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俺解釈三国志  作者: じる
第三話 陳竇の事(永康二年/168)
33/167

9 陳竇被誅

 竇武らは大将軍府に集まり、まずは最初の一人を誰にするか相談した。


「長樂尚書の鄭駱ていらくがよろしいかと存じます」


 山冰が提案した。長樂尚書は皇太后の長樂宮の中で文書を取り扱う役職である。


「あれは狡猾で悪い奴ですので」

「なるほど。長樂尚書ならば様々な上表の取り扱いをしている。怪しい情報を握ってもいよう」


 陳蕃は同意した。尚書の重要性を熟知している皆も同意する。


「黄門令だけでは訴状が書けないでしょう。勲も北寺獄に行きます」


 尹勲が同行した。


 これが後に陳竇之事、と呼ばれる政変のはじまりだった。


***


「どういうつもりかな?山黄門令」


 紹介したい人物が居る、という伝言で内宮から出て来た鄭駱は、おそらく誰かの頼み事を聞き、賄賂をがっぽりと稼げるだろう、そんな風に軽く考えていた。まさか門を出たところで突然、後ろから羽交い締めにされるとは思ってもいなかった。


「すまん。聞きたいことがあるんでな」


 山冰が軽い口調で告げた。だが山冰が鄭駱を見る目は死人に対する冷たさだった。


 鄭駱が暴れるが、後ろから押え込んでいるのは侍御史の祝档しゅくしんである。宦官の貧弱な筋力ではびくともしない。尹勲が手伝うまでもなかった。


 呼び出しにうかうかと出て来た自分を悔やむ鄭駱だが、そもそも宦官に口利きをしてもらおうと呼び出す士太夫は数多あっても、宦官を悪意でハメようとする者はこれまで居なかったのだ。想定外の出来事である。せめてもの反撃で罵声を浴びせる。


「山冰!裏切ったか?!」

「うるさい。これでも食ってろ」


 山冰が縄で作った轡を噛ませる。


「黄門北寺へ連行する」


 もごもごと暴れる鄭駱を引きずりながら山冰は思う。


(帝が子供なのがいかんのだよ!)


 先帝……孝桓皇帝劉志は、色を好む皇帝だった。

 後宮に収容する女官が六千人。彼女らを管理するために宦官組織も肥大化した。


 しかし、桓帝の死後、後宮は急速に縮小していっている。

 女官達の、ある者は実家に帰され、ある者は嫁に出されと、人数が減らされていっているのだ。


 新帝の劉宏は元服前の子供で、後宮をまだ必要としていない。このままだと宦官組織も縮小されるのは間違いない。


 曹節ら上層部が既得権益を駆使して残留するだろう。

 人数が減れば役職も減るのに、上は残留するのだ。山冰が出世する見込みはもはやないといっていい。放逐すらもありえないことではない。


(駱よ、知っているか?内宮を逐われた宦官は辛いぞ)


 山冰にとってはここが乗り換え時であった。これからの自分の取り分が少しでも多くなるように。


***


 黄門北寺獄は宦官の運営する牢獄である。


 黄門令の山冰が来るのは判る。宦官で、その官職であれば。だが、獄吏達は山冰が士太夫を引き連れて来たので驚いた。連行されて来たのが宦官の鄭駱だったので仰天した。


 獄吏の中黄門が尹勲の行く手を遮った。


「ここは我ら宦者の差配する場所。内宮と同じとお考えください。どうぞお帰りを」


 答える代わりに祝档が中黄門を刺殺した。宦官達がどよめいた。

 尹勲が低い声で脅した。


「山黄門令に許可を頂いている。従わぬ者は斬る!」


 そういうと牢に鄭駱を放り込んだ。


 黄門令が尋問するのである。北寺獄での尋問が形式上必要だ。陳蕃らはそう考えたのである。


 山冰が鄭駱を拷問する。鄭駱が苦しい息で漏らした情報を尹勲がまとめ、告発状を書く。


 大将軍府で待つ陳蕃は竇武に進言した。


「鄭駱のような奴は尋問後すぐに殺すべきですぞ。逃げ出す余地を与えてはならん!」


 竇武はそこまではと思い、従わなかった。皇帝の裁可を受けないで死刑はどうなのか、という常識がそれを阻んだ。


 日が傾き始めた頃、祝档が竹簡を携えて大将軍府へ戻って来た。

 むろん、北寺獄の山冰、尹勲から宦官達の告発状である。そこには非常に膨大な着服の一覧が書かれていた。

 曹節、王甫はもちろん、下級の宦官達まで一網打尽にできる内容である。


 竇武は両手を叩いて喜んだ。


「よし、これで曹節も王甫もおしまいだ」


 罪があれば、訴え殺すことができる。それが皇太后との約定であった。


 この尹勲の告発状を皇太后に提出する。読んで頂けるかどうかは問題ではない。提出しておくことが肝要である。


 読んで頂けたのなら、竇武は約定通りであると言い張る事が出来る。読んで頂けてないのなら、皇太后は上書を宦官共が握りつぶしている事をお知り頂けるだろう。


 今、上書を提出すれば明日の朝議で読み上げられる。それが皇太后陛下の前で読み上げられた後、宦官達の一斉検挙を行う。


 同義上も形式上も非のうちどころがない、完璧な計画である。ここまで逃げ場を与えぬ告発であれば宦官共も従容として縄に服するだろう。いや、それでも見苦しく立ち回るだろうか?明日の朝が楽しみだ。


「明日は洛陽宮の大掃除。大丈夫たるの本懐じゃな」


***


 尹勲の上書は夕方に尚書台に提出された。尚書はそれを南宮の長樂宮の中書に届けた。夕方のため、実際の奏上は明日の朝になる。それまでこの上書は黒い布に包まれ、封がされたまま、読み上げられるのを待つことになる。


