1 涼州三明
天幕の合わせ目から、笛の様な音と共に雪が吹き込む。
中には届く冷気を気にする様子もない老人が二人、几を挟んで差向いに胡床に腰掛け、酒を汲み交わしている。
精悍な顔付きの老人は度遼将軍の張奐。
もう一方の温和な顔付きの老人は使匈奴中郎将の皇甫規である。
二人は涼并幽三州に攻めて来る北方異民族を鎮圧し、手馴付け、使役することで中原を異民族の襲撃から護る、そういう任務でここ并州に居る。
丸い天井が頭上を覆うその天幕の中は、異風の調度が並んでいる。
異民族からの贈物を飾り、異民族を接待しているうちに、すっかりとここは中原の風俗からかけ離れてしまった。だが二人は元々辺境の涼州人。部屋の様相に違和感を感じてはいない。彼らには馴染み深い北辺の異民族の習俗のごった煮であった。
張奐が酒の入った瓮を持ち上げ、皇甫規が差し出す水牛の角の杯に注ぐ。傾けた瓮の口からは僅かな赤い雫が垂れ、止まる。
「残念。……しまいだな」
張奐は瓮を空中で振って中身を聞くと、トンッと几上に戻した。
張奐は、匈奴に対策する度遼将軍であったが、先日大司農へ昇進の辞令を受け、洛陽へ帰還する事になっていた。そこで公式の別れの宴の前に、自らの後任として度遼将軍となる皇甫規を招き、二人きりの酒宴を開いていたのである。
皇甫規は角杯に少し溜っていた酒──西方の龜茲から取り寄せた貴重な葡萄酒──をしばらく眺めると、一息に酒をすすって角杯を横倒しに置いた。
少し間があって、皇甫規が口を開いた。
「……後任の件なぁ、辞退したい……そう思っとる。」
「オイオイ。悪い冗談はよせ」
張奐は軽く受け応えたが、皇甫規の表情に深刻なものが浮かんでいるのを視た。
「何故?」
「寄る年波だ」
「ははははは。俺を相手によく言うな」
二人は揃って六十三歳。同い年である。
「だが実際老けただろう?」
そういうと皇甫規は自分の皺面を突き出して見せた。
「そうかな?貴様の若い頃など知らんからな……」
「出世が遅かったのは卿もであろうが」
皇甫規、字は威明という。涼州安定郡朝那県の人である。
今を去ること二十五年前の永和五年。且凍羌と呼ばれる羌族の一部族が、三輔すなわち長安一帯を略奪し、そのまま涼州に雪崩込む、という事件があった。
安定郡の県という県は羌族に包囲され、名将とうたわれた征西将軍馬賢が救出にやってきた。馬賢は北に南に、対異民族鎮圧の実績で赫々たる名声を放った名将である。
だが、皇甫規は馬賢の消極的な動きに彼の敗北を予言した。
翌春の戦闘で馬賢は敗死。安定郡の太守は見込み有りとして功曹に取りたて、兵士八百名を率いさせた。皇甫規は、祖父は度遼将軍、父は扶風都尉と、北辺を守護する武人の家に育った。だが、それまで皇甫規は市井の一個人に過ぎなかった。官途に就いたのはこの二十五年前の出来事によってである。つまり、三十八才にしてはじめて郡の役人になったのである。
皇甫規は羌族と戦い、何首かを取り、包囲する羌族を退却させた。この功により、皇甫規は安定の上計掾に取り立てられた。
上計掾は郡の年度の成果を集計し、正月に都へ報告に行く役職である。そして、都では報告に来た上計掾を優秀な人材として郎に取り立てる、という慣習があった。郎は底辺ではあるものの、中央官僚である。通常はこの郎から地方の県令などに就き、出世して行く。
つまり皇甫規は洛陽での出世の糸口を掴んだのである。
だが当時の皇甫規は正義漢で硬骨の人だった。出世よりも正義を優先した。羌族の反乱に際し上書して批判した。戦の費用は百億に達していますが、姦吏の懐に入っているのです、と。
時の帝、順帝はこの上書を受け入れなかった為、皇甫規は周りの反感を買っただけに終わり、とぼとぼと安定へ帰ることになった。
