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幻樹の森 ー失意の海の底にー  作者: 草野 大造
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第二章 兜を脱いだ落ち武者

会社を辞めた黒岩は、早々に新会社を立ち上げ独立した。しかし、最初想定していた得意先からはなかなか相手にされず、新会社の滑り出しは、決して順風満帆な滑り出しとは言えなかった。それで、必死に新分野の開拓に羽部み、やがて経営アドバイザーという新天地を築くことになり、会社は、急成長を遂げることになり、その資金を使って資金運用して、会社の資産をどんどんと増やし続けた。

    艶やかに麗しき二つの東京の素顔 


 翌朝、目が覚めると黒岩は、早々にアパートの部屋を後にしていた。いままで東京にいるときには、殆どスーツにネクタイ姿であったが、その日は、旅行中愛用していたヤッケを羽織って出かけることにした。そしてアパートを出たとたん、いつの間にか、東京にも木枯らしが吹き始めていて、慌てて部屋に戻りマフラーを首に巻きつけて、再度出直した。確か旅に出かけた頃は、歩道わきの街路樹がほんの少し色づき始めたばかりだったのに、あれからしばらく時間が経っていたことを改めて噛みしめた。

 その日、黒岩は今どきの近代的な東京ではなく、昔ながらの古き良き東京を探索したかった。黒岩はいつも殆ど山手線を利用しても、東京駅から外回りで池袋駅までの区間に限られていて、池袋よりも先には殆ど行くことがなかった。それで黒岩はいつもいくことのなかった池袋より先をぶらっと散歩してみたかった。

 先ず”おばちゃんの街”巣鴨のとげぬき地蔵にお参りに行くことにした。確かにそこには昔の風情を留めていた街で、街のアーケード街の入り口には(巣鴨地蔵通商店街)と大きな看板が掲げられていた。土曜日だからさぞ大勢の人出かと思いきや、通りすがる人の姿はまばらで、土曜日の昼前だというのにシャッターの閉まったままの店も多く見受けられた。渋谷駅前のスクランブル交差点や、新宿の歌舞伎町の入り口は、行き交う人でごったがやしているというのに、やけにこの界隈は、ひっそりとしているので、同じ山手線内の街だとは思えなかった。黒岩は、ひんやりした北風を頬に受けながら、今日は高層ビルの立ち並ぶ街ではなく、あまりごちゃごちゃと人の多いところを避けるように、小さな路地を探索してみたかったので、この街はそういう意味ではちょど良いところだった。そしていつも電車か地下鉄であちこち動いていたが、その日は電車を使うのもやめて、今まであまり行ったことのない裏通りを太陽ある方向を頼りに知らない東京を探索することにした。全国を旅行中は、一駅間歩くとなると、それはそれで一苦労で、特に、この間の北海道の標津線で、一駅歩くというのは、ほぼ自殺行為のようなもので、途中でヒグマにでも出会ったら、食い殺されてしまうような行為だったのだが、ここ東京の駅は、それからするとぶらぶらと歩いている間に、いつのまにか二駅や三駅くらい、すぐに歩けるくらい駅の間隔が狭く、それは如何に便利な街であり、またすぐに歩けるなのに、なぜいつもきまって電車に乗っていたのか、自分でも不思議に思えていた。うろうろ歩いていると、黒岩は、あまりこの辺りの土地勘はなかったが、いつの間にか、谷中小学校と書かれた校門の前に着いた。もうすでに、日暮里を過ぎているのかと思いびっくりした。山手線で数えれば、もう4駅も来たことになる。遠くに、上野のビル街が見えたので、その日は、それを遠巻きに迂回するように歩いていると、ストリップ劇場やラブホテルの立ち並ぶ庶民的な歓楽街に出た。さすがに昼間に行き来する人は少ないと見えて、人通りはまばらであり、さぞや夜になると賑やかしくなるのかと勝手に想像していると、やがてそれは、鶯谷のラブホテル街からいつの間にか、ソープランドの看板が目を引くようになっていた。あぁ、ここが、かの有名な”吉原”かと思った。


 黒岩は、今までスーツ姿で六本木とか銀座とかそういう華々しい、おしゃれな東京しか見ることはかったので、もう一つの東京がそこにあって、かえってそれは新鮮さすら感じていた。

 確かに如何わしいといえば如何わしいし、怪しいといえば怪しい街であり、そここそがかの有名な、かつて江戸の頃の賑わいを見せたであろう吉原遊郭の名残をとどめており、吉原の花魁道中の様子が黒岩の頭の中にふと浮かんでいた。吉原の大門(おおもん)を潜り抜けるとそこには、お白いのきつい匂い漂う通りと華々しい遊郭が立ち並び、赤い灯篭の並ぶその通りの両脇で花魁が怪しく(あでやか)にして(うるわ)しき容姿で、大店おおだなの若旦那やお武家さんたちに優しく手招きをして、その前を行き交ったであろう賑やかな街並みが朧気(おぼろげ)にうっすらと見えたような気がし、また(いにしえ)の花魁のすすり泣くような微かな声が、大門(おおもん)(たもと)に揺れるしだれ柳のざわめきの間から囁くように黒岩の耳の奥に聞こえた気がしていた。その声はあまりに哀れにも寂しい響きであった。その時の高下駄を履いた艶やかな花魁の姿が朧気に目の前を通り過ぎたような気がした。

 当時の華々し街の空気と(あでやか)な香りと今、自分を取り巻く裏びれた切ない空気が時代を越えてそこに同居しているような妙な気持に包まれていた。まるで時が幾重にも重なり合っているような錯覚を感じていた。

 栄枯盛衰は世の習わし、奢れるものは久しからずやとこの街のどこかで誰かが囁いている気がした。


 しかし、人間臭さを感じるには十分なところでもあった。少し足を伸ばすと浅草があり、さすがに、そこは多くの人で賑わっていた。浅草浅草寺の周りは、外人客や若い女性の浴衣姿が目立ったが、一つ裏通りに入ると、浅草演芸場があり、そこに通じる路地には、昼間っから酒を出す、いわゆる”昼呑み”の客がコップ酒で盛り上がっていた。昭和レトロの哀愁が漂うこの街に、不思議と落ち着く自分がいることを黒岩は感じていた。路地は、まるで迷路のように入り組んでいて、四つ角を超えるたびに、その街の様子がコロコロと変わっていった。黒岩は、なんともいえぬ好奇心に誘われて、あちこちを探索して見て回った。

 そして、賑やかな通りをもう少し進むと、そこは簡易宿泊所が立ち並ぶ、山谷のドヤ街と呼ばれるところであった。

 ついさっきまでは、雷門の参道には外国人旅行者や若いカップルで賑やかだったその街が、一転して、そこに流れる重苦しい空気が漂っていることを肌で感じとることができた。同じ街なのに、どうして、こんなにも重苦しく漂う空気がそこにはあるのか、黒岩には不思議でならなかった。

 旅先の北海道を思い浮かべると、列車で一時間揺られようが、二時間揺られようが、車窓から見える景色は、な何一つ変わらなかったというのに、この辺りは、路地を一つ曲がる度に、様々な人間模様があり、街の雰囲気がさまざまに変化することを改めて感心した。


 その街では、そっとバックネット越しに、子供たちの野球をする姿を見つめるおっちゃんの背中が、妙に哀愁を帯びていた。その街にある公園の滑り台や鉄棒は、殆どが洗濯物干場状態になっていた。小雨が降るのにそれを片付けるでもなく、これじゃ乾かないだろうと思っても、皆平気でいるようだった。その傍らでは、将棋を打つ者、雨に濡れた雑誌を一枚一枚むしるようにページをめくっては、いつのだかわからない芸能記事に見入っている者、昼間だというのに焼酎を煽って、鼻の頭を赤くしている者、無造作に路地の傍らで寝そべっている者、それが、この街の普通の日常であり、普通の風景であった。

 そんな街角で、やけに張り切っている親父がいると思ったら、昼間っから少し酔っぱらってるだけの親父で、公園の前で、誰が聞くでもないの、大きな声で演説をしていた。

「今どきの政治家はなっとらん。これじゃ死んだ戦友に申し開きができん。諸君、この国は一体どうなっているんだ。あの頃、命を掛けて守り抜いて戦って、必死に頑張った必要がこの国にはあったのだろうか?諸君は如何に思われるか。わしは、情けなくて、死んで逝った戦友にこの現状をなんといえばいいのか。」と大声で、観衆がいるわけでもないのに、虚しく訴えかけていた。行き交う相手を罵り、一人でぼやく人であった。


 街は、もうすっかり日が暮れようとしていた。冷たい木枯らしが容赦なく路地に吹き抜け、ゴミを置き去りにした路地裏には、新聞の折り込みチラシが風に舞っていた。その傍らにふと目をやると酔いつぶれた老人が、地べたに寝っ転がっていた。吹きすさぶ風が、さぞや骨身に染み入るだろうと思い、黒岩は着ていた愛用のヤッケをそっとその老人の丸まった背中に掛けて、自分のマフラーを首からはずし、老人の首筋にそっとおいて、その街を去った。


 黒岩は気づいていた、この日本縦断の旅を通して自分が変わったことを。旅先で人の優しさに出会い、暖かな人情に触れて、自分の心の中にも、人に優しくなれる自分と他人の痛みを己のものとして感じれる自分がいることを感じていた。旅先で受けた恩をまた誰かに施し返したいという思いが込み上げてきて、今、目の前で路上に寝そべっている老人を横目に通り過ぎることが出来なかったのだった。今までの自分であったら、いつも通い慣れた神宿駅西口で段ボール敷いて寝ている路上生活者を見て、どう思って脇を通り過ぎていただろうか。いやどう思うというよりも何も見ぬふりをして、ただただ道脇の汚いものでも目にしたように、通り過ぎていたに違いない、脇を通るときに踏んづけてはいけないと思い、その人の頭の上を平気で跨いで、仲間と上司の悪口でも言いながら嘲笑うように通り過ぎていた自分がいたのである。いつも見て見ぬふりをすることに慣れ切っていて、疑問すら持たなくなっていた自分がそこにいた。自分には関係のないこと、関わる必要のない別の世界の出来事とでも言わんばかりに。

 帰りに乗った山手線の渋谷駅で口から血を流して、得体の知れない化粧をした妙な服装の若者たちが大勢、電車に乗りこんできた。黒岩は何事が起こったのかと度肝を抜かれた。その日は()しくもハロウィンの日だったそうだ。その夜は、渋谷駅前広場からゴールデン街は燥ぎ過ぎた若者たちで溢れ返り、それを抑えにかかった警察官と揉み合いになり、多くの怪我人が出る騒動があったと帰宅してテレビを付けたときニュースキャスターが伝えていた。酒に酔い急性アルコール中毒で救急車で搬送された若者が相次いだと。同じ東京の中の同じ日の出来事であった。光あるところには常に陰がある。




     鎧を脱いだ落ち武者


 月曜日、久しぶりの会社への出勤であった。しばらくワイシャツにスーツ、そしてネクタイを締めるのもやり方を忘れそうになるくらい、黒岩には、ずいぶん前のことのような気がしていた。黒岩は、いつものように洗面所で鏡を見て、どうして俺はいつもスーツにネクタイ姿になるのだろうかとふと思った。入社してからそんな疑問すら持つこともなく、ただサラリーマンになったから、皆がそうしているからという理由だけであった。それが世間でいういわゆるサラリーマンらしさであった。旅の途中は、できるだけ肩の凝らない服装が一番だと思っていたし、少しぐらい汚れようが、しわになろうが汚れが目立たない服装が一番都合が良かったし、それよりなにより、防水性があり、風を通しづらいモノであれば特段それ以上に要求することはなかったので、下着こそ定期的に洗濯していたが、履いていたジーンズもヤッケも着たきり雀であった。しかしそれで不自由を感じたこともなければ、困ることなど何はまったくなかった。

 なのに今、久しぶりに出勤するとなると急にスーツの上着に腕を通すときに、当たり前のことのように着ていたものが、「どうして」という疑問に変わっていた。それがサラリーマンの常識だという理由だけならば、あまり明確な答えになっていないような気がしていた。いつも自分は今まで皆がそうしているから自分もそうしなければという社会の流れに逆らうことなく生きてきたほうであり、むしろそのほうが楽であった。だから何に関してもこれだけは、という自分独自の拘りもなければ、それを押し通す意地も持ち合わせてはいなかった。

 黒岩は、着かけていたスーツの上着をもう一度脱いで、締めたばかりのネクタイを再びはずして、その日は少しラフな恰好で会社に行くことにした。それが個性というものならばそれはそれで上司にとやかく言われる筋合いはないと覚悟を決めていた。

 そしていつものように会社に行って、何食わぬ顔で自分のデスクの上のパソコンを開いて、早速今の案件について引き続き企画書をまとめることにした。大体の構想はもうすでに旅先で頭にまとめ上げていたので、今更頭を悩ませることは殆どなく、手際よくパワーポイントに自分の思いの丈を思う存分ぶちあけた。画像も自分なりにこれぞと思う画像が撮れていたので、SDカードを引き抜てパソコンに落とし込んだ。そこでふとこれだけは他人に見られるとやばいと思い、奥能登の彼女の写った画像データだけは別の個人用のUSBメモリーに移動して、それだけはそっと家に持ち帰ることにした。

 そして数日間は、傍目を気にすることなくパソコンのモニターと睨めっこして、一心不乱に仕事に没頭した。企画書をまとめ上げて、もうこれで思い残すことはないと思った。今までのパターンだとそこから視聴者に如何に受けるようなキャッチコピーを捻り出すかに頭を使ったが、今回は見る人にどう感じてもらうかではなく、自分がどう思ったかということに終始専念した。第一、誰から何を言われようとも、これがこの会社に於ける自分の最後の仕事だと決め込んでいたからであった。

 数日後、プロジェクトミーティングが行われ、メンバーは予算規模に見合った頭数で、業務内容よりも予算の多い少ないで、その担当者の頭数が決められるのが通例となっていた。

 そして四季を通して、4期のシリーズ化が黒岩のたっての願いであった。日本の各地の良さを表すのに、四季に応じた各地の趣があるので、どうしても四部作でないと表しきれないと上司に以前から申し出していたのだった。その提案は意外とすんなり了承され、一年を通して製作することが決まった。今回も黒岩はチームリーダーに任命されていたので、張り切ってはいたが、今までのように自分の考えだけで突っ走ることはやめて、できるだけ他人の意見を聞き入れて、他のメンバーの意見を尊重して、様々な考えをできだけ幅広く盛り込むように心がけ、これだけはということ以外は先輩や後輩の意見を取り込んで、皆が力を合わせて製作に当ることを実感できるようなムードメーカーに黒岩は徹した。

 チーム内は以前とは違い、活発な意見が交わされていた。メンバー皆の眼が光り輝いているように黒岩は見えていた。これぞ一番大切なプロジェクトの活力になるのかと改めて気づいた。そんな全員参加の意義は、もう一つの理由があった。一年間通しての事業企画でったが、途中で仕事を投げ出すのではなく、作品が満足いくものに仕上げるためには、リーダーシップよりもパートナーシップであり、何よりもチームワークを優先して、個々の積極的な意見が自由に飛び交い、各自が尊重される、自発的に、業務に充ことが必須用件でり、自分がいなくなっても支障なく業務が進む仕組みづくりを常に黒岩は念頭において企画を進めていたのだ。当然、課長もその方向性には大賛成であった。

 概要がまとまったところで、一旦クライアントであるJR全日本に中間報告に出向いた。黒岩は係長と有望な後輩葛本を連れて、その後は彼にプレゼンを全て任せた。それを聞いて担当者からある評価が返ってきた。

「黒岩さんの仰りたいことは十分わかります。確かにいい視点で捉えていますよね。新鮮味という意味では、かなり努力されてますよね。でもしかし少し地味な感じがしますよね。これじゃ、一般大衆受けがやはり期待しずらいですよね。そこいらのどうでもいいおばあちゃんやおっさんじゃなく、もっと顔の売れた有名人をキャスティングしてイメージを一般受けし、インパクトを重視したやり方のほうが、売上向上につながるのではないですかね。製作予算に関しても少しぐらい上がっても、こちらのほうは一向に構わないので、所詮、新幹線に乗ってもらって何ぼですからね。」

 黒岩は、今までであれば、クライアントの意向に沿って、すぐにその方向性を修正するところであったが、今回だけはその意見に猛反発した。今までであれば、クライアントは神様であり、彼らに逆らうということは、直ちに仕事を他社に乗せ換えられるか、キャンセルされることを意味していて、常に相手の顔色を見て仕事をして行くのが、業界の常識であったが、今回の黒岩は少し違った。

