第一章 選ばれし者の終焉
エリートサラリーマンで、仕事に邁進して、仲間を引きずり落してでも、出世だけを考えて、仕事に励む。敷かす、或る日事件に巻き込まれ、警察から、取調を受けることになり、その後会社では冷たくあしらわれるようになり、最後には会社を辞め、独立する。
霧の中で見たもの
ある日の朝早くのことである。その日は大陸から強い寒気団が南下してきたせいか、いつになく朝から厳しく冷え込んでいて森の中は深い霧に包まれていた。
ある一人の老人が、まだ夜が明け切らぬ静まりかえった深い森の中に入り、出始めたばかりの山菜採りに夢中になっていた。まだ雪の残る沢沿いには、芽の出始めたばかりの小さなコゴミや山ウド、フキノトウが雪の解けたばかりのせせらぎの水際にほんの少し顔を覗かしたばかりで、老人は春の恵みを家で待つおばぁにもぜひ食べさせてあげたいと思い、夢中になってあちこち顔を出した山菜を採っていると、ふと老人の耳にその薄暗い霧の立ち込めた沢筋の奥から何やら得体の知れぬ物音が聞こえてきた気がした。
「何だこりゃぁ、谷間に響くこの得たいの知れぬ音は、いったい何の音なのだ。どこの誰がこんな朝早くから森の中で何をしているというんだ?」と呟くように独り言を言った。やがてその音は森の静寂を切り裂くように鋭くもあり、また鈍く地響きとも聞こえるその音が谷間に僅かにこだましていた。
老人はその音の発する先が何なのか、しかしそれは昔どこかで聞きなれた懐かしくもあるその音の発する方に自然と足が向いていた。
そして、しばらく歩くと、その音の発信源からは、またもや、何の物音も聞こえなくなっていた。老人はしばらくじっと、その正体を突き止めようと、足元にあった木の切り株に腰を下ろして、耳を澄ましてみたが、もう既にそこからは、何の物音も聞こえてはこなかった。
「あぁ、なんだ、空耳だったか・・・」とぽつり言って、その場を立ち去ろうとすると、またもその音は再び聞こえだした。
「うんん、待てよ。こりゃ確かに空耳なんかじゃないやぁ。」と心の中で呟き、またも耳を澄ますと、やはり、以前どこかで聞き覚えのある音が、再び耳に入ってきた。
「まさかこんな朝早く、山奥で斧を振ってる奴が居るもんか」と思いつつも、ゆっくりと沢沿いを上っていくと、そこはまさに先日の大雨で、大規模な土砂崩れの発生した現場であり、無残な姿をさらけ出していた。
戦後、建築資材の確保のために、植林した杉の木々は無情にもなぎ倒されており、見るも無残な姿を曝け出していた。
当時、気象庁からは緊急速報として、短時間大雨警報が発令され、土砂崩れ特別警戒情報が報じられていた。テレビのニュースでは繰り返し
「これから未だ嘗て経験したことの無い大雨が降り、最大時間降水量が100mmに達することが予想され、甚大な被害の発生に備えてください。もしくは既に災害が起こっていても、おかしくない事態になっています。直ちに、各自自分の身を守る行動を迅速にとってください。」と繰り返し流れていた。
しかし、それをテレビで見ていた老夫婦には、まさかうちの村に限ってそんなことはあるまいと、たかをくくっていたので、特段、自主避難することなど、考えもせず、その降りしきる雨音を気にしつつも、いつものように、早めに床に就くこととした。
隣に寝ていた奥さんが「お爺さんや、やっぱり心配だよねぇ。避難した方がええんじゃなかろうかねぇ」と言ったが、
「心配することはないさ、どうせじきに止むさ」とぼつりと呟いて、奥さんの話しを、まともには取り入ってはくれず、おばあさんも「そうなら、いいんじゃけどね、取り越し苦労でなけりゃ」とぶつぶつ言いながらも、いつの間にか二人は寝入ってしまっていた。
夜が明けてもその雨の勢いは衰えることはなく、容赦なく勢いを増しながら降り続き、屋根瓦をたたく雨音は大きくなるばかりであった。そして、その雨はその後一昼夜降り続き、二日目の朝になり、ようやく雨はやみ、立ち込めていた厚い雲の切れ目から、青空が少し顔を覗かせていた。
その朝、老夫婦は「ばあさんや、村には何も起こらずにすんでよかったのうと二人は顔を見つめて胸をなでおろした。下の町じゃ川が氾濫して、見てみろ、惨たらしいもんじゃ。ああぁ、くわばらくわばら」と二人はテレビのニュースを見ながら、慰めあって胸を撫でおろしていた。
そしてまた、何事もなかったように、晴れ渡った青空の下、いつもの日常が始まっていた。
老人は、足がすくむ思いだった。そんな見る影もない土砂崩れの現場で、ただ一人斧を振る男の姿が目に入ってきた。いくらなんでもこんなところに人が居るなど俄かには信じ難く、大方熊でも山から下りてきたのかと思っていた。
がしかし、確かに聞こえる斧で木を叩く音がして、老人は目を凝らしてみると、
「えぇ、まさか熊が木を切るなどとは、聞いたことが無いや。」と一人呟くようにじっとそれを見つめていた。
確かに、それは紛れもなく人に間違いないと思っていると、またもその木を切る音はまるっきりしなくなり、その代わりに、甲高い熊除けの鈴のような音が聞こえ始め、やがてその音とともに、重々しく大地を叩くような音がした。
「パカポコ、パカポコ」とこれもまたどこかで聞き慣れたような音であった。
この老人も若いころ、冬になると馬搬の作業にかりだされ、馬に大きな丸太を引かせて、山奥から木を運び出す仕事で、冬になるとよく山に入ったものだった。しかしまさか今どき、馬搬をする人など聞いたこともなく、やがて霧は沢筋を駆け上がるように、辺りをすっぽりと包み込み、やがて森は湧き上がる霧に包まれ、その姿も音もすべてが、濃い霧の中に消えていった。
老人はまるで、狐にでもつままれたように、幻覚を見ているような気がしていた。
大手企業のエリートサラリーマン
黒岩は、大学を卒業すると同時に、あこがれの大手広告代理店に就職することが出来た。
大学時代は、決して、他人に褒められるような成績ではなかったが、運よく大手企業に、採用が内定した時は、遊び仲間からは、
「この世の中って奇跡って起こるもんだよなぁ。まさかあの黒岩がねぇ。」とよく皆に冷やかされたもんだった。しかし、黒岩も好きで成績が悪かったわけではなかった。それは、必要に迫られて、自分の学費と生活費を稼ぐために、授業の合間に、いくつものアルバイトをかけもちし、どうにかこうにか、学生生活を送っていたからであり、特に年に二度の授業料の納付期限が迫ると、それがいつしか、アルバイトの合間に授業に出るような、そんな生活を過ごしてきた。
かといって、そんなに悲惨な暮らしというわけでもなく、それなりに友達と遊びに行ったり、たまにアルバイト代が入ると焼酎買って、下宿で冷奴つまみに、友人と焼酎飲みながら、将来の夢を語り合い、政治の愚痴を言い合って、よく飲み明かしたものだった。だから決して楽ではなかったが、昔でいうところの苦学生かと言われると、それもまたそれほど恐れ多い暮らし振りでもなかった。
黒岩は、なんやかんや言っても”今や俺は大手企業のエリートサラリーマンじゃ”と自負するところがあった。
しかし、いざ会社に入社して、最初与えられた仕事は、なんだか、当てにされているやら、諦められているやら、来る日も来る日も、仕事はコピー焼きと資料整理ばかりで、学生時代、就職先を選ぶときにも、学生課の前の掲示板に、張り出された求人票の中から、まず第一に、年間の有給休暇日数がどこが一番多いかということと、第二が、学生のあこがれる会社ベスト20に名前が並んでいたことと、初任給は、はっきり言って見劣りさえしなければ、それでいいというくらいが、当時の黒岩の就職先の選択理由の主なところで、特段、職種的に企画部希望とか営業職とか、そんなことに対するこだわりは、ほとんどなく、ただ何となく、何だか他人に言う時“カッコいいなぁ!”とか“すごいじゃん”って誰しもが、そういってくれそうな、そんな職場であれば、はっきり言って、仕事内容などはなんでもよかった。
またそれに、医者や弁護士になれるほど頭も良くないし、決して有名大学と言えるような大学でもなければ、当てにできる先輩がいるわけでもなく、とりあえず、他人にちょっと威張れるような会社に入れれば、十分だったのである。そしたら、合コンの時もも、少しは、ちやほやされるかもしれない、という程度しか考えても、期待もしてはいなかった。
会社に入って、何がしたいかなんて、何も考えてもいなかったので、いざ入社してからも、今やっている雑用仕事にも、それほどの不満もなかったし、そこに執着心もなかった。まぁこんなもんかと開き直れば、そんな仕事で一日過ごして、給料がもらえるなら、こんな楽な商売は、アルバイト時代からすれば、楽なもんだとも思っていた。そんな普通の日常が続き、入社してしばらくのこと、ある日先輩から
「おぉい!新入り、今夜一杯やるか?歓迎会やってなかったからなぁ。お前も一杯付き合えよ」と突然飲みに誘われた。
その夜は、同じマーケティング課の先輩二人と合わせて3人で、新橋のガード下の小さな居酒屋で、焼き鳥と生中で乾杯ということになった。
「ところで黒岩、お前このままで悔しくないのかよ、今のままで。」と唐突に聞かれた。
「今や、お前の同期の連中は、もうすでに一人前の案件を任されて、毎晩残業に明け暮れているというのに、お前ときたら、毎日下らない仕事ばかり押し付けられて、挙句の果てが、先輩や上司を差し置いて、決まったように定時になったらさっさと一人で帰りやがって、まったくもう。!」と思いっきり、一人の先輩から黒岩は罵倒された。
「えぇ・・、そうなんですか?みんなそうなの・・・」黒岩は、突然そんなことを言われても、ただただ上司から言われたことは、しっかりやっていたつもりでいたし、まさか、同じくして入社した同期の連中が、そんなに当てにされて仕事を任されていたとは、黒岩はそのことを聞かされるまで、全く知らなかった。隣に座っていたもう一人の先輩も、大きく深くうなずくばかりで、すでに顔を真っ赤にして、一言
「そうなんだよな。おまえもな・・・、俺と同じ道なんだよなぁ、まあ、お前も早めに出世を諦めるんだな、俺らみたいな、二流大学出はなぁ。」とぼやきだし、この先輩もまた、取り残され組の一人でもあった。
あとで知ったことには、こういう大手企業の場合、出身大学がどこかが、ものをいう社会で、名前の挙がった同期の連中は皆、有名一流国立大学の出身者ばかりだった。
そしてやはり、大学時代の先輩後輩の関係性は大きく、上司に大学の先輩がいるとその荒廃は可愛がられ、早々にいろんな仕事を任され、また要領のいい後輩の方もまた、先輩に媚びるようにゴマをすり、先輩にすり寄っていき、会社の入社試験でも、面接の時に先輩たちは、人事課に事前に話をつけておいて、最終面接前から、無条件に、採用が決まるということなど、アルバイトに明け暮れてた、二流大学出の黒岩にとっては、まるで別世界の話であった。
そういう訳で、社内にも、そういういわゆる学閥と呼ばれる派閥があり、出世街道をひた走りに進むものと、それから外れた、いわゆる非主流派は、万年係長で終わる人が、存在するという厳しい現実を黒岩は初めて知った。
それを聞いてしまった黒岩は、急に毎日コピー焼きばかりやらされていることが、急に馬鹿らしくなり、かといってあてになるような大学の先輩がいるわけでもなく、のんびり構えていた自分に、呆れ返っていた。その時初めて、実社会っていうものは、そういうものなんだと改めて黒岩は学んだ。
その翌日から、黒岩はここから這い上がるためには、何をすべきなのか彼は真剣に考えた。そして答えは二つだった。
その一つが、いち早く今の会社を辞めて、新たなチャンスを手にするために、早々に違う会社に転職するか、それとも今の会社で生き残るために、同期の人間を引きずり下してでも、成績を上げて上司に認めてもらい、這い上がる道を選ぶかの、どちらかしかないと思った。そして早めに出世を諦めることも重要な選択だと考えた。
しかし、何の間違いかは知らないが、折角まぐれでも勝ち得て入った大企業、みすみす棒に振ることはない。どんな手を使ってでも、上司の目を引く仕事に着かせてもらい、社内で評価を得る仕事をして、自分の実力を認めてもらうしかないと黒岩は覚悟をきめた。
そして、ようやく少しその可能性を秘めた仕事がそんな黒岩にも回ってきた。
それは、決して派手なものでもなかったが、少しは今までの仕事から比べると、遣り甲斐のある業務であった。
それは、雑用仕事ではなく、黒岩にしてみれば、紛れもない業務と呼ぶに値する代物であった。
小さな無名の地方の会社であったが、新商品のプロモーションというものであった。
しかしはっきり言って、会社としては殆ど、当てにしていない業務で、関連会社のお付き合いの一つくらいのもので、利益率は低く、ましてその新商品がヒットする可能性も低いところにきて、契約の報酬は成功報酬型ということで、ヒットしなければ、経費も出ないという代物で、そんなあてにもできない業務に、可愛い後輩を充てられるかと言わんばかりに、黒岩ににお鉢が回ってきたのだった。
強いて言えば、まるっきり捨て駒のような業務であり、競馬の穴馬狙いほども、社内では期待することはなかった。あわよくば、持ち出し経費が少なければ、それだけでOK!という代物であった。
しかし黒岩にとっては、それは数少ない起死回生の重要な業務であり、これをしくじれば、この次がいつ来るかもしれないし、一生冷や飯食らうことにもなりかねないと、危機感を募らせていたが、実際に成果を上げると意気込んではみても、もともと使える予算も限られており、商品のプロモ^ションのためにその会社に直接出向いて、その商品のセールスポイントを直に、商品を前にしてヒヤリングするにも、何分その会社が片田舎のために、出張旅費が無駄だとかで、出張すら認めてはもらえなかった。
商品のアピールポイントも、メールのやり取りと、数少ない商品の画像データが送付されてくるだけで、あとは一度も見てもいない商品を、如何にも素晴らしいものだと訴えかけるなんて、はっきり言って詐欺まがいのようなものだと黒岩は良心の呵責すら感じていた。
しかしここで諦めるわけにはいかず、しつこいくらいに、相手の会社の営業担当者と、何度も電話でやり取りし、自分で納得いく仕事とも思えなかったが、自分をここから這い上がらせてくれる唯一の女神だと信じ、何とか商品の宣伝広告の格好をつけた。
クレームが来ることもないだろうというところで、自分を納得させ、上司に決済を上げると、すると上司はほとんど目を通すことなく、折角執念を燃やした初仕事は、ただめくら判を押され決済が取れ、すぐさまクライアントにメールでデータを送信して、納品完了というあっけらかんの幕切れであった。
上司にしてみても結果はどうでもよく、期限内に業務が納品できればそれでいいと、あからさまにいわれているような扱いであった。それが黒岩が手掛けた、この会社の初仕事だと思うと少々自分ながらに情けない気がしていた。
そして翌日クライアントから返信メールが来ていたので、目を通すと成果品の出来に社長もご満悦とのことで一安心した。
それから一週間も過ぎたころ、先方の担当者から黒岩宛に一本の電話が入った。何事が起こったかと内心心配しながら黒岩は受話器を取ると、
「黒岩さんありがとうございます。お陰様で、当たりましたよあの広告。注文殺到です!本当に助かりました。」
黒岩は少し自分の耳を疑った。実際は、あとで聞くと同時期に、偶然ローカル局のテレビ番組で地域の特産品紹介コーナーで取り上げられたのが、効を奏したようだったが、何分結果オーライで、商品が売れたことには違いはなかった。
契約が成功報酬契約で、売れればその原因が何であろうが、そんなことはこっちにすれば知ったもんじゃなかった。社内では、地元テレビ局の特集コーナーで紹介されたなど誰も知る由もなく、それは黒岩の努力と実力の成すところとなった。黒岩は少々後ろめたさもあったが、社会は勝負の世界、買ってもらって何ぼだと自分に言い聞かした。
そして、それがきっかけとなって、ひょんなことに次第に黒岩のところにも、少々それなりの仕事が回ってくるようになった。
その頃から黒岩自身、何だか急に”自分って凄い奴なんだ”と思うようになっていった。ある意味での、いい言い方すれば、仕事に自信が持てたという見方もあるが、はっきりいって、気づかぬうちに単に、うぬぼれ始めていたののであった。
その変な根拠の乏しい自信は、時として、今まで、黒岩の心の中でくすぶっていた、学生時代から抱いていたコンプレックスを結果として、払拭してくれることになり、人間はやはり、どうであれ自信を持って生きていくことの大切さを、実感させてくれていた。そしてその自信は、やればやったで、自分はできるという確信に変わってゆき、黒岩にも仕事が段々と面白さを感じるようになり、着実に仕事の上でも、それは成果になって表れ、いよいよ、いや、ようやくそれなりの大型プロジェクトの一員として、黒岩も参加することが出来た。
うぬぼれと高慢は海の中に
それは、業界トップシェアを誇る、大手自動車メーカーの新車種の販売記念のプロモーションであった。高級志向が高まる日本市場の中で、その新車種とは、企業の社運を賭けた“最高級車”が謳い文句であった。プロモーションの製作予算も、今まで黒岩分が手掛けた案件とは、比べ物にならないほどの額であり、黒岩も自然と気合が入っていた。
これに成功せれば、今まで自分の中で燻っていた、劣等感に似た妬みを払拭できると思った。
黒岩は、貧しい家に生まれ、折角親が大学に無理してでもと、入れてもらった大学なのに、極貧生活のあげく授業にも出ず、好む好まざるに関係なく、朝から晩までアルバイトを掛け持ちする暮らしを送り、ようやくのことで大学を卒業して、一流大手企業に就職できたかと思いきや、有名一流大学卒の同期の連中に先を越され、一から十まで自分は、なんてついてない男だと呆れていたその自分が、ようやくその呪縛から解放された気がしていた。
彼は彼なりに、いろいろと今回のプロジェクトに燃えるものがあった。自分なりに高級車イメージを膨らませ、自分なりのプロモーション実施計画案を練って、次回のプロジェクトミーティングに提案できるように、周到に準備をしていた。
入社以来どちらかというと、黒岩は、いつも諦めムードで仕事に臨み、まあ上司に怒られない程度に仕事をしていれば、それで満足だったが、最近の彼の仕事の取り組み方は、他人を蹴散らしてでも、追い越していくことに快感を覚え、それが原動力となって、勝者になることこそ、すべての幸せの源泉だと思い込むように、大きく変貌することとなっていた。
そして”敗者は去れ、無能なものは自業自得だ”と決して口にはしないものの、そう心の中で思うようになっていった。
そして、プロジェクトミーティングの当日がやってきた。自分自身が練りに練った実施案が、ミーティングのプレゼンで、その独創性が高く評価され、何とその後の編集会議で、彼は制作チームのリーダーに抜擢されることとなった。それは異例の昇格であり、同僚どころか、一期先輩をも差し置いてのものであった。彼は、社内派閥の後ろ盾もなく、まさに実力で勝ち取った勝利であった、と黒岩は勝手に思っていた。
「何が一流大学だ、何が先輩後輩だ」と嘲笑った。そして脇目も振らず、他人の意見にはほとんど耳を傾けることもなく、自分の与えられた責務を全うするためには、少々の強引さと、犠牲はやむを得ないと割り切っていた。仕事に私情を挟むことは、禁物であると考えていた。それが彼なりの美学であり、そのこだわりこそが、プロだと自分を納得させ、要は結果を出すことだけに専念した。
その後の会議で、今回のプロジェクトの実施要領は、以下のように決定した。
一.本商品のターゲットは、富裕層は勿論のこと、シニア層全般を対象に広げ、幅広いニーズを対象とする。とし、特に男性中高年層の顧客にターゲットを絞り込む。
二.この車種が持つ高いパフォーマンス、そして高級感と高い機能性を鮮明に打ち出すこと。
三.国内販売だけでなく、伸び白の大きく期待される、海外市場にも顧客層を見据えた、ハイクオリティーが要求される。
四.本案件は、単独発注ではなく、今後クライアントから、後続車種が連続で販売される予定のため、本案件の成功は、今後の我がマーケティング部の展開に、大きな影響を及ぼすものであること。
黒岩が所属する部署は、マーケティング部企画課で、社内にはその他に部内に制作チーム、それに総務部、経理部、法務部などと連携を図って事業を進めていくことになっていた。
昨今、何かとコンプライアンス重視で、たとえ見た目が良くても、何らかの権利侵害や反社会勢力との、かかわり等には細心の注意を払わねばならず、クライアントとの、銀座の高級クラブの接待等も慎むべし、と事前に通達が出ていた。
先輩の話では、かつて仕事は内容半分、銀座のクラブの飲み会接待、接待ゴルフ、接待麻雀の付き合い、お中元お歳暮の季節の付け届けなど、業務外の方に頭を使うことが、常識だったと先輩からは聞いていたので、黒岩もずいぶん時代は変わったんだなぁと思った。
特に今回のクライアントの特異性を考えると、それも当然のことで、ほんのわずかなスキャンダルも、会社の株価に大きく影響を与えかねない時代だったからである。
黒岩は、早々に上司に呼び出された。黒岩は何だか嫌な予感がしていた。
今まで、このパターンで呼び出されるときに、良かったためしがないからであった。担当係長を飛び越して、課長直々に呼び出されたので、一定の覚悟はしていた。
黒岩は、直立不動で課長のデスクの前に立つと、それは意外な内容のものであった。
「本案件は、会社にとっても大きな利益が見込まれ、少しくらい無理してでもいいから、思いっきりやってこい、とのお墨付きを部長からも、いただいている。心して掛かるように。」ということであった。