「馬鹿な事をしたもんだ。昔の自分を叱り飛ばしたいよ」
二年後、順帝が崩御し、二歳の皇太子劉炳が皇帝となった。だが順帝大葬の日に京師に地震があった。こういった場合、朝廷は公卿らに賢良方正の者を推挙させる。天意を聞く為である。
これを機会に皇甫規は賢良に挙げられ都へ出て義郎となることができた。つまり、再度出世の機会を得たのである。
だが都に来た皇甫規が見たのは、外戚梁冀の横暴であった。
二歳の皇帝の外戚として、梁冀は政治と人事を壟断し、国家を私物化し、贅沢の限りを尽くしていた。
皇甫規の正義は梁冀を許さなかった。梁冀の豪奢を批判する上書を提出した。当然命を狙われた。皇甫規は命からがら故郷へ逃げ帰り、二度目の洛陽出仕も終わった。詩易の道場を開き、静かに暮らすことにした。
翌年正月には即位四ヶ月で劉炳が崩御した。孝沖皇帝と諡された。八歳の劉纘が後を嗣いだ。劉纘は不幸にも子供ながら聡明であった。自分が皇帝であるのに梁冀が自分を蔑ろにしていることを感じとってしまった。
朝廷の群臣の立ち並ぶ中で、劉纘は梁冀の事を人前で「跋扈将軍」と呼んでしまったのである。
怒った梁冀は少年皇帝劉纘に煮餅を食べさせた。劉纘は苦しみながら言った。
「煮餅を食べたらお腹がぐるぐるするよ。水が飲みたいよ」
梁冀が劉纘に食べさせた餅は鴆毒で煮たものであった。
「吐いては駄目です。水は飲ませません」
梁冀が言い終わる前に劉纘は絶命した。孝質皇帝と諡された。
そういった梁冀の暴虐の数々を、都から遠く離れた安定郡の片隅で、皇甫規は見た。正直な所、自分の発言を後悔した。洛陽から逃げ帰る事が出来た自分は幸運だと思った。
だが梁冀の一族も涼州安定郡を出自とする。梁冀自身は洛陽で育ったため忘れているかもしれないが、地縁は存在する。
いつ梁一族が皇甫規の存在を思い出して暗殺や告発に来るか判ったものではない。神経をすり減らす毎日は最終的に十四年もの長きに渡ることになる。
「まぁ、おかげで貴様と知り合えたわけだがな」
張奐、字は然明。涼州でも地の果てといえる敦煌郡酒泉県の出身である。
張奐は二十の頃、長安に遊学した。
長安には安帝の竇一族粛正に抗議した朱寵が戻らされており、張奐は朱寵から欧陽尚書を学んだ。
順帝即位により、朱寵は洛陽に呼び戻され太尉となったので、張奐が朱寵に学べたのは三年ほどだったが、そこで学んだ知識を用い、牟氏章句を添削した。牟氏章句は光武帝の頃の欧陽学者、牟長という人物が書いた書経の解説書である。
張奐は牟氏章句の無駄を省き、四十五万字を九万字に添削したことで一躍名を馳せた。その名を聞きつけた大長秋の曹騰が推薦し、梁冀が大将軍府に召辟したのである。
二人の友情はこの時に始まった。敦煌から洛陽へ向かう道すがら、張奐は皇甫規の道場を訪ねたのである。
「あの時は正直刺客かと思った」
「俺がそういう政治向きに頭を突っ込むかよ」
皇甫規は梁冀から逃げ出した身である。梁冀に招聘されている人物が来た、ということで当然道場は色めきたった。
皇甫規としては謝絶したかったが、都でこの件を梁冀に告げ口でもされ状況が悪化してはたまらない。とりあえず客として迎える事にした。
話をしてみると張奐はさっぱりした人物で、梁冀に招聘された事も、皇甫規が梁冀に命を狙われていることもまるで気にしていないようだった。二人は意気投合し友人となった。
だが皇甫規は危惧した。こんな素朴な男が都へ行って大丈夫か?、と。自分が直言癖で都から逃げ出した事はすっぽりと頭から抜けていた。だが、皇甫規の心配をよそに、張奐は活躍しだした。
「あの時然明殿は学者として名を成すと思っていたよ。まさか都尉として戻って来るとはな」