「一般受けすることだけの受け狙いでは、今までと何も変わりません。日本の本当の美とはそんな薄っぺらなことで表現できるものではないのではないでしょうか。後世に残したい日本の原風景をもっと謙虚な姿勢で、しっかりと伝えたいんです、今回は。ご理解ください。次回もう少し練って、再度ご報告に上がりますのでよろしくお願いしたす。」と言い残して、彼らは席を立とうとした時。

「ところで急で申し訳ないんですが、諸事情がありまして、次回から担当を今日連れてきた新人の彼になりますのでなにとぞよろしくお願いします。」と黒岩は担当者らに伝えた。

「えぇ、そうなんですか。折角黒岩さんがここまで頑張ってこられたのに残念ですね。ひょっとしてご栄転ですか。海外支社とか。」

 黒岩達はそう告げると何も言わずに軽く会釈して会議室を後にした。

 黒岩は最近、会社に出社しても以前のようなスーツにネクタイのお決まりの姿をすることは殆どなかったが、近頃黒岩のフリーなスタイルをまねて、ノーネクタイスタイルが他のメンバーの中でも少し見受けられるようになっていた。上下お揃いのスーツから、思い思いのズボンにジャケット姿のメンバーが増えてきた。しかしそれはまだまだ少数派であり、その現象は、今回のプロジェクトのメンバーに限ってのことであり、窓際に鎮座する偉い方々は、相も変わらぬドブネズミススーツの人が圧倒的であったし、所詮社内ではメンバーの連中は、黒岩の影響で、少々異端児的な扱われ方をされていた。しかし黒岩はメンバーの後輩たちにいつも云っていたことがあった。

 常に、長いものにはまかれろ、ことなかれ主義で、無難に、世間に逆らわず、納得いかなくとも、人にうまく合わせられる者が、上司には重宝され、社内では出世していくものだ。しかし、それがわかっていてもお前らは、

「サラリーマンらしく振る舞う前に、自分らしく生きることを優先しろ。」

「人並みの暮らしを望むことよりも、人並み外れた個性を育むことを選ぶべし」と。


 その頃黒岩は、平日は仕事に専念し、その代わり土日は、しっかり休暇を取るようになっていた。

 週末には、上野の鈴本演芸場に通って落語を一日中楽しんだり、お気に入りの映画が封切りになるとすぐに映画館に行った。図書館に居座って一日好きな本を読み漁ったりと自分自身の時間を思いっきり謳歌していた。今まではそんなことをしていると同僚に先を越されるとか後輩に追い越されるという恐怖感に苛まれて、ゆっくりと自分の時間を過ごすということは、それ自体が罪悪であり、後ろめたい気持に駆られていたが、同僚の中山の死を通して、競うことの無意味さと空しさを痛感させられていたので、自分の貴重な時間をしっかりと大切にする生き方をすることにしていた。

 そして企画作業も順調に進捗し、第一弾の製作が本格化するのを見届けて、黒岩は課長に退職願を提出した。

 当然のように一応慰留されたが、黒岩の応えは揺るぐことはなく、今回のプロジェクトに概ねのメドを着け、一か月後に退社するということで、課長も黒岩の変わらぬ決意を汲んで円満退社することとなった。


 黒岩には会社を退社後、彼には考えがあった。まず独立して自分自身の会社を設立することであった。それは今まで付き合いのあったクライアントの下で、何かしらの仕事を回してもらえるという目論みがあったからであった。

 まず、それなりの会社の体裁を取るために、都内に、小さな事務所を構えることにした。そして、自宅にあるパソコンを持ち込んで、デスクと応接セットは、当面リースで賄うこととしたので、大きな持ち出しもなく事業展開ができる体制を整えることが出来た。これで自分自身で誰に気兼ねすることもなく、思う存分仕事に打ち込めることと、誰の顔色を伺うことなく、気の向くままに思うままに動き回れるという、束縛からの開放感をしみじみ実感していた。自分自身、別に仕事をすること自体が、特段、嫌いなわけではなかったが、自分の意に反して、一方的に上司の言いなりになって、へつらって生きていくことだけは、自分に許せなかったのだった。他人を許すことはできても、もう自分をごまかしてまで安易に妥協することだけは許せなかった。


 彼は、近くの印刷屋で、自分の新たな名刺を印刷して、意気揚々と得意先回りをした。独立した新会社の社名は、以前から黒岩が考えていた”フォレックス”つまり自然の森とコペルニクスを合わせた意味で、まさしく自然との融合であった。

 まずは、営業は足で稼ぐものと、入社当初から先輩から教わっていたので、今までに前の会社にいたときに交わした名刺だけでも、積み上げれば相当のものになっていたので、その中から、大手の顧客をピックアップして、早速、新会社設立の挨拶回り兼、御用聞きをすることにした。いくら何でも、これだけ集めた名刺の数だから、営業も数打てば当るだろうと、たかをくくっていた。そして、自分が食う分だけ稼げば、それで十分とおもっていたので、無理さえしなければ、それは、それで気楽なものでもあった。

 まず、大手の目ぼしい会社を選んで、いざ電話で、以前面識のある担当者に挨拶がてら、お伺いしたいとアポを取ると、最初から顔見知りの担当者は、懐かしそうに、快く時間を取ってくれた。

「いやぁ、久しぶりですね。黒岩さんもその後お元気ですか。どうですか独立して、会社の社長になったご気分は?」と軽快に話しは弾んだ。

 黒岩もまずまず、幸先のいい感触で一安心していた。そして、黒岩も何かいい話題に持って行こうと思って、相手のご機嫌を取りながら、

「ところで、何かその後変わったことはありませんか?何かご入用の節は、何なりとお申し付けください。精いっぱい頑張らせてもらいます。」と今まで大会社にいた時と違い、打って変わって、低姿勢で担当者に仕事のお願いした。仕事を下さいとまでは、直接頼むわけにも行かないので、遠回しに仕事の依頼をお願いした。がしかし、

「黒岩さん、ではまた、その節はよろしくお願いします。何かありましたら、こちらから、この名刺の新会社の方にご連絡をさせていただきますよ。」と、さり気無く、当り障りなく、丁重に断られた。

「えぇ、まだ電話番もいないので、私の携帯にまで、直接ご連絡をいただければ幸いです。」と機嫌よく返事をしてはみたが、黒岩は、会社に固定電話も無いのかよ!といかにも言われた気がした。確かに、自分が手にしている会社の名刺には、会社の住所と自分の携帯番号だけしか記載してなかったので、会社紹介用のホームページのURLもFAX番号も電話番号も何一つ、そこには記載がなかった。

 これじゃ、いくら何でも、相手に信用されないよな、と黒岩は思った。それは、まるで国会議員の名刺のようであった。

 予め、次の営業先も予約していたので、矢継ぎ早に次を期待して、ほかの得意先を回ることにした。

 次に出向いた会社もやはり大手企業であり、以前の担当者からも、黒岩は、高くかってもらっていたので、何かしらの仕事くらいは、貰えるるだろうと安易に考えていたが、やはり返ってきたその返事は、さっきと同様にように、

「何かありましたら、改めて、こちらから連絡させてもらいます。」と丁重に断られ続けた。

 その後、手ごたえのありそうだった大手の会社を、片っ端から回ったが、いずれも、最初の挨拶だけは良かったが、いざ仕事の話しになると、途端に、態度は硬直して、いい返事をもらえることは、どこもなかった。

 懸命に米つきバッタのように、頭を下げて、懸命に会社周りをしたが、返事はいつも同じようであった。

 そんな日が、一ヶ月も二ヶ月も続いた。


 挙句の果て、あれだけ一杯ため込んでいた名刺も、行った先行った先に、エクセルで作った、得意先リストにチェックをいれて潰していったが、好感度欄は、全て期待度マークは×ばかりであった。

 少しは、△マークくらいあってもいいと思ったが、ほぼ結果は、壊滅的で全戦全敗と言ってもよかった。そのうち、黒岩は歩くのも疲れて、喫茶店でコーヒーを飲んで時間をつぶしたり、公園のベンチで、ただぼうっとする時間の方が、次第に多くなっていった。

 黒岩は思った。

 今までの得意先は、所詮、以前の大手広告代理店というブランドで、仕事をとってこれたが、今の丸腰の自分など、誰も相手にしていないことが、だんだん判ってきた。

 その姿は、まるで”鎧兜を脱いだ平家の落ち武者”そのものであった。

 黒岩は、明らかに自分に過信しすぎていた。今までの自分の実績を以てすれば、どこでも引手あまたになると、安易に期待していたが、結果はそれとは裏腹に、今までの仕事は、あくまでも”日プロの黒岩”であって、決して黒岩本人ではなかったという証のようなものでもあった。

 相手の対応は、表面上は、どこも温和ではあったが、いつも結果は、それを十分物語がたっていた。


 黒岩は、まさしく、落ち武者の亡霊のように、無気力に高層ビルの立ち並ぶオフィース街を彷徨い歩き続けた。

 もうすでに、街は、歳末とあって、どこの駅前も人で賑わっており、日本橋から銀座に抜ける、目抜き通りも、デパートの前では、大きなクリスマスツリーが、きれいに飾り付けられていて、賑やかそうにクリスマスソングが、どこからともなく流れてきていたが、その時の黒岩には、ただ煩わしい雑音にしか聞こえてこなく、その音はいつになく、あざといデパートの売り子の声のように、哀れにしか黒岩の耳に響いては来なかった。


 今まで、自信に満ち溢れていた自分が、急に哀れに思えてきた。じり貧の黒岩にとって、ここで何か手を打たねば、大変なことになってしまうと、急に危機感を募らせ始めていた。

 今まで、さんざん大手企業の体質に、文句ばかり云っていた自分が、いざ会社を離れてみれば、その大手の看板にしがみ付き、このありさまであり、黒岩は、会社という肩書の重さを今更ながらに痛感せざるを得なかった。

 実社会というものは、だてに政治家がいるわけでも、官僚がいるわけでもなく、大手企業が必死に頑張って、売り上げから政治献金を捻出して、政治家に政治献金をする。官僚を一生懸命接待に連れ出し、季節ごとに付け届けをして、媚びを売る。大企業が儲かれば、その分広告宣伝費も確保され、そうやって、大手広告代理店は仕事を受注できる。その半分を下請けの子会社に回して、世の中は成り立っていることを、今更ながらに、その巧妙な仕組みを黒岩は知ることとなった。


 公園のベンチで、毎日時間つぶしをする黒岩には、きっと今頃、前の会社の上司からは、

「黒岩は、だから甘いんだよ!世間を甘く見くびるんじゃないよ。何もわかってないくせに、いつまでも青いことばかり言ってるんじゃないよ。世の中を甘く見るんじゃないよ!」とでも言われていることだろうと、耳元で悪魔の囁きのように、他人の言うことが気になりだし、やがて自暴自棄に陥り、少々被害妄想気味にならざるを得なかった。

 今まで築き上げてきた実績も、何の役にも立たないことは、黒岩のかすかなプライドなど、木っ端みじんに切り裂くことなど、容易いことであった。

 このままで、惨敗するわけには行かない、何が何でも仕事を見つけて、仕事にありつかねばならないと、黒岩は必死に自分自身を奮起させた。

 もう、昔のコネやよしみで仕事にありつける訳じゃない。もうこうなったら、開き直って、当って砕けろの気持ちになっていた。

 変な、どうでもいいプライドを金繰り捨てて、一から出直そうと覚悟を決めた。黒岩に、その時には、敗者の美学は存在しなかった。

 ビジネスの世界は、食うか食われるかの修羅場とすると、黒岩独自の経営哲学がそこにはあった。勝者になることにのみ、生き残る道はないと黒岩は考えた。

 その日から、飛び込み営業しても何も成果がえれないと考え、一人しかいない事務所に引きこもり、誰とも会うこともなく、インスタントコーヒーをがぶ飲みしながら、沈黙を決め込んで、ひたすら部屋の電気もつけずに夜、夜中まで頭を捻った。

 結論は、独自に今まで誰もやっていない、新たなビジネスモデルを構築して、今までの旧態依然の業界の常識に捉われない、従来の経営の常識に対する挑戦状のようなものでもあった。

 接待や癒着が当たり前ではなく、世の中は、もっと新たに変わらねばならないと考えた。そのためには、数と力の世界からの脱却であり、新たな革新的なビジネススタイルを作り上げることだと考えた。いつか大企業を見返す時が、自分には来ると固く信じ、黒岩の中には、情念の炎が燃え上がった。

 彼は、デスクの上に無造作に重ねられた数百枚もあろう、うず高く積み上げられた名刺の一枚一枚を時間に任せて、狭いオフィースの床に所狭しと整然と並べ、足の踏み場もないくらいに、部屋の隅々にまで、その名刺を広げた。そして、それを何時間も睨み続けた。

 そしてついに、その何百枚もの並んだ企業の名刺の中に、あるヒントが隠されていることに気づいた。そこには、大きな違いにあった。名の知れた上位に並んでいる企業の名刺には、必ずと言っていいほど、ホームページのURLが記載されていたが、その部屋の片隅に並べられている名刺、いわゆる名もない会社には、そのホームページ自身が記載されてないことに気づいた。

 ここにこそ、商機があると黒岩は直感した。

 これからの時代、自社紹介するためには、ホームページが必須であり、まだその頃ホームページを持っている企業は、大手と呼ばれる企業だけで、中小零細企業は、会社を回していくのがやっとで、独自にホームページを作成していくだけの能力も資金もないのではないかと考えた。いままで、黒岩のいた日プロには、それ専門の広報室というものがあり、そこの専任者は、一日中それに専念することができたが、零細企業の社長は、いつも自らが作業服を着て、油まみれになりながら、作業に専念し、そして金策で銀行に行く時にだけ、社長はスーツに着替える会社に、ホームページに専念できる余力などあるはずがないと考えた。

 今、大企業でしか持つことを許されなかったホームページも、いずれそれは、山麓をくだり下りる紅葉のように、小さな企業でもどこでも、ホームページくらいないとバカにされる時代が、必ずやって来ると確信した。今までの経験からすれば、ホームページを作ることくらい、大したことではないと、黒岩は思ったはいたが、実際にそれを業務として請け負うことなど考えてもいなく、これこそが、黒岩の再出発の原点だと確信した。

 それは、癒着体質に染まった政治と大企業の常識からすれば、ほんの些細な出来事であっても、黒岩の新会社にとっては、ビックチャンスだと黒岩は確信した。

 早速、作ったばかりの自社のフォレックスのホームページに”自社ホームページ作成請け負います、格安で”と唱って、SNSに投稿した。

 黒岩の読みは的中して、早速、自社ではなかなかホームページを持つことが出来ない、と諦めていた小さな町工場から問い合わせが舞い込んできた。

 それは、全精力で自社開発した新商品を、より広く世の中に知って欲しい、というものであった。

 前にいた会社であれば、担当者の段階で、そんな名もない会社のそんな内容を聞く前に、電話をぶち切りされるほど、期待できるものではなかっただろうが、黒岩にしてみれば、会社創設以来、初めての記念すべき顧客であり、その依頼は、黒岩の目には女神さまに見えていた。

 彼は、こと商品のプロモーションにかけては、その道では人よりも自信があり、時間を掛けてウェブデザインに凝って、丁寧に綺麗なサイトを作成した。そして、努力の甲斐あって、クライアントからは値段の割に高いレベルの出来栄えに、好評価を得ることが出来た。

 黒岩は、初めて手がけた業務を納め終えて、貰える金額はしれてはいたが、その成果品の評価は、金額以上に、これでいけるぞと確信するには、十分であった。

 この前までは、黒岩自身、少々自信喪失になっていて、何をやってもダメで、この業界では、自分は無理かもと思い、このままいけば、どこまで転がり落ちるんだろうと、不安が募るばかりだったが、今度は、確実に行けると手ごたえを感じていた。

 また一つ、また一つと、以前の日プロ時代であれば、馬鹿らしいほどの小さな金額の仕事であったが、その時の黒岩にとっては、一個一個が、宝のようなものであり、最高に価値のある業務であり、大田区の町工場であろうが、地方の田舎の零細企業であろうとも、どれも大切なお客様であった。そして業務の金額は小さいが、確実に問い合わせの件数だけは増えていった。


 黒岩は、寝ずに作業にあたったが、それは当時の彼にとっては、何の苦にも感じはしなかった。公園のベンチで、日長時間を潰していることを考えれば、それどころか、仕事をして相手に喜んでもらえるということ自体が面白くて仕方なかった。

