六章 右目
大賢者の館の中庭に面した列柱廊に、黒ずくめの大男がボンヤリ座っていた。銀色の光を返す白い髪の男は、スフィアに気がついて赤黒い血のような瞳をゆっくりと向けた。
スフィアは、彼が少し怖かった。このまま踵を返すと、避けているように取られるだろうなと、意を決してスフィアは前を通り過ぎようとした。
「お嬢ちゃん。おめぇ、インジュの恋人なんだってなぁ」
話しかけられるとは思わなかった。彼は、ディコにもニーナにも、自分から話しかけているところを見たことがないからだ。
「リティルが許してんだろう?オレ様に異論はねぇよぉ。ただなぁ、あの野郎ちょっと見ねぇうちに、強くなりやがったなぁ」
「インジュ、お城ではどんなだったの?だいたい想像つくけど」
ケルゥは、ワハハハと遠慮なく笑った。
「インジュ、あんなナヨナヨした容姿だろう?人形みてぇだったよぉ。それが今や、やめてくださいとか言いながらよぉ、ガンガン反撃してくんのよぉ。面白れぇなぁ、あいつ」
「反撃?」
インジュは未だ武器が握れなかった。それなのに、どう反撃するというのだろうか。
「あいつなぁ、武器破壊だぜぇ?触れる物触れる物、全部反属性で返してきやがる。あいつに、武器なんて必要ねぇんだぁ」
体術を極めたら、向かうところ敵なしだと、ケルゥは笑った。インジュはどうやら、力の方向性を決めたようだった。未だ武器は苦手で、殺したくなくて、けれどもリティルの役に立ちたくて。そして、何となく編み出したのが、反属性返しという固有魔法だった。それを使う為には、相手の武器がどんな力なのかを見極めなければならず、まだまだ精度は低い。だが、今までにない魔法だなと、ケルゥは面白がっていた。
そして、この娘。
「お嬢ちゃん、ちょぉっと見せてみろよぉ」
そう言ってケルゥは、スフィアの髪を遠慮なく掻き上げた。
「……へえ、こりゃあ、根が深けぇなぁ」
ケルゥは平然とつぶやいた。彼も、スフィアの右側をまるで恐れなかった。
「何かわかるの?」
「まあなぁ。これでもオレ様古参なのよぉ。お嬢ちゃん、インジュにやってもらいてぇんだろう?だったらよぉ、待ってやれやぁ」
そう言われて、スフィアは俯いた。
「あんまり、もう、そばにいたくないわ」
「ああん?うっかり本気になっちまったってぇ?大丈夫だぁ。離れりゃそのうち忘れるぜぇ。人はなぁ、忘れるからよぉ、生きていけるんだぜぇ?」
「忘れたことあるの?」
「そういうことでよぉ、苦い思い出はねぇなぁ。けどよぉ、薄らいだ記憶は沢山あるぜぇ?リティルなんかよぉ、無理矢理消された記憶もあんだぜぇ?」
「何それ!おじさま、大丈夫?」
「寄ってたかって、守る為になぁ。ノインなんて、前世の記憶は穴だらけだしなぁ。それでも、なんとかやっていけるんだぁ。あっても、なくてもなぁ」
ケルゥは、ニヤリと凶悪な笑みを浮かべた。
「お嬢ちゃん、インジュを忘れたいんかぁ?」
考えないようにしていたその問いを突きつけられ、スフィアは答えられなかった。
そんなころ、中庭を隔てた反対側の廊下をディンは歩いていた。そこで、柱の陰に隠れるようにしているインジュと遭遇した。
「インジュさん?」
「うわわ!」
あまりの驚きように、ディンは思わず笑ってしまった。
「誰か、いるのですか?」
ディンはヒョイッと中庭を覗いた。そして、その奥の廊下にいるケルゥの後ろ姿を見つけた。
「スフィアがいるんです。その、ケルゥと……」
ケルディアス?凶悪犯罪者のような彼と、よく二人きりで話せるなと、ディンは思ってしまった。再生という力は異質で、ディンのような未熟な魔道士には刺激が強すぎた。力への理解が追いつかなくて、目眩がしてしまう。そんなケルゥを前にしても、ディコとニーナは平然としていた。そんな姿を見せつけられるだけでも、自分の未熟さを痛感できた。
「気になるなら、行ってみたらいいのでは?」
何を話しているのか気になる様子のインジュだが、どうにも踏ん切りがつかない様子だった。なぜ?とディンは首を傾げた。
「ケルディアスさんは、苦手なのですか?」
「まさか!家族ですよ。ボクが戦えるのを知って、すぐ手合わせしようとするので、顔会わせたくないだけです」
インジュは困ったように肩をすくめた。
「インジュさん、戦えるようになったのですか?」
