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俺解釈三国志  作者: じる
第一話 蒼天すでに死す(延熹九年/166)
12/156

12 洛陽揺動

「揺れましたね殿下。お怪我はありませんか?ご気分は?」


 劉保の体を庇ってのし掛かっていた曹騰は、主君の上からおずおずと身を引いた。

 家具の類は倒れなかったが、ここ西鍾下には大きな青銅の鐘がある。それが揺れ続ける不気味な響きがまだ聞こえている。

 大きな地震だった。これ程大きな地震は久しぶりだ。前はいつだったか?

 そう考えて曹騰はその思索を止めた。劉保が廃嫡された年に地面が揺れたのを思い出したのである。

(日食は天文の現象だけど、地震はどうなんだろう?)

 ここ数日、徳陽殿は静かである。

 普段であれば徳陽殿の前の広場は士太夫でごったがえしている。しかし、今は誰も歩いていない。洛陽城南北宮の外門が閉ざされているからだ、そう興渠は教えてくれたが、なぜ閉ざされているかは教えてくれなかった。

 地震はあったものの、ほんの少し平年より暖かい、そんな普通の十一月二日の日が暮れた頃、興渠が西鍾下の宦官全員を劉保の前に集めた。

「殿下。お耳に入れたいことがございます」

 興渠が静かな声で言上した。

「今、我々に同心する宦官十九名が、大長秋を誅しに行っております」

 劉保の目が驚きに大きく開かれた。

 他の宦官からうめくような声が洩れる。興渠はこの件を濟陰王の宦官の誰にも明かしていなかった。

「今上が数日前崩御なされたとの事。従いまして今、国家は空位です。この」

 曹騰は激高し興渠の言葉を遮った。

「殿下のお命を賭けに使ったのか!?」

「……秘密を守るためだ」

 興渠は答えると、劉保の方へ向き直った。

「今宵、中黄門の孫程等が参りましたら、江京を誅したということでございます。殿下にはこちらで践祚戴きます。お覚悟を」

 来るのが孫程でなく衛士などだったらどういう事になるかは聞くまでもなかった。

 あまりのことに劉保は言葉を失っていた。

 興渠は重ねた布裂を取り出すと、劉保に捧げ、平伏した。

「彼らはこの単衣の袖を奴に託して行きました。この袖と対になる単衣を着た者が、今宵命懸けで忠義を捧げようとしております。どうかご準備を」

 劉保は助けを求めるかのように周囲を見回した。

 曹騰は思った。

(無理もない……けど自分は殿下の決断を尊重しよう)

