続編 未来からのメッセージ
地球規模の大変革により、今までの既成概念が根底から覆されることとなった。
奪い合いのための地域紛争から協調、協働の意識が芽生え、国際社会は一つのゴールに向かって動き出した。それは大国が主導的立場で国連を通じて行う国際社会の秩序維持、地球環境の保全活動ではなく、国境、民族を越えて小国であろうと有色人種であろうと垣根を越えて、また動物、植物すら区別なく永続的に生きていけるそんなすべての生命の共生社会を構築していく意識と共にすべてのものが相互扶助の関係性を自然と築き、人類の危機は回避することができた。
幻の森の中で見たもの
「ねえ、パパ。パパの頃ってコンピューターってあったの。それってなあに?」
「ううん、パパの小さなころパソコンとかスマホっていうのがあってね、パパの子供のころだからあまり詳しいことは判らないんだけど。パパのお父さんつまりお前のおじいちゃんの頃は、みんな持ってたみたいだよ。いつでもスマホで買い物できたり、判らないことをすぐに調べられたり、それで支払いを済ますことも出来て、なんだか便利な物だったって昔おじいちゃんが云ったよ。」
「どうして、便利だとそんなにいいの?もっとのんびり暮らしたほうが楽しいんじゃん。
お買い物なんかしなくったって、自分で欲しいものがあれば作りゃいいんじゃないの?そしたら好きなものも食べられるし、椅子だってテーブルだってパパみたいに、自分たちで作った方が面白いっていってたじゃん。それにパパも言ってたでしょ。自分で作ることが大切なんだって。」
「学校の先生がね、歴史の時間に昔、銀行っていうのがあったらしいけど、銀行ってなぁに?」
「それは昔、お金っていうのがあってね、それを扱うところだったそうだよ。」
「そのお金って、どうして必要だったの、昔は?」
「ううん、それはね、パパもよくわかんないけど、おじいちゃんが言ってたけど、昔はそれがないと生きていけないと思ってた人が大勢いたんだって。」
「パパテレビゲームってやったことあるの?先生が言ってたけど昔マネーゲームっていうゲームが大人の間で大はやりだったって言ってたけど、パパはそのゲームってやったことあるの?」
「パパも子供の時はまだテレビゲームをやってた人もいっぱいいたんだ。でも殆どパパの友達は将棋とか囲碁とか虫取りとかのほうが多かったかなぁ。おじいちゃんのころはマネーゲームが好きな大人がいっぱいいたみたいだね。」
「うちの学校じゃ、今はウッドカービングとか、馬に乗ったり、フライフィッシングの毛針作りが流行ってるよ。でも私は、今、野山のお花集めて押し花で植物図鑑を作りたいの、だって私、まだまだ知らない小さなお花が野山にいっぱいあるんだもの。それとと可愛い小鳥のカービングにはまってるのよ。」
「昔は天気予報っていうのがあったんだって?明日の天気なんか、空見てれば大抵わかるじゃん。それに一週間先なんてどうでもよくなぁい?」
「私の一番お気に入りの一番好きな遊びは、山にドングリの苗木を植えること。そうするとね、その木が大きくなり、たくさんの実をつけて、リスやサルやイノシシがそれを食べに来るのを想像するのってとっても楽しいじゃない。たとえ植えたときは、こんなに小さな苗木でも植えたときから木が大きくなるのをずっと夢を見ることができるから。実際に種を撒き、苗を植えないとその夢もみれないじゃない。それじゃ面白くもなんともないもんね。」
「今日ね、ドングリの木の下にクマちゃんが遊びに来てくれたんだよ、子ぐまを連れてね。とってもドングリの木の下で楽しそう遊んでたよ。」・・・・
黒岩は、いつものように木を切り出しに、斧を肩に担いで奥深くに入っていた。それは最近の黒岩にとっての日課のような物であった。
しかしその頃、黒岩は息苦しさに、胸を押しつぶされそうになることに、しばしば襲われるようになっていた。その時も、突然のその胸の痛みが黒岩に襲い掛かってきて、足元の切り株に腰を下ろして、思わず蹲ってその痛みに耐えていた。そしてその痛みが治まるのを見計らって、思い切って、沢筋を越えて向こうの斜面に移ろうとしたとき、急に沢の上流から白い霧が降りてきて、あっという間に黒岩はその濃い霧に包み込まれていった。あっという間の出来事で自分でもさっきまでうそのように晴れていたのに、あっという間に辺りが真っ白な濃い霧に包まれるなどとは予想もしていなかった。
ダケカンバの巨木はまるで妖怪の化身のように彼に襲い掛かるように覆いかぶさり、
「やばいなぁ。これじゃ雨にうたれるかもしれないやぁ。」と思って、急いで帰ろうとしたが、あまりに濃い霧に包まれてしまい、来た道どころか、右も左も全くわからなくなるほどに方向音痴になってしまっていた。こんなところで迷子になるはずはない。この辺りはいつも通いなれたところである、と黒岩は自分に言い聞かせた。
「さあーってと。」じっくりと気を落ち着かせて気を取り直して深呼吸をした。今来た道を手探りででも探そうとしたが、それは完全にどこか別の世界にでも連れていかれたような感覚に襲われていて、なんだか足元がほんの少し地面から浮き上がっているような気さえした。
そして濃い霧に包まれた森の奥から、なんだか子供の小さな声が聞こえたような気がした。「なんだよ、こんなところに子供がいるはずがない。」と耳を澄ましていると確かに子供の話声である。それは誰かと話をしているようにも聞こえた。そっと耳を澄ませてその話の内容が気になり、その話を聞き取ろうと目を閉じてじっとしていると、その声は確かに誰かと二人で会話をしてるようだった。黒岩は、ただただ耳を澄ませて、その話している内容を聞き取ろうじっとしていた。
「誰なんだろう。こんな山奥の濃い霧の中で楽しそうに話をしているなんて。」まるで見当がつかなかった。
「この村で子供がいるのは、インテリの家の子二人とマエストロのうちの子供が四人それっきりのはず。しかしみんな山の怖さを知ってるはずで、こんな霧の中にいるはずがない、いったいだれなんだろう」と黒岩は独り言をいいながら近くの丸太に腰をおろした。、でもその時の黒岩にとって、話をしているのが誰かということなどどうでも良く、むしろ話をしている内容があまりに奇妙で、今時スマホも知らない、テレビゲームも天気予報すら見たことのない子供なんているはずがないと思った。
きっとかつてこの村が子供で賑やかだったころの、大昔の子供の水子霊が成仏できぬにこの辺りに漂っているのかとふと思った。まるで心霊現象とでもいうべき光景であった。
しかし会話の内容にずっと聞き入っていると、どうも昔の子供の話には思えなかった。
「おじいちゃんのころには、大人の間で大勢の人がマネーゲームに明け暮れていたんだって。」と聞こえた気がした。黒岩は”はっと”思った。これはひょっとして自分たちの孫子の代の親子の会話じゃないかと思った。急に意味が判らなくなった。彼は早く帰らなくっちゃと思って、急いでその場を立ち去ろうとしたのだが、相変わらず濃い霧に包まれたままで、帰りの方角がさっぱり見当つかない。腰をおろして丸くなって、霧が晴れるのを静かに待っているしか手がなかった。そしてふと気づくとみるみるうちに今まで立ち込めていた濃霧がどんどんと沢を駆け下りていくように、まるで龍が退散していくかのように消えていった。そして大きく視界が開け、頭上にはもうすっかり夕焼けに染まった空が広がっていて、もう東の空は闇に包まれ始めていて、森の景色は黄昏ていた。
黒岩は呆然としていた。確か山に入ったのは朝早くのはず、なのに森の中はすっかり黄昏に包まれている。俺はあの霧の中でいったい何をしていたのだろうか。丸一日濃霧に包まれた森の中を彷徨い歩いてたとでもいうのか。確か小さな沢を渡ったころで霧が立ち込めてきたはず。なのに今いるのは、沢なんかどこにもない。いつもの尾根筋に立っているではないか。やはり彷徨い歩いていたのだろうか。それとも昔映画で見たタイムスリップのドアでも開けてしまったのだろうか。マジックアワーがゆっくりと過ぎ去っていって、「早く家に帰らなけりゃ暗くなってしまうや。」黒岩は急ぎ足で帰り道を小走りにかけ降りて行った。
ファームに帰って仲間たちといつものように楽しい夕食を楽しんでいたが、黒岩はそのことは誰にも言う気にはならなかった。
そして、その夜彼は真っ暗な”終の棲・家創無庵”にいた。独りで今日の出来事を頭の中で整理する時間が欲しかったのである。その時は、ただ一人で頭を冷やしたかったのだった。あの親子が誰であってもそんなことはどうでもいいことであり、あれが現実だったのか夢を見ていたのか、はたまたあの世にでも連れていかれてたのか突き詰める気にはならなかった。
今、自分たちの暮らしているこの時代であの時子供が話していた、
「どうしてそんなに便利っていいの?」
「どうして昔お金って必要だったの。」という言葉がやけに耳の残っていた。
思い返すと、黒岩はあの濃い霧の中で、子供の声のするほうに手招きされるように、霧の切れ目に吸い込まれるように歩きだしていた。そこには、綺麗なせせらぎが流れており、そのせせらぎの流れる上流には、薄っすらと霧が晴れるように視界が開けていた。その霧の薄くなった先には、光り輝く扉のようなものがあり、黒岩はそここそが帰り道に通じる入り口かと思って、その扉に恐る恐る手をかけ、把手をそっと引いてみると、すると奥の方から目を塞ぎたくなるほど、まばゆい光が差し込んできた。それはまるで、あの山寺で阿弥陀如来を始めて見たときに、感じたあの時の光りにあまりにも似たものであった。
最初金銀財宝でも光っているのかと目を凝らして見てみると、その光りの発する元には、その光りを放つ玉のようなものがあった。そしてそれを何者かが、奥のほうから黒岩に差し出してきた。そして黒岩は何を思うでもなく、そっと自分の懐にしまい込んだ。と途端に、そのまばゆい光りは、霧の中に吸い込まれるように消えていった。その懐にしまい込んだ光りの玉こそ、人として最も大切にしなければならない”真心”と記されていた。
そして、その後霧の消え失せた谷間に、彼は佇んでいたが、その光る玉はいつまでも黒岩の心の中でその光りを放ち続けていた。
現代人の殆どが便利な暮らしに憧れ、そして便利な暮らしに幸せを求めようとしている。そしてその便利さは限りなく人の欲望を擽り続け、その便利を得るために必死に働きお金を稼ぐ。しかし人にとって、その求め続ける”便利”が果たして何を人に与えてくれたのだろうか。そしてさらなる便利を求めた先に真の幸福が待っているとでも思っているのだろうか。
眠らぬ街で、24時間営業のコンビニでなんでも欲しいものが買え、家にいながらにして会社勤めが出来き、ネットショップでどんな衣服でも各地の名産品や高級食材まで何でも手に入る。欲しいものがスマホのタッチパネルのボタン一つで、すぐさま宅配で自宅に届き、人に会わずとも会話もできし、友達もできる、恋人もできる。しかしそれでもなお最新技術を考案していくプログラマーがいて、そのシステムの脆弱性に付け込むハッカーがいて、サイバー攻撃をする。
1000年どころか10年の未来すら、どうなっているのか想像がつかない時代に、人は何を求めているのだろうか。そんな便利が人の暮らしに与えてくれる幸福とは、いったい何なのか。いくら考えても、その正解には辿り着くことはできなかった。しかしあの子のいう
「どうして便利ってそんなにいいの?」の問いかけに対し、黒岩には明快な答えを見出すことが出来ずにいた。
「天気予報ってどうして必要なの?」
確かに気象衛星で、刻々移り変わる雲の動きを宇宙から監視していないと人は生きていけないのだろうか。突然雨が降ったって濡れればいいじゃないか。暑いと思えば服を脱げばいいし、朝寒いと思えば襟巻と手袋つければある程度は間に合う。あの子のいうように空に浮かぶ雲が羊雲なのか傘雲なのか、はたまた雪雲、入道雲なのか毎日空を仰いで観天望気を身に付け、五感を廻らしていればそれで大体は解ることかもしれない。羊雲なら安心してられるが、入道雲が成長すればどうなるかは解るはず。自然が概ねのことは大抵教えてくれるものだ。人は暑ければ汗が流れ、寒ければければ毛穴が塞ぎ、肩を竦める。一時間ごとに天気の予測をしなくとも、そんなには困らず人は暮らしていけるはず。もっと他に大切にしなければいけないことがあるはずだと黒岩は思った。
まして「テレビゲームとマネーゲームの区別がつかない」未来の子供たちにどう説明すればいいのか、黒岩は実に滑稽な話だと思わず吹き出すしかなかった。
しかしその時に先生から聞いたという
「おじいちゃんの頃には大抵の大人がそのゲームに興じていた」ことは紛れもない事実であった。まさに自分自身がそれにのめり込んでいた本人であり、土地転がしで大金を掴めば、毎日株式市況のチェックに明け暮れ、投資案件を紹介されれば何でも飛びつき、それから多額の利益を得ようとしたのもまた自分自身であり、身を持ってそれを体験したのであった。黒岩はその子らの質問に苦笑を浮かべるしかなかった。
最後に黒岩の耳に入ってきた子供らの言葉は、
「地球の真ん中に赤い道って走っているの?
