最終章 親愛なるものへ
お母さん先生の最後の教壇
その頃玄さんは、彼女に頼まれた紙すきの道具を作るために、あれやこれやと工夫を凝らしていた。天井から綱をたらし、木枠に金網を張って、木枠で舟を作り、お嬢様に言われるままに、紙すき道具が取り揃えられた。
そしてひと通りの道具が揃うと二人は、馬にまたがって、山の奥にまで和紙の原料となるコウゾ、ミツマタ、ガンピそのほかクマザサなど手あたり次第に紙の元となりそうな植物を手あたり次第集めては、皮を剥き、繊維を擦り潰し、そして彼女はそこに自分の好きな野の花を押し花にして、おしゃれな和紙の便箋を作るようになっていた。当然好きで始めたことでもあったが、それ以上に他の人のように力仕事の出来ない分、彼女なりに少しでもファームのみんなのお役に立ちたいという思いがあり、その出来た便箋を玄さんは町の道の駅で販売をすることにしていた。
ファームの連中も始めは、人のいい玄さんのことだから、いろいろ文句言われながらもよくやってるよなと思っていたが、その頃から玄さんに僅かな変化が現れ始めていた。いつもよれよれの作業服が定番の彼の服装が、いつしか赤いチェックのカッターシャツに変わり、汚いズボンはブルージーンズとまるでアメリカのファーマーのような、こぎれいなおしゃれな恰好に変わっていったのである。その変化をメンバーはみんな気づいてはいたが、口に出すものは誰もいなかった。そして黒岩も最近玄さんに頼みごとをしても、いつも決まって返ってくる返事が、決まってこう返事が返ってきた。
「今ちょっと手が離せないから、後にして」
といつもは気前よく
「お安い御用だ。合点知の助!」と気前だけはよかったが、彼が妙にここ最近連れなくなっているをおかしいと思いだしてもいた。しかし玄さんが馬にまたがり、その後ろに彼女が横向きに馬の背に腰を掛けるように寄り添って、山の奥まで和紙の材料集めに出かける姿をみんなはよく見掛けるようになっていた。そして、玄さんは彼女が紙漉きした出来立ての和紙の便箋を道の駅まで配達するのが、楽しくて仕方なかったようすであった。黒岩もいくら頼んでも玄さんにいつもすっぽかされっぱなしだったので、呆れかえって別のメンバーに手取り足取り教え込んで、木の皮のむき方、斧の振り下ろし方、馬の操り方を一つ一つ教え込んでいた。
そんな日がしばらく続いて、次に黒岩はトイレの下に大きなタンクを設置し、そこの住民の日々の排出物の他に台所のコメの砥ぎ汁や野菜くず、それに青草の刈ったもの、馬の糞尿に至るまで全てを放り込み、発酵熟成させてメタンガスを発生させることを考えていた。そのためには、また下の町のスクラップ工場でいらなくなったタンクを幾つか調達したかったのだが、とうの玄さんは相変わらず「今日は手が離せない」の一点張りで、まるで当てにならない状態であった。
それで仕方なくスクラップ工場の場所だけを玄さんから聞いて、黒岩は町に下りた。一応玄さんが予め工場の社長には連絡してくれていたらしく、使わなくなった合併浄化槽のタンク二つとおまけにドラム缶があったので、それを斜めに切り込みを入れてもらい、プロぺラ状に折り曲げてもらって、中央部分に回転の芯になる単管パイプ、そしていらなくなったベアリングを二つもらって、今度もらいに来るといって、社長に「ところで代金はと?」と尋ねると、社長は「どうせ玄のことだ、またそのうち何かの形でかえすから、と言われるのがおちさ」と呆れ顔で言い放たれた。
翌日、例の幌馬車を引いて先に頼んでおいたものを山積みにして、黒岩はファームに戻ることにしていた。そしてその時黒岩が目にした廃車になった自動車の山の先に、古タイヤがうず高く積まれていて、
「あれはどうするつもりですか?」と黒岩がその社長に尋ねると
「あれは古タイヤ業者に処分料を払って持って行ってもらうんだ」と言われて、何かもったいないなあと帰り道すがら頭を捻っていた。そしてファームに着いたときに、ふとひらめいた、あの古タイヤで家が出来ないかと。
黒岩はファームの仲間に声をかけ、総力戦で地形に合わせて建物の少し下のところに大きな穴を堀り、そこに二つのタンクを設置して、トイレの排出物から台所から出るもの、馬小屋の馬糞まで全てを放り投げることのできる投入口を開けてタンクを埋設した。そして再度台所に細い管を引っ張って、拾ってきたガスコンロをつなげていた。最初は何事も起こらなかったが、そのうち一ヶ月二ヶ月と経つうちに、放っておいたタンクの中が発酵し始め、ついにそこから念願の発酵ガスが発生し、そのガスが管を通ってガスコンロに届き、やがて火が着いた。実にファームにしてみると画期的な出来事であった。それは黒岩が長年夢見たメタンガス発生装置の完成の瞬間であった。それは料理をするには十分でガスコンロが使えることで、外で火を焚いて料理をすることから解放された。
そして、玄さんには近くの小川の落ち込み付近にスクラップ工場で加工してもらったドラム缶を加工した羽根車に通した単管パイプをしっかりした大きな岩に挟みこみ固定してもらい、そしてその回転でトラックの大型のダイナモを回しす仕組みで、少し高いところから落ちてくる水流で、ドラム缶が回る仕掛けで発電が出来たらいいなと考えていた。そして玄さんが大きな岩を馬に引っ張らせて、落ち込んだ場所まで引きずり込み組み合わせることで、単管パイプを軸にして大きなドラム缶が動き出してくれた。そして大きなダイナモと連動させて動き出して、見事小型水力発電装置も成功して、ハウスに電気も灯るようになっていった。その作業はさすが石組み職人ならではの名人芸のようなものであった。
少しずつファームにも暮らしらしい暮らしができるようになっていった。ファームの連中もさすがにもう文句を言うものはいなかった。
しかし人というものは、簡単にそこで満足できるものではなく、ある程度便利な生活に慣れてくるとマスタは電気が通れば、ラジオが欲しいと言い出し、親分は電動ドリルが欲しいと人間の欲に限りが無いのも、また人の性であった。しかしその大抵のものは玄さんが、町の粗大ゴミ置き場で調達してきてくれて、それは何でもない使えるものでもデザインが古いとか性能が悪いと捨てられていたのであった。しかし秋になって沢の水は渇水になり、ドラム缶水車の動きは歪になり、発電が思うようにできなくなると、その時はファームからラジオから流れるアナウンサーの声が聞こえなくなり、電灯が付かなくなると、みんな寝るのが早くなるそれだけのことで、停電したからと言ってそれをとやかく言うものはいなかった。
次には、黒岩はキャプテンと、マスタを連れて三人がかりでスクラップ工場に山積みとなった古タイヤの中から軽自動車のものを選んでそれだけを選分けて別の山にした。どうして軽自動車のタイヤばかりかというと、それが一番軽くて形が揃いやすく、これから組み上げる時にも大型のサイズでは持ち上げるのが大変だったので、軽自動車にこだわるのもそんな理由であった。
そしてまたも古タイヤを山盛りに積んだ幌馬車がファームに戻ってくると、幌馬車には、そのほかに大型バスのフロントガラス3台分ほどと乗用車のドアも積まれており、後々組み上げたとき屋根にそれを取り付け家の中から星が見えるようにと大型バスのフロントガラスが欲しかったのである。
そしてメンバー総出で古タイヤを千鳥に並べていき、その間に土を投げ込みながら、またタイヤを並べるだけのものであったが、それは柱があるわけでもなけりゃ、梁が必要でものなかったので、それはだれにでも簡単に出来るものであり、また基礎工事もいらなかったので、作業は順調に進んだ。勿論その作業には、ファームに入植したいと言っていた若夫婦と子供たちも参加して、大賑わいでお祭りのように掛け声をかけて、古タイヤハウスが見る見るうちに組がっていった。そして南向きの壁と天井には、大きなフロントガラスを埋め込んで、部屋の中は日当たりがよく、意外と快適な空間が出来上がった。
一棟組上がると外壁には、そのままじゃ外観が周りの自然の景観と不吊り合いというマスタの意見で、隙間に草やコケを植えて、内装は漆喰を壁に施して、意外とおしゃれな地中海の家並みを思わせるような空間が完成した。そしてその出来上がった家は断熱効果は抜群であり、また防音効果も高く、冬は陽の暖かさだけで夜まで暖かく、夏も案外部屋の中は涼しく快適空間であった。
しかし、そんな作業には、いつもいの一番に現場監督をかって出る玄さんは、その作業には殆ど参加せず、もっぱら和紙を道の駅に売りに行くことで頭が一杯になっていた。
ある日、今までの道の駅で販売した売り上げを支払いたいというので、道の駅に出向いた玄さんは、和紙を納品がてら帰りがけに支払われたお金の一部で大きなコンパネサイズのアクリル板を二枚をわざわざ遠くのホームセンターまで行って買って帰ってきた。
そして残りのお金をそっくりお嬢様に手渡すと彼女はそのお金を受け取ることを頑なに拒んだ。
「このお金は、私のものじゃありませんよ、玄さん。そのお金はみんなのものです。何か必要な時に取っておいてください。第一私がもらったところで使いようが無いもの。」と笑いながら、彼女からその売上代金は突き返された。それでやむなく、それは黒岩が一時預かるということになった。
そして玄さんは親分にこのアクリル板にあうような、とびっきり立派な額縁を作ってくれと頼んでいたので、しばらくしておしゃえな白樺の枝を組み合わせた額縁が出来上がった。それを早速お嬢様にもっていった。
「この額の中に和紙にいろんな花を折り込んで絵を作ってくれないかなぁ、コンフィデンスルームの一番目立つとこに飾りたいんだ。」と彼女に頼んだ。それを聞いた彼女は
「それは、珍しく玄さんにしてはいい考えですね、きっと素敵でしょうね、みんなが集まる部屋に飾ってもらるならば、私も最高に嬉しいですよ」と快く応じてくれた。それからしばらく彼女はその壁に飾る和紙アートづくりに没頭した。暇を見つけては野山に出かけ、夢中になって気に入った名も知らないような小さな小花をいくつも押し花にして、たまに寝ることも惜しんで押し花の張り絵の製作に明け暮れる日々が続いた。それは、たまに夜空がうっすらと白みかけるようなころまで続いたこともあった。それを和紙の材料の中に埋め込んで、和紙の上に見事なお花畑が再現された。
そして彼女はそれを玄さんに渡して、出来たばかりのアクリル板に挟みこみ立派な和紙アート画が完成した。それは熊の毛皮の隣に飾られまた一つファームの中が鮮やかに彩られる重要なツールとなった。
そしてやがて、出来上がりを待ちきれずにまだ内装が出来上がらいらない古タイヤハウスに若夫婦家族が引っ越してきたのは、それから数日後のことであった。
ファームにも子供の声が響き渡り、一気に賑やかな雰囲気に包まれて、森下家の4人の子供と佐伯の子供二人も合わせて、その後お嬢様がその子らの面倒を見ることになった。最初
「私みたいなおばあちゃんでいいのかしら」と言いつつもさすがに以前小学校の先生だけあって、子供の扱いはなれたものであった。
そして、親はというと子供に手がかからなくなった分、奥さんたちは野菜つくりに明け暮れ、かれこれ50種類近い野菜やハーブが畑に並ぶようになり、さながら小さなスーパーよりも品数が多いくらいで、しかも新鮮なのと無農薬で安心して食べられることが何よりであった。だから朝食はいつも野菜サラダの食べ放題となった。奥さんたちの都会暮らしの時は専業主婦で、ほとんど土いじりをしたことはなかったが、ファームのみんなが喜んで食べてくれる姿が面白くてたまらなかったようで、そのうち姫リンゴや、キウイフルーツの苗木まで植えるようになっていた。
また一方ご主人の方は、今度黒岩が考えていた構想の片棒を担がされることになっていた。というのは、森の奥に夏でも湿気てぬかるむところがあり、たまに馬も足を取られたことのある底なし沼状態のところがあった。黒岩はかねてから、どうしてあそこだけ一年通してぬかるんでいるのか解らなかったが、最近になって、きっとあそこの付近にどこか湧水が湧いているところがあるに違いないと考えていた。それでその湧く源を探り当てるために少しづつスコップで掘ってはいたが、一人ではなかなかその位置を発見するにはいたらなかったので、その役目を彼にお願いしたかったのである。黒岩はその間にもう二つほど古タイヤハウスを作って、その一つを医者から余命宣告を受けた終末患者の人たちの終の棲家として整備したかったのである。最初一棟作り上げてみて、中に入ってみるとなんて心地のいい空間なのだと感動していて、その心地良さを残り僅かな限りある時間を最期、人生を振り返る場として提供したいと考えていたのである。日当たりはよく、ほんのりと暖かく、その代わりに外界の音が完全に遮断されて、古タイヤと言えども土に囲まれて、微妙な曲線美に包まれたその空間は、今まで作りあげてきたログハウスには無い、独特の柔らかな感触が感じ取れ、まるでスペインの建築家アントニ・ガウディーが唱えていた自然界には直線はない、建築は自然から学ぶべきという建築思想そのもののような気がしていた。そこには流れる気のようなものを感じていたのである。実は古タイヤハウスが出来上がったときの夜、黒岩は自分一人でそっとその部屋の中で目を閉じてそこに佇んでいる時に終の棲家を作ろうと思ったのだった。そしてその名前を創無庵と考えていた。