安定属国都尉として張奐は涼州へ戻って来たのである。
張奐は都でなく辺境で。学者としてでなく武人として、出世することになった。安定属国都尉は、安定郡の中に居住する漢王朝に恭順する異民族を監督する役職である。同じ安定郡に隠遁している皇甫規との交流もこれを機会に深まった。
十一年前の永寿元年。、并州の南匈奴が七千の兵で美稷県を侵略した。涼州の東羌がこれに呼応し、東に移動を開始した。
張奐は、この二勢力が合流させたら大乱となる、そう考え出兵を決意した。美稷県は使匈奴中郎将の本拠地で、官兵が常駐している筈の場所である。
ここが攻められるようでは救援は来ない。独力でやるしかなかった。
だが張奐の手元にある兵力は二百足らず。勝ち目が無いと部下は止めた。張奐が聞く耳を持たないと知ると部下は頭を地面に打ち付け必死に懇願すらした。だが張奐はためらいもしなかった。
東羌の機先を制して北上し万里の長城まで進出し、そこに籠って二勢力を分断した。その上で東羌に接触し説得して協力させることに成功。官羌連合して南匈奴を攻め、降伏させた。
心服した羌族は張奐に名馬二十匹と金八枚を送った。
張奐は贈物を受け取ると、使いにやってきた羌族を主簿に抜擢し、地面に酒を振り撒いて言った。
「馬は厩に入れず羊の如く扱おう。金は懐に入れず粟の様に使おう」
そういってから馬も金も返してやった。
地面に酒を振り撒くのは天帝に捧げる西方の慣わしである。羌族はその行いで張奐が自分達を理解する、気前のいい人物だ、と理解した。羌族達は前任の都尉が財貨を好むのを苦々しく思っており、張奐の清らかさに大いに感化され、北辺は平穏になった。
この功により張奐は使匈奴中郎将に昇格した。
休屠胡と烏桓が同時反乱した時、張奐の軍は鎮圧に向かった。
反乱軍に接近した所で相手の炊煙が立ち昇るのが見えた。明らかに反乱軍側の兵力が多い。兵士達は恐慌を起こし、逃亡しようとした。張奐は落ち着き払って陣中で弟子達と普段通りの詩文の朗読をした。
その平然とした様に軍士達は落ち着きを取り戻した。張奐はその間に烏桓と和平を行い、烏桓を使って休屠胡の各渠帥を斬らせ、その大軍を撃破した。胡達はことごとく降伏した。
このまま何事もなければ、張奐一人が名将として歴史に名を残したであろう。
七年前の延熹二年。桓帝の命を受けた宦官の単超らの計略により、外戚の梁冀が失脚し自殺した。
張奐は梁冀に見出された故吏、という事で免職され禁錮……公職に就くことを禁じられた。故吏は取り立ててくれた者に恩があるものとされ、実際に親並に三年の喪に服する者すらあった。その縁を警戒されたのである。
「でもまぁ禍福はあざなえるなんとやら、だったよ」
「お互い跋扈将軍に苦労させられたな」
逆に梁冀に疎まれ逼塞していた皇甫規は、引く手数多で政界に復帰した。太山太守に任命され、太山賊叔無忌の鎮圧に向かうこととなった。皇甫規は戦のかたわら、友人の復帰の為に度々推挙したがなかなか果たせなかった。
「まぁあやつには福だったろうて」
二人が話題に挙げたのは段熲、字を紀明。涼州武威郡姑臧県の人の事である。
皇甫規、張奐、段熲の三人は涼州出身で、字に「明」が付く事から、まとめて「涼州三明」と呼ばれる。だがこの二人と、段熲の異民族に対する接し方はずいぶんと違っていた。
涼州の治安を維持していた張奐が失脚したことで、涼州に再び反乱が勃発した。焼當、焼何、當煎、勒姐の羌族が蜂起したのである。彼らは八種羌と呼ばれる連合を組み、隴西郡、金城郡の塞を侵略したのである。
この状況から漢を救ったのが段熲である。
護羌校尉に任命された段熲は、将兵と湟中義従羌一万二千騎を率い八種羌を撃破した.