お船で海の上に行けば、領海と接続水域と排他的経済水域って線が浮かんで見えるの?その線はお魚さんやカニさんには、見えるのかなぁ?」
「宇宙から見ると地球儀に書いてる国境という線ははっきり見えるのかなぁ、モグラさんなら知ってるはずだよね、その線を?」とやけに難しい言葉を知ってる子供だなぁと思った。
黒岩は、濃い霧に包まらた中で見たことをその後、誰にも話す気にはなれなかったが、その頃から黒岩の口からは、妙な質問をするようになっていた。マスタの入れてくれる特製のハーブティーを飲みながら
「ねぇ、マスタは今までにUFOって見たことある?UFOの存在って信じる方?」、
「ねぇ、キャプテン、今までに心霊現象って見たことある?あんたって霊って信じるほう?」と会う人会う人にUFOとお化けについて聞くようになっていた。
あの時以来黒岩は、本当にUFOが存在すると信じるようになっていた。そして信心深くなり、常に机の上にコップに水を入れ、線香を一本火をつけて合掌してひたすら許しを請うように神仏に祈りを捧げるようになった。また一人森の中で瞑想に耽ることがあった。創無庵の中で何を考えるでもなく、ただひたすら心の中に空を求めて。しかし、ファームのメンバーに言わせると森の中で黒岩はただ座り込んで居眠っているとしか見えてはいなかったようであったが。
解ろうとし始め無くとも気づき出すことがある。
知ろうと努力しなくても、その存在を肌で感じるようになるのかもしれない。
黒岩は、その日からそこに神の存在に気づいたのかもしれない。
やがて漆黒の闇夜は、そんなことを考えているうちに、東の空がうっすら青く色づき始めていた。その薄暗い空の先に明けの明星が眩く神々しく輝いていた。彼はその金星の光りをUFOだと思って、その存在を信じ切った。
この時間帯を昔の人は「晨」と呼ぶのだそうである。
生きる意義と死ぬる意味
その頃から、いつしか黒岩は、以前から時たま感じていた体の異変に、一定の覚悟を感じていた。
何かいつもと違う胸の息苦しさに、いずれ自分に訪れるであろうその時を感じていた。
ある種の脱力感は、風邪を引いた感じもなく、どこかを打ったわけでも怪我をしたわけでもないのに、僅かに体の一部に時たま走る違和感を感じることがあった。そして言い知れぬ倦怠感に襲われることがあった。
黒岩は、密かに胸中で自分にもいよいよ来る時が来るのかなぁと考え始めていた。それは誰に打ち分ける物でも相談するものでもなかった。自分一人ゆっくりと咀嚼して、少しずつ受け入れていくしかなかった。
やはりそうは言っても、不安は隠せなかった。そして幾度も恐怖で眠れぬ夜を過ごした。時には一心不乱に以前お母さん先生の手作り和紙に自分が大切にしていた愛用の万年筆で、般若心経を幾巻も幾巻も、怯える自分を諫めるようにただ書き続けた。
しかしその襲い来る心のざわつきは治まることはなかった。だがそれもまた森羅万象の理なのかと思うようになっていった。いずれ訪れる死を恐れで、怯えて生きるよりも、その定めに身を委ねて生きていく方が気楽だと思っていた。
もうあまり長くはないのかもしれないと思ったり、もう少しだけ生きることを許してもらえるのか天を仰いで、問いかけたこともあった。神よ我にもう束の間時間を与えてくださらないでしょうか。もう一つだけやり残したことがあります。最期の私のお願いをお聞き入れくださいと無心に神に祈った。神よ我を見守っていてくださいと、抜けるように晴れ渡った青空を見上げて、両手を合わせて必死に願った。
黒岩はファームの仲間の前だけでは、最期のその時を怯えることなく、先逝く者として潔く、そして楽し気にそれを迎えたかった。
それこそがファームの仲間に対する最期の感謝の意を表す自分なりの死に方だと考えていた。
そして、何時しか頭上にあった陽は西に傾き、西の空がうっすら茜色に染まり始めていた。回りの景色はすっかり黄昏ていた。黒岩の目にはほのかに涙が滲んでいたので、彼の眼球には沈みゆく夕陽がやけに怪しく紅く映し出されていた。
その頃から生きる意味について、黒岩は深く考えるようになっていた。如何に生きたらいいのか、何を求めて行けばいいのだろうか。しかし意識して自然の営みと触れてみても、その答えを見つけることは出来なかった。意識すればするほど、その本質から遠ざかって行く気がした。自分とは何かを考えること、生きるとは何かという自分にとらわれていても、どこにも辿り着けない自分がいた。時に自然のありさまに深く感動することがあった、何気ない差し込む光に心動かされ涙することもあった。そんな自分を真っ白にしているとその答えが、おのずと天から舞い降りる思いになることがあった。
またファームには、時計というものがなかった。朝は、陽が昇ると目覚め、暗くなれば、皆寝ることが通例であった。だからなのか一日は非常に長かったが、いつも時間は穏やかにゆったりと優しく流れ、時間は優雅な暮らしを、より一層引き立ててくれ、また人の心にゆとりと優しさを育んでくれた。まさしく、たまに時が止まってしまったのかと錯覚に陥ることもあった。
懸命に山で斧を降り下ろし、畑で鍬を振りかざし、馬の頬を撫でてやる時、ふと生きていることの歓びに浸ることができた。きっと彼の追い求める答えとは、そういう何気ない日常の何も意識することのない世界の中にあるものなのかもしれないと思うようになっていた。ひたすら身体を動かし、思いに任せて何かに愛でることではないだろうかと思った。ただひたすらに生きていれば、そこに生きる意味とこの世に生まれた理由があるような気がした。それは決してお金で買えるものでもなく、地位や名誉で得れるものでも、天性の優れた才能の持ち主にだけ許される特権でもなく、日々をひたむきに生き、無心になれるその時に誘われる境地の先にあるものこそが幸福ではないだろうかと思った。
黒岩はかねてから佐伯君から今配信し続けているユーチューブチャンネルの広告収入が半端でない金額になっていることを聞かされていた。
黒岩にはその総額を聞いてもはっきり言って自分の持つ感覚では、見当が付かなかったが、その額は相当なものになっていた。
それで最初、ユーチューブに出てもらった人に謝礼でも渡したらいいんじゃないかと黒岩は佐伯君に提言していたが、佐伯君がその黒岩の申し出をファームのみんなに伝えると、みんなは口を揃えて言った。
「そんなもんもらっても使いようがないじゃないか、そんなもんいらねぇや。今度はもっとましなもん持って来いよ。」と、欲張る者はなく、それ以上にいつしか、みんなお金自身に興味をもたなくなっていて、必要がなかっただけで、何もかもに無頓着になっていた。決して、人はそうやすやすと煩悩を振り払えるものではい。
だからといって、誰もが煩悩を捨てるのは容易いものではない。ということはすなわち仏の前で座禅を組んで、宇宙と繋がらなくとも、目の前の無頓着で無邪気な心の暮らしの中にこそ、無の心境があるのかもしれないとファームの面々は考えていた。
天上には在らず、常に邪気無く、何事にも頓着すること無く、天真爛漫にひたむきな日常にこそ、弥陀の言う涅槃があるのかもしれない
ということで、以前黒岩がお母さん先生が作った和紙の売り上げだと玄さんから預かっていた僅かな売り上げ金と今回の広告収入の金額を合わせて、困った人のためとファームの子らの今後の奨学金に積み立てるということになり、それは”シアワセS基金”と呼ばれるようになった。
”シアワセS”、それは幸せとは複数形でなくてはならないのだという意味であった。そして、それはやがてファームの子供たちに限ることなく世界中の子供たちのために積み立てられることとなった。
そして〟シアワセS”はやがて国際共通語となり、その後世界の多くの子供たちのためにそのお金は役立てられた。
シアワセS基金は、やがて世界中の貧困に喘ぐ子供たちの希望の光りとなった。
また逆にシアワセS基金に世界中の多くの人々からも寄付が寄せられるようになっていいった。
綺麗な水を飲むことの出来ない人々の為に新たに井戸を掘るための資金に。
スラム街の子供たちの為の学校建設の費用に。そして進学したくても学費のない途上国の若者のための奨学資金、留学費用に使われ、やがてそのうちの一人は、外国で医学を学び、風土病に悩むアフリカの子供を救う国境なき医師団のメンバーとして海外で活動する者もいた。
農業指導員として、ミクロネシア諸島で野菜作りの指導をする若者など、各地からファームに感謝の便りが届いていた。
黒岩は、そんな各地から届けられる手紙を嬉しそうに目を通しては、微笑んでいた。しかし既にその多くの寄せられた手紙のすべてに、丁寧に返事を書く力はもう彼には残されてはいなかった。自らの身に着けた呼吸法で、横隔膜を大きく動かして、空気を胸一杯に吸い込み、身体全身に十分な酸素を送り込み、少しでも気力を絞りだしていた。
或る日黒岩は、まるで幽体離脱したかのような感覚に襲われていた。
子供の頃から貧乏な家庭に育ち、なかなか他の子供たちのように、遊園地とか動物園に連れて行ってもらえなかった彼が、亡き母の作った昼食の稲荷ずしを或る日の運動会の昼休み二人一緒にほうばっている黒岩がいた。
そして再び場面は代り、未だ見ぬ孫たちと共に、山奥の秘湯宿で、みんな揃ってキノコ鍋に箸を伸ばして突っついている自分がいた。黒岩は孫におもちゃを買ってとせがまれていた。
それは過去と未来が串刺し状態になって入り混じっていた。幽体離脱したというよりも深い眠りの中で見た夢だったのかそれとも幻覚だったのかもしれなかった。
そして翌朝、黒岩にも、その旅立ちの時が訪れた。黒岩はいつも布団ではなく、愛用の使い古しのシュラフで寝ることにしていて、その日も相変わらずそんな姿であった。
襲ってくる身体のあちこちの痛みを、全身を丸め顔を顰めて必死に耐えていた。その姿はまさしく芋虫が脱皮するが如く。隣に寝ている者を気遣って、シュラフの端を口に噛みしめ、呻き声を漏らすことのないように、懸命に痛みに堪え耐えていた。
そして、やがてその痛みのせいか、徐々に黒岩は意識が朦朧となりだし、意識が少しずつ遠のきつつあった。薄れ行く意識の中で、そこは、奥能登から彼女を連れて、群馬の尾瀬にある御池から木道を歩いていて、朝霧に包まれた尾瀬湿原はまるで二人が雲の上を浮かんでいるように綿雲の上の木道を歩いていた。やがてベンチに腰を掛け、目の前に聳え立つ燧岳の雄姿を眺めながら、ゆったりと風に揺れる湿原に咲くワタスゲの姿を二人仲良く並んで深まり行く秋の情景を堪能していた。
尾瀬湿原から流れ落ちた水は、やがて滝をおち、滝壺から沸き上がる漠水の水飛沫は、その渦巻く霧に暮れなずむ夕日の差し込む光が見事な虹を浮かびだし、やがてそれは山並みに広がる紅葉の燃え上がる秋色と溶け合い、水飛沫の水色と清流の澄み切った青、杉の木の緑とそれにコナラの黄金色と楓の紅、まさしく周りの山一面の紅葉の森が虹色に染まり、それは黒岩の頭いっぱいに恰も幻の森のように鮮やかに広がっていて、やがて彼は独りその中に吸い込まれていった。
それは実に見事な晩秋の光景であった
「まっかだな まっかだな つたの 葉っぱが まっかだな もみじの 葉っぱも まっかだな♪ 沈む 夕日に てらされて まっかなほっぺたの 君と僕 まっかな 秋に かこまれて いる♪」と隣で妻が嬉しそうに口ずさんでいた。
そして黒岩は、突然軽快に走り出していた、森の奥に何かを確かめに歩き出していたのだった。それは以前みんなで植えたドングリの苗木がそろそろ大きく育ち、たわわにドングリの実がなっているのか確認に行ってみたかったのであった。その大きく枝を伸ばした木の下には、シマリスが頬一杯にドングリを頬張って巣穴に戻ろうとしているところであった。そのリスがひょこりとこっちに顔を向けた。黒岩はほっとした。そして凍ばっていた肩の力がすーと抜けていって、大きくため息をした。
その後、あの山寺に続く長い石段を一歩一歩踏みしめるように登っていた、まるで天上に向かうかのような長い石段を一歩ずつ。そして、長く続く石段を踏みしめらがら、心の中で、離れ離れになった家族に向かって囁いていた。
「みんな、今まで散々迷惑かけて、ごめんな、こんなお父さんを許してくれるかなぁ・・・」とささやきながら、
朝の和らな木の葉の合間から零れる木漏れ陽が、黒岩の頬に柔らかな光りが差し込んでいた。枕元には幾枚も書き記した写経の和紙と、手にはお守り代わりに大切にしていた昔娘から貰った手垢だらけのテルテル坊主をしっかりと握りしめて、ほんのり温もりを感じさせる穏やかな空気に包まれて、薄っすら微笑みを浮かべながら、一人静かに誰に知られることもなく、朝早くに彼はそっと息を引き取った。
黒岩の死を知ったマスタは翌朝、流し台に立ち、彼の遺体に供えるべく精魂込めて、涙を浮かべながらお茶を入れた。
横たわる息無き黒岩の遺体の前で、呆然と立ち尽くし、一句俳句を詠んだ。
先逝く同志、我が心に苦し、ドクダミ茶
そして、そのあとマスタは突然沖縄民謡を歌いだした。
♪いまさら離縁と言うならば、もとの十九にしておくれ。もとの十九にするならば、庭の枯れ木を見てごらん。
枯れ木に花が咲いたなら、十九にするのもやすけれど。焼いた魚も、泳ぎだす♪♪
その後、黒岩は生前、かねてから自分に何かあったときには、自らの屍を荼毘に臥して、遺灰をドングリの木の根元に散骨してほしいと告げていたので、ファームのメンバーは、葬列を組むのでもなく、各自思い思いに、森の中の木々の足元に、そっと彼の白骨となった思いを、いかにも肥料を撒くが如くに、願いを込めてそっと木の根元に仏に供物を供えるように撒いたという。皆の心の中では、やがてそのドングリの木が大きく育つことを夢見て。
破壊と再生の日々
地球から遥か一億五千万km離れた太陽の放つ光は、僅か8分で地球に到達するという。そして太陽が表面爆発を起こすいわゆる太陽フレアから発せらる宇宙磁気嵐は、48時間後に地球全体に到達すると言われている。
或る日その太陽の表面で異変が現れていることを確認したと、国際情報通信研究機構が全世界に向けて発表した。それは今までの観測した規模の数千倍もの規模であり、広島に投下された原爆の約100億万倍だという。その数字が表す意味は、日常では見当も付かないものであったが、それは計り知れないエネルギーを太陽が発したことになり、2日後には地球にその影響が現れるであろうと伝えてきた。
宇宙磁気嵐は、列島を直撃する巨大台風の影響の比でないことをその頃は誰も知らなかった。今度はやがて、宇宙磁気嵐の到達時間が迫っているとNASAが伝えてきた。それはかつて東日本を襲った大津波が沿岸の街を飲み込んでいったように、地球全体を飲み込むように襲い掛かってきた。しかし、その宇宙磁気嵐の影響は大津波とは比較にならないものであった。
「パパ今日帰りに買い物してきてって頼んだのにメールみてないの?」
「そんなメール届いてないよ。」
「おかしいわね、ちゃんと送信したはずなのにね。」
ある横断歩道で、横断中の幼稚園の保育士が先導する園児の列に、突然女性の運転する乗用車が園児の列に突っ込んできた。列の中央付近の園児3人が自動車にひかれて即死、4人が重傷を負うという悲惨な事故が発生した。その後の調べで、その車には最新鋭の高度運転支援システムが搭載されていたという。運転していた女性は、その最新鋭システム付きの自動車のため、前方をあまり注意していなかったとその後の事情聴取で証言した。
そして同様の事故は、次々と各地で発生していた。ある乗用車は、やはり突然安全走行用の車線制御システムが作動しなくなったという。GPSが急に誤作動を起こし、自動車はガードレールを破って、立体交差の高架下に転落し、その後自動車は運転手とともに炎上したという。
その頃首都高でも追突事故が相次いで発生していた。
ある病院では、手術中の医師が
「電子カルテが閲覧できないけどどうなってるんだ。」
「システムエラーみたいですね、バックアップサーバーに直ちに切り替えますね。」
「まださっぱり見えないじゃないか、ふざけるなよ、今オペの最中なんだぞ、手術用のバイタル機器も何も映し出されないじゃないか。どうなっているだ。どうするつもりだ!こっちは人の命がかかってるんだぞ。」
