4 懐妊
「陛下。貴人は陛下のお情けを頂いてから今日まで、月の障りが二月止まっております。おそらく、ご懐妊かと」
日々に変化がなく、今日が何日だか判らないような掖庭に居る自分に、受胎の可能性を教えてくれたのは中常侍の張讓だった。
そうなの?全然実感わかないけど。でもする事すりゃそうなるよね……というのが何貴人の感想だった。
「産ませるがよい」
帝のその答えを受け、張讓は何貴人の方へ向き直って慇懃に微笑んだ。
「貴人、御身を大切になさってくださいませ」
ちょっと待って?今の回答によってはあたしどうなってたの?背筋に冷たいものが走った。
「では朕は他に移ろう」
なるほど、孕めば用なし、他に種を蒔きに行くわけか……。だが、気に掛けていないわけではないらしい。退出の時、帝は言ってくれたからだ。
「良い子を産んでくれ」
さらに続けた。
「朕の子は、夭折や死産で未だ一人も育たぬ」
ええ?
「我が公、気をつけてやってくれ」
張讓が会釈した。
***
不穏当な事を言い残して、帝はぱったりと来なくなった。
食事が変った。脂がたっぷりだったり、強い臭いの野菜だったりが出なくなった。羊も、犬も、鯉も、蟹も、いろいろな食材が出なくなった。
「味気ない!」
「お腹のお子の為でございます」
貴人になってぐっと向上した食事事情がまた悪化したのである。
しかもである。張讓が毒見役を手配した。宦官が先に食べてから、一刻を待ってからしか食べさせてもらえなかった。
「冷たい……」
「陛下は御身の安全をご希望ですので」
それ、ほっておくと毒殺されてしまう、という意味?背筋が寒くなる。そうだ。ここは妖怪が跋扈する洛陽の掖庭なのだ。……そもそも目の前の張讓自体が、妖怪みたいなものではないか。
だが、心配に反して、何もすることがない毎日が続く。いや、なにもすることがない、というのは言いすぎか。ある日など突然、虎の毛皮が運ばれて来た。
床の上に広げられた大きな毛皮には、今にも噛み付いてきそうな牙の生えた頭までついていた。
「これは?」
「虎でございます」
「見ればわかるけど、なんで?」
「雄の虎を見ると、男の子が産まれやすくなるのでございます」
(上の人の考えることはわかんないな)
「本当は生きている虎を御用意できればよかったのですが」
庶民の自分にとっては、虎は見たら死ぬ時である。男の子どころではない。さすがに御免蒙りたい。
そうやってお儀式をやり過ごしやり過ごししているうち、目に見えてお腹が大きくなってきた。
丸い腹をさすりながら思う。
(本当にこの中に帝の子が居るのだろうか?)
うごきづらい、以外に実感はない。妊娠したからと言って帝を好きになったわけでもないし、より一層の寵愛を、とも思わない。ましてや権力が欲しいなどと思えない。連れて来られて迷惑な思いだけは変らない。
(母がここに居てくれればなぁ)
三人産んだ大先輩である。子供を産んだ事もない若い采女や、男ですらない宦官が何人いても全然あてにならない。
(ん?)
お腹の中がごろごろとした。お腹を壊した?いや、なんか違う。え?
(赤ちゃん?もしかして、今動いたのって、赤ちゃん……?)
