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「お前が働けば良いだろ!? なんで俺が働いている間にお前は家の中でダラダラ寝てるんだよ! どう考えてもおかしいだろ! 不平等だろ!」
「それは、私が、私が今から働くってどういう事だか分かってんの!? どこで働く事になると思ってるの! ロクでもない所しかないじゃない!」
「良いだろ! 俺だって働いてるんだぞ!」
「だったら! だったら働いて得たはずのお金はどこなのよ!?」
蒸発したお金は今どこにあるのだろうか? その行方はお父さんにしか分からないし、お母さんが働いたらお金の問題は解決するかもしれない。お互いがお互いに別々の問題を抱えているせいで、簡単には状況が良くならない。耳鳴りがしてきそうなこの家から、僕は逃げ出した。こういう時は外に出るのが一番良い。
もし仮にこの世界に空があったら、こんな時でも星を眺める事が出来たのに。少しは気を紛らわす事が出来たはずなのに。現実は異臭漂う家の外。上を見てもそこにあるのは、蒸気によってぼんやりとカモフラージュされた土の天井だ。生温くて、春みたいにバカになってしまうこの街。環境が良くない。
路上には、今にも倒れてしまいそうな小さな家で生活している人もいるし、疲れ果てたのか土の上で寝ている人もいるし、通行人を誘惑しながら客を探す女性もいる。
あぁなってしまったらお終いだ
お金の管理が出来なくなったらお終いだ
働けなくなったらお終いだ
家が無くなったらお終いだ
性産業で働いたらお終いだ
頑張れなくなったらお終いだ
人間としてお終いだ
終わりだ
どうして生きていこうとしているんだ?
死にたいと思わないんだろうか?
「お! お姉ちゃん! 良い女だね!」
「今日来てよぉ、どう?」
「行くよぉー! 待ってて? 借りてくるからさ?」
「あっはは! 無理しないでねー」
金を借りてそんな事をするな。まぁ、僕のお父さんはお金を借りてないだけまだマシなのかもしれないな。自分で稼いだお金である事は間違いないんだ。
○○
僕の父親は、思い切りの良い人だった。不意に旅行に行こうと言い出す事もあったし、いきなり高めのお寿司を食べに行こうと言い出す事もあった。もちろん、この日なら行けそうだな、とか、これぐらいのお店なら大丈夫だな、とか、ある程度の計画性があっての行動ではあるんだろうけど、コッチからしてみれば完全にいきなりだった。母親が元気だった頃はそれでも成立していたけれど、それでは上手くいかなくなる事も増えた。
○○
微かに父親に対してあった愛情が、今では全く無くなってしまった。それは、抱いていた期待が泡だったという事を理解したからだ。歓楽街で作った借金だけを残してどこかへと消えてしまった父親は僕の中では壊れて消えた。
そんな考えを抱きながら、今までよりも本格的に働く為、僕は仕事を探した。しかし、僕は子供という事になっているので、働ける場所は少なく、見つけたとしてもただ単に、純粋に雑用ばかりだった。もちろん安い仕事だ。重たい物を持ち上げたり、棚の品物を変えたり、店主の私用の買い物を代わりにやってあげたり、雑用。
母親も重い腰を上げてようやく働く。前から働いていればこんな事にはならなかったのでは? そんな思いは当然あるが、この思いを本人に言ったとしても意味がないので、やってくれるようになった事を喜ぼう。そういう事にしとこう。
職場は縫製工場。この世界には醜い蚕が居るので、布に関わる仕事が多い。なのでこれは一般的な職場だし、一般的な仕事だと言えるだろう。それならなおさら、とも思うが、こればっかりは仕方ない。
しかし、僕はお母さんが裁縫に関する事をしている姿を見た事がないし、針や糸や蒸気のミシンなども我が家にはない。大丈夫なのか? そもそも、お母さんに長時間働く根気はあるのか?