それは無を創造することと無から創り出すという思いを込めて。
そして要領を得た面々は、手際よく古タイヤを組み上げ、今度が大型バスのフロントガラスがなくなったので、乗用車のドアごと壁に埋めこんで手巻き開閉式の窓を至る所に配して先のものとは一風変わった形であったが、それはそれで個性的であり、いいものだった。
そうこうしている間に、水源探し担当の森下さんが大慌てで黒岩のところに走ってきて、
「黒さん大変です、見つかりましたよ、水の湧くところが。すっごくきれいな水が浩々と吹き出してました。凄い感動ですよ。」と大騒ぎで吉報を持って駆け足で黒岩の元にやってきた。
「でかしたぞ森下君、お手柄だ。ところで水量はどうだった?」と聞きなおすと
「量は大したことないですねどね。・・・・・」と急に口調はトーンダウンした。しかし、一旦タンクで溜め置きすれば、すぐに溜まるから心配ないだろうとたかをくくっていた黒岩は安易に考えていたが、いざ現場に行ってみるとそれは想像していたものとは、遥かに違い、一日分のファームの住民の飲み水を溜めるのに、丸一日を要するくらいの沁み出し水程度であった。というより折角掘り当ててくれた森下さんに、
「何だこれっぽっちかよ、これじゃどうしようもないや」とは言えないでいた。しかしないよりはずっとましで、毎回沢から水を運び上げることからすれば、雲泥の差だと自分を納得させ、気を取り直した。
そして足りない部分は屋根に降った雨水を樋で集めて溜め込めば補うことできたので、何とか湧水は飲み水、雨水は洗い物という使い分けで使えば、ファームの水問題は何とか解決することができた。
その頃、子供たちはお嬢様のことをお母ちゃん先生と呼ぶようになっていて、彼女のことをすっかり慕っていた。たまには勉強を教わることになり、時間の空いた時には、キャプテンも算数を担当して、もっぱら学校の授業を受けているようであった。小さい子は2歳児から上の子は小学3年生でまさしく複式学級であった。
そして親分は、いつもぶっきら棒で子供を寄せ付けないような顔は強面でも実は子供が大好きで、よく子供らに動物のオブジェを作らせていて、小枝で小鹿や馬やキリンがハウスの周りを所狭しと並ぶようになっていた。そして子供らも野菜作りを手伝ったり、馬の世話までするようになってくれていた。
そしてドングリの苗木が大きくなり始めていたので、天気のいい日はファームのメンバーみな揃って、土砂崩れ現場で植林活動をすることになっていた。
そのうち子供らは町の学校に行きたがらなくなり、ある種、登校拒否児童になってしまっていた。二家族6人の子供は揃ってお母ちゃん先生をはじめとした各授業の先生に恵まれていて、親たちも強いて町まで送り迎えするなら、それでもいいんじゃないかと寛大に考えていた。子供は自然と触れ合い、人生の先輩から学ぶものは数限りなくあり、せせっこましい教室で画一的な授業を学ぶくらいなら、またそれ以上に海のような深い愛に包まれて育つほうが数段価値のある教育だろうと親を始め皆そう考えていた。子供たちもまた今までの学校以上に周りの大人の暖かな優しさに触れるようになると、いつの間にか年寄りを労り、肩をもんだり、メガネを取ってあげたり、都会で暮らしていた時には見たこともないような優し心の持ち主になっていく我が子を、親たちは改めて微笑ましく思っていた。そして思い切って田舎に引っ越してきてよかったと両親とも満足していた。
しかし心配事はその頃別のところで起こっていた。いつも明るいお母ちゃん先生が、ときたま腰を屈めて激痛に耐え、お腹を抱える姿をよく見かけると黒岩は玄さんから聞かされていたのだった。どこか体調がすぐれないのではと黒岩は玄さんに
「一度思い切って町の医者に見てもらったほうがいいのではないか」と忠告した。
それで翌日、玄さんは森下さんの車を借りて、嫌がるお嬢様を無理やり連れて、町の病院に行くと医者からとんでもないことを言い渡されたという。
「ご家族の方でしょうか。よく聞いてくださいね。奥さんは既にガンが身体全身に転移していて、肝機能も腎機能も冒されていて、長くて半年短ければいつ亡くなってもおかしくない状態です」と玄さんが告げられたのであった。その話を二人は頭をうな垂れてじっと聞いているばかりであった。帰り道お互いは話しをすることもなく、無言のまま二人とも黙りこくっていた。玄さんも彼女に掛けてあげる慰めの言葉が見つけきれないでいた。そしてファームについて自動車のドアを開ける直前、彼女の方から言い放った。
「立花さん、このことはファームの他のみなさんには絶対に黙っててくださいね。知らないほうが、お互いいいと思うんです。そのほうがお互い気楽なはずですからね」とぽつりと彼女が呟いた。玄さんは返す言葉が見つからなかった。そしてついに重い口を開いて、
「心配いらないさ、医者があんなこと言ってるけど、何かの間違いに決まってさ。だってあんたはこんなに元気なんだから、お嬢様はいつも張り切って紙漉きしてるじゃないか」と玄さんは月並みの励ましの言葉を掛けることが精一杯で、玄さんの言葉には根拠も説得力はまったくなかった。そして彼女はすっきりと立ち上がって玄さんに言った。
「ところで立花さん、この年寄りを捉まえて”お嬢様”は止めてくださいね。私にもちゃんとした名前がありますから。これからは私のことは、百合子と呼んでくださいな。そして私もう、わかっているんです、自分の身体のことは。もうすでに私は覚悟はできています。以前からずっと変だと気づいていましたから。だからこそ自分に残された時間を少しでも大切にしたいんです。立花さんも力を貸していただけますか?あぁ、でも今までも散々無理をお願いばかりしていましたけどね。」と微笑みを浮かべながらいつもの様子で何もなかったかのように彼女は玄さんに話しかけてきた。
玄さんにしてみると平然としている彼女の姿が凛々しくもあり、またかえって彼の心には辛くさえ感じさせられていた。玄さんは、ふさぎ加減にまるで自分の方が病気になったように小さな声で
「何でもいい、遠慮なんかいらないから好きなことして楽しもうぜ。なんでもいってくれよ、百合子さん。」
その後彼女は、今度ファームの皆に毛糸のセーターを編んであげたいということで、玄さんは早速隣村の知り合いに頼んで羊を4頭、それについでにマスタから草刈りが大変だというので、ヤギも3頭譲り受けてくることになった。ファームにも、もうすぐ産まれてくる仔馬を含め、馬4頭、羊4頭そしてヤギが3頭とそして鶏10羽と既にまるでふれあい動物園のようになっていた。
だから子供たちも大はしゃぎで、自分たちで朝から鶏の卵を取りに出かけ、馬には干し草を与えて、動物たちの世話に余念がなかった。
そしてそれと同時にキャプテンも窓際に設置した小鳥の巣箱には屑コメを食べにくる小鳥たち、そしてエサ台にはひまわりの種を食べにシマリスも顔を出すようになっていて、その光景は皆の心を朝から癒してくれていた。
黒岩はその頃、村役場に何度となく掛け合いに行くようになっていた。というのはだんだん増えてきた子供たちに、廃校になった誰も使わなくなったあの施設を子供たちに解放してあげてやってほしいという陳情であった。しかし村とすると個人的な遊び場に廃校を利用させるわけにはいかないし、しかもその対象が全員不登校児であり、町の学校に行かせことが先決だとけんもほろろに拒否され続けていた。
森下さんの話によると、昔彼は高校の音楽の先生だったらしく、今の荒れ果てた高校と教育委員会の指導要綱そしてPTAの親たち、それに学校教育の在り方自体に嫌気がさして、子供だけでもそんな嫌な目には合わしたくないというのが、移住の決め手であったそうである。そして、その夜夕食後みんなの前で彼は、持ち込んできたヴァイオリンを弾いて見せてくれた。
その音色は澄み切っていて、弾き手の心の中を映し出すように綺麗に古タイヤハウスの中に響き渡った。この部屋は音響効果も抜群と見えて、その奏でる音色は絶妙に壁に反響し合い、そのヴァイオリンの音色は涙ぐむ程に皆の心に鳴り響いていた。古タイヤハウスはまさしくコンサートホールになっていた。その元音楽教師のヴァイオリンの音色は、その後毎晩静かなファームの夜をより一層静まり返らせるほど繊細であり、物悲しい響きであった。
その日以降、森下さんのことを皆はマエストロと呼ぶようになった。そして玄さんが
「この間、ゴミ置き場で古びたギターを見たぞ」と言って翌日には、壊れかけのギターを拾ってきた。そしていつしかヴァイオリンとギターとなべ底ドラムでファームでは度々ミニミニコンサートが催されることになった。
普通、演奏者は演奏、観客は観客であったが、ここではその隔たりはなく、弾いたこともないのに俺にも教えてよとマエストロから教わりながら、ヴァイオリンやギターの弾き方を教わり、観衆はすぐに演者になっていた。そして残りのものは歌を歌いだし、いつしかその歌声は、ベートーベン第九交響曲「歓びの詩」合唱付きへと進化していった。佐伯君はいつもは日曜日には必ずといていいほどファームに遊びに来ていたが、最近は何かしら毎日顔を出すようになっていて、黒岩が心配してに佐伯君「君、大丈夫なの、会社の方は。いくらリモート出勤だといっても毎日ここに来ていたら、仕事にならないじゃないのか?」と尋ねると
「僕も解ったんです。お金を稼ぐのを仕事と呼ぶんなら、みなさんの暮らしって何て呼べばいいのかと。こんなに毎日楽しそうに精一杯い生きていて、お金のかからない暮らしをしていて、自分一人会社の作業に縛られて、折角田舎に引っ越して自然に囲まれた環境にいるというのに、毎日パソコンのモニターと睨めっこしているのが仕事だと思うと馬鹿らしくなって、子供たちも女房も皆ファームで楽しそうなの見て、俺も思い切って会社辞めました。黒岩さんたちの生き方って、きっと生きること自体が仕事であり、生きてることが生き甲斐なのかと思うんですよね。」とあっけらかんに佐伯はみなに自分が会社を辞めたことを打ち明けた。
玄さんは間髪おかずに、
「よぉっしゃ、よくやった。それぞ男よ。そうじゃなくっちゃな。それじゃこれからはおまえも本物のファームの一員じゃのう。」といつものように能転気に玄さんが言うとほかのみんなも佐伯君の退職を大歓迎した。
「ところで、皆さんに聞いてほしいことがあるんですが、以前から黒岩さんには相談していたことなんですが、今まで開設していたファームのユーチューブチャンネルの再生回数が凄いことになっているんですよ。それにツイッターでその都度ファームの出来ごとを発信しているとフォロアーも今や一千万人を越える勢いになっています。どうしましょうか?」と佐伯君がみんなに話をしたが誰一人、何が大変なこと何かかいむく見当が付かず、
「それでどうしたの?・・・・・」というだけだったので、これ以上説明しても無駄だと思って佐伯君は、話しするのを途中で諦めた。
玄さんは、「そんなくだらないことはどうでもいいから、折角だからあんたも今夜は少し飲んだら?」と、お母さん先生に芳醇に仕上がった山葡萄酒の注いだグラスをそっと彼女に差し出した。
「折角だから私も少し戴こうかなぁ」と彼女は差し出されたグラスに口を少し付けた。
そして玄さんは、話を逸らすように佐伯君に、
「そんな七面倒くさいことはインテリのお前に任せるべ。そんなことはどうでもいいから俺に特製の山葡萄酒でも注いでくれんいか、俺にとってはこれが最高なんだよだ。」と言い放つばかりで、マエストロを除いて、誰もそんなことに興味を持つものはいなかった。
後からマエストロがそっと佐伯君のところに寄ってきて耳元で囁いた。
「凄いことになってるみたいですね。僕もファームのユーチューブみましたよ。あれだけの数のフォロアーがいつもファームの様子を気にしてるなんてね。これからが大変ですね。でもファームの彼らにとっては、もっぱら山菜がどこに出始めたとか、山でこの間熊に出くわしたとかそっちの方が重要みたいだから何を話しても佐伯さん無駄ですよ。きっと」とひそひそ声で佐伯君に耳打ちした。
黒岩は玄さんから聞くところによると、お母さん先生の具合は、日を追って深刻になってきているようだった。彼によると、もうそうは長くないかもしれないということであった。