 陳蕃は自宅に戻り、竇武は大将軍府で朝を待つ事にした。その暢気さが仇となった。


 中書、というのは宦官による書類管理の組織である。中書が明日の朝に上書があることを長樂五官史の朱瑀しゅうに伝え、退所した。


 長樂五官史は宦官による長樂宮の宿衛である。


 誰も居なくなった暗い中書の部屋で、朱瑀は置いてある封書の封を切り、こっそりと中身を盗み読んだ。そこで得た情報を売るのが彼の役得であった。


 薄暗い中書の部屋で、苦労して竹簡を読み進むうち、朱瑀は思わず「あっ」と声を出した。


 鄭駱が捕まり、様々な悪事を吐いて告発されている。そこにある告発は、数多く、自分も含まれている。こうやって竹簡を覗き見している事が長樂尚書にばれていたのである。

 朱瑀は激怒して言った。


「宦官に手前勝手な奴が居たとしても、そりゃそいつだけの問題だろ?なんで俺にまで罪が着せられる?族滅の目に遭う程の理由なぞないぞ!」


 朱瑀は自分が法を枉げた事は業務に伴う当然の役得であり、罪を問われるようなものだとは思っていない。

 豪華な第を国家の費用で立てさせている中常侍などは誅されて当然だが、自分達は無罪に等しい。そう信じている。

 さらに問題なのは同じ宦官の山冰が敵に回っていることだ。しかも奴は黄門令である。


(奴を倒さねば、皆が倒される)


 腹をくくった。そして叫んだ。


「陳蕃と竇武が皇太后に今上を廃せよと上奏しているぞ!大逆だ!」


 でまかせである。だが本気だった。夕暮れに沈む長樂宮の外を走り回り、夜番から同心を集めた。


 従官史の共普きょうふ張亮ちょうりょう、中黄門の王尊おうそん、長樂謁者の騰是とうぜら十七人が集まった。


 夜更けに集まった宦官を見回すと、朱瑀は自分達は順帝を輔けた十九人の宦官と同じである、そういう錯覚を抱いた。自分の動機が保身にあって、皇帝擁立などという志がないことは棚に上げていた。


 朱瑀は叫んだ。


「誓いだ!誓いを立てよう!」


 明堂に集まった一同は二の腕に傷を付け、互いの血をすすって誓った。


「竇氏の無道を皇帝が誅せます様、皇天よ!お輔け願います!どうか必ず成功し天下が平和になりますように!」


 朱瑀は感極まって叫び、皆は復唱した。


 我々は今から大将軍府に突入し、悪辣な外戚の竇武を暗殺するのだ。


 どうしてか、そういう使命感と悲壮感に酔っていた。


 息巻いている所に、中常侍の曹節がやって来た。騒ぎに乗らなかった他の宦官が知らせたのである。


「なにがあった?」


 曹節はいらついた目で朱瑀を見た。中常侍の来訪である。朱瑀はその場に平伏し上書を差し出した。


「……」


 曹節の手が奮えた。


 同じ宦官の山冰が裏切り、鄭駱を北寺獄に収監した。宦官の犯罪を列挙して皇太后に訴えようとしている。


(竇武らが仕掛けてきた。だが詰めが甘い)


 こんな所で漏洩させるとは。


(これは奇貨とすべきだ。いろいろ前倒しとしよう!)


 竇武が決定的なことを仕掛けてきたのである。対決は避けられない。外戚と対決するのであれば竇太后とも対決しなければならない。かつての先達と同じく、皇太后や外戚と戦い、皇帝を勝たせるのだ。

 竇武には無かった成り振り構わぬ覚悟が曹節には有った。


「朱五官史。これ以上騒ぐな。そして何者も長樂宮に出入りさせるな」


 そういうと立ち上がった。


「……皇太后陛下にも気付かせてはならん。アレはもう敵だ」


 そう言い残し、食監の王甫の所へ走った。


(王甫を連れて北宮へ走ろう。北寺獄で奴は役に立つ)


 なにより優先させるべきは皇帝の身柄を確保することである。


***


「陛下。差し迫った事態です。前殿までお出ましを!」


 劉宏は、寝端を起こされ、しかも緊急事態を告げられ、少し混乱した。


 いつも側で優しい張讓と趙忠でなく、皇太后付の曹節が起こしたのも不思議だった。


「何があったの?」

「城内で反乱が起きました」


 遅れてやって来た張讓と趙忠が曹節と何か話をして真っ青な顔になり、劉宏の側にぴたりと貼付いた。何か有ったら身代りになる決意が劉宏に伝わる。それで本当に緊急事態が起きているのだと実感できた。


 曹節の指示で配下の中黄門達がばたばたと駆け出す。しばらくして乳母の趙嬈が自分の第からやってきた。


「坊ちゃん、オラがお護りしますで」


 周囲の忙ただしい中で少年皇帝は曹節に尋ねた。


「えっと、朕、はなにをすればいい?」

「この剣をお持ちください。そして……」


 曹節に話を聞いた新帝は快諾した。


「面白い!やる!」


 儀礼用に履く美々しい宝剣を持った劉宏が徳陽殿の前殿に踊り出る。前殿の階の高みに駆け上がると、宦官達が松明を持ち出し、劉宏を照らす。


 劉宏は剣を抜くと、徳陽殿にやって来た衛兵達、通り掛かった官僚を剣の先で差し、剣を右に左に動かして言った。


「そこな者。そこに整列し待機せよ!そして朕の護りとなれ」


 驚いた事に、屈強な大人達が子供の自分の言うことを聞き、整列を始めたのである。


(あっ!楽しい〜)


 劉宏ははじめて自分に権力がある、という実感を得たのである。


**


 曹節は懇意にしている…つまり弱味を握っている尚書を呼び出した。


 尚書は汗だくであった。全力で走ってきたからである。そして前殿で帝が剣を振り回しでたらめに指図しているのを見て言葉を失っていた。曹節は剣を抜くと尚書のほほに当てた。