唐突に、なにかが腹の底から沸き上がってきた。熱い何かだった。はじめて生じた感情だった。愛情である。激情である。あ、自分は書き換えられた。そう思った。すとんと、腑に落ちた。母が自分を慈しんでくれた理由がわかった。
(そりゃあ慈しむよ。こんなのほっておける筈がない)
この子の為なら自分はなんだってしよう。そう思った。だからつぶやいた。
「中常侍、母に会いたいわ」
この思いを母と共有したかった。
張讓の返事は予想外のものだった。
「お呼び致しましょうか?」
「会えるの?!」
もう二度と会えないと思っていた。
「兄君は先日虎賁中郎将に除されましたので、ご家族は都で生活されてますよ」
「聞いていないんだけど!」
「お聞きになられませんでしたので」
実際兄に売られたという気持ちもあり、自分がここに送られてから家族がどうなったのか、などと聞く気も起きなかったのは事実だけど……。
「同じ女性ですから、掖庭にお呼びすることは可能でございます。ただ、検査を受けてはいただきますが」
「あ、待って。母の件考えさせて」
自分が掖庭に入った時の屈辱を思い出した。母にあれを強いるのは忍びない。
「……ところでコホンて何?」
「王城の宿衛たる虎賁の部隊、それを率いる部隊長でございます」
「それってもしかして……あの、ニセンゴクって奴?」
「左様でございます」
二千石。役人で一番の高級取り。雲の上の存在。と言うことは肉屋はやめたってこと?自分の知らない間に、あの兄が私をだしにちゃっかり出世していたなんて……。
兄が自分を売って顕職を得た、という事は腹立たしいが、兄が自分を売って何の利益も得られなかった、という事よりはマシな気がする。何貴人は複雑な気持ちを味わうことになった。
***
母を呼ぶ決断ができぬまま、月日は過ぎていった。異常に膨れ上がり、ぽろりと取れそうなほど突き出したお腹を抱きながら、何貴人は思う。
(絶対、大事に育ててあげる)
張讓によるともう臨月が近いという。
「中常侍に出産の何がわかるの?」
せめて出産経験のある女性を采女にしてほしい、という願いを言外に込めた軽い厭味だった。だが張讓の答えに何貴人は驚愕することになる。
「わかりますとも。讓にも孫がおりますので」
「え?だってあなた」
「宦官も人でございます。妻も要れば子も要ります。讓には養子ですが息子がおります。妻とは死別しましたが」
あまりに意外だった。この妖怪が沐休のたびに孫をあやしているというのだ。
何貴人は自分の産んだ子を張讓があやしている姿を想像して、軽いめまいをおぼえた。
***
妊婦にいい、という清浄な料理が運ばれてくる。蒸したもち粟の団子、鳥肉となにか野菜の煮たもの、緑の豆にとろみの付いたもの……、白い湯。几の上に五色の料理の皿がひろげられていく。
(うわ、おいしくなさそう)
見てから湯気など出ていない。どれも冷めているのだろう。表面に脂ガ固まっているのさえ見えた。
壁際に林立する宦官に見守られながら一人ぼっちの食事である。味以前に食事が喉を通る気がしない。今日はなぜだか張讓まで壁際に立っている。
しぶしぶ箸を取り、緑の豆をつまむ。冷えてとろみの消えた汁が豆から垂れる。
(本当に、おいしくなさそう……)
食べる前から顰め面である。
豆を口に入れようとした瞬間、バタン!という大きな音が房内に響き渡った。驚いて皿から目を上げると、誰かが床に倒れていた。宦官の一人だった。
隣の宦官が助け起こそうとし──首を左右に振った。そして叫んだ。
「湯の担当です!」
張讓がすっと几に近付いて来ると鉢の一つを持ち上げた。
「な、何?何が起きたの?」
彼女の質問に、張讓はその鉢を他の宦官に渡しながら答えた。
「毒でございます。蕪の湯に、毒が入っておりました」
「え?」
「ご安心ください。手分けしてそれぞれの料理を毒見しております。もう毒はないものかと」
あたし、殺されかかった?
一気に食欲が失せる。全身の血がさっと引いて、寒気がする。急な体調の変化が怖くなり、思わずお腹に手を当てて気付いた。
違う。この子が殺されかかったんだ!
ほほが熱くなった。怒りが全身を染めたのだ。
「ちゅっ中常侍!」
怒りにろれつが回らなくなりかかっている。
「はい」
人ひとり死んだのに張讓の反応は冷静だった。癪に障る。
「犯人は!誰!?」
張讓は首を横に振るだけで答えなかった。
嫉妬した他の貴人?いや、誰かに命令して毒を盛るなんてこと、貴人にできる?