まず最初、地球上で影響を与えたのが通信機器であった。ほぼ地球全てを繋いでいたブロードバンドつまり大容量データ高速通信網と衛星から受信されるGPSの機能に影響が出た。全世界をグローバルに繋ぎ合わせたインターネットに大きな被害をもたらしたのだ。
当初はどこかの国が、サイバー攻撃を仕掛けてきたという見方が大半で、サイバー攻撃対策室がその詳細を追跡したが、詳細は最後まで判明しなかった。
しかしハッカーは既に、電子決済を出来なくし、引き出してもいない預金通帳の残高が減り続け、在庫管理のシステムは機能を失い、個人情報はネット上で垂れ流しとなる事件を頻繁に起こしていたので、大半の専門家は強烈なサイバー犯罪だと断定していた。
その後航空機の自動操縦装置が使えなくなり、マニュアル飛行に切り替えたが、管制塔とのやり取りが不能となり、着陸できない飛行機が地球の上空に少なくとも100機近くが音信不通で彷徨う事態となっていた。
一方、世界経済を牽引していた国際株取引は、東証の大きな電光掲示板に映し出される株価が異常値を示し出し、今度は一斉に取引が出来なくなっていった。それは半日経ってニューヨーク市場が始まるころには、マンハッタンでも同様の自体に陥っていた。通信網も完全に不通となり、電子マネー、スマホ、GPS機能は使えなくなり、遠洋航路の船舶は現在地点を把握できず、天気予報をはじめとした気象情報も得ることが出来なくなり、自動運転の自動車、カーナビは関係ない地点を指し示し続け、地上では国際宇宙ステーションとの交信も途絶え、国際宇宙ステーションは大宇宙の中で完全に孤立してしまった。
各国は、サイバー攻撃とハッカーによるフィッシング対策に全精力を費やし、新たなシステム構築を全力で臨んだ。
しかし、その脆弱なシステムの再構築は功を奏すことなく、それとはまるで違う形で地球を襲ってくるものがあった。
太陽表面で発生した大規模な太陽フレアが引き起こした宇宙磁気嵐は、数時間で地球を取り巻き、その頃地球全体を取り巻いていた情報通信のシールドは、瞬時に完全崩壊した。その宇宙磁気嵐は、無残にも世界中を繋いでいたグローバル経済に、壊滅的な影響を与えることなった。それは結果的に近代科学の脆弱性を露天することとなった。
歴史とは、限られた特定の権力者によって築かれた記録なのだろうか。これからの未来も同じように権力を握った者が作り上げていくのだろうか。
未来の子供たちからのメッセージは、そうは伝えては来なかった。
確かに学校の歴史の教科書には、力を掴んだ者の足跡が記載されているのが殆どである。歴史に名を残した名武将、幕末の獅子、独裁者、そして各国の名だたる政治家、偉人。しかし人類の歴史とは、そういうことを指すものではない。歴史上に名を残さなかった数多くの人々の生きざまの積み重ねであり、誰に知られることもなく、懸命に未来を信じた人々の希望そのものだと思う。歴史を動かしたのは、あくまでもその時代をひたむきに生きた大衆の思いそのものである。時代はクーデターや戦いで変わったわけではなく、その時、如何に多くの人がそれに共感し、力を合わせたその結果ではないだろうか。
分かち合うよろこび
黒岩の死の知らせは、その家族の長男である若者に連絡がいった。その彼は偶然ネットで見たというユーチューブチャンネルでファームのことを知り、一度だけファームに訪れたことがあった。その若い男性は、生まれたばかりの赤ん坊を抱きかかえて、ファームにやってきた。黒岩に逢っても彼はあまり話しをすることもなく、孫の顔をじいじに一度でも見せたかっただけだったと言って、赤ん坊を黒岩に抱かせてあげていた。そしてしばらくして、自分の勤め先の病病院の名刺だけを残してファームを去っていった。その彼の残した名刺に連絡先が書いてあったので、マスタが、それを見て黒岩の死をその息子に告げると彼を通じてニューヨークに住む母親のところにも、国際電話で彼の死の知らせが届いた。
彼女は黒岩との離婚後かねてからやりたかったアフリカ難民の救済のため、南スーダンの国際難民口頭弁務官事務所の非常勤職員として、現地で難民の子供たちの自立支援活動をしていた。その活動が5年を過ぎたころ、国連が推奨している、SGDs推進室に移動することになり、息子から元夫の死を告げられた時には、国連本部のあるニューヨークの郊外に住むんでいた。そして、彼女は離婚して干支でいうひと回りの12年ぶりに変わり果てた黒岩の遺体と対面することとなった。
「ご苦労様でした、あなたはここでお仲間がいっぱいできて幸せそうね。あなたが昔からいいことがあるといつもきまってこんな笑顔を浮かべていたわよね。その時と同じ顔だわ。都合が悪いとしかめっ面して黙り込むくせに。きっといいことがあったんでしょうね。お友達の皆さんから話は聞きかせてもらいました。ようやくあなたも迷い道から抜け出せたのね。それは長い長い道のりだったけど、やっと自分の道を見つけたのね。
きっと光り輝く街の灯りの幻の森の中で、ずっと彷徨い歩き続けていたのよね。でも家族のために一所懸命だったことは妻である私は一番よくわかっていましたよ。口に出せずにごめんなさいね。息を引き取ってやっとあなたは本物の森に帰ってくることが出来たみたいね。
今の顔は奥能登であなたと初めて逢ったあの時の顔そのままよね、あの時はあなた素敵だったよ、とっても。熱心に未来に残しておきたい綺麗な景色のこと、この国の未来のことを一生懸命、私に話してくれたよね。あの頃のあなたをしっかりと今でも覚えていますよ。純粋でいて、涙もろくて、張り切り屋で何にでも感動しやすいあなたに逢って、このまま私をどこでもいいから連れ去さられたいって思ったのよ、私は。
今あなたがようやく掴んだ幸せを私にも少し分かち合わせてくださいな。そのくらいいいでしょ。あなたがいつも口癖のように言ってたじゃない。
奪い合えばいくらあっても足りない、譲り合えば大抵のものは間に合う、分かち合えば幸せは倍になってかえってくるって。
私にも手伝わせてさせてくださいな。そのあなたの夢の実現を。
彼女は葬儀後すぐにまた、大事な用事があるといってアメリカに戻っていった。
その後まもなくして、国連人権会議の国際会議が開催された。
そして彼女はその会議の場で発表しようと決めていたことがあった。
黒岩は、生前アカデミーチャンネルの配信のために、大学ノートに常に自分の考えをまとめて書き記していて、それは数十冊にものぼっていた。
それは黒岩が書き残した大学ノートの一冊に書かれていた「ユニバーサル・アース」という未来の地球のあり方であった。
亡き夫の分まで自分もそこに書いてある未来図を実現しようと考えていて、全てのものが共に生きる道を模索し、然りの森のもつ様々な意味を世界中の人々に伝えるためであった。
それは今まで国連で行われていた難民キャンプへの食糧支援として、小麦粉の提供という直接食糧提供ではなく、その代わりに小麦の種子を配布して、難民自らが畑を耕し、種子を巻き、それを栽培できる技術指導を国連が行うようになっていった。
エネルギーも中東の油田に頼ることなく、出力もメガ発電ではなく、自らがその地域の特性を生かした様々な小規模自然エネルギーサムシングエナジーでエネルギーを賄う暮らしを提唱した。
学校教育も限られた教師に頼らず、村の年寄りからいろんな生活の知恵を教わり、自然に畏敬の念を抱き、病気も近代医療の対処療法に頼ることなく、まず自らの健康増進のために食と水の安全を守る取り組みを教えるようにした。
そしてお金に頼るのではなく”足るを知る”の考えで、自然から得たものを今度は自然のために返す生き方として、自然資本主義を説いて回った。
世界には、今日食べる食料も確保出来ない飢餓に直面する人口が、7億人にものぼるという。世界の人口が78億人だとすると10人に一人が飢餓に苦しんでいることになる。さらに貧困者の人口は13億人、6人に一人が厳しい貧困に喘いでいることになる。
確かに貧困というとお金がない、モノが買えない、食べるものがない、教育を受けるお金がない、仕事がない。そんな現象をさしているように言われている。
しかしファームハレルヤの仲間たちは、その全てが足りていなかったが、しかし彼らは毎日を楽し気に暮らす生き方を選んでいた。
貧困とは食料がないことだけではない。心が貧しいことを意味するのではないだろうか。
生きる気力を失うこと、仲間を信じられないこと、奪い合い、争い合い、競い合って人を恨んで社会を恨んで生きることなのではないだろうか。
力を合わすことを忘れて、助け合うことの前に奪い合うことを優先する社会を貧困社会というのではないだろうか。
ファームの彼らは、自分のことを差し置いてでも、未来の子供たちのことを、そして周りの他人を思いやる気持ちを大切にしていた。自然を思いやり、野生動物のことを思いやって暮らしていた。そして何よりも自分が心の底から歓こべる何かをよく知っていた。
それを幸せというのではないだろうか。それこそが生きることの意味なのではないだろうか。生きる歓びを知り、その掛けがえのないすべての命に感謝して生きていく。自分を育んでくれる自然に感謝し、自分の仲間を信じ、感謝して生きていく、それこそが人類に残された唯一の生きていく術ではないだろうか。
愛することの歓びを知り、愛されることの嬉しさを感じて慈愛に包まれていることに気づいて暮らしていく。そして厳かに死んでいくことを潔しとして、前向きに生きていく。死を天に召されると考えて新たなる旅に出ることを由とする。決して死を恐れることなく、その時が来ることを怯えて生きていくことを由とはしなかった。
彼女は国際会議の場でこう提言した。それは後に、どの優れた学識経験者よりも人の心を打つ非常勤職員による名演説と称された。
日本環境新党の暴挙
経済評論家は、経済はすべて大量消費の上に成り立っているという。消費が冷え込めば途端に景気が悪くなると口を揃えて同じことを言う。
しかしこのままの大量消費社会は、必ずいつか行き詰り、破綻するときがくるはずである。
日本では、今まで日本経済を牽引していた自動車産業は、各国のガソリン・ディーゼル車の新規販売規制の煽りを受けて、今まで世界のトップシェアを占めていたハイブリッドカーも、新車販売に大きな陰りが見え始めていた。また今までも得意とした家電製品は、新興国の価格競争力には太刀打ちできず、また通信においてもGAFAの圧倒的な寡占化に歯止めがきかず、立ち入る隙がなくなり、国内の主な産業は悉く、国際的には、撤退を余儀なくされていた。そのために国内経済は低迷を続け、ついには、時の政権与党の自由党は、支持基盤である経済団体から見限られ、解散総選挙では大敗を喫して、長期政権を明け渡さざるを得なくなっていた。自由党は今までも、今まで得ていた国会の過半数の議席数は、国民の総意であり、国民の信任を得ていると言いつつも、裏では常に安定政権維持のためには、経済最優先の政策を取り、企業利益こそが国を豊かにする原動力であり、そのためには、国際競争力は不可欠だと唱え続けていた。
外交においても対米、対中を風見鶏のように、両国の顔色を伺いながら、のらりくらりと調子のいい態度を取り続けて、居並ぶ列国の前では、か弱いいじめられっ子同然であった故の結末であることを、自由党はその後も一切認めようとはしなかった。
しかしそれこそが、戦後政治の末路であった。
「嫌なことは嫌だと、しっかり言える人間になりなさい。」とある日本環境新党の議員は子供の頃、恩師からそう言われていたことを忘れることはなかった。
新たな政権交代により、日本環境新党が、多くの大衆の支持を受け統一選挙に圧勝し、衆参両院で議席数の1/3を確保する結果となった。
日本環境新党は、もともと政党として活動するまでは、小さな地方の山奥のボランティア団体であり、環境自然保護活動で、主に広葉樹の植林活動を行っていた。
彼らは、従来のいわゆる選挙運動をすることはなかった。何が何でもお金をかけてまで、宣伝カーに乗って演説したり、街頭演説どころか、選挙ポスターを作成することすらなかった。
それはもともとそういう主義主張を持っていたわけでもなく、出馬した候補者は揃って従来の選挙運動自体に無駄な労力だと思っていて興味がなかったし、有権者もそんな無駄な選挙運動でそれを判断しても仕方なく、誰もかれもが選挙前に俄かに馴れ馴れしくなることのほうが不自然な行動であり、それよりも候補者のごく普通の日常の暮らしっぷりをみんなが注視していたので、特段選挙直前の業とらしい握手を求められることに嫌悪感すら覚えていたからであった。
しかしその頃でもSNSのフォロアー数は、優に5000万人を越えており、ユーチューブの専門チャンネルの再生回数は、毎回1億回にも上っていた。そのチャンネルを配信していたのが、佐伯壮一郎という若手議員であった。彼は若かりし頃の病気で、左足は義足をしていて、また父親が、国家公安委員会から要注意人物としてマークされていたことを父から聞いていた。
その後、彼は多くの支持者から後押しされる形で、参議院選挙に無所属で出馬し、国政への道を歩むこととなった。
選挙では、政党要件の参院選の総得票数の2%を遥かに越え、その政党要件を満たし、ボランティア団体は、いつしか正規の政党となっていた。
経済の低迷した日本経済において、新たなる外交戦略は既に、世界経済の中には残されておらず、石油、食糧の海外依存は貿易赤字を膨らませていくばかりで、日本経済は瀕死の状態に陥っていった。
そんな低迷する日本経済に対して、日本環境新党の打ち出した政策は、なんと新たな経済対策でもなければ、景気浮揚策でも助成制度でもなかった。
日本環境新党は、自らの政策を実現するため、各党と政策論争を行ったが、既存政党の殆どとは基本同意には至らず最後の選択肢として、一番政治思想の近いところにある共産民主党と連携してチームリベラルアーツを超党派議員連盟として結成し、早々に共産民主党と連立を組むことで調整がなされ、ようやくにして念願の両院の議席数の過半数を確保する事を達成出来た。が両党の政策協定では、今まで護憲派の共産民主党も今回の憲法改定案の骨子には合意したものの、増え続ける社会保障費の削減案に関して、圧倒的な高齢者層を支持基盤にもつ共産民主党にとっては、今回の日本環境新党の社会保障制度の大改革に関しては歩み寄りを見せることはなく、その点での連立の足並みは揃うことはなかった。
そのために、本国会において与党となった日本環境新党は高齢者医療助成制度の改革を一旦断念せざるを得なくなっていた。
「宮下委員長、ここは何とか我が党の推し進めようとしている社会保障制度の抜本的な改革の意義をご理解いただけないでしょうか。ここで思い切った決断無くして、この国の未来を築くことはできないと思うんですが、いかがでしょうか。いつまでも後世に今の政治の付け回しをし続けることができるとお思いなんでしょうか。今こそ英断をなさる時なのではありませんか。」と日本環境新党の党首である佐伯議員が必死に連立の相手に詰め寄った。しかし共産民主党は、
「佐伯さん、バカなこと言っちゃいけませんよ、高齢者を敵に回して次回の総選挙に我が党がどうやって勝利できるとでも仰りたいんですか。お宅が全面的に選挙協力してくれて、一選挙区につきこのチームリベラルアーツの候補者を優先的に我が党に割り当ててもらえるんでしょうか。それを吞んでもらってからですよね、この政策協力に関しては。」
「申し訳ありませんが、旧態依然のような選挙を行うつもりはありません。なれ合いの選挙で本当の選挙民の信任を得たとでも仰りたいんですか。それじゃ今までの政治と何の代り映えもしないんじゃないですか。それを続けていけば、若者の政治離れに拍車がかかるだけじゃないんですか。」と佐伯議員が反発した。
「あんたらは、いつまで甘っちょろいことを言ってるんですか、だから野党から政治の素人だってバカにされるんですよ。」と宮下委員長が佐伯に対し、如何にも人を小馬鹿にするように嘲笑いながら言い放った。
「承知いたしました。今回は我が党の政治信条をまげてまでお宅らに歩み寄ることはいたしかねます。よって平和憲法の改訂と温室効果ガスの排出規制、原発の早期停止だけは共同歩調をとっていただくということでご了解いただけますでしょうか。」とやむなく日本環境新党は社会保障制度改革を断念して共産民主党に妥協するしかなかった。
