二十三話 冷たい雨
──夢だ。また僕は同じ夢を見ている。
満開に咲き誇る黄金の花畑に僕はいて、それで────
「…………!」
体を起こす。寒い。ここは、どこだったか。
まだ覚めぬ脳内、徐々に血が通ってくる。吐く吐息は白く、冷たい。周りは木の壁に囲まれた小さな宿泊所、そのたった一つしかない部屋に置かれたベッドが二つ、僕は静かに目を覚ました。
ああ、そうだった。僕達は北東へと進路を決めてその道中、この旅人のために作られた小屋を利用して一晩を明かしたのだ。
隣のベッドを見るとファリアが寝息を立てて眠っている。いつもなら彼女が僕より先に起きているものだが連日の疲れが出たのだろう、一人の女の子として可愛らしく深く眠りに沈んでいる。
僕はそんは彼女を見て凄いと思う。あれほど怖い思いや危ない橋を渡るような目に会っておいて、普通の人間である彼女は祖父の無念を晴らすためにここまで弱音を吐かないで旅をしている。
人の念とはかくも強きことか、曲がらぬ信念さえあれば彼女はこれからもいかに困難な道筋であろうとその足を止めることは無いだろう。
しばらくぼんやりと見ていると、寝返りをうった彼女のその胸元で大事に着けているペンダントがキラリと光る。ゼニトの花が埋め込まれたそのペンダントを見て僕は思い出す。
思い出すのはもちろん自分の見る夢。何度も何度も見る夢。しかしそれは確かに自分の失われた記憶と関係をしている夢のような気がする。
その時僕は思ったのだ。僕だけが聞こえているあの謎の声はあの夢に出てくる不思議な黒い男のものなのでは無いだろうか。
奴が僕を助けている──しかしだとすれば夢の中のあの誰かは何故僕を助けるのか、そして僕だけが助かればいいと思っているのでは無いだろうか。
曇る窓の外を見る。……雨だ。正確には雨と雪が混ざったみぞれだ。天気は良くない。
外に広がる景色、遠くは雨によって閉ざされ、見えても白い雪原ばかり。
まるで僕の記憶のようだ。なにも見通しが無い、漠然とした真っ白な風景。先の見えぬ未来、さらにここまでの僕の軌跡という足跡はすでに雨によって流された。思い出せぬ苛立ちと焦り、そして恐怖もある。
だが僕にも一筋であるが生きる意味と希望を持てた。それは彼女、ファリアの存在だ。成り行きであるが彼女の祖父に助けられ、ここにまだ僕はいる。その恩を返し、彼女には今後の人生を幸せに楽しく生きて欲しい。
そのためには何としても彼女の祖父の死の解明をしなくてはならない。一体誰が、何の目的で彼女の祖父を殺し、どこかへと逃げたのか?
謎は深まるばかりだが、これから向かう地で何かが解るかもと一縷の希望を持つ。
僕が見つけた手がかりと言えば、彼女の祖父が死んでいた小屋の近くに緑色の液体のようなものを発見しただけだ。
到底、答えには遠い問題。何を意味したものかもわからないものは手がかりにはならないのか。
「…………外の空気でも吸うか」
流れる雨音と煮詰まった頭、僕は外の空気が吸いたくなって小屋の扉をそっと開けると凍てつく空気が流れる小屋の外へと出た。
「はあぁ……やっぱり寒いな……」
じょうろから流れる水のようにみぞれは降る。小屋の屋根を傘にして僕は身体を震わせると、朝方の寒い空気が僕の鼻と口を通って肺を冷たくして白い大きな息が出た。
暖炉の効いた小屋の中へと戻ろうかと考えたが、ふと小屋の隅にあった大きな剣が目に入った。
その剣は捨てられたように転がっていて、刃先はぼろぼろで錆び付いている。おそらく過去にここに泊まった旅人が使えなくなったから捨てていったのだろう。
僕は何となくその忘れ去られた剣を持つ。それはこの剣が自分とはまた違う境遇で、誰かに忘れ去られた物であったからこその同情なのか、どことなくシンパシーを感じて僕は剣を持って眺める。
「記憶を失くすのも辛いけど、誰かに忘れ去られるのはもっと辛いよな……」
剣は何も答えない。僕は剣を見てこれまでに会ったカーフとマルセロを思い出す。
あの二人はまさに強者であった。僕は彼等が羨ましい。それはあの強さもそうだが、あの二人には決して折れぬ信念があった。その心の強さが彼等の腕に宿るのだろう。
彼等との出会いで、僕も精神的には強くなれた……と思う。ファリアを守りたい気持ちは僕だって負けない──が、僕の場合はそうは思っていても実力がついていかない所が最大の難所だ。
「あの二人のように僕もこんな剣を自在に操れたらな……」
ため息まじりに自分の実力不足を嘆きながら、僕はその錆び付いた剣をぶんと振った。
カァンッ!
