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俺解釈三国志  作者: じる
第二話 党人を錮ぐ(延熹九年/166)
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2 畏李校尉

2 畏李校尉


 洛陽宮の奥、男子禁制の長秋宮に、名だたる宦官たちが集まっていた。


 管霸かんは蘇康そこう曹節そうせつ侯覽こうらんら中常侍達と、小黃門の趙忠ちょうちゅう。そして張讓じょうじょう。長楽食監の王甫おうほ


「今日、集まってもらったのは他でもない」


 まず最初に口を開いたのは切れ者として知られる管霸。彼と蘇康の影響力は宮中の下々の宦官達に行き渡り、今では全宦官の取りまとめと目されている。


「司隷校尉の李膺をどうするかだ」


 名だたる、というのは「漢家の内宮に巣食い、利を貪る」という意味で、である。清忠として知られる呂強ろきょうなぞ呼ばれもしなかった。


「……張小黃門、話してくれ」


 張讓は、弟の顛末を改めて説明した。


***


 あの夜、李膺は張讓の第に乱入し、柱に隠れていた弟の張朔を逮捕し、洛陽獄に連行した。洛陽獄は河南尹と司隷校尉の管理する牢獄であり、張讓の人脈の及ぶ場所ではない。


 帝にすがろうにも張讓は休沐で自宅にいる。夜間に私用で宮城に戻るわけにはいかなかった。仕方なく張讓は朝を待ち、日の出とともに出仕して帝に直訴し、弟を解放させるつもりだった。


 だが、朝日が昇ろうとする前に弟張朔は帰って来た。物言わぬ死体となって、である。


 張讓はひとしきり泣いた後、帝の元に走り、赤く腫れた目で李膺の非道を訴えた。


 司隷校尉は犯罪者を断罪し、死刑を宣告する権限がある。

 それは確かなのだが、死刑の執行自体には帝の裁可を頂き、更にその年の冬まで待ってから執行するのが定めである。

 李膺のやり方はこのしきたりを無視するものだった。実際には形骸化しつつあるが、これが漢の法だった。


 帝はすぐに李膺を呼び出して詰問してくれた。


 呼び出された李膺は堂々と自分の行ないを正当化した。帝の右に控えていた張讓はそれを聞いて髪が逆立った。自分を抑えるのに多大な努力が必要だった。


 今思い出しただけで張讓は腸が煮える思いがする。李膺はぬけぬけとこう言ったのだ。


「昔、孔子は魯の司寇となって七日目に悪人少正卯を誅しました。今、臣は司隷校尉になって十日も掛かりましたことが罪にならないか畏れております」


 帝は張讓に振り返ってこう言った。


「どうやら悪いのは汝の弟の方らしい。司隷のどこに過ちが有る?」


***


「弟さんの事、残念だった」


 そう慰めてくれたのは趙忠であった。趙忠は張讓が幼い頃から親しくしている同僚である。だが張讓にとっては弟の死よりも帝の発言の方がよほど衝撃だった。


「……帝はもっと我らの側に立って頂けると思っていた。あの狂犬を叱ってくださると思っていた」


 張讓は弱々しくつぶやいた。


 我々宦官は帝と一心同体である。である以上、帝も理を枉げて宦官の味方をしてくれる。そうではないとおかしい。

 情で理が枉がらないなら、学識も度量も腕力も実績も劣る宦官が、士太夫に勝てる道理が無いではないか。


「この件で我々内官は萎縮している」


 蘇康が言った。


「先日の事だ。帝から御下問があった」


 蘇康は自分が帝に随行していた日の事を話しだした。


***


「臭いな」


 皇帝劉志のつぶやきに、周囲が凍った。


 劉志は皇帝らしからぬしぐさ……眉根を寄せ、鼻をひくつかせてあたりを見回し、ひとしきり臭いを嗅いだ後、宦官達に向かって言った。


「お前達、臭いぞ」


 その場の宦官達が一斉にひれ伏した。その時一同を差配していた蘇康は恐縮し、


「御不快な思い申し訳ございません。香を徹底させます」


 そう叫ぶと叩頭……平伏したまま地面に頭を叩きつけて謝罪した。


 宦官は宮刑を受け男性器を切断された者たちである。宮刑を別名腐刑とも呼ばれ、傷口が腐った臭いをさせるという。宦官たちはそれぞれ衣に香を焚きしめていた。


 だが帝の気色は直らなかった。


「何故髪を洗わぬ?」


 蘇康は平伏の姿勢のまま顔をこわばらせた。


 宮仕えの者は休沐といい五日毎に休みが与えられる。家に帰って髪を洗い、身だしなみを整える為である。だが、多くの宦官が休沐の日に自宅に戻っていない。それゆえ宦官達はうす汚れているのだ。