「いくつか詔を書いてもらおう」


 松明を持った宦官達が取り囲み、ゆらぐ明りに照らされながらその尚書は詔を書いた。筆跡は震えていた。曹節は一番最初の詔を受け取ると、王甫に放り投げた。


「王食監。いまから貴殿は黄門令だ。北寺獄へ行ってもらう。誰か黄門令に節を!」


 王甫はニタリと笑って答えた。


「任せてください。なぁに、古巣です」


 王甫は食監の前は北寺獄の獄監であり知己が多い。車に飛び乗ると北へ向かった。

 そして次々と詔が書かれ、密書と勅書が飛び交った。禁門は閉ざされた。夜はまだ明けそうもない。


***


「勅である。山冰よ。汝を黄門令から解任する」


 北寺獄の奥の牢の中、山冰と尹勲の足元に鄭駱がぐにゃりと転がっている。

 相当殴られたのであろう。顔は腫れ上がり、背中も赤く裂け血が流れていた。


 他の獄監から話を聞いた王甫は、迷わず鄭駱の監禁された牢に突入し、二人の逮捕を告げる詔を読み上げた。


 尹勲は王甫が尺一を広げるのを見ると反射的に直立し詔を聞いた。


「──尹勲、山冰よ。両名は黄門北寺獄にて次の沙汰を待て」


 だが山冰は全く信じていなかった。


「おい王甫。お前のような奴が黄門令に除されるわけがなかろう。ましてや節だと?その尺一、本物かどうか確かめさせろ」

「ははは。見るがいい。陛下の六璽も押されているのをな」


 王甫はそう言うと尺一の詔を開いたまま山冰に向けかざした。


 山冰がそれを読もうと身を乗り出した瞬間、


「がっ!」


 尺一の竹簡が山冰の顔面を叩き、鼻柱に激痛をもたらした。

 王甫が尺一で山冰を突いたのである。


 思わず顔を押え蹲った山冰の首に王甫は左手を伸ばし、左脇に抱え込んだ。そして体を右に勢いよく捻った。ゴキリ、という音と共に山冰は痙攣し、ぐにゃりとなって地面に崩おれた。


 山冰の体が汚れた床に転がされるのを見て尹勲はだまされたことを識った。


 尹勲は刀で抜き打ちに斬り掛かろうと踏み込んだ瞬間、前につんのめり倒れた。鄭駱が出した足が尹勲の足に絡んでいた。


 素早く駆け寄って来た王甫の沓が尹勲の首の根を蹴り、尹勲は気絶した。


「鄭前黄門令をお助けしろ!」


 王甫は宮刑を受ける前は強盗が生業だった。死罪からの罪一等の減刑の為に宮刑を受け、宦官となった。荒事への慣れから王甫の経歴は北寺獄の獄吏から開始していた。人を殺すくらいでは心にさざ波も立たなかった。


 連れ出された鄭駱は拷問の跡も生々しい傷だらけの姿だった。


「竇武に復讐させてやるぞ」


 王甫はそうささやいて節を渡した。鄭駱の口角がわずかに吊り上がった。


「六璽だ」


 鄭駱はしわがれ声でつぶやいた。拷問に叫びすぎて咽がやられていた。


「六璽の無い詔では駄目だ」


 王甫はうなずくと鄭駱を北寺獄から担ぎだし、車に乗せた。行き先は長樂宮。複道を渡り南宮である。


 南宮の長樂宮は王甫の本来の職場である。王甫と鄭駱は長樂宮の中を堂々と胸を張って歩いた。抜剣すると皇太后の部屋へ突入する。


「陛下。反逆の疑いで身柄を拘束させていただきます」


 食監の時のへつらいは一切無い口調だった。


 いつも近侍していた場所である。何がどこにあるか良く知っていた。探すまでもなく、王甫は六璽を奪った。この時点で竇太后は権力者でなくなった。ただのかよわいだけの女であった。


「竇武は北宮だ。この六璽で勅書を作り直すぞ」


 中謁者に命じ、南宮の全ての門を閉じさせ、複道を戻り、北宮に戻った。複道を通り終えると、全ての通行を差し止めるよう命令した。王甫の命令で南宮の門を閉じさせる為に伝令が走り回った。


 その騒ぎで長樂少府に居た李膺がようやく異変に気付いた。


 長樂少府を出た李膺は長樂宮の全ての門の警戒体制が平時のそれではないことを知った。長樂宮へ走ると、閉じた門に向かい叫んだ。


「皇太后陛下に申し上げたい用件が有る。謁者をここへ!」


 門からは物音ひとつし無かった。

 駆け回ってさまざまな門を開門させようとした。だが、応じる者はない。


(状況が判らん。まずは北宮へ移るか)


 だが、複道も完全に臨戦体制で門を閉鎖している。


(何が起こっている……?)