党首討論の場でチームリベラルアーツの党首演説で発言したことは、
一、国内に保有するあらゆる軍備の全面放棄。
二、稼働中の火力、原子力発電所の早期停止。
三、過疎過密の歪な人口分布の是正の為の首都機能の移転。
であった。
当初、その党首演説の内容に対し、野党となった自由党その他野党からは、やはり想定通りに猛反対を受け、まさしく政治の舞台に初な新米議員からすると嫌らしい駆け引きも裏取引も経験したことがなく、野党は揃ってそれを素人芝居ような政策、無防備な国防戦略と厳しい批判と追及を受けることとなり、国会は開催されるや否や、衆参両院ともに紛糾と混迷の色を濃くしていった。
しかし超党派議員連盟のチームリベラルアーツは各党の国会対策委員会へ参加をすることを頑なに拒んだ。それは、当初国対委員会に参加したときに、余りにも野党のベテラン議員が饒舌であり、政治経験のない新人議員にとってそれは難解すぎる専門用語の羅列に圧倒され、霧にまかれるように論破されてきたため、その後与党は議論を密室で行うのではなく、国民に公開される本会議議場に限定することにしていたからであった。しかし、時の政権与党は国会運営において、断じて野党の要求に応じることはなく、独自の政策を次から次に推し進めていった。
さらには、今まで自由党が成し得なかった日本国憲法の抜本的な改定を断行しようとしていた。
憲法第一条には、かつての天皇の地位の明確化に変わって、地球環境の保全と再生を国家の最優先事項として、それに総力を揚げて、全世界が協調してそれに取り組むとあった。
第二条には、日本国の国民の財産として自然環境の健全な恒久的保全を実践し、そのために自然資本主義を尊厳するとした。
また第二項では、そのために地域の様々な資源は地域に還元するというBLC憲章を掲げた。
そして、今まで前政権で議論となっていた、
第九条の平和主義を唱えている条項の明確化のために、国内に保有する全ての軍備を放棄するというものであった。
この憲法改訂案には、野党からは強い反発が上がり、アメリカの後ろ盾無くして、国家の安全保保障は成り立たないと強く主張する自由党に対し、真っ向から与党の日本環境新党は反発し、改訂新防衛大綱を作成し、中長期国家安全保障戦略の唯一の方策として、積極的に仮想敵国への環境技術支援を推し進めるというものであった。今までにアメリカに支払ってきた高額な軍備品の数々や米軍駐留経費負担分の削減により、捻出された予算で、ODA政府開発援助として、途上国に再生可能エネルギー発電所の建設や環境保全型農業の技術支援等を行い、国際協調こそが最大の国防でありと主張した。それはキューバ革命の時のチェ・ゲバラの行った敵への思いやりから学んだものであった。
そのため即時、日米安保条約の破棄、そして、今後あらゆる国との一切の安全保障同盟を拒絶すると明言した。それは今までの与党を始め、前政権の諮問機関の軍事評論家家、国際外交専門家らからも厳しい指摘を受け、敵国の侵略の危機を唱え、猛烈に反対された。
当時、訪米中の前総理大臣が、アメリカ大統領とのゴルフの最中に、大統領から昼食の宴で強く要求されたことがあった。それがF35最新鋭ステルス戦闘爆撃機の大量購入であった。当時最高額と言われたステルス戦闘爆撃機を147機、一機114億円、維持費307億円を含めて総額6兆2千億円もの膨大なる装備品の購入を迫られたのであった。それは訪米から帰国した総理大臣は、その後すぐに閣議にて了承を得て、次年度の概算要求の防衛予算に、その額は全て盛り込まれることとなった。
しかし、今回政権を担った与党は、その前政権の密約を全て無効として、その時のアメリカへの軍備の発注を全て破棄した。
しかしそれを受けてアメリカ側は、その後日本に対し、高額な違約金を請求してきたが、政府与党はそれには、断じて応じようとはしなかった。
それはステルス戦闘爆撃機一機の購入費用で、その頃開発されていたハイブリッド型風力発電システムを114基建設できることを意味しており、その時白紙撤回した防衛予算で、途上国の無電源地域や、劣悪なガスを排出し続ける火力発電所に代わって、再エネ型発電所をODAで各国に建設しすることにしていた。
その後国連で開かれた安全保障理事会においても、そのことが取り上げられ、常任理事国のうち、イギリスを除くすべての国とイスラエルを除く世界各国が、アメリカの賠償請求脚下に賛同し、アメリカの要求は否決されることとなった。その後そのハイブリッド型風力発電装置は、各国に建設され、その設備を人は、ステルス発電所を呼ぶようになっていた。
日本国内でも既に前政権は2050年二酸化炭素排出ゼロを宣言していたが、その内訳は大幅な原子力発電に依存するというものであり、再生可能エネルギーの促進ではなかった。
アメリカとの関係の悪化により、アメリカの石油メジャーが独占していた中東原油の輸入が完全にストップしたが、その再エネシステムは、その後日本の原油依存体質から脱却するのに、大きな役割を果たすこととなり、先に宣言していた二酸化炭素排出量ゼロの目標年度を大幅に早めることとなった。
その後そのエネルギー革命の賛否を国民に問うたために、再度内閣総辞職、解散総選挙を実施されることとなった。
しかし日本環境新党の党員は、今までに議員経験者は党内にはほぼいなく、ほとんど全員と言っていいほど、一般大衆であり、政治の素人そのものであった。
しかし野党や政治評論家は、その選挙結果をこう予測した。
「あくまでも、この選挙の世論調査結果は、何も政治に関心を持たない無知な大衆の浮動票を巧みにネットで操った、群集心理の危機的な現象あり、若者の流行り病のようななものである。」とテレビ番組で時の与党の政治方針を悉く酷評し、与党の正当性を認めるものはいなかった。
しかし、前政権のシンクタンクだった専門家や下野した自由党の予想とは裏腹に、選挙結果は、再選された現職議員の他に、シングルマザーの主婦や非正規雇用の社員、身体障碍者等社会的弱者の新人が相次いで当選を果たし、政権与党は圧倒的な大衆の賛同を得て、国民の信任のもと、与党の議席数を増やすばかりで、両院における圧倒的多数の議席数で、ほぼ一党独裁に近い勢力となっていった。
総選挙の結果は、有権者はあくまでも大企業でもなく、軍事評論家でもなく、その大半が一般大衆であることを意味していた。また今までの戦後政治が、そうでなかったことの証でもあった。
そして、圧倒的な国民の内閣支持率を背景に、開催された国会で、佐伯壮一郎が首班指名され、日本第100代内閣総理大臣に選出され、本会議場で、杖をついて彼は立ち上がり、国民の前で深々とお辞儀をした。
しかし、本会議場は野党のヤジが渦巻いた。
「ふざけるな、このステッキ総理が。」
「歩くこともやっとの総理に、何ができるっていうんだ!」と総理を愚弄する下品なヤジがとびかった。
しかし国会中継を見た大衆には、皮肉なことにそのヤジが、「素敵な総理なら、何でもできる」と聞こえていて、かえって国民は、「野党も大したもんだ、敵に塩を送るとは。」と称賛した。
その後、憲法改定の信を問う国民投票が行われ、国民投票の結果は、圧倒的多数の賛成で、日本国憲法は改定された。
その後日本は、世界をリードする環境立国として、その今まで築かれた中小企業の町工場の高い国際水準の環境技術力を盾に、地球環境再生の牽引者として、またアメリカに代って、地球温暖化対策、世界平和の先導を果たす大きな役割を担うことなっていった。
日本環境新党が提唱した主張は、それは今までの資本主義でも共産主義でも自由主義でもなく、新たなるイデオロギーとして、自然こそが人類の最大の資産であるという自然資本主義を唱えた。
そして国家予算の半分を占める、社会保障費の医療費と一般歳入を上回る国債の償還に充てる予算を、抜本的に見直すこととした。
医療費は、日本社会の高齢化に伴い、うなぎ登りに上昇し続けていたが、そのために社会保障制度全般を大幅に見直すこととした。一部高齢者医療費の無償化、介護保険制度のを大幅に見直し、その予算を削減するため、高齢者の健康増進を最優先に推進することとした。まず食の健康を唱え、無農薬野菜の生産技術の確立、地力増強、また健康野菜の購入費の一部助成、肉食から粗食への移行の推奨を行った。
一時的には高齢者からは反発の声が続出し、与党の打ち出した社会保障の大幅削減計画に猛反対した。
老人はそれまで医療費の自己負担のない頃は、町の診療所はまるで、老人の憩いの場のように、診療所に毎日通い詰め、近代医学の治療を受けて、薬を飲んでいないと安心できないという医薬品の薬漬けになり、平均寿命こそ伸び続けたが、決して健康寿命までが伸びたわけでもなかった。
やがて、お金のかかる医療機関に通わなくなった高齢者は、自らの健康増進は、自らの心がけからと、毎日の散歩、ラジオ体操、ボランティア活動、畑仕事にと多様な趣味に興じ、心身両面の健康増進に励むようになり、自らの手で、無農薬野菜を栽培するようになり、いわゆる尊厳死と呼ばれる、一切の延命治療を拒み、自宅で安らかな自然死を望むようになり、天寿を全うして亡くなる人が次第に増えていった。
また政府は、田舎に各集落にグループホームを作り、介護を極力同居者や近隣の人に任せ、お互い様の心で、昔ながらの日本の田舎の相互扶助の体制を復活させる取り組みを行い、そして生涯現役生活を送れる、死ぬその日まで畑で元気に働ける生活環境整備に予算を振り分けた。
しかし日本経済は景気の悪化に伴い、企業倒産が相次ぐ中で、都市の機能は崩壊し、都会の暮らしを捨てるものが増え続けた。
政府は、限界集落の空き家を再生し、田舎で当時、農地の荒廃率が50%を超えていた荒廃農地を再生する取り組みに予算をつぎ込み、新しく編成された自衛隊の代わりのハイパーレスキューチームが、その再生任務を担うこととした。そして若者を次々と地方への移住を決意し、移住する者への生活支援とさらなる促進を図った。
また政府は国債の償還に関して、もともと一般歳入財源を上回る赤字国債の発行に歯止めがきかずにいたものを解消し、その一時凍結を宣言し発行済み日本国債の償還の不履行は、国債の受け皿となっていた各種の機関投資家である保険会社、年金基金、政府系金融機関をはじめとした、大手市中銀行などは、大きなダメージを被ることとなった。それについても、国会では野党各党からは猛反対を受けたが、時の財務省の主計局、理財局の両局長は、両者ともに国債の償還一時停止についてはやむなしと賛同し、それを容認して、財務省主導でそれは断行された。
どうせこの際、国債の償還財源を生み出すために、また新たな赤字国債を乱発するだけのその場凌ぎにすぎず、第一、既に発行済み国債の償還の完全実施など見込みが立たず、次世代に付け回しを押し付けているだけだということはもはや明白であり、真剣に国債償還しようとなど考えている政治家も国民もいないんだから、一時停止も永久凍結も結果は大差はないことくらい、誰もわかっているのことだと、両局長は顔を見合わせて小声でそう囁いた。
一時的には日本経済は大きく冷え込み、小売業、流通業、飲食、観光業、製造業とありとあらゆる企業は、会社更生法の申請を行ったが、再建できる企業は殆どなかった。そのほとんどは壊滅的な打撃を受け、史上最悪の事態に陥っていった。
政治評論家や経済アナリスト、軍事評論家は、こぞって、テレビの報道番組で特集を組んで、「こんな政党のやり方じゃ、まるで幼稚園児のおままごとのようなものだ」とバカにして、与党の日本環境新党を、
「狂気に満ちた政策、歴史上類を見ない最悪の圧政」と呼び、国家公安委員からの情報で総理大臣の親族の過去に独立宣言なる愚行の首謀者の一人であることを報告されておりその経歴から、その過去を聞いていた野党議員からは、政権与党を国家を破滅に追い込むテロリスト集団と蔑み、国会で与党が打ち出す政策を悉く、「武力放棄した無力な国防政策は稚拙な素人の茶番劇だ」と酷評し続けた。
しかし与党は、国民の絶対の信任の元、新たに国際災害救助ハイパーレスキューチームを再編し、その任務として世界的に大規模化、また頻繁に発生する自然災害の救援活動にあたることとなった。
都市部の市民の田舎への移住を促進するための促進機関を創設し、元元自衛隊員に空き家の修理修繕や、荒廃農地の再生の業務に当らせた。
また従来の原子力、火力メガ発電所の操業停止に伴い、それに代わって送電ロスの少ないマイクログリッド方式の送配電システムと各集落に村人が運営する電気事業者協業組合を創設し、各種発電システムを組み合わせたサムシングエナジー・シェア・ステーションの設立し、防衛費と社会保障費の削減により、その建設総事業費の80%という高い助成金を国が負担して、原油輸入などの海外に依存しないエネルギーの地産事業の促進を図った。
その財源の不足分を、国会議員の議員定数の大幅削減、そして自ら身を削って、議員報酬を人事院勧告に準じ、一般サラリーマンの平均年収に準ずることとして、大幅な経費削減策で、その費用を捻出した。当然政党助成金も完全撤廃し、その分を子供の大学までの学費無償化を実現した。
ある日の国会の本会議場の場で事件は起こった。衆議院初当選の元養護学校の女教師の若手議員が、野党の激しい、品のない、節度を欠いたヤジに耐えかねて、ついに議場の場で爆発してしまったのであった。
「あなたら、若手の初当選の私を捉まえて、よくも政治経験がないとか、訳もわかならない幼稚園児だと言いたい放題言って、よくもそんなに好き勝手が言えたもんですよね。
さっき私の答弁中に、私を捉まえて、このトウシロウがと言った人は誰ですか。その人こそ訳も解らずに、人をバカにするのもいい加減にしてもらいたいもんです。そんなにあなた方が、ご立派に外交に長け、防衛の専門家だの、経済に精通しているだのと、自分たちのことを政治のプロ集団のように言っているけど、どうしてその道のプロが集まって、今の日本がこの有様なんですか。こんな日本にしたのは誰だと思ってるんですか。それって誰の責任なんですか。今ってあんたらの行ってきた悪政の末路ですよね。
あんたらは、いつも国民の総意って仰ってますが、あんたらの選ばれた国政選挙の平均投票率を知ってますか?これまでに国政選挙で50%を越えた試しがあったとでも言いたいのですか。国民の半分、いや若者の大半があなた方の行った政治を見限って、期待することを忘れ、投票所にも行かないで、あなた方はそんな無関心になった国民の一部の人に選ばれたことぐらい解ってるはずですよね。もう有権者はあなた方の行ってきた政治に、ほとほと嫌気がさしたんですよ。あなた方を選んだのは、その極一部の人の利益受けた企業の組織票であり、それを以て国民の信任を得たと言っているに過ぎないんじゃないんですか。
それに防衛費と称して、米軍駐留経費を肩代わりし、毎年使いもしない高額な最新鋭戦闘機や、地対空迎撃システムを装備し、その見返りに、アメリカに日本車の輸入関税を低減してもらい、国産自動車の輸出促進を図り、その見返りに自動車メーカーから多額の政治献金を受けるという巧みな錬金術を組み立てていたではありませんか。
有権者は、みな専門家でも金持ちばかりじゃないんですよ。選挙で実際に投票する人は、あくまでも一般大衆であり、政治の素人だということを、あなた方は忘れちゃったんじゃないですか。
それをよくも今更、衆議院議員を捉まえ、本人を目の前にして、素人だの、無知だの、幼稚園児だと言えたもんですよね、国政を見つめて期待していたのは、その肝心の政治の素人の一般の大衆なんですよ。私は幼い頃恩師から教わったことがあります。いじめている人を思いやれる人間になりなさい、そして大切なものを失なってからじゃ遅いの。失う代償は、あなたらが手に入れたもの以上に失うものは遥かに大きいからね、と。訳も分からないくせに、この欲呆けの、強欲どもめが!。」とつい、今まで自分の胸の奥に鬱積していた不満が一気に爆発して、口がすべってしまった。
後日、その若手女性議員の名前は森下恭子、やはり植林ボランティア団体にいて、恩師から教え垂れたその一言が忘れることができずにたまりかねての暴言であった。彼女は例のごとく失言を認め、報道陣の前で、彼は深々と頭を下げ、いかにも反省したふりをして謝罪した。