 周囲の宦官達が叩頭し泣きながら口々に答えた。


「李校尉が恐いのです!」


 洛陽宮を出て自宅へ帰る道で、司隷校尉の李膺に捕まるかもしれない。奴がどんな罪で宦官を裁こうとするか判ったものではない。そう考えた宦官達は休みになっても邸宅に帰らなくなったのである。


***


「本気の司隷校尉相手に後ろ暗くない宦官などいる筈がない。彼らを責める気にはなれなかったよ」


 蘇康は疲れた顔で言った。


「既に内官に李膺への恐怖は蔓延している。だが、我々がこうも恐れているのに、帝は李膺を解任なさる気はないようだ」

「殺してやりたい」


 最後の張讓のつぶやきに応えたのは侯覽だった。


「気持ちは判る。私も楊秉に兄を殺されたからな」


 侯覽も似た経験をしていたのである。


***


 宦官が偉くなってする事は二つ。自身の利殖、そして親族の栄達である。侯覽は殊の外熱心にこれを行った。

 中常侍になった侯覽は、兄である侯参を益州刺史に捻じ込んだ。


 郡の行政を行なう郡太守と違い、刺史は州の監察官である。年貢の収奪などで懐を潤すことは難しい。そこで侯参は監察権を濫用して私腹を肥す、ということをはじめたのである。


 侯参は刺史らしく州を巡回した。そして町にめぼしい金持ちが居れば即逮捕した。大逆罪を擦り付け、その上で一族皆殺しにし彼らの財産を没収した。侯参が町を通る度にその町の富豪が消滅し、接収した財物で侯参の行列は長くなっていった。


 ところがそんな折、楊秉が三公の一つ、太尉となった。


 楊秉ようへいはかの名儒楊震の子であり、父楊震が自殺した後、宦官樊豊らの差金で父の埋葬を許可されず、道端に棺桶を放置させられ涙を呑んだ息子の一人である。儒教的な倫理観がすこぶる強く、そして宦官を憎んでいた士太夫である。


 三公は帝に直言する機会がある。そこで楊秉は宦官の縁故による採用者が多いこと、彼らが任地で放埓を繰り返していること、取り締まりを強化するべきと帝に奏上した。


(俺達が居る場でなんて奏上をしやがる)


 帝の右に控えて立っていた侯覽はそう思ったが、帝の前で三公の言葉に口を差しはさめる程の権力は持ち合わせていなかった。そしてその時、楊秉の進言によって自分の兄にどんな累が及ぶのか、という予想もできていなかった。


 制して曰く可。帝の許可が下りた。州郡の監察官である筈の刺史が、都からの監察官に監察されることになった。


 益州を巡回中の侯参は即刻逮捕された。巡回に伴っていた長大な車列が証拠として差し押えられた。侯参は洛陽へ檻車で護送される途上で自殺した。


 回送されてきた車列を京兆尹の袁逢が数えたところ、車三百両以上に没収した財産が積まれていた。金銀珍玩だけで数えきれない程だった。


 楊秉はこの件で侯覽をも告発した。罷免され故郷へと送還された侯覽は復職に大いに賄賂を使うことになった。


***


「だが卿にはまだ復讐する時間が有る」


 侯覽の言に張讓はこくりとうなづいた。楊秉は去年、太尉在職のまま病死していた。侯覽は復讐できなかったのである。


「私も今後は機会を逃さないつもりだ」


 侯覽が対立している士太夫は楊秉だけではない。


 侯覽の母は、故郷山陽で息子の威を借りて暴虐を尽くしていた。山陽郡の太守である翟超は、東部督郵の張儉を使い、侯覽の母を弾劾した。すんでのところでその訴状が帝の目に触れるのを侯覽は阻止したが、いずれ翟超に復讐するつもりである。