掖庭に毒を持ち込んで、他の貴人の宮の料理にこっそり入れさせる?自分には無理だ。他の貴人にだってそんなことができるとは思えない。特別な権力がないと……。
一人だけ。一人だけ、それができそうな人物の顔が浮かんだ。まさか、そんな。
「張讓!」
突然の呼び捨てに、さすがの張讓もびくりとなった。
「出るわ。用意して」
「もう暗うございます。日をお改めください」
「近所に行くだけよ。ついて来るなら勝手にしていいわ」
「……どちらに参られますので?」
何貴人は答えた。
「長秋宮!」
***
「お願い致します!この子の命だけはお助けください!」
面会早々、何貴人は大きなお腹を床につけそうになるほどぺたんと座り、皇后に平伏した。
「あたし、帝の寵愛なんていらないです!この子を皇太子にしたいとも思いません!どこか遠くで母子でひっそり過ごせればそれでいいんです!お願いします!産ませてください!」
突然の懇願に、宋皇后はしばらく絶句していた。
ようやく動き出した宋皇后は、平伏する何貴人の手を取って上体を起こさせた。
「全然、意味が判らないんだけど……何があったの?」
「夕食の時、毒味の宦官が……死んだの。食事に毒を入れさせたんでしょう?」
「いや、そんなのしてないけど……なんで私だと?」
「だって、陛下にお子が産まれたら嫌なんでしょう?」
何貴人の言葉を聞いて宋皇后は酷く傷ついた顔になった。
「あなた、私が他の貴人に嫉妬していると思っているのね……私はね。実態のない皇后の地位から一刻でも早く解放してもらいたいの。子供の出来た他の貴人を邪魔する気はさらさらないの。私が皇后の地位に恋々としていないのは判ってもらえてると思ってたんだけどな」
そう言われても何貴人としては途方に暮れるほかない。陛下の子は皆夭折するか死産している。自分も殺されかかった。そんな大それた妨害工作ができる権力と、それにより得をする立場の人物は皇后しか思い付かない。
「思ってないけど、そんな事のできる偉い人、他に思い付かなかったんだもの……」
「女同士の嫉妬の話だと思いこんでるから、真実が見えないのよ」
「他に何があるの?」
「権力」
宋皇后は言い切った。
「?」
「私から教えるのは憚られるわ。帰ってゆっくり考えなさい」
理解できない、という顔の何貴人を宋皇后は助け起こした。
「あと、もう少し自重しなさい。身重の体でこんな所に乗り込んで来て。もし私があなたと……陛下のお子を害そうと思ったら、毒や堕胎薬を使うまでもなく、転ばすだけで事足りるんだから」
「ひっ」
何貴人は反射的にまたしゃがんでしまう。
「ごめん、脅かしすぎたわね……あなたが陛下のご寵愛を結実させてくれて嬉しいわ。なんとか無事に出産できるのを願ってる」
宋皇后はそう行って何貴人を送り返した。これが何貴人にとって、宋皇后に会った最後の機会となった。
***
しょんぼりと自分の宮に帰った何貴人だったが、何も問題が解決していない事にようやく気付いた。
(誰かが食事に毒を入れた筈だけど、犯人は捕まってない。捕まえないとまた毒を入れられちゃう)
宮ではもう、宦官の死体は片付けられており、床も掃き清められ、事件があった痕跡は残っていなかった。
「中常侍。犯人を探して。このままじゃ安心して食事もできない!」
自分で犯人探しができるとは思えない。なのでこの場で一番偉い宦官である張讓に委ねる事にした。
張讓の答えは予想を裏切るものだった。
「犯人でしたら、判っております」
え?
「だ……誰ェ?」
驚きに何貴人の声が裏返った。
「讓でございます」
平然と言い切った。
「はぁ?」
「ですから、讓が湯に毒を入れました」
疑問形の聞き返しにも、張讓ははっきりと頷いた。
「待って!中常侍は陛下直々にあたしの身を守るよう言われてたよね?」
「はい。陛下の御依頼でしたので、毒味役を配置させていただきました」
「なのにあたしの食事に……毒を盛ったの?」
「はい。陛下の御依頼でしたので、毒を入れました」
疑問しかなかった。なんでわざわざ毒味役を付けて、毒を盛るの?
