7 日食
「……なんと甚大な被害か」
阿母による人事介入の報告を読んで陳蕃は頭を抱えた。
新しく県令になりかわった者達は、着任早々各県で苛斂誅求を行なっていた。
租税を着服するもの、不正な租税を追加するもの。地元の有力者を脅し金品を巻き上げるもの、穀物相場に圧力を掛け百姓から絞りとるもの。それら全てを行なうもの。彼らは阿母や宦官に贈った賄賂を回収するために早速権限の悪用を開始したのである。
司隷の近隣の県での被害が、訴えあるいは噂あるいは太學有志からの情報として陳蕃の元へ集まって来た。
本来こういった不正を追及する筈の司隷校尉や州の刺史も萎縮し、郡太守、県令の不正を弾劾できないでいる。どういう報復を受けるか知れたものでないからだ。
赴任自体に時間を要する遠方諸州に不埓者が県令として着任すれば、目の届かないところでどれだけの暴虐が行なわれるか想像したくもない。
(元禮殿を司隷校尉に戻したほうが良かったか?)
司隷校尉が弱腰では悪人共がのさばってしまう。
(いや。締めつけで解決できるなら、元禮殿が司隷校尉や河南尹だった時にケリがついている。根幹を叩かねばならんのだ)
陳蕃が懊悩している中、太史より「五月朔日に日食が起きる見込み」という報告があった。
通例、太史寮が日食や月食を予報すると、朝廷は戒厳令を含む様々な用意を行ない、不測の事態に備える。その慌ただしい動きの中で、陳蕃は竇武を呼び止めた。
「大将軍殿」
手招きで誘い、庭へ出た。どこで宦官に阿る者が聞いているか判らなかったからである。
「日食の日だがな、皇太后陛下がお出ましになる筈だ」
日食は皇帝と三公への、天からの譴責である。日が陰るのに天子が人前に顔を出さない、ということはありえない。
通例では天子が素服で現れる筈だが、今回の場合は竇太后が素服で出られる筈である。
「なるほど。絶好の機会だな」
竇武は答えた。確実に会える機会を利用し、大将軍かつ父である立場から竇太后に圧力を掛けて欲しい、そう言っていると理解できたからである。
「西漢の昔の蕭望之を覚えておいでか?宦官の石顯に陥られ、自殺に追い込まれた。今や李膺殿や杜密殿だけでなく、その家族にすら災いが及んでいると聞く。今や石顯が数十人居る様な状態といっていい」
陳蕃は回りを見回し、小声で続けた。
「この蕃めが齢八十で願うのは将軍に降り掛かる害を除くこと。今なら日食にかこつけ、天の怒りは宦官共が皇太后陛下に阿っている為。排して天変を塞ぐと言い張れましょう。阿母の趙婦人らは朝から晩まで皇太后にあることないこと吹き込んでいます。急ぎどうにかせねば将軍の御為になりませんぞ」
外戚と宦官は対立する定めである。そして常に宦官が勝利者だった。座したままでいれば、竇武は滅ぶ。陳蕃は自分の身を半ば案じ、半ば脅している。竇武はそう感じた。
父が娘に命令する。たったそれだけの事の難しさに竇武は呻いた。
***
五月朔日。東北東の空を昇ろうとする太陽を、皇太后、皇帝、三公、百官らが静かに見つめた。無論、陳蕃もその中に居た。じりじりと昇る太陽を見つめながら、日食が起きるのを待っていた。
太史寮の日食予報は時に外れる事がある。もし非食という結果に終わったら日食にこと寄せられない。祈る気持ちで陳蕃は目を細めて水平線を睨んだ。
突然太鼓が打ち鳴らされ、太史令が叫んだ。
「只今食がございました」
下端が僅かに掛けたとのだという。陳蕃には変化があったようには思えなかったが、日食は日食である。
竇太后の詔を尚書が読み上げる。
「天が日食で政の不備を示された。それを正す為に以下を行え。
一、公卿より下のものは封事(密封した意見書)を提出するように。
一、郡太守、国相は正しい行ないをする者を一名推薦せよ。
一、元刺史、元二千石(の高官)で過去業務の恩恵で民衆が心を寄せているものを
公車で参集させるよう」
無論、この詔は陳蕃が立案し、事前に伝えておいたものである。
百官は平伏し拝聴した。
「皇太后陛下。大将軍竇武が、恐れながら日食への施策をもう一つ申し上げたい」
静かで厳かな儀礼の流れを、突如竇武が断ち切った。
「そもそも宦官というものは後宮での給仕や財物の管理などの雑役夫に過ぎませぬ。昨今、奴らを政治に使い、重い権限を与えた為、その子弟らは列を為して貪欲と横暴をほしいままにし、天下は匈匈としております。正しいありかたに立ち戻るため、宦官共を悉く誅廃してください。これで朝廷は清まりましょう」
父の言葉に娘は口籠った。そもそもそんなすぐに答えを出せる機転は竇太后にはないのである。
管霸がそっと近付き、耳元でささやいた。その助け舟にようやく竇太后は口を開き、管霸に囁き返した。
管霸と蘇康は顔を見合わせて微笑んで言った。
「竇太后陛下のお答えである。謹聴せよ」
管霸が竇武に取り次いだ。竇武と百官達は直立不動で竇太后の言葉を聞く。
「漢家は始まって以来ずっと宦官と共にあります。罪が有るならば誅す事はあってよいでしょう。しかし全て廃しつくせなど、できることでありません。……皇太后はそう仰せである」
口を出したのは長樂少府の李膺であった。
「では、そこに居る管霸と蘇康を両名を汚職の罪で告発します。証拠も既に揃っております」
管霸はまさか矛先が自分に返って来るとは思わず、驚きに凍り付いた。自身満々の李膺の顔を見て蘇康も狼狽した。
竇太后はちらりと管霸と蘇康に目をやった。
管霸と蘇康は縋る目で竇太后を見返した。二人から視線を李膺に戻すと竇太后は直答した。
「許します」
竇太后は桓帝崩御直後に女官達の殺戮を試みたが、管霸と蘇康に諌められてやめさせられたのを忘れていなかったのである。
「待ってくれ!」
叫んだ二人を侍御史がひっ立てて行った。
(李膺めの手配か。ではあの二人が戻って来ることはないな)
張讓はそう思った。同情心は浮かばなかった。