「李膺はこの件で大層な名声を得た」


 王甫が話を戻した。


「あの男、太學では『天下の模楷は李元禮』ともてはやされているらしい」


 太學は洛陽郊外にあり、儒教を学ぶ場である。


「学生風情から人気があるぐらいが、どうというのだ?」


 侯覽の疑問に、趙忠が答えた。


「いや太學の圧力は馬鹿になりません。……朱穆しゅぼくの件で身に染みました」


***


 十三年前の永興元年の事である。黄河が氾濫し、下流で数十万戸が被害にあった。


 下流の北側に位置する冀州きしゅうでは治安が悪化し、盗賊が横行した。


 そこで朱穆が刺史として送られた。

 出発に際し、手心を加えさせようと冀州出身の中常侍達が彼に接近しようとしたが、一切会ってはもらえなかった。彼が北に向かい、黄河を渡ったと聞いた冀州の官吏達は、旧悪が暴かれるのを恐れ、印綬を置いて逃亡するものが四十数名出たという。皆、朱穆が厳しい儒者であることを知っていたのである。


 朱穆は冀州に到着すると、盗賊の渠帥を誅した。不正を行なっていた者を多数弾劾した。相手の地位になど考慮しなかった。


 趙忠は冀州安平(あんぺい)国の出身である。この災害の前に父を喪っていた。趙忠は父親の葬式を行ない丁重に埋葬した。それだけだったら問題は無かった。だが丁重過ぎたのである。趙忠は、僭越にも、玉を貼った豪華な棺に父親を納め、埋葬していた。


 儒教は葬儀を身分により格付けする宗教である。どの様な身分はどの様な葬儀をし、どのような服を来てどれくらい喪に服す。それを規定する。王侯でない宦官が玉の棺を使うのは儒者には許しがたい犯罪であった。


 朱穆は冀州に着いてその噂を聞くと、安平国の役人に調査を命じた。役人達は朱穆の厳しさを畏れ、趙忠の父の墓を暴き、死体を放り出し、棺を証拠品として押え、家財も没収した。


 趙忠は実家からの知らせを受けるとすぐに帝に泣きついた。


 この時は帝は趙忠の為に激怒してくれた。玉棺を使った事は不問となった。朱穆は解任され、左校での強制労働に就かされた。外壁の工事で働かされる朱穆を眺め、趙忠は溜飲が下がる思いだった。


 だが、そこで太學生が動いたのである。一介の太學生である劉陶を代表とする数千人の学生達が王宮に押しかけ、朱穆を弁護したのである。


「中常侍達の父兄子弟は州郡で競って虎狼となって民を貪り食らっております。朱穆は天網に空いた目を補綴し禍いを取り除いたのです。それゆえ内官共は憤り、彼を左校に送ったのです」


 太學生は次世代の官僚でもある。帝は彼らとの対立を避ける為に朱穆を解放した。趙忠は胃から何かが戻って来た不快を覚えた。しかしそれ以上手が打てなかった。


 朱穆はその後数年経って、士太夫の多数が推薦した為、復職し遂に尚書にまで昇った。尚書は本来帝へ書類を取り次ぐ側近である。その役割の多くを宦官達が果たしている為に有名無実となっている存在とはいえ、朱穆が帝の面前へ出てくる度、趙忠は悔しさに歯軋りをした。


 朱穆は朱穆で、宦官が政権を牛耳っている事を憎み、宦官を追放させようとたびたび諌言した。


「漢王朝の旧典では侍中、中常侍をそれぞれ一人、取り次ぎをする省録尚書事として黃門侍郎を一人置き、書奏を伝える彼らは皆、名家の者を用いておりました。これが鄧太后以降、女性が政治を摂るために後宮に出入りできる宦官を常侍、小黃門にするようになりました。これ以来、その権は人の主を傾け天下は困窮しています。彼らを追放し、徳の有る儒者を選び、政治に参加させてください」


 劉志は色を好む皇帝だった。後宮に女性を迎えること五千、六千ともいう。管理に宦官の増員が必要だった。宦官を排除するどころか、減らすことすらできる筈が無かった。


 帝は現実を見ていないこの諌言に怒り、答えようとしなかった。それでも答えを得ようと朱穆はその場に伏したまま待った。起きよ、という周囲の声も無視し、朱穆は待ち続けた。帝は困った顔をして左右に視線を送った。趙忠はにこりと笑うと進み出、朱穆の処へ行くと声を掛けた。


