3 風角
李膺を讒する為に、宦官達は李膺の業績を洗い出し始めた。むろん宦官が出向いてその足で調べるわけではない。買収と恐喝で、記録を集めたのである。
この数ヵ月の司隷校尉の活動の記録は驚く程膨大だった。そこここに竹簡や木牘が山を成した。
「仕事熱心な司隷校尉とははた迷惑な」
曹節がぼやく。
宦官達は手分けしてそれを読み始めた。
驚いたことに、些細な罪で多数の官民が処刑されていた。皇帝に報告もせず、許可も得ずに。対象は宦官とその関係者だけではなかった。
竹簡を広げ繰る音、木牘が束ねられる音が部屋に響く。
「酷吏、という奴だなこいつは」
蘇康がつぶやきは張讓の耳には届かない。張讓は一心不乱に簡牘を読み進めていた。
***
数日後。
牢脩という者から司隷校尉李膺を告発する訴えが皇帝劉志の元へ届いた。無論、尚書を飛ばして張讓が提出したのである。
「牢脩とは何者か?」
帝は張讓に下問した。
「河内の張成の弟子の一人でございます。一年以上前ですが、張成は陛下のご尊顔を拝し奉り、畏れ多くも風角についての話で陛下の御耳を汚した事がございます」
河内の張成は占いの名手、と評判の男であった。占いの術を学ぼうとする弟子達、占ってもらおうという客で張成の家には行列ができた。
張成は話術が巧みで、そして野心家だった。彼から頼まれ、宦官達はそれぞれに張成の占いが的中する凄さ、そしてその人柄を褒め讃え、皇帝劉志の耳に入れた。むろん謝礼を受け取ってのことである。
宦官達の運動の結果、張成は参内して皇帝を占う、という栄誉に与った。
「ああ、覚えておるぞ。あの男の占いはよう当たったな」
皇帝を前にしての張成の占いは的中した。
むろん宦官達が的中するように手を回したのである。皇帝に評価された占い師として張成の名はますます高まった。
「……して、なぜその弟子が李膺を訴える?」
「李膺めは罪なき張成を処刑したからでございます」
「処刑……?張成がか。法に反したのであれば司隷校尉が罪を問うのは役儀であろう。だが罪無き、というのはいかなる根拠が有っての言か?」
「張成の息子が去年誤って殺人を犯しております。しかしながら、陛下の恩徳に与り、大赦を受けたのでございます。李膺めはその子を逮捕し、父張成をも連座させ、親子共々殺してしまったのでございます」
張成の住む温県の県令は彼の成功を妬み、占いに裏が有るのではないかと嗅ぎ回った。張成からの相談を受け、宦官達は直近予定されている大赦の情報を漏洩してやった。それを受け張成の息子は温県の県令を刺殺。子は逮捕されたが、すぐに大赦を受け解放された。去年の三月の事である。
張成の息子の殺人と大赦は、李膺が司隷校尉になる前の話である。
「朕の大赦を無視しおった、と?……」
大赦を受けた以上、罪は既に免じられている。だが李膺はこの件を蒸し返し、張成親子を逮捕し殺したのである。
皇帝の手は堅く握り締められ、みるみる血の気が引いていった。
「左様でございます。越権でございます。僭越でございます。しかも牢脩の訴えには続きがございます」
「申せ」
張讓は更に煽った。
「李膺らは、かように陛下を軽視した上、太學に遊士を養い、学生らと徒党を組んで朝廷を誹り風俗を乱しております……何かあっても太學の徒党が運動し、また、仲間内で庇いあう態勢を作っております。その様な背後あっての暴挙と言うことになりましょうか」
太學は洛陽郊外にある、儒者の育成機関である。
施氏易、孟氏易、梁丘氏易、京氏易、の四博士。
歐陽尚書、大夏侯氏尚書、小夏侯氏尚書、の三博士。
魯詩、齊詩、韓氏詩、の三博士。
大戴氏礼、小戴氏礼、の二博士。
公羊嚴春秋、顏氏春秋、の二博士。
十四人の儒学博士が国家の諮問を受けつつ、弟子を育成する。