誰にも気づかれぬように、しかしその横顔は片方の瞼を引っ張り大きく舌を出していた。
しかしそれは、今までの社会構造を大きく変革させるための単なる洗礼であり、大変革への準備でもあった。その社会経済の大変革は、後に超高齢化社会に突入する日本社会への生みの苦しみにすぎなかった。そして打ち出される新たな政策は、さらなる変革への序章に過ぎないことを、その時は誰も知る由もなかった。
地球上の資源はやがて枯渇し、大量のゴミが発生し、近い未来に大量の廃棄物で、この星は埋め尽くされる。やがて地球の自然環境は破壊され、廃棄物に埋め尽くされていくのを誰も真剣に考えようとはしない。
それはやがて生態系にも多大なる影響を与え続け、そして海と大地は破壊される。決して消費社会の上には真の豊かさを築くことはできないはず。もうこれ以上の便利はいらない。便利すぎる便利を求めるが故に、失う物はそれよりも遥かに大きいことを、人類は未だに考えようとはしない。
人間が本来生まれながらにして備わった感性、優しい心そして果てしない創造力。
それは優れた頭脳を持つ限られた者だけに万能の能力が与えられるわけではない、様々な独自性と個性こそが、多様な能力を引き出し、それが組み合わさることにより、あらゆる局面に対応できる能力を有することができるのである。どれ一つとっても、そこに存在意義があるのである。偏った頭脳集団だけでは、やはりその社会は偏った考え方で占有され、そうでない他を完全否定して排除する。しかしその少数のバカげたような発想の中にこそ、いくつもの大切な変革のヒントが隠されていることがある。社会の常識に捉われない自由な発想こそが、人類の進歩の源泉なのではないだろうか。人間は進歩すること、発展することは、もう必要ではないことを知らなくてはならないと思う。
どの時代においても社会不適合児はいるものである。どうしてもその社会になじめない者はいるものだ。
しかしその社会不適合児こそが、新たな時代には必要であり、社会の常識に安易に都合よく自分を合わせられない者こそが、時代を変える人となるのではないだろうか。
それはひょっとして、太古の時代の暮らしの中では、そんな人々こそが、一番重宝されていたのかもしれない、既存の宗教概念に捉われなかったシャーマンのように。
そして新たなる大陸を求め旅に出た者のように。
天空が動くのではなく地球自体が回っていることを気付いたように。
無頓着に不器用に無骨にひたむきにでも、無邪気に生きていれば、無気力でなければ必ず幸せはやってくるはず。
人類はもうこれ以上の発展を望まず、先ずは今に立ち止まり、もう一度振り返ることをする必要があるのではないだろうか。
新素材を開発する技術を研究する前に、捨てられた廃棄物を如何に再利用するか、無害化するか、環境に悪影響を与えないようにする技術開発に、もっと力を注ぐべきではないだろうか。火星に宇宙基地を建設する前に、最先端技術を考える前に、如何に限りある資源を有効に使い、お互いがシェアし、廃棄物を出さない暮らし方を考えるべきではないだろうか。
今回の発生した宇宙磁気嵐が、現代の最新鋭機器の脆弱性を露わにした以上、この広い宇宙の中で、今度発生する太陽フレアが、今回の規模以下であるとは限らないことを、もっと全世界の人は真っ向から向かい合うべきではないだろうか。
宇宙の全体の中でダークマターと呼ばれる人類の誓いのできない要素が、全体の76.5%を占めていると、宇宙理論を唱えたDr.ホーキンスは説いていたのは、数十年も前のことである。
今の高度通信システムがいつなんどき、まったく機能を発揮できなくなるときを想定して、他の生き方を模索していかなければいけないことを考えておいても遅くはないし決して早過ぎはしないはずである。
比重の大きい物質は、海底奥深くに沈み込んで、人の目から見えなくなっていく。しかし人の目に見えなくなったマイクロプラスチックや有毒の重金属が、深海深くに棲む海洋生物に与える影響を、人は考えたことがあるだろうか。海水よりも比重の大きいものは、当然海の底に到達して、堆積し続けることを科学者は解らないのだろうか。海水よりも比重の小さいものは、水面を浮遊して見知らぬ誰も行かない浜辺に打ち上げられ、やがて人目に付かなくなる。福島第一原発で発生した、海洋投棄される予定の放射能に汚染されたトリチウム水は、それを吸って生きていく魚介類の遺伝子異常の有無を誰も知らないし、気にもしよとしない。
海水温の上昇は、今まで大気の気温上昇の冷却効果の役割を発揮していたが、それが海水温度が1℃上昇することにより、どれだけ気温上昇に影響を与え、地球環境に大きな影響を与えるかは計り知れない。海水表面温度は、徐々に深海に向かって、伝わり続けるといわれている。仮に冷却効果を持つ海水面のすべてが、その水温上昇しきったときを誰が想像しているのだろうか。
経済優先のために、パリ協定から離脱した大量消費社会の代表国アメリカの大統領が、そのことをどこまで真剣に想像したことがあるのだろうか。
交通事故の死亡者数が自動アシストシステムによって減少傾向にあるというが、しかしそれとは逆に、年間の自殺者数、幼児虐待件数、生活困窮による餓死者数、独居老人の孤独死数が増え続けるばかりだということを報じるニュース番組はほとんどない。
欧米生活様式の浸透に伴って、肉食が増えて、その家畜に与える飼料穀物を家畜に与える分をすべて、餓死に直面した貧困社会の飢餓難民に回せば、飢餓で死ぬ人は、この世の中からいなくなるといわれている。全人類の富は、地球上の数%の特定の人が独占しているともいわれている。
黒岩の大学ノートにこう書き残されていた。
すべての人が幸福でない限り、自分に幸せは永遠にやってくることはないと。
アフリカ、シリア、レバノン、イエメン、アフガニスタンなどの難民キャンプの子供たちが、いつしか銃声や地雷に怯えることなく、自分の家族と離れ離れで暮らさなくて済むようになる日まで、そしてスラム街の子供たちが学校に普通に通い、街角でお金を恵んでもらわわなくなくても暮らしていけて、生活の苦しさに耐えかねて我が子を売ったり、我が子のためにと、親が自らの角膜や内臓を金に代えて、暮らさなくて済む社会を最優先に作り上げなければならないことを、地球上のどれだけの人が真剣にそれと向かい合っているのだろうか。
中米コスタリカは世界大戦後、武装蜂起を断念し、軍隊を持つことを止めて、兵士の代わりに教師を増やしたと伝えられている。その分浮いた国家予算で、全国民の大学までの学費無償化を実現し、しかも国内の1/3を自然保護区に指定したという。コスタリカの国土は日本の7%だというのに、地球上に棲息する生物の何と5%もの動物が、そこに棲息しているという。如何に軍備費用が膨大であり、自然保護が大切であるかを、中米の小国が身をもって、それを示しているというのに、先進諸国と呼ばれる大国は、一体何を求めているのだろうか。
国際安全保障条約の上に真の平和が待っているとでも言いたいのだろうか。それは安全保障という枠組み作りで、仮想敵国を作り上げ、死の商人の営業活動に過ぎないのではないだろうか。今だ地球上から銃声の音は途絶えることはない。
貧困から生まれたテロを武力で制圧することなど、決して出来るものではないことぐらい、どうして先進諸国の首脳は、気付かぬにいられるのだろうか。武力でたとえ制圧出来たとしても、またその敗北は新たな報復を生み、敵を打ちのめせば、やがてまた新たなる敵を生み出し、しかし敵を愛せば敵もいつしか味方になるはずなのに、それを実践しようとするそんな国は、未だ地球上にはない。
まだ各地で国境紛争、内戦は絶えない。それは同じ民族であっても敵味方に分かれ、周りの強国が自国民を負傷させることなく、傀儡政府を作り、代理戦争に巻き込まれて、今までの仲間を敵にして、一般市民を巻き込んで戦いを続ける。
国と民族の未来のためにと、政府軍に対して反政府組織は共産ゲリラとなって、政府軍に戦いを挑む。そこにもまた両者に武器を支援する国があり、第三国の代理戦争が今も続く。
それは死の商人が、世界中にのさばる限り、若者は金のために武器を取り、愛する仲間に向かって銃の引き金を弾く傭兵となり、戦いのプロとなる。
資源確保のための利権争いがある限り、それは止むことはない。根底になるのは、争いを武力で制圧することではなく、国連の和平交渉でもない。
元凶にはやはり貧困社会があることであり、利益追及と収奪と搾取の社会から、いち早く脱して、貧困と格差をなくさない限り、人類にとって真の幸福は訪れることはない。
大国は既に、無人火星探査機を火星に着陸させ、火星表面の物質を持ち帰ることに成功する技術を開発したというのに、またも火星に誰よりも先に、自国の利権を得ようとしているのか、宇宙を征服するつもりでいるのか。
核の脅威では、人類の平和は決しておとずれないことが、どうして大国の国家元首には解ろうとしないのだろうか。
消費社会からBLC憲章へ
時代に逆らい、社会の常識に逆らってでも、黒岩は生前、どうしても守り通さねばならないものがあると、そのことを教えてくれた人生であったと振り返っている。そしてそのことを気づくためにこの世に生まれてきたのだとも考えていた。
それは、常に自分に対し、謙虚であれということであった。感謝を忘するべからず、奢り、高ぶることの哀れさを人は知るべきだと。
人は自然の恩恵を受けて生きている。人は、自然の営みの歯車の一つに過ぎない。いくつもの無限の生命は、この星の周りをぐるっと一周を取り巻く環を形成しているのであり、その環の一部でも欠けてしまうと、その環は連続性を失い、永続性はなくなる。生命の環には何一つ無駄なものは存在しない。ましてその環を壊そうとするものは、この星には必要ないから、いずれ絶滅の一途をたどることとなり、また過去の歴史の中でも姿を消した種は数えきれない。
この奇跡の星、地球の46億年の歴史がそれを如実に物語っている、勿論人類も例外ではないはずだ。今こそその生命の連環の一ツールであることを、人間はしっかりと気づかねばならないときなのではないだろうか。
自らがこの星に生存を許されるためには、その連環を壊すものであってはならないことに気づかねばならない時が来た。
黒岩が世を去って、数年後お菊さんも杉下おんじも後を追うようにこの世を去った。
そして、10年の月日が流れた頃には、ファームにも若者の家族が、次々と移り住むようになり、かつての限界集落は、やがて賑わいを取り戻しつつあった。しかし数人から始まったファームハレルヤにも変革期が訪れ、多様な人々の中には、お菊さんや黒岩達が言い残した”山のおきて”が少しずつ、なし崩しになり始めていて、佐伯は彼らの言い残した言葉を多様化したファームに長く伝えるためにかつての彼らの教えを体系化していた。
それがBLC憲章である。つまり、B・ベネフィット、L・ローカル、C・サイクル、頭文字をとってBLCと呼んだ。大原則が資源地域循環である。自然から得た恩恵は、必ずその地に還元するという意味であり、黒岩達先達の”山のおき”ては、その後ファームでは憲法としてBLC憲章として村に掲げられ、他の何よりも優先するのは自然であるという考えが、移り住む人々の間にも長く受け継がれることとなった。そして、周りの山々にも針葉樹林帯からドングリや木の実のなる雑木林と変わり、早いものは既に幹が直径で50Cmにもなる大木になっている木もあった。そして、一時害獣駆除に奔走した山村の人にも野生動物との棲み分けが出来て来て、里で熊やサル、イノシシを見かけることは殆どなくなっていった。
あるがまま、なすがまま、ありのままにその日その日を特別こだわりをもつではなく、ただひたすらに、ひたむきに生きていくことで、平穏な暮らしは村に受け継がれた。そして佐伯が先達の生き様を見て学んだ生き方は、しっかりと後世にも受け継がれていくこととなった。まさしく黒岩が見たという未来の子供たちからのメッセージのとおり、そして願い続けた然りの森が徐々に完成形に近づいていた。
然りとて然り気無く、されど慈愛に満ちた心を以て生きていく。それぞ親鸞聖人の言う弥陀の本願だったのかもしれない。
再生への道
前回の大規模太陽フレアの影響で、壊滅的なダメージを追ったブロードバンドシステムの脆弱性を重く見た各国は、その体制の見直しと強化に奔走した。スーパーコンピューターによるトリプルバックアップ機能、衛星からの多角的フォローアップ体制、システムのあらゆる方向から二度と混乱に陥らない厳格なセキュリティーシステムの構築に各国が凌ぎを削り、また協力し合った。株取引のグローバル化に伴った厳格なセキュリティーシステム、防衛システム、最新の宇宙開発技術に取り組んでいた。
しかし、その絶え間ぬ努力とは裏腹に地球には別の脅威が迫っていたことは誰も知らなかった。
それは、西アフリカのモーリタニアという小国に僅かに棲息した、珍しいバッタであった。
通常では、孤独相と言って各個体はお互いを避け合うように棲息するが、一旦相変異を起こすと、途端に群生相と呼ばれる集団行動を取るようになる。何かしらの逆境下でトリガーが入ると、その相変異が発生し、僅かな個体が数日の間に、膨大な個体数へと変化し、大発生する性質を持っていた。
当初限定的な地域でのみ観察されたサバクトビバッタは、みるみる間に生息範囲を広め、またその数はあっというまに天文学的数字に増加していった。そしてその食害は凄まじく、緑を手当たり次第に食べつくし、大量発生を繰り返すたびに、農作物に多大なる損害を与えていた。そして大発生したサバクトビバッタの食い荒らされた後には、草一本もなくなるほど徹底的に食い尽くされた。そして一旦食欲の旺盛になった大軍は、餌がなくなると移動範囲を広げ、西アフリカからモロッコ経由でスペイン、フランスの農地を食い漁り、もう一つの分派した群れは、エジプトからトルコを越えて黒海の対岸の世界の三大穀倉地帯と呼ばれたウクライナ地方にまで及んだ。数週間の間にアフリカ全土とヨーロッパ太陸からすべての緑が消え失せた。そして大発生の勢いは衰えを見せず、ただでも、もともと自生地が乾燥した砂漠だけあって、ヨーロッパ大陸を食い尽くしたサバクトビバッタは乾燥地帯である中央アジアへと棲息範囲を広げていった。
その頃、ヨーロッパ全土とウクライナのバッタ食害で、農作物被害は甚大で、世界の穀物先物取引市場は敏感に反応していた。小麦、トウモロコシを始めとして、あらゆる穀物相場は上昇を続け、引きずられるように飼料作物のコーンも値段が上がり、家畜業者は家畜の餌の確保すら困難な状態に陥っていた。そしてそれは家畜の餌だけではなく、比較的安価な小麦の食糧支援をしていた国連や国際ボランティア機関では、難民への食糧支援が滞り、また貧困層も同じくして、既に地球温暖化の影響の干ばつ被害で手の届かない穀物価格に、さらなる追い打ちをかける形で、価格上昇に歯止めが効かず、飢えに苦しむ人の数が増え続けていった。やがて僅かになった支援物資の強奪事件も後を絶たず、政府高官の物資横流しで、一部富裕層のみが支援物資を手に入れていた。
今まで、グローバル経済の強化のために総力を注ぎ込んでいた各国の政府も、このことを重く受け止めるようになり、システム開発を一旦停止させてでも、迫りくる食糧危機に向かう姿勢を露わにしていた。上昇し続ける穀物は、富裕層には最初大きな痛手ではなかったが、貧民層では生活に直結して深刻の色は濃くなるばかりで、餓死する人の数はうなぎ登りに増加して、途上国を直撃していった。そして国連食糧計画では、抜本的な打開策を見出すことが出ず、各国の代表が集まって、何とかサバクトビバッタの大発生を食い止めるべく、幾つかの対策案が提言された。
まず最初に実施されたのが、航空機による大規模な強力な薬剤散布であったが、あまりの広範囲な散布と強力な殺傷能力を持つ殺虫剤が空中から散布されたために、地域住民への健康影響が多大で、その計画は途中で断念された。