 徐々に利益は薄いながらも、自分一人でやって行くには、経費が自分の労力だけであり、家賃を差し引いても売り上げのほとんどが手元に残った。

 以前いた会社の場合、よく上司から言われていたのが、最低でも、粗利は60%以上でなければならないと、どの案件でも言われ続けていた。それは、実質作業に携わる人間の給与を差し引いた後の利益のことであり、いかに、この会社には、働かない多くの人を食わせているのかと、いつも黒岩は、疑問に思っていた。実際に、社長をはじめ何人もいる役員の報酬、株主配当、政治資金、オフィースビルのテナント料等、どうでもいいような経費が、製作原価よりも数段多いとはと、当時から常々感じてはいた。

 それからすると、今は働いた分だけそっくり自分の懐に入るのだから、いくら寝ずに働いても、苦に感じるはずはなかった。


 やがて、少し会社の中にも、内部留保できるお金ができるようになっていて、設立の初年度こそ、最終利益は赤字であったが、翌年の会計年度第二期目には、相当の法人税を収める程になっていた。それは、決して売上金額がたいして多くなくても、その割に控除されるべき必要経費も殆どなかった為でもあった。黒岩は、ただただ国税ばかり収めていても、もったいないと思い、事務所を少し広めのところに移転し、自宅も便のいい事務所近くの古い1LDKの賃貸マンションに引っ越すことを考えていた。

 その頃、黒岩には大きな願望が芽生えていた。

 それは、少し仕事にメドが着いたら、奥能登で働く彼女を呼び寄せて、結婚したいと密かに夢を抱いていた。それまで会社退職後、自分一人暮らして行くのが精一杯で、それ以外のことを考える余裕もなかったが、そんな仕事に埋没する日々に、一抹の寂しさを感じてもいた。しかし、本音でいうと、彼女との結婚生活は、きっと今の自分の仕事の張り合いになるものと思っていた。それは、いわゆる恋愛という感情よりも先に、経営上の合理的な打算というほうが、正しいかももしれなかった。結婚=事業拡大の一環のようなものだと考えていた。実に冷血な発想である。大切な人を思う気持ちよりも、利益が優先していたのであるから。

 さすがに初めて、彼女に会った時には、決してそういう思惑は持っていなく、純粋に、ただただどぎつい化粧で美人を装う都会の女性よりも、素朴な彼女のほうが、輝いて素敵に思えていたし、その素朴さのほかに、純粋で真摯に人生を見つめている女性に心惹かれていたのもたしかであった。しかし、いざ結婚の決断に至ったのは、そうではなかった。そうはいっても、黒岩は、その後もたまに、彼女と手紙ではやり取りはしていたが、いつも、例のように甘い恋心をくすぐるような文面ではなく、ただただ仕事のことばかり書き並べるだけであったが。


 その夜、黒岩は久しぶりに彼女の携帯に電話をかけてみることにした。

「もしもし、ご無沙汰しています、黒岩です。祥子さんはその後お変りありませんか?」と、

「お久しぶりですね。いつもお手紙ありがとうございます。毎回楽しく拝読させていただいておりましたが、もう少しあの手紙どうにかなりませんか。いつも、ロマンチックな話題が一向に出てこないんで、この人、どうにかしてるのかと心配しておりました。あれじゃ、都会の女性じゃ、誰も興味を抱かないんじゃないでしょうか。でも私って、少し変わってるせいか、奥能登に娯楽がないせいか、あんなのでも、楽しく読ませてもらってますけどね。あっぁ、いけない。あんなのってごっめん、ごめんなさい。でも相変わらず、お忙しそうで大変ですね、でも何よりです。新会社のほうは、その後いかがですか。大企業辞めて、独立されて凄いですよね。見かけによらず、凄い勇気ですよね。でも久しぶりに声が聞けて、それだけで十分嬉しいです、二年ぶりですものね、電話してくれたのって。」彼女は懐かしそうに話した。

「手厳しいですよね、相変わらず。祥子さんは近々横浜に戻ってこられる予定はないんですか?」

「え~っと、今度戻るのは、どうやら年末になりそうですね。帰るのに旅費もかかるしね。」

「そしたら横浜に来る予定が決まったら、是非連絡くださいよ、デートしたいんですよ。今度こそ一緒に食事でもしましょうよ。それに、春になったら、山にでもいっしょに出かけてみませんか、前回の電話で、自然が大好きって言ってましたよね。」と思いを決して、断られる覚悟で黒岩はデートを申し込んだ。

「本当ですか、嬉しいです、是非とも。横浜だったら、いろんなところご案内できますよ。でも私、学生時代、膝の半月板を痛めたので、厳しい山は、無理ですよ。ゆっくりとお花を見に行くならいいけどね。私お花が見るのが好きなだけで、危ないところは、苦手ですけど、大丈夫かしら?黒岩さん、お時間は大丈夫なんですか?」

「その日は、最優先に空けるようにするので、いつでもOKです。それに祥子さんと一緒なら、どこに行っても楽しいはずですから。連絡を楽しみに待ってますね。」と言って黒岩は電話を切った。

 やれやれうまくいった、と黒岩は肩を撫でおろした。そして年末までしばらくは、黒岩は浮かれて仕事が手につかなかった。そして黒岩は結婚に備えて、次に少し事業の拡大と多角化を考えていた。一人暮らしでぼつぼつやっているだけなら、これもまた気楽なもんだが、いざ結婚するとなると話は別で、今のままではいくら何でも身体がもたないし、収入が不安定だと思っていた。それにもしも結婚するとなるともっと多くの収入を確保するためにも、もう少し仕事を見直さなければならないとも思っていた。

 ある日、黒岩は元いた日プロの後輩に連絡をしてみることにした。

「久しぶりだなぁ、葛本君。その後あのプロジェクトは順調に仕上がったかなぁ?そんなこと合わせて一度一緒に一杯やりたいんだが、つきあってくれないかな?」と葛本に言うと、

「いいですとも、先輩の話しも僕も久しぶりに聞きたいですからね。それにあの伝説の映画俳優にお会いしたいですからね。えへ・・」

「まだ、そんなことを言ってるやつがいるのかよ、参ったなぁ。では明日の夜は時間あいてるか?」と黒岩が言うと

「先輩の驕りなら何時でも大丈夫ですよ。」

 その夜、黒岩は後輩の葛本に

「お前、会社を辞めて、うちの会社を手伝ってくれないか」と葛本に新会社に来るように誘った。

「人間、到る所に青山あり、葛本君一度人生を掛けてみないか、うちで。まだまだ小さな会社だけど、やりがいだけは、大企業には絶対負けないと思う。どうかなぁ、うちに来てくれないかなぁ。最初、給料は今までよりも安くなるかもしれないが、伸びしろだけは、十分あると思う。きっと君に後悔はさせないようにするから考えてみてくれないか。今すぐ答えをくれとは言わないので、その気になったら連絡くれよ」と云って後輩を口説いた。その頃黒岩には、まだまだ会社を伸ばしていける自信があった。

 数日後、彼から黒岩に連絡が入った。

「先輩、先日のお話ですが、是非よろしくお願いします。人生を掛けてみようと思って決心しました。頑張りますのでよろお願いします。それに私も旧帝大の卒業生じゃないんで、今の会社じゃどうせ先が見えてます。先輩のところで頑張らせてください。」と意気揚々に電話越しに彼の意気込みを感じ取れた。

 黒岩は今までの一人会社じゃなく、従業員を養う義務を考えると重圧も感じていた。しかしそのプレッシャーは彼をより一層仕事に邁進させる原動力にもなった。その原動力は、大手企業には出来ない新分野の開拓だと密かに考えていた。

 以前いたような大手の会社の場合は大きな利益を生む大型案件にしか興味は示さなく、利益の薄い仕事は請けようともしなかった。たとえ請けたとしても、他の業務のお付き合い程度に考えられており、軽くあしらわれていた。

 大きな案件は、それは華々しいものであったが、その代わりに、常にクライアントの意向と予算に振り回され、こっちがどんなに真剣に仕事に向かっても、たとえ広報部がいいといっても、上層部で合意がとれないとか、社長が「うん」と云わないとか、自分たちの思いをそのまま反映させることは少なかったが、クライアントが中小零細の会社の場合、自分たちのアイデアと意向を素直に受け入れてくれるところがあり、そういう意味で仕事に対して、やり甲斐を感じていた。限られた予算内で熟さなければならず、確かに利益は薄く、一人でやっているときのような気楽には構えてはいられなかったが、そこにこそ活路があると睨んでいた。

 黒岩は、そのお互い中小零細企業だからこそ、困っていることを常に模索し続けた。社内に専門部署をもつことの出来ない会社の場合、凄く高い商品開発力があったとしても、それを如何に世に広く知らしめて販売にこぎつけるかは別物であり、そこで黒岩の考えたのは単にホームページの作成業務に限定するのではなく、総合的に商品の販売促進のアドバイザーになることであった。そうすることで一連の業務を請け負うことになり、売り上げに合わせて成功報酬型の契約であれば、それはそれで余計にやり甲斐を感じれることになると考えた。

 今まで商品プロモーションに掛けては、日プロ時代さんざん鍛えられていたので、それはお手の物であった。その総合アドバイジング業務という形態は、今までにあまり手がけているところが少なく、そのマーケットはお予想以上に大きかった。黒岩が最初会社設立当初ターゲットとしていた大手企業は、その会社の世間体でまず評価され、会社の規模や従業員数、資本金、実績等を最重視するところがあったが、零細会社の場合、社歴にこだわることなど殆どなく、お互いベンチャー企業のようなもので、実力本位で勝負することが出来た。ホームページの作成だけを請け負うことだけでは、あまり利益が生まれてこなく、寝るのも惜しんで作成に励んだが、さすがに従業員に寝ないでそれをやれとは言えなかったので、そういう意味で販売促進の総合アドバイジングは、それに従事するものにとっても大きな励みとなり、そのこと自体が各スタッフのモチベーションを向上させ、自らが会社を引っ張っていくという自主性を生み出し、その分野は順調に成長していった。

 やがて、企業の成長に伴って、人手も足りなくなり、その後、大学の新卒者も採用したが、新卒者ではどうしても即戦力に欠けるところがあり、となると他社から強引に引っこ抜くことが手っ取り早く、葛本の大学時代の友人とか、彼の伝手を使って戦力を増強して、黒岩は業務を拡張していった。設立して四年が経つ頃には、従業員の数も15名を超えるようになり、黒岩自身はもっぱら、通常のオペレーション業務から新規事業の起案することに没頭していた。従業員が増えた分、またもオフィスを引っ越して、六本木ヒルズの最上階にオフィスを構えることになった。その事務所移転は、決して最上階である必要はなかったが、黒岩にとっては、最上階にこだわる理由があった。それこそが、前辞めた会社を見下す象徴だったのである。

 その頃黒岩は、これでようやく前に退職した会社を少しでも見返すことが出来き、以前の常務と部長の鼻を明かせることだという、勝ち誇った勝者の優越感ようなにものに浸れたのであった。しかしその感覚が、奢れるものには気づかぬ幻想にすぎなかった。その愚かさこそが、その後の黒岩の生き方と運命に大きな影響を与えることとなるとは、露ほども考えることはなかった。




     誇りとひたむきな努力


 ある会社から、黒岩のところに業務の依頼があった。それは国際特許まで取得したという最先端技術のエンジン部品であった。依頼人は大田区にある小さな町工場であったが、技術力は十分世界を相手にできる力を持っていた。

 黒岩は、あまり自動車部品それもエンジンのパーツなど、殆ど知識を持ち合わせてはおらず、そのパーツに秘めた特殊技術と言われても何が凄いのか社長から直接聞いてみても、専門的な用語が多すぎて、さっぱり理解することが出来なかった。その技術の凄さは理解できなかったが、社長のその手に持っている小さな部品に込める彼の熱き情熱は、肌で直に感じ取れた。

 そこで、あまり自分で、見てみても判らないとは思ったが、とりあえず、現場を見学させえもらうことになった。

 その町工場は、社長をはじめ従業員一同、皆その道に関してはどこにも負けな職人気質であった。油まみれの作業服姿と目の輝きを見ると、その職人としてのプライドの高さは、何を云わなくともすぐに感じ取れた。

 黒岩が何も質問する前に、社長自ら、商品説明のほかに、工場の経営状況、得意先の減少、資金繰りの行き詰り具合まであれこれと、聞きもしないことまで黒岩に話してくれた。黒岩は、これは、単に商品の中途半端な販売促進のお手伝いというよりも、結果的には、経営相談を受ける羽目になってしまった。

 どんなに高い技術があったとしても、話を持って行った、大手メーカーはなかなか取り入ってくれず、世界を相手にするといっても、外国企業はより一層ハードルは高かった。その社長のものを作る情熱は、半端ではなかったが、作ることに専念しても、それを売ることは、まるで眼中になく、新商品を生み出すことだけが、唯一の楽しみであった。ただでも頑固そうな風貌は、常に相手に対して、威圧的であり、気に入らぬ相手には、頭を下げることすらせず、ましてや媚びを売ることなど毛頭できるタイプではなかった。最初黒岩が名刺を交わした時にも、厳めしい顔つきであったが、一旦、自分の商品のこととなると、我が子を自慢するかのように、和やかな顔つきに代わり、饒舌に言葉が立て板に水の如く説明は止むことはなく、その時の顔はさっきまでとは打って変わって、あどけなく、無邪気にも思えた。

 黒岩は思った、自分の拙い知識を振りかざして、知ったかぶりして、その商品の性能の凄さを表現できるものではないことを。単にCMを打てばいいというものではないということは、すぐに今までの経験で分かった。

「社長さん、しばらく私どもにお時間を頂戴できないでしょうか、絶対にこの素晴らしい商品が世に評価されるように頑張らしてもらいます。」と根拠もないのに、黒岩は社長に向かって大見えを切った。

「そりゃ、有難い。黒岩さんにお願いしたということは、天の思し召しみたいなもんです。頼りにしています、なにとぞよろしくお願いいたします。」と最初の印象とはまるで別人のような低姿勢な様子で、大舟にでも乗ったような晴れ晴れした様子であった。

 その後、黒岩は帰りすがら、「あの場の雰囲気に呑まれて、ついあんな調子のいいこと言ってしまったが、果たしてどうすりゃいいんだ。」と後悔していた。会社に返って、葛本にそのこと相談した。

「葛本君、君ならどう思う今回の案件?」

「無茶ぶりしないでくださいよ、俺だって自動車の人気車種ならともかく、訳の分からないエンジン部品をどう思うといわれても、言いようがないじゃないですか、いい返事したのは、社長でしょ。俺に振られても見当が着きませんよ。」と軽くあしらわれた。

 黒岩は当然そうだと思った、自分自身思案にくれていたことを、後輩に突きつけてみても、明確な答えが返ってくるはずがなかった。そのことは云っている自分が一番よくわかっていた。今まで熟してきた仕事は、ある一定のパターン化されたものがあり、たとえ商品やターゲットが変わっても、その対応の仕方にはそれなりの法則めいたものがあり、それに沿っていけば、大抵どうにかなるものだとたかをくくっていたが、今回の新商品のしかも訳の分からない部品に関しては、そう言う訳に行かないことは最初から察知できた。その特殊部品の優位性もあまり理解できていないし、第一それが誰をターゲットにどのような手法を取ると成果が出るのか、まるで見当が着かなかった。

 黒岩はその頃、会社四季報や経済ジャーナル、日経新聞など経済関連の書物には常に目を通すことにしていたが、これに関する情報なんか見つかるはずもなかったし、そのことに関連するヒントすら見つからなかった。

 黒岩なりに、未知の領域のことであり、一からの知識の積み上げであった。まずその会社には、高い特殊技能はあるかもしれないが、肝心の”お金がない”ということ、それはどうしようもない最重要懸念材料であり、先立つものがなければ、それがどんなに素晴らしい技術であろうが、宝の持ち腐れであり、あの小さな薄汚れた町工場の片隅に、後生大事に神棚に飾っておいても、ホコリを被るだけのことは見えていた。

 今までの業務は、少ないながらも限られた予算の中で、何とかすればいいというものであったが、今回の案件は、たとえ百歩譲って、多額の宣伝広告費用が確保出来たとしても、その商品が売れることに結びつくとは思えなかった。しかし、あの強面の社長が、無邪気そうに話すあの姿を思い出すと、自分の会社の損得をどがえししてでも、何とかしてあげたいという思いに黒岩は駆られていた。

 まず最初に、黒岩の思いついた提案が、知的所有権を売却することであり、その引き受け手を探すことであった。

 自分には、その製品の価値は判らないが、判る人に紹介すれば、きっと引き受けてくれる企業があるはずだと思った。そのことを町工場の社長に提案すると、即座に意外な答えが返ってきた。

「黒岩さん、悪いけど特許を売るつもりなど、まるっきりない。私は、モノづくりがしたいんじゃ。権利だけを売ってまで、金儲けしようとは思わない。悪いがとっとと帰ってくれ。」とけんもほろろに黒岩の提案は突っ返された。

