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俺解釈三国志  作者: じる
第四話 建寧の獄(建寧二年/169年)
34/173

1 奔走の友


 豫州よしゅう汝南じょなん郡の北、汝陽じょよう県。


 城から離れた郊外に、荘厳と静謐が並ぶ場所があった。


 あでやかに彩色された廟。故人を讃える石碑たち。記念の植樹と苔むした土盛り。誇らしくも静かなこの場所は、この地の豪族の墓所である。


 冬の太陽が照らすその荘厳の間を、旅装の青年が歩いていた。

 だが、彼の纏う空気は墓参のそれではない。喪に服する者の、悲しみにやつれ、杖に支えられた頼りない歩みではない。、青年はまるで戦場を往来するかのように、力強く大地を蹴り、その足は、まだ新しい墓のそばに建てられた粗末な小屋へ迷いなく向かっていた。


 あばら屋の戸に手を掛けた青年は、中から洩れて来る嬌声に一瞬顔をしかめたが、戸を開くことに躊躇は無かった。


 軋む音と共に粗雑な木の扉が開くと、小屋の中に陽の光が差し込む。

 小屋の薄暗い中で舞う埃が、差し込む外光に白く燐く。そしてその奥の暗がりに、男の広い背中と女の白い手足が絡み合い蠕く様が浮かび上がる。


 青年は不機嫌に声を掛ける。


「……本初ほんしょ


 小屋の中の男は、左手を軽く持ち上げ、青年に答える。


「まぁ待て」


 だが男はこちらを振り向く気配もない。行為を止めるつもりがないらしい。


「本初!」


 青年は再度咎めたが、男はそれもものともせず、悠々と事を続けた。


***


 男は、女に身支度をさせながら、自分も粗末な衣に袖を通す。

 これは斬衰、布端を裁ちっぱなしにした喪服であり、肉親の喪に服している者が着るものである。

 女が身支度しているのも、位階は違うもののやはり粗末な喪服であった。


「気をつけてお帰り。元締にも礼を言っておいておくれ」


 銭を余分に握らすと、男は女の尻を軽く叩き、小屋から追い出した。

 そしてずっと無言で待っていた青年に悪びれる風もなく振り向いた。


「……喪に服すのも四年目となると、ヒマでヒマでな」


 顎鬚を掻きながら一応弁解した。


 男は袁紹えんしょう。字を本初という。


 ここ汝陽は、四世三公…四世代に渡り三公を輩出している名門、袁家の本貫地である。袁紹も名門袁家に属している……ただし庶流である。


「体裁くらいは取りつくろってくれ」


 苦い顔の青年は何顒、字を伯求という。


「奥方にバレたら大変だぞ」


 奥方とは袁紹の正室である。劉氏という。


「大丈夫、金の分は口が堅い連中だ。」


 沈黙が流れた。


「……まぁ気付いても許してくれるさ。あれを」


 右手で下腹を丸く象る。


「孕ますわけにもいかんだろう?」


 服喪、というのは儒教における神聖な行ないである。


 父や母が死んだ際、子は襤褸を着て墓の周りの粗末な小屋に住み、食も喉を通らずやせ衰えるほど悲しみ嘆き暮らさなければならない。


 親を失った悲しみに暮れていなければならない期間なのである。快楽に溺れ、子を為すなどあってはならないのである。


 実際、二十年以上もの長い服喪をしている孝行者と評判の趙宣という男が、その服喪期間に五人も子を為していたと発覚して陳蕃に処罰された例もある。

 服喪の期間に落度があると、この称賛は蔑視に変わってしまうのだ。


 この服喪は、周礼の規定では三年行うことになっている。

 当世現実にこれを行なうのはほとんど不可能の為、服喪三年を行なった、というだけでも儒者の世界では大いに名が知られるようになる。

 袁紹は両親の分をまとめて六年分を行おうとしているのだ。目的は売名であるが、別の理由もある。


「慎んでくれ。こんな事からお前が後ろ指をさされてはつまらん」


 何顒としてはそれでも釘を刺さざるを得なかった。


 一拍、間を置いて袁紹が尋ねた。


「何があった?」

「──党錮だ。」


 袁紹にそう答えながら、何顒はあばら屋の土間にするりと腰を降ろした。


「党錮が再開した」


 党錮とは三年前の桓帝の末年に、宦官と士太夫が対立して起きた公職追放事件のことである。

 宦官の讒言によって多くの士太夫が職を追われ、しかも官僚に戻ることができないよう公職停止の処分を受けた。だが公式に言うと、党錮は今上が即位した時の大赦で許されており、追放された者が公職に戻って来ることができるようになっていた。