 外へも出れない。北宮へも移れない。全ての門が閉ざされている。自身の手兵を持たない李膺には既に何もできることがなかった。


***


「逆賊竇武よ。汝を大将軍から解任し、大逆の疑いで逮捕する。疾く出頭しお縄に付け」


 大将軍府にいた全員がそれを聞いて怪訝な顔になった。


 明日朝からの捕物をどうするかを練っていた竇武の耳にも、そのがらがら声は届いた。


「いたずらか?」

「大将軍が大逆とは、どういう冗談だ?」


 だが、その声は同じ内容を繰り返した。見に行った者が転がりながら戻って来て叫んだ。


「そ、外を侍御史やら謁者やらが囲んでいます」


 竇武は信じられない思いで外を伺った。


 青あざを作った宦官が尺一を読み上げていた。


「あれは?」


 顔を知っている者が答えた。


「鄭駱です」


 空気が冷えた。

 捕まえた筈の宦官がここにいる。事が成らなかった。ようやくそれが飲みこめた。


 誰かがつぶやいた。


「ここで捕まったらまずいですな」


 おそらく偽勅であろう。娘が父を手に掛けるわけがない。だが宦官の手に落ちたら真偽など確かめる前に殺されることは必定である。


「突破しよう。甥の所へ行く」


 竇武は決断した。抜刀し、全員一丸となって大将軍府を飛び出す。


 宦官や侍御史らの寄せ集め集団は反撃が来る覚悟が出来ていなかった。やすやすと突破を許した。


 一行は洛陽宮の宿営五営の一つ、歩兵屯営に駆け込んだ。甥の竇紹は歩兵校尉である。


「すまん、紹。わしは失敗したらしい」


 まだ何も終わっていない。叔父が謝罪するのは気が早すぎる、甥はそう思い答えた。


「この事態を考えて叔父貴は俺を歩兵校尉にしたんでしょうよ」


 鄭駱は歩兵営の門前に陣取ると、またも同じ事を叫び始めた。


「逆賊竇武よ。汝を大将軍から解任し、大逆の疑いで逮捕する。疾く出頭しお縄に付け。庇うものは罪を問う」


 歩兵営の兵士に動揺が走り始める。


「逆……


 鄭駱の胸に矢が突き立ち、声はやんだ。鄭駱はそのままあおむけに倒れ、今度は宦官側に動揺が走った。


「あれでも自称勅使なんだぞ、なんてことを」

「ああいうのにぺらぺら喋らせちゃ駄目だぜ、叔父貴」


 甥の竇紹は構えていた弩を降ろして続けた。


「叔父貴、このままおとなしく殺される気はねぇんだろ?じゃぁ命令してくれよ。クソ共をぶっ殺してこいってな!」


 確かにそうだった。向こうが殺しに来ているのに、おとなしくしていてもなんら事態が改善しない。

 竇武は大将軍として五営へ命令した。


「黄門常侍どもが反乱した。力を尽くしたものは侯へ封じ重く賞を与えるぞ」


 言ってから、大将軍として始めて軍事的な命令を下した事に気付いた。


 竇紹は部下の歩兵営から洛陽宮を守る北軍五営の残り四つ、屯騎、越騎、長水、射声の

 各校尉に伝令を送る。


 最初に兵を率いてやって来たのは屯騎営を率いる屯騎校尉の馮述である。もともとは洛陽宮制圧の為に任命した人物であるから当然ではある。


 竇武の元へ北軍五校の士が続々と合流して来る。数千人の規模にふくれ上がって行く。


***


 洛陽城の全ての城門が閉鎖された、という情報が門下生達によって城下の陳蕃へ伝えられた。


 むろん、城門というのは夜は閉じるものであるが、尚書や伝令などの緊急の通行の余地はあるものである。今回はそれのない、完全な戒厳体制である。


 このことから、城内でなにか事件が始まった、と言うことを陳蕃は知った。だが、具体的な事件の詳細が判らない。


 明日の朝から宦官達の逮捕劇が始まる筈だった。

 それがこうも騒ぎになっているのだから、企みが露見したのだ、という事だろう。竇武が無事なのかそうでないのかも判らない。


「行ってみるしかあるまい」


 陳蕃は北宮の東明門へ向かった。門下生や属官らが続く。


 東明門は完全武装の兵達が守備しており、完全に臨戦体制であった。だが

 それに怖じる陳蕃ではない。


「太傳の陳仲舉である。喫近の用があり参内する!開門せよ!」


 大音声で呼ばわった。


「勅命により、何びとたりともここを通せませぬ」


 東明司馬が回答する。


「開門せよ。太傳を通さぬ宮門が有るか!」


 印綬を示しながら再度命じた。


「皇帝陛下の命です。太傳とあれど通せませぬ。七宮門全て同じ命令を受けております!」


 東明司馬が片手を上げると、兵達は戟をこちらに向けて構えた。


 門兵と陳蕃の門下生の間で睨み合いになる。


 だが、肝心の陳蕃は東明司馬の言葉に衝撃を受け、呆然としていた。


(帝の勅命だと?皇太后でなく?)


 これで皇太后と外戚に対し帝と宦官が攻撃を加えていると察しがついた。


(今の帝にそんな御意志がおありの筈がない)


 いずれ起こる事とは思っていた。だが、そういった事態は帝の成人後に、皇太后が政権を移さないことで不満に思ってから発生する。即位して1年にも満たない、まだ十三の少年が志すことではない。


(宦官どもめ!)


 宦官共が宦官側の都合で帝を担ぎ上げたに違いない。我々に逮捕されたくない、そんなつまらないことで政変を起こしたのだ。


 陳蕃にはそこまで推察できた。


 しかし、何か行なえる事があるかというと、なかったのである。


***


 鄭駱が射殺された事に続き、同じ北宮の歩兵営で竇武が兵を集めていると言う情報が曹節の元へ届いた。


(まずい。これはまずい)


 互いに監察権を行使して粛正しあう、そういう宮廷の暗闘だと思っていた。

 だがこれでは内戦ではないか。

 粛正や暗殺なら自信はあるが、戦争の仕方など想像もつかない。


(今、竇武の兵が徳陽殿に乗り込んで来たらどうにもならん!)


 曹節はうろたえながら徳陽殿前殿を眺めた。


 若い皇帝が汗をかきかき剣を振り回し、兵を整列させている。

 帝の「努力」のおかげで数にして千に届かぬ程の兵士が集まって来ていた。だが率いる人間が居ない。


 脇に控える尚書に向かい、詔を書かせた。

 書き終わるとすぐに、尚書はそれを読み上げる。


「周少府よ。汝に車騎将軍を兼任させ節を加える。賊徒を殲滅せよ」


 丸投げである。自分に処理できない問題は他人に処理させるに限る。


 周靖は宦官に癒着し少府の位についた男で、彼ならば裏切る恐れはなかった。なにより、帝の号令で整列している中、すぐそこに立っている。


「え?自分?自分がですか?」


 周靖の驚きで目がまんまるになる。


「靖にはその任に耐える才がございません!」


 周靖は伏して叫んだ。明らかに自信がない声である。


(やってもらわないと困る!)


