二十九話 テンプテーション
「もう……ちょっとよ!」
「重い……!」
鮮血にも似た赤いカーペットの敷かれた長い廊下を抜け、沢山の死体の横を通りながら、ティエナとエリックは何とかその非力な腕にありったけの力をこめて、俺の体を館の外まで運び出した。
館の外はいつの間にかすでに陽は落ち、静かな薄暗さが森を包んでいた。
「う、うう……アア……」
「バッジョ!? やっと気がついた!」
「ア──アルラネルラ様……! 戻らなきゃ……!」
「!?」
俺は目を覚ますと、その疲労困憊の体を無視して這うように、館へと戻ろうとする──。
「まだ洗脳が解けてない──!?」
「嬢ちゃん! 縄だ!」
エリックは近くにあったジーダ達が俺達に縛りつけてた縄を持ってくると、二人がかりで俺の身動きを封じるようにがんじがらめに縛った。
「ウオオオオ! この縄を解け──! 俺はアルラネルラ様のところへ行くんだああ!!」
「何馬鹿なこと言ってんのよ!! 目を覚ましなさい!!」
「嬢ちゃん、とりあえずこいつを引きずってもうちょっと離れるぞ! 距離を置けばこの症状も治るかもしれん!」
「……! わかりました!」
・
「「はあはあはあはあ──」」
命からがら逃げてきたといった感じで、二人は嗚咽のような呼吸を漏らすと、何とか視界から館が見えなくなるまでの距離を取って、近くにあった木を背もたれにしながら、一休みをした。
「オオオオオオ! 縄をほどけえええ!!」
館から距離を置いたものの、俺の洗脳は解かれず仕舞いである。仕方がないのでティエナとエリックは俺を近くの木に縛りつけて、しばらく様子を見ることにした。
「──嬢ちゃん。何があったんだ。こりゃどうなってる」
「はい。実は──」
ティエナは館で起こった経緯を話すと、エリックは少しため息をついて悲しい目をした。
「そうだったか──」
「エリックさんが来なかったら、私一人じゃバッジョは運べませんでした。助かりました」
「わしは雷のような轟音が聞こえたから気になって館の入口を覗いたんだが、そこでタンタの集落からいなくなった者の死体を見つけてしまってな。いてもたってもいられなくなって奥へと進んだらこの有り様だったという訳だ……。しかし、本当に守護者がいるとはな──」
「私──あの女が怖いです……。人間でも、逸脱でも無いような、そんな女性でした……。とても蠱惑的な瞳をしてて、まるで全てを呑み込むんじゃないかって思うほどの深さ──。あんな存在がこの世にいるなんて」
「そうか……。それは恐らく魅了の類いの術だな。男を惑わせる術──『テンプテーション』だ。その証拠に君は正気だ。人間の本能を刺激するように、異性にしか効果が無いのだろう。もし、男であるわしもその場にいたらかかっていただろう……」
「エリックさん、どうやったらバッジョは戻りますか!? それにディーノは……!」
「まず落ち着くんだ。バッジョについては色々と試してみよう。ディーノの事はただただ、信じる他にあるまい……! 大丈夫だ。あいつは魅了が解けていたんだろう? 必ず館から脱出している筈だ」
エリックは木に張りつけにされた暴れる俺に近寄ると、ジーダ達が持ってきたであろうと思われる荷物から水筒を取り出し、その中身を俺の顔面にバシャリと思い切り浴びせた。
「ウわっぷ! 何すんダアアアア!!」
「ふむ、戻らんか……。股間を蹴っても、距離を置いても、水をぶっかけても駄目──。こりゃ相当な術だな……」
「バッジョ!! あんた──いい加減目を覚ませえええええ!!」
バキィッ!!