 したがって形式上は「再開」である。


 だが、陳蕃、竇武の件があって以降、士太夫達は宦官の圧力をひしひしと感じ続けていた。実感としては党錮は続いているように認識されている。


 その言葉への袁紹の反応は片眉を上げただけだった。

 想定していた事態だった。


「事の起こりは張元節殿だ」


 張儉、字は元節。八及の一人、つまり太學で尊敬された儒者である。


「では侯覽の讒言か」


 張儉の名声は宦官の侯覽との対立によるものだ。


 四年程前の話である。張儉は山陽さんよう郡太守の翟超の要請で故郷山陽の督郵となった。むろん、侯覽ら宦官の一族を取り締まる為である。


 侯覽の故郷は山陽郡防東県であり、ここには侯覽の母が住んでいた。この母は息子の威を借り、下僕や賓客を使ってやりたい放題の有り様であった。


 張儉はその状況を確認すると、この親子を誅するよう上表した。


 上表は帝に届く前に侯覽の知る所となり、握りつぶされ、桓帝の目に触れる事はなかった。だが張儉は宦官に対抗する勇気を尊敬され、八及に挙げられるようになった。

 なにしろ党錮の禁の最中の出来事である。蛮勇とすら言っていい。当然この事で侯覽は張儉に怨みを持つようになった。


 これが袁紹の知る張儉と侯覽の一件である。何顒は新しい情報を持っていた。


「この前侯覽の母親が死んだ」


 侯覽は母の為に巨大な墓を造営させたのだという。


 張儉はそれを告発した。


 『侯覽は貪欲で奢侈にして、他人から奪った家が三百八十一箇所、奪った田は百十八頃の広さ。第宅は六箇所に十軒もあり、皆高楼と池苑がございます。堂閣は見晴らし良く、美しく丹漆で絵が描かれていて、度を越えていてまるで宮殿のようでございます。また作っている墓は、石室に望楼が二つ、庇の高さは百尺もあり、他人の住居や墳墓を壊し、近隣住民を脅して作らせています。なにとぞこの罪を誅されたく』