 曹節は尚書をこづき、もう一度詔を音読させる。


「周少府よ。汝に仮の車騎将軍を兼任させ、節を加える。賊徒を殲滅せよ」

「いや、決して謙遜ではございませんで!」


 周靖の苦渋の叫びに、曹節は三たびの任命をさせるか迷う。


 どこかから声が上がった。


「なぜ張度遼をお呼びにならないのです」


 野太い声であった。


 徳陽殿のざわめきが止まり、一瞬の静寂が訪れる。


「おお」


 皆が口々に感嘆し、曹節と周靖の顔が明るくなる。


「今、声を上げてくださったのはどなたか?」


 周靖が探したが、応えるものは居なかった。


***


 その頃、竇武は立てこもっている歩兵営に、思いも寄らぬ客人を迎えていた。


「やあやあ、楽しそうですな。混ざりに来ました」


 河間の劉儵である。


「泰山は?」


 劉儵は泰山太守に除された筈である。

 まさか洛陽に居るとは思わず、竇武は驚いて尋ねた。


「病で辞退しました」

「なぜここに?」

「ここんとこの人事で今日明日にも宦官捕縛に動くと読めましたのでね、夕方大将軍府をお尋ねしたんですよ。でも既に荒事になっていて驚きました。包囲が弱まるまで待って、ここへ入らせていただいた次第で」

「物好きにも白刃を踏みに来られましたか」


 竇武はこの青年が加胆してくれる理由が理解できなかった。

 勝ち馬に乗りに来たか?ぐらいに思った。竇武は宦官に対する自分の勝利を毛程も疑っていない。


「自分は助命嘆願に参ったのですよ」

「誰の?」

「むろん、帝のです」


 当り前の事のように劉儵は答えた。


「帝?……誰が今上を害し奉るというんだ?」

「いや、あなたですよ大将軍閣下。ここの兵力で徳陽殿に突入したら、帝のお命が危ないですから」

「変な事を言わんでくれ!そんな大それたことするわけがないだろう!」


 突然弑逆者に擬せられた竇武の顔にあきらかな恐怖が浮かんだ。


「しないんですか?」

「するものか!!」


 必死の体で竇武は否定した。


「しないんですか……」


(しないと敗けると思うんですがね)


 今この瞬間竇武にはまだ勝機がある。が、時間は敵であり、いずれ勝ち目が無くなる、劉儵のそう見立てていた。

 だが、それには触れず、劉儵は答えた。


「大将軍のご立派な志、承りました。自分が推薦させて頂いた帝ですから、責任を感じていたんですが……少し肩の荷が降りました」


***


 朝日が昇る。だが、洛陽宮の外門は開かない。


「太傳殿!」


 東明門の前で開門をじっと待つしか無い陳蕃の元に、何顒が合流した。


「ご自宅でこことお聞きしました。いったい何が起こっているんです?」


 青年は朝、出仕しようとして外門を通れず、異変に気付いてここまで来たという。


 陳蕃は東明門を睨み、門の向こうにある北宮に向かって言った。


「おそらく、この中で大将軍が宦官共が戦っておいでだ」

「えぇ?」

「今朝の朝議で宦官共を弾劾し捕縛する予定だったのだが……露見したのだろう」


 それを聞いた何顒の顔が悲痛に歪んだ。陳蕃には、何故何顒が顔を歪めたのかは判らなかった。


「元禮君の所へ行ってくれぬか?彼も自宅に戻っておらん。大将軍と合流したのか、それとも長樂少府にまだ居るのかもわからん。開門と同時に長樂少府においでかを確認してもらいたい」

「お任せください!」


 何顒は南宮の方へ向かい、走り出した。


(今日の謀りごとに、この一大事に俺は加えてもらえなかった……)


 その残念さに、目に涙を浮かべながら。


***


 空がうっすらと明るくなり始めた。


 自ら斥候に行った竇紹が戻って来た。


「宦官連中の兵が寄せて来やがった」


 そして竇武に笑って言った。


「あれっぽっちなら一瞬で蹴散らせるぜ」


 宦官側の兵は朱爵門付近に密集して停止していた。実数は千にも満たないだろう。そしてその雑多な陣容。虎賁羽林はいいとして、御者や衛尉の都侯や剣戟士。完全に寄せ集めである。


 こちらは北軍五営をそのまま手中にして兵力は三倍以上である。敗ける道理が無かった。


 だが、竇紹が見逃したことがある。


 朱爵門が僅かに開いて、一人の老将が宮城に入場した事。そして王甫がその将に兵力を委ねた事を、である。


 宦官の軍は朱爵門から静かに動き出し、歩兵営にたどり着いた。

 竇武の軍も宿営から出、門前に展開していた。


 北宮の建物の間、という地形の制約から正面の幅は狭い。

 だがそれだけに竇武の陣の重厚さは圧倒的だった。

 兵力が多い、という厚みの差と正規編成という美麗さが、兵士達にも自信を与えていた。


 正面の兵と兵が割れ、その間から王甫が数人の供と前に進み出た。


(舌戦をしようというか、宦官風情がこの竇武に?)


 学識が違いすぎるだろうに。


(だが、望むところ)


 竇武も前に進み出る。


 合戦の前に自身の戦の正当性を主張しあう舌戦は、その勝敗が双方の士気を大きく揺るがす。

 ただでさえ少数よせ集めの宦官軍なぞ竇武の舌先三寸次第で士気崩壊し四分五裂するだろう。戦わずしての勝利すらすら期待できた。


 王甫が先に大声を上げた。


「竇武は道を外れた謀反人である」


 こういった場合の常套句である。本気にする者はいない。


「兵達よ、汝らはみな禁軍ではないか?宮省に宿衛するものが何ゆえ謀反人に従うのか?」


 兵士達に籠っていた熱気が急速に冷めるのを竇武は感じた。

 おかしい。こんな雑な揺さぶりで兵士が動揺する筈が無い。


 兵達が口ぐちにつぶやく言葉が竇武の耳に刺さった。


(張度遼だ……)

(……張度遼が居るぞ)


