10
歓楽街で働いていたシャボンの姉と駆け落ちしたハグルマは、その後、大切な人を亡くしてしまった、殺されてしまった。それに責任を感じた彼は、恋人の代わりにシャボンを守る事を誓った。壊れやすい彼女を守りたいと思った。
隠れながら生活費を稼ぐ事は難しい。そしてハグルマは他にも問題を抱えていた。当初の予定とは違い、シャボンに生活を助けられていたハグルマは、どうにかして働こうとしていた。
人手不足で困っていたゴーグルに出会ったのは、その頃だった。それによって今があった。
目の前には大きな鉄の扉。
私が、横にスライドして開くこの扉に親しみを持っているのは、昔ここに通っていたからだ。それは仕事の為、お金の為ではあったけど、良い想い出をアジトの外で見た場所だ。私には他にそんな場所がない、とっても大切で珍しい場所だ。ここで機械の設計や製造を行っているワイヤさんはとっても親切だったし、優しかった。だから、今日はここに来た。
火花が散る作業をしていた工房の隅の方で絵を描いていた。角度をちゃんと測ったり、長さを測ったり、デッサンのような事をしながら絵を描いていた。
優しいワイヤさんの役に立ちたくて、知識なんて何にもなかったのに、機械の設計図を描いていた。それはとても面倒で、描かないと線は増えていかないという、当たり前の事を再認識させられた。
ノックしてから中に入るが、気付かない。前はすぐに気付いてくれていたのに、気付いてくれない。きっと、年齢でそうなったんだと思う。昔からワイヤさんはお婆ちゃんだった。それは間違いなかったけど、ある時からいきなり老化が進んでしまった。
咳と一緒に
口からドロドロとした血を吐いたあの日から
手の皺と、顔の皺に血が入り込み
そのまま倒れ込んでしまったあの日から
死にたいと言うようになった
身体が痛いと嘆くようになった
タバコの数が増えた
物に当たるようになった
私に怒るようになった。こんな想い出は忘れてしまいたかったけど忘れられなかった。そんな想いのままで、とても懐かしいニオイを嗅いでいた。鼻の上の方だけに残り続けるような、金属が熱されるニオイ。血のような鉄のニオイ、慣れたから嫌いじゃないニオイ。その中に僅かに苦い想い出。
バチバチと火花を散らしながら、ロケットの溶接作業をしているワイヤさんに私は近づく事が出来ない。そのまま困って立っていると、向こうが私に気付いてくれて、目が合った。その後にニコッと笑ってくれた。柔らかく、クシャッと皺が動くその顔はとても元気そうだったが、それは嘘かもしれない。
「まだ待ってくれないか!? 今大変でね!」
「はい」
「ありがとぉ! シャボン!」
ワイヤさんの背中を見ていると悲しくなってしまう。無理してるんじゃないか、って勘繰ってしまう。ここに来るのはやっぱり苦しいし、やっぱり胸が痛かった。でも、向き合わないと助けられないんだ。怖くなって逃げちゃったけど、もう一度私はここに来れた。キセンの死によって、人が死ぬ事を思い出したからここに来れた。
「待って」、と言われたので、私達が乗ろうとしている、今生きている理由でもある大きなロケットの製造過程を見ていた。
私が通っていた頃は、骨組みすら出来てなかったロケットに段々と鉄板が付けられているのを見ても、本当にコレが空を飛ぶのかは疑わしかった。
でも、私が考えるに問題はないはず。それに、ワイヤさんも大丈夫だと言ってくれた。しかし、これほど大きな物を作るのは初めてだから、分からないとも言っていた。地上の事も分からないと言っていた。
結局は、どんな結末を迎えるかなんて分からないんだ。実際に霧の中を抜け出す事が出来るのかも、本当にコレが飛ぶのかも、それから先、全てが終わってから私達がどうするのかも分からない。
どうしたら良いんだろう? 地上には何にもない?
「シャボン、終わったよ」
「うん」
「どうしたんだい? 来てくれて嬉しいよ」
「ありがとう」
「久しぶりだね、見ない内にまた背が伸びたかな?」
「分かんない」
「そうかぁ、シャボンがまた来てくれるなんてなぁ」
遠くを見て懐かしむような顔をしていた。あの時はおかしかったって自分でも分かってるのかな、それに対して罪悪感を抱いていたりするのかな。
私がただただ怖かっただけなのに、勇気がなかっただけなのに。会いたかったのに、会えなくなってただけなのに。自分を責めてほしくない、辛い思いをしないでほしい。
「アレに問題でもあったのかい?」
「そうじゃないよ、ただ……」
「ただ?」
会いたかっただけ
だし、言いたい事があるだけ
どう言えば良いんだろ?
「元気かな、って」
「……元気だよ、シャボンのおかげでね」
「私は、これからも元気でいてほしいな」
「ありがとう、頑張ってみるよ」
これでも伝わってるんだろうな。
私が言いたい事とか、長生きしてほしいと想ってる事とか、タバコを辞めてほしいと思ってる事。私が生きていてほしいと願う人には生きていてほしい。その為に頑張る事が出来るのは私だけだ。
「元気でいてほしい」。この言葉の意味を分かる人だと信頼はしているけど、でも、これじゃあ足りないかもしれない。実感が湧かないかもしれない。
もう一つだけ
「タバコ、辞めれる?」
「……もちろんだよ。シャボンの頼みならね」
「……ありがとう」
嘘
ウソだけど
そう言ってもらえて安心した
私の自己満足でしかないけど
言いたい事が言えて良かった
「もう少しここに居な?」
「うん」
「話したい事が沢山あるんだ。シャボンにね」
「うん」
ふわりと浮かぶような雰囲気の中で、ステキな想い出があるこの場所で、昔の惨めな自分を思い出す。
お姉ちゃんが死んで、それで知らない人と一緒に暮らす事になって、でも、その人は働く事が難しかったし、ゴミみたいな連中から逃げたり、隠れたりしながらだったし、私は全くやった事なんてなかったのに機械の設計図を描く仕事に就いたり、私が稼ぐようになってから、歯痒くて苦しい思いをしていたのに明るく振る舞ってくれたハグルマがいたり、とにかく惨めな自分を思い出していた。
今も自分は惨めだけど、昔よりはマシなのかもしれない。人生が良い方向に向かっているのかな、神さまに助けられてるのかな。
ほんの少し、ほんの少しだけではあったけど、この世界に産まれて良かったと思った。こんなにステキな人達に出会えたんだから、それはどう考えても嬉しかった。
ありがとうございます