 と。


 あきれ顔で袁紹は言った。


「お上に届くわけ無いだろう、そんなもの」

「ああ、訴状は宦官に止められたらしい」

「どうして君側の奸を相手に正規の手続きで対応しようとするのかね?」

「まだ続きがある」


 洛陽の士太夫からの連絡で、自分の意見が握りつぶされたと知った張儉は侯覽の邸宅を破壊し、財産を没収した。


「ああ、そういうやり方は好みだな……恐れを知らな過ぎるが。で、反撃されたと」


 朱並しゅへいという男が居る。同じ山陽人で、高名な張儉に軽視されているのを怨んでいた。

 朱並は侯覽と結託し「張儉は同郷の者二十四人で徒党を組んで反乱を企てた」と讒言したのである。


「二十四人?」

「ああ、山陽の八俊八顧八及だ」


 そう言って何顒は幅広の木牘を差し出す。

 袁紹はそれを眺める。


 木牘には八人ずつが三行、二十四人の本貫地と姓名が記されていた。


 洛陽の太學生達が、尊敬する儒者を三君八俊八顧八及八厨と分類したため、各地でも同様に地域の儒者を評し合う風習が流行していたのである。


「知れた名は劉景升くらいか……フン」


 袁紹は六年喪の行いで売名を行なっている最中だが、自分自身は儒者がこういった事で名声を求めたがることを馬鹿にしている。その気分が伝わり、何顒は顔をしかめる。


「彼らの名は石碑に刻まれ、帝は捕縄を命じられた。」


 石碑に名のある面々は全国に手配され、捕まったらその名は石碑から削られる。これは全国への指名手配を意味する。


「で、張元節はどうなった?」

「話を聞いてすぐに馬を飛ばしてここまで来た。山陽へ話が伝わる前に陳から梁へ抜ければ、出し抜けよう」


 何顒は官の使者より先に走って張儉を助けようというのである。

 考え込む袁紹に何顒は続けた。


「話はこれだけではない。大長秋の曹節がこの流れに便乗した。気に食わぬ儒者を捕まえては北寺獄に放り込んでいる。既に劉淑殿が捕まったと聞いた」

「劉淑殿がか?」


 劉淑は陳蕃、竇武と並び、太學で尊敬された三君の一人である。


「……判った」


 袁紹の答えは、決意に満ちたものだった。


「党錮から無辜の士太夫を救うため、俺達『奔走の友』は動こう」


 袁紹は四年前、前回の党錮の禁が始まった時に帰郷して母の喪に服した。これは売名の意味もあるが、もう一つ世を欺く為でもある。


 党錮の禁により、公職を追放され、あるいは罪に落された儒者が居る。袁紹は彼らの救済や逃亡補助を行う為に結社を組んだ。

 結社の名は『奔走の友』。内々にはそう呼んでいる。

 汝陽に居て動かぬ袁紹は、各地の同志と連絡し、それを為しているのであった。


 何顒はその回答にほっと顔を綻ばせた。


「では俺は急ぎ山陽に向かう」


 そう言うと袁紹の手にある木牘を受け取ろうと手を伸ばした。

 袁紹は木牘を引いて何顒の手をひらりと躱した。

 空振りした何顒が怪訝な顔で聞いた。


「どういうつもりだ?」


 袁紹が木牘を振りながら言った。


「伯求、こいつは他の奴にやらせる。卿は急いで都へ戻れ」

「何故?」

「田舎の二十四人より、都の士太夫の方が大事だからだ。今回の弾圧が前回の党錮の様に禁錮だけで済むか判らん。もしかすると坑儒の事態になるかもしれん」


 山陽より都を優先する、という考えは何顒には無かった。だが考えてみればその通りである。


「判った。都へ戻って、出来ることを精一杯することにしよう」


 何顒はそう言って立ち上がったが、思い出したように聞いた。


「山陽へは誰が?」

「許子遠に何人か付けて手分けさせる。二十四人も居るからな」


 袁紹の答えに何顒は眉を顰めた。


 許攸きょゆう、字は子遠しえん。荊州南陽郡の出身であるが、平民の子である。

 親が流民として隣の汝南へ流れ、袁家の私有地で小作人となった。

 許攸少年はその縁で袁紹と知り合い、その利発さを認められ、奔走の友に加えられたのである。


「大丈夫か?あの子供で」


 許攸は奔走の友の中で信頼されていたわけではない。

 処世がこすからい平民の子供、そういう風に見られていた。


「あいつにも機会を与えてやりたい。駄目かね?」


 苦笑しながら袁紹の顔は答えた。


「やさしい事だ」


 何顒はそれを袁紹の仁の心の現れと見倣した。


 何顒が出立した後、するりと小屋に入って来た影が有った。

 にきび跡も生々しい青年、許攸である。


「嫌われてるなぁ俺」

「働きで見返せばいい」


 そう言って袁紹は小さな皮袋を放り投げた。

 受け止めた許攸の手が袋のずしりとした重みに少し下がる。


「軍資金だ。成功したら小遣いをやるからこいつは懐に収めるなよ」


 銀であった。元々は奔走の友の同志で、八厨でもある邈が袁紹に提供したものである。袁家でも庶流の袁紹には自身の資金力はない。


「判ってるよ。竹簡にある奴らを逃せばいいんだろう?」

「ああ。ただ、張儉に関しては頼みがある。」


 自分がしたくない汚れ仕事をさせる。その為に袁紹はこの若者を飼っている。



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