 黒岩は、特許を売れば、ある程度のお金がすぐに、手にできるはずと思ったが、その安易な発想は、町工場の社長にしてみると、それは、実に屈辱的で、人を愚弄するものであり、そういうものではないようであった。社長にしてみると、可愛い我が子を金に困って、どこかの見知らぬ国のように、人身売買で子を手放すようなものであった。

 次に黒岩が考えたのは、スポンサーを見つけることであった。しかし、国内の自動車メーカーをいくつも歩いてみたが、殆ど興味こそ持ってくれたが、どこも商談が成立するには至らなかった。その後心当たりの会社にも話しを持ちかけていたが、実績のない話には乗ってくれるところなどなかった。そして昔のなじみにしていた個人投資家にも提案したが、どこもかしこも走行試験データが欲しいとか、エビデンスデータを見てからだと口を揃えて最後にはいい返事は貰えなかった。日本はお役所をはじめとして、どこもかしこも実績主義が定番であった。

 そこで彼は昔の友人がファンドマネージャーをしていたことを思い出して、その彼を居酒屋に呼び出した。

 静かな料亭ではなかったが、あまり他人に聞かれたくもなかったので、個室のある居酒屋を選んだ。そして一杯呑みながら、そのことを相談してみたら、すると技術の良し悪しは彼にも判らなかったが、外資系の投資ファンドなら、その技術専門チームが話しを聞いてくれるかもしれないから、その彼なら紹介することができると言ってくれた。

 僅かな可能性を期待して、数日後黒岩は、それはアメリカに本社のある投資ファンド”ゴールドマンサクソン社”の日本支社であった。でその話を持ちかけると、早速強い興味を示してくれて、是非詳細を知りたいと話しに乗ってくれた。外資系ファンドの場合、CEOのほかにCTOつまり最高技術責任者という技術面の専任者がいて、その彼が技術的な見地でその価値を判断することになっていた。外資系ファンドは取り扱う額も大きいが、ハイリスク・ハイリターンの案件の方が好みのようで、案件のうち3つに1つ当れば、それで十分なのだそうだった。彼らは黒岩の口から、その商品の優位性を説明しろと言われたが、黒岩には、それを説明できるものでもなく、翌日、彼をその町工場に連れていくことにした。そして、その技術の詳細を直接、町工場の社長に説明してもらうことになった。黒岩は、最初あまりに小汚い工場だったので、黒岩はその会社を訪問することを躊躇していたが、しかしどこかの喫茶店で、話しをするよりも、汚くとも生産現場のほうが説得力があると思い、その町工場に思い切って彼を連れていった。そこは、古びた小さな応接セットで、座面には、破けたところにガムテープで補修してあるような、見すぼらしいソファーに、CTOを座らせて、社長から直接ヒヤリングを受けることになった。彼は、しかしその工場の綺麗さとか、大きさなどまるで気にする様子もなく、一定の説明が終わると、その技術責任者が突然唸った。

「It.Great!」

 黒岩には、彼の行動が、いまいちよく判らなかったが、彼の様子を見る限り、相当強くその商品を称賛しているであろうことは判った。彼は早々に是非現場を見せて欲しいというので、油まみれの旋盤機や研磨機を見て回った。そのあと日本支社に彼と一緒に戻ると、その後別室で何人かの他のメンバーとショートミーティングしたらしく、即決で200万ドルを初回投資したいと二つ返事で言ってきた。その後事業化に向けて再投資してもいいということであった。確かに彼らにしてみれば、ハイリスクのように見えても相当の利益回収を見込んでのことであろう、黒岩が何をお願いしたわけでもないのに、大乗り気であった。とんとん拍子で話しが進み、町工場の社長にその話をその足で勇んでその旨を伝えにその町工場に向かった。

「黒岩さん本当かね、彼ら、わしの会社乗っ取るというわけじゃないんだろうね。それでも構わんけどね、わしは仕事さえできるんならば、何でも構わんけどね。」と社長は歓んだ。

「いや、決してそんなことはありません。彼らの判断で、この商品の将来性とリターンを期待して、その額の投資が妥当と独自に判断して決断したようですよ。社長さん、安心してください。彼らだって、見込みのない技術にみすみすリスクを負うようなことはしませんよ、いくらなんだって。」と黒岩が云うと

「有難いやそりゃ、そんないい話が聞かせてもらえるなんて、思ってもおらんかったよ、黒岩さんは大したもんじゃ。恩にきるよ。この恩返しは必ず、いつかさせてもらいますよ。」と深々と社長は頭を下げられた。黒岩もはっきり言って、こんなに順調に話すが進むなんて、想像もしていなかったので、お礼を言われても、かえって困ると思た。

 帰り際、その社長がいつまでも深々とお辞儀して、黒岩の姿が見えなくなるまで見送ってくれていたので、なんだか黒岩のほうが恐縮するくらいであった。

 黒岩はその一件が、ようやくけりが付いてほっとしていた。

 そしてかれこれ、半年が過ぎたころであろうか、町工場の社長から連絡が入った。

「黒岩さん、あれから彼らのお金で試作機を作ることが出来ました。急いて日本工業技術試験場に持ち込んで、各種の性能試験を依頼したところ、何とエンジン出力が、驚くほど向上していて、同量の燃料で、他のエンジンと比較しても数段出力の高さが証明されました。ようやく実用化のメドが着きました。助かりました。例のファンドの担当者にもこのことを黒岩さんの方から伝えてもらえないでしょうか。」と少々浮かれ気味に社長から連絡が入った。

 そして翌日には、黒岩の会社の口座には、当初の契約の3%分600万円が振り込まれていた。

 その頃黒岩は会社の本業であるウェブ関連の作業は、殆ど葛本をリーダーとしたスタッフに任せっきりになっており、自分自身がパソコンに向かうことは、殆どなくなっていた。

 そしてその社長の報告を受けて、ファンド会社の担当者に連絡を入れた。

「日本工業技術試験場の検査結果が出て、予想以上の高出力エンジンが出来たと社長から連絡が来ました。性能試験結果は、このお持ちしたエビデンスでいよいよ実用化に向けてスタートをきることが出来そうです。今後どのような方向性で事業展開を考えていけばいいでしょうか?」と伝えると、

「それはよかった、期待通りだ、すばらしい。早速CFOと協議して、今後の対策を練ることにしましょう。」と担当者は喜んでくれた。

 数日後、ファンドの担当者から連絡が入り、すぐに会社に来てくれとのことであった。

 黒岩は何事が起こったのかと内心不安を抱きながら、その会社のオフィースに訪問すると、受付の女性が応接室に案内してくれた。いかにも高級そうなソファーが並べられており、窓の外から見える景色も東京を一望できる素晴らしい部屋であった。それは町工場のガムテープで補修したソファーとは大違いであった。

「Mr黒岩、社内で幾つか動いてみたところ、イタリアの大手自動車メーカーから新型エンジンのオファーが入りました。独占契約を結びたいとのことのようです。工場の社長はどういいますかね。」とCFOの彼から尋ねられた。しかし黒岩にはイタリアといえば、フェラーリとかランボルギーニ、アルファロメオとかの高級車の名前しか頭に浮かんでこなかった。しかしどこであれ、大型案件であることには間違いはなさそうであると確信した。

「早速、町工場の社長にそのことを伝えてみることにします。彼もきっと喜んで、そのオファーを受入れると思いますので、期待しておいてください、結果は決まり次第、すぐにこちらからご連絡を差し上げます。」と言って、黒岩はその会社を後にして、そのまま町工場に向かって、その旨を社長に伝えることにした。

 社長のほうも、勿論まるで夢を見ているようだと大はしゃぎして、二つ返事で了承してくれ、イタリアの某メーカーと独占契約を結ぶ運びとなった。契約金は何と1000万ドルであり、商品の契約単価は工場の社長の言い値でいいとのことであった。黒岩は結果的には、廃業寸前の小さな町工場を救った救世主となることとなった。そしてやはり、その契約金の3%が後日会社の口座に振り込まれてきた。


 黒岩はいつしか、パソコンで地道に作業をすることには、目を向けることはなくなり、部下にそのほとんどを任せっきりになっていた。

 黒岩は社長として、ある程度溜まった会社の内部留保金をいかに運用に回して、利回りを稼ぐかということに、頭の殆どを使うようになっていた。株式投資、不動産投資、先物取引ありとあらゆる金融商品に手を出し始めていた。

 それは、社長として、自分なりの自分自身を納得させる理由は、会社経営としてリスクヘッジのためと自分に言い聞かせていたが、その時には自分で気づかぬうちに、自分の内に秘めた、欲望に火が付いたようであり、欲は、さらなる欲を駆り立てていったのであった。 

 額に汗することなく、金を転がしていく間に、それは倍々にと膨らんで行くことに、言い知れぬ快感を覚え始めていた。時代も政府の金融緩和策で、日銀は市場に大量の資金を注ぎ込むようになっていた。金は市場にだぶつき、その資金が不動産投資と株式市場に流れ込んでいった。いわゆるバブル経済の始まりであった。

 既に銀座四丁目の土地の価格は、名刺一枚分で北海道の牧場が一つ買えるほどに狂気的な値上がり続けていた。

 黒岩はその頃、もっぱら朝のルーティーンは、日経新聞で各種銘柄の株価の変動をチェックして、その値動きをパソコンに入力し、その数値をグラフ化していた。そして主な株式指標である日経平均株価、日経平均先物取引、ジャスダック、TOPIXなどあらゆる関連記事を全てチェックするのが日課となっていた。そして有望銘柄をピックアップしては、株式を買い漁っていた。特にナスダックのベンチャー企業の値上がり幅は大きく、ハイリスクであったが、黒岩にとっては高利回りを狙うには、それはうってつけの銘柄であり、そこに狙いを定めていた。当時どの銘柄も総じて上昇傾向にあり、株価は面白いくらいに吊り上がり続けていた。そのため値上がり幅の大きい銘柄の方が、黒岩にとって魅力的に映っていたし、みすみす値動きの小さな銀行株や航空会社などの安定株には、眼もくれようとはしなかった。

 そして、次に黒岩が目につけていたのが、都内の地価高騰であった。特に山手線内の土地の価格上昇は尋常ではなかった。それは汐留の操車場跡地の再開発に端を発して、昔の香りを残していた旧市街地域では、八百屋や、魚屋といった街の商店、町工場、銭湯を中心の床屋、大衆食堂、演芸場は市民の憩いの場であったが、ヤクザまがいの脅迫を受けて、今まで古き良き江戸の時代から続いた老舗は、軒並み立ち退きが迫られ、それが地上げ屋の圧力に屈する形で、一軒また一軒と店仕舞いし、そこには、次々と大規模な高層ビルが建ちだし、周辺には大型店とマンションが並立する近未来型都市が、あちこちに出来始めていた。そのため、今まで細々と続けていた老舗の店舗は、上がり続ける地価と同時に路線価も上がり、ダイレクトに土地所有者の資産価値を揚げ、固定資産税、相続税も払いえなくなり、そこを手放さなければならない事態になる商店主が続出していた。


 黒岩も、当初それを遺憾にも感じてはいたが、土地神話と呼ばれた不動産投資となると話しは別で、少しぐらい利子を払ってでも、幸いにも、会社が連続3期黒字続きだったので、銀行からも容易に、その費用を借り入れを起こすことが出来たので、不動産ブローカーから紹介を受けては、土地を購入して、短期所有ですぐに地価が上がる度にそれを売り、そのうち、あらたな物件を不動産担保に差し出せば、少し金利が高くなっても銀行も面白い具合にお金を貸してくれた。

 そして転売を続けている間に、土地建物登記簿謄本は見ても、自分自身の所有する土地を見たこともないという物件ばかりになっていた。そのために一時所得が増えて、所得税も多くなったが、転売した差益を考えると、その額は恐れるに足りない金額でった。所有していた株式も順調に上昇を続け、土地資産を合わせると、自分自身でも細かな個人資産の総額を把握できずにいた。しかし上がる一方の資産が目減りするとは、その頃の黒岩には頭にまるでなかった。

 政府は景気が上向くことを良しとして、金融の引き締めを行うことはなく、貸付金利を上げることはなかった。逆に内閣支持率も景気動向に比例するように上昇し、後に行われた解散総選挙でも政権与党は大勝利をおさめた。

 その頃アメリカでは、FRB連邦準備銀行は、貸付金利を徐々に引き上げ始め、日本に投資し続けてきた海外投資家は、所有していた日本株を売り始め、利益確定のために手堅い自国のアメリカ国債や米ドル買いに走り始めていた。その頃都内の土地は地価が高過ぎて、いくら黒岩が少しばかり土地転がしで儲けたといっても、なかなか都内の一等地には手を出せる金額ではなくなり、知り合いの紹介で、不動産ブローカーに言わすと、大手デベロッパーが今一番力を入れて展開しているのが、リゾートマンションであるということであった。その頃、黒岩の回りには、その筋の人脈が広がっていて、うまい話しを持ちかけてくるブローカーと呼ばれる人種が、黒岩の周りにはいっぱいいた。次から次にいい話ばかり持ちかけられている間に、黒岩の頭は麻痺状態になっていた。そのブローカーの勧めでまだ比較的低価格で、今後大きな飛躍が期待される物件として、新潟の六日町にある建築中のリゾートマンションを購入することを勧められ、即決でその購入をきめた。近郊の物件からすると、数段安く手に入るので、折角だからとまだ出来上がってもいない物件を第一期分譲で3室を購入することとした。どの物件であろうと下がることは、まずない時代であったので、無理してでも購入しておくべきだと黒岩は考えて、銀行から新たな借り入れを起こしては、それを購入した。銀行に提出した試算表も貸借対照表で負債額に対し資産総額が大きく上回り、不動産を時価換算すると、何なりとその程度の額は銀行は低金利で貸してくれた。だから株式を売却すればそれで十分済んだのに、そうはせずに新規借り入れでそれを賄ったのだった。

 通常の神経であれば、これほどの大きな買い物をするときには、入念に現物を下見して、検討したうえで慎重に購入を決めるものであったが、その頃の黒岩にとっては、全てが金の成る木にしか見えておらず、紹介される案件は片っ端から興味を持った。

 今回の購入金額も安く購入した銘柄株が購入時の20倍にも株価が上昇していたので、その一部を売却すれば簡単に購入できたし、それに保有していた土地不動産も殆どが、一年もすると購入した金額の倍近くになるものも少なくなかった。はっきり言って、本人も自分の所有している有価証券、不動産等の時価総額で、いくらになっているのか、はっきり把握していなかったが、悪く見積っても、投資額の数倍以上にはなっていると概ねの試算はしていた。それはあくまでも実際にお金を手にした実感ではなく、あくまでも蜃気楼のように朧気(おぼろげ)なるものであった。

 そんな頃、或る日奥能登の彼女から、久しぶりに一通のメールが届いた。今度の連休に少しまとまった休みが取れたので横浜に帰ってくるというものであった。黒岩はすぐに彼女に返信して、横浜駅で再会することにした。

 そして黒岩は、横浜駅で彼女と待ち合わすことにした。

「ちょっと相談したいことがあるから、これから一緒に東京に行こうよ。」と久しぶりに彼女の顔を見るなり、唐突に彼女を東京に誘った。

「えぇ、東京なの?横浜でいいじゃない。横浜にも素敵なところもあるし、折角中華街で一緒に食事でもしようと思ってたのに。」と強引な黒岩の態度にいかにも不満げに彼女はぶつぶつと言い返した。

「食事なら東京でもできるよ、君に見てもらいたいところがあるんだ。是非一緒に見たいんだよ。」と半ば誘拐するかのように、彼女を強引に横浜駅の東海道線のホームに連れて行った。

「何を?教えてよ、ねぇ。東京のどこに行くの?」

「まずは行ったらわかるから、まず電車に乗ろう」と黒岩は強引に彼女を電車に乗せた。

「このマンションどう思う?今度一緒に僕と暮らすのに。子供が出来ても狭くないと思うんだけど。」と突然黒岩が発した予想もしていない言葉に、彼女はただただ驚くばかりで、リアクションが出来なかった。

「えぇ、それってなぁに?プロポーズのつもり、何なのそれって、私何もそんなこと聞いてないけど」

「何かおかしいかなぁ?いたってまじめに話しているつもりなんだけどなぁ。ところで君どう思う、この部屋?」黒岩の半ば強引な申し込みに彼女は、もうすでにその申し入れに返す言葉を見つけることが出来なかった。