だが、太學には所属すると徭役を免除される特典がある事から、年々学生はふくれ上がり、数万とも言われる学生たちを相手に十四博士の手は廻らなくなっていた。今やそこは、儒者達が交流し、人脈を作り、そして政治活動を行なう場と変貌していた。
朝廷の人事や懲罰に関して、気に食わぬ事があると彼らは大挙して城門に押しかけ、抗議行動をするようになっていた。
『天下の模楷は李元禮、強きを畏れず陳仲舉、天下の俊秀王叔茂』、
彼ら学生は、自分達の先達として李膺、陳蕃、王暢を称揚した。これらが李膺達を崇める士太夫の結社の様に朝廷の目には映っていた。
劉邦とその一党を始祖とする漢家は、結社の恐ろしさを知り、警戒していた。西漢の頃は三人以上で酒を飲む、という事が犯罪とされていたくらいである。
結論だけいうと、やはり漢家は結社を許さなかった。
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理解できない。字の上を目が滑べる。内容が頭に入って来ない。老眼で字が読めなくなったか?
最初はそう思った。目をしばたいてから、もう一度読み直した。やっと内容を呑み込めた瞬間、陳蕃は手に持った竹簡をあやうく取り落とすところだった。
その竹簡には、李膺、杜密、范滂等の有名な士太夫の名前がずらりと並び、それらの面々を逮捕し、罪を自白させよ、との命令が書かれていた。内容からして明らかに宦官の陰謀であろう。
宦官は後宮内の存在であり、彼ら自身が李膺を逮捕に行くわけではない。当然、通常通り司直がその任に当たる。漢家の行政は、皇帝の命令を三公が受け、九卿の各部署が分担に応じて処理して行く。皇帝の怒りは行政文書となり、通常の事務処理に乗って三公の元にくだされたのである。
「この竹簡に挙げられているのは皆、海内で誉れのある者達ばかりではないか。国を憂い公に忠を尽くす臣たち。彼らの業績ならば十代先の子孫まで罪を赦免されて然るべきほどの者達だ」
震える手で陳蕃はもう一度内容を吟味した。
「いかなる罪なのかすら書かれていないではないか!にも関わらず、身柄を拘束し自ら罪状を白させようだと?この様な命令には署名いたしかねる!」
そういってそれ以降の処理を拒否したのである。
話は命令を発した皇帝に届き、彼の怒りはますます激しくなった。
「太尉を抜かして話を進めるがよい」
皇帝直々に三公を飛ばし、九卿に処理させるよう命じたのである。この圧力に抗しえる部署はなかった。
洛陽城下の士太夫達は連行され、地方にも早馬が走った。逃げるものには懸賞金が掛けられた。
その結果、二百人以上の士太夫が連行され、黃門北寺獄へ繋がれることになった。
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洛陽北宮、黃門署が管轄する黃門北寺獄は、宦官達が管理する監獄である。
元は黃門署の北に位置する役所、黃門北寺敷地内の小さな牢獄であり、内宮で起きた宦官の不始末を取り調べる場所であった。
ここに士太夫が収容されるようになったのは六年前の延熹三年、李雲が送られたのが始まりである。
李雲は梁冀を誅殺するに功のあった宦官の單超らを批判し、帝の激怒により、黃門北寺獄に収容された。司隷校尉の差配する洛陽獄に収容された場合は尋問に手心が加えられると帝が判断され、決められたのだ。
それ以来、黃門北寺獄は増築を繰り返され、規模を広げて来た。
だが、二百人を超える士太夫の収容は北寺獄の能力を超えていた。牢は増築に増築を重ね、二階、三階と上に伸びていった。
だが、収容を優先するあまり、取り調べの為の空間も、人員も不足していた。無論、取り調べ、というのは拷問を意味する。
これは士太夫達にとっては僅かな救いだったかもしれない。
