三十話 霧の谷
「なんだってんだあの化け物は!?」
「鳥……では無いですね。言うならば獣の身体を持った人……? あんな生き物は見たことがありません」
「──マテウス教皇……それに、ゼルメイダちゃん……。こんなの──ひどすぎる……」
書斎は首の無い二人の死体が横たわり、流す血があちこちに飛び散る凄惨な現場と化していた。
「──ひとまず、ここを離れましょう。この少女がいなくなった事でバイエルの街の住民は目を覚ます筈です」
「……そうだな。ここにいたら俺達は教皇殺しの犯人扱いだ。急いで離れよう。──サビオラ、立てるか?」
「……うん」
私は少女の死体の手を握りしめる。せめてもの慈悲、その流れる赤い血を癒しの力で止めてあげる。
「ごめんね……。今の私にはもう、これしか力が残ってないの……。せめて、安らかに眠って……。あなたの夢は人を陥れるので無く、幸せにできる夢なのだから──」
私は死者に祈りを捧げ、大聖堂を後にする。鳥の怪物、行方不明者、教団の謎、そして白き紳士が残した最後の言葉──。疑問と事件は解決を見せないまま、長い夜が終わろうとしていた。疲弊した身体を引きずりながら、私達は街外れの小さな宿へとなだれ込むように入ると、三人は各々のベッドで泥のような眠りについた。
・
鐘が響いた──。朝の始まりである鐘だ。バイエルの街は誰もが夢から覚め、普段と変わらぬ日常が始まる。私達もそれに合わせるように身体を起こす。朝はまだハッキリとしない脳内の筈なのに、昨夜の戦いが頭から離れない。まるで私達だけが見ていた悪夢のような光景、あの天使と呼ばれる生物は……思い出すだけで身体が震えた。
「スタムさん、サビオラさん。起きてますか?」
マルセロさんが部屋のドアをノックしながら言うと、
「ああ、起きてるぜ」
「私も起きてます」
父娘で返事をする。彼はそれを聞いて部屋に入ってくると、暗い顔をしたまま喋る。
「街ではまだ騒ぎにはなってませんが、教皇が死んだ事は間も無く知れ渡るでしょう。早いうちにここから出た方がいいです」
「ほんとに昨日のことは現実なんだな……。嘘みてえだぜ……」
お父さんはベッドに座りながら顔に手を当てて深くため息をつく。
「でも、これからどこへ……」
「あの天使なる生物が言ってた『霧の谷』ですよ。そこに答えがある筈です」
「霧の谷──」
それは、この西大陸の北部にある巨大な谷であった。霧の谷は名の通り季節を問わず年中霧に包まれた場所で、視界が悪く足場がわからないため危険が多い。地元の人でさえ近づかない所と有名な谷は、いまだにその全貌も判明しない謎の深さがある。
「僕は……レジーナがそこに必ずいると踏んでいます。あの生物は教皇を操っていた可能性、この行方不明事件の本当の黒幕なんじゃありませんか」
「──情けねえ話しだがよ、俺は昨日のあの化け物を見てびびっちまった。あれは、人の触れちゃならん禁忌の存在なんじゃねえのか? それこそ、教皇が言ってた通り本当の『天使』って奴なのかもしれねえな……」
「あの何かは──それこそ伝説に言われる『禁断の花園』から来た生き物なのかも知れないね……」
「──どうしますか。お二人とも。もしかしたら今までの逸脱以上に危険かもしれません。スタムさん達はここに残って──」
「冗談キツイぜ、マルセロ。はるばるここまで来たんだ、俺はお前の嫁さんを助けて娘も探す。男たるもの、二言は無えよ」
「そうですよ、マルセロさん。ここで帰ったら、私達はきっと後悔します。この事件を解決するんです──。これは教団の教えで無く、私は、私の意志で進むと決めたんです……!」
マルセロさんも、お父さんも、私も、強い瞳をもって立ち上がった。私達三人はもう運命共同体──。この事件の終止符をうつのだと、勇ましく街を出る。霧の谷はここから二日歩けば着く距離だ。
バイエルの街が遠ざかるに連れて──ふと、私は何だかもうこの景色が見れないんじゃないかという不安に襲われた──。
それは、あの白き紳士の言葉が頭の中によぎったからだ。この行動は私達の意志では無く、禁断の花園へと向かうための本能的な行動なのだとしたら……。
「(いいえ……これは間違いなく私の意志。教団の謎を解くために、人を助ける当たり前の心であり、そして妹を必ず探す強い意志です──)」
漠然とした不安を振り払うように、私は進む。その選択が正解なのか不正解かはそれこそ神のみぞ知るところなのだから……。
・
──霧の谷──
「噂通りに何にも見えねえとこだな……」
暑いくらいの荒野を歩いていたのに、いつの間にか辺りには霧が出始めていた。気づけば視界は閉ざされるように包まれる。それはまるで白い闇であった。冷たい風が肌にあたると、谷は鳴くような風を吹かしているのがわかった。だが、それも霧が全てを隠す。どこが崖なのかもわからぬ足場は、まだ昼間だというのにその境目さえ見えなかった。
「気をつけて行きましょう。何か嫌な気配も感じます……。離れずに行動しましょう」
「サビオラ、パパにしっかりついてくるんだよ!」
「大丈夫だよ。お父さんの背中は大きいんだから」
「でも……やっぱり心配だあ! パパと手を繋いで歩いて──」
「もう! 大丈夫だってば!」
お父さんはしょぼんと肩を落とすと、悲しい声で「大人になったな……」と言った。ゆっくりと大地を踏みしめながら歩く、私はお父さんの大きい背中を目印について行く。
──しばらくたった頃である。私は白い闇の中に揺れる何かを見た。それは聞こえるか聞こえないかの小さな声で笑ったような気がした
「──子供……?」
たぶん、小さな子供の影であった。その影は私の左の方向へ姿を消す。
「お父さん、マルセロさん! いま、子供の影が──ふぎゅ」
注意をそらしたせいか、私は派手に転んだ。
「いたた……。──あれ、お父さん……?」
気がつくと父の背中は見えなくなっていた。
「あれ……? お父さーん! マルセロさーん!」
呼ぶ声は霧に消える。私は一瞬のうちに、はぐれた子羊──迷子と化した。
「ううう……。どうしよう……。二人ともどこですかあ……?」
私は涙目になりながら四方八方を見るが、まるで霧が意思を持つようにその邪魔をする。私はめそめそとその場でうずくまると──、
「……こっ……ち……」
遠くから声が聞こえた気がした。その方向を見ると、また子供の影が一瞬だけ見える。
「またあの影──! ……でも……」
私はためらう。あの影は何かよくないもののような気がした。ここで立ち止まることもできるが──
「……頑張れ。頑張るのよ私。もう子供じゃないんだから……!」
私は影の消えた方へと歩く。足元に注意しながら、父と剣士の名を呼びながらその足を進める。すると、前方に巨大な何かの影がうっすらと現れてきたのだ──。
「これは──」
霧の中に突如出現した巨大な物は、大きな城の形をした建物だった──。白い闇に隠された赤色と肌色の混ざった斑模様の城。私は確信するように、ここが黒幕の住みかだと直感した。