「結婚したら、やっぱり子供は二人くらいは欲しいよね。」

 ということで、即決で汐留の高層タワーマンションの最上階3LDKの購入を決めた。


 汐留とは、かつて太平洋戦争末期に東京は大空襲で、一面の焼け野原になり、その首都東京の復興の為の大量の建築資材の輸送拠点として、国は巨大貨物列車ターミナルして、そこに汐留操車場は建設されたが、

 一時期、戦後の日本列島改造論、所得倍増計画で大量の物資の物流の中心になって活躍したが、当時の中曽根内閣の時の国鉄解体民営化で、貨物列車の操車場としての役目を終えることとなった。

 幾重にも重なるように張り巡らされたいくつもの線路は、旧国鉄時代の残された貴重な資産の鉄道の線路のレールが取り外されることにより、しばらくは放置されたものの都内の数少ない広大な荒れ地となった。

 旧国鉄は、トラック輸送に貨物輸送需要が持って行かれつつあったにも係わらず、当時の動労との労使交渉で寄り切られ、いずれ滅びゆく運命の貨物輸送部門のための操車場として、その後も現役ですたれゆく来ることのない貨物列車を待っていた時代よりも、寧ろ国の国鉄民営化法案が可決され民営化が実施されたことにより、皮肉にもその用地が不要となったことで、その土地は新たなる価値を生み出すこととなった。その新地に国土交通省が打ち出した都心再開発計画で、その土地は新しく超高層マンションが林立する街に変遷していったのであった。

 まさしく汐留操車場跡地は、国の施策と時代に翻弄されたいろんな意味の都内の一等地であった。


 建てられたばかりの超高層マンションの窓から見る景色は、遠くに東京湾とレインボーブリッジを望むことが出来、都心の一等地になった。その夜景は、まるでテレビのドラマでよく出てくる景色そのものであった。

 そして、黒岩はようやく一国一城の主になれた。黒岩は何か勝ち誇ったような気分に浸っていた。まだ正式に結婚のプロポーズもなければ、彼女から結婚の承諾もまともに得てもいないというのに、その頃の黒岩は株取引であろうと不動産売買であろうと、自分の直感一つで即決しており、この二人の新居も結婚もまた、その延長線上であったに過ぎない。

 そして、翌春には彼女は奥能登の役場を退職して、東京に引っ越してきて、黒岩は憧れのマイホームと家族を手に入れた気がしていた。

 そのマンションは、新しく引っ越した六本木のオフィスとも近く、地下鉄であればほんの2駅であったが、子供が出来たことを考えてといって、高級セダンを購入していて、彼はわざわざ会社まで自動車通勤をしていた。それは黒岩のいわゆるステイタスの表現の一つでもあり、必ずしも決して、必要に迫られての購入ではなかった。

 そしてそれは黒岩にとっては、勝者にだけ許される特権だと思ってもいた。自分は好きなモノは何でも手に入れることができると思っていた。折角上がり続ける株価を見ていると今、株を売却して、現金を手にすることよりも、上がり続ける株を持続けておいたほうがずっと得だと思っていたので、新たな銘柄を買うとき以外は、株を手放すことは殆どなかった。会社の業績も決して悪くはなく、いつしか三十名に増えた従業員にも、結構なボーナスを支給することが出来ていたので、あまり会社の本業に口を挟むことはしなかった。黒岩の経営哲学では、むしろ従業員皆が自由裁量で仕事をしてもらいたいとも思っていたので、いちいち、社長が口を挟むよりもむしろそっちのほうが、各従業員のポテンシャルが上がると思ってもいた。というよりも黒岩にとっては自分が利益の薄い仕事に手を染めて専念していて小銭を稼ぐことよりも、高利回りの投資案件を見極めることの方が、ずっと自分の能力を発揮できる場だと思っていたので、その頃自分の持ち得る全精力を投資に傾けていた。そして上がり続ける資産を計算することが一番の楽しみになっていた。

 その数年後には、黒岩一家にも二人の子宝に恵まれていたが、しかし黒岩は家族を顧みず、得意先との接待ゴルフ、夜は銀座のクラブに入り浸り、そんな暮らしに明け暮れていたので、休日の度にゴルフに行き、以前のように仕事に明け暮れていたわけではなかったが、休日も殆ど家にいることはなかった。夜、帰宅するのも家族がみな寝静まったころで、そっと寝室にもぐりこむように帰宅した。家族でありながら家族と一緒にご飯を食べるとか、一緒に行楽に出かけるということは殆どなかった。長男も何時しか少年野球クラブに入り、友達の両親は試合毎に応援に駆けつけていたが、妻からいくら子供の試合観戦に、

「お父さん、一度くらい拓ちゃんの野球の試合くらい、観に行ってあげてよ。」と誘われても黒岩は、

「今度の日曜日は都合があるから、次回には何とか時間を作るようにするからごめん。」

 下の娘が習い始めたピアノの発表会でも、

「あの子、ピアノが上手になったのよ。是非今度の発表会には、一緒に聴きに行ってあげようよ。」とせがまれても、いつも休日は接待ゴルフに明け暮れるそんな暮らしを続けていた。

 しかしその頃の黒岩の思いの中には、

「お金さえ稼げば、家族皆が幸せな暮らしが送れる。」

「金がなければ、子供をピアノのお稽古にも、野球のユニホームもグローブも買ってあげられないんだ。」と女房に言い訳して、金がなければ何にもできなんだと自分に言い聞かせて、そのことに、罪悪感を感じることはなかった。


 さすがの黒岩にもお金で幸福が買えるとまでは思ってはいなかったが、お金さえあれば家族みんなが楽しく幸せになれるんだと黒岩は信じていた。

 都会の暮らしで得れるものは、確かに多い。お金さえあれば、何でも好きなモノを手に入ることができた。

 しかしそこで得れるもの以上に、失うものはそれよりも計り知れない程に大きいということを、その頃の黒岩はまるで気づくことはなかった。

 子供達には罪滅ぼしのつもりで、毎年クリスマスには、子供の好きなものをプレゼントしてあげていた。テレビゲームにオフロード自転車、娘には卓上ピアノに可愛いドレスまでいつも高価なプレゼントをして、子供たちの機嫌を取っていた。そして奥さんにも、

「今度家族みんなで夏休みになったら、ハワイにでも行こうよ。」と黒岩は口癖のように奥さんに言っていた。

「老後は、二人でイギリス旅行に出かけて、お前の好きなイングリッシュガーデン巡りでもしたいもんだね。」と奥さんに自分の夢を語っていた。そして本当にそうしたいとも思ってもいた。

 彼はその後、人として最も失ってはならない大切なものを失うこととなるとは考えてもいなかった。





    第二章 彷徨の日々


     砂上の楼閣の如し


 その頃政府は異常な土地価格の高騰を抑制するため、日銀は市場に出回る通貨の総量規制を行った。その成果として、不動産価格は一定のところで高止まりすることになり、今まで天井知らずの土地価格の上昇も収まることとなった。

 しかし、個人消費は相も変わらず、堅調に推移しており、株価も全銘柄が以前のように急上昇することこそなかったが、一進一退の攻防を繰り返していた。黒岩にとっては、さほどの変化もなく、平穏な景気動向に不安を抱くことはなかった。しかしこれ以上調子に乗って、積極的に投資していても高配当は期待できないことは内心察知していた。

 そして海外では貸付金利をまたも利上げに踏み切る動きがあると伝えられていた。だから海外投資家はより一層、円売りドル買い傾向が加速し始めていた。それを受けて、円安ドル高の為替レートは、じわじわと株価にも影響を与え始めていた。

 ある朝の出来事であった。黒岩はいつものように朝のテレビニュースを見ながら、トーストをかじっていると、

「ニューヨーク市場が混乱しています。マンハッタンのブロードウェイには、大勢の人が詰めかけ、その騒動は収まる気配がありません。」とただそれだけが黒岩の耳に入ってきた。朝食を取りながらであったので、余りテレビを凝視していたわけでもなかったので、頭は朝刊の記事に集中していたので、よくはテレビの声を聞き取れずにいた。黒岩はその出来事をその時は軽く聞き流した。その時はアメリカで地震でもあったのかなぁ、と思ったくらいであった。その朝の朝刊に目を通してもこれといった危機感を煽るような記事はどこにも見当たらなかったので、いつものように軽く食後のコーヒーを飲んで、出かける支度をしていた。そして会社に出社して、部下と今後の展望についての打ち合わせを行っていた。今までひっきりなしに注文が入っていた新商品のプロモーションの案件が、最近一時のような勢いはなく、伸び悩んでいて、新たな事業展開を検討する時期に入っているという意見がチームリーダーから出されていた。しかし、黒岩には急に仕事がなくなるわけでもなく、新規事業と言っても、他社もいろんな分野で追従が厳しくなっていて、過当競争になっているなかで、今までの業務の利幅も以前よりも低下し、案件数で勝負していかないと利益が確保出来ない状況になっていて、新たなリスクを背負うよりも、今はじっと耐えるときだと覚悟を決めていた。その日は、久しぶりに夜は早めに帰宅して、テレビの娯楽番組を家族と一緒に観ていると、突然、ニュース速報のテロップが画面の上に流れた。画面を凝視してみると、そこには昨日、アメリカ大手投資ファンド・リーマンブラザースが経営破綻したとのことであった。黒岩はその時はその事件の重要性と影響を正確には把握できずにいた。

 一緒にテレビを見ていた奥さんが、先にそれを重く受け止めていた様子で黒岩に聞いた。

「あなた、大変なことになってるみただけど、大丈夫?あなたの持ってる株は大丈夫なの?大変なことになったらどうするの、私たち家族の暮らしはどうなるのかしら?心配だわ」と尋ねられると黒岩は、何食わぬ顔で答えた。

「心配いらないよ、きっと。それは海の向こうの話しだろ。どうせ日本に影響を与えることなんかありっこないよ。安心していて大丈夫さ、俺にまかしとけって。」と軽く黒岩は奥さんに返事はしたが、実は内心、変に胸騒ぎがしていた。その事件の影響は、翌日にはロンドン市場をはじめとして、シンガポール、香港市場でも影響が大きく出ていると報じられた。黒岩はその時始めて、朝のニュースの切れ切れの情報が一気に繋がって、グローバル経済の世界において、丸一日でその出来事が世界一周して、全世界が驚愕の事態に陥れる事件であることが、ようやく把握できた。それこそが、その後言われたいわゆる”リーマンショック”であった。

 昼には東証の株式市況にも、早くも波乱が起こっていた。今まで上がり続けた株価は軒並み急落し、ダウ平均株価も日経平均株価もあらゆる株価指標は敏感に、かつ深刻にその事件を捉えて、株価の下落が止らなかった。銘柄によってはストップ安となるものも少なくなかった。それでも黒岩は、どうせ一時的な現象だと思っていて、すぐに落ち着くだろうし、持ち直すのも直ぐだろうと状況を楽観的に見ていた。しかし本心は楽観視というよりも、もう少し待てば必ず回復してくれることを信じて、上昇してくれることを祈っていた。そしていつも付き合っていた野々村証券の担当者に連絡を入れてみることにした。ことの詳細と真相を知るために、専門家の意見を聞きたかったのだった。そうしたら証券会社の担当者から帰ってきた答えは、

「黒岩さん落ち着いてくださいよ、大丈夫ですから。ここでじたばたして売り急ぐことはないですよ。大丈夫!もうすぐ株価は回復しますよ。」と聞かされて慰めでもそう言ってもらえて黒岩は少し安心した。だから今は売り急ぐ時ではないと自分に言い聞かせていた。

 しかし、証券マンの意見とは裏腹に、株価の下落は歯止めが効かず、とことん下がり続けていった。特にナスダックの高利回りを期待して買ったベンチャー企業株は、急落の勢いが凄まじく、幾つかの銘柄は購入価格の80倍近くまで上昇していた株が、あっという間に0円になるものもあった。それに比べ安定株である大企業株や銀行株はその落ち込み幅は、その速度は比較的緩やかであったが、黒岩は高騰が期待できない銘柄にはあまり興味がなく、成長著しい銘柄を漁るように買っていたので、その分急落のダメージは著しかった。どこまで落ちるのか黒岩には見当が付かず、今売っても損失が確定してしまうだけだったので、焦らず模様眺めをして、売らずに株価が回復することだけを祈って、持ち続けた。

 その頃、黒岩は会社に出社しても、殆ど仕事が手につかなくなっていた。何を聞かれてもうわの空であった。ほぼ思考回路が停止状態になってしまっていた。そのため、気分を変えるために、退社するのもはやく、やがて帰宅して自宅で、一人黙り込むようになっていた。奥さんがそんな主人の様子を見て、

「あなた、本当に大丈夫なんですよね。あれほど俺に負かしとけって大見え切ったけど、テレビ見てるとそれどころじゃないじゃない。本当にどうするのか聞かせてよ。あなたは調子がいいときは、聞かなくても自分から話してくるくせに、都合が悪くなるとすぐにそうやって黙ってしまうのよね。それじゃ話しにもならないわよね、本当にずるい人なんだから、いい加減にしてよね!」とただでも重苦しい空気にダメを押すように奥さんが黒岩に畳みかけていた。

 黒岩は返す言葉がなかった。

 売り時を逸した株は、そのほとんどがあっという間に、紙切れ同然になってしまっていた。妻の言っていたことは、現実となってしまった。黒岩は、その時の自分が保有している資産の時価総額を細かく計算していなかったが、少なくとも数十億単位の資産があったはずであったが、ハイリスクの銘柄が多かったため、一瞬の内にその価値は泡のように消えていった。まさしくバブルの崩壊である。

 所有株の無価値が確定的になった以上、いつまでも株式に付き合ている暇はないと思い、購入していた、一度も行ったこともないリゾートマンションの売却により少しでも利益確保を急ごうと動いたが、それは時すでに遅しで、それを売却しようといくつもある不動産物件の売却を不動産屋に申し出たが、既にどれもまるで買い手が付くことはなかった。売ることも出来ず、結果的にただただ使いもしないリゾートマンションの管理費と固定資産税だけを払わされることとなってしまった。

 黒岩は呆然と立ち尽くした。そして悪夢を見ているだけだと自分自身を慰めたが、現実逃避していても、目の前の現実は深刻さを増すばかりであった。今更ながらに妻の忠告を大人しく、聞いときゃよかったと思っても、それを口に出すことは今さら出来なかった。絶望に打ちひしがれて、自分が今どこに立っているのかも判らないくらいに、自暴自棄に陥っていた。しばらく我に帰ることが出来ずにいた。

 しかし、いつまでも現実から目をそむけているわけにも行かず、初心に帰って本業にいそしむしかないと考えて、オフィスに詰める時間が増えた。しかし今までのようには、会社にオファーが来ることはなかった。世の中の景気の落ち込みのせいで、業績が落ち込む企業が殆どで、自己防衛策として、まず最初にどの会社も経営陣から削減が求められたのが、接待交際費と宣伝広告費であり、どの会社も軒並み厳しい経費削減にのだしていたので、黒岩の会社フォレックスに来る業務も風向きが急に北向きに変わったように依頼が一気に来なくなっていた。黒岩はその景気の悪さが、リーマンショックを引き金に政府が急激に金融の引き締めを行ったのと日銀の金利引き上げの影響であることは明確であったが、いつまでもそれを政府のせいにして、指を銜えてるわけにもいかず、新たなマーケットとして大量消費時代として拡大しつつある量販店や大型スーパーの折り込みチラシに目をつけることにした。早速取引企業の新規顧客開発に奔走したが、殆どがそれを印刷会社に丸投げしている状況の中で、新規に発注してくれる所など殆どなかった。それで今度は印刷会社に行って、その印刷物のデザインの作成を受けることを考えた。しかし、印刷会社からのデザインの下請け仕事となると利益はあまりに低く、作業手間を確保するのがやっとといった具合で、そんな業務では30人にも膨れ上がっていた従業員の給与を確保することすら出来なかった。そのためにその半数ほどの従業員に、依願退職を迫るしかなかった。それで何とか会社を回すことが出来たが、従業員を減らしても、無理して借りた六本木の事務所経費が重くのしかかっていたので、苦肉の策で、事務所を家賃の高い六本木から、比較的家賃の安い中野に小さな空き物件を見つけて、そこで再スタートすることにした。それで何とか社長の役員報酬をゼロにして、急場を凌ぐことにした。しかし会社にはそうは言っても、今まで業績では赤字を計上したのは設立初年度を除いて一度もなかったので、内部留保金がある程度は確保できていると思っていたので、内心は安心してはいた。

 しかしその時には、唯一取締役にしていた葛本に会社の経理からお金の管理までを一切任せていたので、社長自らが行う投資部門とは切り分けていたので、自らが会社独自の通帳に目を通すことは殆どなかった。

