認する孔家の次男、孔融文擧十六歳の覚悟であった。
***
張儉を家へ上げた孔融だったが、母にも来客を告げず、一人で接待をすることとした。
青銅の甑に洗った粟を入れ、炉に火に入れる。
戻って来ると張儉は既に体を拭き終わり、兄の袍を来てくつろいでいた。
だが孔融の姿を見ると張儉は威儀を直し、ふかぶかと礼をした。
「助かりました。登竜門に入り込んだ、かの孔文擧殿に助けられるとは、天運を感じます」
孔融は照れて頭を掻いた。
「恥知らずだった童の頃を知られているとは汗顔の至りです。お忘れください」
六年程前の事である。十の童子であった孔融は、洛陽で評判の李膺に会ってみたくなった。
当時の李膺は左校での労働刑を終え、洛陽の自居に戻っており、名声の絶頂で来客引きも切らず。李膺に逢ってもらえる者はそれだけで官界での出世の糸口になる、として登竜門と呼ばれていた。
塀の外をぐるりと逢おうとする者の車が取り巻く程で、当世の有名人か、代々つき合いのある家の者しか逢わないと李膺は言ったという。
そこで孔融は門番に「うちの家は李君と長いつき合いがありますので」そう話した。興味を持った李膺は孔融少年を奥に招いた。
「あいにく私には覚えが無いが、坊やのおじいさんと私は付き合いがあったかな?」
そう李膺が聞くと
「私の先祖の孔子はあなたのご先祖の老子(李老君)と互いに師弟の関係でした。ですのでこの融とあなたは累代の付き合いがあるということになります。」
この答えに李膺はくすりと笑い、客達は感心し言葉も無かった。
皆が孔融の機転を褒めそやしている中に遅れてやって来た太中太夫の陳煒が混ぜっかえした。
「いやいや、騒ぐ程の事ではありません。子供の時賢いからと言って、大人になっても賢いとは限りませんぞ」
少年は即座に答えた。
「とするとあなたは子供の時さぞお賢かったんでしょうねぇ?」
李膺はたまらず大笑して言った。
「坊や……いや、あなたはきっと偉くなるだろう」
人口に膾炙した話なので、今でも士太夫で覚えている人はいるかもしれない。
だが、その後、話題になるような事もなくこの六年を成長し、もうすぐ成人の孔融としては自分が「賢くない大人」になりつつあるんではないかと気が気ではない。この件はそっとしておいて欲しい事柄になりつつあった。
「それにしても不人情な世の中になりました」
続く張儉の言に孔融は愕然とした。
「通りすがりの家という家で、門という門を叩いてお願いしたんですが、文擧殿以外どなたも開けてくれませんでしたよ」
孔融はその言にぎょっとして尋ね返した。
「門という門を……ですか?」
「ええ」
張儉は屈託なく微笑んだ。
それは張儉ここにあり、と世間に示すことではなかろうか?逃げるならもっと慎重に、ひそやかにするものでは?
(元節殿はうかつ過ぎないか)
聞いた人が黙殺してくれればいいが、密告した者がいれば、張儉がどの辺に潜伏しているか宦官達に丸判りではなかろうか?そして残念ながら葉ならぬ魯でも密告者は居るのである。
だが孔融はそこで考えるのを止めた。自分は追われる張元節殿を受け入れると決めたのである。この有名人と運命を共にするなら、それはそれで望む所。普通の大人にはならないで済む、というものであろう。
孔融はまったくの平静で応対を続けた。
幼き俊才と聞いた孔文擧殿は立派な士太夫になっておられた。
さすがは孔子の子孫と褒め、久しぶりの満腹と、久しぶりの安眠とに感謝をして張儉は眠った。
***
張儉の安らぎはけたたましい音で破られた。
張儉は、跳ね起きると、扉を少し開けて外の様子を窺う。
ほんのり東の方が白み始めている。まだ鶏が鳴くよりも早い時間だ。
音は門の方から聞こえて来る。
誰かが門を連打しているのだ。
(追手か?)
張儉は暗い客室の中をぎょろぎょろと見回し、隠れる場所を探す。
「お静かに。ここでお待ちを。私が様子を見て参ります。」
扉の向こうから孔融が声をかける。
だが、孔融が立ち上がるまでもなく、外から男の声が告げる。
「官だ!気を付けろ!もうすぐ官が来るぞ!」
(誰だ?)
孔融が声の主に疑問に思っている間に客室の扉が開き、出てきた張儉は孔融の前で黙って一礼すると、そのまま走り出した。
塀を乗り越え、東へ。東へ向かって。




