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五章 時計

 翌朝、セリアは剣狼の塔までついてきた。

リティルは楽園にいてもいいと、許可してくれたが、セリアは仕事の邪魔になるからと言って辞退した。

「父さん、気を使わなくていいですよ」

インファの態度は、本当にいつも通りだった。リティルは、まあインファはこう言うよなと思っていた。

「けどなあ、いつ城に帰れるかわからねーんだぜ?」

セリア、一緒にいたいだろ?とリティルは、普段とは違う行動を取るセリアの様子を、窺った。

「仕事だもの、待てるわ。それに、わたしがここにいると、インジュが集中できないみたいだし」

セリアはインジュをチラリと見た。インジュは、風の王と両親を遠巻きにして、近寄ってこなかった。そして、信じられないモノを見るような目で、こちらを、正確には両親を凝視していた。

「セリア、それは、あなたのオレに対する、態度のせいだと思いますよ?」

「わ、わたしいつも通りよ?」

セリアはどもった。そして、困ったような嬉しいような複雑な表情で見下ろしてくる、インファの瞳からスッと視線を外した。リティルと話す間、セリアはずっとインファの腕に体をピッタリと押しつけて抱きついていた。

そんな雷帝夫妻の姿を、リティルでさえ見たことがなかった。二人は城で、隣に座ることさえないほど徹底して距離を取っているのだ。

「無理してますよね?」

「む、無理してないわよ!普通!ふ・つ・う!」

セリアはムキになって、インファの腕をさらにぎゅっと抱きしめた。そんなセリアの様子に、インファはフッと意地悪な笑みを浮かべた。

「そうですか」

そして、いきなり見上げていたセリアの額に、キスを落とした。これには、リティルも驚いた。照れ屋なセリアの性格を知っている理性的なインファが、こんな人前でそんなことをするとは想像できなかったからだ。

「きゃああ!」

セリアは一瞬で真っ赤になると、インファから手を放して、キスされた額を両手で覆っていた。

「どうしました?オレも普通ですよ?」

知っているでしょう?と意地悪に言われて、セリアはもう倒れそうなほどだった。

「だ、だだだって!キ、キスなんて、ベッドの――」

余計なことを口走りそうになったセリアを、インファは抱きしめると、その体越しに次元の刃を振るった。

「では、城で待っていてくださいね?」

そう言うとインファは、セリアを軽々と持ち上げて、ゲートの向こう側へ置いてしまった。ゲートの向こうから抗議の声が聞こえてきたが、インファは聞こえないと言いたげに笑うと、空を撫でてゲートを閉じてしまった。

「今頃セリアのヤツ、質問攻めだぜ?」

「これくらいの意地悪、許してもらいます。オレがどれだけ、打ちのめされていたのか、あの人は微塵も感じてくれませんから」

「おいおい、拗ねてるのかよ?そんなことねーだろ?あんな、らしくねーことさせといて。あ、そうか。おまえ、セリアにホントはいてほしかったのか?」

リティルに納得されて、インファはえ?と思わず取り乱した。

「ああ、悪い悪い、気がつかなかったぜ。セリアにここにいろって、命令すればよかったな!そっか、そっか」

リティルはニヤニヤ笑いながら、大いにからかってやった。

「い、いいえ!そういうわけでは……ありませんよ……」

言葉では否定したが、そうなのかもしれないと思ってしまったインファは、言い淀んだ。

「おまえ……顔赤いぜ?おまえの中身、ホントにインファかよ?」

大丈夫か?と顔を覗き込まれ、インファはさらに畳みかけてくる、リティルの視線から逃げた。

「オレの中身はオレですよ。……すみません、もうこれ以上は許してください」

遠巻きにしながら、インジュは思考が追いつかずに固まっていた。リティルに突かれて、照れるインファなど見たことがなかったからだ。

「インジュのお母様、すごく綺麗な人ね。それに、すごく仲良しなのね」

普段のインファからは想像できないと、スフィアは笑った。

「ボクも、初めて見ました」

「え?」

「あんな両親の姿、初めて見ました。お父さんは、リティルの命令でお母さんと魂を分け合ったんです。ボクは、両親が隣に座っている姿さえ見たことありません」

インジュは、二人には愛がないと思っていた。共に戦う仲間、リティルの為に利害が一致した相手、そんな風に思っていた。論理的で合理的。恋愛に向かないインファの性格とセリアの極度の照れ屋が、インジュに誤解を与えていた。