 ある朝黒岩は今後の会社運営について、唯一の役員である葛本を呼んで方向性を相談しようと呼びつけたが、その日は病欠ということで休暇を取っていた。その翌日もその翌日も彼は会社に顔を出すことがなかったので、黒岩は心配になって、よっぽど彼の容体が深刻なのかと思って、彼の自宅に見舞いがてら行ってみると、郵便受けには数日分の新聞が突っ込まれたままになっており、インタフォンを鳴らしても一向に応答はなかった。心配になって、そのマンションの管理人に鍵を開けてもらおうと管理人室を訪ねると、彼は3日前に急に引っ越したと告げられた。

「えぇ、どういうこと何だ。」とその時は何が起こったのか黒岩には、その事態を受け止めることができなかったが、それでも万一と思って、会社に帰るなり、彼に預けていた会社の当座預金通帳を確認すると、残額がきれいさっぱり引き下ろされており、千円以下の金額だけが記載された通帳を見て、初めて事態の全貌を認識することになった。まさかあの葛本に限って、あれだけ誰よりも信用をおいていた仲間だと思っていた彼に裏切られることになるとは、黒岩には予想もしていなかったし、そんな疑念を一度たりとも抱くことはなかっただけに、この事態を俄かに受け入れることが出来なかった。

 今月末の従業員の給与は愚か、光熱費から引っ越したばかりの事務所の家賃すら会社には残っていなかった。今やっている業務を熟したところで、ただでも薄利の仕事であり、相手からの入金も来月以降の約束手形であり、実質的に現金は会社には一銭もなかった。

 ただでさえも、ここのところ自分の報酬をゼロにしていて、自分の生活もすぐに逼迫することになるとすぐさま脳裏に過った。

 高層マンションの無理して購入したマイホームローン、子供の塾代、生活費等すぐに入用のものだけでも、頭が一杯になった。そして一瞬頭に過ったことがあった。こうなりゃ自分の生命保険しかあてになるものはないと。彼は当時死亡時6000万円の生命保険を掛けており、それしかないと黒岩は覚悟を決めてしまっていた。

 後悔しても始まらないが、あの時ならば高級マンションぐらいキャッシュでいくらでも払えるだけの余裕は十分あったし、それに妻にせがまれていた子供たちの学資保険なども今更ながらに掛けておけば良かったと思ったが、当時は有り余る自分の保有資産を考えると、あまりにもそれは微々たる金額のように思えていたので、そういうことまで頭が回らなかった。

 その夜、黒岩は妻に一部始終を打ち明けることにした。これ以上隠し立てして、いい顔している場合でもなかった。その夜は重苦しい空気が部屋中に立ち込めていて、息苦しさすら感じていた。

「あなた、話すことはもうないの。ごめんなさいの一言も言えないんですか。あなたは、私と子供たちに、もう少し言わなきゃならないことがあるんじゃないですか。どうして黙ってるの。あなたの強欲にみんな家族は振り回されっぱなしです。あなただけのもじゃないんですよ家族って。すっかり忘れてしまったのよね、みんなを幸せにするって言ったこと、それに以前私に一杯くれたあの手紙には仕事のことをなんでも書いて私に話してくれていたじゃない。なのにどうして今は、肝心なことは自分で抱え込んで、私にはなにも話してくれないのよ。」と冷たい言葉が奥さんから返ってきた。

 その夜は、()しくも息子の誕生日であり、慎ましくも誕生日ケーキがそのままテーブルに置かれたまま、ナイフを入れることもローソクに火が灯されることもなく、そっと置かれたままだった。

「子供たちは自分の部屋に行ってなさい」と

 母親に言われて賑やかになるはずの夜は早々に夕食を済ませて、子供たちは自分の部屋にこもっていた。私もその夜は、リビングのソファーに横になって眠った。

 翌日は、会社に顔を出すのをやめて、子供を学校に送り出すと夫婦二人でじっくりと話し合いをした。今後の厳しい現実に向き合わないで、目を背けている暇はないことは、口に出さずとも両者とも承知していた。

「今、家にいくらくらいお金ある?何とか子供の学費と住宅ローンぐらい賄えるかなぁ?」

 と重苦しく立ち込めた空気の中で、黒岩が重い口を開き、ボツっと呟くように奥さんに聞いた。

「そんなのあるわけないじゃないの、ふざけないでよ。毎月切り詰めてぎりぎりでやっているのに、そんな余裕なんかどこにもありません。なのにあなたはいつもゴルフ三昧だったし、銀座で豪遊するお金があれば、少しでも子供のことでも真剣に考えられたんじゃないかしら。これからあなたどうするつもりなの?」と強く妻につっけんどうに言い返えされたが、黒岩には返す言葉が見つからなかった。本業の会社ですら、今となっては来月にでも破産宣告しなければいけないというのに、自力で家庭の生活費を捻出するメドなどまるでなかった。いっそサラ金にでも行って金を借りてこようかと口から出そうになったが、これ以上言ってもお互い言い合いになるだけだし、お互いを傷つけるだけだと思い、第一建設的な話し合いは出来そうになかったので、お互い黙っているしか方法はなかった。

「私、明日横浜の実家に行って相談してくるわ。」と妻が言い放って、買い物に出かけて行った。

 黒岩は妻が実家に行って相談してくるということは、お金を借りに金策に行ってくれるのかと思っていたが、実際はそうではなかった。

 数日後、妻は”子供を連れて横浜の実家に帰るます。”と置手紙を残して、家族は家を出ていった。そのあと二度とマンションに帰って来ることはなかった。

 早々にすぐに使う衣服と子供の学校の用具をスーツケースに詰めて、家を出ていったようであった。改めて今後のことについてはお互い話し合いをするとテーブルの上にメモに書き残してあった。

 何年か前の夏のことである。家族そろって湘南の海に海水浴に出かけたときのことを、黒岩は誰もいなくなった真っ暗な部屋で思い出していた。子供らが波打ち際の引いてはよせる波の浜辺で、子供ら二人で一生懸命砂で大きな山を作って遊んでいるのを。概ね出来上がったころに、大きな波がその山に押し寄せてきて、その出来上がったばかりの砂の山は、もろくも波が引くと共にその姿は消え去っていった情景を。そしてその消えた砂の山は、二度と元の姿を現すことがないことを、黒岩はそれを思い出してよく解っていた。贖うことの出来ない自分の行いの空しさを悔いても悔いきれるものではないことを思い知らされた。

 そして、彼女と初めて出逢ったあの能登半島の帰りがけ、魚津の港から見た時に、富山湾の水平線の向こうに、半島の先端が蜃気楼のように、めらめらと浮き上がり、やがてそれは消えていったことを思い出していた。




     養鶏場の鶏の暮らし


 黒岩は妻に久しぶりに連絡した。「いつまで実家にお邪魔しているつもりなんだ。そろそろ戻ってきたらどうなんだ。こっちはずっと寂しく待っているんだから。お願いだから子供連れて帰ってきてくれよ。」と頼んだ。

 しかし奥さんからの返事はもう二度とマンションには、帰る気はないということであった。そして家財道具一式は引越センターを手配しておいたから、その日だけは家にいて欲しいとのことであった。

 黒岩は、妻と子供らが去ったマンションの誰もいない部屋に居ること自体が辛くて、夜の街を彷徨い歩いた。ただ呆然と行くあても考えることもなく、ただただ身体を動かしていないと頭が変になりそうな気がしていた。寒さが骨身に染み入る深夜になって、ようやく真っ暗な冷え冷えした部屋に帰って来ることが増えていた。灯りの灯っていない部屋は、今までとは違い、やけに広々と感じ、誰を待つことのない部屋は寒々としていた。しかし暗闇の中で、高層マンションの最上階の窓から見つめる街の夜景は、やけに怪しげに揺らいで見えた。何となく、ゆらゆらと揺れるように、航空機用の赤いライトが空しく点滅していて、遠くに見えるレインボーブリッジを照らす灯りが、いつもは華やかに見えていたはずなのに、その夜は虚し気に光り、妖艶に手招きしている街角の娼婦のようにも見えた。そしてこの景色を見るのも、これで最後だと別れを告げるように名残惜しそうにずっといつまでも、いつまでも遠くを眺め続けていた。

 そして数日後、妻が手配した引っ越しセンターの人が部屋にやってきて、手際よく、そして慌ただしく、片っ端から荷物を梱包してトラックに詰め込んでいた。妻の言いつけなのか、ゴルフバックと私の靴と登山用品以外は全てトラックに吸い込まれるように積み込まれていった。

 がらんとした部屋に残った、私の荷物の少なさに呆れ果てたが、暗闇の中で少しの荷物と私の身体だけでは、あまりに広々とし過ぎていて、そのぽっかりと空いたスペースは自分自身の心の中を投影するかのようであり、それは虚しさをより一層そそるだけであった。黒岩はぼんやりと輝く光りの中に、幼き頃の遊びまわっていた森の中を思い浮かべていた。夕暮れまで夢中になって遊んでいたあの森と今、眼にしているこのコンクリートで塗固められたこの高層ビル群は、まさしく昔遊んだ森の中の樹木と重なるように彼の眼には見えていた。違うのはこの眼の前に広がる森の木々には温もりがなく、巨木のように聳え立つ超高層ビル群は、大地に大きく根を生やすことのない根無し草のようなものであった。薄暗くなり始めた空に、ぼんやりと点滅する赤いランプは、あの頃飛び交っていた蛍の灯りに黒岩の眼には映っていた。悪天候の前触れなのか、辺りの景色は怪しげに一面薄紅色にうっすらと染まっていた。その光は、ビルも通りも行き交う人もレインボーブリッジも東京湾も、怪しげなまさしく幻を見ているようだった。

 そして黒岩は外のベランダに出た。北の方角には、新宿の高層ビル群、その手前には今まで事務所があった六本木ヒルズも傾く夕陽に照らされていた。瞼に溢れる涙を拭おうとしても止まらぬ涙で、それはより一層に妖艶に、薄ぼけて映って見えた。黒岩は思わず膝から崩れ落ちるように、ベランダの床の上にしゃがみ込むみ、自分の額を硬いコンクリートに擦り付けていた。

 黒岩には、込み上げてくる嗚咽を抑えることができなかった。

 悲しさと寂しさは打ち寄せる波のように、交互に彼の心の中に押し寄せてきた。無情の風は、止むことはなかった。


 できることならば、もう一度あの頃に戻りたい、初めて妻と訪れたあの海に突き出した能登半島の棚田から見た日本海のあの青い海、子供たちと家族揃って遊びに行った横浜の山下公園。叶うことならばその時に時計の針が反対周りに回りだしてほしいと願った。そして黒岩は、その日暮れ前に一人そっと二度と見ることはないだろうその景色と別れを告げて、マンションを出た。背中に使い込んだ登山用のザックとゴルフバックを担いで。

 街は、どの通りも街路樹には、いくつものイルミネーションが鮮やかに施されていた。幾筋にも重なり合うLEDの灯りは、今までならば、きれいに見えていたはずだったが、その夜の光は、やけに寂しそうで、哀れな光を放っているようにしか、その時の黒岩には映らなかった。それは、あたかも、光り輝く黄金の木々のように、豪華であり、妖麗に、黒岩は幻想の世界に誘われているような、錯覚に陥っていた。


 翌日には不動産屋に出向き、マンションの売却をお願いすると当時中古マンションでも東京の一等地という地の利のせいか、購入時以上の値段が着いた。皮肉なもんである、六日町にあるリゾートマンションは、一度たりとも寝泊りしたこともなかったのに、買い手は見つからず、十年近く家族で住んだこのマンションは、いくらでも入居希望者が待っているというのである。東京という街は本当に妙な街だと改めて黒岩は感心した。幸い住宅ローンの残高を差し引いても、まだ残る金額があったので、自分の会社の従業員の未払いの給与と幾ばくかの退職一時金を彼らに払ってあげることが出来た。自慢の愛車も走行距離があまりなかったが、中古車センターガリレオで査定してもらったら、年式が古いというだけで僅かな値段でしか引き取ってもらえず、手元にいくらか残して、その残りは全て妻名義の口座に振り込むことにした。

 最後リサイクルショップに立ち寄り、肩に背負ったゴルフバックに詰め込んだゴルフセット一式は、一流メーカーのものとあって、思っていたよりも高く、15万円で買い取ってくれた。

 ゴルフバックをカウンターに乗せて店員に引き渡そうとしたその時、ふと背負いベルトの付け根に小さなテルテル坊主がぶら下がっているのに気づいた

 それは上の娘遥香が昔、「お父さん、ゴルフ行くときに、雨に降られたら可愛そうでしょ」と言ってハンカチにティッシュを詰めてテルテル坊主を作って縛り付けてくれていたものであった。黒岩はすっかり忘れていたが、そっとその手作りのテルテル坊主を大切そうに内ポケットにしまい込んで、ゴルフバックを店員の差し出した。

 それからというもの黒岩には、登山用のザックと中に詰め込んだ幾枚かの着替えの衣服とシュラフだけが、唯一の引っ越し荷物となった。

 黒岩は、ある種その時、ようやく自分も身軽になれたとも思えていた。今まで背負っていた重い重い荷物をすっかり下ろしたような気さえした。

 そしてしばらく街を当てもなく彷徨い歩き、ふと見上げると秋葉原の万世橋の袂にカプセルホテルが目の前にあったので、そこが彼のしばらくの塒となった。

 昼は日比谷公園のベンチにしゃがみ込み、コンビニで弁当を買ってはそこで食べ、日が暮れるまでずっと公園で時間を潰した。しかし彼の脇にも自分とよく似た姿のサラリーマン姿の男が、数名いつもベンチに座り込んで何をするでもなく、遠くを眺める者もいた。彼らもまた何かしら、人生に疲れた同胞なのかと勝手に想像し、妙に仲間意識が感じられた。

 そんな日が一週間近く続いたが、先日リサイクルショップで手にしたお金もそこが見えてきて、何かしなければ、もうこれ以上こんな生活を続けることは出来ないと思い、中央区の職業安定所に行くことにした。職業安定所に行くのは、実は初めてであった。職員に所定の書類に名前を書いて求人の出ている会社情報を尋ねたが、資格、取得免許とある欄には、特別の資格がなくて寂しく思えた。しかしあまりこれという求人はなく、数日通ったが、結果的にはそこで職を見つけることは出来なかった。カプセルホテルでは値段が高過ぎると思って、ネットカフェの8時間パックで夜はネットカフェのリクライニングシートで寝ることにした。ネットカフェには予約制でシャワーも使えたし、カップラーメンもあり、雑誌も読み放題だったので、それほど思ったより居心地の悪いものでもなかった。そして備え付けのパソコンで自由にサイトを見て回ることもできた。特段やることがなかった黒岩にとって、パソコンの中は唯一自分が自由に探索できる世界でもあった。たまたまいくつもクリックしているあいだに、偶然旅のサイトに出くわし、思わず”はっと”した。自分が撮った画像が掲載されていたからだ。シャッターを押した本人でしか判らなかったが紛れもなく自分の撮影した画像だということはすぐに判った。それはまさしく津軽鉄道のストーブ列車で焼き立てのお餅を捉えたものであった。黒岩は懐かしかった、あの時のおばあちゃんの寡黙でも優しい心遣いの触れたことを思い起こさせてくれた。ページをスクロールしていくと懐かしい写真が次々と出てきた。日プロに居た頃、プロジェクトメンバーに託した思いをよくぞ汲み取って立派に仕上げてくれたと、心の中で他のメンバーに感謝した。

「よくやってくれた、ありがとう。」と製作メンバーにお礼を言いたかった。頑張って良かった、そしてあの頃は良かったと半ば過去を振り向いて後悔するように、サイトを見続けていた。そのうち見ているのが、余りに辛くなってきて、黒岩は思わず別のアダルトサイトにとんだ。

 そして差し迫っていることが、まず何か職を見つけることであった。いつまでも手持ちのお金が続くわけではなかったからだ。毎日財布の中身と相談しながら、今日はコンビニの弁当はやめて、おにぎり一個だけにしようかとか、お茶のペットボトルも諦めて公園で水でも飲めばいいかと節約だけが唯一も生き延びる術だと考え始めていた。

 早くどんな仕事でもいいから職について、この暮らしから脱出せねばと焦りの色が日増しに濃くなっていた。そしてネットカフェではあらゆる求人サイトを見て回った。そして少しでも日給の高めの職業として、夜勤夕方6時から明朝6時までのプレス工場の仕事であり、おまけに寮、社会保険完備。お急ぎの方は給与の日払いOKという謳い文句に惹かれて、翌朝すぐにその会社に連絡し、即日採用で、すぐに手荷物を片づけて、その工場に夕方には向かった。振り返ると自分には、これといった特殊技能が何もないことに気づいた。求人欄には、外国語が堪能とか一級建築士取得者とか電気技師とかいくつもあったが免許といえば、普通自動車の運転免許くらいしかなく、国家試験など縁がないと考えていたので、高給の仕事には、大抵そんな各種資格者という条件付きのところが殆どで、どれにも該当しない自分が惨めに思えていた。

