13 南宮雲臺
「徳陽殿で、廃太子が践祚なさいました」
西鐘下を見張らせていた監視役が閻顯に報告した。
秘していた新帝劉懿の死が露見した。廃太子が勝手に皇帝を称した。中常侍の李閏が廃太子の側についている。新皇帝をこちらも立てたいが候補となる王子達は洛陽にまだ届いていない。江京や閻太后からはまだ連絡がない。
最悪の状況が次々と続き、閻顯の心は千々に乱れた。
どうすればいい?妹はなぜ指示を出してくれない?
閻顯は生まれてこの方自分が有能であると思った事は無い。妹の閻姫は知恵の塊で、父の死後も閻家の一族を結束させ、導いてくれた。妹が洛陽を碁盤にして打っている一局の片隅のちっぽけな石。閻顯は、自分の事をそう認識していた。自分がうかつな動きをしたら妹の策を妨害してしまうかもしれない。妹に無能と思われるのは慣れていた。だが邪魔者とまで思われたくはなかった。
閻顯はただうろうろするだけで何の対策も打たず、閻皇后の使いが来るのを待ちわびていた。
***
徳陽殿の正殿前は広大な広場になっている。
数日前から洛陽城は北宮も南宮も門を閉ざし、士太夫達の出入りを制限していた。ましてやこの夜中である。北宮に百官を集められる状況ではない。
だが少しずつ徳陽殿の前は賑やかになって来た。
尚書や尚書僕射などの尚書台の役人達。詔を告げられ閻家が解任されたと認識している羽林や虎賁や衛士達。そういった者達が少しずつ徳陽殿に集まって来たのである。
月の無い暗い夜、やってきた者達の持つ松明が広場に点々と燈る。その散りぢりの明りの中央を二列の松明が割って入って来た。
「陛下。遅れて申し訳ございません。お迎えに参りました」
尚書令の劉光が輦を担いだ兵達を連れてやって来たのだ。
同行していた興渠が勧めた。
「ここは危のうございます。南宮にお渡りなさいませ」
新皇帝の答えは簡単だった。
「任せる」
劉保を輦に乗せる準備が始まる中、劉光が新帝の廻りに侍る宦官に語り掛ける。
「今回殊勲の宦官の方々に頼みがある」
十九人は互いに怪訝な顔で見合わせる。
「はぁ……如何様な?」
ようやく孫程が聞き返す。
「北宮の諸門に分散し、門を守って欲しい」
「我々は武人ではありませんが……?」
「皇太后派の宦官達が来た時、止めて欲しい」
なるほど……孫程は理解した。
羽林や虎賁の兵はそれぞれの命令系統で動くので他の部隊の命令は受けない。だが、皇太后派の宦官が命令書を持って来た時、彼らはその命令を跳ね除けられるだろうか?