「いっ──!」
なんとなく横薙ぎに振った剣は小屋の壁に当たると、その剣先が折れて僕の右の手の甲をかすめた。
「痛ってて……何をやってんだ……」
刃先がかすめた手の甲から少しずつ痛みを感じる。傷は大した事は無い、爪一枚分くらいの長さの細かい傷が手の甲についた。
馬鹿なことをしたなと反省すると、徐々に手の甲から血が流れる。
──ポタリ。僕の血が地面の白い雪の上に落ちた。
「────え」
僕は──それを見て言葉を失った。
だって、白い雪の上に落ちたその血は緑色だったから。
「なっ──なんで──」
僕はすぐに自分の手の甲を見る。……間違いない。この緑色の血は、僕の血だ。手の甲からは赤い血では無い、緑色の血が溢れている。
馬鹿な、人間の血は赤い筈だ。人間だけじゃない、動物だって、人を超えた"逸脱"だって赤い血が流れている。
それならこの緑の血は──なんだ──?
これは見たことがある。だってこれは、ファリアの祖父が死んだ時に現場近くにあった緑色の液体そのものじゃないか。
僕は、自分のその手の甲を必死に押さえる。緑の血が流れないように万力を込めて押さえる。
認めたくない。自分に赤い血が流れていないことに、自分が他人と違うその現実に、そして、もしかしたら自分が彼女の祖父を────
キィィ……
小屋の扉が静かに開いた。
「あっ、よかったハザマさん外にいたんですね。おはようございます」
いつもと変わらぬ笑顔で僕に言ってきた。僕は、青ざめた顔で、
「お、おはよう……」
そう挨拶する。
「今日も寒いですね。ハザマさん外の空気を吸うのもいいですけど、ほどほどにしないと風邪をひいちゃいますよ。この雨が上がったら出発しましょう」
「あ、ああ……」
「……? どうしたんですか? ハザマさん手の甲が痛むんですか?」
彼女が心配そうに僕の元へと近寄る。
「なっなんでもない!」
「なんでもなかったらそんな青い顔はしないですよ! ハザマさん怪我でもしたんですか?」
ファリアが僕の手をとって手の甲を見た──
「──あっ。ここ小さいけど怪我してますね! よかったあハザマさん大袈裟だからびっくりしましたよ」
──僕の手の甲の緑の血は、冷たいみぞれによって流されていた。
「あ、ああ……少し、怪我をしてたみたいだ……大したことはないよ……」
外はこんなに寒いというのに、僕の背中は汗で濡れていた。
「この雨がやんだら出発しましょう。外は冷えますから中へ入りましょう」
ファリアがそう言うと、僕は手の甲を彼女から見えないように外側へと向け、小屋の中へと戻った。
────二時間後。
空は曇天であるが雨はやんでいる。そして僕の傷もすっかりと血は止まり、何事もなかったように元通りになっていた。
「晴れましたねハザマさん! さっそく行きましょう!」
なにも知らない彼女は雪原へと足を踏み出す。そして僕はどこか虚ろで、この空模様のようなどこか晴れぬ気持ちで彼女についていこうとした。
「ハザマさんなんだか元気がないですね? どうかしました?」
「いや、なんでもない──大丈夫、大丈夫さ……」
そんな生返事をする。僕は、自分の存在が怖くなった。僕は一体誰なのだろう。このまま彼女に着いていってもいいのだろうか──
冷える雨は空気だけで無く、僕の気持ちをも凍らせた。この流れる血は、何。信じるは誰。
ファリアと共に歩む僕の足は彼女を欺く悪なのかも──
いいや、そんな事はない。そんな事は、無いのだと──僕は自分に強く、ただひたすら強くその保証も無い自信を持ち歩くのであった…………。