「失せろ」


 誰も朱穆を擁護するものは居なかった。


 しばらくして朱穆は立ち上がった。力無い歩みで朝廷を去った。この件で抱いた噴懣が朱穆の体を侵した。怒りは腫瘍に成長し朱穆は死んだ。三年前のことである。


***


 語った趙忠の顔は少しだけ満足そうであり、張讓は羨ましくなった。


「そういえば皇甫規も同じ手で五侯の方々から逃げておったな」


 曹節が付け加える。

 五侯は梁冀粛正に功のあった唐衡ら五人の宦官である。


 管霸がこの話から要点を指摘する。


「太學生といえど、数を頼みにすれば帝も動かすことができる、ということだ」


 太學生は儒学を学びに洛陽に集まった儒者の卵である。

 士太夫の側に立って当然である。多くは有力者の子供達でもある。


「そして、罷免されたものも、士太夫達の推薦で復職できる」

「それでは堂々巡りではないか」


 曹節がくたびれた顔で言った。


「我らがなぜこんな目にあわねばならんのだ……宦官というだけで苦しいのに」


 曹節の嘆きは、皆の嘆きであった。


「何もしてこなかったくせに、連中なぜあんなにでかい顔しているんだ?」


 王甫の疑問に皆が頷く。


 漢家の歴史は、皇太后と外戚と、皇帝と宦官。この二勢力の闘争の歴史である。


 皇帝が崩御すると皇太子が皇帝の後を襲い、新たな皇帝となって統治する。これが道理である。


 しかし皇太子がまだ幼い場合、新皇帝の即位後も皇后が皇太后となって執政する。これも道理である。


 しかし、新皇帝が皇太后の実子でない場合は話が変わってくる、


 皇太后は皇族の、それも幼子を養子として帝位を嗣がせる。幼い皇帝は自身で政治を行なえないから、当然、皇太后が執政する。皇太后の親兄弟である外戚は、皇太后を支え、様々な要職に一族あるいは息の掛かった人間を就ける。


 その結果、外戚は富み栄え、皇太后親政の体制は強固なものとなる。

 新皇帝が成人しても、皇太后は政権を渡さない。外戚もそれを新皇帝を蔑ろにし、皇太后親政を支える。外戚は皇太后との関係だけで権力を得ているので、血縁でない新皇帝が権力を掌握したら、排除されるのが確実だからである。


 この動きに新皇帝は対処できない。

 なぜなら天の子であり、絶対の権力を持つ皇帝よりも皇太后は偉いからである。子は親に従うという儒の教えは、天子にとっても変わらないのだ。


 皇太后と外戚が新皇帝を蔑ろにして君臨し横暴を繰り返していても、儒に従う士太夫は常に無力だった。新皇帝を輔けるのは常に宦官なのだ。


 和帝は外戚の竇一族を宦官の鄭衆の策略で殲滅した。竇一族に対し、士太夫達は無力だった。


 安帝は義母の鄧太后が崩御するまで権力を握ることができなかった。鄧太后の権威に対し、士太夫達は無力だった。


 順帝は義母の閻太后らの陰謀で太子を廃された。閻太后の暴挙に対し、士太夫達は無力だった。


 順帝の崩御後、その妻であった梁皇后は梁太后となった。その権威を盾に外戚の梁冀がのさばり続けた。


 冲帝の夭折後、次の質帝は梁冀に毒殺され、今上が即位されたが梁冀におびえ続けた。梁太后の死後、今上を助けて梁冀を自殺に追い込んだのも宦官だった。

 梁冀の暴虐に対し、士太夫達は無力だった。

 いや、それどころではない。今、偉そうに宦官を弾圧しようとする李膺だが、外戚の梁冀が専横していた時代に河南尹に就いたにも関わらず、梁冀に対して何もできなかったではないか。


 結局の所、儒教の母子の道理を覆せるのは、儒者ではない。人外の身である宦官しかいないのだ。


 宦官の側から見れば、皇太后と外戚が横暴を極めていた時に何もしなかったくせに、宦官がそれを打ち破った後にしゃしゃり出て来て、宦官を断罪するのはどういう了見か、となる。


 近親や知人を地方の高官に就け私腹を肥させる。何がいけないのか。士太夫だって同じ立場になれば大抵がやることではないか。


「叩けるところだから我らを叩く。身勝手な連中だよ」


 曹節の答えは皆の意見を代弁していた。


 管霸が右手の指を一本立てて言った。


「近年、士太夫連中の我らに対する攻撃は激化している。我らだけでなく、我らの家族や友人まで殺しにきている」


 皆が頷くと、管霸は指を二本にして続けた。


「李膺は喫緊の脅威だが、奴を排除したからといって問題は解決しない。第二、第三の李膺が出てくるのは間違い無い」


 三本目の指を立てた。


「李膺を讒言で司隷校尉から免じるのは難しくない。だが、仲間の士太夫や太學の学生どもが運動すれば、又ぞろ復職してくるだろう」


 管霸は右手を開くと両手をポンッと打ち合せ、十本の指を開いてから言った。


「李膺だけじゃない。士太夫のやつら全員を片付けよう」


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