宦官の命令を跳ね除ける判断を下せるのは宦官だけかもしれない。
「よし、持ち場を決めよう」
宦官達はそれぞれがどの門に行くかを決めるとその場を離れた。
その間に劉保を乗せた輦が立ち上がる。興渠と曹騰が輦の後ろについて歩く。皇帝の行幸としてはいささか寂しい行列が動き出した。
***
閻顯は廃太子が南宮に移動している、という報告を聞いた。だが何かを決断する、ということも無く、部屋の中で同じ場所をうろうろとうろつくばかりだった。
閻顯の側に小黄門の樊登という宦官が居た。見兼ねて閻顯を叱りつけた。
「兵をお出しになるのです。このままでは手遅れになりますぞ」
樊登は元々閻顯の側近であった。
閻顯が尊貴の身になり禁中に出入りする、ということになったので志願して自宮し、宦官となったのである。将となった経験はないが、生き伸びるには出来る限りをしなければ、という覚悟はできていた。
廃太子が南宮に移った段階で、皇太后と大長秋の身は廃太子側に落ち、指示は来ないと思うべきだ。李閏が裏切っている以上、殺されていてもおかしくはない。もし皇太后が殺されていたら、閻顯の権力はたちまち霧散してしまう。つまりこれは既に負け戦なのだ。
では今やるべきは何か?二人の奪還を試みつつ、洛陽からの脱出路を確保しておく事である。樊登は各所へ使いを出すようを閻顯に献策した。
「弟君をお呼びなさいませ。太后の詔と称し宿衛の兵も招集し朔平門に兵を集め、そこから洛陽の廃太子勢を駆逐していくのです」
朔平門は洛陽北宮の北の門であり、敵から一番遠い。この目的にぴったりだと樊登は考えた。
「衛尉府へ行って兵をまとめる」
樊登の気迫に当てられた閻景が飛び出していった。
***
その頃、北宮内を武装して進む一団があった。
虎賁と並び立つ近衛の華、羽林兵である。涼州などの辺境出身者を中心とする、勇猛と忠誠を誇る部隊である。
だが、その先頭を率いる馬車には、やつれた顔の男がぐったりと立っていた。
男の名は郭鎮。尚書の一人である。
彼は今晩も常の如く尚書台に当直していた。しかし急な腹痛を起こし、同僚らの勧めで奥で休むことにした。一人気絶するように寝ていたのだが、表の騒がしさに目を覚ました。
ふらふらと表へ起きて来て郭鎮は驚いた。
尚書台がもぬけの空だったからだ。
ただ一人、尚書令史が残っていたので腹を押えながら話を聞いた。
「皆は?尚書令はどこへおいでになった?」
「先程濟陰王が践祚なさいまして帝となられました。尚書令と尚書台の半数は帝に付いて南宮に渡られます」
郭鎮は大体判ったと思った。いつか来ると思っていたことだった。
「では君が書いているのは閻氏の解任と捕追の詔だな?残りは北宮を廻っているわけか」
「はい。手が震え誤字が多く、書生だけ出られずに残っております」
尚書令史の答えを聞くと、郭鎮は尚書令史の手から書き掛けの尺一を取り上げ、小刀を出すと無造作に誤字を削り、正しい字を書き込んで、尚書台の建物からよろめき出る。
尚書令史は今にも転びそうな郭鎮を支え、馬車に乗せ、禦者についた。
行き先は南止車門。
宿直していた羽林兵に声を掛ける。
「羽林!詔である!」
郭鎮は息を継いだ。
(いかん、腹が痛くて力が出ぬ……)
だが弱音を吐ける状況ではない。
「ついてこい!」
そういって北宮内を巡羅しはじめたのである。
***
閻顯の呼び出しで虎賁中郎将の閻崇が参上した。虎賁中郎将は皇帝直属の虎賁兵を率いる。閻崇は身内なのでくだくだしい話は必要が無かった。
続いて越騎校尉の馮詩が閻顯の元へ出頭した。
越騎校尉は宮中の宿衛兵の一隊越騎を率いる。閻顯にとって普段は宿衛兵など意識にも載せない存在だが、ここは是非とも味方につけねばならない、と思った。閻太后から授かった印綬を見せ、閻顯は馮詩を誘った。
「濟陰王を捕らえれば萬戸侯、李閏ならば五千戸侯を授けよう」