今までは、予算が厳しいからできるだけ無駄な出費は極力抑えるようにとか、法律に照らし合わして、際どい行為は十分慎重に、製作費用はできるだけ安くあげるようにと、いつも口癖のように言われていたので、今回のプロジェクトでも、当初同じことを口が酸っぱくなるほどに聞かされていたので、一定の覚悟はしていたが、意外な答えが課長から帰ってきたのにはさすがの黒岩も驚いた。
「今回は、予算には余裕あるから思う存分納得のいく、いい仕事をしてくれたまえ。業務に総力を挙げて、力づくで取りに行け!」というお達しであった。
黒岩は、この話をうけて俄然張り切った。これぞ、初めて手掛ける、遣り甲斐を感じる一大プロジェクトになると、黒岩は心の中で確信した。そして、自分自身を奮い立たせた。
そして、黒岩の独創的な発想は、他のメンバーのそれを寄せ付けなかった。黒岩のリーダーとしての自覚は、プロジェクトを遂行していく上で、強力なリーダーシップを発揮した。というか、言い方を変えれば、強烈な独りよがりで、他の意見を寄せ付けることはなかった。
彼は学生の頃、いくつものアルバイトをした経験があり、二度ほど映画のエキストラのバイトもしたことがあった。しかも、かの有名な黒沢監督の遺作となった作品に、エキストラであれ何であれ、
「この俺が出演するんだ」と友人に自慢気に話したことがあった。
エキストラの出演者の選考基準は、できるだけ、特徴の少ない、どこにでもいる中肉中背の普通の人、ただそれだけであった。要は、身長は高かすぎず、低すぎず、太りすぎもダメ。目立たない存在でありさえすれば、誰でもよかったのだ。だから彼でなければならない理由は、いうまでもなく何一つなかった。
しかしともあれ、彼らの言う選考基準をパスして、黒岩は無事にエキストラ出演が決まった。
そして、初めて本物の映画の撮影現場に立ったのである。それも黒沢映画である。この上もないシチュエーションであり、周りには一度は映画やテレビで目にしたことのある有名俳優ばかり。しかも皆そっくりさんではなく、紛れもない本物であり、監督もカメラマンも皆本物であり、黒岩にとっては、少しビビりつつも貴重な経験をさせてもらった。
たかが、誰でもいい出演者であり、エキストラとは、その人のキャラクターではなく、景色の一部に過ぎない登場者であったが、同じ撮影現場に実際に立つことに、重要な意味があり、有名大物俳優と大物映画監督と同じ空気を吸っていた、ということに大きな価値があった。
ある日たまたま、ミーティングの後、プロジェクトチームの仲間に声をかけられ、帰りがけ同僚と
「久しぶりに一杯やってくか!」ということになり、いつものなじみの居酒屋ではあったが、その夜は、つまみはいつもの焼き鳥と冷や奴ではなく、刺身の盛り合わせを注文し、先日、店主が特別に産地より直接取り寄せたという、幻の銘酒新潟の地酒“久保田の万両”を黒岩は一升瓶でキープした。
黒岩はその頃、入社当時からすると懐にも少し余裕が出てきていて、酒を飲むときも、先ず恰好からで、地酒を飲むこともステイタスの一つであり、今までの、いかに安く、早く、簡単に酔えるかではなく、こだわることに、何とも言えない勝者の戦勝品のような香りを感じ、優越感に浸れる瞬間であった。
その時、たまたま学生時代の思い出話になり、つい黒岩は、酒の勢いで、自分の心の中に、しまい込んでいたことを口走ってしまった。
「俺、実はさ、昔黒沢映画に出演したことがあるんだ。その筋にはある程度顔が利くから、今回の仕事で何かあれば、みんな遠慮なく、俺に言ってね。」と酔った勢いで、つい口が滑ってしまった。
「あぁ、しまった!」と思った時には、時すでに遅しで、
「本当の話かよ、おまえって実は、本当はすげぇ奴なんだなぁ。知らなかったよ、全然!。」
「尊敬しちゃうよな、今のうちに、サイン貰っておいた方がよさそうだよな。うちのかみさんに見せたら、きっと喜ぶぞ。それに子供たちもきっとお父さん、そんなすごい人と一緒に仕事してるんだって、子供の学校でも評判になるかもしれないや、こりゃ。」
「いやぁ参ったなぁ、かんべんしてよね」と、でもまるっきり嘘つた訳でもないから、まあいいかと頭を掻きながら、黒岩は、急いでその場の話題を、何でもいいから、関係のない話題に切り変えた。
しかし、その恐れていたことは、即座に現実になって表れた。
翌日には、会社の女子社員の中では、早速、噂話に花が咲いており、いつもの給湯室井戸端会議のもっぱらの話題は、「ねぇ知ってる?うちの社内に元映画スターが居るんだって。それってだぁれ?」だった。
わが社の社員数は、全部合すと約6000人超。その中で黒沢映画に出演した映画スター、ではなくエキストラを探すなん、夜空で四等星を見つけるようなもので、かつて流行ったあの絵本“ウォーリーを探せ”よりも数段難易度は高く、たとえ、どんなに黒沢映画の大ファンだとて、その姿を見つけることは、ほぼ不可能だった。俺が、たとえその人と同じエレベーターで同じになったとしても、誰も気づくものはいないはずと黒岩は思っていた。当の本人ですら、自分の出た映画が、全国一斉ロードショーが封切られて即、観に行ったが、当の本人ですら、本人の姿を見つけることが出来なかったくらいだから。
しかしその話は、まことしやかに、いつまでも、この会社内では都市伝説として、未だに言い伝えられているらしい。実に怖いものである。
しかし黒岩は、いつしか”くそ度胸”と根拠の乏しいあり得ないほどの自信が、彼を包み込んでいった。
ある日、新発売の高級車で、ニューヨークのマンハッタンの真ん中を通るブロードウェイを、華麗に走り抜ける有名映画俳優という大胆な演出を、クライアントに提案したところ、
「本当に出来るんですか、そんなことが。実現できるんなら実ににすばらしいですよね、黒岩さん。」と二つ返事で、承諾してもらうことになった。。
今回のクライアントからのゴーサインを受けて、早速、大手芸能プロダクションに出向き、直接その件について掛け合うこととした。
その内容は、海外で通用するハリウッド映画の出演経験のある大物俳優という条件であった。プロダクション側からは、有名俳優の名前がいくつか挙がったが、その中から、黒岩は、大胆にも、ダメもとで”渡部 兼”の名前を挙げ、出演依頼すると、なんとみごとプロダクション側から出演の承諾を得られた。
しかし、あとで考えると、大手芸能プロダクションが話に乗ってくれたのは、黒岩が熱心にプロジェクトの構想を語りかけた、からであった訳ではなく、大物俳優が、その企画に心を動かされた訳でもなく、依頼人が、天下の大日本プロモーションだからであり、内容が日本を代表する自動車トップメーカーのプロモーション企画であり、それに単に、出演のギャラが高かっただけのことであったが、黒岩にとっては自分の実力の賜物だと当時、本人は信じ切っていた。
早速、カメラマンと数人のスタッフを連れて、アメリカに渡り、ニューヨーク入りして、現地スタッフと入念な打ち合わせを行うこととした。
今回、売り出す高級自動車を実際に用意してもらい、実際のマンハッタンのブロードウェイの目抜き通りを、ダミーのドライバーを使って、何度も繰り返し走行させ、カメラアングル、背景、空模様まで詳細にチェックした。相手は大物俳優なので、出演料も安くはなく、しくじる訳にはいかなかったからだ。
黒岩は、如何にも本物のプロデューサーのように、帽子をかぶり、いつも掛けないサングラスをして、椅子に座り込んで、メガホンまで用意していた。ついでにズボンもスラックスではなく、ジーンズ姿の装いで、その頃、彼の持論は、先ず恰好からで、実利は、そのあとからいくらでもついてくると思っていた。実はこれは、実際昔、伝説のあのエキストラのバイトをしていた時に、撮影現場で自分が目にした、あの光景をうる覚えながら、自分なりに少しアレンジしていたにすぎなかったが、黒岩は思い込みの激しい性格で、その時はなんちゃって監督になり切っていた。
周りのスタッフからは、「さすが黒岩さんですね。まるで黒沢監督が実際に居るみたいですね。」と言われて、黒岩は思わずズキっと背筋に電気が走るのを憶えた。
そして、その執念にも似た黒岩の努力が功を奏し、成果品は上々の出来で、制作資金に物を言わせて、大物俳優を起用した甲斐あって、アメリカのブロードウェイを、爽快に走り抜ける高級車という、当初思い描いたイメージ通りの仕上りになった。
黒岩は、撮影したばかりの動画を見直して、きっと世のおじさん方を唸らせること、間違いなしと確信していた。そして、すぐにとんぼ返りで、帰りは、ケネディー国際空港からJALの成田行きの直行便のビジネスクラスで、帰路についた。
社内で早速撮り温めたビデオを試写すると、関係部署の人間をはじめ、いつも辛口評価で有名の社長までもが、絶賛するほどの出来栄えであった。
そして、やがて社内決裁が出て、直ちにUSBメモリーにデータを落し込んで、クライアントに納品した。
メーカー側の評価も非常に良好で、早速営業会議にかけて、本格的に、それをCMとしてゴールデンタイムに、全国放送でオンエアする運びで、そのスケジュールをテレビ局と打ち合わせをし、早々にオンエアが決定されたという返事を受けた。
そして、いよいよオンエア当日がやってきた。プロジェクトメンバーも、テレビモニターに映像が流れるのを、固唾を呑んで待った。メンバー全員、モニターの前に釘づけになっていたが、放映はゴールデンタイムだけで、昼間の時間、みんなが会社にいる時間帯は、テレビではいつものテレビショッピングと今夜の番組宣伝ばかりで、肝心の自動車のコマーシャルは、流れることはなかった。
メンバーは皆残業しながら、ゴールデンタイムが来るのを待った。いよいよテレビに、その映像が流れると評価は、バッチリでオフィースは歓喜に包まれた。
「おぉ出たぞ!出たよ出た。いいじゃん、いいじゃん、結構いけてるよこれ。」
「うん、確かに行けてるぞ!こりゃ行ける。」
「いい感じじゃん、カッコいいな、渡部 兼に高級車、似合ってるぞ、黒岩!」テレビのモニターにCMが流れるとチームのメンバーは、テレビの前に釘付けになった。
他人の成功と妬み
しかし、そこには、ある種の違和感を黒岩は感じ取っていた。何か同じフロアーの中なのに、何か違う異種の空気が、どこからか流れていることを敏感に察した。
しかしそんなことは、その時はどうでもいいことで、特段気にするほどのことでもなかった。その空気はあっという間に消え失せて、感じなくなっていたのである。
企画課の課長が、
「ようし、今夜は打ち上げとするか。今夜はすべて俺の驕りだ。パーッとやるか。黒岩、お前どこか場所抑えておけよ。」しかし、しょせん場所と言っても、どうせいつもの居酒屋であり、黒岩はすぐにメンバー全員の席を予約した。
いつもケチで有名の山之内課長であったが、その日はみんな仕事を早々に終わらせて、夜の街に繰り出すこととなった。
チームのメンバーが、揃ってドアを開けて帰ろうとしたそのとき、そのうちの一人中山が、
「今日は、母親の具合が悪く、世話しなけりゃならないので、お先に失礼します。」と突然言い出した。
「ああそうか、残念だが仕方ないな。ご苦労様だな、気をつけて帰れよ」と山之内課長が答えた。
ということで、その夜は一人欠席ということで、会社を出ようとしたとき、黒岩には、またもどこから発せられているのかわからない、青白く鋭い視線が、自分の背中を刺すような気がした。
しかし、その時に感じ取った違和感が、後々大きな波紋の火種になることなど、誰も考えることはなかった。
例のCMがオンエアされて、一週間ほどたったころか、一本の電話がクライアントの担当係長の小杉さんから黒岩に入った。
「黒岩さん結構行けてますよ!例の新機種。視聴者からCMオンエア直後から、問い合わせが引っ切り無しで、早々に注文が殺到してますよ。CM効果抜群ですね。先ずは、取り急ぎ一報までにと思いまして。詳しいことは追って改めて連絡しますから。」という内容であった。
先ずは、幸先のいい吉報を聞けて何よりで、黒岩は肩を撫でおろした。それは、今回のCM製作には相当の経費がかかっており、黒岩は内心びくびくしていたので、すぐに係長にその旨を報告し、山之内課長にもその場ですぐに、その旨の吉報が挙がった。
暫くして、黒岩のパソコンに、新着メールの着信メッセージのポップアップが現れ、その送信元を見ると、それは山之内課長からでだった。
「やれやれだな黒岩君、ご苦労だったね。おめでとう。」というものだった。
最初、目の前にいながらにして、わざわざメールじゃないだろと思ったが、そのあとふと
「あっそうか」、このフロアーには、チームのメンバーばかりじゃない。ほかの社員のことを気遣って、直接、他の社員に聞こえるように、成果を褒めるわけにはいかない。だからわざわざメールにしたのかと気づいた。
そして、それと同時に山之内課長もひょっとして、あの得体の知れない青白く鋭く、また冷たく光る視線をどこかで、感じてたのかもしれないと黒岩は思った。
そして、それもやはり気のせいではなかったのか、考えすぎではないかもしれないと思った。
黒岩には、それ以来何とも云えない胸騒ぎと、冷たい空気にどんどん包まれていく、恐怖を感じずにはいられなかった。
その後も新車販売台数は、順調に推移し、メーカー側は当時の高級車志向に拘り、車内全体を、本革の内装、エンジン、排気量等フルスペックを標準仕様としたため、販売価格が相当高額になり、販売台数自身に、大きな期待は寄せておらず、経営陣からは、市場を無視した設計部と製造部の暴走だ、とまでいわれる意見も上がった。しかし、時代は世の中に高級志向が高まりを見せ、株価の日経平均は右肩上がり上昇を続け、都心部の地価は高騰を続け、銀座四丁目の地価は、名刺一枚分で北海道の農場が一つ買えるほどにまで高騰し続け、日銀が行った異次元的金融緩和による景気対策が功を奏して、日本経済は天井知らずと言われる時代に突入していった。それがいわゆるバブル景気の始まりであった。
一般市民の平均所得こそ、あまり上がらなかったが、富裕層の人口は増加傾向で、投資家、不動産売買、そして輸出関連企業などは、軒並み史上空前の高い利益を上げていた。
そのために、一部の層の人々にとって、今回の、新発売の国産最高級車は、金に糸目をつけない人々にとっては、販売価格の高い、安いなどあまり関係はなかった。高級自動車は、実用性というよりあくまでステイタスの表し方のひとつにすぎなかったのだ。本当に必要であれば、一人で複数台の高級車を買揃える必要などはなく、イタリア製のランボルギーニカウンタックや、ドイツ産のポルシェなどと比較すれば、割安なお買い得商品くらいに映っていたのかも知れない。
その後も、新車販売は好調に推移し、メーカー側の上層部にしてみれば、想定外の販売台数の伸びに、ただただ驚くばかりで、そしてそれは国内市場に留まらず、お隣の中国における高級車需要の伸びは、異常なほどであり、その伸び率は日本市場の軽く数倍はあった。それは企業側にしてみれば、まさしく嬉しい誤算であり、笑いがとまらなかった。
と同時に、同社の株価もうなぎ上りに上がり続けていて、同社の期末の決算でも、経常利益は会社創設以来の高い最終利益を計上していた。
販売状況は、クライアントの担当者の小杉さんより報告メールが、黒岩のところにも逐次送られてきていて、都度上司にもその届いた状況報告メールを、そのまま転送していたので、情報は常に部長、課長、係長には共有されていた。黒岩は販売の好調を喜ばしく思っていたが、それはまた、本人の態度や行動にも変化をもたらし始めていた。
社内の中でも、高慢な態度が目につくようになり、人を見下すような姿が、よく見受けられるようになっていた。その変化は、周りの他の社員にとっては、決して快く思う者はあまりいなく、嫌味に感じる者も少なくなかった。
しかし本人は、そんな他人にどう思われようと、そんなことは気にも留めてはいなかった。
そんな日のことである。新車販売が開始して、一カ月もたった頃だろうか、いつものように小杉さんからいつものような一通の報告メールが届いた。しかしいつものような事務的な文面ではなく、随分慌てている様子が、すぐに文章から読み取れた。
「緊急事態発生です。今販売中の同一車種で、エンジンルームより煙が出るというユーザーからクレームの報告があり。詳細は後日」と簡単で、明快な内容であったが、黒岩には、事の重大さはすぐに察知することが出来た。
翌朝、黒岩が出社してPCを開くと既に新着メールが来ていて、“昨日の続報”という件名で、その内容は、次のようであった。
「クレームの詳細を調査中及び原因究明のため、ただ今、緊急社内会議で議論中。設計部、製造部、車両安全試験センターの各メンバーが招集されました。国交省へのリコールの届け出を検討中とのこと。」
もしもクレームが事実であり、車両に致命的な欠陥が判明したら、販売台数どころの話ではなく、国交省にリコールの届け出を提出することになれば、販売車種すべての販売済み車両についてはメーカー責任で無償で修理、回収を行うこととなる。
確かに、それに要する経費も多大ではあったが、それ以上に企業にとっては、安全に対する社会的信用、信頼を失墜しかねぬ事態である。そのことによる失うものは、単に金額では推し量ることのできない、莫大な損失になりかねない。
その頃、同社の株価は敏感に反応していた。
「なお、弊社では現在総力を挙げて詳細を調査中ですが、この事案に関しては、原因が明確になるまで、極秘事項として、取り扱いに関して十分な配慮をお願いします。」とメールの末尾を締めくくられていた。
黒岩は、事の重大さを鑑み、いつものメール転送をやめ、詳細がはっきりするまでは、このことは私の胸中にとどめて、軽はずみな行動はとらぬよう肝に銘じ、用心のため、そのメールをゴミ箱に移動することにした。
しかし、SNS上ではどこからその情報が漏れたのか、既に、そのことが世の中に広く拡散され、大きな騒ぎになっていた。
また、その頃メーカーでは問い合わせの電話が鳴り響いていた。
メーカー側でも、そのことを重要案件として、社長自らが陣頭指揮を執り、専門調査チームが編成され、各部署の代表メンバーが、緊急招集されていた。
先ずエンジンルームからの発煙の発生ということで、エンジン設計の担当者と車両安全試験センターの責任者が、原因究明に奔走した。先ず最初に燃料系統、排気系統、吸気系統、電気系統と各セクションごとに、試験データの分析検証が、徹底的に行われたが、発煙原因は特定できず、同車種の実際の車両を使った膨大な走行試験データと照らし合わせて、昼夜を問わず、各部署の担当者は、不眠不休で懸命に原因究明に当ったが、明確な発煙原因の究明にたどり着くことには至らなかった。
その後、製造ラインの検証が行われたが、実際に使われている部品数は膨大で、キーパーツは国産のものがほとんどであったが、周辺部品はコストカットのため、中国をはじめ、インドネシア、ベトナムなど海外工場で生産されているものも多く、その製造ラインの一から検証していくには、計り知れない膨大な時間を要することになった。
発煙の原因究明は、暗礁にのりあげてしまっていた。技術大国日本の威信をかけた、攻防の日々が続いた。
また、それと同時にすすめていたのが、エンジンルームの異常を申し出てきたユーザーに、直接その時の走行の様子、発煙時のエンジン音等の情報を、収集をしようとしたが、そのユーザーとなかなか直接連絡が取れずにいた。というよりユーザー自身を特定できずにいた。
ネット上では、SNSは同社の事故の記事は大炎上し、ある投稿では、
”走行中にエンジン突然爆発!!”とか
”突然、エンジンから炎が上がり、車両全体が燃え上がった”とか
”あっという間に、車体が火の海に包まれた!”などどんどんと話が錯綜し、話はエスカレートして行くばかりであった。ネット上では、フェイクニュースが入り混じり、誰がどうなったのか、真実は何なのか混迷をきわめた。SNS上で、本当の事実を特定することは、ほぼ不可能な状況に陥っていた。
そして国交省陸運局でも、事態を重く受け止め、各書き込みより、先ずその事態となった発端の究明を急いだ。調査の結果、一番最初のことの発端は、黒岩がメーカーの担当者の小杉さんから送られてきた、極秘事項という件名のメールをもらった日の前日に、本社の広報室に送られたクレームの趣旨が記載されたメールだ、ということが判明した。しかし、メールの送信元の名前は、石垣退助となっており、メールアドレスに再三返信メールを送っても、その後一度たりとも、相手からは返信が返ってくることはなく、音信不通となったまま、ほったらかされていた。
そのため陸運局は、発信者の特定のため、IPアドレスの情報開示をプロバイダーに請求し、IPアドレスの持ち主が、ようやく判明した。
しかし、それは事件発生当初から、メーカー側も早い段階で、再三プロバイダーには、情報開示請求を上げていたが、プロバイダーからは、例のごとく”個人情報のため、開示を差し控えさせていただきます”と簡単に一方的に、情報開示を拒否されていて、裁判所への訴訟を社内で検討していたが、今回は捜査権限のある機関からの請求ということで、ようやく頑なに拒み続けていた、プロバイダー側も情報開示に協力し、送信元が、ようやく判明したのである。
その後、黒岩には思いもよらぬ事態が待ち受けていた。判明したIPアドレスから発信したPCを特定すると、なんとそれは、黒岩がいつも使用しているデスクにあるPCから、発信されていることが分かったのである。
そして、陸運局担当官の日プロ本社への社内立ち入り検査が行われた。そしてそれは、まさしく黒岩のデスクにあるPCのものであった。
しかし、発信されているメールアドレスは、誰でも作成できるフリーメールのアドレスであり、いつも黒岩が仕事で使っているものではなく、PC上には、それを確認できる痕跡は何一つ残されてはいなかった。きっとメールを送信した後、実行犯は、それをすぐにPCからすべて削除し、その確固たる証拠を隠滅していたのである。