「いえ!逃げ回ってるだけです。ケルゥ、そんなボクとやって、何が楽しいんでしょうか?」
インジュは本気で首を傾げた。そんなインジュの様子に、ディンは穏やかに微笑んだ。
「インジュさん、スフィアを解放してあげないのですか?」
「闇の王からですか?出てきてくれないので、何もできないです」
「嘘ですか?」
「本当ですよ!どうして嘘なんて」
「離れたくないのかと、思ったのです」
あっと、インジュは言葉を失った。
「インジュさん、もう離れたほうがいいと思いますよ?」
「ボクを遠ざけて、ディンがスフィアと?――え?今ボク、なんて言いました?」
「ほら、見ていて危うい状態ですよ?」
ずっと諭すような微笑みで、穏やかで、こんなディンが、なぜ時の精霊の甘言などに惑わされたのか、インジュは今でも疑問だった。スフィアが好きだ。その感情だけで?けれども、インジュは何となく理解できるような気がした。ディンは本当にただ、スフィアを闇の王から解放したかっただけなのだと。
「闇の王を滅することが、できますか?」
「できます」
「ならば、わたしが一肌脱ぎます」
「ディン?あ、待ってください!」
ディンは下駄を鳴らして、中庭に降りた。
「必ず、スフィアを救ってくださいね」
その姿が儚げで、インジュは慌てて彼の背を追っていた。しかし、それ以上先へ進めなかった。彼の時魔法だと気がついたときには、すでに術中に嵌まっていた。
ディンが未熟?油断していたとはいえ、こんなに鮮やかに時魔法を操ってみせるのに?と、インジュは動けない体でディンの後ろ姿をただ見送っていた。
ディン達の反対側の廊下にいたケルゥは、気配を感じてふと中庭に視線を向けた。
「インジュ?と、なんだっけかなぁ」
「ディンよ。何してるのかしら?」
スフィアは訝しがると、こちらを見つめて動かないディンに向かって歩き始めた。何だろう、ディンの様子がおかしい気がする。
どうしてそんな、優しい顔で笑っているのだろうか。
「こんばんはスフィア」
「何?どうしたの?」
「そうですね。あなたに嫌われに来たのですよ」
え?
あまりに彼の微笑みが静かで、その表情にそぐわない言葉に思考が追いつかなかった。ディンの手が、スフィアの髪を掻き上げていた。
「時よ、この者の時間を少しだけ未来へ」
え?
ディンは悲しげに瞳を伏せると、スフィアの隣を通り過ぎてその場を去った。ディンに時を止められていたインジュは、体に自由が戻るのを感じて、ケルゥの側へ歩き去るディンの後ろ姿を目で追っていた。その姿がとても静かで、インジュは不安を掻き立てられた。
「あ、あああっ!きゃああああああああ!」
突如、あたりに腐臭が満ちた。悲鳴を上げて頽れたスフィアは、自分の身を抱き、小刻みに震えていた。
「きゃあああああ!」
空を仰いだスフィアの右目を貫いて、菌糸を束ねたかのような腐敗の腕が生えていた。それを見たケルゥは、何気ない様子で片手をスフィアに向けた。
彼の髪の色のような白銀のドームが、スフィアを中心に展開された。
「あの腐敗を、そんなに簡単に押し留められるのですか?」
「こんなん、遊びにもなんねぇなぁ」
ディンに感嘆の声を上げられ、ケルゥは素直に賛辞を受け取りつつ凶悪に微笑んだ。
インジュの見ている前で、ドームの中の花々が腐り果てる。腐敗の中心にいるスフィアの体に、カビの花が咲いているのを見て、インジュはケルゥの再生のドームの壁を越えていた。
「イ、ンジュ――ダメ!」
すぐに腐敗がインジュに襲いかかってきた。インジュは、腐敗に犯された自身の右手を見た。今にも腐り落ちそうだったその手が、スウッと元に戻る。インジュは、一歩一歩スフィアに近づいた。スフィアはインジュが、腐った箇所を、癒やしながら近づいてきていることに気がついた。
もう、声が出せなくて、スフィアは首を横に振った。
「スフィア、泣かないでください」
スフィアの左目から流れる涙は、黒く変色していた。こんな穢れた姿を、見てほしくなかった。インジュは優しく笑うと、腐敗にまみれているスフィアの体を抱きしめた。
少しも躊躇わないインジュに、スフィアは彼を遠い存在に感じた。こんな汚い物を、平気で触れられる彼はやはり、この世の存在ではないのだ。
――インジュ、もう、サヨナラなのね?