 竇武の目に、王甫の後ろに立つ人物がようやく像を結んだ。

 鷹の目付きの老将がそこに立っていた。


 度遼将軍張奐。涼州三明の一角。


 実戦経験の無い外戚の大将軍と歴戦の度遼将軍。「どちらが頼もしいか」など兵達にとっては比べるまでもなかった。


 竇武の目にも味方の兵の腰が引け、後ずさったのが判った。


 王甫がとくいげに続けた。


「先に降伏したものには恩賞が有るぞ!」


 ガシャン、ガシャン……


 戟の放り落ちる音が響く。

 張奐が一瞥しただけで北軍五営の士気は崩壊した。


「叔父貴、駄目だ!ここは後退しよう」


 反論する隙すら与えられなかった竇武は立ちすくんでいたが、竇紹に手を引かれ、その場を脱出した。甥の気丈さがありがたかった。


 竇武の兵は四散し、それを吸収した張奐の軍が数千に膨れ上がって竇武ら一行を追った。


 脱出しようにも宮門は閉ざされ、城門司馬達が防備している。


「城門を突破するぜ」


 竇紹は進言したが、竇武は首を横に振った。何の罪もない城門司馬達を傷つけるに忍び無かった。


「ち」


 竇紹は舌打ちしたが、残った身内の手勢だけで蹴散らせるか自分でも自信が無かった。


 だが宮城内に逃げ場はない。


 一行は宮城の建物の間へ追い詰められた。

 刀を構え、一同が包囲に対抗する。その包囲の中、同行していた劉儵は竇武に肩を並べる位置に移動し、声を掛けた。


「河間の劉儵は悪辣な宦官共を誅すべく反乱を起こした竇大将軍に味方した。これは歴史に名が残りますかね?」

「反乱?わしが反乱を起こしたと?」


 竇武は反乱と言う言葉に衝撃を受け、驚愕の表情となった。劉儵は竇武の顔からその認識が無いことに逆に少し驚いた。


「自分は大将軍だぞ?幼帝の祖父だぞ?国の最高権力者じゃないか。それが宦官共を誅そうとしただけだ。どうしてそれが反乱になるのかね……?」


 そこまで言ってから、竇武はやっと大事なことを見落としていたことに気付いた。


「なるほどそうか。大将軍で、皇太后陛下の父で、恐れ多いが御幼少の今上よりも上に居る、私は漢家の最高権力者と思っていた。だが、違ったのだな」


 竇武は寂しそうに笑って続けた。


「玉を掴んだ宦官共からしてみれば大将軍風情など吹けば飛ぶ。奴らに反乱するにしては、覚悟も準備も足りなかった。これは自業自得か」


 少なくとも皇帝を手中に収めてから事を起こすべきだったのだ。そうすれば宦官の権力は夢散していた筈だから。

 劉儵が徳陽殿への突入を示唆していた事の意味がやっと判った。


「まぁ結果的にはそうですがまさか宦官が張度遼をひっぱり出して来るとは思いも寄りませんでしたよ」


 劉儵の軽口は慰めのつもりである。


「自分の名が残るかはともかく、これは歴史に残るでしょう。なにせ位人臣を極める大将軍が起こした反乱ですからな。これより高位の反乱なぞもはや帝自身にしか起こせないのではないですかな?」

「馬鹿げた話だ。帝御自身が反乱するなど百年経っても起きるわけがなかろう……少し時間を稼いでくれるかね?」

「承知。ではおさらばですな」


 劉儵の答えを聞くと、竇武は小刀を抜き、大将軍の金印を取り出した。

 小刀を不器用に使い、金印の角を削ると、削り屑を飲み、しばらくして竇武は死んだ。

 劉儵は竇武の死を見守ると自身の刀を喉に当てた。


(すまんな少年。引っ張り出しておいて最後まで見守れなかった)


 包囲網の中、一門は次々と自刃し、竇一族は全滅した。


***


 宮城の門の高楼から、張奐とその軍勢が竇武達を自殺に追い込むのを一人の郎中が腕組みし眺めていた。巨漢だった。不遜な態度だった。


 男は小声でつぶやいた。


「張度遼。これであんたも終わりだ。宦官の手先になったあんたを士太夫達は二度と尊敬すまい。この戦いは勝っても敗けても名声を失う。病気とでも称して家に居るのが最善だったんだが、あんたはそういう政治の判らん奴だからな」


 その声は、徳陽殿で張奐を迎えるよう進言したものと同じだった。男は巨体をゆすると階下へ消えて行った。


***


 一夜が明け、昼も近いころ、ようやく東明門が開いた。


「勅命で開門を許されました」


 東明司馬がすまなさそうに陳蕃に言った。



 陳蕃の一行が入った宮城内は荒れた雰囲気が漂っていた。


 目的も無げにうろつく兵士に、陳蕃は尋ねた。


「何があった!?」

「大将軍が非道にも帝に反乱を起こし、鎮圧され自殺しました」


 陳蕃は一瞬凍り付いたが、兵士に詳しく聞いた。


 反乱を疑われた竇武は北軍五営を招集し、宿営に立て籠った。朝から宦官軍と対戦になり、張度遼に敗れ、自殺したと言う。


「游平殿、あなたは優しすぎたのだ」


 そして正当性に拘りすぎた。正義が正義だから勝つと思いすぎた。夜のうちに徳陽殿に雪崩込み、宦官共を斬り殺すべきだった。


(いや、まだ遅くない)