そうこうしている間にも、勢いの衰えないバッタに変異がみられるようになっていた。ウクライナを食べ尽くした頃から暴食傾向に変化が現れた。モノカルチャーの進んだ穀倉地帯で、特定の穀物だけを食べつくした個体は、木々の葉っぱはあまり食べなくなり、人間の食糧となる穀物に食害は集中するようになっていた。もともと植物の少ないところに棲息していた時には、手当たり次第食していたバッタは、次第に個体変異を繰り返す間に、食するものが特定の穀物だけ選り好みするようになり、樹木の葉は食べずに、その分農地穀物を食べ尽くす速度は画期的に早くなり、中国に入った頃には、ほぼ数日の間に、ただでさえ産業優先の政策で、国土の地力低下と農薬汚染が懸念されていた中国では、収穫量が著しく低下していていき、増え続ける人口に対して自国の食糧自給率が当初から低下しており、食糧の海外依存が進んでいて、オーストラリアに依存する形となっていた。中国国内でのサバクトビバッタの食害は、それが致命的なものとなり、食糧安全保障の見地からも中国共産党の内部では、危機感を募らし始めていて、オーストラリアとの食糧安全保障条約強化の動きが活発になっていた。
そのため、インドシナ半島のくびれた部分に位置するマレーシアの密林地帯で、その移動を食い止めなければ、中国にしてみるとただでも依存率の高いオセアニア大陸への上陸をなんとしても食い止める必要があり、国連安保理に提訴して、ベトナム戦争で使用したナパーム弾による密林の焼き払いを真剣に検討していた。
しかし国際条約で使用が禁止されているナパーム弾の使用には、アメリカが難色を示していた。それは国際安全保障の立場からだけではなく、アメリカ国家安全保障会議が中国の強くなり過ぎた軍事力に対し、中国の国力低下に直接繋がる絶好のチャンスと期待していたからでもあった。ジャングルには多様な野生動物が棲息しており、動物保護団体や学識経験者からも強く反対されていた。しかし実のところは、アメリカの真の狙いは食糧危機に陥った中国の国力の低下による東シナ海への領海侵犯の脅威からの脱却と一帯一路政策の減速であり、第一、それは対岸の火事だと思っていたからであり、決してナパーム弾の残虐性を問うた訳でも野生動物の殺戮の脅威でもなかった。
第一、アメリカの株式市場は軒並み各銘柄は理由もなく、上昇し続けていた。アグロバイオ企業モンサントス株の株価上昇に引きずられるように値を上げていった。がしかしその国連安保理の制止を振り切る形で、中国はマレーシア上空から国内に広がる広大なジャングルに向け、広範囲でナパーム弾が連続投下された。そしてみるみる内にマレー半島を埋め尽くしていた密林は、瞬時に焼け野原になってしまって、多くの野営動物の焼死体だけが黒こげの姿で焼け野原に残った。しかしその作戦の本当の狙いとは裏腹に、天敵のいなくなった焼け野原は、サバクトビバッタの勢いを加速させる結果になり、大発生し続けたサバクトビバッタは、インドネシアの諸島を経由してティモール海から、さらに勢を増してオセアニア大陸にまで勢力を伸ばしていった。それはナパーム弾投下後僅か数日のでき事であった。
ただでさえ、モノカルチャーの先進地と言われたオーストラリアの農地は、超大型トラクターが数十台も並んで一斉に小麦の種もみを播種し、農園主は自分の圃場にヘリコプターで見回るほど広大に広がる農地に、全て単一作物で綺麗に埋め尽くされており、変異を繰り返して穀物だけを爆食するようになったサバクトビバッタにしてみれば、美味しいご馳走の山に出くわしたかのように、猛烈な勢いで穀物畑を食べ尽くしていき、収穫間際の農作物は、壊滅的な被害を被ることとなった。オーストラリアの農産物の被害の深刻さは、いよいよ地球全体に食糧危機の影を落とす事態となり、穀物相場は既に金相場に匹敵しつつあった。それは食糧が特定の限られた富裕層にのみ入手可能で、社会の大半を占める中間所得層でもなかなか手に入らなくなっていた。そして対岸の火事のはずの、アメリカ大陸にもやがてその脅威が迫りくることを、アメリカ国民は皆想像することはなかった。
世界は、二酸化炭素の排出抑制の動きは活発になっていて、パリ協定を離脱したとはいえアメリカにとっても国民の民意は、地球温暖化抑制の気運が高まりを見せ、温室効果ガスの排出規制の流れの中で、アメリカ政府は、排出抑制の振りだけでも見せなければならず、バイオマス発電所の数を増やしていた。そしてそのバイオマス発電所の燃料として、インドネシアから大量のヤシ殻を大型タンカーで原油の代わりに輸入するようになっており、実はそれこそがアメリカ大陸にサバクトビバッタの侵入を許す糸口を作ることを、誰も想定してはいなかった。それはインドネシアの各地で山積みにされた不要なヤシ殻の山に、大量にサバクトビバッタが卵を生みつけていて、それが大型タンカーでロサンゼルスの港に運び込まれることとなり、その年の春の種まき時期には、そのヤシ殻と一緒に持ち込まれたバッタの卵が、気温の上昇に合わせて孵化し始め、成虫になりだしていた。そして芽を出したばかりの春まき小麦や、トウモロコシ、大豆の新芽はことごとくサバクトビバッタの餌食となってしまった。そして夏前までには、アメリカ国内の穀物の収穫の壊滅的被害が確定すると同時に、オーストラリアの壊滅的被害に反応して上がり続けていた世界の種子を独占していたアグロバイオ企業モンサントスの株価は急落し始めた。
”種子を手中に収めたものは、核を保有するよりも脅威である”とまでいわれていたモンサントスが育成していた種子は、既に世界中の農業を支配しており、巨大企業モンサントスが壊滅的被害を受けるということは、来年の世界の穀物生産が絶望になることを意味していた。というのはモンサントスの種子養成用の広大な畑も同様の被害を受けており、今まで各農家が収穫物から来期分の種もみを確保する習わしがあった生産体系を、遺伝子組み換え種子は、世界がアメリカの一企業の独占を許した大切な種子を手に入れられなくなることになり、翌年の穀物生産をも全て失うことになってしまい、上昇を続けたモンサントス株は、一転して一気に会社は経営の危機に陥り、それに反応して株価は急落し、モンサントスは経営破綻に追いやられることとなった。
しかしアメリカ大陸で起こったサバクトビバッタ大発生には、奇怪な現象が起こっていたのである。穀物の新芽を食い荒らしたサバクトビバッタが、世代交代する産卵行動に一定の衰えが見えたのである。その規模は致命的な大発生を抑えるほどではなかったが、高い確率で産卵できない個体が発生しているというものであった。それはアメリカ大陸を始め、全世界に使われ始めていた遺伝子組み換え種子の危険性を匂おわせる学術論文が、ある生物学者から発表されていて、バッタの食べた新芽の生長点に凝縮された特定の物質が、バッタの生殖本能に大きく影響し、異常が現れたというものであった。
その後悉くアメリカ大陸を食いつくしたサバクトビバッタは、メキシコを始め中米諸国を舐めるように農作物を食い荒らし、南下し続け、南米大陸に差し掛かろうとしたころで一気にその勢いは弱なり、その大群は一匹たりともパナマに到達することはなかった。
それは、パナマの一つ手前に位置する小国コスタリカで、サバクトビバッタは絶滅した。それは以前からコスタリカは国土の1/3を自然保護区に指定して、自然保護には手厚い政策をとっており、厳しい農薬使規制も実施されていて、そこに棲息する野生動物たちにとっては、餌には事欠くことはなく、生物の多様性に富んだ野生動物、特に野鳥、海鳥にとっては国中がサンクチュアリであり、大空を飛び交う野鳥にとっては、大量発生したバッタの襲来は絶好の機会であり、片っ端から大量に押し寄せるご馳走は願ったりかなったりの鳥たちの獲物となった。鳥たちのほかにも森林には数多くの多様な昆虫も棲息しており、その中の幾つかの種はサバクトビバッタの天敵であり、バッタの卵を好んで食する昆虫も存在していて、自らの天敵を目の前にして、変異の結果、サバクトビバッタは元の生態の孤独相に戻り、大発生は、そこで終焉を迎えた。
コスタリカの自然保護政策はそんなところでも生物多様性の重要性を世界にアピールする絶好の機会となった。
そして、世界唯一残された南米大陸だけは、サバクトビバッタの襲撃から逃れることが出来た。ウルグアイ、パラグアイ、ブラジル、アルゼンチンに広がるパンパスの穀倉地帯はそれから守られることとなったが、高騰を続ける穀物相場に大して、南米の各国の取った行動は、穀物に対する厳格な他国への輸出規制であり、自国民の生活確保のために豊作だった穀物は、一切他国に輸出することを禁止して、被害の深刻な国への供給は一切行われなかった。
強欲と傲慢の成れの果て
上昇を続ける穀物相場に大して、模様眺めを続ける南米諸国は、売り時を見計らっていた。飢餓に瀕した国民を抱える各国の動き次第で、その国を牛耳れると南米の国家元首は、揃て考えていた。また家畜飼料にも事欠くことはなく、もしも貴重な穀物を輸出したら他国の食糧事情が少しでも改善されるというのに、ブラジルの鶏肉、アルゼンチンの牛肉の値段は高騰し続け、欧米諸国はただでも肉料理が主食のようなもので、どんなに高騰したといっても富裕層にとっては、食肉はなくてはならないもんであり、肉ひと塊りは乗用車一台分にも匹敵していた。今まで中東原油の利権をアメリカに独占されて、高価な最新鋭軍事装備をアメリカに売りつけられ、アメリカ国債を押し付けられ、殆ども国内の富をアメリカに持って行かれてしまっていた南米諸国にしてみると、やすやす貴重な食糧を手放す訳には行かなかった。
またヨーロッパのEU加盟国も軍備増強を迫られ、またワクチン開発予算、各国から狙ってくるあの手この手のサイバー攻撃の対策資金、いずれ襲ってくる大規模宇宙磁気嵐に備えるための強固なITシステムの再構築に費やす予算の増額で、肝心の食糧備蓄予算を削減し続け、穀物の不測の事態に備えた備蓄量は限りなく少なくなっていて、自国民の生活を維持する量はたった一か月分にも満たなかった。
だから世界中の国は、南米産の穀物と食肉の争奪に奔走した。各国の対応はASEANやNATOといった軍備の安全保障条約などは、この食糧危機の前にはプライオリティーは断然低かった。加盟国の領土を守ること、敵国からの軍事的脅威を排除する目的こそあっても食糧安全保障の見地で締結されたものではなかったのである。
そして各国は、食糧確保が最優先事項であり、大統領の専権事項として扱われるようになっていた。全ての予算執行を取りやめてでも、南米太陸との食糧貿易協定に全力を注いだ。
アンデス山脈に住む原住民のペルーやボリビアのインディオは首都のある街で、
「私たちには、ジャガイモとトマトがあれば十分だ。それ以外の食糧を是非何とか、もっと飢餓に苦しむ世界中の人々に分け与えてやってください」と、ブラジルやアルゼンチンの大統領に向かって訴え続けた。しかしその声は彼らの耳には届くことはなかった。
そのために、各国の国内産業は停滞し、景気の悪化に伴って、一般企業の倒産は相次いだ。イタリアの最高級自動車メーカーの倒産を引き金にドイツの自動車メーカー、製薬会社、IT関連企業、外食産業から流通業まであらゆる企業は経営破綻していき、世界の株式市況も、どの銘柄も買い手がつかず、連日ストップ安が続いた。そして南米の穀物商社以外はやがて殆どの銘柄は、株価がゼロとなって、各国の通貨も株式証券もやがて紙屑と化した。
しかし売り倦んでいた南米諸国は、主に日用品を除き、自動車からIT関連商品、電子通信機器、家電製品の全てを輸入に頼っており、その輸入が滞ってしまうと当然商品の価格は上昇し、それはやがてハイパーインフレを引き起こした。前日の商品の価格が翌日には1.5倍になる商品が続出し、国民はいくらお金があっても商品にありつくことは出来なかった。いくら政府が穀物と食肉を高値で輸出販売したとて、時すでに遅しで、いくら高く輸出できたとて、ハイパーインフレの速度に追いつくことはなかった。
ユダヤ系の商人は、各国の価値を失った通貨に代って、手持ちのダイヤモンドを始めとした貴金属で、南米諸国から食肉を仕入、それを欧米の富裕層に販売して、その代金もまたダイヤモンドでと、欧米各国にあったダイアモンドを始めとした貴金属を吸い上げるように、食肉ビジネスに特化した。仕入れるときに手放した貴金属は数日後には、その数倍がまたも彼ら商人の手に戻ってきていた。
しかしサンパウロでもブエノスアイレスでもリオデジャネイロでもその高価な貴金属を身に着けて着飾って歩く婦人の姿は、街中ではほとんど見ることはなかった。
彼女たちが本当に欲しがったのは、お金でも貴金属でもなく、もとのようなゆったりとした日常だけであった。
またアメリカでは、各国が食糧確保のために軍備予算を大幅に削減し続け、最新鋭の高価な軍備品はまるっきり需要がなくなり、国家の主力産業の軍需産業も地域紛争が起こる度に新規購入されていたが、今となってはその膨大な開発費用だけが重荷になって、いくつもあった巨大軍事企業は敢え無く経営破綻していった。そしてそれはマンハッタンでも同じことが起こり、世界中の株取引が滞り、売りはあっても買いが一切入らず、株取引が成立しない日々が連日続き、株価の暴落は留まるところをしらなかった。また為替取引も各国の通貨が価値を失い、為替レートの設定が不能になっていた。
また日本でも東京証券取引所の電光掲示板に並んだ銘柄は全てゼロを示していた。
それは以前から一部のマスコミでささやなれていたアメリカの経済の破綻は、今に始まったことではなく、第二次世界大戦以降、各国が高度経済成長していく中で、主産業だった自動車や電化製品が新興国の日本や韓国、中国、ベトナムなどの東南アジア諸国に乗っ取られ、それに代って作られたのが、戦車や戦闘機、核弾頭などの戦備品であり、もう一つの国力を支えていたのが、お金でお金を生む金融システムであった。
国力を低下させたアメリカは、実質経済成長が低迷しても国債発行の乱発により、市場に潤沢な資金を流し込み、見た目の好景気を演出し、各国で地域紛争を起こさせる引き金をあちこちにばらまいて、最新鋭軍備品を他国に高額な値段で売りつけることにより、国内産業を維持してきたが、当初は穀物の自給率は100%を超えていて、食糧輸出国でもあり、食糧確保に不安を一切覚えておらず、有事の際でも同盟を結んだオーストラリアから食糧援助を受けられると踏んでいたので、国内穀物備蓄量は、全国民を支えられる十分な量は確保しておらず、自国の農産物はそのほとんどを輸出に回して、外貨を稼いでいた。だから今回のように巧みに仕組まれた経済トリックに装われた金融市場に支えられたアメリカ経済は、一気に幻想と化し、その穴を埋める為の国債の乱発も出来なくなると、各国の軍拡が進まなくなれば、巨額な軍需産業にも大きな痛手となった。その最後の農産物の壊滅的被害と遺伝子組み換え技術のアグロバイオ企業の大型倒産は、アメリカ経済に止めを刺すこととなった。
そして宇宙開発技術の粋を結集して、以前のシステムの脆弱性を克服した鉄壁なグローバル経済システムは、一度もまともに稼働することなくマンハッタンのブロードウェイから街の灯りが全て消えることとなった。世界の株式市況は一日で麻痺状態になり、世界中の株式市場と金融市場は壊滅的な状態に陥った。
一夜明けてマンハッタンの摩天楼の最上階からは100ドル札がばらまかれ、ビルの下ではそれを拾うどころかゴミ収集車のバキュームが、ちらばった札を吸い込んでは、何往復もしながら捨てられた米ドル紙幣のゴミを回収をする様子をそのビルのオフィースのデスクから立ち上がって、エリートビジネスマンはビルの窓から、外の様子を呆然と見つめるばかりであった。
一方、GNP世界第二位の経済大国、中国はその頃多くのアメリカ国債を保有しており、アメリカ国債のデフォルトつまり債務不履行で償還期限が過ぎても換金が不可能になり、アメリカ経済の経済破綻は直ちに中国経済も連動するように経済は急激に悪化し、中国人民元も敢え無くその価値を失った。当時中国の特定の富裕層の個人資産は、多い人で小国の国家予算に匹敵する程の額を保有していたと囁かれていたが、超富裕層の人たちが手にしていた全資産は、瞬時にして無価値になってしまい、手にしていた大量の人民元の札束と株式の証書は一緒になってゴミのように川に捨てられていた。