しかし彼女は、そんなことを露にも顔に出さず、いつも身体の具合が悪いことなど感じさせない元気な様子を装っていて、他に誰もそのことに気づく人はいなかった。
そして黒岩は思いもよらぬことを玄さんの口からきいた。
「笑うなよ黒、いたってわしは真剣なんだから。今度結婚しようと思うじゃ彼女と。まだ誰にもいうなよな。俺が思うにもって一か月かもしれないと思う。もう時間が無いんだ。」といつになく深刻そうな顔でその眼には薄っすら涙が浮かんでいた。
黒岩は「あっそう。」とあっさりと切り返した。
その時には黒岩に、それ以上に玄さんに返せる言葉が見当たらなかった。
そしてある朝、玄さんからこんな話しを聞いた。
「ファームの子供たちにもっとしっかりと勉強を教えないといけないわ。あの子らったら全然学校にもいってないのよ。このままじゃあの子ら、これから大変になっちゃうわよ。それだけが私の心残りだわ」とかすれた声で彼女が囁くように玄さんに言ったらしい。
黒岩はさすが元先生だと思った。そして何とかあの廃校の教壇にもう一度彼女を立たせてあげたいとも思った。
そして、黒岩は再度村役場にそのことを掛け合いに行って、教育委員会から一日に限り教室の使用を許可すると言わせてファームに戻ってきた。その代わり速やかに子供らには町の学校に通うように促すことという条件が付けられた。それを玄さんに伝えると彼は直ぐさま、それを実行に移した。
数日後天気のいい日を見計らって、彼女の体調が少しましなのを見極めて、子供らを連れて、廃校の教室に皆を連れていった。そして彼の太い二の腕で抱えるように、彼女を教壇に連れていき、そして科のp所の痩せこけた腕を支えながら、ようやくのことで彼女を立たせて、子供らを席に着かせ、佐伯の子供は車椅子のままで一礼をした。
「ではこれより一時間目を始めます」と威勢よく玄さんが声を掛けると急に彼女は凛としてしゃきっと立ち上がり、一礼した。
「みんな、こんなところで授業をすることになるとは、お母さん先生も思ってもいませんでした。これが最初で最後の私の授業になるかもしれません。では元気に名前を呼ばれたら手を上げ返事てくださいね。では、まず最初は、森下拓郎君。」
「はい。」、「つぎ、さえ・・・・」
と言ってまたも椅子にしゃがみ込んで、ようやくの事、息を凝らしながら、6人の名前をゆっくりと読み上げた。下の子は2歳児一番上の子は10歳とバラエティーに富んだ学級だった。
「今日は、社会科のお勉強です。人は誰もが一人では生きていけません。みんなが力を合わせて、助け合て生きていかなければなりません。
〇×△÷を学ぶ前に、何を一番大切にしなければならないのかをしっかりと学んでください。自分を守ることを最初に考えてください。
そして自分を守ることができるからこそ、また大切なものをまた守ることができるんだということを学んでください。そして大切なものを失なってからじゃ遅いの。失った代償は、あなたらが手に入れたものそれ以上に失うものは遥かに大きいのですからね。
そして人は自然の神様に授かった恵みで生きています。そして神様は人が生きていくのに、十分な恵みをみんなに与えてくださいます、みんなも自然を第一に大切にして生きていかねばなりません。この星に生まれた仲間として、他の国の人々も他の動物たちも植物も全て同じです。みんなを思いやる心を育み続けて、精一杯毎日を生きて行ってください。そして友達の痛みを知る人になって下さい。そしてダメなことはダメだとはっきり言える子供になってください。決して弱い子を見つけていじめるんじゃなくって、その子に手を差し伸べてあげてください。たとえ自分がいじめられても決して、自らの命を絶つなどと考えてはていけません。いじめている人を思いやれる人間になりなさい。だからこそ本当に大切なものは、大切にしてくださいね。これが先生があなたたちに送る最後の言葉です。」と静かにお母さん先生は、ゆっくりと頭を下げて深々と子供らに向かってお辞儀をした。
お母さん先生は、昔教え子をいじめが原因で自ら命を落としたその子に代わって、その子の分までそのことを訴えかけたかったのだと黒岩とそばに付き添った玄さんは思った。
最後に子供たちがみんなで口を揃えて大きな声で
「お母さん先生、いつもありがとうございました。これからもいつまでも元気でいてくださいね。」という声が教室全体にいつまでも響き渡っていた。お母さん先生は玄さんの肩を借りて、そっと教壇を降りた。
そしてやがてみんなも教室を去った。
玄さんの結婚式
その翌日彼女はすっかり身体が弱り、なんだかもうすべてやり残すことはないといわんばかりに、ぐったりとして、その後階段を登るのも難しくなり、出来たばかりの古タイヤハウスの創無庵に移り住むことになった。そして引っ越してその数日後には彼女は既にベットに寝たっきりになり、立ち上がることすら出来なくなっていた。
玄さんは、キャプテンに頼んで柔らかく煮こんだおかゆを彼女の口に運んでは、
「少しでも食べんきゃいかんぞ。無理してでもいいから少しでも口の中にいれんと。」と懸命に嫌がる彼女に、おかゆを口に運び懸命に看病した。
黒岩は杉下おんじから以前聞いたところによると、玄さんは若い頃、結婚したての奥さんをほっぽり出して、あちこち石組みの仕事で家を留守することが多かったらしく、その仕事が終えるたびに家には帰ってきたが、そのうち大規模なお城の石垣の修復工事を請けたときには、半年も奥さんのもとに帰らぬ日々が続いていて、大阪から見知らぬ土地に嫁いできた奥さんは、相談できる相手もいなくて寂しさに耐えかねて、やがて酒に溺れキッチンドリンカーになってしまい、ついにノイローゼになって、最期には近くの崖から身を投げて、自らの命を絶った。
見つかったのはそれからしばらくしての、玄さんが家に着替えを取りに戻ったときに、奥さんがいないのに気づいて、あちこち捜し歩いて初めて崖の下の変わり果てた奥さんの遺体と対面することことになったらしかった。その頃貧乏生活でまだ二人には、お金に余裕がなく、暮らすのが精一杯の二人には、ろくに結婚式も上げることもできなかったどころか結婚指輪すら奥さん買ってあげられなかあったそうであった。
黒岩はそのことを聞いていたので、玄さんはきっとその時の奥さんの罪滅ぼしの思いで何もしてやれなかった奥さんに代って彼女を懸命に看病しているに違いないと思っていた。
やがて彼女が日に日に弱っていくのは玄さんには手に取るように解っていた。なかなか口からものを食べることが出来なくなるのと同じくして、頬骨が大きくこけて、目元はくぼみ、見るからにやつれていく様を見るのが玄さんには辛かった。そして彼女は昼間でも目を閉じて眠る時間がだんだん長くなっていった。
玄さんは、彼女に何もしてやれない自分に苛立ちを隠せなかった。そこでいてもたってもいられなくなり、彼女か眠っている間に山の奥のほうまで歩き回って、以前聞いた彼女のお気に入りの真っ青なシャジンや可愛い花々を咲かせるレンゲショウマの花を探し歩いた。そして腕に持ちきれないほどに、それらを摘んできて、彼女の寝ている間に部屋を花いっぱいに飾り付けた。窓際も入り口もベットの周りまで、野の花で埋め尽くされていた。
そして玄さんが彼女の寝ているそばでその寝顔をそっと見つめていると、彼女がゆっくりと目を開けると、彼女はびっくりした様子で、
「いったいどうしたの立花さん。私思わず、もうお花の咲き乱れた天国に逝ってしまったのかと思ったじゃありませんか、人を驚かせるのもいい加減にしてくださいよ。でもどうしたの、こんなにいっぱいそれに私の好きなお花ばかりを。でもとっても綺麗です。本当にありがとうね、玄造さん。こんなに一杯の花に囲まれて私はとっても幸せです。」そして彼女は玄さんに再びお願いをした。
「今度来るときに、そのいつも着ているチェックのカッターシャツと糸と針を持ってきてくださいね」と虫が鳴くようなか細い声で彼女は残る力をふり絞るように、玄さんに言った。
そして玄さんはズボンのポケットから小さな化粧箱を取り出して、突然
「ちょっと百合子さん。手を出して」とそっと彼女の耳元で呟いた。
そして彼女は言われるままに手の平をかけ布団から出してくると、突然玄さんが
「俺のかみさんになってください。お願いします。」といって、彼女の返事も待たずに半ば強引に彼女の薬指に買ってきたばかりの結婚指輪をはめた。
「何言ってるんですか、こんなおばあちゃん捉まえて、冗談もいい加減にしてくださいよ。そんなこと言ったら、さすがの玄造さんでも許しませんよ。私はまだ何も返事なんかしていませんけど。」とありったけの声で彼女は怒ったように言い放った。
「なんて言われようと構わんよ。俺はもう決めたんだ。」と一方的に玄さんは言い返した。
「でも嬉しいわ、ありがとう、本当に私でいいの、こんなおばあちゃんで?」というと彼女は涙をいっぱい浮かべながら、彼の頭を自分の手の平でそっと包み込むように、玄さんの頬に口づけをした。そしてその痩せこけた細い腕は、玄さんの頭を抱え込んだまま離すことはなかった。
翌日、玄さんは昨日の約束の糸と針、そして、貸衣装屋から借りてきた純白のウェーディングドレスを化粧箱に隠し持って、彼女の部屋に戻ってきた。
「ありがとう、玄さん。早くその着てる服を脱いで」と言って受け取った糸を針に通すなり、玄さんの脱いだカッターシャツの取れかかったぶらぶらしたボタンをしっかりと付け替えてあげた。
「もう私には、旦那様にしてあげられるのはこのくらいしかないんです。ごめんなさいね。散々世話になっておきながら。」とやっとの思いでベットから起き上がって玄さんにボタンを付けなおしたシャツを手渡した。
玄さんは、軽く頭を下げてそして隠し持ってきた箱を開けて、そしてその中から純白のウェーディングドレスを取り出し、布団の上に広げて玄さんは彼女に言った。
「今日は結婚式だ。二人だけのな」と玄さんが言うと
「玄さんたら、私はもうすっかりおばあちゃんなのよ。今更、ウェーディングドレスでもないでしょ。本当に困った人だわねぇ、まったくもう。」と呟くと彼女は再度玄さんに
「そうだ折角だからついでにもう一つだけ、私の最期のお願いを聞いてほしいの。私をもう一度二人で前に行った、あの森の中に連れって下さいな。」と彼女がかすれた声で玄さんの耳元で囁くように言うと、「任しとけ、どこにでも連れてってやるから少し待っとけよ。」と言い放て玄さんは部屋を出た。
そして幌馬車に布団を幾重にも敷いて、そして被された幌の先を半分たくし上げて、外がよく景色が見えるようにして、彼女を迎えに部屋に戻ってきた。そして彼女を優しく抱きかかえて、そっと布団の上に寝かせて、ゆっくりと馬を走らせた。そして彼女を乗せた馬車はやがて森の中に着くと、その森の中央付近に、如何にもシンボルツリーのような枝ぶりの立派に聳え立つヒマラヤスギの木の下で、彼女は玄さんに
「申し訳ないけど、その木に巻きついたフジ弦とそこに落ちてるマツボックリとドングリそして杉の葉を採ってきてくださいな。」と頼んで彼女はそっと目を閉じた。
空は澄み切った雲一つない青空で、ほんのりと日差しが暖かく二人を包み込み、実に気持ちのいい、そよ風が二人の頬を撫でた。
そして再び二人は部屋に戻ると彼女は最期の力を振り絞るように、細いフジ弦を三重に丸めて、その間にドングリと杉の葉を差し込んで素敵なリースをつくって、布団の上に広げられた純白のドレスの脇に、そっとそのリースを添えた。
その頃には既に、彼女の身体は水も受け付けることができなくなるほどに衰弱していた。そしてベットに横たわらせて、布団を首元までしっかりと掛けてあげると玄さんは、彼女のそのやせ細った手をずっと両手で握りしめて、そのあと二人は何をいうことも無く、お互いの幸せを静かに噛みしめ合っていた。
そしてその夜は綺麗に雲一つなく夜空は晴れ渡り、天の川がくっきりと浮き上がるように見えていた。そしてカシオペア座の瞬く星たちは、天井に施された大型バスのフロントガラス越しに、まるで花嫁を祝福する髪さしのゴールデンティアラのように、彼女の頭上で光り輝く夜であった。
夜遅くまで創無庵の灯りが灯っているのが気になって、黒岩がそっと窓の外から部屋の中を覗き込むとお互いの手をしっかり握りしめたまま眠る二人の姿が見えたので、彼は静かに自分の部屋に戻った。
そして、彼女は朝になっても二度と呼吸することはなかった。誰も気づかぬ間に、新婦は静かに息を引き取ったのだった。
その後、玄さんは当分の間、行き交う人とも挨拶すらせず、塞ぎ込み、生気が抜き取られたように、ただ呆然と森の中に一人佇む姿を、ファームの仲間たちはそっと遠くからを見守るしかなす術はなかった。
