1 銅柱
「朔。こんな夜更けにいったいどうしたね?」
突然尋ねて来た弟の張朔に、張讓はいたわりの声を掛けた。
張朔の様子は尋常ではない。髪はほつれ、冠は傾き、息は荒く、着物も汚れ、乱れている。
「兄上、どうかお匿まいください!」
張朔は、振り絞る様に叫ぶとその場に崩れ落ちた。
「走って来たのか?県でいったい何があった?」
小黃門という、宦官としてそこそこの地位になった張讓は、遠慮がちに弟を野王県の県令にすべりこませていた。中常侍の方々に比べればささやかな余録だな、そう思っていた。
「……校尉が!司隷校尉が!」
「わからん、落ち着いて話せ……誰ぞ水を!」
張朔の手はガタガタと震え、一口呑むか呑まないかの間に椀の水はすっかりこぼれ、西域から取り寄せた鮮やかな敷物を黒く濡らした。それでも多少は落ち着いたのか、ようやく話ができるようになった。
「司隷校尉の手の者が……役所の周囲をうろうろと……」
司隷校尉は首都洛陽のある州、司隷の犯罪を取り締まる官である。他の州に於ける刺史に当たる。だがそれだけではなく、さらに首都洛陽の百官の犯罪も管轄としている。野王県のある河内郡も司隷校尉の管轄内である。
「もう、おしまいです!」
「朔よ。お前いったい何をしたのだ?殺しか?」
「朔は職務に忠実でした!」
張讓にはなんとなく想像がついた。県令には法に従ぬ民を裁く職責があり、判決としては死刑まで宣告できる。死刑の執行自体は皇帝に判断を委ねるのが漢家の決まりだったが、それも形骸化しつつあり、慣例的に県令が県民を処刑することは可能だった。つまり県令はその県の民の生殺与奪を握っている。
よい県令が転出しようとすると住民が引き留めようとする、という美談は枚挙に暇がないほどあった。つまり、権力に酔い、民を気ままに殺し奪う県令、というよくない県令もまた、多かったのである。だが張讓には愛する弟を糾弾する気はさらさらなかった。
「それでここまで逃げてきたのか」
「もう安心できる場所は兄上のところしかないのです」
張讓は張朔を助け起こすと、やさしく背中を撫でてやった。
司隷校尉といえば、最近李膺になったばかりである。なのにもう河内にまで功曹を派遣してきたのか。
……それにしても、相手が悪すぎる。
張讓は暗い気持ちになった。
李膺、字は元禮。
儒者として名高い男だが、そんな事はどうでもいい。問題は李膺が官僚や宦官の不正に極めて厳しい男だという事だ。
李膺は七年前に河南尹に就いた。
河南尹は洛陽を含むこの一帯の行政の長である。郡太守に相当する。
不正を憎む李膺は楊州の羊元群を取り締まろうとした。元群が北海の役所にあった彫刻が珍しいので剥して持ち帰った、ただその程度の事でである。
李膺はそんな些細な事を帝に上表した。
元群は我々宦官に助けを求めた。我々は快く引き受け、皇帝に讒言し李膺を逆に罪に落した。李膺は左校……宮殿造営の強制労働に就かされたが、儒者仲間に弁護されて結局釈放されている。
奴の態度はそれに懲りず、今でも我々宦官に敵対的だ。河南尹を免官され故郷に帰った後も、奴の教えを乞おうとする者がいつも千人以上居たと聞く。
学があって人望があり、敵対的で懲りる事を知らない。張讓の頭に浮かぶ李膺の姿は涼やかな儒者でも士太夫の姿でもない。口角から泡を吹いてうなり声を上げる大きな犬だった。
「朔よ。明日、出仕する時に帝の元へ連れて行ってやる。帝に一言『赦す』と言っていただければ、李校尉とて手は出せまい」
正直に言えば、李膺がその程度で諦めるとは思えなかった。だが弟を必要以上におびえさせても仕方がない。
長秋宮にでも連れ込めばさすがの李膺にも手の出しようがなくなるだろうが、弟は男である。それはできない。
(この際、朔も宮してやるか)
自分のおかげで贅を楽しんでいる弟を、自分同様宦官に身に落す、という事に昏い喜びを感じかけた張讓だが、自分と同じ血を後世に残してくれる大事な弟である。首を振って考えを振り解いた。
「ついて参れ」
李膺はタガが外れた男だ。この屋敷に力づくで踏み込んできかねない。朝まで安全に匿まってやる必要がある。
巨大な邸宅の中を張讓は奥へ、奥へと進む。
「私が休みの日でよかった」
宮中に勤める者は基本的に宮殿内の住み込みである。だが休沐、といって五日に一度、髪を洗う名目で自宅に帰ることができる。
洛陽の外へ出歩く機会の少ない皇帝付きの者たちにとって、自宅を巨大で豪華なものにするのは当然の嗜みであり必然の気晴らしである。
張讓の邸宅も巨大で、そこかしこが豪華な布や絨毯,青銅の彫刻で飾られていた。