そのため中国は国家を上げて取り組んだアジア開発銀行に集めた外貨で、東南アジアへ積極的なインフラ投資をしていたが、国家主席の推し進めていた一帯一路政策で、多額の債権を保有していた各国の国債は全て無価値になっていた。
中東産油諸国も同じ現象が始まっていた。原油取引で得た多額の資産は、自国の農業発展に使われることはなく、セレブのリゾートホテルにカジノ、ブルジョア階層の娯楽の殿堂づくりに費やされ、一時は栄華を誇って灯りの消えない砂漠の大都市ドーハやドバイは、夕陽に照らされたそのめらめらと揺れる高層リゾートホテルのシルエットは、砂漠に発生する蜃気楼のようにやがて姿を消し、石油需要のなくなった産油国は、一バレルの原油では一リットルの水すら手に入らなくなってしまい、ついには国王や大臣は国外に逃亡し、セレブの訪れなくなった高級リゾートホテルは廃墟と化し、残された一般市民は、ただただ首をうな垂れて、果てしなく続く砂の平原にラクダを引く砂漠の民となっていた。
まさしく、それは第二次世界大戦の引き金となった世界大恐慌の比ではなく、歴史上人類が経験したことのない全世界規模の経済システム全ての崩壊の時代への幕あけでもあったのである。
グレート・ヒューマン
世界経済が完膚なきまでに崩壊して、世界の人々の多くは核兵器でもなければ大量殺戮兵器でもテロでも新型ウィルスでもなく、近代社会の殆どの一般市民が想像もしていなかった、飢餓によってその多くが命を落とすこととなった。それは確かに今までにもアフリカの難民キャンプや、大干ばつで食糧を得ることの出来なかった原住民やスラム街のホームレスの限られた人の運命だとみながそう思っていたが、それがまさかこの豊かに見える暮らしを生きている今の時代の我が身に降りかかるとは誰も想像してはいなかった。
フランスでは、グルメと呼ばれた食通の町パリでは、最初に高級食材の肉類や、ミルク、バターといった家畜由来の食材がおしゃれなレストラン街から消え、やがて時が経つにつれセレブどころか一般市民もフランスパンすら手に入らなくなり、郊外のセレブの居住区では、小麦粉の入手のために、高価な装飾品を売る金持ちが貴金属店に押し寄せたが、いくら高価な指輪をいくつ持ち込んでも、一袋の小麦粉を手に入れるのがやっとで、パリ郊外の富裕層の多く住む閑静な町では、誰に看取られることもなく、餓死して自宅で見つかる金持ち老夫婦が絶えなかった。
彼らの家からは、もう金目の物は売りつくされていて、もうこれ以上高騰を続ける食糧価格に耐えかねて、死んで行くしかなくなっていった。
それはやがてフランス全土に広がり、その後ヨーロッパでは第二次世界大戦の犠牲者の数を上回る数の餓死者が出ていた。
一方、中国でも同じような現象が現れており、昔から円卓には、客をもてなすために食べきれない程の食材をテーブルに並べる風習があって、当初から食品ロスが問題となっていた。高給飯店でも、高級食材の北京ダックの料理が姿を消し、豚の姿煮や牛肉のチンジャオロースうといった豪華な円卓料理はすっかり影を潜め、僅かなおかゆをすすり、揚げパンを食べるのがやっとになっていき、やはり富裕層の口の越えたメタボな体形の大人から始まった餓死はその数が一般市民に広がり、最後に残ったのは、もともと貧困生活に慣れていた農村部の農民だけが生き延びた。
上海や香港の街では、飢えに耐えかね、飽食に慣れ切った市民の食料品店や飯店への強奪が絶えず、強奪は徐々に人の心をむしばみ、強奪の繰り返しで、市民は暴徒化し、仲間内で殺し合いをしてでも食糧を奪い合い、その発生した大規模な暴動で、幾人も命を落とすこととなった。中国の食文化の食品ロスは、贅を極めた者の結末であり、ゴミ捨て場に捨てられた食品の山には、大勢のメタボ市民が群がった。それはウランバートルのマンホールチルドレンのように、サンパウロのゴミの山で食糧を探したモンキーチルドレンのように。
しかしその世界中を席巻する経済大変革にも何もまるで動じることのない人々が地球上にはいた。
一つは、アマゾン川源流のアンデス山脈にほど近い密林にその種族は住んでいた。未だかつて一度も文明と呼ばれるものと接したことのない閉鎖的社会を守り通した部族であった。お腹が空いた時には、密林に出かけて村の若者たちが、獲物を四方八方から囲い込み、吹き矢で仕留めて村に森の中で採ったバナナと一緒に持ち帰り、バナナの大きな葉っぱで包んで焚火にくべて蒸し焼きにし、そしてそれをいつも、まず先に村の年老いた女性から、そして長老の男性、子供にと順に均等に切り分けて与えられ、最後に残った内臓と硬いスネ肉を若者たちがとって食する習わしを守り続けていたという。それは歯の弱い肉を噛み切りずらい者には柔らかい部位を、子供たちには栄養豊富な部位を、そして狩りに出かける若者はタンパク質の多い部位と歯の強い分、硬いスネ肉などの部位を分け与えらえていたのだという。いわゆるそれが社会学者のいう原始共産社会である。それは限られた獲物を必要な分だけ捕獲し、如何に効率的にかつ合理的に全てを食するかという見地でみれば、ごく当たり前の行為であったが、現代社会がそうでなかったのは、まさしくクレージーであっただけなのかもしれない。
彼らは、お腹が空けばその日の分だけ獲物を捕ってきて、それ以外はいつも寝て暮らしていた。余計に動けばその分お腹が減るだけだと思っていたのだろう。だから獲物を余計に捕って保存したり、備蓄したり、身分に合わせて分け与えることは決してしなかった。そんな暮らしを送っている以上、貨幣の必要が生じることはなく、また地位の高い低いという経済格差も生じることはなかった。そして原始的な暮らしには文字もなく、言葉すら持っていなかったという。
大抵は「ナアァ~、アウゥ~、ムウゥ~」でたいていが通じ合った。その声が密林の中で響き渡っても獣たちはそれを聞いて怯えることもなく、その交わす言葉は、ほぼ獣の遠吠えに近かった。まるでテレパシーのような物であり、大抵は身振りとアイコンタクトで大体は間に合ったという。生物学的に分類すれば、まさしく人類であったが、文化人類学上は人間と呼ぶよりも、寧ろ霊長類のチンパンジーに近い類人猿に分類されるのかもしれなかった。しかし類人猿とは二つ違うところがあった。一つは食べ残した獲物の骨を焚火にくべて、みな天に向かって、両手の指を絡み合わせて祈りを捧げること。
もう一つが獲物を仕留めるとき以外は、野生動物には優しく森に棲むしっぽのやけに長いリスと戯れる村の子供たちや大人でもヒョウとレスリングする若者もいた。
その頃、アマゾン川流域の中心都市マナオスの村人が、先日密林の奥深くで裸族と偶然遭遇したという噂が、まことしやかに街中で流れいて、それを耳にしたのが、コロンビア大学人文社会学の研究者フィリップス教授のところに伝えられてきた。その研究者たちは、その部族の生活様式を研究するために、マナオスでその裸族の人影を見たという詳細情報を村人からヒヤリングして、カヌーでアマゾン川源流を遡って、裸族の姿を見たという地域を目指して、密林の奥深くに入っていった。数日間その密林の中を彷徨い歩いて、ようやくのことで、その謎めいた部族と偶然遭遇することが出来た。そして彼らは、その部族に気づかれないように近寄ることを避け、双眼鏡で遠くからその生態を観測することとした。その部族は、噂通り一切の衣服を纏わず、十数人でコロニーを形成して、密林の奥にひっそりと暮らしていた。そして以前に聞いた通り、近代文明に一度たりとも触れたことのない様子で、二日に一度程度狩りに出かける程度で、そのほかの時間はこれといった労働をするでもなく、昼日中から大きな木にもたれかかって眠っている者が多く、子供たちは川べりで水遊びをしていた。しかし双眼鏡で遠くから彼らをこと細かく観察している間に、研究者の一人があることに気づいた。それは彼らは決して昼間寝ているようではないということであった。確かに働くこともせず、ただただゴロゴロとしているに過ぎなかったが、木の幹にもたれかかって目を閉じていると、その手の平には小さなイチジクの実があり、そこに普通の場所ではめったに見かけることのない珍しい野鳥ギアナイワドリやナナイロフウキンチョウなど絶滅危惧種レッドリストに名を連ねる珍鳥のほかにもシロガオオオマキザルなどの密林にしか棲息が確認されていない野生動物たちが、何と彼らの手の平、そして頭の上にまで纏わりつくように乗って遊んでいた。その彼らは目を閉じてはいるものの、眠りについているというよりも半眼開いて僅かに唇をたまに震わせ、まるで呪文でも口にしているように見え、メディテーションしているとしか思えなかった。彼らは特段纏わりつく野生動物たちと話しかけているようすではなく、何か他に得体の知れない何かに向かって祈っているようにも双眼鏡を覗き込んでいた研究者の眼には映っていた。まさしくサムシンググレートに向かって。
彼らは動物たちと会話をしていたのではなく、森の精霊と話しをしているようであり、また動物たちも裸族を人として認識していたのではなく、木の枝だと思っていたのでもなく、森の妖精に挨拶に来ているようにすら見えた。そしてやがて研究者たちは、彼らに気付かれて危害を加えられないないように、遠巻きにそっとその森を立ち去り、カヌーでアマゾン川を下だった。そしてマナオスの町でパソコンを開いて、母国アメリカの大学にそのことをテレビ電話でレポートした。しかし彼らは、その生態を正確には大学側に伝えきれずにいた。それは望遠レンズで撮影した画像を送信しても、ただ彼らが眠っているようにしか見えず、もっと神聖な空気がそこに漂っていたことを、テレビ電話の向こうの相手に伝えることができなかった。これほどまでに現代社会は便利なツールを有しているというのに、その肝心なことをリモート会議で伝えることには行きつかなかった。その様子を第三者にうかがい知らせることは大変難しく、かと言ってどういう言葉で昨日見た彼らの生態を表現していいのかすら、皆無く解らなかった。彼ら研究者たちにはキーボードでレポートをする言葉も文字もあり、電話で自分の声で直に相手に伝えることもできたし、自分の顔すら映像を遠く海の向こうのアメリカにまで届けることができるというのに、その遭遇した裸族が密林の一種精霊に化していた独特の空気感を、大学に残る教授陣に伝えられない自分に不思議さを感じずにはいられなかった。しかし彼らが見た裸族の姿は、まさしく眠っていたわけでも、おしゃべりしていたわけでもなく、まさしく密林の精霊になっていたのであった。文字も言葉ももたない近代の文明と触れたことのない類人猿にも近い小さな一部族が、なぜあんなにも野生動物とあんなに距離を縮め、いや直に触れあってお互いがコミュニケーションをとることが出来ていたのか人文社会学を専門に研究してきた彼らにも理解することができなかった。
後にフィリップス教授は彼ら裸族のことをこう呼んだ「グレートニングル」と。ニングルトとは昔、北海道の富良野の原生林の奥で発見されたやはり文明と接したことないアイヌ人の一部の小人であり、森の妖精と地元では呼ばれていた。
フィリップス教授は、その裸族は特殊なコミュニケーション能力を持つ”偉大なる森の精霊”と称して、文化人類学上、彼らは類人猿ではなく、現代人を凌ぐ高い能力を有する”モースト・グレート・ヒューマン”だと国際会議の場でアマゾン源流での研究結果を報告した。
彼ら部族の持つコミュニケーション能力とは、一体何なんだろうか、どうしてあれほどまでに自然に同化することが出来ているのか、理解することはもはや不要であった。現代社会に生きる者として、彼らは決して類人猿なんかではなく、ひょっとすると現代人が失ってしまった超能力を持ち続けているのか、もしくはその能力を密林の中で極限まで高度に引き上げた結果だとすれば、現代人の方がずっと下等動物であることになる。メールやLINEで何でも伝えられると思い込んでいるだけで、本当は相手の感情も感動も慈愛の心も何も伝えられていないのに、それを万能のように平然と使いこなし、それに何の疑問すら抱くことをしない現代社会に陶酔しきっている人間が、急に哀れに思えた。
逢ったこともない人と恋に落ちて、挙句の果てに相手を訳もなく勝手に仮想の恋敵に嫉妬心にかられて、恋人を殴り殺してしまうような事件をよく耳にする。一方彼ら裸族はただでも警戒心の強い野生動物とも当たり前のようにコミュニケーションが図れて、犠牲にした獲物の魂を労り、そしてあたかも天に召されるように祈りを捧げる。現代社会で商業動物と称される家畜に、どれほどの者が彼らのような心持ちで食肉を食しているのだろうか。そしてそれを考えるとどちらのほうが進化した生物なのかジャングルの中で人文社会学の研究者たちは解りかねていた。
現代人は、既に宇宙技術で火星までいける科学技術を得ているというのに。
彼らの使う単純な言葉は、意外にも親鸞聖人の唱えた南無阿弥陀佛の読経の響きに不思議と限りなく似ている気がした。その言葉は野生動物たちとじゃれ合うときにも同じ言葉を彼らは使っていた。きっと彼らはバイリンガルなのかもしれない。
それはまるで縁のないアマゾンの源流域とインドの山奥という縁もゆかりもないような地域であるにもかかわらず、太古の昔に何か共通点でもあったのだろうか。野生動物と会話するように、例えば宇宙人と交信するのにその言葉が使われたのかもしれないと思った。
フィリップス教授の引き連れた研究者たちは、再度もう一度彼らの生活様式をさらに詳細に観察し研究を深めようと前回と同じようにアマゾン川を遡って、確かこの辺りで彼らと遭遇したであろう場所を必死に探索したが、ついに二度と彼らの姿を目にすることはでなかった。きっと彼らは探検隊の侵入の気配を感じ取って、さらなる密林の奥に移動していったのだろう。仕方なく研究者たちは裸族と同じように木の幹にもたれかかって、疑似的に野生動物の近寄って来るのを3日間ほどずっと待ち続けたが、一度たりとも野鳥どころかサルの一匹も姿も彼らの前に現すことはなかった。
裸族はその後も密林の奥深くで、また何もなかったかのようにいまだに近代文明と触れることを頑なに拒み続け、密林の奥でひっそりとそんな暮らし続けているという。現代人は時として知る権利ばかり主張したがるが、知らない権利もまた厳格に有していることを再認識しておく必要があるのかもしれない。
人類は雑食性動物である。しかし肉食動物とは違い、どうしても肉を食さねば生きていけない動物ではない。それは肉食動物と違い、植物を十分分解吸収できるだけの分解酵素を体内に生まれながらにして持ち得ているからだ。だのに食文化にどんどんと肉食が広がりつつあり、生活様式の欧米化により、いたるところで肉を食べる習慣が広がろうとしている。以前日本人も殆ど肉を食らう習慣はなかった、一部ウサギや鶏などの小動物を除いて。しかし今では特別な日でなくても普通に肉を食べるようになり、ごく日常的にステーキや焼肉、サラダチキンと生活にすっかり浸透しきっている。しかしどれほどの人がその動物の大切な命を奪って、食肉を頬張っているのかを考えたことがあるだろうか。
山手線に新しくできた新駅、高輪ゲート駅の前には次々とおしゃれなカフェやレストランが立ち並ぶようになっている。しかしそのすぐ近くに東京中央卸売食肉加工センターがあることをどれだけの行き交うサラリーマンが、立ち並ぶタワーマンションの住民がその存在を知っているだろうか。そしてそこで一日何百頭の黒毛和牛が屠殺され、誰がその半割にされる前に、ぴくぴくと筋肉を震わせる和牛の姿を眼にしたことがあるだろうか、そして想像したことがあるだろうか。屠殺される現場をみたくなくても、今ならGoogle検索すれば簡単に、ユーチューブチャンネルでそれを知ることができるというのに、それを誰もみようとはしない。