脱走兵マルティナス
若者の名前はフェルナンド・マルティナス。フィリピンの小さなのどかな小島に生まれ、電気も無い環境で育ち、そこはいつも青い海とサンゴ礁に囲まれた、のんびりした人口僅か150人というこじんまりした離れ小島で育ったという。
島には週に一度食料や生活物資を運んでくる定期便がやってくるくらいで、それ以外は島民は、海で魚を取り、小さな畑で野菜を作り、森でバナナを採っては、ほぼ自給自足の生活をしていたようであった。
しかし若い彼には、そんな刺激の無い退屈な暮らしに飽き飽きしていて、島を出てついに憧れの大都会マニラに移り住むことを決意した。しかし憧れのマニラは確かに人はごったがやしていて賑やかで、ものも溢れかえっていたが、仕事というと信号待ちの自動車に煙草をばら売りするか、新聞を売りつける程度しかなく、彼の生活は次第に困窮していった。そして住むところも郊外のスラム街であり、そこは昼間っからアルコールの度数の強い酒を飲んで、ひっくり返っている者やポーカーゲームに明け暮れるものなど、殆どの人が堕落した暮らしをしていて、その奥さんはというと飲んだくれの旦那の代わりに、夜の売春宿で男から金を巻き上げて生計を支えるのが普通の家庭の姿であった。彼にとっての憧れて来たマニラは想像とは別世界であり、ましてスラム街の暮らしは、だんだんと彼の心までむしばむようになっていった。
近くの商店で万引きするのは、日常茶飯事になり、最初僅かに抱いていた罪悪感も仲間たちがみなそんな暮らしをしているのをみていて、だんだんと罪悪感は薄れ、そのうちブルジョア階層の住む郊外の町の金持ちの家に押し入って、強盗を犯すことすら躊躇なく行うようになっていった。
そしてそんな或る日、街のキリスト教の教会で、牧師からこのままではあなたは神のご加護を受けることは出来ないと諭されて、牧師の紹介で彼は日本に技能実習生という制度を利用して、日本の優れた技能を身に着けて再度フィリピンにかえって職工になって親を歓ばしたいと考えてた。そして親戚から金を借りまくって、やっとの思いで日本にそんな夢を抱いてやってきたが、いざ派遣された下町の会社で働いてみると、来る日も来る日もそれは油まみれの旋盤加工の単純作業に明け暮れて、本当に得たかった特殊技能とは、それはほど遠いものであった。それは二年も続き、ついにそれに嫌気がさした彼は、やがて会社に行かなくなるようになり、同じフィリピンの仲間と一緒に住むようになっていった。そして生活費を捻出するためにアルバイトを転々をしたが、定職に着くことはできず、挙句の果ては、ネットで闇バイトがあることをを知り、最初ためらってはいたが、やり取りを続けている間に一日電話を掛けるだけで3万円貰えるという、所謂かけ子のバイトを顔の見えない相手から誘われ、年寄りをだましてまでお金儲け出来ないと考えつつも、いつしかそのお金で暮らしを賄うようになっていた。最初は悪いことだとも思ってもいたが、日本の若者が、いくらでもやってるなら、大したことないと思うようになったという。
またある夜の街で、街角で声をこけられて、麻薬の売人をするように誘われて、困窮した生活を少しでも楽したいと思うようになっていった。そして、ある日突然彼の住んでいたフィリピン人の多く住むアパートに出入国管理局の職員が一斉にガサ入れに入り、彼らを残留許可期限切れの不法滞在と麻薬取締法違反という罪で逮捕されることとなった。その途中取締役官の隙を見計らって逃亡して、国内のあちこちを逃げ回っていたそうであった。
そしてネットカフェでファームのことを知って、バスを乗り継いで、やっとの思いで辿り着いた様子で、とぼとぼと歩いてみんなのいるファームのハウスのドアを叩いた。その時には既に丸三日ほど食事もとっていなかった彼は、ファームの連中は最初誰が来たのかとびっくりしたが、マスタが
「誰だか知らんが、まあ俺の特製のハーブティーでも入れるから、そこにお座んなさいよ。そのテーブルの上に干し芋があるからどうぞ。」と見知らぬ彼をテーブルの方に促した。ちょどその時は、キャプテンは夏野菜の最盛期で取り立てのトマトやレタスで捥ぎたて野菜サラダを作ってる最中で、
「あんた、ひょっとして腹減っているんならこのサラダいっぱい作ったから、食べていきなよ。」とテーブルにサラダボールを無造作に置いた。フェルナンドは、最初どうして見知らぬ自分に、皆が何を考えるでもなく、疑いを持つでもなく、優しく接してくれるのか少し不気味に感じていた。
今まで日本に来てから最初から親切にしてくる人に、いい人はいなかったからだ。大抵はマリファナの売買の話か、売春斡旋の手伝い、それともオレオレ詐欺の受け子など、殆ど調子のいい話ほど怖いものはないと、いつも警戒していたが、その頃の彼は、人殺し以外は犯罪じゃないと考えてもいたので、お金さえもらえさえすれば何でもやっていた。それできっとネットで見たこのファームもまたどうせ、そういう裏のビジネスでもやっているのかと普通に感じていたので、逃亡の身である自分にとって、そのくらいのことはある程度覚悟はしていた。
そして黒岩がそこに帰ってきて、見知らぬ訪問者を見て、マスタに訪ねた。
「誰?、この方は」と聞くとマスタも
「俺も知らん。」と無責任に黒岩に応えた。それで黒岩が初めて彼に
「何かご用でもあって、ここに訪ねて来られたんですか?何か日本人じゃ無いようにお見受けしますが、どこのお国の方なんですか」とおどおどした様子の彼に優しく彼を宥めすかすように話しかけた。
「すみません。突然押しかけてしまって。どうか許してください。警察にだけは突き出さないでください。ダメならすぐに立ち去りますから」と誰も何も聞く前から、フェルナンドは自分から話し出した。
「僕の名前、フェルナンド・マルティナス。フィリピンから来ました。今入管に追われて逃げてます。どうかかくまってほしいです。おねがいします。」とたどたどしい日本語で彼は自分のことを話しだした。黒岩は彼に言った。
「あなた、何も怯えることなんかないですから安心しなさい。誰もあなたを警察に突き出そうなんか、考えてもいませんから大丈夫。誰しもいろんな過去を背負って生きているものです。もしもよかったら気のすむまでゆっくりしていけばいい。誰も追い出したりはしないから。」と怯える彼に優しく説き伏せるように彼に話すと
「本当にいいんですか、ここにいさせてもらって。サンキュー、サンキュー。何でもやります。そうしないと国に強制送還されてしまうんです。どうかここにいさせてください。プリーズ」と涙を浮かべながら安堵した様子で、彼は頭を下げていた。そしてキャプテンの差し出してくれた野菜サラダをむしゃむしゃと勢いよく一気に平らげた。
そして翌日からは、彼は畑で働き始めた。その働きぶりは目を見張るものがあり、働き者の日本人でもなかなか真似が出来ないほど懸命に働いていた。彼にとってもここを追い出されるということは、強制送還か刑務所が待っているのもあったのか、誰よりも早く起きて、ヤギの乳しぼりを済ませ、誰もが畑に出る前から畑を見回り、植物から生育を学び、誰よりも遅くまで畑仕事をし、そしてその日使った農具も最後みんなの分まで綺麗に洗ってしまい込んでいた。彼はそのうち自ら率先して、親分に家具の作り方を教えて欲しいとお願いしたり、マエストロの奥さんから野菜の作り方を教えてもらい、夜になるとマエストロからギターの弾き方まで教わるようになっていた。そして、みんながあつまる夕食の時にも勿論彼も一緒に食事を取るようになっていた。その食べっぷりは、働いた分の多さの分だけ、食べ方も半端じゃなかった。さぞ今まで困窮した生活をしていたのだろうとその食べっぷりをみて、みんなそう思えた。それにしても彼のように日本の優れた技術を学びたいと夢みて、日本にやってきたのに、ただの安い労力としてこき使われている外国人は、彼だけでないと黒岩は思った。外国人が増えると犯罪が増えたとよく日本人は言うが、それは日本国が移民受け入れに消極的で、自国民の職を外国人に奪われることを恐れていても、日本の高齢化社会の労働力不足の補填は必須であり、合理的に如何に安く労働力を確保するかという観点から政府が考え出した社会の都合のいい理屈の技能研修制度であり、会社の利益追及のために手っ取り早く安い労力を確保しようとした結果に過ぎないと思った。しかし彼らには日本国籍も市民権も与えるどころか在留許可すら2年間と限定するものであり、正規雇用されることはなかった。そして彼らを犯罪に導いているのは、自らが犯罪者になりたくて、日本に来たわけではなく、そんな日本社会が彼ら外国人研修生を貧困に追いやって、その結末として、困窮した生活に耐えかねての犯行であったことは、誰もが解ってはいたが、しかしそれを外国人=犯罪者と片づけて、今の自分らの豊かな暮らしを支えている貴重な労力に十分に報いなかったせいだとは、誰も考えようとはしなかった。殆どの国民はただ外国人による犯罪が最近増えた、に過ぎなかった。
しかしファームのメンバーは、そういう彼を優しくまた分け隔てなく、みんなと同じように付き合っていた。それはみなそれと似たり寄ったりの過去を背負って、今まで生きてきたからこそなのかもしれないと黒岩は思った。人の痛みを知っているからこそ、他人に優しくなれるのだろうと思った。というよりも彼らにとって見知らぬ来訪者の過去がどうであろうと何も関係ないし、国籍の違いが何なのか考えること自体無意味だと思っていもた。そして彼はいつしかみんなからマルちゃんと呼ばれていた。
フェルナンド・マルティナスと彼は自分の名前をみんなの前でしっかりと名乗ったつもりだったが、彼らの耳には×△マル・・という言葉以外が聞き取れなかったに過ぎなかった。アバウトが常の彼らにとって、いつしかそれはスーパーアバウトにパワーアップしていて、大抵のことは大体でよく、そのことで大して困ることはなく、よく言えば彼らはみな揃って大らかで、無頓着であった。細かなことはどうでもよかったのだ。だからその辺にこだわるものは誰もいなかったし、本人も普通はファーストネームで呼ばれるもので子供の頃はニックネームは大抵、フェルと呼ばれていたが、その初めての呼び名に彼も最初は奇異には思っても決して悪い気はしてはいないようであった。
そして彼はファームの暮らしに徐々に慣れていくのと同時に、蛇口を捻れば綺麗な水がいつでも飲めて、ガスコンロには簡単に火がついて、紐を引っ張れば電球に灯りが灯るということを疑問にもしていなかったが、ファームで暮らしていると彼らの暮らしにはお金が掛かっていないことに気づき始めた。全てが自分たちで賄っていたからだ。彼が思うにファームの人々にこれといった収入を得る術が見当たらないのに、夜になると、きまって山葡萄酒を汲み交わして、ヴァイオリンコンサートが始まり、特製のデザートを食べてみんなで、いかにも楽しそうに過ごす日々が何となく奇妙に感じざるを得なくなっていた。なんなんだろうここの人たちは、いわゆる貧乏人なのに。魔法使いの村でもあるもあるまいし、どうしてお金もないのにこんなに毎日が暢気に心豊かに、楽しそうでいられるのか、それでもってみんなが素敵であり優しい心の持ち主であることが不思議でたまらなくなっていた。彼は今まで自分が辛い目に合わされているのは、すべて母国であるフィリピンが貧しい国であり、そして自分が犯罪に手を染める羽目になったのもすべて貧困のせいだと決めつけていたが、今、目にする彼らの姿が、そうでないことに不思議以外の何物でもなかった。そして彼は或る日、ファームのキャプテンからこんなことを聞いた。
「いつも何気なく使っているガスも水道も電気も、みんなで力を合わせて作り上げたものばかりなんだよ。いらなくなったものを拾い集めて、知恵を絞っていろいろ工夫しただけのことなんだ。何も遠慮することはないよ。君が作る野菜も大切なみんなのご馳走なんだから、君も頑張って、働ければいいんだよ。」と聞かされて、いつも遠慮がちにファームで暮らしていたが急にマルちゃんは、はたと気づいた。貧困と貧しいという日本語の言葉の違いを。
貧困とはお金がないことではなく、それは自分の心が貧しく卑しいことこそが貧困を作り出しているだけなんだと思った。
ここの住民のように、すべての恵みに感謝して、それを授けてくれる豊かな掛け替えのない自然に、いつも畏敬の念を抱き、必ず自然に恩返しをするファームのメンバーに、それを教えられたことの重みをひしひしと感じるようになっていた。人の幸せとは、物に囲まれて、お金に恵まれて、生きていく先にあるものではなく、心の豊かさこそが、人を幸福にさせてくれている一番の源であることを彼はその後知ることとなった。