スフィアの中の腐敗が、殺されていくのがわかる。右目を貫いて生えた化け物の腕が、インジュのキラキラと輝く金色の風の中に消えていく。
「スフィア、やっと、約束を果たせます。こんなに待たせて、すみませんでした」
インジュの放った風が渦巻いて、腐敗に腐らされた中庭の花々を再び芽吹かせた。
終わったことを感じて、ケルゥはスフィアに向けていた手を下ろす。
「終わりましたか?」
ケルゥとディンの隣に、インファが静かに立っていた。
「あっけねぇよぉ、兄ちゃん。インジュ強えー」
ケルゥの素直な感想に、インファは小さく微笑んだ。スフィアを見事に救った息子は、中庭の草の上に彼女を横たえて、こちらに戻ってくるところだった。その顔は、晴れやかで、そして切ない笑みを浮かべていた。
「あなたがいてくれて助かりましたよ、ケルゥ。オレでは、かなり頑張らなければ、あの腐敗を押し留められませんからね」
「まあなぁ、オレ様だしなぁ。インジュ回収して、帰ろうぜぇ?」
ケルゥはうーんと伸びをすると、インファを見下ろした。
「ええ。ディン、オレ達はこれで帰りますから、スフィアをお願いしますね」
「わかりました。インファ様、ケルディアスさん、ありがとうございました」
ディンは二人に深々と頭を下げた。そして、頭を上げる頃には、三人の精霊の姿はもうなかった。
それは、いつもと何一つ変わらない朝だった。
「ん?目、覚めたか?」
スフィアが目を覚ますと、傍らにはリティルがいた。スフィアは寝ぼけた頭で、どうしてここにリティルがいるのかと、ボンヤリ思いながら彼の顔を見返していた。確か、大柄な精霊に捕まえられて、イシュラースに強制連行されたはずと、スフィアはリティルの顔を見つめていた。
「おーい、見えてるかー?」
リティルが顔の前で手を振った。スフィアは答える代わりに、ゆっくりと頷いた。なぜか、疲労感がもの凄い。
「もう少し寝るか?」
「起きる。おじさま来てくれてるから」
やっと、声が出せた。体を起こすと、視界が何かおかしい。スフィアはボンヤリとしながら瞬きした。
「スフィア、インジュから伝言があるんだけどな、聞くか?」
インジュ?その名を聞いて、スフィアはあの日のことを唐突に思い出した。
「おじさま、あたし、何日くらい寝てたの?」
「一週間くらいだぜ?短い方じゃねーか?インファなんて、二ヶ月寝てたぜ?ああ、オレは一年だったかな?」
「精霊と一緒にしないで!そっか、あたし、もう普通なのね?」
この身の内に闇の王がいても、いなくても、何も変わらないのだなとスフィアは思った。いた実感もなければ、いなくなった実感もなかった。それは、リティルの風がずっと守っていた為だったが、それを告げる気はない。スフィアはリティルが、父親であることすら知らぬままだった。
「それ、インジュからな」
それ?リティルに指さされて、スフィアは右側の額を触った。
え?何か硬質な物に手が触れた。恐る恐る、壊れないように注意しながらそれを外す。途端に、髪が落ちてきて目にかかった。
目?スフィアは右側に指で触れる。
「痛!」
「おいおい、大丈夫か?いきなり目の玉指で突いたりして、何やってるんだよ?」
「おじさま!」
「ん?何だよ?どうかしたか?」
いきなりスフィアに詰め寄るように鋭く呼ばれて、リティルはたじろいだ。
「あ、あたしの右目、あるの?」
「ああ、ちゃんとあるぜ?って、ああそうか、おまえあの時寝てたのか?闇の王を滅した後な、インジュがおまえの右目を作ったんだよ。見えてるか?」
「見える!見える!嘘みたい!アハハ、嘘みたい……」
スフィアは不意に込み上げてきた熱い気持ちに、涙していた。
「それ、おまえの手の中にある髪飾りな、インジュが作ったんだぜ?」
スフィアは、やっと手の中にあるそれを見た。
それは、金色のバラの咲く髪留めだった。いつか、インジュが作ってくれた花冠を思い出す。それを元のようにつけようとして、上手くいかずに、見かねたリティルがつけてくれる。そして、似合ってると言われた。
「スフィア、インジュから伝言預かってるんだ」
リティルはそういうと、肩に留まらせていた金色のツバメをスフィアの肩に留まらせた。
頭の中に、インジュの声が聞こえてきた。眠っていたスフィアにはまだ、彼がここにはもういないことが、実感できていなかった。この部屋から出て、中庭に行けばそこに、まだ彼が何気ない様子でいるような気がしていた。
『スフィア、おはようございます。で、いいんですよね?あ、今、夜でした?夜だったらすみません。えと、右目、見えてますか?リティルとの約束だったので、ちゃんと見えているのか確かめる前に、ボクは風の城に帰らなければならなくなってしまいました。すみません。あの、髪飾り、右側の髪が邪魔だと思うので、使ってください。あ、髪切ったらいらないですね。髪切ることあんまり考えてませんでした!すみません』
スフィアは思わず笑っていた。あの人は、何回謝るのだろうか。
『あの、ボクはもう、楽園へは行けません。元気で生きてくださいね。それから、あの、できればボクのこと、忘れないでください。…………あれ、忘れてくださいって言うべきなんでしょうか?すみません。ボク、スフィアのこと、絶対に忘れません。だから、ボクのこと、忘れていいですよ?あれ、なんか違いますね?えっと、スフィア、ありがとうございました。ボク、ボクはあなたが――好きでした』
「インジュ……あたしも、あたしも――」
――好きよ!
スフィアは顔を覆って泣いた。そんなスフィアの肩にリティルが触れる。スフィアはリティルにすがって泣いた。リティルは泣き止めないスフィアを、ずっとずっと抱きしめてやっていた。