「へえ?そうは見えないわよ?あたし、聞いてこよっと!」

「え?えええええ?待ってください!スフィア!」

スフィアは、インジュが止める間もなくリティル達のところへたどり着くと、疑問を投げかけてしまった。

「インファ様、お妃様を帰してよかったの?」

「いいわけねーだろ?こいつ、ずっと欲求不満だぜ?」

「父さん!誤解されますから、そういう言い方しないでください。病み上がりですから、帰したんです。また倒れてほしくないですからね」

精神を攻撃されていた割には、セリアは元気だった。昨夜は、インファの方が疲れていたくらいで、セリアは笑って膝枕してあげるから寝てくれていいのよ?と、労ってくれた。久しぶりに、セリアにいいように流されてしまった。普段は逃げ回るくせに、二人きりになると平気で触れてくる。手の平の上で転がされているなと、計算ではなく天然でそういうことをしてくるセリアに、取り繕えなくて、インファはたまに本気で困っていた。

「病気、治ってよかったわね」

スフィアが笑って言うと、インファは僅かに瞳を見開いた。

「ええ。よかったですよ。本当に……」

インジュは、心の底から安堵して、愛しそうに噛み締めるインファの微笑みを見た。

「セリアな、すげー照れ屋なんだよ。両思いなのに、インファには一生会わないとか言い出したり、逃げたりして、インファ捕まえるの大変だったんだぜ?」

「え?リティルの命令で、魂を分け合ったんじゃないんですか?」

「違いますよ。捕まえてこいと、背中を押されただけです。あなたの母さんを、これでも愛していますよ?」

「ハハ、インジュ、誤解してやるなよ!まあ、未だに、みんなのいる前じゃ、隣にも座れねーような姿しか見てねーから、しょうがねーか?」

「オレと体が触れるのが、心臓に悪いからだそうです」

セリアを捕まえて、恋人となった頃はもっと酷かった。話をしていて、不意に笑いかけただけで、セリアは息ができなくなっていたのだから。インファの笑顔が嬉しくて、呼吸を忘れると言っていたが、彼女はどこまで本気なのだろうか。今はそんなことはなくなったが、インファが好きだという、自分の姿を見られるのが恥ずかしいと言って、近寄れない。しかしインファは、そんなことが理由ではないのではないかと、思い始めていた。

彼女の気持ちを疑っているのではない。彼女が妙な理由をつけて遠慮する本当の意味が、何かあるような気がするのだった。

「セリアのヤツ、おまえの顔が苦手なんだよな。綺麗すぎるとか言って。未だになのかよ?」

「大分慣れたと言っていましたよ?そういう割に、ノインは平気なんですよね」

ほぼ同じ顔なのにと、インファはまるで気にした様子なく笑っていた。

「セリア様、それってインファ様のことホントに好きなの?」

「好かれていると思いますよ?好きだと言ってくれますからね」

「えー?それでいいの?」

「はい。十分です」

ニッコリ笑うインファに、インジュは父の方が深く母を好きなのだと知った。そうなんだと、インジュは思わず微笑んでいた。ボクは、愛し合う二人から生まれてこられたんだなと、やっと知って、嬉しかった。

「ハハ、やっぱりセリア呼ぶか?」

「いいえ、夜だけ帰りますから、大丈夫です……冗談ですよ。皆さん、固まらないでくださいよ」

その意味を瞬時に理解して、三人は固まった。

「いや、あのな……はははは」

若い二人の手前、インファの冗談に乗ってやれず、リティルはただただ笑うしかなかった。

「冗談ですよ。刺激、強かったですか?そうですか」

インファはニヤリとしたり顔で笑った。インジュは、こんな冗談をいう父を知らなかった。

リティルが、久しぶりに楽しそうに笑っている。そして、インファも楽しそうだった。親子と言うより、友人のように二人は存在していた。

風の城において、風の王とその副官の絆は、何よりも強固だと聞いていた。だが、王と副官だったり、父と息子だったり、友人のようだったり、二人はいろいろな顔を見せた。それは精神年齢が固定されてしまう、精霊ならではだったが、こんなに場面場面で立場が変わる関係も少ないだろう。