その後、黒岩の捜査は、陸運局から警察庁に引き渡され、彼は、任意同行ではあったが、霞が関にある警察庁の取調室で、事情徴収を受けることとなった。最初、取調官は黒岩がいかにも実行犯であるかのように決めつけ、威圧的な態度で質問を始めた。
「なぜあんなことをした、動機はなんだ、怨恨か、お金目当てのたかり、恐喝なのか」と一方的に取調官は黒岩を攻め立てた。
「お前が、その会社と取引上かかわりが深いことは調べがついている。なぜ犯行に及んだ」、とそのほとんどの尋問は、犯行を最初から黒岩が犯人だと、断定的にとらえられている様子であり、質問というよりもむしろ、自白を強要されているのではないかと黒岩は思った。
その日は、夜遅くまで尋問が続き、ようやく帰れるかと思いきや、その日は、そのまま一日勾留されることになってしまった。まさか、鉄格子のはまった窓から、自分のいた高層ビル群を眺めることになるとは、想像もしたことがなかった。
その夜、黒岩は眠りに付くことはなかった。頭の中が錯乱していた、いや真っ白になっていたといったほうが正確かもしれない。それにしても、なぜわざわざ俺のPCを使用してメールを送信したのか、単なる嫌がらせなら、ネット喫茶にでも行けば、いくらでもフリーメールくらいなら送信できるはず、自分のPCは、アメリカ出張している時こそ留守していたが、その後は、ほとんど会社に出社していたし、夜帰るのも自分が大抵一番退社が遅かった。
その後は、出入り口のゲートは社員に与えられていたIDカードが無いと、外部者が侵入することができず、そこには守衛が居て、社屋への出入りを管理していた。そうなると、事務所に入って自分のPCを勝手に使うことなど考えずらく、考えれば考えるほど、頭の中がこんがらかって、一睡もできぬまま、夜明けを迎えることとなった。
翌日も、同じ質問ばかり繰り返され、ただでも前夜一睡もできずに、頭がボーとしていた黒岩は、
「刑事さん、もういい加減にしてくださいよ。同じ事ばかり、何度も何度も。こっちだって同じことばかり聞いていたら、頭が変になってしまいますよ。普通の人間ならやってなくても、やりましたって言っちゃいますよ、これじゃ。
そんなに疑うんなら、そのメールプリントアウトして、ここに持ってきて見せてくださいよ」と取調室で刑事にそう頼んだ。
「それは、重要な捜査情報だからそれはできない」と簡単に彼らから突き返されると今度は、
「じゃあ、メールの送信された時間だけでも教えてくれませんか?そのくらいならあんたでもわかるでしょ」と黒岩が再度刑事に詰めるると、仕方なさそうに、渋々メーカーの広報室に連絡をとってみたらしく、送信日時:〇月〇日午後〇時〇分すべて記録が残されていた。実は、彼は夕べ留置された部屋で、一人寝ずに考えていたのは、いつもここんところ、ずうっと残業続きで、自分は毎晩深夜まで作業していたはず。そうなると早く退社したのは、記憶が確かならば、山之内課長の誘いで皆で打ち上げで飲みに行った、あの日ぐらいしかなかったのだった。
その夜は、黒岩は紛れもなく、チームのメンバーと酒を酌み交わして、騒いでいた最中であり、その時に自分が一人会社の席に戻って、メール送信できるはずはなかった。特にその夜は、黒岩自身が一番はしゃいでいたし、一番目立っていた。刑事にその旨を伝え、
「今ここで、会社に電話して、その日のことをマーケティング課の山之内課長に確認してみろ!すぐにだ。そうしたらわかるはずだ。」と黒岩は強い口調で、刑事に向かって言い迫った。
それで、メール送信時間を自分なりに想定していて、もしも、その時間であれば、自分の犯行でないことが実証できると思い、刑事にそのメール送信した時刻を尋ねたところ、黒岩の予想は見事はずれた。
刑事が口にしたメールの送信時間は紛れもなく、その時間は自分がデスクに向かっていた、その時間であった。黒岩の考えは、確信に近いものだったが、それはまるで空振りとなって、その刑事の前で大恥をかくことなってしまった。
黒岩は、呆然と取調室の机の上で頭を抱え、そしてしばし黙り込んでしまった。
しかし、自分がやっていないことは、自分が一番よくわかっている事実であり、きっと何かそれを証明できる事実を、必死に頭の中で考えた。どこかに、その手がかりがないものだろうかと、頭を抱えたが、畳みかけられる、取り調べの刑事のくどいほどに繰り返される同じ質問は、余計に黒岩の頭の中を錯乱させるばかりで、黒岩は、考える前にその繰り返される同じ質問に、憤るほうが先に頭を占領し、彼の思考回路は、その都度ショートし、最後には、まったく機能しなくなってしまっていた。
それと同時に、このままじゃ、またあの鉄格子の部屋で、また一晩寝ることになると思うと、ぞっとして、取調官にしかたなく、
「ちょっと急に模様してきたので、用を足しに、トイレに行かしてもらえますんか、お願いします」と申し入れをして、何とか一人で静かに考える時間を作った。
しかし、それでも刑事が一人トイレの前の廊下で、黒岩を見張っていたので、黒岩は仕方なく、洋式の便座に腰かけ座りながら、あれやこれやと、あらゆる可能性を探ってみた。
そしてふと思い出したのが、メール送信にはタイマー送信機能というものがあって、それはまるで、時限爆弾をセットするかのように、送信日時を予めセットしておいて、メールサーバーにそれを送信し終わったところで、ブラウザに残ったタスクをすべて消去し、落ち着いたところで、予めセットした時刻にメールが相手に届くように、設定したのではないかと、僅かな可能性が残されいることに気づき、一か八か再度取り調べの刑事にそのことを告げると、
「あんた、本当に往生際が悪いんだよ、黒岩さん。いつまで、口からでまかせばっかりいってるつもりなんだよ、いいかげんにしろ!こっちだって、あんたの話はもう聞き飽きたんだよ。いい加減にしろ。」と薄ら笑いを浮かべながら、一方的に、人を犯人だと決めつけたかのように刑事は、黒岩にそう云い放った。
黒岩が思うに、犯人も相当慎重かつ精妙かつ綿密に犯行を計画し、犯行を実行したとしか考えられなかった。そのうえ、相当几帳面で用心深い性格なのだろうと、人ごとのように犯人像を一人で想像していた。そして、黒岩はしばらく黙り込んでいた。今更、今回の事件が誰の仕業かなど、もうどうでもよかった。黒岩は、あまりに人を馬鹿にしたような、威圧的な取締官の態度自体に腹が立ち、溜まりかねていたのであった。そしてついに、黒岩は抑えに抑えていた頭が切れて、
「さっさと調べろっていってんだろ!聞こえねぇんか、この野郎。こっちが大人しくしてりゃ、いいきになりやがって。それをいいことに、人をさんざんバカにしやがって、いいかげんにしろとはこっちのセリフだよ、ふざけんじゃねぇぞ、こん野郎!」ついに、黒岩は取り調べ室のデスクを叩いて、怒鳴り散らしてしまった。
黒岩の仮説が間違っていなければ、フリーメールのサーバーには、その痕跡は必ず残っているはず。それ以外に方法はありえないと、彼はその時自分の考えを確信していた。
しぶしぶ刑事は、取調室を後にしてメールサーバーの運営会社に問い合わせに行ったようであった。黒岩はその間、誰もいなくなった取調室で、一人手を合わせ天を仰いで”どうか見つかりますように”と祈った。
再度、刑事がサーバーの運営会社に問い合わすと黒岩の云った通り、メールにタイマー送信という機能があり、何者かが送信予約をしたことが判明した。そしてその時行ったタスクの時刻が、まさに先に彼が言っていた時刻とピッタリ一致したことが、ようやくわかった。
刑事は、いかにも不機嫌そうな、がっかりした顔をして、ぽつりと深いため息とともに
「おい、帰っていいぞ。」と一言いうと取調室から出て行った。
「『ごめんなさい。』の一言も言えないのかこいつ!、誤認逮捕したんなら、『私は間違ってました、悪うございました、あなたのアパートまでお送らせていただきます』、ぐらいは言ったらどうなんだ!」と口に出そうになったが、そんなことをいってみても、それも労力の無駄だと思い、大声を出すのをやめて、大きく深呼吸して、黒岩は静かに取調室を後にした。
その時、警察の問い合わせについて、山之内課長が間違いなく黒岩はその時間、その店にいたと証言してくれたので、ようやく無罪放免されて、二日ぶりに警察署を出れることが出来た。
黒岩は、余りに腹が立ちすぎて、警察署の正面玄関を出たとき、そのまま家に帰ろうか、それとも一人で、そこいらで一杯ひっかけて、憂さ晴らししようかとも思ったが、とぼとぼと歩いているうちに、会社に向かうことにした。さぞやみんなが心配して、待っていてくれるかもしれないと思ったからである。
しかし、オフィースの中の雰囲気はそれとは、まるっきり違っていた。
期待して黒岩はオフィースのドアを開くと、待ち構えているはずのメンバーは、デスクに座っていて、メンバーは皆揃って、まるでいかにも犯人が脱獄でもしてきたように、冷たい目線を黒岩に浴びせた。
そしてその後、マーケティング部の部長から早速呼び出しを受け、その前後の状況の説明を求められ、それに黒岩は、包み隠さず応え終わると、部長は言い放った。
「黒岩君、君しばらく自宅で仕事していてくれたまえ、しばらく出社してこなくていいから。」と。それは、黒岩には予想もしない言葉であり、褒められて、慰められることはあっても、いきなり部長からその言葉を発せられるとは思ってはいなく、自分の耳を疑った。
「何で俺が・・・・・????」
傲慢そして奢り
前回の、自動車メーカーの最高級自動車のプロモーション企画は、黒岩は社内でも高い評価を得ていて、ある意味では大成功であり、次に黒岩に与えられた案件も大型案件であった。JR全日本が、シニア層向けに国内旅行を喚起し、国が、国内経済の内需の活性化を促すという企画で、その事業費の大半が、内閣府が行おうとしている、地方創生事業の予算で賄われ、地方創生特命担当大臣の肝入りの事業であった。黒岩は、これに成功すれば、自分は二階級特進かもと密かに心の中で目論んでいた。
黒岩は、日本各地の今までに注目された有名な名所旧跡巡りではなく、グルメ旅でもなく、人知れず残っている各地方の“名もない古き良き日本の原風景を再発見する旅に出かけよう”というキャッチコピーを頭の中で、膨らませていた。
これも、シリーズ化を予算化することが、すでに閣議決定されており、いわゆる”地方創生事業”の一環で、半ば公共事業のようなもので、JRを通して地方の魅力を発掘して、地方の活性化を推し進めるというもので、地方の経済浮揚策のようで、実のところは、それの本質は当時の与党の地方票欲しさの政治的背景を色濃く感じさせられるものであった。
黒岩は、特段イデオロギー的な考えは、一切持ち合わせてはいなかったが、大学入学前、よくテレビで学生運動のことが取り上げられていて、七十年安保で京浜安保共闘と、機動隊が衝突する姿が、頭にこびりついていた。そしてそれは学生だけに留まらず、それに賛同したのが、大衆である一般の主婦、郵便局員、店の商店主までをも巻き込む、大衆運動になっていたからであった。その一般大衆を一方的に殴りつける機動隊の姿に、強い憤りを覚えた記憶があり、大学に入ったら自分も学生運動に参加しようと考えていたのだが、既に社会はすっかり落ち着いていて、一部の過激派学生が成田空港三里塚闘争に参加する学生は武闘集団として扱われ、またその頃、海外では連合赤軍の残党組は、テルアビブ空港乱射事件などで国際指名手配され、よど号航空機乗っ取り事件等インターポールからは、レッドアーミーと呼ばれテロ組織と指定され、その後メンバーは国家公安委員会のブラックリストに、国際テロリストとして名を連ねることとなっていた。
黒岩の大学入学当時は”学生運動に乗り遅れた世代”と呼ばれ、その後の後輩たちは、レジャーやテレビゲームに明け暮れるような、平和ボケ世代へと時代は、急激に変遷していったのだった。黒岩が、学生運動に加わったのは、最後の戦いといわれた成田空港開港反対運動で、三里塚鉄塔堅持と先輩から言われ、特別、サルトルでもマルクスでも毛沢東でもどうでもよかったが、強いて言えばノーベル文学賞を受賞した川端康成よりも、三島由紀夫のほうが好きだっとことと、その日は昼に弁当が出るということだけで、訳も分からず、中核と大きく書かれたヘルメットを被らされ、顔が隠れるように目だけを出して、手拭を口に巻きつけてシュプレヒコールの列に、戦う同志と共にもみくちゃにされながら、押されるようにジグザグ行進をしていたことがあり、だからその頃から黒岩は、ずっと政府の国民を無視したような嫌らしい動きと警察官には、人並みならぬ嫌悪感を抱いており、どうも気に入らなかったのである。
今回も、どうせと思ってもいたが、しかし黒岩にとっては民間仕事から比べれば、あまりクライアントの顔色を気にすることなく、事業予算もふんだんに確保されていて、発注者側も他人の金だと云わんばかりに、担当者もまるで他人事のように思っていて、お気楽なもんだった。
黒岩にとっては、またも願ったりかなったりの案件で、想像力は人一倍豊かな彼にとって、イメージは膨らむばかりであった。
前回のように、エンドユーザーの受け狙いで、映画俳優を起用するとか、海外ロケを断行するとか、ド派手なものではなく、あくまでもポイントは、どこにでも見かける普通の田舎の風景であり、そこに暮らす人々の日常から、その人々の人情や都会で失いつつある”温もりのある暮らし”に触れる旅を、演出してみたいと既に頭の中には、構想が出来上がっていた。
黒岩は少し今回は張り切っていた。お金に物を言わすのではなく、本当の自分の真の思いをぶつけてみたかった。そして何とか、企画を成功させてみたいと考えていた。少し人間不信に陥って、ぽっかり空いた穴を埋めてくれ、そして遣り甲斐を実感できる絶好のテーマのように思えてもいた。
そんな矢先に、部長からの突然告げられた、まるで”自宅謹慎処分”のような話に彼は愕然としていた。
「部長どうしてなんですか。私が何をしたと仰りたいのですか?自分には見当がつきません。自分は、納得いきません。はっきり言ってください。」と部長に喰い付くように問いかけた。
「まあまあ、黒岩君、落ち着きなさいよ。別に君を解雇しようって言ってるわけでもないんだから。君に罪がないことは、しっかりと立証されているんでしょ。安心して、しばらくちょっと社内に顔を出さないで、自宅でおとなしくしていてくれと言っているだけなんだから。決して懲罰を下すつもりで云っている訳じゃなく、残業続きで、君も少し体を休めてみるのも、いいんじゃないかと思ってね。」実に部長の言い回しは、回りくどく歯切れの悪い言い方であった。
「部長は、まだ例の一件は、私が犯人だとでも仰りたいのですか。もうすっかりそれは私が関与してなことは、立証されたはずじゃなかったんですか?」と畳みかけると、
「まあ、いろいろあってね。あれからもSNS上では“ステアリングの不具合で操縦不可能になった。」だとか、
「突然ボンネットが開いて前方の視界が消えた。」だとかそんな新たなフェイクニュースが、後を絶たないんだよ。それが事実かどうか、犯人が誰かなど、もう今や関係ない事態になってるみたいだ。
“実態としてそのような事実は一切発生しておりません”とメーカー側は懸命に公式ホームページにメッセージを掲載して、弁明してるんだけど、まるで効果はなく、いつの間にやら会社側はホームページからシステムの不具合と称して
”お問い合わせはこちら”というユーザーからの質問メールの受付ボタンまでもが、いつの間にか消されている。」と声を押し殺すように部長は黒岩に云った。
「これじゃまるで、小学生のいじめみたいなもんゃないですか、事実がなんだろうと」黒岩は部長に食ってかかった。
「それは、もう終わった話しなんだよ。クライアント側は、既に来期に計画されていた後続新車種の新規販売も、しばらく見合わせると発表されているんだ。君も今の株式市況ぐらい、チェックして見たまえ。すでにメーカーの株価は大暴落し続け、歯止めがきかない状況で、政府筋でもその事態を重く受け止めているようなんだよ。何も、君が悪いなんて言ってるわけじゃないんだ。それだけはわかってほしい。しばらくの間、身を潜めて、事態の収束を待つしか方法がないんだ。わかってくれたまえ。
俺も辛いが、常務からの言いつけなんだ。俺だって逆らうわけにはいかんのだよ俺だって。わかってくれよなぁ」と言い伏せるように黒岩に言うと、部長は席を立った。
もう既に黒岩には、反論する力は残っていなかった。
ただ茫然と自分のデスクに戻って、如何にも淡々と目の前に残っている業務をしているふりをして、ただただ、ぼうっとモニターを見つめていた。
再度、部長が席に戻るのを見て、部長に再度話をしにいった。
「仰ることはわかりました。お云いつけの通り、明日から自宅で仕事をすることにします。しかし今回のJR企画は、ぜひ引き続き、私にやらせてください。お願いします。しばらく出社せずに、日本各地の知られざる原風景を現地調査させてもらいたいのです。ぜひご了承願います。」と云うと
「わかった、了解しよう。その代わりに出張扱いはできん。先ずは有給休暇で処理するように。どうせ君は、あまり休みも取らずに仕事ばかりしていたから、十分繰り越しの分はあるだろう。出張旅費は、会社から出してやる。概算払いで、明日にでも君の口座に振り込んでおくことにしよう。会社としては、クライアントの手前、謹慎処分を下したということにしておきたいと、常務から指示されたんだ、許してくれ。」と淡々と告げると部長は自分のPCのモニターに向かってマウスを虚しく動かし、定まらないポインターだけが仮面の中をうろうろしていた。如何にも仕事をしているふりをしているのが、黒岩にもすぐにわかったんので、諦めて自分のデスクに戻ることにした。
すべて、自分のせいにだけして、ことを終わりにしようとしていることは、見え見えで、もうこれ以上お互い話する言葉が見当たらなかった。何とも後味の悪い空気が、お互いの間に立ち込めていたが、いつしかフロアーはまた、いつも通りざわざわした煩雑な雰囲気に包まれて、日常が戻っていた。
その後、昼から人事課に行って、有給休暇の残日数を確認し、その日数分、全ての休暇処理を申請し、五時過ぎには早々退社することとして、デスクの上を整理しだした。ふと気づくと同期のチームメートの中山も忌中休暇を取って早退していた。何やら母親が急死したそうだと係長から帰りがけ告げられた。
「じゃあ、あとはよろしくお願いします。」と、足早にエレベーターのほうに歩いていくと、給湯室の前で、ひそひそ話をする女子社員の会話が耳に入ってきた。
お茶のあとかたずけの時間なのか、“芸能人のだれだれが不倫した”とか”だれだれが結婚するだの”だの他愛もない話題で、盛り上がる唯一の女子社員の息抜きの場でもあった。それは男性社員の喫煙室のようなものである。
いつもは、聞き流して通り過ぎるその場所から聞こえてきた言葉が“黒岩さん”という自分の名前だったからだ。
「あの人ってさ知ってる?警察に、この間捕まったらしいのよ。何したのかしらね?刑務所に入れられたんだって。いつも威張り散らしてるから、罰があたったんじゃない。いつも人を見下しように、コピーしておけ!だとか頼んだ資料まだできていないのか!って威張ってるんだよね。そんなに云うんだったら“自分でやれ!って感じ。嫌な感じだよね。ねぇ、いつも。」
耳に入ってきた話は、しっかり自分の陰口であった。でもそれを聞いて、がっかりしたわけではなく“俺ってそういう風に見られていたんだ”って初めて、自分がどういう風に他人から思われているのかを知った。そして女子社員に気づかれないうちに、足早にその前を通り過ぎた。立ち聞きしているところに、鉢合わせするとお互い気まずい思いをするのも嫌であり、黒岩はすぐにエレベーターに乗り込み、慌ててドアを閉めようとしたら、突然一人の女子社員が乗り込んできて、ただただ二人は、下を向いたまま気まずい思いで、エレベーターが押した一階に着くのをお互い黙って待っていた。その束の間の時間は、黒岩にとって、果てしなく長く思えた。
心の中にぽっかりと穴が開いた気がした。今まで、毎日気が張り詰めていたせいか、ぷっつりと糸が切れたように、虚しさと脱力感で、会社を出たものの、そのままアパートに帰る気にもなれず、まだ陽の高いうちに、赤ちょうちんに灯のともっているところなんて、ないかなぁと思いながら、人通りのまだ少ない歓楽街をぶらついていると、のれんをかけている小さな飲み屋のおやじの姿が目に入った。
「親っさん、もう大丈夫?」とぽつりと聞くと
「いらっしゃい!ちょうどいいや。今店開けたばかりで、おつまみは少しお待ちいただくかもしれませんが、いいよ。それでは」と店ののれんを潜るや否や
「親父、冷で盛り切りでお願い、急いでね」黒岩は、あまり一人で飲みに行くことは、最近社会人になってからはなかったが、決して酒が嫌いな方ではなかった。また急ぐ必要もなかった。むしろ学生時代は安酒をたらふく飲んだ方だった、早く酔えるように、ビールに焼酎を割って飲んだものだった。その日は飲まずにはいられない気分であった。
酒で、ぽっかり空いた穴がふさがる気はしなかったが、飲まずにはいられなかった。その夜はずいぶん酒が進んだ。すっかり腰が据わってしまい、気が付いたら、いつの間にか店の中はかなりの客で混んでいて、黒岩にとってその日は、その店内のざわめきすら煩わしく思えたので、静かにもう少し飲み足りなかったので、早々に会計を済ませてその店を出た。
二軒目も、客が混んでいてビールを一杯だけにして、それでも呑み足らず、街をぶらつき、ちょっと落ちぶれた小汚い、いかにも流行りそうにない小さな破れかかった赤ちょうちんが目に入り、その店で一人カウンターで、もう一杯呑みなおすこととした。
「お客さん、もう閉店ですよ!・・・」と主に起こされて飛び起きた。
その夜はアパートに帰ったのも記憶にないくらいに久しぶりに、すっかり酔っぱらっってしまった。部屋に帰ってきた覚えがない!