ぐるぐると疑問が脳内を巡る。
なんで中常侍は涼しい顔して立ってるの!?
こっちはわけがわからなくなっているのに!
混乱する頭の中に突然で閃くものがあった。まさか、という気持ちからおそるおそる確認する。
「……毒を入れさせた陛下って、誰?」
張讓はにっこりと微笑むだけだった。
今、陛下と呼ばれる人間は三人いる。
今上。皇后。そして──陛下の、お母さん!
今上帝、劉宏。冀州河間県で解瀆亭侯だった彼を養子に迎え、帝に仕立てたのは桓帝最後の后、竇太后である。陳蕃と竇武が失脚した後、竇太后は幽閉され崩御した。その後劉宏の生母である董夫人が迎えられ永樂宮に入った。これが董太后である。
「え?自分の孫……でしょ?それおかしくない?」
「あの方は竇太后が崩じられてからは皇太后として帝を後見し執政なさっています。政が楽しくなられたんですな。権力に酔われたのでしょう。権力でおかしくなることは、別段おかしいことではございません」
「それがもうおかしいよ……」
今上に皇太子が立っても、皇太后は今上を輔け、政治を行なえる。しかし、もし今上が崩御されたら、皇太子を輔けるのは皇太子の母である。皇太后は権力を失う。
張讓の説明に、何貴人はぞっとした。
「自分が息子より長生きした時でも権力を握りたいからって孫を殺してるの?!それ今上もご存知なの?」
「ご存知ですとも。しかし、子は親に逆らえないものでございます」
「はぁ……」
何貴人は深くため息をついた。こんな酷い場所から誰か連れ出してくれないだろうか。そう思ったが帝の子を宿した体でそれが無理なのは重々承知していた。
「待って。帝の子を害したのがあなたたち宦官なのも帝は知ってるの!?」
「他の誰にそれができましょうか?我々はやんごとなきお方の御依頼に応えるの為の存在です故」
「帝のご要望も、皇太后のご要望も、わけへだてなく叶える、ってわけ?」
「左様でございます」
わからなくなった。
帝が、皇太后が、宦官が……掖庭に住む怪物達の事がわからなくなった、というのではない。そんなの前からわからない。
──どうすればこの子を助けることができるの?
帝すらあてにならない。すがりつく先は目の前の怪物しか思い付かなかった。
「あたしがお願いしたら」
丸い腹を抱きかかえる。
「この子を助けてくれる……?」
張讓の答えは期待を裏切るものだった。
「いいえ」
「なんでッ!?」
張讓は虫けらでも見るような目で答えた。
「貴人のご要望を叶えれば、やんごとなき方のご要望をお断わりする事になります。ご不興を買う程の利が、貴人にはないのでございます」
何貴人は絶望した。悲鳴をあげた。だが心の中でだった。弱さを張讓に見せるのは危険だ、そう直感が語っていた。
どうすればいいか判らない。世間にはびこりのさばって利を貪っている宦官に与える様な利なんて持ってない!
他の何かのもので宦官を味方にできないか。
何貴人は顔が火照る程、全身に汗をかく程、歯がガチガチ言う程考えに考えた。頭痛がする。眩暈がする。寒気がする。
だから、その答えが心に浮かんだのは、天啓というものだったのだろう。
目の前の怪物が、この子を守りたくなる様に仕向けることはできないか。
──できる。こちらが宦官の中に入っていけばいい。だから、命令した。
「……張讓。あなたの養子だけど、妻と別れさせなさい。孫も諦めて」
張讓の顔に「何を言ってるんだコイツ」そう書いてあった。それを踏みにじって何貴人は続けた。
「あなたの養子に私の妹をめとわせるわ。新しいあなたの孫は──次の帝のいとこよ」
張讓の表情がゆっくりと変わっていく。まず、何貴人の言葉を理解した、という顔になった。続いてゆっくりと歓喜に歪んだ。
(こんな醜い笑顔、はじめて)
それが何貴人の感想だった。