 今なら宦官を殺せる。帝を押えて今回の出来事を正当化できる。


 陳蕃は刀を抜き八十人以上の同行者を引き連れ、承明門から徳陽殿に乱入した。


 前庭の向こう、徳陽殿に少年皇帝の姿が見えた。少年は恐怖に引きつり、青ざめている様に見える。その左右には宦官達が侍っていた。

 だが、承明門から徳陽殿までの間、徳陽殿の前庭は整列した虎賁が埋め尽くし待ち構えていた。陳蕃の動きは宦官の予想する所だったのだ。


 陳蕃は悔しさに叫んだ。


「大将軍はその忠誠で国を衛ろうとなされた。貴様ら黄門(宦官)こそ反逆者ではないか!なぜ竇氏一門が道を外れたと言われねばならん!」


 王甫が出て来て陳蕃に相対した。


「竇武はなんの功績があって一門を列侯してもらったんだ?宮女を下げ渡され美食を楽しみ旬月の間に億の財を費しただけではないか。先帝がお隠れになってまだ陵も完成していないのに、大臣がこのていたらくでなにが道だ。貴様は漢家の棟領となった竇武に阿っただけではないか。いまさら俺らを賊呼ばわりするな!」


 陳蕃は反論しようとして言葉に詰まった。


 竇武のとりえが清廉さだけであること、それが外戚になって失われつつあったことを、思い出してしまったからである。


 反駁しようとした瞬間、王甫が虎賁に命令した。


「捕まえろ!」


 虎賁が前進する。


「近寄るな!」


 陳蕃は刀を振り回し、威嚇した。


 虎賁は戸惑った。殺せ、という命令の方がよほど簡単だったのに。虎賁の兵たちは仕方無く陳蕃らを十重二十重に取り囲んだ。


 陳蕃は八十近い老人である。徹夜もしてからここに来ている。しばらくは剣を振り回していたが緊張と疲労ですぐに力尽き、剣を落した。動揺した一党は統率が乱れ、素手の虎賁らによって逮捕された。


***


「連絡役の書生が信用できないので李少府までこの件から外されたのでしょうか?」


 何顒は悲しい顔でつぶやいた。


「私も知らされていなかった。卿のせいではない」


 李膺は首を振って否定した。李膺は何顒を全面的に信じ、連絡役として信頼していた。


 だがその答えに何顒の表情はむしろ翳った。


「私が頼まれていたのは、長樂少府として宦官共を厳しく監督しろということだけだ。二人が宦官を誅滅するつもりなのは判ってはいた」


 長樂少府として、事前の調査と事後の処理が李膺の役目ではあった。

 だが、事前に知らされなかったということでは李膺は何顒となんら変わらない。何顒の感じる屈辱も寂しさも理解できた。


「いつかと、いうのは事前に知る必要のないことだったが、昨夜だったとはな。だがな、陰謀は完遂するまで知る人が少なければ少ない程いい。太傳殿を恨むなよ」


 同志の離反、使用人や妻妾経由の漏洩で潰えた陰謀は数知れない。陳蕃の処置もまた、李膺には理解できた。

 

 李膺は立ち上がると、戸口で外を確かめた。


 外門も、複道も既に解放されている。


「我々は失敗した。それだけの事だ」


 李膺の結論である。


 北宮との連絡が断たれていたのは北宮で政変があったということ。

 連絡を断ったのが帝の勅命であり、長樂宮の謁者に面会できないのは皇太后が失脚したということ。もしかすると殺されている可能性もある。

 そしてそれらが解放されたと言うことは閉鎖の必要が無くなったという事だ。


「伯求君」


 呼ばれた何顒は跳ねるように立ち上がった。


「太傳殿と合流なさいますか?」


 何顒がずっと考えていたのはそれである。


「いや、もう無意味だろう。それより頼みが有る」


 陳蕃の一行も逮捕されていると見るべきだ。李膺は彼との合流に意味を見出せなかった。


「おそらく宦官の命で侍御史が私を逮捕に来る」


 何顒は頷いた。覚悟を決めた顔だった。


「卿にはここから、洛陽から逃げてもらいたい」

「え?……ここでご一緒させてください!」


 何顒は陳蕃、そして李膺と命運を共にするつもりだった。李膺はかぶりを振って否定した。


「私も罪に当たるならきちんと服すつもりではあるが、わざわざ罪を増やす必要はない。卿が私と陳太傳の間を行き来していたのは知る人は知っていよう。卿がもし宦官の手に落ちたなら、宦官は君を拷殺し、君が自白したとして重い罪状を私になすりつけるだろう。宦官の思いどおりになるのはつまらないと思わないか?」


 李膺は微笑むと、手の甲でぽんっと何顒の肩を叩いた。


「宦官の手に落ちないように逃げてくれないか?茨の道だとは思うが……」


 ほんの僅かの間で逡巡を終え、何顒は立ち上がった。


「おさらばです」


 そして戸口から飛び出した。


 李膺はそれを見送ると、長樂少府の座へ座った。

 何が来ても受け入れよう。士太夫らしい見苦しくない死が李膺の望むものだった。


***


「ぐっ!」


 陳蕃は呻き、汚物のこびり付く拷問室の床を転がった。


 陳蕃が送られたのはここ、黄門北寺獄である。

 黄門従官は手荒だった。老人の腹を足蹴にすることに躊躇しなかった。


 苦悶にのたうつ老人の脇に黄門従官はしゃがみ、後ろから陳蕃の髷をわし掴んで顔を無理矢理持ち上げさせた。

 無理な姿勢で陳蕃の首と背に痛みが走り、息ができない。


「死ねよクソ爺ぃ」


 黄門従官は耳元で囁いた。


「よくも俺らの仲間を殺ってくれたな。お高くついたって事を判らせてやるよ」


 陳蕃はその日のうちに殺された。


***


 翌日。皇太后無しに行われた新帝初めての朝議の席で、曹節は渋い顔で言った。


「手温うございますな。再発を防止するにはさらなる極刑が必要です」


 宦官にも、士太夫達にも、事後処理の事であると判った。


 首謀者である竇武と陳蕃は死に、既に竇武の首は都亭にさらされている。

 洛陽城内で実行犯であった竇武の一味はことごとく自殺した。

 竇太后も長樂宮から引きずり出され、雲台内に幽閉された。

 竇太后が存命なのに配慮し、竇武の家族は処刑を免れ、日南郡ベトナムへ流刑となる。

 陳蕃の家族も同様に日南郡送りである。

 陳蕃の門下生、賓客達も共謀したと見なされ、禁錮の処分が決まった。


 共謀者の尹勲は気絶から醒めると絶望し自殺した。

 劉祐は勝手に職を辞し帰国した。追っ手を出す必要がある。


 問題は竇武の他の親族、賓客達、馮述、劉瑜とその一族の処分である。


 皇帝劉宏は震える声でつぶやいた。


「節の言うようにし……せよ」


 少年は門から突入して来た一団の事が忘れられなかった。

 きらめく白刃。老人の顔に浮かぶ憎悪。

 虎賁の兵達が守ってくれていたとは言え、少年にとっては初めての命のやりとりだった。二度とこんな目に遭いたくは無かったし、その為ならば関係者を極刑に処すのが皇帝の「ふつう」であると趙忠と張讓が教えてくれた。