義従とは、異民族ながら漢王朝に従い従軍するもので、この場合は湟中羌の兵士達である。
この屈強な兵士達を率いた段熲は、ただ一戦して八種羌を破った、というだけではない。徹底的に追撃した。河を渡り山を登って苛烈に追撃し、羅亭で大勝した。斬った酋豪は二千級。生け捕り奴隷とした羌族は一万人以上だった。
翌三年、羌族の残党が焼何羌の大豪を中心に蜂起し、武威郡に侵入。漢軍に対抗しようと兵を集めた。段熲は死んだ馬を乗り捨て、刀折れ矢が尽きるまで戦った。その気迫にあきらめた敵が撤退しようとすると追撃を開始。昼も夜も戦い進み四十日あまり追撃し、金城郡を越え隴西の石積山まで実に二千里を追いかけ、焼何の大豪を斬り、降伏した五千人も斬首した。
「だが、あんなやり方は続くまい」
段熲は多くの異民族を斬ったが、反乱自体はやまなかった。そして段熲の栄光の日々も長くは続かなかった。
五年前の延熹四年の冬、またも諸種羌の反乱が起き、并涼二州で略奪が頻発した。段熲は湟中義従羌を率いて鎮圧しようとした。
しかし、涼州刺史の郭閎が功績を横取りしようと段熲の軍を動かさせなかったのである。
段熲は戦闘を邪魔されたことにいらいらしたが、連戦に継ぐ連戦で兵は疲れている、休ませる機会だ、そうも思い、兵を止めた。だがこの休息は裏目に出た。ここ数年段熲の下で連戦を続け、故郷から離れていた湟中羌の緊張の糸が切れてしまったのである。里心がついた湟中義従たちは散りじりになり、故郷へ帰ってしまった。段熲の手元から騎兵戦力が失われ、鎮圧が不可能になったのである。
郭閎は自分の責任問題になるのを恐れ、段熲を告発した。段熲は都に召喚され、獄に下され、左校で労役刑に就かされることになった。
この段熲の失脚で朝廷は北方異民族を誰に対策させるか頭を悩ませる事になった。
「まったくだ。異民族には強く当たればいいというものではない。徳をもって諭すことも重要だからな」
段熲が失脚した丁度その頃、太山の賊叔無忌を鎮圧し太山の治安は回復したとして皇甫規が涼州行きを志願した。朝廷にとっては渡りに船であった。
中郎将として節まで与えられた皇甫規が関西の兵を率い出兵した。羌族を討ち、取った首八百級。皇甫規の威信を慕い、降伏する者十万人以上。大勝である。
翌、延熹五年。皇甫規は更なる成果を求め隴右を目指し出撃したが、道路は隔絶し軍中には疫病が発生。兵力の三割から四割を失う事態になった。だが皇甫規が病床を見舞うと、皇甫規を慕う兵士達はその大喜びで迎えた。この士気の回復に脅威を感じた東羌たちが降伏し、涼州の西方との交通は回復した。
涼州で戦果を挙げた皇甫規は持ち前の正義感を発揮し始めた。
皇甫規の着任前から、安定郡太守孫雋、安定属国都尉の李翕、督軍御史の張稟は降伏した羌を多数殺し、涼州刺史の郭閎、漢陽太守の趙熹は法を遵守せず好き勝手に振舞っていた。
皇甫規がそれらの悪事を告発したため、全員が解任され、あるいは誅される事になった。羌族はこの話を聞き、皇甫規に心服した。氐族十万も降伏したと言う。
洛陽から遠い涼州で功を立て続ける皇甫規は、遠方からも政治批判の訴えを続けるので宦官達に憎まれていた。
宦官達にとって涼州に注ぎ込まれた戦費や郡太守が搾取した財物は回り回って宦官達を潤していたのに、皇甫規の正義感がそれを遮断して回って来なくなったのである。