 ひとしきり笑ったあと、インファは暖炉の火のような温かな眼差しを、インジュに向けた。

「さて、インジュ、始めましょうか?」

「は、はい!」

修行に打ち込むインジュを、リティルは険しい瞳で見つめていた。内なるオウギワシを抑えることには慣れてきたが、力の発現はまだだった。

スフィアに変化はないが、昨夜、ディンに時魔法をかけられたことを、リティルは気にしていた。未遂に終わったが、あまり魔法的刺激はよくないなと警戒していた。

 ディンの心が分裂していることは、ゾナ、ディコ、ニーナに伝えた。だが、時の精霊をどうにかしない限り、城に匿っているディンを体には戻してやれない。

ルキとレイシに、ナーガニアを起こすように頼んである。次元を知り尽くす彼女に時の精霊の居場所を聞いてみる以外、リティルにはいい案はなかった。

「リティル」

「ん?ゾナかよ。ディンに動きはねーみてーだけど、どうかしたのかよ?」

リティルは昼間はカラス、夜はミミズクを使い、ディンを監視していた。カラスの目で確認すると、ニーナとディコがつかず離れずそばにいる姿が見えた。

「君に話があるのだよ」

「ん?スフィア、内緒話するけど、ごめんな」

「ううん。あたし、気にしないわ」

石に座って、雷帝親子の修行を見ていたスフィアは、リティルの言葉にそう言って笑った。リティルは笑って頷くと、自分とゾナの周りに風を渦巻かせた。これで、二人の会話は二人以外に聞こえない。

「リティル、この魔道書を読むことのできる精霊はいないかい?」

ゾナは、両手を前に差し出すと、その手の中に分厚い魔道書が現れた。

「この魔道書って、おまえ自身をか?おまえ、魔法使うとき魔道書開くじゃねーか、自分で読めねーのかよ?」

ゾナは首を横に振った。

「オレは、魔道書から力を引き出しているにすぎないのでね。ちなみに、ディコにはできなかったよ」

「そっか、とりあえずオレが試すよ。それでゾナ、ノイン立ち会わせていいか?」

ノインと聞いて、ゾナがあからさまに難色を示した。

「しかし、ノインには、インの記憶があるのではないのかね?この魔道書に関わらせるということは、インの死に関わることになるかもしれないのだよ?」

リティルの父親である、先代の風の王・イン。ノインは、彼の生まれ変わりだ。当然、インがいかにして死んだのかを記憶として持っている。

「だからだよ。あいつに言わないわけにはいかねーだろ?あとで知られたら、あいつも気分悪いだろ?オレに遠慮されたと思われても、嫌だからな」

「君が決めたまえ。オレは、館に戻っているよ」

後でな、と言ってリティルはゾナと別れた。

 そうゾナには言ったもののリティルは、ノインに言い出しづらかった。

ノインはインではない。けれども、リティルを守りたいと想ってくれたインの心を継いで、騎士という存在でそばにいてくれるノインに、インの名を出すことが後ろめたかった。

ノインにインを求めてはいない。ノインはノインだ。なのに、ゾナの魔道書のことを打ち明けることで、おまえはインだからと、言ってしまうことにならないのか?とリティルは考えてしまった。しかし言わなかったら、それもインを意識したと伝わらないか?

言うべきか、言わざるべきか。リティルは迷った。

リティルは意を決すると、水晶球を取り出した。


 風の城は、セリアが次元の刃で作られたゲートから帰ってきたことで、ちょっとした騒ぎになっていた。まるで、昔に戻ったようだなと、ノインはソファーで静観していた。

インジュが物心つくまで、セリアはこの城のムードメーカーのような存在だった。

物静かなシェラと違い、騒がしいセリアは、城の雰囲気を明るくしていた。だが、インジュの手前、セリアは恥ずかしくて、ますますインファに近づけなくなってしまった。そして、どこかぎこちない空気が流れるようになった。

そんなセリアが、目覚め、インファの作ったゲートに脇目も振らず走ったことで、城の皆はほくそ笑んだ。そして皆、暗黙のうちに一致団結したのだ。セリアが帰ってきたら、大いにからかってやろうと。