 その気持ちを込めて、目が合った時に強く頷いてみせた。

 唯一の阿母となった宋娥が劉保に近付き、口添えした。

「お立ちなさいませ」

 劉保ははじめて口を開いた。

「渠よ。孤はもう悲しんでちゃいけないんだな?」

 興渠は答えなかった。

「孤は天子にならないといけない?」

 今度は興渠は答えた。

「ははっ」

 劉保はため息をついてから言った。

「……では渠よ。然るべき準備をせよ」

 曹騰はその声に、主君が庇護すべき年下の少年でなくなったのを感じた。

 そして長い夜が始まった。


***


 南宮の崇徳殿。もう日が暮れようとする暗がりの中、十九人の人影があった。

「太官丞殿、章台門を通る手筈は?」

 日暮れと共に長秋宮の門は閉じる。中から手引きできる仲間は彼らの中にはいなかった。

「下げ渡しの命令書を偽造してある」

「では行こう。江京達を斬る事より、まず逃さぬ事を考えてくれ」

 ここ崇徳殿と長樂宮の章台門は指呼の間にある。一行は暗くなりつつある南宮を影の様に歩いた。

「だれか、灯りをつけてもらえぬか?」

 王康が言った。夜間に呼ばれて参内する者が暗闇を灯り無しに歩いていては怪しすぎる。

 一番若い苗光が剣を置くと、松明たいまつを取り出し火を付けた。

 松明を掲げた苗光が先導する。

 章台門で長樂宮の衛士が十九名を誰何する。

 馬国が進みでて木札を渡す。

「天子様より干し棗の下賜があるので取りに来る様に、とのご命令を戴きました」

 衛士が木札に書いてある内容と人数が相違ない事を確認すると、ゆっくりと門が開いていった。

 一行は章台門を通ったが、苗光が松明を付けた時に剣を置き忘れたのを思い出した。苗光は剣を取りに章台門の外へ戻って行った。

「行くな!」

 王康が叫んだが、衛士は門を閉ざした。苗光を門外に残し一党は十八人となった。

「急ごう」

 孫程が肩を叩き、王康も走り出す。標的はすぐそこに居る。迷っている暇はない。

 長樂宮の内殿では、入口に青銅の大きな燭台が置かれ、そこで盛大に獣脂が燃やされていた。

 闇の中を走って来た十八人はその灯りに照らされた四人の宦官を見た。

 大長秋江京と中常侍の劉安りゅうあん、李閏、陳達ちんたつ

「江京は俺が。劉安は頼む」

「まかせろ」

 孫程と王康は最短距離を接近し、残りの十六名は逃げ場を塞ぐ為に散開した。


 灯りの元に居た江京達は周囲の闇から宦官達が次々と現れるのを見た。

 彼らが何をしようとしているのか江京が理解したのは、宦官達が抜いた長剣の燐きを見た時である。

 次の瞬間、孫程は江京を、王康は劉安を斬り捨てていた。返す刀で王康は陳達を刺した。

 だが、孫程の刀は中常侍の李閏へ、振りかぶった状態で止まっていた。李閏は尻もちを付き、両手で自分の頭を庇い身を竦ませていた。

 王康が、他の十六名が、孫程の周りに寄って来た。

「殺らないのか?」

 王国が声を掛けた。孫程はそれには答えず、へたりこむ李閏に言った。

「これから濟陰王を帝位に付ける。邪魔は許さん」

 何故私ににそれを?言われた李閏はそう思い、生かすから濟陰王の助けになれ、と言われたのだと理解した。命が助かるなら仕える先が皇太后でも廃太子でもどちらでも構わないではないか。