憔悴と自己喪失
目が覚めると、頭が割れそうなくらいに痛い。すっかり酔っぱらってしまった。窓から差し込む朝の光が、顔に差し込み、あまりのまぶしさに、目を塞ぎたくなった。しっかり靴を履いたまま、玄関口で眠ってしまったようだった。
重い体を持ち上げ、ようやくの思いで、起き上がった。
郵便受けに突き刺さった朝刊を抜き取り、テーブルのある部屋にまで行き、ようやくのことで、椅子に腰かけた。起きたもののまだ頭はボーっとしていて、しっかり二日酔いで、黒岩は、窓越しに遠くの空をぼうっと眺めていた。
いつもは、仕事を終えるとアパートの辺りは、すっかり暗闇に包まれていて、陽の高い時間に外をゆっくりと眺めるのは、久しぶりのことであった。確か記憶では、引っ越しの時に、この部屋で、同じ窓越しに、辺りを見回したことがあったが、その時には、殆ど周りには高い建物などはなく、遠くに東京タワーが見えていたはずだったが、今はすでに、高層ビルが立ち並び、視界の殆どがタワーマンションやオフィースビルで埋め尽くされていた。いつの間に、と思ったが、逆にそれほど年月が経っていないはずなのに、無意識に自分自身が慌ただしい日常を送っていて、この辺りの光景の変化にすら、気づくことなく日々を過ごしていたのかと、少し寂しく思えた。
ふと我に返って、気づいたときには、もう昼下がりになっていて、冷蔵庫から冷えたミネラルウォーターの入ったペットボトルを取り出して、ラッパ飲みして、とりあえず昼ごはんでも食べにと、外に出た。
道脇の街路樹は、少し色づき始めており、あの猛烈な暑さから解放されて、頬を打つ風もほのかにひんやりと感じた。
ファミレスで、終わりかけのランチサービスを注文し、しばらくコーヒーをお代わりしながら、久しぶりにゆっくりと流れる優しい時間を味わっていた。
いつも、何かに追いかけられるような切迫感にかられており、大抵スケジュール表の期限に縛られて生きていたので、その束縛から解き放たれることの開放感が、たまらなく心地よく、それは、時として追い詰められていることに、慣れっこになっていた黒岩にとって、変に不安が付き纏うものでもあった。いつの間にか、縛られていることに安堵感を覚え、縛られていない自分がやけに不安でならなかった。
やはり、自分は時間泥棒に、自分の大切な時間を盗まれてしまっていたのかなぁとふと思った。
時間泥棒とは、ドイツの作家ミハエル・エンデの小説「モモ」に出てくる盗賊のことであった。
入社以来、仕事だからという言い訳で、業務に没頭し、そこに安心感を得ていて、高層ビル街に囲まれ、舗装された道、張廻らされた地下鉄に乗っていると、それが安心感を与えてくれ、何時しか、季節の移り変わりすら、感じずにいる自分に気づくことすらなく、年末年始以外、これという連休をとったこともなければ、学生時代好きだった、登山や渓流釣りに出かけることすら忘れてしまっていたのだった。いつも出張だというと、少し小さめのキャリーケースを転がして、新幹線に乗って行ったたものだったが、今回は身軽が一番と思い、押入れの奥にしまい込んでいた、使い込んだザックを背負って旅に出ることにした。
よく考えると、いつも上下スーツに革靴姿ばかりであったので、ラフな恰好でと思ったが、サンダル以外、そんな気楽な服装に似合う靴もなければ、気軽に羽織れるブルゾンすらなかった。
いざ旅に出るとなると、まず”そこからか!”と自分ながらに唖然とした。
そして、ファミレスの帰りがけに、近くの登山用品店で、軽登山靴と防寒用にヤッケを買い揃え、帰りがけに書店に立ち寄り、書店の店頭に並ぶ様々な旅行雑誌に目を通してみた。がどれも地方の食べ歩きか、高級温泉旅館の優雅な旅物語ばかりで、何となく、今回自分がイメージしているものとは、ほど遠いと思い、何も買わずに店を出ようとしたが、旅の必需品のポケットタイプの時刻表だけは買っていかねばと思い、それを片手に店を出た。
その夜は、久しぶりにたっぷり時間があり、優雅なひと時を堪能していた。冷えた缶ビールを片手に買ったばかりの時刻表の最初のページに載っていた、全国の鉄道路線図見ながら、今回は南の端から旅を始めようと南の島に思いを馳せらせていた。
時の流って、こんなにもゆっくりしていて、こんな都会の片隅の小さな部屋でも、こんなに静寂を楽しめるなんて、そしてこんなにも素敵なことなんだと、改めて、そのゆったりとした時の流れを噛みしめていた。いつもは、会社から帰っても疲れ果て、ベットに横たわるのがやっとで、すぐに眠りにつく。そして、気づけばいつも朝になっていて、食パンを咥えながら駅に向かい、満員電車に揺られて会社に行く。その暮らしが、ルーティーンでいつも慌ただしく時間が過ぎていた。
通常の出張であれば、羽田空港から那覇行きの便で、3時間の旅であったが、今回は時間には、たっぷり余裕があったし、急ぐことが嫌になり、買ったばかりの時刻表を眺めている間に、かねてから憧れのブルートレイン寝台特急「富士」に乗ってみたくて、強いて今回は西鹿児島行き寝台特急を選んだ、所要時間24時間の旅からスタートすることにした。
とはいっても、黒岩はまだ会社を辞めたわけでもなく、ふと我に返って、取材用の大学ノートを買っておかなくっちゃと思った。そして翌日、同期入社の製作チームの仲間に連絡して、会社にいる時に、予め段取りをとっておいた、会社の備品の一眼レフカメラと交換レンズ一式を借り受けて来てほしいと頼んだ。お礼に一杯奢るよと言って、同期の友人と仕事が終わったら、いつもの居酒屋で落ち合うことにした。
「元気でやってたか黒岩。課長に聞いたけど、お前病気でしばらく休むということで、心配してたけど、意外と元気そうで何よりだ。まさかそれって仮病?変だと思ったんだよ、病人が何でカメラ借りたいっていうからさ、変だと思ったんだよ。」と友が黒岩にJ話しかけると、
「まあぁ、そんなところだ。そんなことは、どうでもいいからまず、今日は飲もうぜ、お礼の代わりに、今夜は俺の奢りだ。遠慮せず好きなもの頼めよ。暫しの別れじゃ、友よ!」
「気持ちわるいよ、まるでお前、死ぬみたいじゃないか。お前まさか、会社辞めるつもりなんじゃないんだろうな。じゃあまずは、旅の安全を願って乾杯だ!」ということで、その夜二人は、盛り上がった。
「これで、ヤッケも持ったし、カメラも時刻表も大学ノートも持ったしこれで良し!あっそうだ、念のためにシュラフも持っていこう」と独り言を言いながら、少し浮かれたようにザックにいくらかの着替えとシュラフを詰め込んで、愛用の万年筆を内ポケットにさして、東京駅発18:00の寝台特急に乗り込もうとザックを背負って意気込んで、アパートを後にした。
しかし、夕方の寝台特急の発車時間までには、まだ時間がありすぎると思い、最後に都会生活ともお別れだと思って、新宿の高層ビルの最上階のスカイラウンジで、コーヒーでも飲んで時間をつぶすことにした。それは、このコンクリートジャングルとしばしのお別れをすることにしていた。
彼はその頃、業界でも少しは名の知れたプロモータとして名前がしれていた。今回のJR企画も”何と、さすが黒岩さん”と誰にも言わせたかったのだった。そしてその執念にも似た仕事愛は、彼の心に火をつけた。
そして、いつか見てろ、見返してやると部長に激しい敵意すら覚えていた。誰もが感動し、誰もが旅に出たいと思わせる物にしたいと、意気込んでいた。
彼が、一流のプロモーターと言われるのには訳があり、それは瞬時にして、自分自身を業界人モードからすぐにユーザーモードに切り替えられることであった。
すなわち、商品を売る側から考えるのではなく、買う側の立場にすぐに代れることであった。
彼は最上階のスカイラウンジのカフェで、窓越しに下の街を見下ろして、この大都会のこのコンクリートジャングルに囲まれた、この街の片隅で、その隙間を這いずる蟻ように行き交う人々に、何かが足りなく、何に飢えているのか、何を欲しているのか、下に見えるこの街並みを眺め下ろしながら、それを探すために、既に彼のマインドは、哀愁を帯びた旅人になりきることが出来ていたのだった。
そしてやがて、夕陽が傾き、高層ビル群の陰が長く伸び、新宿を後にして、東京駅に向かった。
そして寝台特急に乗り込み西鹿児島駅に到着したのは、東京駅で列車に乗車してからほぼまる一日後の18:30であった。
連結されているビュフェで、瀬戸内海の海の上に登る朝日を楽しみながら、朝食のサンドイッチとホットコーヒーを飲み、昼には博多駅のホームの売り子の人から、博多名物の鯖ずし駅弁と缶ビールを買って、ゆっくりと車窓を流れる景色を愛でていると、何ともいえぬ風情を感じている間に、ようやくのこと寝台特急は西鹿児島駅に到着した。
その頃、ローカル空港があちこちに開港していて、寝台車を利用する人はめっきり減り、飛行機でどこにでも、すぐに行けるようになっていたが、黒岩は、どうしてみんなそんなに急いで旅をしなければいけないのかと、疑問でならなかった。旅とは旅館に泊まるだけでも、名所旧跡を巡るだけではなく、やはり移動すること自体も、旅情を楽しむ絶好の時空じゃないかと思っていた。
人の温もりに触れて
鹿児島港からフェリーを乗り継いで、沖縄経由で西表島を最初の目的地を決めた。どうして西表島かというと、この島は日本の南端に位置し、その島の北側半分にしか、道路が通っておらず、最西端の集落まではバスで行けるが、そこから先は小舟でしか行けない舟浮集落という、この小さな島の中でも、まさしく陸の孤島があったのである。
西表島の大半は、まるで熱帯雨林のジャングルを思わせる密林に覆われており、野生動物が棲息し、知らざれぬ日本の秘境に、ピッタリだと考えていたのだった。
ようやく、小舟に乗って最初に辿り着いたのが、舟浮という僅か数十軒ほどの小さな集落であった。
そこは、サンゴの海の底まで透き通るほどに澄み切った、輝く青緑の海に囲まれて、この舟浮集落は、めったに観光客も訪れないところで、日本の最後に残された楽園のひとつでもあった。その夜、泊まった民宿のご主人に話しを聞くと、建物の殆どを自分一人の手で作ったらしく、黒岩は改めて、人ってやれば何でも作ることができるんだと、再発見した。人里離れたこの集落では、何でも自分でやらなければ生活していけなく、石垣島から職人を頼んだら、いくらお金があっても足りないという。
「第一そんなお金俺にはないや。」と民宿の親父から豪語され、必要なものは、自分で何でも作り始めたのだそうだった。都会のお暮しは何でも欲しいものは、お金を出せば手に入ると思い込んでいたので、そのご主人の話は、黒岩にとって強烈なカルチャーショックであった。
民宿の夕食は、目の前に広がる海の獲りたての海の幸と自分で作ったという罠で捕まえたイノシシ肉の焼肉であった。
このいわゆる、不便な南の孤島のそのうえ、道もない陸の果てなのに、なんて優雅な生活ができるんだと改めて感心した。その夜は、民宿の夫婦ともども沖縄名物の泡盛を飲みながら、三線の音に合わせて沖縄民謡で、夜更けまで盛り上がった。琉球の潮風を頬に受けながら、幸せそうな顔で来訪客をもてなしてくれた仲の良い夫婦のことを、その後も黒岩は忘れることは出来なかった。それは、数日前に東京の高層ビルのスカイラウンジから眺めおろした、あの大都会の街並みの景色も、満月の輝く砂浜のこの景色もまた同じ国であることが、不思議に思えた。夜の満月のその海に輝く月光は、お台場の観覧車のライトアップよりも数段印象的に黒岩の目には映って見えた。
翌日、民宿の親父が、島を小舟でゆっくりと案内してくれた。こんな南の離れ小島のそれも道すらない辺ぴなところで、まさしく活き活きと楽し気に暮らす人々と、便利に囲まれて何ひとつ不自由ないはずの都会に暮らす人たちと、果たしてどちらのほうが、豊かな暮らしなのか首をかしげながら、島を離れ石垣島経由で沖縄そして九州に入った。
黒岩は、旅に出る前に、予め書店で観光ガイドにひととおり目を通して観光名所を目に焼き付けて、逆にそこに紹介されていない隠された名所を探す旅にしたいと考えていたので、そういう意味では、西表の舟浮は最高の場所であった。黒岩はフェリーで鹿児島港に向かう間にこうも考えていた。
行き当たりばったりの旅であったが、黒岩にとっては、いつもの会社の共有のTODO管理のスケジュール表で、ポップアップされるがままに、一日の仕事をこなしていたので、それに縛られた生活からすると、モニター画面を見なくても済むだけでも、それだけで十分開放感に浸ることが出来た。
がしかし反面、鳥かごの中のジュウシマツのようなもので、籠の中にいる間は、何を考えることも悩むこともなく、餌と水をじっと与えられるのを待っていればよかったが、一旦鳥かごから外の景色見たさに逃げ出した途端に、どこに行っていいのかわからずに、鳥かごのそばにただ蹲る小鳥のように、自由を取り戻したはずが、逆に束縛されていたことの心地よさと、安心して居られる自分に気づかされるように、黒岩にとって、会社の業務に追われた日々には、気にもしなかったことが、一旦解放された途端いろんな刺激を、どう受け止めて行けばいいのか、かえって不安さえ覚えていた。
そして、次に訪れたのは、雄大な阿蘇の景色を堪能するため、久住高原に向かった。広大に広がる阿蘇の外輪山のカルデラの中に広がる、草千里を堪能していた。その日の夕方に見た、阿蘇に沈む夕焼けは素晴らしかった。そして新宿の高層ビル群に沈む夕陽も、南の島の浜辺に沈む夕陽も、久住高原に沈む夕陽もどれも同じ夕陽であり、そこに広がる大空もまた、同じであるはずなのに、それがどうしても不思議でならなかった。まるで別の世界を眺めているような気がしていた。
そして翌日には、大分からフェリーに乗って、一路四国の八幡浜に向かった。
できるだけ、ビルの立ち並ぶ都会の景色を避けて、都市と呼ばれる街をできるだけ遠ざかって、ルートを考えることにしていた。そして黒岩は、できるだけ来た道とは同じルートを避け、列島をジグザグに歩くことにしていた。
そして、黒岩は日本三大清流と言われる、憧れの四万十川に立ち寄りたかった。
四万十川の源流付近にあるという安徳水は、日本の名水百選にも名を連ねていたところだったので、胸を膨らましてその場所へのアプローチを探した。
しかし、そこへは、列車どころか路線バスも走っておらず、仕方なく、駅前でレンタカーを借りて、四国の山奥の山村を目指した。
考えてみると学生時代、東京に上京してこの方、今まで自動車を運転したことが殆どなく、行きたいところには、電車か地下鉄でほぼ用が足りていたので、都会の暮らしでは、自動車を使う必要があまりなく、その便利な暮らしに慣れ切っていたので、黒岩はその時ハンドルを持つ手に少し緊張が走った。
特に、四国の山沿いの曲がりくねった細い道は、運転に不慣れな黒岩にとっては難コースであり、四国の道の殆どは、そんな奥深い山間部を縫うように連なっていたので、ようやくのことで道路標識に安徳水という文字が現れたときには、ほっとした。
そこは、小さな山村で猫の額ほどの田んぼが、幾重にも折り重なっていて、よくもこの斜面で稲作をやろうと思ったなぁとつくづく感心した。さぞ江戸のころか、コメのできるところなら、どこでもコメを作るようにと幕府のお達しが出ていたに違いないと勝手に想像した。
そして、その時の山に住む村人の労苦を思い起こさせてくれるには、十分な光景であった。
都会の生活じゃ、お米を食べる習慣もめっきり減ってきて、コメ余りが囁かれる時代だというのに、何でここまでして、苦労して田んぼをやっていなきゃいけないのかと思えた。稲架掛けした刈り取ったばかりの稲穂の傍らにしゃがみこんでいた老婆に、黒岩は声をかけた。
「おばあちゃん、安徳水ってここの近くですか?もう田んぼ仕事も終わりですね。大変ですね。」と黒岩は声をかけると
「先祖代々の田んぼじゃけんのぅ、わしらの代で荒らすわけにゃいかんぜよ」とぽつりと老婆は言い放った。丁寧に自然乾燥させたお米は、出荷用ではなく飯米と言って自分の家族で一年間食べるためだという。そして昔からそうして暮らして来たのだという。
気づかぬ間に、自分のアパートの周りに立ち並ぶ高層ビルに驚き、新しくオープンする大型量販店、牛丼店にラーメン店の出店ラッシュ、すごいスピードで変わりゆく都会の景色からすれば、まるでそれとは違い、完全に時間が止まったように、先祖代々変わらぬ暮らしを守り続け、変わらないことの大切さというか変わらぬことの重みを黒岩は痛感させられていた。人の暮らしにとって、開発とか発展、進歩とかそういうものがもたらすものって、何なんだろうか、ここはまるで、開発とは縁のない昔ながらの暮らしに、何の足りないものがあるというのだろうかと、黒岩は自問自答した。弱わまりゆく秋の日差しに向って、田んぼの土手に腰を下ろし、日向ぼっこでもしている老婆の脇に、枯れ草を燃やしているのか青白い煙が立ち込め、人けのほとんどない曲がりくねったあぜ道と、棚田の景色の中に、失われた都会の暮らしの中と比べて、ある種、心地よさと安らぎのような物を感じていた。
「旦那さん、どこから来なすった?ようこんな山奥まで来なすったなぁ、お茶でも飲んでいかんかねぇ。」黒岩は有難く差し出された茶碗で、ほんのりあたたかなお茶を飲み干した。
「ご馳走様でした、おばあちゃん。お世話になりました。お茶美味しかったです。」と黒岩がいうと
「それじゃ、旦那様、お気をつけてなすって。」とさりげない会話であったが、子供のころは、さぞ可愛い少女だっただろうと思わせる容姿で、年老いた今もなお、それを思い起こさせる優し気な笑顔で見知らぬ自分の旅の無事を気遣ってくれた老婆の横顔が、どこか以前、世話になった人に少し似ているような気がしていた。老婆の頭を深々下げる姿は、本当に微笑ましい顔だった。
遠くに、ぼんやりと青く太平洋が見えた気がした。そして折角だと思って、安徳水で和らかな味のする名水を飲み干して、そこを後にした。彼はその足で、鳴門大橋を通って大阪を通り抜け、紅葉の綺麗な古都京都という名だたる観光地を横目に、琵琶湖の西岸を通って、若狭湾に向かうこととした。
今時の女性と清楚な女性に出逢う
日本海を北上して、そこは能登半島の北のはずれ、奥能登にある、残しておきたい日本の原風景として、国の指定文化財の棚田百選に選ばれた白米千枚田を目指した。
あまり輪島市について、細かな情報がなかったので、その千枚田の地元の白米町役場に黒岩は立ち寄って、観光課にでも行けば、観光案内のパンフレットでも手に入られるかと思い、役場を訪ねた。
今まで、会社の業務で行くときは、事前に担当者にアポをとって行くことが通例であったが、今回、黒岩は、何食わぬ顔をして、役場に飛び込んだ。
その役場には、あいにく観光課という看板が見当たらず、目の前にあった総務課に行って、職員に声をかけることにした。それでも一応と思い、自分の名刺を差し出して、こういうものですと黒岩は名乗ったが、記載さえている社名自体を知らなかったのか、役場の職員は不愛想に
「ご用は?」とつっけんどうに、突然の訪問者の黒岩に尋ねてきた。
普通アポをとるときも、大日本プロモーションと名前を出すと一目置かれるもんだったが、やはり田舎では、ここまで社名が伝わっているはずもなく、どこかの雑誌か何かの広告掲載のお願いにでも来たのかというような、如何にも連れない雰囲気が、担当者の態度で、それはすぐにくみ取れた。
「実は、今回お伺いしたのは、内閣の総理府で、この度・・・・」と口にしたとたん、態度が急変して、担当者は、突然町長室に飛び込んで、
「まぁ、失礼しました。こちらにどうぞ」と黒岩は、町長室に導かれた。早速、町長が深々と丁重に頭を下げて、黒岩に改めて自分の名刺を差し出した。
「ようこそ我が町に。わざわざこんな辺ぴな遠いところまで、お越しくださいまして、誠にありがとうございます。」とさっきの担当者とは、まるで違う扱いに黒岩は、かえって戸惑った。