馮詩は顎鬚をつるりと撫でると言った。
「宿営に居る兵を左掖門の外に集合させましょう」
そういうと退出した。
閻顯は樊登に目配せした。樊登は黙礼し後を追った。
禁裏の建物を出る所で、馮詩は預けていた鉄剣を受け取り腰に佩いた。
「馮越騎。お供します」
樊登が追い付いて声を掛ける。目付のつもりだった。
二人は前庭を斜めにつっ切り、東南にある左掖門にたどり着く。武人らしく大股で歩く馮詩を樊登はひょこひょこと小走りで追いかける。
樊登の命令で左掖門が開く。
門の外は闇だった。
「暗いな」
「松明を」
馮詩は左掖門の衛兵から松明を受け取ると暗闇の中に飛び込んだ。慌てて樊登が追う。
宿営に向かう道を早足で歩く。
馮詩が突然立ち止まったので、樊登はやっと追い付いた。
「すまん、持っていてもらえぬか?」
そういうと馮詩は松明を樊登に差し出した、樊登が反射的に受け取り、二本の松明で両手が塞がった。
その瞬間、馮詩の抜き打ちが樊登を横薙ぎにした。松明は残像を残して地面に落ち、どさりと湿った重い音が響く。
「勝つ側にしちゃ褒美が大仰に過ぎる」
そうつぶやくと松明の一本を拾い、馮詩は宿営に帰って行った。
***
盛徳門の近くへ来たあたりである。
郭鎮は向こうから松明の列が近付いて来るのを見た。松明が戟と鎧の甲を照らし、浮かび上がらせる。紛れもない武装集団である。
先頭の車に乗る人物は宿直の衛士を引きつれた、衛尉の閻景であった。
病身の郭鎮が車上でふらふらと剣を抜くと呼ばわった。
「武器を……捨てよ!」
そう叫んで車から飛び降りた。腹痛で力が入らず、飛び降りたのか滑べり落ちたのか自分でも判然としなかった。
それでも立ち上がり、剣を抜き身のまま、左手で尺一を捧げると閻景の後ろの衛士たちを一喝した。
「詔である!逆賊閻景!貴様を衛尉から解任し逮捕する!」
動揺のどよめきが衛士から上がった。
「詔がどうしたぁっ!」
閻景は叫び返すと、車に横たえてあった戈を掴み、振りかぶって郭鎮へ叩きつけた。
郭鎮が左へ避けた為、戈の援(刃)は郭鎮ではなく地面に突き刺さった。郭鎮はとっさに戈の秘(竿)の先を踏みつけた。取られまいと戈を強く引いた為、閻景は体勢を崩し車から下へどうと転げ落ちた。
強く背中を打ち地面でもがく閻景に、左からは羽林兵の戟が、右からは衛士の戟が伸ばされ、動きが取れない様押え込まれる。
捕縛される閻景を眺めながら、郭鎮は腹の痛みを忘れていた事に気付いた。
***
洛陽南北宮の南宮で最も高い場所が雲臺である。ここは広場になっており、光武帝と共に戦った二十四将の肖像画が飾られている。
この広い雲臺の中央に沢山の篝火が焚かれ、その中心に新皇帝劉保が立っていた。
尚書令の劉光が皇帝に近付き、うやうやしく上奏を読み始める。
「孝安皇帝の聖徳は明茂でしたが、早くに天下を棄てられました。陛下は正統にしてまさに宗廟を奉ずべき方でしたが…」
(ああ、そうか。これは尚書令が陛下を正統の皇帝と扱ってますよ、と皆に見せつける為の儀式だ……)
劉保の右に控えてた曹騰はそう思った。
文の内容は多分どうでもいいのだろう。この南宮で……閻太后の住処のあるここでこれをすることが重要なんだろう。そういう意味で晴れがましい儀式なんだろう。目に焼き付けておこう、と周囲を見渡すと、興渠の渋面が目に入った。
「謁者長……?」
「皆、この場におらん」
言われて気付いた。本日の殊勲者である十九人の宦官がこの場に居ない。これでは劉光ら士太夫達が劉保の帝位を奪還したみたいではないか。彼らはどこまで計算していたのだろう?曹騰は悲しい気持ちになった。
「大丈夫だ騰。朕は忘れぬ」
万歳の声の響く中、劉保がこちらに向きもせずつぶやいた。
部下達から見捨てられた閻顯が、侍御史に連行されてきたのは翌朝の日が昇った頃の事であった。