「わかった」

 答えた李閏に孫程は手を貸し、助け起こした。

「何をすればわたしは助かる?」

「まずは各門に命令してくれ」

 ここに居る十八人の誰にもない権力を李閏は持っていた。

「衛士!」

 李閏が呼ばわる。

 十八人は緊張の面持ちで衛士達が駆け寄るのを見守る。

 李閏の後ろに立つ孫程の、剣を握る指に力が入る。

 李閏が顎を振って江京らの死骸を差す。

「死体を見えない所へ片付けろ。陛下はもう御寝だ。ご宸襟を騒がすことは許されん」

 李閏は平然と続けた。

「全ての門を閉ざし、私の命令以外での通過を許すな。通ろうとするものは斬れ。外から中へだけでなく、中から外へもだ」

 衛士達が戻ると、李閏は聞いた。

「で、どうするね?」

「事の次第を濟陰王に御報告する」

「判った。では馬車を用意させよう」

「準備の時間が惜しい。走るぞ」

「なにっ?」

 孫程は李閏の襟を掴むと走り出した。

 十九名が門外へ駆け出すと、隣の宜秋門前で苗光が待っていた。

 二十人の宦官は巨大な建物がならぶ南宮を北へ向かって走った。時間との勝負だった。

 洛陽の南宮の北端から北宮の南端の間には、複道という巨大な渡り廊下がある。天子だけが使える中央の道と、官吏が使う左右の三条の道が南北宮を繋いでいた。

 複道に立ち並び侵入者を防ぐ衛士達の背中を見ながら一里の複道を二十人は走る。

 複道を走り、北宮を駆け抜け、徳陽殿の門前にたどり着いた瞬間、二十人全員が倒れ込んだ。南宮から北宮まで、十里を一息に走ったのだ。

 徳陽殿の前殿前広場で待っていたのは興渠だった。興渠は門の内に倒れる孫程に近寄り、見下ろして話し掛けた。

「稚卿殿、濟陰王に首尾を」

 孫程が戻って来ている段階で結果は判ってはいるが、孫程の口から報告させる必要があった。孫程達はがくがくする膝を手で支え立ち上がり、歩き出した。

 徳陽殿西鐘下の鐘の下に濟陰王は立っていた。

「おまえ達の忠義、うれしく思う」

 濟陰王の後ろに立つ曹騰はその手に十九枚の袖を捧げ持っていた。十九人の疲れた顔が晴れがましさに輝いた。李閏も何食わぬ顔をして加わっていた。

「ならばこれよりわたしは、我が父、恭宗孝安皇帝の跡を襲い、南面して天下に聴くこととしよう」

 万歳を唱える宦官達の前で劉保は皇位に就くことを宣言し、ここに践祚は成った。

 次は興渠が走る番である。


***


 尚書台では日夜、尚書達が火急の用に備え待機している。

 尚書は皇帝に上表する役目であり、漢家では側近として三公を凌ぐ官僚中の最高権力者である筈だった。しかし今や皇太后に側近し上表するのは宦官の中書謁者であって、尚書は単なる詔勅の清書屋に堕していた。

 司隷校尉に昇進した陳忠に代わり尚書令となった劉光りゅうこうは、皇太后が立てた幼帝が崩御したのを感じていた。

 そんな状況で濟陰王の謁者長なる者がこの夜分に尚書台に訪れたのだ。

 要件は予想がついた。尚書台に通し、すぐに面会した。興渠はくだくだしい前置きをしなかった。

「先帝の崩御と濟陰王の践祚を布告し、閻一派の罷免と逮捕の為の詔をお願いしたい」

 劉光の応答は、否でも応でもなく、まず疑問だった。

「濟陰王はここの所衰弱されておいででしたが……」

 その任に耐えらるのか?という質問と解した興渠は答えた。

「この件は濟陰王御自ら御決断なされ、宣言され、お立ちになられました」

「承った」

 劉光は立ち上がり、叫んだ。

「尚書、従官集合せよ!右丞、尺一をありったけ持ってこい!」

 二人の話を聞いていた尚書、尚書郎達があわただしく墨を摺りはじめる。


「詔を書いたものから各所にふれを出しに行ってもらう。手のあいているものは徳陽殿へ行って陛下をお護りせよ」

「郭尚書は起こしますか?」

「病で役に立つまい。寝かせておけ」

 劉光は言ってから、何かに気付き、興渠へ告げた。

「陛下には急ぎ南宮へお移りいただこう。北宮は危ない」

 北宮には閻顯が居る。城門校尉の閻耀えんようが居る。衛士を率いる衛尉の閻景えんけいも居る。虎賁中郎将の閻崇えんすうは城内の虎賁の兵に命令が下せる。つまり洛陽宮の兵は閻兄弟が握っている。

 彼らを解任し無力化するつもりだが、詔が兵士の耳に届くまではこの兵力は閻兄弟が自由に使えるもののままだ。

 江京暗殺と劉保践祚の事態を閻顯が知り、手持ちの兵力を徳陽殿に投入したら……今、新皇帝を守っているのは少数の宦官だけであろう。

「南宮にお移りいただいた後、複道を遮断しよう」

 そうすれば南宮の兵力は新皇帝が押えられる。皇太后と外部との連絡も遮断できる。

「半数はここで北宮各所に閻氏解任の詔を発せよ。残りはついてこい。陛下をお護りし南宮へ渡る!」

 劉光は叫び駆け出した。誰かが叫んだ!

「まだ詔を書き終っていません!」

「走りながらやれ!」

 劉光の姿はもう無かった。


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