「突然で恐縮です。実は、今回JR全日本の企画で、日本の素晴らしい原風景を売りこもうと、総務省とJR全日本が連携して、各地の旅行喚起のプロモーションをすることになって、その一環で御町にお邪魔いたしました。それで、町のPRをお聞かせ願えればと思い、お伺いいたしました。」と黒岩が話を終える前に町長は、
「これは失礼いたしました、すぐに、その件について詳しいものを、連れて来ますから、少々そのままでお待ちください。」と早々に町長は、席を離れ担当者の女性を連れて再び戻ってきた。一応名刺を交換をして、
「お忙しいところ、大変申し訳ありません。よろしくお願いいたします」と軽く挨拶をかわすと、相手から差し出された名刺には、白米長総務課地域活性化推進室とあった。
「ここで、ご説明するよりも、現地をご案内したほうが早いですね、早速ですがどうぞ、こちらまで。私が、ご案内させていただきます。」といって、黒岩は、その担当の女性の運転する公用車に同乗して、町を案内してもらうこととなった。
黒岩は、彼女を見てなんだか田舎のわりに、言葉遣いに訛りがなく、都会っぽくて、それに何となく垢抜けした容姿だと初めて見たときにそう思った。
「何にもないんですよ、この町は。何にもないですけどよろしいでしょうか?」と聞かれ、
「今の時代、何もないことこそが、重要なんですよ。どこもかしこも、モノと情報があふれかえってますからね。」と黒岩は訳の分からないくせに調子のいい返事をした。
「少し、今日は暑いですよね。少し窓を開けますね。この車、古くてエアコンが効かないんですよ。」と少し困った顔で、そう言いながら今では珍しく、彼女は、手巻きの取っ手を回して、運転席と助手席の彼の側の窓ガラスを少し下げた。
確かに、その日は秋晴れで、抜けるような青空が、フロントガラス越しに広がっていた。車内は確かに少し暑かったが、自分の方から「暑いですね」とは言い出せずにいたので、助かったと黒岩は思った。
しかし、窓ガラスの取っ手を回すときに、その女性の長い髪が、黒岩の頬をかすかに撫でて、それは仄かな香りがして、心地よかった。
少し空気のこもっていた車内に、清々しい秋の風が入り込み、思わず深呼吸でもしたい気分になっていた。それは、そよ風のせいもあるが、車内に漂っていた仄かないい香りを、黒岩は胸に取り込みたかったからで、どこかとなしに香ってくるコンディショナーようないい香りが車内に漂っていた。
黒岩は、麗しき若き女性と話するのは、考えてみると東京駅の緑の窓口で、寝台車のベットを予約する時に対応してくれた女性以来だとふと思った。
自分の座っている席にも、そよ風にたなびく長い黒髪の先が、時たま彼の頬を撫でて、何といえない心地よさに一人酔いしれていた。黒髪というのは正確には、栗毛といったほうが正しいかもしれない。
黒岩は、昔から競馬を見に行くのが好きだった。別に馬券を買う訳でもなく、ただ華麗に走り抜けるサラブレッドの姿を、みるのが好きだったのだ。昔、中央競馬会で三冠馬として名を馳せた名馬ディープインパクトという馬がいて、可憐なその姿と鬣が、黒岩には何か、その時の彼女のポニーテールとダブって見えていた。その牝馬が、まさに彼女と同じ色の栗毛だったのである。本当は、モンゴルの大草原を駆け抜ける遊牧民を、一度見てみたいと思っていたが、その夢はなかなか叶うことはなかった。
しかし、彼女と出逢った時の第一印象が、まさしくディープインパクトみたいな人だったのだ。
その可憐な容姿とは、似つかわしくない野暮ったい上下作業服姿で、きっと役場の支給品であろう、最初に役場の窓口で対応してくれた担当者も同じものを身につけていたので、そう思った。はっきり言って、可憐というよりは思いっきり、地味といったほうがよかった。
会社の社内にも、女子社員は相当数いたが、その殆どは、お化粧の品評会のように、女優にでもなったように、綺麗にお化粧をして、ピアスにネックレス、おしゃれな服を着飾っていたので、特に、その時の彼女の姿は化粧気もなく、実に地味そのものに見えた。地味というよりも、むしろ素朴に見えたというべきか新鮮に見えた。
そして、一日中、彼女は黒岩をくまなく役場の公用車で案内してくれた。
ます最初に、案内してくれたところは、玄関口に”地域産業活性化センター”という看板が目に入った。いかにも、霞が関の役人のつけた戒名みたいで、もう少し気のきいたネーミングはなかったのだろうかと思った。
中に入ると、腰の曲がったおばあちゃんたちが、手作業で大豆の選り分け作業をしていた。いくつも積み上げられた大豆の紙袋をみて、黒岩には気の遠くなるような作業だと思ったが、気の長い年寄りには、軽作業なので、気長に時間に追われることなくやれるのなら、これはこれでお年寄りには、いい仕事なのかなぁ思い、少し安心した。
「おばあちゃん、お客さんだよ。ご挨拶は?」まるで子供にしつけをしているような口調で、彼女が老婆たちに話しかけた。
「最近、耳がとんと遠くて、あんたのいうことは、さっぱり聞こえんのじゃ。」と軽くあしらわれていた。
「まったくもう、都合の悪いことは、さっぱり耳が聞こえないくせに、孫の話となると、急に耳がよくなるんですね、調子がいいんだから。」と少し怒ったような彼女の顔も、黒岩にとっては、健気に映っていた。
黒岩には、いつもの会社の女子社員も、街に行き交うOLも、居酒屋でほろ酔いかげんの女性も、みんな揃って、華々しいく着飾って、きれいにお化粧し、毎日がいかにも、ファッションショーにでも出演するかのような姿からすると、今、目にしている女性は、それとはまるで違い、服装は、きれいに洗ってアイロンこそかけてはいるだろうが、その作業服に、化粧気のない姿は、同世代の女性だとは到底思えず、老けて見えるとは思えないまでも、逆に言えば、どうして都会の女性は、あれほどまでに、すべての女性が、きれいに着飾らねばならないのか、美人であらねばからないのか、どうして目の前の彼女のように、機能性重視でいれないのだろうかと、黒岩は、その清楚な彼女を目の前にして、そう思えてきた。
彼女らは、毎日毎日、どれほどの時間を外見の見栄えのために費やし、どれほど長く、化粧するためにドレッサーの前で、自分と格闘しているんだろうか、他人からどう見られるかには、頭が回っていても、自分の内面と真摯に向かい合っている人が、どれだけいるのだろうかと、妙に彼女のその素朴な姿が、やけに新鮮すぎるくらいに新鮮に見えていた。
「ここは、地域のおばあちゃんがたが、昔ながらの手法で、手作り味噌を作っているんです。これが終わると、冬向けの沢庵作りが始まるんですよ。」と彼女は、さっきとは打って変わって、別人のように、優しく黒岩に、おばあちゃんたちの仕事を説明してくれた。
「これが終わると、来週から漬物作るが始まるんですが、おばあちゃんたち思い思いのやり方で漬け込むものだから、人それぞれ味が様々で味がその都度変わってしまって、統一できないんですよ。困ってるんですよ。どう思われますか」と彼女が言うと、黒岩はとっさに、彼女の興味をそそるように答えた。
「その違いがいいんじゃないですか。無理に統一しなくても。いろんな家庭の味が楽しめるような売り方をすればいいと思います。漬物って、そんな物ですよね。大手メーカーのように、ナショナルブランドにする必要なんてないですよ。あくまでこの地でしか味わえない、独特のおふくろの味っていうものがあって、それぞれの家庭で、味がいろいろあるのも、また味の内ですよ。プライベートブランドの方が、都会の人には喜こばれるはずですよ。」と黒岩は、彼女にちょっと知ったかぶりをしてみたかった。
「そういうものなんですね。でもお客さんが買う度に、味が変わるとクレームの対象になりますよねぇ。それに第一、消費者は都会の人じゃなくて、輪島の人ぐらいですからね、作れる量も限られているし、所詮大量に作ることなんて無理なんですよ」と彼女が、少し困った顔をして呟くように云った。
「美味しければ、都会の消費者向けに、各おばあちゃんのプライベートブランド作って、顔写真でも付けて販売すれば、結構面白いかもしれませんよ。例えば”お梅ばあさんの特製漬物”とか、どうでしょうね。一応こう見えても、プロモーションのプロですから。」と黒岩はちょっと自慢気にかっこつけて彼女に云った
「えぇ?本当ですか、販売をお願いしても、ご迷惑じゃないですか。でもあまり、この施設にお金ないんで、払える予算もないですよ。」と彼女がいうと、
「いいですよ、ご心配なく。そのくらいは、無料で販売サイトくらいなら、立ち上げますよ。簡単ですから」と調子のいい返事をした、それは、少しでも彼女の気を引くための、黒岩のはったりみたいなものでもあった。
「まあぁうれしい、おばあちゃんたちの張り合いにもなるかもしれませんからね。ではお言葉に甘えてよろしくお願いします。」と一気に会話が弾んだ。
突然、黒岩に向かって今まで黙りこくって、ひたすら作業をしていた老婆が急に頭をあげて云った。
「この子ときたら、いつも自分のことは後回しにして、私らのことばかり心配してくれるんだよ。冷え込む冬になると、足が冷えるとわしらが愚痴を云うと、突然暖房用のストーブを増やしてくれと町長のところに直接掛け合ってくれたり、漬物用の真空パック詰めの機械の予算を頼みに、市役所まで行ったりと、まああの子は、この歳頃になっても化粧一つしたことがないというから呆れたもんだよ。こまったもんじゃ」と黒岩にいった、そしてさらに別の老婆も、
「お客さまや。この子は、いつもきついことばかり言って、年寄りをこき使いよる。どこかに、この娘をもろうてくれるいい人、知らんかねぇ?そしたら、少しはこの子も優しくなるかもしれんでねぇ、えへへぇ。もういい年じゃけんね。私らのころじゃ、その年じゃもう子ができとったもんじゃ。あっははぁ」
「余計なお世話です!さっきまでは、とんと耳が遠かったくせに、どういう風の吹きまわしかしら。そんな人のことを心配する暇があったら、さっさと口動かす前に先に手を動かす!」と彼女はおばあちゃんらに怖い顔して突っ返した。
「おっかねぇ、おっかねぇ!ほらみてみい、お客さん、おっかねえら。」と腰をかがめた老婆が、またも下を向いて、ぼや気ながら、またも黙々とさっきの作業に戻った。
はたで見ていた黒岩には、なんとも、お互いの交わす言い方はきついが、荒っぽい言葉とは裏腹に、太い信頼という絆で結ばれていて、お互いを信じあい、思い合っていることは、黒岩にはそのやり取りですぐに汲み取れた。
「黒岩さんも、もしよろしかったら、漬物の試食がてら、お昼をみんなと一緒にいかがですか、手作り味噌の味噌汁も試してみてください。ちょうど昼のチャイムも鳴ったことだし。」と彼女が言うと、
「折角なんでご馳走になるかなぁ。すみません、厚かましくて。」と微笑みながら、頭を下げた。実は黒岩もお腹が空いて、たまりかねていたところであった。
「いいんですよ、この町のおばあちゃんたちは、皆ご主人が漁師なので、いつもアジだのキンキの一夜干なんか持ってきて、ここで焙るので、あったかくて絶品ですよ。みんな各自が持ち寄って、ワイワイ食べるのも幸せみたいなんですよ。きっと黒岩さんにも気に入ってもらえると思いますよ。」と彼女の言うがままに、黒岩は丸椅子に座った。
「そりゃいい、楽しみですね。それが皆さんの元気の源ですよね。健康の秘訣みたいなもんだ。どうりでみなさん、揃って口が達者なはずだ。」と黒岩は、大笑いした。
と和やかな中で、黒岩も一緒になって昼食を楽しんだ。こんな楽しい気分で食事するのは、久しぶりだと黒岩は思った。いつも会社じゃ、近くの定食屋で一人静かに、決まった定食を急いで食べるだけだったので、和気あいあいに食事を楽しむということは、居酒屋で飲んでいるとき以外はほとんどなかった。今まで食事とは、空腹が癒ればそれでよかったのだった。
「では、食事が終わったところで、慌ただしいですが、次をご案内しますね。」と言って、食事が済んだらすぐにまたも車に乗り込み、走らすこと10分、大きく目の前に日本海が広がった。
「いい景色でしょ、黒岩さん。素敵でしょ。」と彼女が自慢げに云うと、
「そうですね、でも海の見えるとこなら、ほかにもいくつもありますからね。」とつっけんどうに黒岩は意地悪ように云い返えした。
「違います!もう少し待っててくださいね。もう少し行ったところに、もっと素敵なところがあるんですよ。ほら、どうですか、この景色。実は、私の一番のお気に入りの場所なんですよ、ここは。私が初めて、この奥能登に来た時に、ここに案内されてきて、すっごく気に入ったんです。今までに、こんな素敵な景色、見たことなかったんですもん。」と彼女が自信満々に威張るようにいうと、そこには、見事な程に九十九折に並んだ、棚田が広がっていた。それは、幾重にも幾重にも、重なるようにそれは並び、彼女の話しでは、その田んぼが、大小合わせて千枚もあるということで、千枚田と名が付いたらしい。
その先には、青い海が広がっていた。日本海の抜けるような青さと秋晴れの空と黄金色に色ずく棚田の稲穂のコントラストは、写真を撮るのには、最高の景色であり、まさしく絶景ポイントであった。
「なんて素晴らしい景色何ですかね、これは、さすがに私も初めてみました。こんな無数に並んだ棚田が、青い海に突き出すように並んでいる。今日はおまけに空も綺麗だ、最高ですね。いいものを見せてもらいました。ありがとう、感謝します。」
「ちょっと写真を撮るらしてもらってもいいですか?これはいける。そのまんま絵になりますよね。」と黒岩は、言いながら持ってきた一眼レフのカメラを取り出して、シャッタを押しまくった。時には交換レンズを取り替えながら。
黒岩は、辺りの絶景を写すついでに、彼女の立ってる姿もズームレンズを引いて、海を背景にした彼女の全身写真と、ついでにズームアップした彼女の素顔も知らん振りして、シャッターを押し続けた。うっかり、それが彼女にばれたら、それは、ほぼストーカーか、変態に思われてしまいそうなものであり、すっかり軽蔑されると思い、慌ただしくカメラアングルをあちこちに向けて、必死にそれを誤魔化した。
その行為は、はっきり言って犯罪行為に近いと思いつつも、彼女の姿を目に焼けつけるだけじゃ、もったいないと思い、一眼レフのカメラを彼女に向け、ひたすらシャッターを押し続けた。
一息ついたところで、二人は田んぼの土手に腰を下ろした。その晴れ渡る大空と青い海の爽快感を、二人で共有したいとお互いが思ったようで、どちらが声をかけるでもなく、まるで昔っからの仲のいい恋人同士のように、夕暮れの丘の上で、二人並んで腰を下ろしていた。
そして、突然、彼女のほうから、黒岩に、
「今日、会ったばっかりの人に云うのも何なんですけど、いいでしょうか?黒岩さん。」と話し始めた。
「私、ここで、こんな風に暮らしてて、いいんだろうかって、最近時々思うんですよね。確かに、みんな優しいし、私にもよくしてくれるし、今の仕事にやりがいも感じてはいるんですけど、果たして、このままでいいんだろうかって。」と唐突に、彼女が自分の心の中に秘めた悩み事を口にし始めた。しかし、黒岩には、あまりに唐突過ぎるのと、予定外の質問に答えられる、心の準備というものがなされてはおらず、ただただ困り果てた。きっとこの青い海の色が、彼女をそういう気持ちにさせているのかと黒岩は、心の中でつぶやいた。
「いいんじゃないですか、そんなに深く自分を追い詰めなくっても。硬く考えず、気楽に生きていけば、いいと思うよ。いつでも悩み事があれば、俺でよけりゃ、いつでも相談に乗らせてもらいますよ。今の君は、俺から見ると、光り輝いているように思えて仕方ないよ。都会で、どんなに綺麗に着飾っている女性よりも、君のほうが、ずっと素敵な女性に俺には映るけどね。」と黒岩は、思い切って彼女に返答した。というよりも、胸をどきどきさせながら、決死の努力と、清水寺の舞台から飛び降りるくらいの覚悟を決めて、自分の心の内を精一杯打ち分けた気になっていた。そしてその勢いで、
「ここじゃなんなんで、お茶でもいかがですか?」とお礼代わりに彼女を誘おうかと思ったが、どう見ても、そういう気のきいたカフェは、東京じゃあるまいし、辺りにはなさそうだし、大衆食堂なら一軒くらいはありそうだったが、大衆食堂じゃ、さっき昼ご飯を食べたばかりだったので第一、初対面で逢ったばかりで、あまり時間も経っておらず、”チャラい男”だと思われるのも、しゃくだったのでその言葉を口に出すのだけは躊躇した。
「そうでしょ、なかなかないでしょ。こんな景色、素敵でしょ。」と気を取り直したように、彼女の少し自慢げに威張る姿も、黒岩にとっては、また愛らしく見えていた。
黒岩は、すっかり化粧気のない、清楚なそんな彼女の姿が、やけに気に入ってしまっていた。その時の日本海の海の青さと彼女の作業着姿、化粧のない素顔、透き通った眼差しは、黒岩にとって、すごく印象に残って、いつまでも目に焼き付いていた。
「君は、そんなに都会の暮らしに憧れるんですか。もっとおしゃれして、綺麗にお化粧して、街でショッピングを楽しみたいですか。俺は今のあなたのまま、ありのままのあなたが好きだなぁ。」と黒岩は胸の内を少し口ばしった。
「そんなんじゃないです、黒岩さん。今、私は、こんな幸せでいて、いいんだろうかって考えるんです。もっと苦しんでる人々が、この地球上には一杯いると言うのに、それを気づかぬふりして、ここでぬくぬくと、優しい人たちに囲まれたままで、いいんだろうかって、それって考えちゃうんですよね。」と急に真剣な眼差しで、彼女は言った。
「凄いね、君っていう人は、普通じゃないよね。そこが、きっと君の一番素敵な魅力なんだろうね、きっと。君からすりゃ僕なんか恥ずかしいかぎりだよ、ちっぽけすぎて。俺の出来るのは、この素敵な日本を少しでも多くの人に知って欲しいと思うことと、そして少しでも多く、この原風景を後世に残したと思ってるくらいだからね。」と言いつつも、黒岩は、彼女に一本取られたと思った。
「黒岩さん、私って、普通じゃないんですか?普通ってなんなんですか?黒岩さんこそ、素敵な人じゃないですか、感動しやすくて、優しくて、そして第一、仕事に向かう真摯な姿勢がとっても素敵です。そんなところが、私大好きですよ。」と言われて、黒岩は舞い上がった。
「会社に帰って、企画がまとまったら、改めて連絡を差し上げますね。その時は、よろしくお願いします。今日はごちそうさまでした、味噌汁も漬物も勿論キンキの一夜干しもおいしかったと、皆さんにお伝えください。また何時までも身体に気をつけて達者でいてください、とよろしくお伝えください。」
と言い残して、黒岩は、一人静かに奥能登を後にしようとした。
しかしと言っても、いつまでも後ろ髪が引かれる想いに駆られ、一旦彼女が帰ったのを見届けて、その後もう一度、さっき案内してもらった千枚田に引き返すことにした。
きっと、この場所からみる夕焼けと星空は、さぞ綺麗なはずだと思い、そして、それ以上に、すこしでも彼女の残り香と、出逢って二人で話をしたその場所の余韻を、ゆったりと一人で噛みしめるために、そっとその崖の上に佇んだ。海からの潮騒が心地よく、心の奥にまで響き渡っていた。
今まで、こんな気分になったのは、中学の時に初めて、クラスの女の子から、バレンタインチョコレートをもらった時以来、いやその時も直接手渡されたのではなく、そっとその子が昇降口の自分の下駄箱に、そっと入れてくれたのに気づいた時以来の感覚であった。
黒岩は、いつまでもそこに居続けたいと思って、その夜は、車中泊を決め込んだ。持ってきたシュラフに身体をうずめて、頭上に輝く星空を眺めながら、彼女の姿を頭に浮かべながら、その夜は静かに眠ることにした。
すると暗闇に、突然、車のライトだろうか、灯りが迫ってきた。
「やっぱり、ここにいたんですね、何か電気の灯りのようなものが見えたんで、きっとあなただと思って。」と自動車の中から彼女が下りてきた。
「どうしてこんな夜に、こんなところに?」と突然の彼女の登場に黒岩は驚愕した。