「何?セリア、兄貴に追い返されたの?」

「えー?違うよ。セリア、逃げてきたんだよ。だって、顔真っ赤だよ?」

レイシとインリーがすかさずからかいに行った。

セリアがインファに何事か怒鳴っていたが、ゲートはすぐに閉ざされてしまった。

「ち、違うわよ!ちゃんと、リティル様に断って帰ってきたわよ!」

「そのわりに、インファと揉めていたようだが?」

インファも普通ではないとは、どういう意味だ?とノインは、口元に笑みを浮かべて問うてきた。

「うっ!ノイン、意地悪ね!」

額にキスされて追い返されたなど、口が裂けても言えない。あのインファが、リティル様の目の前で!セリアは思い出して、さらに顔の熱が上がった。

「あ、その顔、兄貴と何かあったんだ?」

レイシがニヤニヤしながら、顔を覗き込んだ。セリアはギクリとしながら、ないない!と首も手も激しく振って、あからさまに嘘をついた。

「セリア、インファと何をした?」

ノインに畳みかけられて、セリアは思わず額を押さえてしまった。

「え?な、何って?何――もして、ないわよ?」

セリアはもの凄くぎこちなく、しかも目を泳がせた。バレバレだなと、ノインは小さく笑った。あとはレイシとインリーが突くだろう。

「何かしたんだ?」

レイシにニヤニヤと突っ込まれ、インリーに詰め寄られたセリアは、腕に抱きついていたことを白状させられたが、額にキスされたことは死守した。

「まあ、頑張ったのね、セリア」

シェラに優しく微笑まれ、セリアは再び顔を赤らめた。

「もお!シェラ様まで……」

「セリア、もうインファを避けるのはやめてあげてね?」

ふんわりとシェラは微笑んだ。

「そうそう、兄貴、今回かなり凹んでたんだからさ」

見てて痛々しかったと、レイシは安堵したように笑った。

「さ、避けてたわけじゃ……」

「おまえはインジュに遠慮しすぎだ。もう、自分を偽るな」

「偽ってないわよ!インファが、格好良すぎるからいけないのよ!ウッカリ触ったりしたら、心臓が口から出ちゃう!もおおお!好き!」

言い切って、セリアはハッとした。皆が、セリアに注目していた。

「お兄ちゃん……なんか可哀想。じゃあ、セリア、せめて隣にいてあげてよ」

「インリー、そんな目で見ないでぇ!わかったわよ!は、恥ずかしいけどインファのそばにいるわよ!」

ぜえぜえと息を切らしながら、セリアはかなりハードルの低いことを、約束させられていた。そんなセリアの宣言を、城の面々は満足そうに頷いた。

「何これ、茶番?」

ルキは一人用のソファーに丸くなり、眠そうな視線をあげた。

「この馬鹿馬鹿しさが風の城だ」

ノインは、小さく笑った。

「さっきから気になってるんだけど、フロイン、何してるの?」

セリアは、優雅にソファーに座るノインの左側から、首に抱きついているフロインの様子に、やっとツッコミを入れることができた。

「ああ、リティルの命に背いた罰を受けている」

「誰が?」

「オレだ」

「……これ、罰になるの?ご褒美じゃなくて?リティル様も疲れてるのね」

セリアは首を傾げて、リティルの精神状態を案じた。

 そんな時だった。机の上の水晶球が光を発した。

『ノイン、ちょっといいか?できれば、おまえと二人で話してーんだよ』

神妙な面持ちが気になった。楽園サイドとは和解しているはずだが、また何かあったのだろうか。インファが共にいて、リティルが追い詰められるはずがないのだがと、ノインはリティルの精神を案じた。王だ父親だと頑張っているが、彼の精神年齢は十九才だ。経験や月日を積み上げても、脆さはどうしようもない。

「許可をくれれば、そちらに行く」

『いや、いいんだ。ごめんな、ノイン。頭冷やしてから、また話すよ』

オレから逃げた?そう感じたノインは、咄嗟に立ち上がっていた。フロインは瞬間、彼の邪魔をしないようにパッと手を離した。

「待て!リティル!」

「リティル、ノインを楽園へ向かわせるわ。いいわね?行って、ノイン」

一方的に通信を切ろうとするリティルに、シェラは割り込んだ。そして、強引に決めると、すぐさまゲートを開いた。

「了解した」

フロインはノインを追わず、その背を見送った。二人の想いは一緒なのだ。リティルが一番という面では。

「ねえ、シェラ、風三人が不在って、ちょっと不穏じゃないかな?」

ノインを見送り、ルキは残りの面々を見回しながら言った。

「誰かの謀だと言うの?」

「いやあ?ちょっと思っただけだよ。さてと、レイシとナーガニアの夢に潜ってこようかな。大丈夫だよね?」

「ええ、心配いらないわ。何が来ても、返り討ちにするだけよ」

勇ましいねとルキは笑った。そしてソファーを降りると、未だにセリアと遊んでいるレイシに声をかけた。

「レイシ……わたし、行っちゃダメ?」

ルキと共に行こうとしたレイシに、インリーが控えめに意を決したように切り出した。

「ルキルースが閉じてるから、同伴者は一人しか夢に連れて行けないんだ。ボクの事情だからね、悪いね」

レイシが答えるよりも先に、ルキは答えていた。頑張れば二人連れて夢に潜れるが、そうだとしてもインリーは連れて行きたくなかった。

「大丈夫よ、インリー。ルキ様も一緒だから、レイシ、ちゃんと戻ってくるわよ」

レイシが心配なんだなと受け取ったセリアが、引き留めてくれた。しかし、レイシは一人でも心配いらないと、ルキは思った。ルキが、インリーを連れていきたくないのだ。これが、シェラやセリアだったら、連れて行く選択をしただろう。だが、インリーはダメだ。