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范滂は牢屋の床に転がされ呻いた。全身が軋むように痛い。
不自然な、苦しい姿勢を強制され、蹴られ、殴られた。
冤罪の確信があった。自白に値する思い当たることは范滂の胸に一切なかった。
先程まで自分を殴っていた宦官が、格子の向こうから声を掛けてきた。
「ここに繋がれた者は皆、皋陶とやらに祈っていたぜ。あんたもそうしたら?」
そういってニヤニヤ笑った。
范滂はのろのろと姿勢を正すと答えた。
「皋陶様は堯舜の時代の賢者で、公平な裁判の象徴だ。私は自分に罪が無いと知っている。だが帝からは罪有る者の如く扱われている。公平な裁判が望めないのに皋陶に祈る益なぞあるまい」
その態度に宦官は腹が立ったのか、また殴られることになった。
范滂、字は孟博。汝南太守となった南陽の宗資の功曹として郡の行政を取り仕切り、「汝南太守は范孟博、南陽宗資はうなずくだけ」とまで評判になった士太夫である。無論、汝南の地では多くの悪を弾劾してきた。
だが自分が悪とされるとはこの日まで思ってはいなかった。
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捕まったのは洛陽の士太夫だけではない。
南陽太守の成瑨と太原太守の劉質も都へ召喚された。
成瑨は、南陽郡の太守に着任するにあたり、地元の有名人を抜擢した。
岑晊である。
岑晊、字は公孝。
彼の働きは目覚しく「南陽太守は岑公孝、弘農成瑨は座っているだけ」とまで言われたものである。
岑晊は中賊曹に張牧を抜擢し、治安維持を任せた。宦官勢力の横暴を厳しく取り締まったのである。
南陽郡宛県に、細工物を作る張汎という男が居た。
張汎は中々に腕の立つ細工職人で、彼の細工は屋敷を飾り立てたい宦官らに人気が有り、その結果彼は宦官に複数の知己を得ることになった。更に上を目指す張汎は、宦官に礼物を捧げ、娘を帝の美人にすることにまで成功した。それにより爵位と食邑を得た張汎は、食邑の住民を縦横……ほしいまま、そしてよこしまに取り扱ったのである。
成瑨は張汎を罰しようと捕まえたが、ちょうどその時大赦があり、張汎の罪は許されてしまった。だが、成瑨の功曹である岑晊は止まらなかったのである。
岑晊は大赦を無視し、張牧に命じて張汎を誅させた。それだけでなく張汎の宗族、賓客を二百人以上誅したのである。
経緯を聞いた侯覽は、それをそのまま帝の耳に入れるのではなく、張汎の妻に命じ、張汎は冤罪で殺されたとの訴状を出させた。
話を聞いて怒りに震えた皇帝により成瑨は洛陽へ召喚されたのである。岑晊と張牧は逃亡し、行方は判らなくなった。
同様の事で太原太守の劉質が獄に繋がれた。
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「私を黃門北寺へ連れて行ってもらえんかな?」
そう言って洛陽の城門に出頭した士太夫が居た。
陳寔、字は仲弓。豫州頴川郡は許の人である。
貧しい家の出だった陳寔は、役場の厠番、という微賎な身から出発し、学問への渇望を県令に見出され、太學で勉強させてもらった。
県令までしか出世せず、都の高官になった事はないが、任地では彼の公平で明解な政治は歓迎され、その名は轟いた。その結果、李膺、苟淑らと「師であり友である」という関係を築いた。異色の士太夫である。
李膺と師友の彼が捕まらない筈がない。
次々と士太夫が捕まる中、多くの知己がそう考え、逃げることを勧めていた。
だが、彼は
「私が獄に行かなきゃ、皆寂しいだろうから」
そう言うと飄々と洛陽城に出頭したのである。