「私のアパート、こっちの方面なので、灯りが目に入ったので立ち寄ってみました。」と彼女はぽつりと言った。
「こんな時間まで、仕事?たいへんだねぇ、いつもこんな遅いの?」と黒岩が彼女に尋ねると
「黒岩さんに頼まれた、おばあちゃんたちの顔写真を撮影して、今パソコンで整理していたんです。私、そういうの苦手なんですよね。」とあっけらかんな様子で、答えてくれた。でもこんな時間に再び彼女の顔を見られるなんてと思い、黒岩は再び浮かれていた。
「じゃあ、こんな時間に来てしまって、ごめんなさい、それじゃ。」と突然車に乗るなり、急に行ってしまい、黒岩は、
「折角だから、一緒に星でも眺めませんか」と言おうとする前に、もうすでに、彼女の車のテールランプは、遠くに小さく光るだけであった。
岬の大きな岩に腰を下ろし、沈みそうでなかなか水平線の向こうに沈まぬ夕日を眺めていた。頬を打つ風は冷たく、しかし心地よく顔を撫でてくれることに旅情を感じ、人恋しさにある種の哀愁を味わっていた。
明け方は、すっかり冷え込んでいて、思わずエンジンを回し、エアコンのヒーターをつけることにした。もうすっかり、秋が深まったのだなぁと気づかされた。フロントガラス越しに、朝の海でも眺めてみようと頭をもたげたが、フロントガラスに霜がしっかり降りていたのか視界は真っ白だった。
黒岩は、まさしく名残惜しく、何度ももう一度忘れ物をしたふりでもして、彼女のいるであろうあのセンターに立ち寄ろうとしたが、それも彼女から、しつこいやつだと思われるのも、しゃくだと思い、まさしく後ろ髪が引かれる思いで、奥能登を後にした。
そして、最後に能登半島を離れる前に、もう一度魚津の港に立ち寄り、名残惜しそうに遠くに揺らめく奥能登を眺めながらいつまでも港に立ち尽くしていた。
まるで見えるはずのない富山湾の蜃気楼を眺めているように。
絶対の存在
その後、いったん旅の途中に東京の会社に顔を出そうと思い、北陸道から関越道に向かった。
会社に戻って、企画の中間報告をしようと考えていたが、ふと部長から云われたあの言葉が頭に過った。
「しばらく、君は会社には出社しないで、家で仕事してろ!」
黒岩は、その言葉を思い出して、無性に腹が立って突如東京に戻るのをやめ、急遽最寄りの練馬ジャンクションから圏央道に乗り換え、青梅インターに向かった。高速道路を降り、昔一度訪れてみたいと思う場所があったので奥多摩のほうに行くこととした。
もともと思い付きの旅だったので、急の予定変更も、黒岩にとっては、その頃には当たり前になっていた。会社にいるときには、たいていの場合事前に出張計画書を作成して、上司の決済をもらい出張に出かけ、帰ったら出張報告書をまたも提出する習わしだったので、予定は未定の予定など、今まで会社では経験したことがなかったが、黒岩は、いつしかそれもまた旅の醍醐味の一つだと、思えるようになっていた。
その目的地は、多摩川上流にある奥多摩せせらぎの里であった。そこに小さな美術館が併設されていて、その美術館で”犬塚勉作品展”という記事を旅に出る前に見たことがあったが、今回の旅で、訪れようとは思ってもいなかったが、その展覧会の犬塚氏は、中学の美術の先生であったが、黒岩は彼の画集を初めて見たとき、思わず自分の人生観を、根底からひっくり返されたほどの衝撃を覚えたことを思い出していた。何時か、その絵画の現物を目の当たりにしてみたいと、かねてから思っていたが、自ら絵画を見に行くという心の余裕さえまるで無かったので、今回はいい機会だと思い、そしてようやく、念願のその本物の犬塚氏の絵画と出逢うことが出来た。
そこに展示された一枚の絵”暗く深き渓谷の入り口”と題された大きな130号のキャンバスの前に立つと、黒岩はまるで金縛りにあったように釘付けになり、いつしか時の経つのも忘れていた。
その絵を前にして何も考えることすら出来なかった。理屈を超えて、キャンバスという限りある空間に作者自身の大いなる宇宙が描かれている気がした。描かれているというよりも、むしろ作者の思いそのものを感じていた。
そして、今までの自分の人生というキャンバスに描こうとしていたものの微細な現実を、突きつけられる想いであった。今まで会社に入社して、自分の求めていたものそれは、他人を蹴落としてでも会社で出世するという野心と、世間にそして上司に自分を認めてもらいたという思いに他ならなかった自分を惨めに思えてならなかった。
作中に描かれている大きな石一つに、それが持つ壮大さに黒岩は圧し潰される思いがしていた。圧倒的な存在感の前に、ただただ打ちひしがれていた。
今回、自分が会社に立ち寄ろうとしたのも実は、企画書の中間報告なんていうものではなく、次回会社に自分が出社するときに、しっかりと自分のポジション確保しておくことであり、自分の立場を守るために帰る場所をしっかりと上司に認めさせる思いが強かったが、作者の絵の前から立ち去るときには、もはやそんな惨めな自分に、ほとほと嫌気がさし、東京に戻ることの虚しさに耐え切れず、借りていたレンタカーを早々に最寄りのお店に返却すると、自分のアパートに立ち寄ることもなく、そのまま東北線の大宮駅から夜行急行列車八甲田に飛び乗った。
その時には、その行先はまだ彼自身決めかねていたが、とりあえず東京から少しでも早く離れて、今はただ新たな目標に向かって、ただただ動き出したかったのだった。
奥多摩の美術館で目にした、あの犬塚勉の絵画が頭のなかにずっと浮かんでは消え、また浮かんでは消えを繰り返していた。展示してあった全ての絵画が頭の中を駆け巡っていた。
あの絵に描かれた圧倒的な存在感は、どこから来るのだろうか、そしてあの動かぬ絵の中に秘めたる熱い思いとは、いったい何なのか試案にくれていた。しかしいくら考えを廻らしても、そこには明確な答えを見出すことは出来なかった。
もの言わぬただの石がどうして、これほどまでもその存在を顕にしているのだろう。それに比べ、自分の今までの生きざまは、なんだったと言うのか。他人の眼ばかり気にして、自己を確立することもせず、己を向かい合おともせずにいたのだろうか。絶対とは。絶対的な存在感とは一体。
他を寄せ付けない絶対
永遠に揺るぐことのない存在
そこに在るだけで内から沸きあがり、他を圧倒する力がそこにはあった。しかし更なる存在を求め、犬塚は一ノ倉沢にそれを求め山に入り帰らぬ人となった。
以前黒岩が臨んだ早月尾根から見あげた劔岳の岩峰よりも遥かに凌ぐ他を寄せ付けない、彼の作中の暗い渓谷の大きな石に魅了され、その存在は絶対であり圧巻であった。
急行八甲田は、みちのくをゆっくりと北上していった。
ゴットゴットという小気味のいいリズムで、真っ暗な闇の中を夜行列車は走り続けていた。しかし黒岩には、その音すら耳には入ってこなかった。
人は、如何に生きるべきかということよりも、生きていることの意義がどこにあるのか、絵画の中には、明確にそれが存在しているように思えていた。描きだされた静寂の中に、生命の息遣いすら、聞こえてくるような気がしていた。
夜行列車に揺られながら、暗闇の中を走り続けるその先に、待っているものは何なのか考え続けた。絶対的な威圧感、揺らぐことのない普遍的な宇宙の真理が自分の生き方そのものを問われているような気がしていた。
今までの自分は、常にユーザーの気持ちになってと言いつつも、如何に見る人に興味を持ってもらえるか、如何に受けるかという他人からの評価のことばかりに気持ちがいっていて、自己を見つめ、自分と向き合って、自分を納得させられる仕事をしたことがあっただろうかと、後悔にも似た自戒の念にずっと苛まれつづけた。
光と影の先に
そうこうしている間に、車窓はいつの間にか薄青い光に包まれていた。ついに一睡もすることなく、黒岩は自分と語りかけ続けていたのだった。
気づくと、それにしても急行列車だと言う割には、やけにゆっくり走っているものだと思った。いつも通勤で乗っている京王線の電車や地下鉄の方が、ずっと速く走ってるような気がした。もうすぐ停車駅が近づいたかと思わせるように、ゆったりとした速度で走るのは、まるで少し手を抜いて、さぼって走ってるかのような気がした。
この地方は、何もかもがゆっくりと動いているようだった。列車はもとより、人も、時間もすべてがゆったりと動いていた。
東京で暮らしていると、全てが速くせっかちに動いていた。電車の速度もそうかもしれないが、人の歩く速度も、暮らし自体もがいつも慌ただしく動いていた。
彼も会社に出社する時は、時間通りに家を出て、時間通りに満員電車に押し込まれ、慌ただしくいつもの駅で急いで地下鉄に乗り換え、駅を出ても足早に会社のビルに向かってひたすら歩く、会社に到着しても、直ぐにパソコンを立ち上げ、一日が始まる。
1分の無駄もなく、慌ただしく一日が始まるのである。無駄のない暮らしって、果たして幸せって言えるのだろうか、人生、少しは無駄があったほうが味わいがあるような気がしていた。寸分狂わぬ生き方よりは、少しは悩み、少しは迷って、回り道も必要なんじゃないかと黒岩は旅を続けるうちの思うようになっていた。
わからないことがあれば、直ぐにGoogleで検索すれば大抵のことは分かるし、地球上のどこにでも気が向けばGoogle_mapで行けないところなどはない。しかしこうして、実際に旅をしてみると、そんな手っ取り早く得れる情報では見つけられないものが一杯あった。これだけ便利に忙しく過ごしているにもかかわらず、時間の余裕が出来てもおかしくはないはずなのに、いつも慌ただしく一日を過ごして生きていく。
どうして、田舎に暮らす人は、誰もがゆったりと歩くのだろう。
そして直ぐに疲れると一服したがるのだろうか。
都会じゃ、最終電車でも酔っ払いと残業疲れの乗客でいつも超満員だし、24時間営業の店では、欲しいものは何時でも買えるというのに、田舎の人は大体が寝るのがやけに早い。なのになぜか皆、幸せそうに暮らしている。
同じ時間のはずなのに、田舎の時計の回り方の方が、都会の時計よりも、針が少しゆっくり回っているのかもしれないと思った。
それに旅行を通して、少し気づいたことがあった。
田舎に暮らす人は、自然の営みの動きに合わせて生きているので、だから時間もゆっくり流れる。
それに比べて都会の暮らしは、人の作った決まりと、時間に合わせて動いているから、慌ただしく生きているのかもしれないと。いつもスケジュール表に管理され、いつも時間に縛られて生きている。時間に追われ、時間に振り回されているのである。いつも慌ただしく生きているのに、それに慣れてくるとそのほうが寧ろ安心する。
お金で時間が買えて、時間でお金を稼ぐと思ているが、田舎には、その感覚がほぼないのだろう。
時間は、自分のものだと思っているから、どう使おうと自分の勝手で、人様に迷惑かけるわけじゃなしと思っているようであった。だから思いついたままに行動するし、思いのままに自由に生きれているのだろうと思った。だから疲れた時が一服の時ありで、暗くなれば寝るのが当たり前なのである。
そして、やがて車内アナウンスで”弘前〰、弘前”という車掌の声が流れ、既に辺りはすっかり明るくなっていた。
黒岩は、弘前駅で一旦降りることにした。そして五能線経由で五所川原に向かった。五所川原に向かったというよりも、ストーブ列車にただ乗りたかっただけであった。
ストーブ列車に乗り込むと、列車はすいていた。列車の中には、黒岩の他には自分の背丈程もある大きな背負子をもったおばあちゃんたち数人が、何やら聞き取りづらい言葉で話をしていた。その会話は外国人がしゃべっているのかと思わせるほどで、黒岩には、しゃべっている内容のほとんどは聞き取ることは出来なかった。
ようく耳を澄ませ聞いていると、ほんの僅かに日本語らしき言葉が混じっていた。最初は、まるで韓国人の旅行者かもしれないと思っていたので、黒岩は、”はっ!”と気づいたのだ。
まさに、ここは津軽半島、おばあちゃんたちの会話はまさしく津軽弁だと気づいた。
自分の席は4人掛けで、隣と向かいに2人の老婆が座っており、あれこれいろいろと話をしていたが、話の意味が皆無くわからないので、黒岩もただただ黙り込み、窓の外の景色を眺めているしかなかった。
そして、少し会話が途絶えてようやく静かになった車内では、黒岩ももうとうとし始めていた。もうすっかり稲刈りが終わっているのか田んぼには、稲を干すのに稲架掛けではなく”ほんにょ”という一本の棒に刈り取った稲を干す棒状の干し方で、後で聞いた話だが宮城県以北で多いやりかただそうで、「棒仁王」が名前の謂れとも言われている。その仁王さまが田んぼのいたるところに並んでいた。自分が今までに見慣れたことのある稲架掛けではないので、やっぱり東北に来たのだなぁと何気ない風景にも、旅情を感じていた。そして黒岩は、外国人にでも話しかけるように意を決して、折角の縁だと思い向かいのおばあちゃんに話しかけた。
「おばあちゃんは、どこまで行かれるのですか?」と声を掛けると、
「はぁ?」と耳に手の平を当てぼつり。
黒岩は、再度自分の口を相手の耳元に顔を持って行って、
「ど・こ・ま・で・行くの?」と聞き直した。
「はまじゃぁ。」こっちの人は、ただでも言葉数が少ないうえに、口をあまり開かず口にこもったような口調で話し、おまけに訛りが強いときたもんだから、かいむく会話にならなかった。黒岩は、相手の云っている事がいまいち判らなかったが、
「そうですか」と軽く愛想笑い浮かべて、別に聞き返すほどでもないかと思い、それ以上嚙み合わない会話をしても疲れるだけなので、どうしても聞かねばならない用でもないと思い、口を噤いだ。
そして、またしばらく窓の外を見つめることとした。車窓には何時まで経っても、のどかな田んぼの風景が続いていた。ストーブ列車も時たまディーゼルエンジンを吹かす音だけは立派であったが、相変わらずカメのようにゆったりと走っていた。
その頃には、このゆっくり流れる時間にすっかり慣れてきた黒岩は、時間がゆっくり流れることともに、気分もゆったりとしていた。
そして、そんな気分だからこそ、物事をじっくり考えることができるようにも思えた。深く自分自身と向かい合うには、いい時間だと思った。慌ただしく暮らしていると、時の流れに振り回されて、目まぐるしく変化する物事についていくのが、精一杯だったのかもしれない。都会の暮らしは、自分自身も何かが少し間違っていると思ってはいても、それを考えないようにする理由を探すことは、容易いことで、できない理由は仕事が忙しいからの一言ですんだ。だからあまり都会の時間の中では、深く考えようとすることをしなくなっていた。
たまに、車掌さんがストーブの脇に備え付けてあるブリキのバケツから、石炭を小さなスコップですくってはダルマストーブにくべにいた。ストーブの周りには、パイプの保護柵があり、そこにはおばあちゃんたちのものであろう手拭がぶら下がっていた。
突然、向かいのおばあちゃんが、ストーブの上で焼いていた餅を自分に差し出した。
「ほら、おめぇ食え、これ」今まで寡黙に下を向きかげんにしていた老婆が、おもむろに焼き立ての餅を差し出してきたので、黒岩は最初キョトンとした。そして辺りを見回して、自分のことだとわかると、
「いいんですか、ご馳走になって。」と軽くお辞儀をして、その焼き立ての餅を受け取ってふうふう言いながら食べた。寒々しい車窓の景色を見つめていた彼にとって、焼き立ての餅の温もりは、とても有難たかった。焼餅の温もりというよりも、むしろさっきまで寡黙だった老婆が、見知らぬ旅人にご馳走してくれるという気持ちに温もりを感じていた。
東北の人々は概して、無口な人が多い。あまり都会人のように饒舌に話すことはなかった。特に見知らぬ人には、警戒心にも似た用心深いところがあるようであった。しかし黒岩は都会人にない優しい暖かな心に触れた気がしていた。
東京に住んでいて、毎日、新宿駅では数万いや数十万人もの人とすれ違うかもしれないが、しかし、その人々と一度たりとも言葉をかわしたことはなく、すれちがって挨拶をかわすこともなければ、アパートの隣の人のことすら知ることもないのが普通であった。なのに、こんな小さなローカル列車の車両に数人の乗客しかいないというのに、そんな数少ない他人が、初対面の黒岩にわざわざ自分のために焼いたきっと昼ご飯だろう焼餅を差し出してくれるその気持ちに心が熱くなっていた。
「熱いうちに食え!」とまたも老婆はぽつり。
「有難く頂戴します、どうも。」と言ってふうふう言いながらアツアツの餅を口にほうばった。
なんだか亡き母を思い出す想いがした。何気ないほんの僅かな会話であったが、黒岩の心には深くそれは刻まれた。
「ほんじゃ、おめえさん、お気をつけなすって。」と言い残して、次の駅でその老婆は降りて行った。
老婆の降りた列車には、まだ数名の行商であろう人が座ってストーブでスルメをあぶっていて、なんとも香ばしい匂いを車内に漂わせていた。せっかくなら、五所川原の駅でワンカップの酒でも買っておけばと悔やんだ。そうすりゃ今頃、冷酒にあぶったあたりめをしゃぶりながら、ゆったりと旅情を堪能できたのにと今更ながらにそれを悔んでいた。そしてまた一人、また一人と行商の老婆は、駅ごとに降りて行った。
やがて、列車は終点の津軽中里駅についた。最後の乗客の老婆もその駅で降りた。先に行商仲間は彼女を除いて皆、途中の駅で下車していた。
「おばあちゃんはどこまで?」と黒岩が尋ねると
「たっぴじゃよ。」と老婆は答えた。
黒岩もどうせなら、自分も竜飛岬に行こうと思い、旅は道ずれで、その老婆と同行することにした。老婆も同じように大きな背負子を背負って国道をとぼとぼと歩き出した。やがてその道は急に行き止まりになり、こともあろうにその老婆は、その先に続く長い階段を登り始めた。この先に本当に竜飛岬があるのか、黒岩にはどうにも不安が募っていた。
「おばさんこの先に、本当に家なんかあるんですか?」黒岩はたまりかねて老婆に尋ねた。
「ほうじゃよ!」と老婆は一言。
なんだか騙されているような気がしたが、しかしここまで来た以上後戻りしても仕方なく、行き尽くとこまで行って、最悪は持ってきたシュラフに入って丸まれば、野宿でも仕方ないと覚悟して、階段を一歩一歩踏みしめて歩いた。
しかし、自分の背負っているザックよりもはるかに重いはずの老婆の背負子を考えると、負けてなるもんかと頑張ったが、老婆は、彼の息遣いを気にも止めずに歩き続けていた。黒岩はあまりに苦しいので、一息つこうと振り向くと、何と道脇の標識にいつもよく目にする国道の標識に、339号国道と青地に白い字で記載された看板が目に入った。一瞬自分の目を疑っ。そして、最初は誰かのいたずらだと思った。いたずらだとしてもいい加減にしろと云いたかった。
しかし、その階段は紛れもない国道339号線だったのである。国道はいつの間にか階段になっていたのである。
いつも漁港で水揚げされた鮮魚を背中に背負って町まで売り歩くのだという。今どき、こんな人もいるんだと感心したが、仲間も皆そうしていて、帰りには町から衣服とか化粧品などの日用雑貨を仕入れて、家の周りで地元の集落の人に売るのが通例なのだそうだった。そしてやがてようやくのことで、無事老婆の云う通り、竜飛岬に辿り着くことが出来た。そして野宿することは回避できて、近くの民宿で泊まることにした。
翌日は、朝早くに竜飛漁港に立ち寄ってみることにした。ちょうどマグロ漁船が港に入ったばかりで、釣り上げたばかりのマグロをクレーンで吊り上げ、漁港に下ろすところに出くわした。
黒岩はテレビでは何度となく、大間の本マグロを見たことはあったが、実物がまさに今下ろされる所を見るのは初めてで、その大きさは圧巻であった。同じ黒マグロでも大間で水揚げされると”大間の本マグロ”竜飛漁港で水揚げされれば”竜飛のクロマグロ”と呼ばれるらしい。その日は港には7本もの100kg超の大物が水揚げされたそうであった。しかしそのほかにも、アイナメやソイ、クロダイなど様々な魚が水揚げされており、黒岩は、行商のおばちゃんたちも皆がセリに参加して、思い思いに仕入する姿を市場のセリ場の片隅で見ていた。