この娘は、レイシの足を引っ張る。レイシの相手のようだが、相応しいとは思えないと、ルキは冷ややかに思っていた。

「アハハ、オレ、結構強いから大丈夫だよ。それよりインリー、城の守りしっかりしてよ?」

「……うん。いってらっしゃい」

レイシは不安そうなインリーの頭をポンポンと叩くと、ルキを促してナーガニアの方へ行ってしまった。


 ノインを送り出したシェラは、リティルの心を案じていた。何事もなければいい。

楽園に、風三人が集まってしまったことは偶然だ。そう思いたい。

彼等は強い。彼等なら、越えていける。彼等は、特別だから。

 楽園についたノインは、花畑にリティルの気配を見つけて舞い降りた。

「ノイン、悪い。あんまり巻き込みたくねーことなんだ」

リティルは歯切れ悪く、ノインを気遣っていることは一目瞭然だった。

「構わない。話せ」

「あのな――」

リティルは、ゾナのことを話した。

「それで、おまえは気を使ったのか。必要のない心配だ。オレは、インではない」

「わかってるさ。オレはおまえとインを混同したことなんてねーよ。ただ、知ってるんだろ?インの死の瞬間」

初代・ディコ。ゾナを作った賢者が、インを殺した。彼は、インに憎悪を向けていた。理由はわかる。風の王として、言い訳できない行いをインはしたのだから。

それをリティルが知れば、リティルの心はインから離れてしまうのだろうか。インは過去に、リティルに嫌われるのではと、心を吐露したことがあった。その時リティルは、嫌うわけがないと、そう言った。

「知っている。知りたければ、話すが?」

本当に?心が離れないと言い切れるのか?ノインは苛立ち、心が冷えるのを感じた。歴代二番目の強さを誇ったインが、死にたいと願った過去。どうしようもなかったからこそ、ノインも目を覆いたくなった。そんな過去を、リティルは受け入れられるのか?インを慕う心に、陰りをもたらさないのか?ノインは鋭い瞳で、リティルを見ていた。

「ノイン」

ノインの鋭いオオタカの瞳に射貫かれたリティルは、何に対してなのかわからない怒りを感じた。これ以上、彼に言葉を紡がせてはいけない!咄嗟にそう思って、止めようとしたが、ノインはリティルの声を遮って言葉をかぶせてきた。

「リティル、考えたことはあるか?ゾナがなぜ、インやオレに敵対とも取れる感情を向けるのか、考えたことがあるか?」

考えたことはなかった。言い訳をすれば、この双子の風鳥島にいたころ、前王のインとゾナが接点を持つことはほとんどなかった。そして、今まで眠りについていたゾナと、ノインが接点を持つことはありえなかった。ゾナが目覚めた後も、助けを求めてしまったが、関わらせるつもりはなかった。理由はわからないが、二人の相性が悪いことは知っていたからだ。

「なぜ当時、闇の王と英雄を語ったおとぎ話に、風の王が悪の側に立っているのか、考えたことがあるか?あの物語を作った初代ディコにとって、十四代目風の王・インが疑いようもなく悪だったからだ」

感情的なノインの声をこれ以上聞いていたくなくて、リティルは声を荒げていた。

「それが、それがなんだよ!誰になんと言われようと、オレにとってインは、強くて正しい尊敬できる親父だよ!なあノイン、人にはいろんな面があるだろ?おまえだって、オレとインの過去を見たとき、言ってたじゃねーか!別人みてーに性格が変わってるって。この島で生きてきた時間の中で、オレにもおまえが別人だと思うくらい、人に言えねーことがあったんだよ。知りてーのかよ?オレの暗黒時代。それを知ったら、おまえは、おまえの心は離れて行くんだよな……」