先行きは分からないが、お母さんが縫製工場に採用された事で、僕の仕事は雑用に落ち着いた。
○○
父親に似ている。外見ではよく言われたが、内面は完全に母親似だった。しかし、時々自分勝手に振る舞ってしまうところや、自転車に乗って一人で旅をしてしまうところは、自分でも父親の遺伝を感じた。心配性の母にとっては、随分と辛かったんだと思う。今思えば悪い事をしてしまった。
後悔したところで無駄だ、それでも後悔してしまう。
○○
母親は仕事を辞めていた。どうやらクビらしい。その理由を具体的に知る事は出来なかったが、家でボソボソと一人で言っている愚痴を総合すると、裁縫が出来るという嘘をついた事がすぐにバレて、めちゃくちゃに怒られたらしい。「私は子供じゃないのよ……トホホ」みたいな事を割と深刻めに、涙目で言っていたのが印象に残っている。
僕しかいないんかい。とか思いながら、お金が足りなかったので、より良い就職先を寝る間も惜しんで探していた、もちろん働きながら。
仕事をしている所に、よく分からない子供が一人で入り、まとまった給料の仕事をさせてくれと言って回るのは思ったよりも大変だった。殴られる事も日常的にあったが、それでも頑張っていた、頑張らないといけなかったから。
そんなある日、たまたま人手不足だという職場を見つけ、そこに就職出来る事になった。それは、街の明かりを灯す仕事だった。考えてみればアレも誰かが灯していたんだなぁ、と当たり前の事を再認識したと同時に、必要とされる仕事で良かった、と安堵する。僕がライトと呼ばれたのはここからだった。この名前を使う伝統があるみたいだった。
「子供だからって甘えんじゃねーぞ! 手伝え!」
「はい」
「ちいせーんだよ!! 声が!」
頬に激しいビンタ。目が覚めるような痛みによって、ここがどういう場所なのかを理解した。こういう職場か。どうしてこういう人が当たり前のように生きているんだろう。
「これから覚えなきゃいけない事があるんだよ! 分かるか!」
「はい」
「ちいせーっつってんだろ!」
今度はグーで殴られた。血が出てないかを手で確認してみたが、出てはいなかったらしい。なんか辛い。死にたい。
こんなゴミみたいな人がいる世界だ。
○○
僕は普通の子供より、少しだけ暗かったと思う。ただ、少しだけだったので友達はいたし、人生を楽しい、面白いと思う事が、自分でも楽しくて面白い方向へと進む事が出来ていた。それでもやっぱり、僕の性質はどう考えても暗かった。一人での旅は、不安と後悔の旅になったし、自分勝手な行動は、夜中に自分を苦しめた。生きづらいと思っていた。
躁鬱的なところがあったんだと思う。まるで正反対の両親から貰った遺伝子が、僕をそうしたんだろう。だから、だから?
○○
なんでこんな事思い出してんだろ。
親方に叱られてから数日が経っていたが、何故か初めて親方に会ったあたりの記憶が蘇っていた。懐かしいし、なんだか悲しくなってきた。母親も大変だったんだろうな、きっと。
ただ、正直な話をすると、あの二人が、両親が居なくなってくれた事は嬉しいかもしれない。悩む事も少なくなったし、居なくなって初めて大切に思えた、生きていたら邪魔だと思うんだろうけど。
親方に対しての考えも大きく変わってきている。悪い人ではないんじゃないか、と、思い始めている。
思いやりがある人かもしれない、正しい人かもしれない、この世界に必要な人かもしれない、『必死』に生きている人かもしれない、と思い始めてしまった。なら、僕はあの人を見習って生きていくべきだろうと思ったけど、それでも、僕はあの人みたいにはなれないな、と理由のない確信を持ってしまっていた。
前の世界の倫理観が僕を邪魔しているのかもしれないが、それだけではないような気もする。どちらかといえば、僕自身の人格の方に大きな問題があるようだ。考えてみればそうだ。親方はこの世界に順応して、この世界の中で生きているが、僕はそこからはみ出して、アジトという場所に、そういう人が集まる場所にいるんだ。
どうすれば人は変われるんだろうか。
あれだけ真剣に、正しい言葉で叱られた後にも関わらず、全く変わる気配がない僕はどうすればいいんだろうか。もはや『地獄』に行っても良いとさえ思ってしまっている僕は、これから先どうやって、何を頼りに生きていくんだろうか。
いっそのこと、キセンさんのように自殺をしてしまうのも、僕の人生にとっては悪いものではないのかもしれない。
そうすればこの世界から離れられる、ここ以外の全てならどこでも良い。そんな事を思っていた。
外に出て、部屋とは違う空気を吸おうと思った。汚い空気であったとしても、自分の悩みも含んでいるようなこの部屋の空気よりはマシだと思った。
星空も、青空もなんにも見えない土の天井には、光漏れした写真のようなオレンジがある。それはぼんやりと汚くこの街を包み込んでいた。降蒸燈の火だ。今日も親方は仕事をしているんだ。この街のみんなもそうなんだ。じゃあ、僕はどうなんだろう?
この街を出ていくという行為は、ここに一切の貢献をしない。まだ使える坑道を廃坑のように見せかけて、それを独占する事により、自分達の利益を不当に確保しようとしている。どこが『必死』なんだろう?
この街から出ていく為に、この街の人達に質の悪い石炭を売り付けている。そんな事をしている人間のどこが『必死』なんだ? どうして『地獄』に行かないと思えるんだ? 人生をちゃんと考えないといけない。
少なくとも、この街から出ていかないという選択を、空を飛ばない、地上へはいかないという道を選ぶ事を、僕は考えないといけない状況に追い詰められている。だって、そもそも空を飛ぶ夢は僕の夢ではないし、たまたま与えられただけのものだし、僕がここにとって要らない人間である事は気付いているから。
ありがとうございます