そして自分はどうしてあんなにも恵まれた環境の島に生まれながらにして、島を捨ててマニラに何を求めていたんだろうかと、自分自身をひたすら責めた。そしてマルちゃんは考えた。こんな暮らし方をもっとしっかり学んで、いつしか自分の生まれ育った故郷の町で、同じように暮らせる社会を作りたいと。そして彼は、その優しさのお返しとして、畑仕事の傍ら、ファームの子供たちに、自分のできることとして、畑作業の中で、子供たちに英語を教えるようになっていた。
そして、一年が過ぎた頃、彼の噂を聞きつけた入管の職員が彼を捕まえにけたたましいサイレンの音とともにファームにやってきた。その姿を見た彼は、ドタバタすることなく、潔く、彼らの前に足を歩み出た。そして彼は自分の拳を強く握り締め、手錠を掛けられた両手を高々と空に向かって挙げて、後ろを振り向くとなく大きな声で天に向かって叫んだ。
「グッドラック・マイグッドファミリー
ビーアンビシャス・ノットフォーマネー
ノットフォーマイセルフ!」
と叫んで静かに彼らの車に乗せられてファームを去った。
数日後、彼は強制送還され、生まれ故郷のフィリピンに送り返さることとなった。
逃亡者として逃げ続けたマルちゃんが居なくなったファームでは、また平穏な日々が戻っていた。
しかし黒岩の思いは複雑であった。この国はいつまで都合のいい制度を考えついては、その場凌ぎをしていれば気が済むのだろうか。経済弱者の上にいつまでも胡坐をかいて、ありもしない豊かさにしがみついていても、抜本的な解決策を見出すことはできないのに。目先の票欲しさに、国の将来を見据えた政策を打ち出すことのできない政府に頼っていても、必ずと言っていい超高齢者社会がすぐそこまでやって来ていることを、すべての国民は気づいているはずなのに、見たくない現実にいつも目を背けて、気づかぬ振りをし、想像したくない未来に真っ向から向き合おうともせず、大衆はいつも沈黙を決め込む。
この村のように、日本中では今もいくつもの村が人の去った廃村になり、山間部の集落が自立再生の道を閉ざされた限界集落となっているというのに、未だに大都市だけは人口が増加し続ける。もうすぐ都会に大量の介護難民が溢れかえると言われて久しいというのに。
いったいこの国に住む国民はどこまで平和なんだろうと呆れ果てた。
お金に狂わされた人々
そんなある日、突然見知らぬ訪問者が、4WDに乗ってファームにやってきた。お揃いの作業服に身を固め、下ろしたてのピカピカの長靴を履き、あまり被り慣れなれない様子のヘルメット姿で、ファームの面々を横目で見ながら、赤白ポールとスケールテープを片手に足早に沢沿いを遡っていった。以前の未曾有うの豪雨で崩れた土砂崩れの現場を測量しに来たようであった。山の奥にまでは彼らも行ったことはなく、いつしかその姿は遠くで、たまに見かける小熊よりも小さくなり、やがて森の奥に消えていった。半日も経ったころだろうか、奥の方からその四人が山から降りてきた。普通ならば見知らぬ人であっても、挨拶の一つも掛け合うものであったが、彼らは何か不愛想な態度で厳めしそうに車に盛り込んで帰っていった。
玄さんが「どうせ村役場の奴らだべ。威張り腐って、何様だと思ってるのかねぇ、あいつらは。」と車が見えなくなるのを待っていたように言い放った。
「これから何をしようっていうのかぁ?」と黒岩が玄さんに尋ねると
「知らねえよ。でもひょっとして災害復旧工事でもやるつもりなのかなぁ」と玄さんが答えた。でもその時は特段それ以上にそれが何を意味しているのかなど、深く関心を持つものもいなかった。
その頃村役場では、村長があの集中豪雨の被害が予想以上に大きく、政府に激甚災害の指定を受けるため、何度となく永田町に陳情に行っていたそうであった。政府が災害の規模に合わせて、その規模が深刻な場合、激震災害として指定されると災害復旧の多くを国が支援するという法律であり、ただでさえ村の予算は厳しく、少子高齢化の最たる村で殆ど税収は望めず、地方交付金が唯一の頼みの綱のような台所事情の村にとって、災害復旧工事などに充てる余裕など、ほとんどなかったが、今回の激甚災害法に基づく指定を受けることにより、その事業費の大半を国の支援で復旧費用を賄うことができ、村独自の予算では到底賄いきれない工事費を捻出することができたのである。村にはその頃、いくつもの限界集落と呼ばれる集落が点在していた。役場の周りには小さな工場がいくつかあるものの、山間部にはおいては、主だった産業もなく、ほぼ自給自足に近い暮らしをしていたので、現金収入など殆ど縁がなく、僅かな国民年金の二か月に一度の支給日に振り込まれるお金で、たまに来る移動販売車で日常品を買うときにお金を使う程度で、そのほかは特段現金を使うこともなければ、毛頭納税をするような世帯もなかった。
そして若者たちは山を降り、村には子供の姿も消え、老人だけが肩を寄せ合って細々と暮らしていた。今まで住民の唯一の足となっていた村営バスも村からの助成だけではおぼつかず、5年前集落を巡回することもなくなり、よほどのことでもない限り、町に行く人も殆どいなかった。そして仲間を看取ることはあっても産声を聞くことなど近年はまるでなく、また一人また一人とあの世に旅立つものを見送るだけであり、それとともに集落もまた自然消滅していくことしか、残された道はなかった。町役場の前には小さな県道こそ走ってはいたが、役場も木造のままで、歩くと床が軋み、冬には隙間風がゆがんだ窓枠から吹き付けるような、おんぼろ舎屋だったが、時の村長は、庁舎建て替えする財源もなく、公用車もしばらく買い替えもせず、ボディーはさび付いていた。しかし増え行く老人福祉には力を入れていて、高齢者医療の無償化、ゲートボール場整備、デイサービスセンターの創設のなどには、手厚い政策を打ち出していた。裏を返せば村の選挙民の大半が65歳以上の高齢者で、老人を敵に回すということは、次の選挙に勝ち目がないことを意味していることを首長ならば誰でも考えることである。だから歴代の村長のスローガンは”老人が安心して暮らせる村づくり”であった。そんなのどかな話題の少ない村であったが、小さいながらも幸せな暮らしを送るには十分であり、変に国の助成金を当てにした庁舎改築とか箱ものに予算を割くこともなく、皆平穏な暮しを送っていた。
だから今回の内閣府の指定した激甚災害復旧予算は、村がいまだかつて見たこともない大型一大事業であり、今までの村の年間歳出総額以上の物であった。
いつも朗らかな人柄だけが売りの村長であったが、今回の大型予算は彼を豹変させることとなった。村長の親族が営む小さな建設会社は、もっぱらアスファルト舗装の補修工事が専門であったが、社長と奥さんそして5人の社員と臨時雇用として農閑期だけの数名の人間で何とかまわっていた。
がしかし、今回の災害復旧事業は、本来であれば中央のゼネコンが受注するのが通例であったが、後で分かった話であるが、地元選出の衆議院議員の口沿いで、内閣府に圧力がかかり、無理やり激甚災害に指定されたと一部ではささやかれており、村長の霞が関詣でも全てその国会議員の先生がお膳立てしたと云われていた。国土交通省では7億2000万円以上の公共事業の受注資格を持つ業者は、実施能力に見合った格付けの段階評価で建設業Bクラス以上と定められていた。そして本来一般競争入札出なければならないところを、工事の性格上災害復旧という緊急性を重んじ、特例措置として、随意契約で受注が決まるという異例づくめの工事となっていた。そのため受注業者がゼネコンではなく、地元の小さな建設業者が元請けとなり、下請けに中央のゼネコンが入るという世にも珍しい受注形態となった。それを裏で仕組んだのも、やはり地元選出の先生であり、受注の見返りとして政治献金として、受注金額の一部が流れることとなる予定だったという。
しばらくして、災害復旧に対しする工事概要の地元説明会が柳ケ瀬集落センターで開催されるとという連絡が杉下区長の所に入り、黒岩達にも告げられた。
癒着と忖度
数日後、村役場から村長と建設課長の二人が柳ケ瀬集落センターにやってきた。
そして村が取りまとめたという災害復旧計画が、いつものように村長挨拶の後まことしやかに建設課長から説明された。本来であれば既に黒岩たちが被災当初から始めていた植林による法面保護で数年後には十分苗木が成長して十分森の再生が図れるはずであり、ある大学の農学部の教授も法面保護植栽法という工法を提唱しており、ひょんなことで以前黒岩が日プロ時代に仕事でその先生を訪ねて、ある事案で取材したことがあり、その時法面保護植栽法について、その教授から聞いていたのだった。それは広葉樹林の持つ法面地盤支持の能力と地下ダムと呼ばれる雨水保持能力に優れた工法だとその時、教授から教えられていたのであった。
そしてそれは、いろんな村の年寄りの話から考えついたやり方でもあり、十分斜面を保護することができるほか、山の持つ保水力も向上し、第一が野生動物にとっての重要な食料となる木の実の供給ができる広葉樹が一番適しているはずであったである。コンクリートで山を埋め尽くすなどもってのほかであった。
ある日、元玄さんが働きに行ってていたという町の土建屋に借りていた重機を彼が返しに行ったとき、土建屋仲間から小耳に挟んだ噂話が次のようなことであった。
黒岩達のいう広葉樹の植林だけでは村長たちにとって、今回の災害復旧工事のうまみがまるで生み出されてこないことになり、コンクリートの枠組みとモルタル吹き付けにより斜面全体を人工物で覆い尽くし、さらに砂防堰堤3基、河川護岸工事一式を含む一連の工事計画でなければならない理由が他に潜んでいるのだという。その工法を選定することにより災害復旧工事費用は大幅に増大し、相当の事業規模の工事となり、その実施予算の大半を国庫で賄えることで、それに係わる国会議員の先生、村長はじめ村長の親族が経営する建設会社にとっては、願ったりかったったりの錬金術とでもいうべき災害復旧計画であった。また当時の政権与党にしても、地方経済の活性化策の一環という大義名分で行うものであり、国民から非難を受けることはないと考えていた。それは災害復旧という名を借りた政治資金捻出術であり、自然破壊行為であり、折角の豊かな自然環境を台無しにし、崩壊した斜面の自然林への樹種転換、さらには山に棲む野生動物はもとより、渓流に棲む魚類にも多大なる影響を与えることは間違いなかった。
その話を玄さんから聞いた黒岩にとっては絶対に許し難い、国民と自然を冒涜した行為だと思っていた。
黒岩は珍しく憤りをあらわにした。いつも寡黙で、口数の少ない彼であったが、今回はやけに雄弁にそして饒舌に皆に語りかけた。
黒岩は学生時代チェ・ゲバラの革命日記という本を愛読書にしていた。それはマルクスでも毛沢東でもカストロ将軍でもなく、チェ・ゲバラでなくてはならなかった。
彼はアルゼンチンの裕福な家庭に生まれたが、若かりし頃、世の中の貧富の格差に疑問を抱き、一人放浪の旅に出る。そして偶然、メキシコでカストロという若者と出会い、意気投合してカストロとともにキューバ革命の主導者として力を合わせ、自由と独立を勝ち取った立役者でもあった。彼のその後国家の首脳陣に甘んじることなく、キューバを離れ、アフリカ・コンゴでも圧政に苦しむ反政府勢力と合流して、またも革命運動を起こし、その後ボリビアの革命に参加して、内戦に巻き込まれて命を落とすこととなり、自らは裕福であり将来を約束された医者でありながら、生涯を貧困と搾取にあえぐ貧民のために、解放の戦いに身を捧げた人生であった。
黒岩はその頃、若き医師であり、革命家でもあったチェ・ゲバラを絶大に敬愛していた。一部の特権階級と貧困社会に喘ぐ格差社会に大きな疑問を抱いたチェ・ゲバラは武装蜂起してキューバ革命を勝ち取った、がしかしチェ・ゲバラはキューバ革命の戦いの最中にも政府軍の敵の負傷兵を懸命に治療し続けたことを本で読んだことがあった。黒岩は武力の先に決して幸福は待っていないと考えていた。そして争うことの虚しさを今までの人生の中で、同僚の死を以て痛いほど味わってきたからでもあった。かつての同僚の死を忘れることはできなかった。あの事件で競い合う事、争うことの空虚さを痛いほど気づかされた経験があったからだ。
彼は、インテリこと佐伯君と玄さんを呼び出し、できたばかりのコンフィデンスルームで対策を練った。マスタは、まるで元経営していた自分の喫茶店のように、そのルームをおしゃれに装飾していて、出てくるものもインスタントコーヒーから何時しか傍らで栽培していた各種のハーブのブレンドティーに変わっていた。
そしてインテリが大きな声で言い放った。
「これはファームのみんなが結集して、実力で工事を阻止すべきですよ。黒岩さん!」
玄さんも「やるべ、やるべ、あの腹黒狸爺に一泡食わせてやらにゃ、おらぁ気がすまないや。」と意気込んだ。