今の時代、大型スーパーに行けば大抵のものは揃うし、金さえ出せば、何でも買える時代だというのに、なぜこんな大変な目をして、重い荷物を背負って、来る日も来る日も行商にでるのだろうと黒岩は理解に苦しんだ。
しかし、後で聞くとおばちゃんらの運んでくる魚は、とびっきり新鮮で、かつスーパーよりも数段値段が安いのだという。それにお客さんは新鮮な魚を買うだけではなく、おばあちゃんと話するのも楽しみにしていて、いつも広場では、行商のおばちゃんがくるのを待っている人がいっぱいいるのだそうだった。
それに行商のおばちゃんらの売っている鮮魚の値段は、市価よりも安く売ることができるのは当然だとも思った、漁師も出荷用の発泡スチロール容器はいらないし、トラック運賃もいらなければ、スーパーの利益を載せて販売することもなければ、宣伝広告費だって必要としなかった。要は中間流通経費が一切かからないということになる。
そして、売り手の人柄が何よりの口コミ評価であり、おばちゃんたちは、その自分を待っててくれる人たちが喜こんでくれることに、行商に張り合いを見出していて、第一自分の働いた分だけしっかりともらえれば、それで十分で、それ以上欲張る必要もなかったのである。
おばちゃんたちは、物を売るだけではなく、地域を真心で繋ぐ、重要な社会的役割を果たしているのかもしれないと黒岩は思った。
スーパーで買い物に言っても、一言も会話をことはない。商品に貼り付けられたバーコードをレジのスキャナーでそれを読み込み、電子決済を済ませば、自分で持ってきたマイバックに商品を詰め込むだけで、あとは「ありがとうございました、またのお越しをお待ちしております。」とも誰に声を掛けられることもない。スーパーの折り込みチラシに「大特価!」とか「格安セール実施中」などの大見出しをよく目にするが、物の価値って安い高いだけでは計れない、もっと大切な物があるのではないかと云いたい気分であった。
昔は、そういう仕事をする人たちが、日本各地にいたそうであるが、昨今行商の人たちにも高齢化の波が押し寄せ、若い人でわざわざ行商をする人は居なく、弘前にも大型スーパーが出店するようになり、その姿をめっきり見ることはなくなっていた。しかし五所川原には、雑貨屋と八百屋と駄菓子屋はあったが魚屋はまだなかった。
当時、既に東北自動車道は青森まで開通しており、全国でも11路線の高速道路網が各地を繋いでいた。そして、地方空港も相次いで開港していて、トラック輸送をはじめ、捕りたてのものが空輸により、その日のうちに東京に届く仕組みも出来あがりつつあった。
また、それと同時に時の政権は、アメリカの圧力で外資系スーパーの日本への進出を容易にするため、大規模店舗の出店規制も緩和し、いわゆる大店法の規制緩和であり、日本はそれによりその頃から大量物流、大量消費の時代と突入していった。
やがて、アメリカ、アーカンソー州のスーパー・ウォルマートは日本の西友スーパーを買収し、大型物流センターを埼玉の三郷に建設し、日本はその後、街の商店街をシャッター通りに代えていきながら、大型スーパー、ホームセンターなどの各種量販店があちこちに出店を始め、各地方都市にもその流れで、大型店舗が立ち並ぶようになり、どこの地方都市に行っても大きな看板に書かれた店名は同じになり、この地域ならではの味わいと、独特の香りは感じることができなくなっていった。
企業の利益追及と経済発展の陰で、津軽で触れた重い背負子を背負う行商の女たちの行き交う姿は、まるでそれとは対照的に、黒岩の目には映っていた。経済発展と合理化の陰で、ひたむきに生きる人々の生きざまが、また一つに日本から消えていくことが居た堪れなく、哀しく、また罪悪感すら感じずにはいられなかった。
また一つ失なってはいけないものを、現代社会は失ったような気がした。
同僚の死の知らせ
それは青函連絡船の待合室のことだった。次の函館行きの連絡船の便までは、まだだいぶ時間があったので、黒岩は最初、函館に着いたら函館名物の”イカ飯”でも食べようかと思っていたが、函館に着くまで待ちきれなり、結局連絡船の待合室で弁当を買って、備え付けの長椅子に腰をかけていた。
待合室には小さななテレビが置かれてあり、待合室の中にも、ちらほらと人はいたが、テレビに目をやる人はほとんどいなかった。だれも見ていないテレビが、空しく音を発していて、いつもの昼のNHKニュースがただただ流れていた。彼は暇にまかせて手持無沙汰で何気なく、その画面をぼうっと見つめていると、突然思いもよらぬニュースが、黒岩の目に入ってきた。
「昨夜、大手広告代理店の社員が、自宅で睡眠薬自殺を図った模様です。すぐに近くの病院に緊急搬送されましたが、先ほど死亡が確認されたとのです。詳しい動機は、現在警察が捜査中ですが、自殺した人の氏名は中山 均(29)とテロップが流れていた。
「大手広告代理店って、うちの会社のこと?中山って?まさかあのチームメイトの中山?」と黒岩に驚愕のニュースが突然目に飛び込んできて、耳を疑った。
「繰り返します。昨夜大手・・・・・」突然のことで驚くというより、何がなんだか黒岩には、俄かには頭の整理がつかずにいた。
「どうして、どうしてあの中山が。」黒岩には、俄かには信じ難い出来事であったが、旅に出る前には、高級タワーマンションに引っ越したばかりだといっていたし、第一、子供が生まれたと喜んでいたのも、まだつい最近のことであった。
母親の急死で、忌中休暇中だと課長から聞いていたのに、どうして自殺なんか?今まで彼から聞いていた情報は、どれもこれも直接繋がらず、どうして今の今、可愛い奥さんと子供をおいて、自らが命を絶たなければならないんだ。武蔵小杉にタワーマンションを購入して、これから親子三人で幸せな家庭を築こうとしていたはずなのに。それに仕事もこれからというときに。彼なんか一流国立大学を出て、はっきり言って、会社の中ではエリートコースを歩んでいたはずの君がなぜ。何で今なんだ。何で今なんんだよ。・・・・・
青森港には、黒岩が連絡船に乗船後、出港を伝えるドラの音が虚しく鳴り響いていた。黒岩の頭には、同僚の死に対する疑念と悔しさで一杯で、ドラの音も津軽海峡の眺めも彼の耳にも目にも入ってはこなかった。
船内には、黒岩の「どうして?」という問いに応えてくれる他人はいなかった。連絡船の窓の外は、無情にも冷たいみぞれ交じりの雨が容赦なく降りしきっていて、窓をたたく大粒の雨粒の先に黒岩を慰めるかのように、ウミネコが連絡船に並走するように窓際に並んで飛んでいた。その愛らしいウミネコの眼差しは、ほんの束の間、黒岩の打ちひしがれた心を慰めてくれていた。やがて海鳥が飛び去り、叩きつけていた雨も少し小降りになっていた。
そして、同僚の死を招いた張本人は、ひょっとして自分ではないかと、ふと黒岩の頭を過った。
自分が彼を死に追い込んだのかもしれないと。ふと黒岩が以前感じたあの青白く冷たい視線のことを思い出していた。
急に、あの夜の打ち上げ会の誘いを断り、その夜の飲み会に参加せず”母の看病だ”と云っていたが、その後、彼の同じ大学卒の同期から聞いた話しでは、
「あいつ子供の頃に、家族旅行の途中、乗っていた自動車が交通事故にあって、その時両親二人と弟を亡くしたらしいんだぜ。助かったのが後部座席に座っていたあいつと幼い妹の二人だけだったそうだって。」
子供の頃に亡くしたはずの両親の「母の看病?」
そして、忌中休暇を取って休んでいる。
そして、例の自動車メーカーの広報室に届いた一通のメール。
それに、一番黒岩がその時、気になっていたことは、会社の女子社員の間で囁かれていた言葉であった。「黒岩さんて、最近少し威張ってるよね。」「嫌な感じ!」黒岩の耳の奥で亡霊が囁くかのように、あの時の彼女たちの話し声がずっと囁き続けていた。
「あぁ、しまった。俺だったのか」、彼をここまで追いやって、そして死に至らしめることになったのは!。
悔やんでも悔やみきれない思いで、黒岩に迫りこんできた。自分は何も悪いことはしていない、と自分に言い聞かせ見ても、悪魔の囁きはその後も彼を苦しめ続けた。
中山の「いつかみていろ、俺だって」
「お前なんかに、いいとこばかり持っていかれて、このまま黙っていられるか。調子に乗って威張りやがって、いい気になりやがって、あの畜生め!」
黒岩は、一人その囁きに悩まされ続けた。
青函連絡船が津軽海峡を超えて、函館港に着岸しているというのに、それ自体も気づくことなく、
「お客さん、函館港ですよ、お急ぎください。この連絡船は折り返しになります。」と乗務員に肩をたたかれ、声をかけられるまで、黒岩はまるっきり乗船していたことすら忘れていた。
彼は、ただ呆然とタラップを降り、港に一番近いビジネスホテルを探して、ホテルのチェックインを済ませるなり、すぐにベットに横たわった。
ベットに横になっているはずなのに、全身はまるで雲の上に乗っているように、ふわふわ浮いているような気持ちがしていた。
同僚の死を通して知った、自分の愚かさを悔いても悔いても足りなかった。いつの間にか傲慢になっていた自分を心から恥じた。
黒岩は、夕食に外に出かける気にもなれず、ただベットに寝っ転がっていた。それでも夕方になり陽が沈むころ、やたらに誰でもいいから、人と話がしたくて仕方なくなっていた。悔しさと寂しさが交錯して、人恋しさに黒岩は駆られていたのだった。かといってことの詳細を会社の関係者に聞く気には、毛頭なれずにいた。
誰でもいい、会社以外の誰かに、それ以外であれば誰でも良かった。何でもいいから人と言葉を交わしたかったのだった。黙って寝ていると自分まで死にたくなる思いになりそうで、それは彼の心にぽっかり空いた穴が埋められるのであれば、なんでもよかった。そして喪失感に冴えなまれたまま、眠ることが出来そうになかったからだった。
「すみません、地域活性化推進室の片桐さんいらっしゃいますか?先日お邪魔した黒岩と申します。」と黒岩は突然、先日奥能登に行ったときに名刺交換したことを思い出して、バックにあった名刺を手に取り、特別、彼女に用事もなかったが白米町役場に電話していた。
「今、彼女ちょっと席を外しておりますので、何かお急ぎのご用がありましたら、こと付かっておきましょうか?」と先日の係長らしい人が電話口で対応してくれた。
黒岩は、特別急ぎの用と言われても、はじめっから用事らしい用事があって電話したわけでもなかったので、
「ではお帰りになられましたら、今言う番号まで連絡して欲しいとお伝え願えますでしょうか」と自分の携帯電話番号を電話口の人に告げた。しばらくして、彼女から折り返しの電話が来た。黒岩は
「あっ、ごめん。今、手が離せないので、申し訳ないけど、夜にでも再度電話してくださいますか。」と簡単に応えて電話を切った。というのも役場で話せるような用事があるわけでもなく、まわりに他人のいない時に、話しがしたかっただけだったので、その時は、彼は別にベットでごろ寝していてとりわけ、手の離せない用事などはなく、いくらでも時間はあったが、わざと忙しいふりをしたのだった。
そして午後8時が過ぎたころだったか、彼女から再度電話が入った。
今度は、彼女の携帯からだった。黒岩は、実は、前回奥能登を訪れたときには、彼女の携帯番号をいきなり聞くなどという、大胆な行動にでることができず、そんな度胸もなく、彼女の連絡先も聞かずに奥能登を去ったことをずっと後悔していたので、今回ようやくその願いが叶った形となった。
「突然ですみません。なんども電話をいただて恐縮です、実は特産物のネット通販のことで、お話ししたいことがあったものですから。」
「お久しぶりです、黒岩さん。その後お変わりありませんでしたか。えっ、もう通販サイトが出来上がったんですか、すごいですね。」と彼女が浮かれた様子で黒岩に聞くと、
「いくら何でも、販売する品物も聞いていないし、販売商品の画像も無けりゃ販売価格も何も聞いていないのに、通販サイトはないでしょ、いくら何でも!」と人を小馬鹿にするように、彼女をからかうように突き返した。
「そうですよね、いくら黒岩さんでもね、じゃあ、今日はどんなお急ぎのご用件で?」と彼女は畳みかけるように迫ってきて困り果て、
「あぁ、えっと、ううんっと。」と黒岩は言葉に詰まった。最初っから、用事があったわけではなかったので、黒岩は困り果てて、そしてとっさに
「その後、あのおばあちゃんたち、元気でいらっしゃるかなぁと思いまいして。」とその場を繕った。
「皆元気ですよ、それが何か?」とまたも彼女がつれなく畳みかけてくると、
黒岩は、”この女、本当に天然なのかも”と密かに思えた。
「いやあ、まぁその、サイトにおばあちゃんたちの顔写真なんかあるといいかなぁって思いまして、今度片桐さんのほうで、おばあちゃんたちの顔写真を撮影してもらったやつ、会社にでも送っていただけますか。この間の僕の名刺にアドレスがかいているはずですから。」と思い付きで、その場を凌いだ。
「はい、了解しました、では明日にでもおばあちゃんたちの顔写真、お送りしておきますね。」と軽快に彼女から答えが返ってきたので、黒岩は慌てて
「いや、実はまだ取材旅行から戻ってないもので、急がなくてもいいですよ。」
「えぇ、そうなんですか、じゃあ黒岩さんは今どちらに?・・」ようやく話しは噛み合った。
「今、僕は函館にいます。これから北海道を一周する予定です。」と黒岩は彼女に言った。
「ところで片桐さんって、北陸訛りがないですよね、もともと地元の方じゃないんでは?」
「よくお分かりで、実は私、村おこしボランティアで派遣されて、奥能登に来て2年になります。実はこうみえても横浜生まれなんですよ。」
「偶然ですね、僕は神戸です。」と黒岩が云うと
「えぇ、横浜と神戸、何が偶然なんですか?」
「いや同じ港町だなぁと思って。・・・」
「なるほどね、黒岩さんって面白い方なんですね、最初逢ったときには、もっとしっかりした、怖そう方に見えたもんでつい。実はあの日、黒岩さん、私と別れてからもう一度あの海の見える場所に戻りましたよね。実は、帰りがけにあなたのお姿をもう一度見たくて、突然、夜だというのに、お邪魔して、失礼しました。もう寝てました?また写真でも撮り直しているのかなぁっと思って。あの日は夕焼けがとっても綺麗でしたよね。私もそのあと車を停めて、海に沈む夕陽をそっと後ろから見てましたから。」
「えぇ、だったら声でも掛けてくれれば良かったのに。いじわるですよね。」いつの間にか会話は弾み、気が付いたら、彼女の言葉は敬語から何時しかタメ語になっていた。
それから、いろんな話しは尽きることなく、気が付けば2時間近く話していた。
彼女は、高校卒業後、東京外国語大学に進み、アフリカの難民救済活動の仕事に就きたいと思い、国際支援協会に応募したが選考に漏れて、やむおえず大学の先生の紹介で、村おこしボランティアの仕事に尽くことになったそうであった。
見かけによらず、考え方が大胆で、あの時、彼女から聞かされた「このままでいいんでしょうか?」という悩み事と、そして積極的な行動力と考え方に、黒岩は驚きを隠せなかった。
”この女、見た目は素朴だけど、俺よりも数段しっかりしてる”と、少しその積極性にあこがれに似たものを黒岩は感じていた。
彼女の言葉遣いも、電話してきた時よりもすっかり和やかになり、一度合ったきりではないように、二人はすっかり意気投合して打ち解けていた。黒岩は、目の前に置いてある彼女の名刺に時より目をやり、思い切って彼女のことを、下の名前で呼んでみた。
「祥子さんも、明日の仕事があるでしょうから、そろそろこの辺で。」と心臓をバクバクさせながら、思い切ってその名で彼女を呼んでみた。
「えぇ、どうして私の名前を?」
「何となくそんな気がしてね・・・。」
「噓でしょ、まったくもう。名刺でもみてるんでしょ、そこにあるんでしょ、どうせ」
すっかり、もうビジネス上の関係から一歩発展した気がしていた。
黒岩の、さっきまで心に大きく空いた穴は、既に電話を切るころには埋まっていた。しかし喪失感を拭い去るまではできなかったが、少し気持ちが彼女のおかげで和らぐことができていた。
「それじゃ、すっかり話し込んでしまってすみませんでした。今夜は楽しかったです。失礼します、おやすみなさい。」と言って、黒岩は少し気分が晴れて、眠りにつくことができた。
翌日は、函館の朝市を少し覗き、それから特急北斗で札幌に出た。そして大都会には興味がなかったので、札幌駅を出ずに、そのまま特急おおぞらに乗り換え、釧路本線を走って道東に向かった。
この特急もやはりディーゼル機関車で、唸り声こそ豪快だったが、走りはやっぱりゆっくりであり、黒岩は常に新幹線に乗りなれており、新幹線は、この特急列車からすると音もなく発車し、ロングレールのため、レールの継ぎ目の音すらあまり聞こえずに、静かに時速300㎞の猛スピードで走り抜けていたが、早く走行していることを肌で感じることが出来なかったが、それから比べるとことディーゼル機関車は、エンジン音がうるさい割には、走行速度は津軽のストーブ列車とあまり変わらないような気がした。
特急だけあって停車駅が少なく、日勝峠を超えると、辺り一面に草原が広がっていた。特急おおぞらの走る両脇の沿線は、延々と続く牧場地帯で、新得から帯広、釧路まで殆ど景色は変わることはなかった。
黒岩は、ずっと車窓に広がる大草原に見とれていた。そして、その頃には黒岩は同僚の死に対し、彼の分まで、自分は精一杯生きると覚悟を決めていた。彼を追いやったのは、紛れもなく自分であり、自分の驕りが、彼を追い詰める結果になったのは、紛れもない事実であり、今更、償いきれぬことであることは自分自身が一番よくわかっていた。だからこそ、今回のJRのプロモーション企画は、彼のためにも見事に完成しなければならないと肝に命じた。しかし、やはりその後も自戒の念は彼を縛り続けていた。
やがて、列車は終点の釧路に到着した。相変わらずの行き当たりばったりの旅であったので、一旦駅を降りて、駅前に立っていた大きな観光案内板を眺めることにした。
一旦標津線で北上することにした。それは以前北海道の取材で知った地平線の見える丘があるという場所を思い出していた。
列車を標茶駅で降り、一路中標津に向かった。中標津では、再度レンターカーを借りて、開陽台を目指した。それは、自動車で行くと中標津の町からほど遠くないところにあり、黒岩は、日本で地平線の見えるところがあるとはその時まで、思ってもいなかった。北米大陸かオーストラリアにでも行かないと見れるもんじゃないと思っていたが、ところが開陽台の丘の上に立つと、見事なほどに大草原が辺り一面に広がり、それは遥か彼方先の地平線まで続いていた。地平線は、丸く綺麗に円を描き、地球が球体を呈していることが、コペルニクスに聞かなくとも、ようくわかった。ほぼ360度に広がる大パノラマは、日本でこんなところがあるとは、今まで思いもよらなかったことであった。
今回の旅では、どちらかというと辺ぴな山間部の片田舎を中心に歩いていたので、当然、道は細く曲がりくねっていて、深い山奥の景色か、視界の半分が海かの二つに一つだったので、この道東の景色はまるでオーストラリアのエアーズロックの上に立ってる錯覚を感じせる絶景が広がっていた。
東京と違い、その大パノラマの殆どが牧場であり、緑一面の草原しかなく、いつも見慣れていた高層ビル群と東京タワーにレインボーブリッジが広がる景色しか、最近見たことがなかったので、こんな何もないということに心が動かされ、感動したことは、いまだかつてなかった。北海道であるため、夕方には冷え込むのは当たり前だったが、もうすっかりこの景色に惚れ込んでしまい、その日は車中泊を決め込んだ。