だがこの屋敷や調度は張讓の自腹ではない。宮殿修築を行なう将作大匠に強要し、宮殿修築用の資材を横流しさせ資金を流用させ、労働力をそこに注入させた。それにより国費は浪費され、近隣住民が必要以上に懲用され、怨嗟の声が満ちたが、張讓の知ったことではなかった。
磨かれた銅張りの巨大な柱が並ぶ回廊で、張讓は突然立ち止まった。唐突に止まった兄にぶつかりそうになり、張朔はたたらを踏んで立ち止まる。
「ここだ」
そういうと張讓は太い柱の一本を軽く叩いた。
ボアァァンという響きと共に柱の前半分がゆらゆらと開き、中から柔らかな布が敷き詰められた空間が現れた。
「兄上、これはいったい?」
「こういった事もあろうかと作らせた隠し部屋だ。少々暗いが、帝のもとへ連れて行くまで、ここで辛抱しておれ」
そう言った矢先、表の大声が遠く聞こえてきた。
「李校尉来着!李校尉来着!」
いかん。
弟を柱に押し込めると、銅葺きの扉を元の通りに閉める。元通りに閉めれば周囲の柱と全く区別は付かない。その様子を満足げに一瞥すると張讓は小走りで門へ向かった。
一家の主人たる姿ではないな。そう自嘲する。宮殿内に居る時ならともかく、自宅でまで使用人の様に走りたくはないものだ。だが、今は速やかに弟の籠った隠し柱から遠ざからねばならない。
門へ着いた時、門番達は司隷校尉の部下達によって地面に押し倒され、拘束されていた。
「なにごとだ!」
叫びながら、威圧するには自分の声は甲高すぎるな、張讓はそう思った。
白髪頭の頑固そうな老人がこちらを振り向いて言った。
「やぁ張小黃門ではありませんか。こちらに犯罪者が逃げ込んだようでしてな。役儀によりお宅を改めさせてもらいますぞ」
「なん」の権限が有って……といおうとした言葉は、相手のひと睨みに口の中で消え失せた。
司隷校尉が犯罪を察挙して何が悪い……鮮卑との戦いで磨かれた不敵な顔がそう告げていた。
張讓はこの老人が苦手だった。李膺の口調からは宦官への敬意が全く感じられない。彼は儒者として清廉で完璧であり儒の観点で不善を否定する。つまりこの男は張讓の存在全身全霊を、まつ毛一本の先まで否定している。張讓はそれを感じて膝が震えたが、それでも勇気を奮ってこの儒者に対峙した。
「李校尉、判っておいでか?もし誰も居なかったらその時は」
「居ますとも。どこに、というのも存じております。案内なぞ不要」
そう断じると、李膺はずんずんと大股で邸宅の奥へ歩いて行く。
「ちょ、まっ」
広い張讓の邸宅内を、李膺は案内もなしに迷いのない足取りで進む。
張讓は李膺が足が向かっているのが弟の隠れる回廊だと気付いた。張讓が李膺の腰にしがみ付く。しかし李膺の歩みは止まらない。すぐに張讓の握力に限界が来た。手が振り解かれ、はずみで張讓は通路に転がった。
立ち上がろうと這う張讓の目前を、李膺の手下の功曹達が整列し通り過ぎる。次いでズズズという重い音と共に巨大な丸太が通る。
「!?」
李膺の功曹達が丸太に綱を掛け引きずっているのだ。西方から取り寄せた豪勢な絨毯が傷つき引き裂かれる。
張讓はよろよろと立ち上がり、小走りで功曹達を追い抜き、先頭を歩く李膺に追い付いた。張讓が何か話し掛ける前に、李膺が口を開いた。
「張小黃門。あなたがこの第を建てさせたのは五年前でしたな」
ずかずかと歩きながら李膺は続ける。
「その頃、私は左校で労役をさせられていた。あなた方のおかげです」
左校は将作大匠の配下としての労役刑である。城や治水などの国家事業に使役される。
「この現場でも酷くこき使われたものだ」
ここを建設させた時、将作大匠を脅して人手を出させた記憶が張讓にもあった。
「ま、待て、取り引きだ、取り引きをしよう」
張讓は李膺の足取りに迷いが無い理由を知り、止めようとした。だが李膺は張讓を無視し屋敷の奥へと進む。
ついに銅柱の立ち並ぶ回廊に入ると大音声で呼ばわった。
「野王令、張朔よ。貴様が腹を裂いて殺した妊婦の夫より訴えがある。取り調べる故、洛陽獄まで御同道願おう」
李膺は部下達に顔を向けると、右手を柱の一本に向けた。
「おおおお」
功曹達はかけ声一声、巨大な丸太を持ち上げると、李膺の指した柱に向かい突進した。
「や、やめろ」
バン、という板を叩く音が上がった。中身のない銅の板はた易くくぼみ、丸太の先端を受け入れていた。
柱からは肌色のなにかが飛び出していた。奇妙にねじれた弟の手だった。張讓は弟のところへ駆け寄ろうとしたが、李膺に後ろ襟を掴まれて止められた。李膺の指示が真後ろから聞こえる。
「洛陽獄まで運べ!」
張讓は振り向くと、自分でも意味の判らない何かをわめきながら李膺にとびかかった。
ぐるぐると手を回し、ぽかぽかと殴り付けた。李膺はびくともしなかった。めんどくさそうに引き剥し放り捨てると言った。
「宦官にも兄弟の情はあるらしいな。その仁を百姓にも分けてやれ」