自分でも信じられないくらい酷い少年期だ。ゾナがいなかったら、リティルは法に触れるようなこともしてしまっていただろう。それくらい荒んでいた。

正しくて間違わないノインには、受け入れがたいだろう。リティルは、こんな子供な王を信頼して、そばにいてくれるノインに知られたくなかった。彼に嫌われたくなかったのだ。

あまり俯くことのないリティルが、悔しそうに拳を握っていた。そんなリティルの様子に、ノインは彼が過去を知られることを恐れている事を知った。

「消し去りたい。あの頃のオレは、誰にも誇れねーよ。でもな、その時間があったから、今のオレがあるんだ。沢山傷つけて恨みを買った分、オレは今後正しくあろうと思ったんだ。あのとき、手を放さずにいてくれた人達を、これ以上裏切らねーためにな。赤き風の返り血王――か。史上最悪の風の王って言われるくらいだからな、父さんにもそんな面があったんだろうな。オレにとっては、それだけのことなんだよ」

リティルは顔を上げた。その顔には、いつもの笑みがあった。

「ノイン、オレはおまえを、インのことで傷つけたくないんだ。おまえは特殊な生まれになっちまったけど、インじゃねーのに、インの過去を背負ってほしくねーんだよ。ただ……どう言っていいのかわからねーけど、ゾナの魔道書のこと、隠しておきたくなかっただけなんだ」

上手く言えなくてごめんなと、リティルは言って笑った。その笑顔が、無理をしているようで、ノインは感情を抑えられなかったことを、後悔した。

「おまえは、オレを誤解している。オレは、おまえに思われているほど、聡明でも冷静でもない。インには確かにあった、正しさ強さはオレにはない。もう少し感情的だ」

それを聞いて、リティルは声を出して笑った。

「知ってるよ!おまえ、涼しい顔して意外とガッツリ締めるからな。おまえのそういう怒り方、オレ、好きだぜ?ノイン、オレと一緒にゾナに会ってくれよ。おまえなら、安心して頼めるよ」

明るく曇りなく笑うリティルに、ノインは思わず眩しそうに瞳を細めた。

「タラシだな……了解した、気は進まないが共に会おう」

ノインは、大賢者の館へ向かって先に翼を広げた。その後を追ってリティルも翼を広げると、隣に並んだ。

「ん?なんか言ったか?しっかし、おまえらホントに相性悪いのな」

「仕方ない。前世のオレを殺した男だからな。彼にしてみたら、オレは宿敵の生まれ変わりだ」

「インは手加減してたのかよ?」

「初代ディコは、時魔法の使い手だ。時を止められた。あとは、想像できるだろう?」

「まあな……。けど、上級精霊の上位にいたインの時を止めるなんて、すげーな」

「ああ、初代ディコは偉大な魔道士だ。しかし、ゾナ。彼には少し、違和感がある。あの魔道書、相当に危険な代物かもしれない」

あまりに強力な魔導具を壊すことも、風の王の仕事だった。もしもゾナが、それに当てはまるとしたら、リティルは彼をも斬らなければならないかもしれない。それでもノインは、その可能性をリティルに示してくれた。