「自分たちの私服肥やすために、仕組んだ陰謀みたいな工事は絶対だ。」マスタまでも
「賛成,賛成、大賛成。」と意気込んだ。皆一気盛んになった。
しかし黒岩はぼつりと言った。
「俺は反対だなあ。こんなおいぼれがスコップ振りかざして、何をおっぱじめようと無駄な抵抗だ。力で抵抗することは所詮空しいよ。俺が許せないのは、薄汚い手を使って金儲けすることが気に入らないんじゃない。そんなことは、この日本じゃどこでもやってることだ。それよりも折角みんなが植えた苗木を踏み倒して、コンクリートで覆いつくす、その発想が気に入らないんだ。折角のドングリの木がようやく根付いたばかりだというのに。村役場に計画見直しの意見書を提出しよう。」と彼はみんなに進言した。
「だから黒は甘いんだよ。そんなことしても、あいつらに握りつぶされるのが関の山だよ。このまま、あの悪党どもの好きにさせてたまるか。自分らの私腹を肥やすのを見て見ぬふりなんかできるかよ。」と玄さんが立ち上がって吠えるように言い放った。そこに親分までルームに入ってきて
「ようし!こうなりゃバリケード封鎖だな。玄さん、古い単管パイプとクランプ探してきなよ。一緒にバリケード作ろうぜ!新入りも呼んでくるから手伝わそうぜ。」と新たな登場人物のおかげで、話はさらに加熱するばかりであった。
インテリがその加熱した議論に水をさすように
「黒岩さんの話も一理あるよ、みんな。まず計画見直しの意見書を出すのが、まず先だな。」ということで、ようやく事態は沈静化し方向がまとまり、翌日、黒岩はインテリの自動車に乗せてもらって、村役場に二人で出向くこととなった。
それから一週間くらい、なんの返答もなかったが、突然見るからに役場総務課から来ましたというような、そろそろ定年かと思わせる風貌の男が村にやってきて、
「先日ご提出いただいた意見書について役場内で鋭意検討いたしましたが、計画変更の必要なしという結論にいたしましたので、ご報告に参りました。」とその部長という男から告げられた。そしておもむろにカバンから縦長の茶封筒を差し出してきた。
「これは工事の現場調整費用のようなものです、お受け取りください。お気遣いなさらないで結構ですから。」とそっとテーブルに厚めの封筒を置いた。
「何の意味なんですかこりゃ、調整費の意味が判り兼ねます。」と黒岩は丁重にその差し出された茶封筒を初老の男に突き返した。それでも彼はまた
「まあそう堅いことをおっしゃらずに。それに大して入ってはいませんが、皆さんで一杯でもやってくださいよ。ご迷惑料のような物ですから、難しく考えなくて結構です。お金にお困りじゃないとは思いますがね。」と、うすら笑いを浮かべながら、部長は怪しげに云い残して去ろうとした時、
「堅い話も柔らかいもない。他人をバカにするのもいい加減にろ。とっととそれ懐に仕舞って帰ってくれ。なんだか聞いてりゃ、人を貧乏人扱いしやがって、あんたに心配してもらう筋合いはないから。誰か出口を案内してあげてください、この小童役人が。今度来るときは村長連れて出直して来い。とっとと消え失せろ!」とさっきまで寡黙で優しそうな態度で眺めていた黒岩が、急に変貌して怒鳴ってそこに突っ立ていた総務部長を追い払うように言い放った。
その夜は、マスタ特性のイワナの燻製をつまみに、サルナシ酒ができたというので、みんなで試飲しながら、作戦会議となった。
キャプテンが「いよいよ奴さんら賄賂攻勢に出てきましたね。金遣るからお前ら黙ってろ、この貧乏人が。とでも云わんばかりにね。」するとインテリが、
「用心したほうがいいかもしれませんね。今度何仕掛けてくるかわかりませんよ。」あのおっさんのことだから、役場に帰るなり村長にすぐ
「あいつら、こちらの言うこと聞きそうではありませんでした。」とでも報告したでしょうからね。
それから数日のことである。事件が起こったのは。
今度は、どこから連れてきたのか、村にはおとなし向きの駐在さんが一人いるだけで何時もミニパトで、村中を暇そうに巡回しているだけだったが、その日は県警とボディーに書いたパトカーがやってきた。一目であの気のいい穏やかな駐在さんでないことはすぐに判った。
「この山に産業廃棄物が不法に投棄されていると通報が署にあった。土を被せて放置してあると聞いている。責任者居るか?」と警察官はその詳細を確認に来たと言って、出来たばかりの古タイヤハウス”終の棲家”の写真をとっていた。
「私ですけど」と黒岩が名乗り出ると
「事情は署で聞くことにするので、あんたはすぐにそこのパトカーに乗るように。」といかにも威圧的に黒岩を睨み見つけるように云放った。
黒岩は、以前にも警察から取調を受けたことがあった。そして刑事という人種は、いつも同じように他人を威嚇するような目つきがあの時と同じだと思い出していた。
そして隣の町の市役所の近くの警察署に連れていかれ、例のごとく狭い取調室に黒岩は連れていかれた。取調官に言わせると山中に古タイヤや廃車になった車のドアや窓ガラスが土に埋められているというのである。よって明らかに産業廃棄物不法投棄法違反であり、二年以下の禁固刑もしくは500万円以下の罰金刑だと早々に伝えられた。
黒岩は最初取調官が何を言っているのか、さっぱりわからなかった。そしてようく考えると先日作ったばかりの古タイヤハウスのことをさしているのかと、ふと思った。
「刑事さんそりゃ誤解ですよ、あれはれっきとした家ですよ、家!。あっそうか家に見えなかったんですね、あんたらあれが」と黒岩が取調官を小馬鹿にするように嘲笑いながら言うと、
「何をふざけたことを言ってるんだ。古タイヤと廃車の車を土に埋めておいて、何が家だと。そんなもの、きいたことがない。ふざけるのもいい加減にしろ。でたらめばかり言ってるんじゃない。言い訳ならもう少しこましことでも考えてから言い訳しろ。冗談も休み休みに言え」と黒岩は取調官に睨みつけられた。
「バカなのはどっちのほうですか。あの立派な家を捕まえて、何を判ったようなことを言ってるんですか。夏は涼しい冬は暖かで、家の中から星も見える。静かであんないい空間をよくも、産業廃棄物扱いするのもいい加減にしろって、こっちのセリフだよ。まったく、どこに眼がついてるんだ、あんたらは!」と黒岩は、激しく言い返した。
「これ以上バカと付き合ってる暇はない。とっととさっきのところまでパトカーで送ってくれ、俺はもう帰る。」と取調官の静止を振り払って、取調室を出ようとすると、
「これ以上反抗すると公務執行妨害で逮捕せねばならなくなる。おとなしくしろ。もう少しで終わりにするから。俺もそんなことはしたはないんだ。お前がしばらくおとなしくしていてくれれば、それでいいんだから。あそこに棲んでいると言通せば、それで取り調べは終わり、容疑誤認ということでして、山まで送り届けてやるから。俺だってこんなこと本当はしたくはないんだが、署長命令なんだよ。わかってくれよ。」
黒岩は、しばらく取調官が言い残した言葉の意味が掴めぬままにいたが、その後無事パトカーでファームまで送り届けてもらうことができた。
「よかったなぁ黒ちゃん、無罪放免で万々歳ってところだなぁ。」と玄さんが出迎えてくれた。
「玄さん喜んでばかりはいられないかもしれませんよ。」とインテリが玄さんに忠告した。「なんだよ、不気味なこと言うなよ。まだ何かあるとでも?」と玄さんは尋ねると
「こりゃ村長の仕業かもしれませんよ。きっと」とぽつりとインテリは玄さんに云った。黒岩もなんとも納得の行かない顔をして
「さっきの刑事の最後の言い回しがどうも気にかかるんだよな。『俺だって本当はこんなことしたくはないんだ。署長からの命令・・』って、どういうことなんだろうとずっと気になっていたんだ。彼らまるで納得した感じじゃなく、一定の時間が来たから釈放されたように思えてならなかったのだ。」と黒岩はなんとも釈然としなかった。
「黒ちゃん、ひょっとして最初から産廃法違反なんて、警察も考えていなかったんじゃない?ポーズだよポーズ。」玄さんが鋭い洞察力でことの成り行きを分析した。
「あの山見て産廃の不法投棄だと思う奴なんかいると思う?確かに古タイヤと廃車の車のドア見て、普通の家だと思う奴はいないかもしれないが、よく見りゃやっぱりあれは家だぜ、あれは。中に灯りもついているし、入口だってちゃんとある。最初っから捜査するつもりなんてなかったのさ。きっとどうせ町長の尺金じゃないの?」と玄さんが言うと
「いや、小さな村の村長ごときのお願いで、警察の署長が動くはずはない。もっと上のところで動かなければ、そうやすやすと警察だって動かないと思うよ。」黒岩は玄さんに云い返した。黒岩は、ひょっとするとこれは国会議員の先生辺りが手を回して、警察庁から降りてきた命令なんじゃないかなぁと頭の中で考えたが、余計なことを言って、みんなにいらぬ心配を募らせても仕方がないと思い、そのことは、みんなの前では口にはしなかった。これで終わればいいのだがと思いつつも黒岩の脳裏に不安がよぎった。
そして不安は現実の物となって現れた。
ある日、ファームに珍しく、いや初めて書留で大封筒が届いた。
独立宣言いたします
届いた封書の中身は、勧告書となっていた。もちろんその文書は村長印が押されていた。
勧告書
一、農地法第5条農地の無断転用
二、建築基準法第98条の違法建築物の建築および消防法違反
三、贈与税の滞納 400万円
納付期限 〇年〇月〇日
貴殿の行為は以上の法律に違反しているものであり、速やかに原状復帰、ないしは違法建築物の除去を行うこと。また未納となっている税金の納付を期限までに収めること。
等々専門的な法律用語がずらりと長々記載されていた。
彼らの中では、そういったものに明るいものなど誰一人としておらず、つらつら書かれた文書を読むだけでも精一杯であった。がしかしただ事ではないことだけは、そこにいる皆が察知するのは難しいことではなかった。
その中でもキャプテンは、昔の職場の経験上少しその辺は扱ったことがあるらしく、
「こりゃ、明らかに嫌がらせですね、村長一派の。俺らを黙らせようとしている意図が見え見えですよね」と言うと、
「これじゃはっきり言って勧告書っていうより、脅迫状だぜ、まったく‼」皆が口々に気勢を上げた。
黒岩は、以前杉下おんじから、もうすっかり荒れ果てた昔の草刈り場をあんたらにくれてやるから好きにしな、草刈り場の再生を託すからと言われていた。がしかし登記移転手続きこそしてはいなかったが、ほかの共同所有の人にも了解は俺がとっておいたからと言われていた。
そして30年以上放置され、半ば山林化した草刈り場を非農地認定の申請をしたとき、村の農業委員さんが現地確認をしに来て、
「こりゃひどいもんだ。もう畑としては使い物にはならんのう。」と言って非農地認定を口頭ではあるが受けていたので、山林原野の扱いになっていたはずであり、建築物を立てることに問題はないと考えていた。しかし非農地認定証明は、その首長が発行するとなっていて、黒岩はそれでもと思って、非農地認定証明申請を村に出してはいたが、一向にそれは発行されずにいた。
黒岩はひょっとして、意図的に村長が最終的に非農地認定を遅らせていたのかもしれないとふと思った。古タイヤハウスなどもともと建築基準法なんかには想定されているものではなく、構造計算をしたわけでも設計図があったわけでもなく、建築確認申請などしていなかった。まして荒れ果てた草刈り場を
「くれてやるから好きにしろ、と言われて申し訳ないです。感謝します。」といったやり取りだけだったので、指摘されてどう反論したらいいやら、黒岩には見当がつかなかった。
その夜再度みんなで、その善後策を考えた。
「めんどくせえなぁ、こんなややっこしいのに関わってなんかいられるか。折角こんな気持ちいい暮らしが出来ているのに、訳の判らん奴らに邪魔されてたまるか!」
「そうだ、そうだ!こんなもん無視するべ。放っておけばいい。」
「あんな悪党連中の言いなりになってたまるか。これで俺らが大人しくなるとでも思ってたら、大きな間違いだってことを思い知らせてやるしかない。そうなりゃ奴らの思う壺だ!」皆思い思いに大声を上げた。
それはまるで百姓一揆でもおっぱじめようかというような勢いだった。
「こうなりゃ俺らにだって、やり方ってもんがある。」
「こんなまどろっこしい法律に振り回されてなんかいられるか。日本なんかとおさらばだ。」
「日本国から独立だ!独立、独立、独立宣言だ!」
そんな乗りでファームは独立宣言を発した。
暴かれた不都合