アマゾンの密林に棲む裸族が狩りをして得た獲物の命もその食肉加工センターで屠殺される高級黒毛和牛の命も同じ命なのだろうか。彼らは仕留めた獲物を、その都度残さず食べつくし、最後のこった骨を焚火にくべてその命を供養するのだというが、果たして日本のいや世界中の食通を唸らせる霜降り和牛も豚肉も北京ダックもフォアグラもそれを食した後に一度でも、その命に感謝して、その動物を供養した人が果たしてどれだけいただろうか。彼らは自らの手で獣を解体して余すことなく食べつくすが、果たして現代人で家畜の屠殺現場を見て、この肉が柔らかいだの、油が乗っているだの、鳥むね肉が健康にいいだとどれだけの人が、ご託を並べているのだろうか。食肉はカロリー換算すると霜降り肉1Kカロリーに対して給餌するエサの量はその100倍もが必要だと言われている。一人が食べ残したテーブルの上のひと欠片の肉の塊で、10人の餓死する人を救えることを人は本当に知っているのだろうか。週に3回の肉料理を先進諸国の人々が週一回にするだけで地球上から餓死者がいなくなり、週に一回を2週間に一回にするだけで、貧困に喘ぐ人々にも十分な食糧を分け与えられるということをどれだけの人が知って毎日食事をしているのだろうか。
少なくとも動物の中で我が子を虐待して、死に至らしめるのは、人類だけだとある生物学者が言っていたことを今更ながらに思い出した。
マルちゃんの望郷
小さな木の黒板にヘルプではなく、テイク&ギブ・サンクスと書かれていた。助けてくれと救いを求める前に、人の情けに前向きに甘んじなさい、そしていつかその人でなくともその時に受けた恩と感謝の意を他人に与えればいい、という意味らしい。
ただ単に「困ってます、助けてください」ではなく、優しい心に触れそれを受けいれることによって、初めて自分もまたいつしか優しい心を育み、他人に何かをしてあげる歓びを知るということなのだという。
その後フィリピに送還されたマルちゃんは、ファームハレルヤでみんなに優しくしてもらったのにも係わらず、何も恩返しも出来ずに強制送還されたことが帰国後、ずっと悔しくてたまらなかったが、その心惜しさを胸に小さな生まれ故郷の島で、小さな学校を開設し、と言っても子供だけではなく、読み書きの出来ない文盲の年寄りには文字の読み書きを、そして子供達には自然を通して生きる術と自然保護の大切さを教えていた。いわゆる生涯学習センターであった。流木を拾って建てただけの校門にはCHARTER・OF・BLCと記されていた。彼はファームで教わった暮らしを思い出しながら、BLC憲章を村人に教えていたのだった。ハウマッチではなくハウエンジョイライフをコバルトブルーの海に囲まれた自然豊かな小島でそれを実践していたのだった。
そのほかにもシアワセS基金で大学に進み卒業後、アフリカで小さな村で村長をしているという者もまた村で古くから伝わる部族の伝統を復活させ、昔からの部族の習わしを実践して暮らす人々もこの騒動のことを知らずに部族の誇りを以て胸を張って生きていた。以前は部族間の争いごとが絶えず、内戦にまで発展してしまった彼らが、今度は両者が手を結び、力合わせて部族間を越えて、村に共同の井戸を掘ったのだという。その結果婦人たちは水汲みに半日も費やす暮らしから解放されたんだという。
またアフガニスタンのスラム街では、シアワセS基金で学校を作り、タリバンの銃声に怯えて、今まで街頭で物売りをしていた子供たちもいろんな授業を受けられるようになり、今では支援を受ける身から代ってボランティア活動で内戦で避難している難民に食糧を届ける手伝いをしているという。
不思議なことに、今まで富と資産を得ていたはずの国々の国民ほど、今回の飢餓に対する抵抗力が少なく、死に絶える者が多かった。欧米では食肉がなくなり、小麦がなくなると餓死してしまう人が続出し、中国や先進諸国も同じように食の豊かな国ほど餓死者の数が多く、もともと貧困生活になれた貧民層特にキャッサバを主食とする民族は、もともとキャッサバにはシアン化合物という毒素が含まれており、さすがのサバクトビバッタのような暴食家も、その毒を察知して食害が殆どなかった。そのため昔からキャッサバを食べなれた人々にとっては毒抜きは当たり前のことであり、またキャッサバは栄養価が高く、モノカルチャーで栽培されていた小麦やトウモロコシなどよりも数段必要な栄養を取れ、少々の苦味をなれれば重宝な食糧であったが、先進国の国民は殆どそれを食することはなかった。
それにキャッサバは、痩せこけた土地でも良く育ち、ナイジェリアなどのアフリカ諸国とかインドネシアを中心とした東南アジアでは、それを主食としていた民族も多く、今回のサバクトビバッタの大発生による襲来被害を受けることのない貴重な食材が主食の人々には、餓死者は殆ど出なかった。
その事実は、各地の難民キャンプにも口伝で伝わり、難民キャンプの脇のNATTOの空爆を受けた空き地では懐かしいキャッサバを栽培する婦人が集まり、みんなで臓器や眼球の提供を止める運動と同時に少しでも自立できるようにと荒れ地で育つキャッサバは絶好の作物であり、その栽培の輪はあちこちの食糧不足に喘ぐ難民たちにとって掛け替えのない貴重な栄養源となり、栄養失調で痩せこけていた子どもたちの健康を増進させる重要な食糧となっていった。
そして、キャンプ生活を送っていた難民は、徐々に生まれ故郷に帰るようになり、故郷では部族の枠を越えて皆平等であり、部族間闘争を繰り返していた部族もみなが力を合わせて、焼き払われた村に再び家を築き、学校を建て、村の長老がその学校の校長を務めた。そして皆が力を合わせて畑を耕し、そしてキャッサバを植えていた。勿論部族ごとに調理法は異なっていたが、そのおかげでどこの家庭でも差し出される料理にはバリエーションが増えていった。
この同じ星の同じ時に生まれた人として、未だ文明に触れたことのない人々も、争いの絶えなかった部族の壁を越えて協力して村に学校を作り、井戸を掘る人々も、マンハッタンの摩天楼から飛び降りる人も、パリのレストラン街でゴミとなった食材を食い漁るグルメと呼ばれた人たちも、株券を握りしめて睡眠薬を飲んで自ら命を絶った人も、金の延べ棒を売りに行ってもパンの切れ端しか分けてもらえず餓死していくセレブもイスラムもクリスチャンもブッタも関係なく、時空を越えて皆、天を仰いで祈りを捧げた、全ての人に幸あらんことを。
それぞ本当の弥陀の本願なりと、仏教家は喜んだ。
各国各地でファームハレルヤの専門チャンネルを見て学んだという人々は、スラム街の暮らしを捨て、経済の破綻し荒れ果てた都会を捨てて、我欲を捨て、憎しみ合う心を捨てて、生ま故郷の田舎で、のんびりと自給自足する人々の村が各地で一つずつ増えていったという。
奪い合えばいくらっても足りない、譲り合えば大抵間に合う、分かち合えば幸せは倍になるものである。
かつて姥捨て山と呼ばれた日本の山奥の小さな村で黒岩たちの撒いたプラーナというドングリの種子は、長い時を経て、あちこちでようやくその芽を出し始めていたようであった。
化石の中にあった答え
中国新華社通信とカタールのアル・ジャディーダとCNNは異例の各社合同で共同記者会見を開催していた。それは国連事務総長の会見でもなく、アメリカ大統領でも中国の国家主席の会見でもなく、各メディアの共同宣言というものであった。そしてそれは各国の大衆の声の代弁者としてだとその時のキャスターが冒頭に各国の視聴者にむかってその旨を伝えていた。
「今から5年ほど前、旧ソビエトのチェルノブイリ原子力発電所の爆発事故の跡地で、急激な成長を遂げた超巨木が発見されたということであった。それはその時の爆発により破裂した大きな岩盤から見つかったある種子の化石が爆風で剥がれ落ち、強烈な放射能の影響下で発芽し成長して、もはやその樹高は80mにもなっているとロシアの植物学者が発表したのがきっかけで、その木になる果実が非常に大量で、栄養価が高く、人の立ち入らなくなった爆発箇所の周囲200kmの避難区域では、野生動物たちの楽園となっているとのことであった。後でその種子の見つかった化石を分析したところ、1億5千万年以前のジュラ紀後半から白亜紀のものでることが解り、まさしく恐竜全盛時期の樹木の種子の化石だということが判明した。あの恐竜時代というと確かにあの首長サウルスなどが主として食べていたのが、その超巨木の実と葉だったのである。そしてそんな巨大恐竜もやがて氷河期の訪れと共にその姿を消して、後に化石の中にその時の植生と一緒に恐竜の骨格がその生存の痕跡を残したが、人類もまた同じように、何らかの逆境で生存が許されなくなり絶滅したとき、未来1億5千万年後に化石としてその存在の痕跡が発見されるやもしれなかった。
そしてある学者がその落ちた実を中央砂漠に試験播種したところ、乾燥地帯でもしっかりと生育し、やがて水分が一滴もない砂漠がやがてオアシスとなり、今や豊かな森となって、野生動物の絶好の棲息地となり、多種多様な植物や動物、昆虫のサンクチュアリになっているという報告があった。そしてその森は、地下深くから僅かな水分を吸い上げ、その木の枝の無数に茂った葉から、その水分が蒸発散され、やがてそれは乾ききった大空に雲を呼び、干ばつに襲われる砂漠化が深刻になった中央アジアから内モンゴルまでが豊かな森へとなっていったのだそうであった。
そして天に向かって突きあがった樹木の葉は、濃度を増した温室効果ガスの二酸化炭素と一酸化二窒素を思う存分に吸い込んで、威勢よく成長し続けた。それで干ばつに喘ぐ貧困層の中でその噂が広まり、難民の中の数人がその種子を求めてそれを拾いに中央アジアに向かって、その種子を母国に持ち帰り、その趣旨を撒いてみたところ、見事にそれは生育し、やがてアフリカの北部サブサハラ地帯でもその後その樹木の植林活動が活発に行われるようになり、その動きが飢餓に喘ぐ地域にどんどんと広がりを見せて、今回その動きを全世界に広めるために、メディア各社が異例の共同記者会見を行うこととなったとメインコメンテイターが声を大にして、全世界に訴えたのだった。
それは野生動物の絶滅危惧種にも影響を与え、栄養豊富な木の実が絶滅に瀕した種の生殖を幇助し、その後人類はその森に棲む多種の昆虫を主食とすることで、この食糧危機の地球の難局を乗り切ることができると記者会見場で、アフリカの難民キャンプの住民が全世界に訴えかけた。
いつまでも食肉にこだわり、虫を食べることを頑なに拒み続けた民族はやがて死に絶え、昆虫食とキャッサバは確かに食べなれない人にとっては最初、悍ましい味がして口にしずらかったが、しかし飢餓というものは最高のこの上ない調味料で、大抵のえぐみも苦みも打ち消してくれて、何でも最高の料理となり、美味しい美味しいと貪りつく人々は未来に向かって生き延びることができた。
そしてそれこそが人類を救う命綱になったのである。
もはや全世界の民衆は、強権なリーダーシップを望んではいなかった。全てを繋ぐパートナーシップこそが大衆の中で力強く広がっていたのであった。
そして、その頃国際宇宙ステーションから宇宙飛行士が遠く離れた宇宙から、地上の宇宙開発技術センターの管制室にこう伝えてきた。
「目を凝らしてみても、あの青く光る星には、もう国境という線は、宇宙からは確認することが出来ません。確認できたのは、青い海と陸地の境界線だけで、以前は確認できなかった乾燥地帯に幾つかの濃い緑の部分が確認出来ました。おそらく森が広がっている模様です。既に両極には、氷山の白は見当たりません。
先ほどはっきりと確認されたのは、太陽の表面で未だかつて観測したことのない、大規模なフレアがさきほど鮮明に確認されました。
I・LOVE・THE・BLUE・PLANET・CALLED・EARTH・WIHTOUT・BORDER R・・・・・・・・
BE・MORE・SIMPLE・MORE・NATURAL・・・・・・・TO・BE・MORE・BEAUTYFUL・・・・・・ 」 と伝えて管制室と宇宙ステーションの宇宙飛行士との交信は激しい雑音とともに途絶え、その後通じることはなかった。
太古の樹木の森が幻なのか、灯りの消えた廃墟と化した高層ビル群のコンクリートジャングルが幻なのか、それを定かに答えられるものは、この地球上にはいなかった。
かつてジャン・ポール・サルトルは、現実存在論の中で、実質は実在の中にこそ存在する実存・非実存間の、直感的表象としての一元的物的概念からの昇華であると言っていた。
いったいサルトルなら、この世の実質はどこにあるというのだろうか。
それでも生きた人々
ほぼ破滅的危機に陥った地球に存続する社会があった。
壊滅的というよりもほぼ崩壊した地球において、次元軸にねじれが発生したのか不可思議な幻想が現実社会に存在し、今までの目にしていた現実という社会との重なり合う社会が明確に感じ取ることができるようになったのである。
それはきっとその昔であれば、死んで初めて知る世界なのかもしれないし、ある特定の霊能者とよばれる超能力者もしくは得度を積んだ修験者のみが辿り着く世界が日常の中でまるで二つが同居しているように、価値観を違える人々が相反する世界に存在していた。
地球が完全消滅したのではなく、ある強大なエネルギーの介在によって、時空ないしは次元軸にねじれが生じたとしか言いようがなかった。今まで目にしていた世界も旧態依然のまま存在し、絶え間ない紛争、収奪、搾取、差別は繰り返されていた。自国の安全と侵略から身を守ることのみに奔走して、力は力で押さえつけると言わんばかりに核軍備増強が進み、飢餓に直面する人々をしり目に軍備増強のために国の威信をかけて邁進し続ける世界とそれとはまるで価値観を異にする世界があった。
その世界は、老若男女入り混じる社会であった、というよりも長寿の村だらけで、病気だからとて病院に行くでもなく、自らの心ひとつで病気は克服できると信じていた。
だから病気の恐怖から完全開放されていたのだった。いうなれば人々が抱く自然への畏敬の念が、その病気を治癒し、その信念が死の恐怖から解放されて決め手であり、自らの存在が自然の恩恵を受けて存在するのではなく、自らのルーツは自然そのものであり、常に自然との一体感の中に身を置き、その自然界の一部であることを部族の先人たちから脈々と受け継いできたものにのみ許される領域であった。自らの生まれながらにして持っていた自然治癒力が脳に精妙な波動を送り続け、病気のもとを撃退していたのである。
その世界観にそぐわないものにとっては、すこぶる居心地が悪く、倦怠感に苛まれ病に屈して同様に死に絶えていき、自然淘汰の原則に沿って、選択されていった。人間も病原菌も状況は同じであった。
そこでは、もう一つの世界を形成していたリーダーシップという概念も存在もなかった。いわゆるリーダーではなくパートナーシップこそがそれを形成する土台のような観念がその世界を支えていた。
そこでも特に特異的象徴的存在だったのが、日本の山奥でその昔からその考えを重々しく継承した人々であり、彼らが先祖から受け継いできたものは、まるで法典の如く重宝されて生き様を左右する理となっていた。その人々の生き様、観念、理念は異次元世界においてはなさ敷くバイブルとして、他の人々に多大な影響を与え続けた。
それがまさしく日本環境新党を生んだ聖地であり、彼らの祖先である。
今は亡き黒岩が自然こそが我らの資本なりと唱えた ”BLC憲章”の教えそのものであった。
自然からの贈り物は自然に還す。その理念が心に刻み込まれた祖先たちは、誰に干渉されることもなく、自らが自然環境共和国として、日本国から独立した村人たちの末裔であった。すべての社会の資産は自然にあり、自然こそが社会を永続的に支える礎だと知れとする教えが、彼らの社会理念であり、価値観そのものであった。
彼らは、この世界に激変をも知る由もなく今もひっそりと山奥で森を愛し、清流に身を清め、天を仰いでただただ、ひたすらに今日を生きているただそれだけであった。しかしその村の存在は今も定かではない。
~完~
幾つもの失敗と愚行により、人類も地球も取り返しのつかない事態を起こしてきた。それは明らかに偶発的な事態ではなく、その時代、時代における社会の価値観が生んだ必然的な時代であった。
人類は不可逆的な事態を自らの価値観、社会通念、欲望の渦のなかで生み出した状況下で初めて、知ることができた最終的課題に到達することができた。
その境地に辿り着いて初めて気づく世界観なのかもしれない。言い換えればその境地に達するために天が与えた逆境なのかもしれない。釈尊もイエス・キリストもアラーもすべての賢人たちも同じ境地に立って悟りを開いたのだとすると、人類もその絶境の果てに知るにいたたのかもしれない。