その隠さない言葉に、風の王・リティルに対する信頼を感じて、リティルは、素直に嬉しかった。

「……おまえに連絡入れる前、オレ、触れなかったんだよ。もう何度も触ってるのに、おかしいよな?……館にインファが戻ってるはずだ。あいつの意見も聞いてみるか?」

「それは頼もしい。おそらく、インファは魔書・ゾナデアンを調べている」

「そうだとしたら、あいつ、いつ寝てるんだよ?」

「仕事バカなのは父親譲りだ。そして、インファは知識欲が半端ではない」

「どんな頭の構造してるのか、たまに気になるぜ?セリア、やっぱり帰すんじゃなかったな。あいつは、ただ可愛いだけの女じゃねーからな」

「帰されたセリアは、相当に可愛かったがな」

「おまえ、セリアのこと好きだよなー」

セリアはインファを避けるが、ノインには気安い。だが、戯れている二人から、男女の愛は全く感じられない。なぜか、肉親の情を感じる。ようは、兄妹のようなのだ。

「恋愛感情は否定するが、好ましい女性だな。からかい甲斐がある」

「おもちゃかよ!案外性格悪いよな」

「今更だ」

二人は楽しそうに笑った。

 眼下に、メロンドームと尖塔をいくつも持つ、荘厳で大きな建物が見えてきた。大賢者の館だ。二人は塔やドームよりもかなり低い、切妻屋根に囲まれた中庭に降りた。

二人の帰りを待っていたのか、インファがこちらを見上げていた。

「おかえりなさい。父さん、あまりいい事態ではありませんよ?オレ達三人がグロウタースに、しかも同じ場所にいるというのは」

インファの前に、二人は舞い降りた。

「ああ、わかってる。けど、おまえも感じてるんじゃねーのか?」

待っていた獲物が、やっと姿を現す感触。リティルは自分の中のオオタカが、爪をギラつかせるのを感じていた。

「ええ。ですが、オレでは役不足ですよ。ケルゥと交代しましょうか?」

「おまえなら大丈夫だよ。インファ、おまえの知識、貸してくれよ」

「魔書・ゾナデアンですか?」

「……父さん、たまにおまえが怖えーよ」

「ありがとうございます。早速ですが、付喪神という魔法について調べました。あの魔法は、存在の保存そのものです。存在の保存は、時の精霊の契約者に与えられる恩恵です。構築式を組み立てられる代物ではないので、考えられることは一つ。初代ディコは時の精霊の契約者です」

「なるほど、インと相性が悪かったわけだな。時の精霊は、記憶、次元、音、再生、破壊等と並んで、グロウタースの民が触れてはいけない力の一つだ。初代ディコは、インに黙って彼等と契約したと、そういうことか」

「彼は、契約した精霊のことも、信用していなかったのかもしれません。自分に与えられた恩恵を魔道書に移し、作り出した時魔法を口伝で伝えています。本人に、確かめたわけではありませんが、ゾナが時魔法を使ったことは一度もないところを見ると、魔書・ゾナデアンに時魔法は記されていません」

「そもそも、どうして、初代ディコはゾナを作って身を引いたんだ?時の精霊の契約者は永遠の命を持つはずだろ?」

存在の保存は、その者の時を止めるという恩恵だ。衰退も成長もなく、今を保存する。初代ディコは、未来に目覚めるリティルを待つことができたはずだった。しかし、待っていてくれたのは、彼ではなく、彼が作った魔道書だった。

「そこまではわかりません。ですが、ディンが時の精霊と契約したことが引き金で、ゾナが目覚めたとすると、彼には、父さんを鍛える以外の目的もあって、作り出されたとは考えられませんか?」

目的の為に生み出された道具が、目的以外で動くことはありえない。リティルもそう思っていた。だから、魔力の変わり始めたディンが原因だと思った。リティルは当たり前のようにそう思っていたが、人格のしっかりしたゾナと接するうちに、いつしか忘れてしまった。ゾナが魔導具であることを忘れていた。

「それを、ゾナが気がついて、オレに相談してきたってわけか?そういえば、インジュとスフィアはどうしたんだよ?」

「ディコとニーナに預けてきました。インスレイズを三羽置いてきましたから、何とかなるでしょう」

風の王の左の片翼・インスレイズは、死を司るフクロウだ。戦闘能力はかなりのものだ。それを三羽。未熟なディンには太刀打ちできないだろう。

「おまえ、優秀だな」

「今更気がついたんですか?遅いですよ、父さん。ゾナのところへは、オレも行きますよ」

行きましょうか?と促されて、リティルは瞳を瞬くと、呆れたように苦笑した。

「関わるなって言ったら、おまえ、どうするんだよ?」

「そうですね、父さんが二の句が継げないくらい、論理で攻めますかね?どうします?聞きたいですか?」

それは、勝てる気がしない。リティルは背の高い息子の肩を叩くと、来てくれと促した。

「いや、オレの負けだよ。行こうぜ」

リティルは先頭を歩き始めた。その後ろで、小さくインファがため息をついた。

「インファ、まだ何かあるのか?」

「わかりません。ですが、胸騒ぎがするんです。罠でしょうか?」

「だとしても、リティルは行く。ならば、我らも行くしかない」

「オレには荷が重いですよ……」

「それを言うなら、オレもだ」

副官と補佐官は視線を交えると、フッと微笑んだ。

「やりますか!」

「ああ!」

風の王を助け、隣を飛ぶ為にここにいる。インファもノインも、三人でいられることが楽しかった。通常業務は、三人が個々に担当した方が効率がよく、同じ場所に風三人がいることは久しぶりだ。それは、今の風の城の状態を思うと、いいこととは言えない。能力の高い風三人が、全員でことに当たらなければならない事態というのは、世界を揺るがす事態だということを意味していたからだ。もしくは、風の城が手薄になることでもあった。