宦官達は讒言で解決した。「皇甫規は羌族に賄賂を払い、形式上降伏してもらっているように見せている」と。皇甫規は事実無根と上書したが、都に召喚されるのを防げなかった。都に戻った皇甫規は解任され、議郎に格下げになった。
ここへ宦官達が賄賂を要求した。戦費を沢山着服していただろう、そう考えたのである。皇甫規はこれを拒絶した。当然宦官達から讒を受け、獄に繋がれ、左校で労働刑を受けることになった。
太學の学生三百人が訴えたが、解放されなかった。だが、皇甫規の正義感は先に捕まっていた段熲には救いの手だった。
涼州刺史の郭閎が皇甫規の告発を受けた事で、先年の段熲への告発が虚偽のものだったと判明し、段熲は許されたのである。段熲は議郎を経て并州刺史になった。
延熹六年三月の太赦で皇甫規は許され、家に帰ることが出来た。また張奐もようやく許され、武威太守に任命された。
張奐は武威太守として税の公平と風俗の改善を行った。「諸郡に最たる」とうたわれた善政を布き、武威郡の守備を固めた。
七月には隴西太守が滇那羌を防いだが、この反乱は長期化の様相を呈して来た。
段熲が護羌校尉に再任命され涼州に戻って来たのはその冬である。皇甫規も度遼将軍に復職した。しかし、着任数か月で後任に張奐を推薦した。朝廷はこれを認め、張奐を度遼将軍に昇格させた。皇甫規は代わりに使匈奴中郎将に任命された。
温和で異民族との融和主義の皇甫規と張奐、
異民族殲滅主義者の段熲。
誰かが失脚する度にそれを補うように交互に前線に出ていた涼州三明が、ようやく北辺に出揃ったのが三年前である。
張奐と皇甫規の人徳を思い出した幽州と并州は平和を取り戻した。段熲は涼州で次々と羌族を屠っていった。
この数年の北辺の民は、涼州の三明の活躍で平和を享受していたのである。だがその体制の崩壊は既にはじまっていた。
「今なら判る。馬賢将軍は老い疲れていたんだとな。」
そういった皇甫規の顔は確かに疲れ果てた老人のものだった。
「何を言っとる。俺も卿もまだまだこれからよ」
張奐はそう言い放って高笑いした。この元気はどこから出ているのだろう?皇甫規は疲れた笑いで応えた。
「大司農を辞退は出来んかね?お主に大司農は不向きだと思うが」
大司農は九卿の一人で国家財政を司る。辺境の将軍職とは職掌が違いすぎる。
他の三公、公卿たちとの調整を、宦官への配慮を、皇帝への遠慮を、目の前の男ができるようには皇甫規は思えなかった。
「知っとるよ」
張奐はぽつりとそう答えた。
張奐は民を相手の地方行政や異民族を慰撫することには自信があった。だが、大司農は民を相手にする仕事ではない。若き日に師とあおいだ朱仲威殿は大司農の経験者であった。存命であったら心得えをお聞きできたのに。
「俺も一つ告白しようか」
張奐は少し悲しそうな顔で口を開いた。
「大司農は俺には難しいかもしれん。だが、俺にはもう、辞退も失敗もできないんだ。職務を全うし、報償として勝ち取りたいものがあるからな」
「お主程の男が、何をいまさら望む?」
「本貫を関東に移したい」
役人は官の役目で様々な場所に赴任するが、公職を辞したら本貫地に戻される。居住の自由と言うのは認められていない。特に辺境の者には。
「酒泉は嫌いかね?」
「いや、大事な故郷だ。墓もある。嫌いになんぞなれるものか」
「じゃぁ、なぜ?」
「俺は酒泉では一日も生きておれんからな」