黒岩は、その前から建物を立てるに際し、ある程度の知識は必要だと考えていて、町の図書館に行って、関係の書籍をまとめて借りていた。図書館にその本をまとめて返しに行ったときには、返却期限がとうに過ぎていると、図書館の職員からお目玉をくらったことを覚えていた。農地法、建築基準法、自然環境保護法、河川構造令などいろんな本を読み漁っていた。
黒岩は、大学時代、建築学部のソーシャルデザイン学科にいて、その当時の研究室の恩師は、学内では変り者で通っていて、授業内容の殆どが、現実離れしすぎていて、その頃、大学は独立行政法人として文科省が、実際のビジネスにつながらない学問は、大学の穀潰し扱いされていた。
黒岩が、その研究室を選んだのも、研究室の希望者が少なく、その先生の単位が簡単に取れて、卒業しやすいという理由だけであった。よって、その研究室のゼミも、参加者はいつも少なく、そんななか、殆どの授業は、教授一人と学生数人のほぼマンツーマン講座で、黒岩は、そこで”1000年未来の街づくり構想”という、壮大な題名のこれまた恩師を上回るほどの超現実離れした卒業論文を作成することにしていた。当然のことその論文を恩師以外誰もまともに誰も目を通すことすらなくお蔵入りとなった。
その時にいろんな文献を読み漁っていた経験があっり、そんなころにチェ・ゲバラの”革命日記”と出逢ったのである。その中にはチェ・ゲバラは医者でありながら、武闘家になり世界の貧困に喘ぐ人々を少しでも自分の手で救いたいという思いが綴られており、黒岩もその本に触発されていて、学生時代にアフリカサブサハラ、インド、東南アジア、中米、南米を旅して、世界の貧困社会、スラム街の暮らしを目の当たりにしたものだった。
実は今やろうとしているファームのことも、その当時黒岩が卒業論文にまとめていた未来予想図の一つでもあった。その論文の題名は、ユニバーサルコロニー計画と題した卒業論文であった。
コロニーとは、村という行政組織の一区分ではなく、強いてヴィレッジではなくコロニーという言葉を使いたかったのは、市町村の村ではなく、生活共同体の最小単位という意味があり、組織化された中の下部組織でないことを意味していて、黒岩はその意味合いにこだわっていたのだった。
在学中の黒岩にとって、その時、恩師の社会工学学会に発表した学術論文によると、コロニーとは、人間も昆虫も同一の行動パターンを呈して、一つのコロニーに一定数の定数に達すると、蜂の場合は、新たな女王蜂は、兵隊蜂を引き連れて分蜂し、ライオンの群れも、若い雄ライオンは、有望なメスライオンを引き連れて、自然とその群れを離れて、新たな群れを形成するのと同じように、人間も同様だと唱えていた。しかしある特定のバッタに限り、一定数までは、個体数は、孤独相を維持して、それ以上になると、特異的に群生相を形成し、大発生する種があると、アフリカの昆虫学者が報告したらしかった。
しかし、先に云ったように近代的都市計画は、合理性重視で、決してそうではなく、その教授の論理は、当時の学会の他の教授陣からは穀潰し論と、彼らはそう呼んだ。
それは、昆虫や野生動物に限られたことではなく、人間社会もまた同じで、一つのコロニーが、平穏に形成を維持する定数は、約30世帯だとその論文で主張していた。いわゆる、日本の田舎に昔から形成されていた結いの組織が、不平不満も無く、継承され続けた世帯数がその数であり、その数を超えると途端に、やれ、民主主義だの平等だの多数決だのとなっていくのだそうである。
そういう意味で、戦後の高度経済成長期に、政府の都市構想で作られた、多摩ニュータウンや、高島平団地のように、人工的に作られた都市は、世代交代ができずに、超高齢化の末、その人工都市は、時間軸に耐え切れず、崩壊するそうであった。まさに今、その主張を、現実社会は証明しているのかもしれない。
本来家畜も同じであり、高密度の飼育方法が、如何に畜産経営者にとって効率が良くても、それは、あくまでも、人間の勝手な都合であり、養豚場の豚も、養鶏場の鶏も、その中で暮らす、動物たちにとっては、何も好んで、密にいるわけではないと思う。
人間の暮らす現代社会も、そこに住む人々は、この大都会の住環境を本能的には決して、受け入れているはずはないのに、やはり人は田舎を捨てて、都会の暮らしに憧れを抱く。
本来の理想的な社会構造とは、子供たちと年寄りが、ジェネレーションボーダーを取り払い、コンシューマーとサプライヤーのボーダーをも取り払って、お互いがお互いを思いやって暮らしていける生涯現役社会を、学生時代から黒岩は思い描いていた夢でもあった。
黒岩はある決断をした。まず彼らを向かい討つには、まず理論武装と共感者作りだと思った。それが出来なければ、村長派に寄り切られてしまうのがおちだと覚悟していた。
玄さんの勢いで発した「日本国からの独立宣言」を今こそ実行しようとするには、思いっ切った決断が必要であった。はじめは冗談のつもりで発した独立宣言であったが、この難局に屈するわけにはいかなかった。
森を守り、野生動物を守り、仲間の生きがいを守るために意を決する時だと心の中で密かに覚悟を決めたのだった。
早速、黒岩とインテリの佐伯君とそしてマエストロとその奥さんの四人で作戦会議が行われた。
「冷静で賢明な君らの意見が聞きたい。どうすればいいと思う今回のこと? 俺は守りたい、全てを。それが私の生きている意味であり、生きがい甲斐かもしれないと思うんだ。」と黒岩の背中はいつになく、低い声で押し黙るように、まるで赤穂浪士の討ち入り前の大石蔵之介のようであった。
「黒岩先輩のことが僕は大好きです。そして尊敬しています。付いていきますよ、どこまでも。正しいことを正しいといえる社会を作りましょうよ。第一、僕だってファームにきて、遣り甲斐というか、生き甲斐を初めて知った気がするんです。こうなったら、共に立ち上がりましょう。たとえ微弱の力でも、必ず道は開けるはず。ファームのみんなもあんなに楽しく活き活きと、毎日を生きているじゃありませんか。権力と欲に塗れた連中に屈することなど断じて僕は許せません。くだらない法律の呪縛に屈すなら、潔く日本国から独立した方が、どれだけ有意義かしれません。独立宣言です。」とインテリもいつになく意気込んだ。
彼が以前リモートで勤めていた会社というのが、何と黒岩のいた日プロであり、くしくも同じ日プロの退職組であった。それは奇遇すぎるほど奇遇で、彼は、それを知ってからは、黒岩のことを先輩と呼ぶようになっていた。
「僕は斧を振り下ろすことも、家具を作ることも出来ません。僕の今できることはパソコンいじることぐらいです。もう少し山菜と毒草の見分け方くらい、できるようになりたいですが。でも今、SNSを使うことなら負かしておいてください。先輩にとっては、以前お聞きしたSNSやメール事件なんか、日プロ時代の苦い思い出で、しかないかもしれませんが、この際使えるものは何でも使うしかありません。それを僕に是非やらせてください。それこそが、ようやくぼくにできる、あなたへの恩返しなんです。今度ファームに来た森下家族にも力を貸してもらいます。あそこの奥さんIT会社に結婚するまで働いていたんですよ。今は如何に多くの僕らの共感者を集めるかですよ。彼女もいろいろと知恵を出してくれるはずですよ。」
黒岩も「いよいよい、チェ・ゲバラの登場だなぁ」とぽつりと言って席を立った。その姿はまで、革命軍の軍曹のようであった。
数日後マエストロの奥さんの提案で、彼らの独立宣言の話は、SNSを通じて全国いや全世界に配信された。
それは瞬く間に日本中世界中に広まり、そのことはその日のツイッターのトレンド一位なっていた。当然そのことはすぐさま官邸にも伝わり、早々に内閣官房長官は、この前代未聞のバカげた事態のを早急に撤回させるように、直ちに国家公安委員会室に指示を出した。機動隊の出動も辞さない構えであった。
彼らのとった行動とは、「別件でも何でもいいから首謀者の早期身柄拘束」だった。
それはどんな理由でもいいから、首謀者の身柄を早急に拘束して、すぐに事態の沈静化を図り、公になる前に独立宣言なるバカげた行為に対し、その事実を表ざたになる前に潰すことであった。
戦前であれば、治安維持法とか内乱罪とか物騒な法律が適用できたのであろうが、今の時代、変なことをすると政権の命取りにも、なりかねないと考え、内閣官房長官は極秘にこのことを
”痴呆老人の戯言”として、速やかにもみ消してしまいたかったのだった。
そして、けたたましいサイレンとともに、パトカーがファームにやってきて、黒岩はまた拘置所行きとなった。玄さんとインテリは、翌朝すぐに黒岩が勾留されている拘置所に向かい、黒岩への面会を申し出た。
「黒、お前またも留置所いきだな、まるで盗みの常習犯みたいなもんだな。ところで冗談はさておいて、お前、大丈夫か。すぐに俺がここから出してやるからな、こんなとこからとっととな。俺がついうっかり、とんでもないことしゃべってしまって、本当に申し訳ねぇ!。」と玄さんはアクリル板越しに黒岩に向かって深々と頭を下げた。
インテリも「先輩、僕に考えがあります。今日一日だけ我慢してください。明日にはなんとか釈放されるようにしますから。」といった。
一方黒岩はケロッとして、あっけらかんに、
「心配するなよ。鉄格子のはまった窓から空を眺めるのもいいもんだぞ。一度お前らにも味合わせてやりたいくらいなもんだよ。ここは静かだから、未来を夢見るには最高だよ。」
「何をのんびりしたことを言ってやがる。俺が代わりに、今すぐ中に入いってやるよ。」と玄さんが怒鳴りつけると黒岩は言った。
「佐伯君、くれぐれも過激派みたいにバリケード築いたり、香港のデモ隊みたいに、反旗振り回したりはするなよな、争ったら負けだからな。そうすりゃ相手の思う壺だ。デモや暴力で勝利したとて、そこに得れるものは何もない。権力を力で勝ち取っても、いつかまた別の権力で圧し潰されるだけだ。かつて東大安田講堂に立てこもった三島由紀夫が、自らの命と引き替えに何を得ることができたんだ、香港で起こった自由を得るための反政府デモの先に、本物の自由が待っていたか。
それに俺は今、井の中のかわず、大海をしらず、されど、空の青さをしる、だよ佐伯君。」といかにも清々しそうに黒岩が言い放った。
それは黒岩は、自分なりにその答えを、自らの体験から導き出していたのだった。
「今なんでカエル何ですか?よくわからないけど判ってますよ。YESSer.Boss!」
と言って二人は拘置所を後にした。
二人の帰りをファームの皆が待ち侘びていた。既にコンフィデンスルームには、皆が集まっていた。
「どうだった、黒さん。大丈夫だったか?」口々に心配して、黒岩の様子を尋ねると、
「黒のやつ、拘置所生活を満喫していやがるみたいだぜ。カエルだってさ。」と玄さんが云うと
「何じゃそりゃ。どうなってるんだよ、あいつの心臓は。拘置所の中で、ますます心臓に生えた毛を育毛剤かなんか塗って、余計に濃くしてるんじゃないだろうな!。」と心配していた皆は、怒るように、でもそのあっけらかんな黒岩の様子に、胸を撫でおろしていた。
「黒岩さんは、くれぐれも村長派と争っては、ダメだって、くどいほど言ってましたよ。」
インテリはみんなに提案した。
「アカデミーの視聴者が既に一万人は裕に超えてます。彼らの力を借りたらどうでしょうか?」とインテリが言うと
「どうやって手を借りるっていうんだ。」とマスタがキョトンとした顔で、インテリに問いただすと、そこでマエストロの奥さんが、
「こんなのはどうでしょうね。ドングリ山合唱団の大合唱って?」
聞いていたみんなは呆然とした。
「何だそりゃ‼??・・・」
玄さんたちが突き放すように云うと彼女は、
「皆でユーチューブのアカデミーチャンネルで即時釈放を要求するために、塾生に呼びかけてフラッシュモブをやるんですよ、皆がいつも歌ってる替え歌のハレルヤの大合唱を。あれならみんな歌えるでしょ。きっとツイッターで呼びかけると賛同してくれる人は、それに参加してくれるんじゃないでしょうか。それが黒さんの言う平和的解決方法のような気がするんですよね。」と微笑みながら言った。
「なんだ、そのなんたらもんじゃって?そんなもんで、釈放されるもんかなぁ?それでことが済むんじゃ誰も苦労しないや」とその意見に玄さんが人をバカにするように嘲笑った。
「やってみなきゃ判りませんよ。アカデミーのフォロアーの人って、皆情熱的だし、純粋な人々ばかりですしね。SNSで呼びかければ、きっと参加してくれると思いますよ。やってみなきゃわからないじゃないですか?やってみましょう。私早速ツイッターで呟いてみますから、そしてあらゆる方法で釈放のシュプレヒコールの代わりにドングリ山合唱団の大合唱で行きましょうよ。ダメもとで試してみなしょうよ。」と理解不能なメンバーに彼女はそれでも威勢よく、みなにけしかけた。