 だからせいぜい比較的日当の高い職業といっても夜勤の仕事くらいであった。会社を訪れるとすぐに社員寮に案内してもらえ、翌日の夕方から早速仕事に就くようにと担当者から告げられると、丸一日時間があったので、久しぶりの布団の上で寝れると思い、それだけでも有難く思えた。

 早速その夕方から働きだすと、作業はいたって簡単で、鉄の薄い板をプレス機械の上に載せて、プレス機の降下ボタンを押すそれだけであったが、繰り返し繰り返しの反復作業はことのほか大変で、そうこうして午後9時になると夜食が配られ、一時間の休憩、そしてまた明け方3時には再度コーヒーブレイクでサンドイッチが支給された。だから二食分の支給はその頃の黒岩にとっては、非常に有難かった。夜食の時間はそれなりにゆっくりと楽しめたが、食後の作業は繰り返される単純反復作業が眠気を誘い、何が苦しいといっても睡魔との戦いが一番大変であった。明け方のコーヒーブレイクは、そういう意味では目を覚ますのには絶好のチャンスで、無理やり瞼を見開いて、残り3時間を何とか耐えながら仕事を終えるという日々であった。それにしても人間とはもともと暗くなると眠気がさして、明け方になると自然と目覚める準備をするように出来ているものであったが、この夜勤の仕事はその真逆な就業スタイルであり、人が眠る時間から仕事が始まり、普通の人が起きる頃に仕事を終えるのであるのだから、身体がその暮らしに慣れるまでは、その襲いかかってくる睡魔とどう戦うかが勝敗を分けた。特に明け方空がうっすらと青みがさすころには、睡魔は絶頂に達して、突っ立たままでも瞼が重力に逆らえず、目を閉じてしまう程であった。仕事が終わる朝の7時ころに自分の部屋に戻るなり、そのまま昼過ぎまで爆睡する日々が続いた。だから眼が覚めると数時間後にはまた工場に出向いていたので、一日がまるで眠るためだけにあるようなものであった。

 しかし食費は殆どかからないし、娯楽を楽しむ余裕もなかったので、生活は実に金の減らない暮らしであった。ある程度その生活パターンになれると仕事明けに、少し缶ビールを飲んで一息ついて、それから寝た方が熟睡出来、良質な睡眠が確保出来たので、徐々にではあるが仕事中にあまり強烈な睡魔に襲われることもなくなっていた。そんな暮らしの中で、その夜勤明けの寝酒の缶ビールが唯一の楽しみになっていた。

 だから最初、この仕事を選ぶ時の優先順位で、給与の日払いとあって、お金が底を尽き始めていた黒岩にとってそれが決めてであったが、仕事を始めて見ると、支出といっても一日に一度、自動販売機でコインを投入する時ぐらいであり、それ以外でお金を使うことは殆どなかった。以前会社経営していたころは、月末になると従業員の給与やその他の取引先の支払い、その他の事務所経費にいつも頭を悩めていたことを考えると、その当時の黒岩にとっては仕事に遣り甲斐こそ感じなかったが、意外と夜勤の仕事も気楽な暮らしでもあった。だから給料日には、寮費と食事代を差し引かれても多くはなかったが、お金を使うようも殆どなかったので、その支給分のほぼそっくりが手元に残った。贅沢こそ出来ないが質素に暮らしていくには、それほど生活苦に苦しむということもなかった。

 そんな生活がかれこれ一年近く続いた。たまの休みの日には、図書館に行って新聞や雑誌を見て一週間分の情報をまとめて読むことにしていた。図書館は空調も整っていて、自分の寮の部屋よりもずっと居心地はよく、喫茶店と違って、何時間居座ろうと図書館職員から嫌味を言われることもなく、閉館時間までゆっくりできる素敵な空間でもあった。しかし各社の新聞を読み漁ったが、日経新聞だけは手に取る気にはなれなかった。手に取るのは、もっぱらスポニチとかタブロイド紙であり、あまり頭を使うこと自体が疲れると思っていた。以前の自分ならば、まず朝起きるとすぐに日経新聞の株式市況を見るのが日課であり、それ以外に読むといっても、経済情報と国際面だけで、三面記事すら読むことはなかった。どこどこで交通事故があったとか、火災が発生したとか芸能人の不倫騒動など勝手にしてくれと思っていた。しかしその当時の黒岩には、スキャンダラスな記事が大好きで、政治家の汚職、贈収賄疑惑だの、会社社長の不倫疑惑や特に商工リサーチの会社倒産件数などは特に興味をそそった。自分の同類項を探したかったからだ。しかしその頃の新聞紙面を賑わせていたのは、いつもバブル崩壊後の日本経済とか国際経済の大幅な冷え込み、就職氷河期に喘ぐ新卒学生などというネガティブな記事がみたくなくとも、新聞のトップの大見出しとなっていて、黙っていても黒岩の目に入ってきていた。

 そして世の中の暗い影は徐々に黒岩にも忍び寄りつつあった。それは、しばらくして世間の不景気風は自分の身にも降りかかってきたのである。

 突然工場の社長から年度末に、臨時従業員は今月いっぱいで契約を終了するというものであった。もともと臨時雇用であったので仕方ないといえば仕方なかったのでるが、雇用契約が終了するということは、すぐに寮から追い出されることをも意味しており、本人の意思に関係なく、日本経済の都合だけでいとも簡単に棲家と職を失い、その月をまたいで、またもや黒岩は浮き草のように宿なしの暮らしを強いられることとなった。まるで木枯らしの風で枯れ葉が路上に舞うように、またも夜の街の片隅で、ネットカフェを転々としてその日暮らしをすることになってしまった。その頃にはネットカフェで、一日中就職サイトと眺めっこしていたが、一年前とは比較にならないほど掲載されている就職口は少なくなっていて、あったとしても短時間3時間程度のレジ係とか早朝のビルの清掃作業くらいのもので、それでも翌日に見直してみるともうすでに、募集終了となっていた。世の中の景気の冷え込みは想像以上であり、職業安定所の前にはいつも長い行列が出来ていて、うなだれて帰っていく他人の分だけ列が短くなる程度で、日本は深刻な不況の時代を迎えていた。

 もうはっきり言って職を選ぶなどとは、言っていられなかった。何でもいいから仕事を探さないと、挙句の果ては、路上生活になってしまうと不安は募るばかりであったが、ネットカフェにも利用するのに、お金はかかるわけで、3食の食事を2度に減らしてみたとて、財布の中身は軽くなる一方であった。そしてザック一つ背負って街を彷徨い歩き、気づくと何時しか興味本位で訪れたことのある、山谷のドヤ街に辿り着いていた。昼にはできるだけ腹が空かないように、公園のベンチで腰をかがめるか、時には寝っ転がって、時間をつぶすだけの日々が続いた。

 そんな或る日、いつものように公園のベンチに座り込んでぼうとしていると、ある男から声を掛けられた。

「おじさん、いい仕事があるけどやらない?」と声をかけてきた。内容を聞くと運転免許所と印鑑あれば、それえOKで銀行に行って、口座開設して登録の印鑑と作った貯金通帳を手渡してくれれば、それだけで3万円くれるというのである。その時の黒岩に取っては、たとえ3万円でも有難い話しではあったが、声をかけてきた男はいかにも怪しげで、こんな都合のいい話には必ず裏があるに違いないと思い、あっさり断った。きっと詐欺師集団が他人名義の口座を悪用していいように利用されることくらいはすぐに察しが着いたので、いくら落ちぶれても詐欺師の片棒を担ぐほど自分は落ちぶれてはいないと自分自身のプライドにかけても、そんな話しに乗る気にはならなかった。

 しかしこの町の公園にいる人は皆その類の人が多く、その辺が東京のほかの街と違うところであった。特にこの界隈の公園では。 

 そして目に入ったのが簡易宿泊所のぼんやりと灯りが灯った看板であった。中の蛍光灯は点滅しかけていて、見るからにさびれていた。一泊1000円と大きく書かれていて、ネットカフェよりも格段に安く、しばらくはここを拠点に新たな仕事を探すことを決めた。

 その夜、宿泊所の主人から話しがあるから来て欲しいといわれた。その主人からの話しでは、別の宿泊施設では、無料で泊まれるところがあるが、そこに移動してみないかということであった。おまけに3食付きだという。あまりにうますぎる話とは思ったが、どう考えても犯罪行為の匂いはなく、ただで3食付きとなるとその時の黒岩にとって、断る理由を探すほうが大変だった。

 その夜は、主人が案内するままに連れて行かれ、部屋に入ると簡易宿泊所という名の通り、間仕切りは薄いべニア板一枚で、隣の住人のせき込む声までも筒抜けであり、安普請というよりもまるで張りぼての劇場の大道具のセットの組み合わせのようなものであったが、雨露を凌ぐのに問題はなく、それ以上は要望も期待もなく文句もなかった。

 翌日宿泊所の主人は、その街のはずれにあるアパートに連れて行ってくれた。そしてすぐに簡単な入居契約書なるものに直筆で名前を書けば、それでよかった。入居理由に予め職を失ったのためとだけ書かされていた。

 入居の条件は一切仕事はしてはならないと書き添えられていた。

 しかしそれだけでは俄かに信じる訳にはいかなかった。彼のいうには、家賃はただで3食昼寝付き、そのうえまるっきり仕事をする必要もないというのであるから、この世の中でこんなうまい話があるはずがないと思っていた。刑務所だって、職業訓練と言って仕事はさせられるし、自由は重いっ切り制約される。なのに今回の入居条件にはそのような類のことは一切書いていない。ひょっとして、強盗にでも行かされるのか、それか生命保険に入れさせられて、東京湾にでも捨てられるのか、もしかして無理やり船に載せられて、自分は見知らぬ国に売り飛ばされるかもしれないと信じられない話しについて、あらゆることを勘ぐった。いくら何でも生命保険なら本人の承諾なしに勝手に保険を掛けるわけにも行かないだろうし、今時人身売買など昔アフリカでの黒人奴隷でもあるまいしと黒岩は考えうることをいろいろと考えた。しかし見当がつかなかったが、アパートと称する建物の中に入るや否や、嫌な予感がした。中は薄暗く昼間だというのに、40Wの裸電球が一つつけっぱなしになっていて、廊下の両脇には、いくつものドアが並んでいた。中に入ると3畳一間の間取りに二段ベット、つまりひとりあたり一畳半である。窓は小さく自分のザックを置くと、もう一人の同居人は通り抜けすることも出来ないほどの空間であった。食堂はある程度大きかったが、テーブルと丸椅子が無造作に並んでいるだけであった。その脇にはダンボールが所狭しと積まれていて、何が入っているのか、その時には知る由もなかった。食堂には小さなテレビが一個おいてあり、既にそれを数人の先に入っていた住人がかぶり付くように見ていた。そしてそこの家主であろう人間が奥からやってきて、入居に当っての幾つかの決まりと食事について説明があった。

「ようこそいらっしゃいました。よろしくお願いします。簡単に当アパートについて説明しますね。当館は、アパートといっても皆の共同生活のようなもので、規律正しい生活をしてください。規則として館内は禁酒禁煙でお願いします。食事はそこにおいてるものを自由にとって食べて結構です。温めたければ電子レンジがあります、ご自由にお使いください。使った食器は各自で洗って食棚に戻すようにしてください。それ以外は自由です。風呂は週に一度マイクロバスで銭湯に連れていきます。トイレは共同なので、綺麗に使用してください。ただし月に一度皆で当館のマイクロバスに乗って、区役所に行ってもらいます。それだけは必ず守ってください。簡単ですが以上です。判らないことがあれば玄関口の隣に事務所がありますので何なりと申し付けください。」と言いう説明であった。

 黒岩は、ある程度、最悪の事態を覚悟はしていたが、その説明を聞くだけでは、これという疑わしいこともなさそうだし、強制的に生命保険に入れられることもなさそうだので、まずは少し安心した。少し寝る部屋が狭いくらいで、それ以外は特段困ることもなさそうだし、それ以上に仕事をせずに自由にしていてください、ということがどうも腑に落ちなかった。普通ならば仕事をして金を稼いで、その金で家賃と食費を払うのが、極普通のことであり、まるでその逆であることがどうしても納得できずにいたが、まあとりあえず暮らしていければ何でもいいかと、自分自身を納得させた。ようは自尊心とプライドさえ捨てれば、生きていくことができると思った。それに先に住みついている人々も大勢いいて、何とか暮らしているようだったので、何とかなるとは思ったが、しかし黒岩には何かしら不安の要素が残った。それは住民が揃って無口であり、顔を合わしても「今日は」の一言もなければ、食堂にいる人々も会話一つすることはなく、一切話し声は聞こえては来なかった。まるで皆、生気を抜かれたような姿で、みな眼が死んでいたのだった。別にご飯を食べずに痩せこけている訳でもないのに、ある種ここの住民には、覇気というものをまるで感じることが出来なかった。

 そして食事は好きな時に好きなモノを自由に食べていいと言っていたが、いざ夕食の時間に食堂に行ってみて、黒岩は呆れた。というのも食堂の片隅に積み上げられていたのは、中身が大量の缶詰とレトルトカレー、レトルトシチュー、それに電子レンジで温めるだけのご飯パックにカップラーメンの箱。それもよく見ると全て賞味期限がとうに過ぎたものばかりであった。別に賞味期限が切れているからと言ってすぐに腐るわけでもなければすぐに食あたりになることもないとも思ったので気にしなければ、これもエコだなぁと勝手に納得していた。

 日によってはコンビニやスーパーの廃棄に回る寸前のパックものと冷え切った弁当が並ぶこともあった。黒岩が推察するにきっとマジに産廃業者からただで引き受けてきたものではないだろうかと思った。

 それはまるで、人間産業廃棄物処理機械のようなモノであり、その処理役が、ここの住民の唯一の仕事だったのかもしれないと思った。住民は食品ロス処理機械のようなものかと思った。最初それが、この不可解なアパートのからくりなのかと黒岩は思っていた。

 まあ食あたりにならない限り、これといった問題でもなく、現代社会の賞味期限制度の方が寧ろ問題じゃなかとも思ったくらいであった。

 日本の食品ロスは世界を見回せば、先進国の中でもトップクラスにあり、現在、世界で飢餓に喘ぐ人の人口が、日本の国民の数よりも遥かに多いと以前聞いたことがあった。そういう意味で言えば、ここも少しは社会貢献をしているのかもしれないと、変な理屈で自分を納得させようとしていた。

 しかし来る日も来る日もカップラーメンと缶詰とレトルトカレーの連続もまた厳しいもので、いい加減飽きてきて、余り運動することもなかったので、食欲も湧いてこなくなっていった。

 規則として労働をしてはならないと言われていたので、昼間は公園で時間を潰すしかやることがなかった。

 会社勤めの時は、たまには、ゆっくりしたいものだと考えたことがあったが、不思議と一切仕事はしてはいけないと突然言われると、かえって、無性に人は仕事をしたくなるものでり、また生きる希望を捥ぎ取られたような気がした。

 公園の近くには山谷労働センターがあった。この建物は、もともと職業安定所として建てられたが、他の地域の職業安定所と違うのは、中に娯楽施設もあり、暇な人の憩いの場でもあった。近くにあった公園は、玉姫公園と呼ばれていた。いつも通り過ぎていた世田谷とか杉並の方にある公園とは、一風そこに漂う空気が変わっていた。一風というよりもかなり変わっていた。

 まず子供連れの親子の姿は、まるで見当たらず、公園の隅々にブルーシートで作ったテントが並んでいた。鉄棒は大抵洗濯物干場になっていて、天気のいいときは、ジャングルジムも滑り台も皆洗濯物が干されており、まるで万国博覧会の国旗のようにも見えた。

 子供が遊ぶ姿の代わりに、ビールケースをひっくり返して二段構えにして、それをテーブル代わりに将棋をさす者、花札をしている者、様々であったが。

 バックネット越しに子供の少年野球をしている様子をずっと見ているおっちゃんの背中が、やけに哀愁を秘めていた。黒岩も、いつものベンチに座り込んでいるだけで、他の人から見ればやはり哀れに思われているのだろうと思い、自分自身が情けなくなっていた。

 人は傷付いて初めて、他人の痛みを知ることができるのかもしれない。黒岩は今まで彼ら路上生活者を見かけても、軽蔑することはあっても、その人の哀れな人生を思うことは、ほぼなかった。しかし今、自分がその当事者でいることの切なさと一緒に、彼らもまた各々の様々な道を通り過ぎてきたのだろうと黒岩は推測していた。