ようやく皇甫規にも合点がいった。
張奐はその徳でもって異民族を懐かせ、従わぬ異民族を討って辺境に平和をもたらして来た。このやり方は、言い替えれば異民族を分断し戦い合わせ、残った利を味方した異民族に分け与えてきた事で成り立っている。
善政を布いたとはいえ、敵対する羌胡の首を獲ってきたのである。仇と狙う者も多数いるだろう。そんな男が敦煌に居住できるものではない。
皇甫規の本籍地である安定郡には安定属国都尉とその部隊もいる。簡単には都との連絡も途絶しないだろう。いきなり殺されるような目には遭うまい。だが地の果て敦煌は遠い。反乱があればすぐ都との連絡がつかなくなる。援軍がたどりつくにも時間がかかる。仇敵に襲われたらひとたまりもないだろう。
「……お主の大司農としての活躍を祈っとるよ」
そう言って皇甫規は空の角杯を持ち上げてみせた。
「貴様が度遼を辞退するとして、誰を後任に推挙する?段熲は論外だし、他の奴では私腹を肥すばかりで西方は治まらん」
三年以上前までは、涼州三明の誰か一人が北辺を鎮撫していたが、失脚する度に反乱の火の手が上がった。
段熲は涼州の護羌校尉であり、并州、幽州までは手が回らない。おそらく反乱が起きるだろう。
だが、段熲を度遼将軍に就けるのは憚られる。あのやり方で涼州、并州、幽州の三州の異民族を殺していったら手の付けられない巨大な反乱が起きてしまうだろう。しかし都から来る士太夫達は戦費を懐に収めるばかりで反乱鎮圧の役には立つまい。
「あるいは甥の嵩ならば……」
「義真の坊やか」
皇甫嵩、字は義真。皇甫規の兄である皇甫節の子である。文武両道に秀でた皇甫嵩は、皇甫規に従い、軍旅の中で育った。張奐は皇甫規と共に居る真面目な青年としか、皇甫嵩の事を知らない。
「だがま実績があるわけでなし。いきなり度遼将軍というわけにはいくまい」
「実を言うとな……いや」
皇甫規は言い淀んだ。
「なんだ?言えよ」
急かす張奐に皇甫規は深呼吸をして、意を決してから告げた。
「ここ数年のわしの軍は、嵩の奴に指揮を執らせておった」
「……どういうことだ?」
「あれには天稟がある。到底わしの及ぶところではない」
天候を見る力、地形を読む力、彼我の戦力を把握する力、機を読む力、頼もしさ。どれも自分より数段上だと思う。
「全部が上か?」
「そうだ。全部上だ。」
皇甫規は五年前、隴右を攻めて兵の四割近くを失った戦で、自分にさほどの戦の才能がない……少なくとも自分が青年時代に思っていた程の戦上手でない、ということを自覚した。それで甥の嵩に手綱を取らせたのである。三年前、度遼将軍を張奐に譲ったのも、自信がなくなったからが本当の所であった。
「あれはな、わしより、お主に似た将だよ」
真面目で政治的配慮に疎い所も似ている。皇甫規はそうも思ったが、口には出さなかった。
「ならば義真の坊やを盛り立て、早く譲れる様にせねばな」
「あやつはまだ布衣(無官)よ。まずは議郎にして、どっかの太守を経験させる必要があろう」
「……しばらくかかりそうだな、それは」
太守の任期は三年。そこで領内の治安維持に働きがあれば、次に出世の道も啓けるという所である。
「仕方ない。せっかく都に行くのだ。せいぜい義真殿の武名を売り込んどいてやろう」
張奐はそう言ってくれたが、この不器用な友人にそんな事ができるのか皇甫規は疑問に思った。