「いいね、それはとってもいい考えかもしれないよ、ダメもとでやってみよう。俺もつぶやくから。」とインテリもすぐに賛同した。
しかし他の連中は、こいつら何を言ってるんだと言わんばかりに、その話を相手にしようとはしなかった。
「ではまずは、早速皆んなで発声練習といきますか?」という彼女の掛け声で、ぶつぶつ言いながら、ドングリ山合唱団が、俄かに結成された。
「ついでに、第九合唱曲もやりませんか。僕が教えますよ。以前子供らに教えてたことあるから簡単ですよ。」とマエストロも乗ってきた。
皆、口を揃えて、「無理無理ムリーーー!」
しかし、そう言いつつも、その後ファームのメンバーは、なんやかんやと文句を言いながら、畑仕事をしながら、マエストロの書いた第九交響曲のドイツ語の歌詞のメモ書きを手に、たどたどしく、鼻歌交じりに、密かに練習を始めていた。それは、包丁をたたく台所でも、トンカチを振り下ろしながらも、山菜採りに行った森の中からも、そのたどたどしいドイツ語の歌声が、あちこちで、聞こえていた。
そして、いよいよその当日を迎えた。
メンバーは朝早くから、ぶつぶつ言いながらも、みな思い思いに、発声練習をしているではありませんか。
「じゃあ、皆スマホのカメラに向かって整列して。はいリハーサルスタート!」とインテリの掛け声とともに、合唱練習が、始まった。
そして、やがて役場の始まる八時になると、時間ちょうどに幕が上がり、マエストロのコンダクトの合図で、ドングリ山合唱団の歌声が谷間に鳴り響いた。その雄姿は、同時配信で全国にその歌声と懸命に歌うドングリ山合唱団のメンバーの姿が配信されることとなった。
インテリは、予めツイッターで前日フラッシュモブを全世界に呼びかけており、ファームでみんなの合唱が始まると、同時に別のチャンネルでも、別のチャンネルでもいくつものチャンネルで合唱は始まった。それはママさんコーラスや、小学校のクラスの子供たち、老人ホームの入居者、様々な人々がハレルヤを歌いだした。勿論合唱のコンダクターはマエストロで、ビールケースをひっくり返した指揮者台にのって、思いっきり腕を大きく振り上げながら、
”ハレルーヤ、ハレル~ヤ~~~!”と得意のサビのフレーズが繰り返され、次にいよいよ年末によく聞く、第九交響曲第四番(喜びの詩)が始まった。歌が始まって四時間くらいが経ち、昼頃になるとそれはフィリピンでもカンボジアでも、やがてアフリカでもその後時差を越えて、地球の裏側南米ブラジル、ボリビア、ペルーでも続々とその歌声の輪は広がり続けて、地球をぐるり一周を包み込んだ。
今までに見たこともないほどの、壮大な大合唱が地球上に響き渡っていった。
その現象は、昼過ぎにはテレビのワイドショーでも各局がこぞって報道し始め、その現象は日本中が大反響となった。当然その様子はすぐさま政府内閣府にも伝わり、内閣官房長官は慌てて、すぐに公安委員会に指示して、その事態の早期収束を考えて、その後まもなく黒岩は、無事拘置所から釈放されることとなった。
しかし、黒岩の逆襲はその後留まること知らなかった。黒岩が釈放されて、数日後今度は内閣官房の霞が関官僚が、ファームにやってきて、今回の騒動についての対応を黒岩に迫ってきた。
「黒岩さん、今回の一件に関しては当方も若干の行き過ぎがあったところは認めますが、今回、そらのほうでも、ネットを通じて、事態を引き起こしたことの謝罪と宣言の撤回を自らの肉声で表明していただきたいんです。」と彼らは、物言いこそ丁寧であったが、一方的に黒岩に言い迫ってきた。
それに溜まりかねて我慢できない黒岩は、
「あんたみたいな小童と話ししても始まらないよ。直接長官と話がしたい。ユーチューブで公開討論をさせてください。さもなければ、全世界に今回の不当逮捕について意見文をSNSで全世界に配信させてもらいます。全ての国民に、あなた方のやり方についてその是非を問うことにしたいと考えております。しかる時には解散総選挙があるやに聞いております。その時には国民の投票行動にも多大なる影響を与えることになることをお覚悟下さい。」と役人をいかにも脅すような威圧的な言い回しでそれを伝えると彼らは大慌てで
「私らには、この場でそのようなことを即答することは出来かねます。一度持ち帰って上と相談し、しかるべき対処を検討したうえで、再度ご連絡させていただきます。」と言い残して、早々に彼らは黒塗の高級車を飛ばして慌てて帰っていった。
「先輩、やるじゃないですか!。やるときはやる男だと前々から思ってはいましたけど、やっぱりやっちまったって感じですね。久しぶりに胸がすく思いになれましたよ」とインテリがすっきりした顔をして言い放った。
「彼ら必ず、私らの要求を飲んできますよ。今から準備していても遅くはないですよ、黒岩さん。必ず勝てますよ、きっと。」と今度は勢いを増して、マエストロが言い出した。という訳で早速、公開討論の想定問答を、その夜一晩かかってファームのみんなで考えた。
そして、翌日内閣官房から再度、この前の担当官がファームにやって来て、次回のことについて連絡しにきた。
そして、彼らが指定してきた時刻に予め用意しておいたテレビ電話でリモート会議が行われ、それをインテリはユーチューブで同時配信することにした。
そしてその結果は、内閣官房長官からの提案で、今回の一件は地方自治法第293条に則り、今回の一件を特例措置とし、県知事の承認事項として、この特定地区を行政試行特区という名目で、それを定めるというものであった。それはすなわち、ファーム内に限り認めるというもので、政府の面子が壊れぬように県知事の勝手な判断で行ったもので、政府は一切関与していないというものであった。責任をすべて知事に押し付けた形となって事態は収束した。
一、酒税法、所得税法ならびに地方税等の納税義務の免除
二、文部科学省、および教育委員会の管轄外で初等教育を行うことができる。
三、当該区域に限り森林法、農地法、河川法、入国管理法、消防法等の関連する法律の適応外とする。
※ただしそこに居住する者の選挙投票資格を永久に剥奪するものとする、というものであった。
政府は僅か8票の投票権と引き換えに、ファームの独立宣言を実質的に地方自治法の特例措置として、日本の歴史からそれを永久に抹殺したことにしたかったようであった。
そして皆が事態は一段落したかと思いきや、その騒動は思わぬところに波紋を広げていた。ことの成り行きを詳細に調査する中で、その捜査は公安委員会から地方検察局に引き渡されることとなった。
それは、その時会期の迫った国会の予算委員会で、災害復旧計画の樹立に際して、その詳細が再調査され、その工事の受注のあり方、激甚災害指定の経緯に不自然なところがあると野党から追及を受け、この災害規模は激甚災害指定基準を満たしておらず、地元選出の国会議員と国土交通省、総理府の間で何らかの忖度があったのではないかと、疑念を抱く議員が出てきて、さらなる追及が国会で審議された。
その後村長と地方選出議員そして内閣官房副長官の間で、何らかの金銭のやり取りが判明し、癒着が発覚して、最終的には激甚災害の指定は全面的に取り消され、そして災害復旧計画は全て白紙撤回されるることとなった。
そして、山の自然は守られた。
そして、閉じられていた小学校は、20年ぶりに再開して、廃校は再び元気な子供たちが遊びまわる、賑やかな学び舎に復活した。亡きお母さん先生のかねてからの要望で、勿論先生たちは、教員免許など持っていない村のおばあちゃんやおじいちゃんたちが中心になって、持ち回りで担当し、そこに音楽はマエストロ、農業実習はマエストロの奥さんが、図工は親分、算数はキャプテン、自然科学は黒岩が手伝うことになった。しかし授業は殆どが戸外で行われるのが通例であった。
やがて、この山の分校からも卒業生が出るようになり、町の中学校に通うようになっていたが、山の分校の卒業生の殆どは、最初中学校の授業についていけず、学習適応障害児として学校側からは扱われた。特に記憶力、知識を問われる歴史とか数学の公式とかは、苦手な生徒が多かったが、独自の発想力と創造力、物事を観察する洞察力には長けていて、おまけにマルちゃんと一緒に暮らしていたおかげで、ネイティブイングリッシュの発音は他の生徒には真似のできるレベルではなく、英語の教師もタジタジであった。先生の言ったたことに対する理解度は非常に高い能力を発揮した。
山の自然から遊びを通して学んだ知恵は、その後彼らの成績にも大きな影響を与えることとなった。
分校の卒業生の成績は、中学卒業時には皆殆どがクラスのトップクラスであり、その後シアワセS基金を使って、高校は海外の有名ハイスクールに留学するものも少なくなかった。
老婆と尊厳死
ある日、ある娘であろう若い女性と見るからにか弱そうな老婆を連れて、ファームにやってきた。彼女は医師から、骨髄性白血病の末期患者で、余命一週間と宣告を受けた人であった。娘さん事前にそのことを医師から告げられており、もうすでに回復のメドのない母親に少しでも楽に、そして少しでも安らかに、人間らしく最期を送らせててあげたい一心で、老いた母親をファームに連れてきていた。それは近代的な総合病院ではなく、黒岩の作った終の棲家・創無庵に。
黒岩は、前回のお母さん先生の死を通して、真っ向から死と向かい合う人々の少しでも助けになりたいと考えていた。
そしてそのためにも新しく作った終の棲家を解放し、その限りある時間を思う存分有意義に厳粛に生きて欲しいと真剣に望んでいた。そしてそれはいずれ自分も含め、ファームの仲間も皆がいずれ迎えなければならない定めであった。できることであれば、人口心肺装置も、人工呼吸器に繋がれることなく、出来る限り安らかに、この世を去れるそんな瞬間を厳かに迎えさせてあげたかったのだった。
時として人は必ずしも、凛として居なければならないわけではない。挫折して、体調を崩し、それでも凛としていられるわけはない。挫折もまた人生の根をはやすための肥しであると黒岩は考えていた。
森の木々が冬になれば、全ての木の葉を落として、枯れたように立っているではないか。そして来るべき春のその日まで、地面の下で精一杯根を伸ばし続ける。挫折とはそういう日々のことではないだろうか。
気ままに生きればよいと思う。思いのままに生きればいい、気が進まなければ立ち止まって休めばいい、失望と回り道の上にこそ大局の世界を見つめる視野が芽生えるものであると黒岩は思っていた。
せいぜい人生を楽しく遊ぶがいい。そして死生観、世界観をいや宇宙観を創造できる人間になるがいい。
やがて人は必ず死を迎える。いやそれは人だけではなく、この星に命を授かったものたちすべての定めである。人生とは何を成しえたかではなく、如何に生き、そして如何に死する時を迎えたかではないだろうか。もう思い残すことはないと言い切れる毎日を送ればいいと思う。
あなたはそれを立派にやってきたではありませんか。そして今まさにその神々しい世界に旅立とうとしているではありませんか。むしろ、人生のクライマックスのその瞬間を思う存分満喫して、旅立ってほしいと思います。一世一代のメインイベントのために。
あなたは、無限の愛を知るために、この世に生まれ、そしてそれを知って、今まさに旅立とうとしてるだもの、どこに恐れるものなどありましょうか。あなたは、たった今も海よりも深く空よりも高く、水よりも澄み切った慈愛に満ちた世界に包まれていることに気が付いたはず。もうすでにあなたの背中には、真っ白な素敵な翼が生えていますよ。その翼を大きく広げて、大空高く舞い上がってみせてください。それは老婆が息絶えるというよりもむしろ、若鳥が始めて暮らしなれた古巣から、空に向かってそっと飛び立つかのように巣立って、逝くところであった。
黒岩は、ベットに横たわる息も絶え絶えの老婆の脇で、長い間ご苦労様でした、とそっと囁くように、手を握ってあげて話しかけていた。
やがてユズリハの木から一枚の葉っぱが、また一枚と舞い落ちるように・・・・
彼女は少し微笑みを浮かべ、かすかに蚊の鳴くようなかすれた声で、「あ・り・が・と・う・・・ざいま・・し・た。」と囁き、肯くように大きく息を吸って、創無庵で静かに息を引き取った。
その知らせを聞いて、迎えに来た娘さんは、満足げに深々と頭を下げて、その母の遺体を引き取っていった。
遺体のなくなったその部屋には、一本の線香の馨しい香りだけが、その部屋に漂っていた。
人間の命とは如何に切なく哀れなものであり、儚いものであるかを、されど厳かなるものであったかをその老婆の死は残されし者へ語りかけていたような気がしていた。
そして、ベットの脇のテーブルの上に、その娘であろう、お線香代と書き記された白黒ののし袋が、さり気無く、だれに告げるでもなく、そっと置かれていた。