 後悔と挫折に打ちのめされて始めて、他人に優しくなれるのかもしれないと黒岩は思った。

 このドヤ街には様々な人々が屯していた。

 夢を捨てて生きる者、生きることを諦めて生きる者。

 優しさを求めて世の中の厳しさに落胆する者。

 他人の悪口ばかりを云って、自分自身をも信じられなくなる者。

 生きる気力を失い、死ぬことを怯える者。

 その彼らにもそれぞれに人生があり、それぞれに人生に傷を負って生きてきた証でもあった。黒岩は彼らにも自分と同じように失望と挫折と後悔の日々があったのだろうと想像した。

 それはこのドヤ街の住民に限ったことではなかった。今まで生きてきた社会もまた同じことのように思えた。確かにサラリーマンの着ている服はこざっぱりとしていても、心の中は皆同じようなものだと思った。仕事に疲れて鬱になる者、生きる自信を失い、自ら電車に身を投げる者。

 何時か見てろと人を恨み、欲張りになった者。

 弱いものに詰め寄ることを覚え、強いものに媚びる術を学んだ者。

 他人の裏切りを憎み、いつも他人に裏切られることに怯える者。

 何事にも欲を張り、失うことを恐れる者。

 人を愛する勇気をなくし、自分を愛することすら忘れてしまった者。

 悔しさに負けて強がり、弱きを甚振る者。

 他人を羨むことは出来ても、他人の喜ぶ姿を心から歓べない者。

 そうして今も、この大都会の社会の中でみんな生きているのであり、ドヤ外の住民だけではなく、だれもみな同じようなものを背負って生きているのだろうと黒岩は改めてこの玉姫公園でいつも屯している人々を見て思った。




     おしゃれな芸術家の老人


 失意の底には、絶望と深い喪失感があり、そして、悔やみきれない過去がある。その地獄から見えるものこそが、人の生きる本当の意味なのかもしれないと黒岩には思えた。

 失意とは、生きる意味を見失い、やがて生きていることの意義を知ることになるだろう。

 玉姫公園には、いくつもの各自が思い思いにテントを建てて、暮らしていた。

 黒岩がいつも座るベンチのすぐそばにも、小さめのブルーシートを張ってテントにしている長い顎髭を蓄えた老人がいた。髪はぼさぼさで髭は伸び放題、どう見ても一年以上風呂には入った様子はなく、まさしくホームレスといった風貌の老人であった。その彼のテントの前には、まるで子リスが巣でも作るかのように、小さな木の小枝と色とりどり枯れ葉が積み上げられていた。そして老人がトイレにでも行ったのかテントの中は空で、留守だったので、どうなっているのかと黒岩がそっとそのテントの中を覗き込むと、黒岩が想像していた部屋の中とはまるで違い、整然と綺麗にモノが整理されており、部屋の壁の部分には、大きな段ボールが立てかけられており、よく目を凝らしてみると、公園で拾い集めたであろう小枝と枯れ葉で、綺麗に絵が描かれているように見えた。あまり覗き込んでると主が帰ってくるとうるさいだろうと思い、入り口からそっと覗いただけであったが、そのテントの外観とはまるで予想だしない中の雰囲気に黒岩はびっくりしていた。やがてそのテントの主が帰ってきたので、黒岩は思い切ってその老人に声を掛けた。

「おじさん、枯れ葉で絵を描いてるんですか。ちょっと外から見たら部屋の中が見えてしまったものですから、すみませんでした、勝手に覗き込んでしまって。」と黒岩が老人に声をかけると

「いやいいんじゃよ、中には何もないから、まず第一盗まれて困るもんなんかあるわけがない。ホームレスのテントに忍び込む泥棒するやつなんて、今まできいたことないよ」と老人が大笑いしながら言い放った。

「おじさん、中の絵を自分にも、じっくりと見せてもらってもいいですか?」と再度黒い輪が尋ねると、老人は

「あんた、例の鶏小屋にいるんかい。さぞあんたら楽な暮らしをしているんだろうな、あそこにいりゃ食う心配いらんからのう。でもそれで、あんたら楽しいんかぁ?

 どうぞこっちに入ってきても構わんよ、気が済むまで見るがいいや、見たからと言って、わしゃ金払えとは言わんから。あんたが観たいんならいくらでもどうぞ。俺だって一人で眺めているより、誰かに褒められたほうが、嬉しいに決まってるじゃないか。」老人は嬉しそうに、にこやかな顔をして黒岩に言うと、黒岩は言われるままにテントの中に入れてもらうことにした。そして突然彼の眼に入ってきたのは、何とそれはご飯粒を一個一個潰して、丁寧に小枝や色とりどりの枯れ葉を一枚一枚貼り付けた、いわゆる貼り絵であった。しかしあまりの繊細な技量に黒岩は感服した。一枝一枝に1つ1つご飯粒を潰しては綺麗に貼り合わせて、まさしく写実画であり、芸術品そのものであり、国立美術館に展示しても、何の遜色のないほどの代物であった。枯れ葉も紅や黄色、黄金色、茜色と微妙にさんざまに巧みに使うわけてあり、外にある公園の実際の木々よりも本物ぽくて、黒岩は言葉を失った。そして黒岩は、今住んでいるあのアパートを街の人は、鶏小屋と呼んでいることを知った。黒岩には、その呼び名が、やけに説得力があると感じていた。そして、自分自身が、まさしく、その養鶏場の鶏であることを、否定することができなかった。

 老人はぽつりと言った。

「いやいや何せ暇じゃからなぁ毎日が。やることがなくって困る。いくらブルーシートのテントでも、折角の棲家だから気持ちよく暮らしたほうが楽しいと思ってな。なかなかおしゃれな暮らしじゃろ。」と威張るでもなくさりげなく老人は呟いた。

「折角じゃから、あんたにコーヒーでもご馳走するから、飲んでいかんか?」と彼は言って、缶詰の空き缶のコーヒーカップを黒岩に差し出してきた。黒岩はまさかこのはっきり言って、小汚い小さな破れかかったブルーシートテントのなかでおしゃれなコーヒーブレイクができるとは思ってもいなかった。それは、今いる鶏小屋のレトルトと、インスタント食品から比べると格別の味がした。

 到処に青山あり、まさしくどこに居ようとも、いくらでも歓びというものは転がっていて、身なりや、風貌では、計り知ることが出来ない個々の価値観があるもんだと、改めてその老人の絵画と暮らしっぷりに黒岩は深く心動かされた。

 そしてその時の自分の腐りきった心が、情けない生き方をしているのだと老人を前にして、穴があったら入りたい思いであった。さりげなく言い放たれた老人のその一言が耳の中に残っていて、いつまでも黒岩の心の中でこだましていた。

 それから数週間後、玉姫公園でボヤ騒ぎがあり、野次馬根性で黒岩も火事のあった公園に行ってみると、そこにはあの老人の棲んでいたブルーシートのテントが、哀れにも無残に焼け焦げていた。

 そしてその中に黒焦げになった老人の遺体と段ボール盤に張り合わせた紅葉の絵画が、消防車の吹いた消火液に濡れて、ひっくり返っていた。

 黒岩はいた溜まれず、何も言わずに、それを見て見ぬふりで急いで公園を立ち去った。それは見ないふりではなく、余りにも悲しすぎる光景で、それを実際の火事現場として受け止めることが嫌で、しっかりと目をやるのが怖かったのであった。きっとその老人芸術家は、またいつものように気取ってコーヒーでもいれるために、手元にあった小枝を前にして、火を起こして、お湯でも沸かしたからではないかと、黒岩は勝手に想像していた。

 黒岩は自分の部屋にこもって、ベットに横になっていた。

 なんで、自分は生きているのだろうか。

 生きている必要が、この俺にはあるのだろうか。いっそのこと、自分は、この世から消え失せてしまっても、誰にも惜しまれることも、迷惑を掛けることもないのではないか。

 自ら命を絶とうとも思わないが、生きることに意味がなく、もう自分は生きることを諦めてもいいんじゃないか。生きていることに何の意味があるというんだ、

 と、黒こげの老人の遺体を眼にして、ずっと自分の部屋に引きこもり続けた。

 黒岩は、自分も転がるまで転んでしまえ、いっそ地獄の果てまで転がり落ちるがいい、と自暴自棄に自分を責め続けた。自分の今までに犯してきた罪を(あがな)うために。

息を吸うことすら、自分には奥がましく、やるせない気持ちでいっぱいになり、生きる気力が湧くことはなかった。黒岩は一人嗚咽を抑えきれずにいた。

 どことなしかカビ臭い、薄暗な小さな狭い部屋のベッツに横たわって、小さな窓から空を見上げながら、思いに耽って、その後頭まで布団を被った。


 それからしばらくして黒岩は、アパートに新しく入居してきた二人と一緒にアパートの主人に連れられて、地元の墨田区役所に行くことになった。

「何の用で行くんですか?」と黒岩は尋ねたが、「黙ってついてくりゃいいんだよ。」と今までとは打って変わった冷たい態度で、つっけんどうに主人から言い返されただけであった。

 やむおえず黙って、区役所の住民福祉課という看板のぶら下がったカウンターに行くと、係りの人から生活保護申請書と書いた用紙を各自に手渡された。その担当の職員が、無表情に、いかにも事務的に、

「はい、ここに住所、氏名、生年月日を書いて、事由のところには、申請理由を書いて下さい。」とまたも愛想なく言い放った。書き終わると面談室で

「今の生活困窮状況は?」と職員から問われ、

「会社倒産のため失業中」とだけ応えた。別に話を湾曲して話しているわけでもなく、生活が困窮していることは、紛れもない事実であった。そして資産という欄があったが、かつてはマンションと都内に幾つかの土地と新潟にリゾートマンションに有価証券が・・・・といろいろとあったとそれはすべて過去のことで、書いてみても仕方ないわけで、0円と記したのが、自分でも情けなかった。改めて自分には何もなくなってしまったことを、その時思い知らされた。

 帰りがけ、アパートの主から妙なことを言われた。

「毎月月末に生活保護のお金が区役所から支給されるので、アパートのマイクロバスで、皆乗り合わせて、封筒を受け取ってそのまま開封することなく、そのドライバーに手渡すように」と言われた。

 黒岩は最初、このおやじ何を言っているのかと思ったが、バスに乗っている間にいろいろと考えて、判ったことがあった。やけにうますぎるこの話の種明かしが見えてきたような気がした。家賃なしの3食付き昼寝付き、そして仕事をしないで自由にぶらついていれば、それでいい。そんな調子のいい話がこの世の中にあるわけはなかった。

 月に一度だけ、区役所に行くだけでいいというからくりが、人間産業廃棄物処理機械だけでないことが少しずつ黒岩は見えた気がした。

 これは生活保護の支給されるお金を弱者から全て巻き上げる仕組みであったことを、その時初めて気が付いた。限りなく詐欺行為に近い給付金不正受給のようなものだと気づいた。そして自分たちは、彼らの詐欺の支配の中で、息をしているだけで良かったのである

 しかし法律に照らし合わすと、生活保護を受けること自体がなんら違法なことではなく、それがアパートの住民の家賃や食費に充てられていると言い切れば、刑法に問われるものでもないのかとも思った。だとすれば、今の住環境はあまりに劣悪であり、賞味期限切れの食品を三度三度食わされて有難がっている自分もまた有難い人間だと呆れ果てた。

 どうりで同じアパートの住民は、揃って無気力であり、無口なうえに視点の定まらない目つきで、ただ呆然と青白い顔をして、その日を暮らしているのかと思った。まるで息を潜め、ただ呼吸だけを繰り返して、心臓だけを動かして、意識しなくてもだんだんと生きる気力を失い、腹が減るでもなく、のどが乾くでもないのに、期限切れのインスタント食品ばかりを与えられ、水道の蛇口に口を突き刺し、水だけを飲む。

 黒岩の中には、急に怒りとやるせなさが込み上げてきた。そして今いるところが、やはり老人の言った養鶏場のように見えてきた。好む好まざるに関わらず、鶏舎のカゴに押し込まれ、時間時間に餌と水だけを与えられ、何をすることもなくただ毎日卵を産まされる鶏が、今更ながらに哀れに思えてきた。そして自分がまさしく、その鶏舎のカゴの中にいる鶏になるとは思ってもいなかった。しかし公園のテント暮らしかボロ簡易宿泊所かと言われると、それでもこの暮らしで、いたし方無いのかとも思えた。しかし公園のホームレスは、ここの住民よりも少しは覇気を持って、生きているようにも感じたし、特にあの焼け死んだ顎髭の老芸術家は、まさしく胸を張って、個性を持って人生を満喫して生きていた、そしてその日を思う存分に楽しんでいた。たとえ、たまの教会の炊き出しと、たまに空き缶拾いで業者に売って、その自分で稼いだお金であんパンを買って、それを半分に割って飢えを凌いでいたとしても、彼らの方がいくらかでも人間らしい気がしていた。

 黒岩もいっそこのアパートを出ようかとも思ったが、頭がそう思っても、自分の身体がここでいい、といっている気がして、身体は動こうとしなかった。そしてずるずると虚しい月日だけが流れていった。

 黒岩はいつしかすっかり、そういう疑問すら頭には浮かばなくなり、生きる気力がどんどんと失せて行く気がした。まるで動力をもたない手押し式トロッコが敷かれたレールの上を惰性だけで、重力と共に自分の力ではなく、自分の意思でもなく、コロコロと転がっているような日々であった。月末になる度、マイクロバスに乗って区役所で茶封筒が手渡され、バスを降りる前にそれを全てドライバーに回収される、そんな月日がかれこれ半年ほど続いた。

 この劣悪なアパートの実態が世の中に明るみになったのは、アパートの住民のうちの一人の老人の死がきっかけであった。その老人の死は、遺体検証の結果、重度の栄養失調から来る衰弱死だと判明された。来る日も来る日も賞味期限切れのカップラーメンとレトルト食品ばかりを食べさせられていたので、栄養が極端に偏り過ぎて、体調を崩したのだろうと黒岩は思った。数日後捜査員が朝早くからアパートの立ち入り調査に入り、各人の部屋の様子、生活の実態をつぶさに調査し、その生活環境の劣悪さと、一方的に給付金を没収したということで、アパートの主人は警察に連行され、そののち区役所から住民福祉課の職員と民生委員が実態把握のために、各アパートの住民にヒヤリングと健康診断を行い、やがて住民は全て他の施設に移され、その後そのアパートは閉鎖されることとなった。

 黒岩もまた他の人と同様、他の養護老人施設に行くことになった。本来であれば、まだ黒岩は適用年齢には達していなかったが、引き取り手がないということで、経済的自立支援ということで、遠くの老人施設に引き取られることとなった。


 くしくも、その年、8年後のオリンピック開催予定地が、東京に決定した年であり、当時の都知事は、外国の訪問者に東京のクリーンなイメージを損ねる、墨田川沿の路上生活者の一掃に乗り出すとほのめかしているということが、山谷の住民の間では噂されていて、その頃かから、彼らはみんなでお金を出し合って、新聞を回し読みするようになっていた。どうせ早かれ遅かれ、いずれそのうち、この町にも都の職員による目障りなものを、一掃に乗り出す日が来ると彼らは、胸中で密かに、覚悟していた。


 政府は、必要な時期に、必要な労働力とスキルを求める企業側と、スキルを活かしながら働きたい場所や、時間や仕事を選びたい労働者側の双方のニーズに、対応する制度として、1985年に派遣法が制定されました。

 しかし、2004年の派遣法改定で、特定業種に制限していた人材派遣を、企業の都合で、規制を大幅に緩和して、対象を全業種に拡大して、景気がいいときには大量の非正規雇用の労働者を生み出し、企業の業績が悪化すると途端に、派遣切で大量の失業者を発生させる結果になったにもかかわらず、今度は外国人にいいところを如何にも見せびらかすかのようにだけに、路上生活を、まるで見苦しい汚いゴミのような扱いに、街から、追い出そうとしていたのであった。どう考えても、身勝手な、都合のいい発想であり、東京オリンピックは、そこに住む住民にとっては、とんだ災難に過ぎなかった。


 東京都知事も派遣法改訂に携わった政府首脳も霞が関に席を置く者も、誰も好きでここに来たわけでも、好き好んでここに住んでいるわけでもなく、そんな住民は誰一人ここにはいないことを、もう少し真摯に考えて欲しいものである。強制執行でこの街から彼らが立ち退きをさせる前に。



栄光の光の先には、常に影がある。大きな成功は単に挫折への出発点に過ぎないことを、黒岩は身を以て知る。

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