ティエナの拳が俺の顔面にめり込むと、俺はガクンとまた気を失った──。
「あっ……やりすぎたかも……」
「……時間を置けば治るかもしれん。今は体力の回復も含めて少し一休みさせよう。わしは出来るだけ館に近付いてディーノを探してくる。嬢ちゃんはこいつを看ててくれ」
「エリックさん無理はしないで下さい。本当に危険な相手です──」
「大丈夫だ。もう二度と捕まるようなヘマはせんさ」
エリックは小さな体をしゃかしゃかと動かしながら館の方へと向かっていった。
・
──三時間、いや……四時間はたっただろう。辺りはすっかり暗黒に飲まれた森へと様変わりし、不気味に無く鳥の声にびくびくしながら気を張りつめているティエナは、俺の傷の手当てをしながら精神力を徐々にすり減らしていた。
「ねえ、バッジョ。起きなさいよ──。いつ目を覚ますの……あなたの相棒がピンチなのよ。頼むから起きてよ──」
ティエナは俺の胸に額をコツンと当てて、疲れた声で言う。
静けさが怖い──まるでこの旅を終わらせるような夜の闇がティエナの心を蝕む。そんな孤独さを感じていると、昔の自分を思い出すかのように不安がよぎる──。
両親を失くしたあの日のように、また私は大事な人達を失くしてしまうんじゃないかという、あの恐怖──。
もう自分はあんな思いはこりごりなのだ。そんな思いが体を動かすのか、未だ目を覚まさぬ彼の手を握る。冷たいものが頬を伝う──。それが涙だと気づいたのは、こぼれ落ちた涙の雫を彼が受け止めたからだ──
「──何、泣いてんだよ……? ここは……?」
「バッジョ!! あんた! 心配したんだからね──!」
何がなんだか状況が分からぬ俺は、しばし混乱する。ただ、目の前には泣いてるティエナが写るだけだ。
「おおーい! 二人とも! 治ったのか!?」
俺が混乱してると、遠くからエリックが小柄な体を跳ねながら帰ってきた。
「エリックさん! バッジョが正気を戻しました!」
「バッジョ! ……何が起こったか分かるか? 体に異変はあるか?」
「え……いやあ、体は何ともねえけど……。何で俺こんな縛られて……ってあれ!? 俺は確かあの守護者と戦ってて──ディーノはどうした!?」
俺は取り乱すように声を裏返した。
「落ち着いてよく聞け。お前はあのアルラネルラの『テンプテーション』にかかって魅了されていたんだ。館から脱出出来たのはディーノのおかげだ」
「ディーノは!? どうしたんだ!?」
「今程までわしが館の周辺を探して来たが、残念だがその影すら無かった……」
「はああ!? なんだと!? おい!! 今すぐ行くぞッッ!!!!」
「バッジョ落ち着きなさい! ディーノは私達を逃がす時に必ず自分も脱出すると断言したわ! ディーノはあんたの相棒でしょう? あんたが一番信じてあげなきゃ駄目でしょ!!」
「──そりゃ……そうだな。俺の相棒は負けねえ。もしかしたら館の中へ潜伏してるかも知れねえな。あいつ、ガキの頃からかくれんぼ上手いんだよ」
俺はティエナの言葉で冷静さを取り戻すと、深呼吸して気持ちを整えた。
「よし。何時間寝たかわからねーが体もそこそこ動けるぜ。ティエナが傷の手当てしてくれたんだろ? へへっありがとよ」
「あ、当たり前じゃない……仲間、なんだから……」
ティエナは恥ずかしそうに顔をそむける。エリックは俺を縛りつける縄を外してくれると、
「いいか、我々にはもはや道は一つしか無い。館の主、アルラネルラを倒すのだ。奴を倒さない限りは、この森から出ることもできん。しかも敵は見るだけでこちらを洗脳してしまう恐ろしい技も持ってる。バッジョ、無策では絶対に勝てぬぞ」
神妙な面持ちで苦く言った。
「ああ、奴のやり口は身を持ってよくわかったぜ……。大丈夫だ、もうあいつを直視しない。エリックはここで待っててくれ。──ティエナ、力を貸してくれるか?」
「当たり前でしょ! ディーノを助けに行くわよ!」
「ありがとよ……! よっしゃ行くぜッ!」
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