 士太夫の誰かが言った。


「三族の棄市が適当かと」


 三族は親、子、兄弟。棄市は首を斬り市に晒す事である。

 だが曹節は頷かなかった。


「大逆である以上、それは当然。帝はそれでは手温いと言っておる。誰か知恵のあるものはおらぬか?」


 朝議の場は沈黙に包まれた。


(なるほど)


 郎中達の居る末席で董卓は思った。


(士太夫達自身に士太夫の処刑を決めさせることで、心をへし折りに来たか)


 曹節は誰がどんな表情をしているかをゆっくりと観察している。

 董卓にはそう見えた。悪目立ちしたくないので表情を殺し、静かにやりすごすことにした。


 ……重苦しい沈黙が続いた。


 誰もが曹節が諦め時間切れになることを願っていた。

 だが曹節は静かに士太夫を見回すだけで、諦める気配が無い。

 沈黙が心臓にのし掛かり、士太夫の顔が青ざめていく。


 静かな声が沈黙を破った。


「発言をお許しいただけますでしょうか?」


 自分に近い、議郎の席からの声だった。董卓はその声の主を思わず凝視した。線の細い若者だった。


「東漢になってから廃れていますが夷三族(三族をつぶす)という刑が有ります」


 士太夫達がざわめく。「馬鹿!」「黙れ」という声もした。

 曹節が尋ねた。


「夷三族?聞かぬ刑罰だが?」

「三族に対し、げいはなきり斬左趾ざんさし斬右趾ざんうしを順に行い、最後に笞殺ちさつします。その後刎ねた首を市に晒します。それが夷三族です」


 再び沈黙が訪れた。その残忍さに息を飲んだのである。


 黥は顔に犯罪者の証として顔に刺青を入れる事、

 劓は刀で鼻を削ぐ事,

 斬左趾は左足首を切断する事、

 斬右趾は右足首を切断する事、

 笞殺は棒で殴り殺す事。


 これらは一つ一つで重大な肉刑だが、それを親子兄弟すべてに対し順に一つずつ実行するというのである。


 さすがの内容に曹節は少し上ずった声で答えた。


「なる……ほど。それはいい見せしめになりそうですな」


 多くの士太夫が怒りと恐怖の視線をその若者に注いでいた。董卓も若者の顔を眺めたが、若者の顔は平穏そのもので、残忍な意見をしたにも関わらず悪意も気負いも見られなかった。


「献策に帝より褒美が頂けよう。卿のお名前は?」

「問われた故に答えたまでです。李儒と申します」


***


「なんとか、あるべき所に収まったな」


 曹節は言った。皇帝を奉じて皇太后と外戚を排除する。それは宦官達にとって「いつかはやらねばならぬ事」だった。


「こんなに早いとは思わなかったが」


 王甫が答えた。皇帝が成人し皇太后の後見を外すべきでは、という世論が形成されるまで、事を為すのは難しいと考えていた。


「これで何事もやりやすくなる」


 侯覽は言った。


 競争相手である外戚がいなくなったのである。普段なら苦言を呈する士太夫達も完全に萎縮している。これで宦官は思いのままに土地を、民を、貪れる。彼ら宦官には民に対する遠慮も、情けも、全く無かった。


「あとは皇帝陛下を僕達好みにお育てするだけだね」


 趙忠は笑った。相手は無知な十二才の少年である。良導する役目の太傳も殺した。あとは士太夫の良識に感染しないようにお育てせねばならない。


「心残りはあるが、まぁいずれ」


 張讓は無表情に言った。


 あの後、李膺は長樂少府を辞した。

 竇武の反乱に参加したわけでも、荷担した証拠も出なかった為、李膺を処罰することはできなかった。連絡役を務めていたと思しき士太夫はどこかに消え失せてしまった。


 張讓としては無論ここで殺してしまいたかったが、誰かが弁護に入った時に今上が助命してしまったらもともこもない。今上の仕上りをそこまで過信できなかった。


「もっと悔しがるかと思っていたよ」

「いずれ機会は作れる。我々はもっともっと、強くなるのだから」


 無実の人間を讒言で殺すのはまだまだ難しい。だが、もう邪魔者はいない。我ら宦官にはいずれ不可能はなくなる。そういった時代の到来を張讓は肌で感じていた。


***


 竇武と陳蕃は死んだ。


 二人に従った士太夫達も、死ぬか、禁錮されるか、どこかへ逃げ出した。


 旅の空ですべてを聞いた郭泰はふらりと野に出た。


 風が吹いていた。草が揺らいでいた。洛陽は遠かった。


 郭泰は大声を上げて泣いた。


「人のここに亡び、国々はことごとく衰退する」


 更に声を張り上げて哭した。


「烏を瞻てここに止まるは、誰が屋にか」


 志有る士太夫が死んで国が滅ぶ。民はどこに行けばいいのだろうか?


 そういう批判と取れなくもなかった。


 だが、どちらも詩経の大雅、小雅の一文である。


 ただ、詩を暗唱しただけである。

 ただ、泣いただけである。


 宦官達は郭泰を罰することはできなかった。


(了)


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