頭上に広がる大パノラマの星空を、堪能しない手はないと思い、持ってきたヤッケを着込んで、足から腰をシュラフに突っ込み、広大な草むらに一人寝っ転がって、やがて陽が沈みゆく夕陽を眺め、漆黒の闇の中に光り輝く満天の星たちと語りあうように、星座の一つ一つに目をやっていた。あまりの星の数の多さに圧倒されていて、いかにもその無数に光り輝く星たちが、自分めがけて矢のように降り注いでくるような気がしていた。数分に一度くらいの割で、澄み切った空気の中を流れ星が目の前を通り過ぎ、オリオン座が北の空に輝き、北斗七星がぽっかりと頭の上に浮かんでいた。まさに天空の星空劇場に吸い込まれていくようであり、自分が今どこにいるのかすら忘れてしまいそうな、スぺクタルな情景に我を失っていた。
しかし、北海道のこの時期の冷え込みはただ物ではなく、東京でいえば真冬同然で、足を突っ込んでいたシュラフの中こそ、あったかかったが、腰から上の上半身は、凍てつくように冷たさが、骨身に突き刺さってきていた。しかし、車に戻るのがもったいなくて、このダイナミックなパノラマは、黒岩に車に入るのを躊躇させて、この景色は寒さをも忘れさせくれる迫力と魅力を持っていた。
夜明けのご来光も素晴らしく、地平線に沈む夕陽、そして地平線から昇る朝陽とを、同時にその日の内に見えたことができたことに天に向かって感謝した。
翌日は、野付半島の先端にあるトドワラ、ナラワラを訪れることにした。トドワラとは(トド松の原らっぱ)という意味で、長い間風雪と潮風に晒され立ったまんま立枯れになった松林のことで、それは荒涼たるものであった。
昨日の壮大な情景とまた一風違い、自然の厳しさだけが、クローズアップされるように荒れ果てた荒野はまるで、賽の河原を彷徨う亡霊にでもなったかのような気持ちにさせられていた。
遠くには、北海シマエビ漁に用いられる打瀬舟(この地方独特の形をした帆掛け船)が見えていた。野付湾の風物詩として知られ、霧にかすむ舟影は、幻想的な情景で、この荒涼とした枯れ野と打瀬舟はなんとも言えないお似合いで、まるで幻覚を見ているような景色であった。
日本各地を気まぐれで旅行してきたが、今更ながらに、黒岩は日本列島の広さを実感させられていた。今までの自分の都会での暮らしの中では、このような情景に遭遇することはまずなく、よく似たものがあったとしても、それは全てが、人工的に作られたものばかりで、不忍の池や新宿御苑、神宮の森、すべて自然が織りなす情景でもなければ、人の人情に触れることもなかった。
トドワラの荒野に立って思うことは、やはり未来に残しておかねばならない日本の美であり、それをしっかりと後世に伝えていかねばならないと、改めて思い知らされた気がした。
開発と発展という行為で、失うことは容易いが、その失ったものを甦らせるということは、そう容易いものではないことを思い知らされていた。今こそ、その大切な日本の原風景を何とか後世に残せないものかと黒岩は思案にくれていた。
そして、町の人口の10倍も牛がいるという別海町を過ぎて、北に向かって車を走らせた。この辺りは知床半島の付け根でもあり、キタキツネが道脇で蹲り、エゾリスがひょっこり顔を覗かし、森からエゾシカが群れを成して道を横切る姿をよく見かけた。ヒグマこそ直接、目にすることはなかったが、いたるところに、”熊の出没注意”の標識が立っていた。都会じゃ”子供の飛び出し注意”の標識はよく目にしたが、さすがにこれはないなと思った。
この辺りには、日本一の名の付くところが多く、前日の開陽台は”日本で地平線が一番よく見える丘”だったが、今度は”幻の日本一長い直線道路”を一度通ってみたくて、斜里町の広域農道を走り抜けることとした。地元では”天空の道”と呼ばれているらしかった。
遥か遠くに続く、その先の地平線の彼方まで、まっすぐに道がうねりながらまっすぐに続いていて、北海道ならでわの光景であった。黒岩は、その道をゆったりと味わいたくて、制限速度で車を走らせていると、そのわきを猛スピードで追い越していく車が、何台もいた。確かにスピードを出したくなる気持ちも分からないではなかったが、そんな車を横目に、ゆっくりと果てしなく続く直線道路を堪能したかった。ゆっくり走れば、その分楽しめる時間も倍になると考えていた。急ぐ必要は、その時の黒岩には一切なかったのだ。そしてやがて小清水原生花園を横目で見ながら、北へ北へと走り続けた。自動車の運転は苦手であり、四国の山奥じゃ少々てこずったが、道東の方じゃハンドル操作を忘れてしまうほど、ハンドルを動かすことはなく、アクセルペダルを踏むことはあっても、ブレーキペダルを踏むことは、ほとんどといっていいくらいになかった。
途中休憩に立ち寄ったドライブインに、”ばんえい競馬ただいま北見競馬場で開催中!”という雄々しい姿の馬のアップのポスターが張ってあって、それが黒岩の目に入った。最初、黒岩はばんえい競馬という意味すら知らなかったが、ポスターに写った馬の姿を見て大体は想像ついた。
東京なんかで見る、中央競馬会の競馬場のようなスマートなサラブレッドではなく、見るからに力強そうなあの逞しい足は、さぞ昔、山仕事や畑仕事に活躍しただろう馬の力比べのようなものかと思い、旅の思いでの一つとして、そのポスターの地図を頼りに、早速北見ばんえい競馬場に向かった。
到着した時には、もうすでにレースは始まっており、観客席に着いた時には既に第5レースが始まっていた。しかしレースが進むにしたがって、次第に大型の力強い馬が登場するらしく、黒岩は丁度いいと思った。そして登場してきた馬を見て黒岩は唖然とした。
あまりの力強さに圧倒され、第一障害、第二障害と二つの大きな山を越えて、見るからに重そうなソリに、おまけに重そうなウェイトを積んで引っ張って走る馬の姿は圧巻であり、それにまして、観客も総出で、「よいしょ、よいしょ」と馬と一緒になって、その障害を乗り越える掛け声を掛け、まさしく人馬一体の競技であった。可憐なサラブレッドとはまるで違う体系の馬の姿ではあったが、黒岩は、最初少し見て、また北上するつもりでいたが、結局は最終レースまで馬券を買うこともなく、その力強い馬の雄姿に見入ってしまっていた。
レースが終わり、その後北見を後にして、サロマ湖を超えたあたりで陽が暮れたので、その日は湧別で民宿に泊まることにした。その宿の名物は、なんといってもサロマ湖の魚介類で、ホタテ貝にカキ、そして氷下魚の一夜干しが最高だった。そして、朝の味噌汁の具がホタテの稚貝でその独特のホタテの出汁が格別であった。
久しぶりに、珍しい魚介類を肴に熱燗をちびりちびりとサロマ湖の夜を楽しんだ。すっかり外は冷え込んでいて、宿の主人が「”ゆきむし”が飛んでるから、明日は雪かなぁ?」と黒岩に云った。
「雪虫って何ですか?」と黒岩が民宿の主人に尋ねると
「雪虫が舞うと、翌日には必ず雪が降るんじゃよ」と教えてくれた。にわかには信じがたかったが、翌日の朝には、屋根にうっすら雪が積もっていた。宿の主人のいう通りだと思った。
それで今日中に何とか最北の地、宗谷岬に立ちたいと思っていたので、朝食を済ませると早々に宿を後にした。そして右手にオホーツク海を眺めながらひたすら北上していった。その景色は延々5時間くらいは続いたろうか、民宿を出るときには、ちらほら降っていた雪が、紋別を越え猿払の標識が見える辺りになると、この地特有のブリザードになっていて、雪は天から降るのではなく、真横に道を横ぎるように舞っていた。さっきの標識には稚内50Kmとなっていたが、徐々に雪の降り方が激しくなり、前に見える視界はどんどん狭くなって、最後には視界ゼロになった。いわゆる”ホワイトアウト”という現象だという。視界が丸っきりなくなり、前に丸っきり進めなくなってしまっていた。止むを得ず、しばらく道脇に車を停めて、ハザードライトを点滅させて、吹雪の弱まるのを待つことにした。あと30Kmだというのに、まるで身動きがとれなかっってしまっていた。
黒岩がここ最近、あることを発見したことがあった。北海道の場合、普通の速度で走っていても30kmは30分、60Kmは1時間で走ることができるという事実であった。ごく当たり前のことのようで、平均時速60Km/Hrで走行すれば、小学生でも計算できることのようでも、都会では30Kmというと1時間で走るのも無理で、渋滞にはまると2時間かかっても着かない時もあった。要は、黒岩の走っていた道には、渋滞もなければ信号も交差点も殆どなかったので、稚内まで30Kmと書いてれば何もなければ30分も走るとすぐにつけるはずだったが、このホワイトアウトでは、まるで動きがとれないことまでは想定できていなかった。
そして、ようやくのことでブリザードはおさまり、視界が広まってきたが、もうすでに西の空は赤く染まりはじめていた。
明るいうちに宗谷岬に立ちたいと考えていたが、それは既に叶わぬことは、すぐに明白であった。それから再度、車を走らせ、稚内市内に入った頃には、既に市内は暗闇に包まれていた。
しかし、考えてみると東京では夕方の4時ではいくら冬でも、まだ自動車のヘッドライトを点灯して走る車はいなかったが、ここでは、東京よりだいぶ東に位置するからなのか、4時過ぎでもうすっかり真っ暗になっていたのに黒岩は驚いた。
とりあえず、レンタカー屋を見つけ、借りていた車を返却して、翌日には東京に帰る準備をした。そしてその日は、近くの古びたビジネスホテルに泊まることにした。
ここが今回の旅というか、取材旅行というか、一応業務の一環であったことを思い出して、夕食には晩酌することを控えて、取材メモの大学ノートに一通り目を通し、一眼レフの撮り温めた画像をプレビューで見直して、旅を振り返った。南の西表島から始まった旅も最後、ここ北のはずれの稚内で締めくくることが出来たことに黒岩は感謝した。
黒岩は、今まで生きてきた30年の人生よりもこの2週間余りの旅のほうが、数段中身が濃いような気がしていた。
そして、そのことを一応会社に取材旅行の完了をメールで報告しようと、小さなフロントに降りたが、宿の人は誰もおらず、フロントの中を見回しても、大福帳と書いた分厚い綴りとご芳名帳と使い込んだソロバンくらいしか見当たらず、パソコンを借りようとしたが、これじゃ聞く必要もなさそうだったので、なにも聞かずに自分の部屋に戻った。
黒岩の頭の中には、今回のJRの企画原案は大体まとまっていた。今までは如何に耳障りのいいキャッチコピーを捻りだすかと、誰もが行きたくなるほど、きれいな情景写真があれば、コメントは付け足しみたいなものだと思って製作してきたが、今回はそういう画像には頼らず、もっと深い意味合いを以て、草案作りをしたかったので、大学ノートにいろいろ書きならべた中から本当に自分自身の心に染みる思い出を拾いだして、まとめてみることにした。やはり都会では、置き去りにされてきた何か大切なものを視聴者と一緒に考えるような物にしようと決めていた。
そして、概ね考えがまとまると取材ノートをテーブルにおいて、再度フロントに行って、便箋を借りてきた。
愛用の思い出の万年筆で、じっくりと思い出を振り返るように、大切な旅の思い出を誰かに手紙で書き残したかった。相手は誰でも良かったが、その宛先は奥能登の町役場地域活性化推進室気付片桐祥子様だった。
なんだか、この思い出深い感触が冷え切る前、に紙にして書き残しておきたかったのであった。が本来内容からして、別に宛先が奥能登の地域活性化推進室である必要は毛頭なかったが、誰かに今の気持ちを伝えたいという思いで、気付として彼女宛てに手紙を書くことにした。
それは、恋文という代物とは、かけ離れた内容であり、きっと受け取ったほうからしても、
「何で?何で私にこれを?」と云いたくなるかと思ったが、どう思われようとも愛用の万年筆で、紙に記して置きたかったのである。強いてラブレターと言えるのは最後追伸として、
「今度横浜に帰られるときには、ご一報ください。一緒に食事でも如何でしょうか」と書き添えたその一文くらいのものであった。
翌朝、民宿を出る時に会計と一緒に主人に、その封筒をポストに投函してほしいと切手代、100円を手渡し、おつりは取っておいてくださいとかっこをつけて宿を後にした。それだけで、少しリッチな気分になった。たかが16円でも。そして本来当初の予定では、今回の旅行では一切飛行機は使わないようにしようと決めていたが、急に東京にすぐに帰りたくなり、稚内空港に行くためタクシーを呼んでもらった。空港に着くと、まず最初に探したのがフリーで使えるパソコンであった。
幸いすぐにそれは見つかり、取り急ぎ会社の係長とCCで課長宛てに、取材旅行の終了と次回の自分の出社予定を記してメールを送信しておいた。
そして、丘珠空港を経由して一路羽田空港に向かう飛行機に乗り込んだ。
彼は、羽田につくまでの機内で、旅を終えて二つのことを決断していた。
それはまず最初に、会社に出社する前に、中山の仏前で手を合わせて、彼に謝りたかった。それは謝って済まされるものではないと思っていたが、しかし同僚にまず、自分の行いに許しを乞うことであった。
もうひとつが、この案件を仕上げたら、会社を退職しようと考えていた。
それがせめてもの故人への償いだというのと、もう一つが、もうこの会社に自分の生き甲斐を見出だせそうにないと考えていたからだった。
羽田空港に到着するなり、早速黒岩が向かったのは、亡き同僚、中山のタワーマンションであった。彼の家に立ち寄る前に、コンビニで香典袋を買って、マンションの28階にある彼の部屋に辿り着くと、廊下には、既に幾つかの荷物を出されていたが、奥さんであろう人の姿は見当たらなかった。そして、インターホンを押すとすぐに彼女が玄関口に現れた。
「会社の同僚の黒岩と申します。知らないこととは言え、お悔みを言うのが遅くなり、大変申し訳ありませんでした。この度はご愁傷様でした。旅先で訃報を聞いて、ただただ驚いております。出張中だったので、駆けつけるのが遅くなって、申し訳ありませんでした。」と黒岩が出迎えてくれた奥さんにお悔やみを言うと
「わざわざご丁寧にありがとうございます。主人からは黒岩さんのことは、よく聞いておりました。お初にお目にかかりますが、いつも会社でいい友達が出来たと、故人も喜んでおりました。まあ折角ですのでお上がり下さい、散らかってて申し訳ありません。今引っ越しの準備で、家の中がごったがえしていて、段ボール箱だらけですみません。」と奥さんが丁寧にお辞儀をして答えてくれた。
「では、仏前にお線香上げさせていただきます。」と遺影の前に座ると、黒岩は心の奥で”申し訳ないことをした、許してくれ、中山”とじーっと目を閉じて手を合わせながら深々と頭を下げた。
「葬儀の際には、会社の方も大勢参列にきていただきました。部長さんから、主人が希望退職で退職していたなんて、そのときはじめて知りました。妻として情けなかったです、主人が会社を辞めたことを、その時まで全然知らなかったなんて。主人は毎朝出社して、定時に帰宅していたので、何も解りませんでした。でもどうして私にも黙って、会社を辞めたのか、それにどうして急に自ら命を絶ったのか、まったく理由がわかりません。子供のためだとマンションに引っ越しまでして、家族団欒を楽しみにしていたのに、子供と私を置き去りにして逝ってしまうなんて、どうしても納得いかないんです。来週、子供つれて実家のある佐賀の方に帰ります。いろいろとお世話になりました。当面、主人の残してくれた退職金と、このマンションを売却するとローンを差し引いても、幸い少しは残るようなので、それで何とか親子二人、質素に暮らしていくことにしようと思っています。」と、か細い声で、でも律儀な口調で奥さんは涙を薄っすら浮かべながら、黒岩に話をしてくれた。
確かにその頃は、中古マンションだとて、購入時よりも高く売り払うことができた時代であり、退職金も希望退職ということで、少しは割増しになって会社から支払われるだろうと思い、黒岩は奥さんと子供の二人ならば、しばらくは何とかなるのかなぁと想像していた。
「では、私もそろそろ失礼します。奥さまも大変だと思いますが、お疲れが出ませんようにお身体をご自愛下さい。では失礼します。」と言い残して、黒岩はマンションを後にした。
黒岩は、地下鉄の駅に向かう途中、ふと後ろを振り向くと、うず高くタワーマンションが聳え立っているのを見て、さぞや彼もこのビルの一室で、幸せな夢を見ていたのか思うと、無性に哀しくなり、世の中の不条理と空しさが揉み上げてきて、目頭に涙を浮かべながら地下鉄の駅に向かって足早に歩いていた。
彼は、奥さんに内緒にして黙って会社を辞めていたなんて、にわかには信じられなかった。それに希望退職を迫ったのが、部長だったと言うことがどうも引っ掛かった。
もしや、あの事件が発覚して、旧帝大派閥の常務も部長もまた中山もそろって、その派閥に属しており、保身のために画策し、中山の依願退職という形で幕を引こうとしたのかと思うといたたまれず、今回の一件が部長にまで責任追求が及ぶことを恐れての常務からの指示だとすると、絶対許せないと黒岩の胸の中に怒りがこみ上げてきた。
まだ子供が小さいのに、彼を自殺に追い詰めたのが、派閥の中で部長と常務の自分の社内での出世と保身の為だとすると、それは許し難いことであり、すべてを無かったことにするために、中山が無理やり会社を辞めさせられるはめになったとすれば、残された奥さんがあまりに哀れすぎた。くしくも彼ら常務も部長も中山も旧帝大の主流派ではあったが、しかし三人とも京都帝都大の出身者で、主流派の中では本流ではなく、非主流派の方になり、圧倒的に力のあったのは、社内では本流である東大派閥であり、いつも疎ましく思っていて、少数派の団結力は人一倍強いものがあった。
ちなみに、黒岩がどうして県立大学卒なのに、大手企業に採用されたかというと、採用試験の最終面接の時に、ついうっかり面接担当者の前で、今となっては都市伝説となった元映画俳優でしたと口にしたことが採用の決め手となったことは、黒岩自身が、後で知り得た理由であった。
広告代理店とすると元俳優というだけで、万一仕事関係で芸能プロダクションに行ったとき、何かの足しにでもなればという根拠のない理由だけであった。しかしそれが社会の現実なのかと思うと、黒岩はいろんな意味でやるせない気持ちで胸が一杯になっていた。
そして黒岩は、その足で、すぐに会社に向かった。
早々に係長と課長に出張報告を済ませた。
「黒岩、長い間ご苦労だったな。部長から今度の案件のプロジェクトマネージャーに、お前が正式に指名されたぞ。頑張ってくれよ。君の手腕が問われるところだ。腕の見せ所といったところだ。これに成功すれば、二階級特進だって部長も仰ってたぞ。」
それを係長からその旨を告げられたが、黒岩には素直には喜べはしなかった。部長からの話だと言うことならば、先に俺に「詫びのひとつも入れてからにしろ」と言いたいくらいだったが、それは自分の胸に仕舞い込むことにした。
その後、人事課に有給休暇の処理と旅費精算をしに行くと、有給休暇が日数オーバーだということで、来月の給与支給を減額処理すると言われた。黒岩もある程度、自分の有給日数は計算していたが、繰り越し限度期間が2年までだと言うことまでは知らなかったので、不足分は次月分が減給扱いだといれても納得いものではなかった。
「その理屈は、人事課の都合でしょ、自分は今まで休日も返上して、入社して以来休日出勤手当ももらわす7年、年末年始以外休んだこと無いんですよ。有給など一度もとったことなく、10日×7でしょ」と言い寄ったが、それ以上、人事係長に言うこと自身が空しかったので、ご迷惑をお掛けしましたと一言いって人事課の部屋を出た。
黒岩はその日は、さすがに早めに退社した。
翌日は土曜日だった。今までなら土日なんかまるで関係なく仕事していたが、黒岩は、もうそんな気にはなれなかった。
人生とはいったい何なのかを、考えさせられる。
そして真の生きる意味を見出していく。