「ああ?おまえら、何二人で画策してるんだよ?隠し事するなよ?拗ねるぜ?」

リティルは、二人の声で訝しげに振り向いた。

「我々三人が共に動くことは、最近ないなと思っただけだ」

「そうだな。オレ達三人なら、何でもできそうなのにな」

「知識だけなら貸します」

「オレがリティルと飛べと?おまえも来い、インファ」

「ハハハ、何だよ?つれない奴らだな――でもな、ホントにそう思うんだぜ?」

リティルはゾナの部屋の扉に向かうと、笑いを収めて、最後にそうつぶやいた。


 ゾナは、半分以上本に埋まっているような部屋で、机の上に自分自身である魔道書を置き、瞳を閉じていた。

何かが、魔道書から語りかけてくるような気がしていた。それを感じたとき、リティルを頼らなければならないと思った。それがなぜなのか、わからなかった。目的があり作られたはずなのに、それがわからず、ゾナは迷いの中にあった。

これでは、ディンをどうすることもできなくて、当然だった。

目覚めてからずっと、リティルに近寄りがたかった。リティルの為に作られた魔道書であるのに、近づいてはいけないような、そんな気がしていた。今のリティルに近づけば、それは永遠の別れになるような――

 コンコンッと扉をノックする音で、ゾナは紫色の瞳を開いた。

「開いているよ」

部屋に入ってきたのは、三人の風の精霊だった。ノインの話は聞いていたが、インファまでついてくるとは、思いもよらなかった。これは、警戒されたのだろうなと思い、胸が痛んだ。リティルに危害を加えるつもりは、目覚めたときからありはしない。

ゾナは、リティルの教育係としてリティルに仕えていた。その存在理由は変わることはない。ゾナの主人は、今も昔も、十五代目風の王・リティルだけだった。

「すみません。オレはあなたを信用することができないので、同行しました」

インファは包み隠さず実直に伝えてきた。ノインは、ただ無言だったが、初めて会ったときよりもその瞳は穏やかだった。

「ハハ、インファはこういうヤツだ、許してくれよな。ゾナ、オレはおまえを信じてるぜ?」

「そうありたいものだ。リティル、だが、何が起こるのかオレにはわからない。心しておきたまえ」

ゾナは魔道書の下に手を置くと、リティルに差し出した。

「父さん、オレがやりましょうか?」

「いや、オレがやる。おまえ達は、オレがおかしくなったら止めてくれよ?」

二人の風の精霊は頷いた。そして、風の王の背後にスッと控えた。

 リティルは緊張気味に、革張りの重そうな本の表紙に手をかけた。

「!」

すると、羽根のような軽さで本が独りでに開いた。パラパラとページが繰れる。

「親、愛、なる、風の王?」

リティルはつぶやいた。

「確かにそう読めるな」

後ろからノインが覗き込んだ。ページはまだ繰れているというのに、確かにそう読めた。感じるといった方が近いのかもしれない。

「手紙ですか?十五代目風の王へ言葉を遺す――父さん宛ですね」

「初代ディコのヤツ、オレが死んでたらどうするつもりだったんだろうな?ええと、時の精霊の危険性について?時の精霊は自由を欲し、時を同じくして生まれた精霊達を支配し、世界を始まりに戻そうと画策している。わたしは支配を免れたが、わたしに連なる者の中に屈する者が出るだろう」

「初代の憂い通りに出てしまったな。そのときの為に、危険な力を口伝だが、わたしに連なる者に託すと共に、魔書へ座標を記す。座標?」

「周到で恨み深い時の精霊は、自分達の居住空間を明かしていない。それを知るナーガニアを排除し、時を同じくして生まれた精霊達を争わせ、あなたの父、インの愛した世界を壊すつもりだ。あなたの父は偉大な風の王だったことを、ここに宣言するとともに、器の小さなわたしの行いを許してほしい。インへの恨みを捨てられなかった、わたしの罪の清算に、魔書を遺す」

インファの読み上げた言葉を最後に、魔道書はパタンと独りでに閉じた。

「初代ディコ……インを恨むその気持ち、気に病むことはない。理由を知っていても、賛同することなどできない行いだったのだから」

背後に立つノインの苦しげな声に、リティルは慌てて振り向いた。しかし、インのその過去を知らないリティルには、どんな言葉をかけていいのかわからなかった。

そんなノインに言葉をかけたのは、ゾナだった。

「君が苦悩することではないと、思うがね。それを行ったのはインで、君ではないよ。そいて、恨みと正しさに迷ったのはオレではないのでね。インは、オレにとって理想の風の王だったよ」

「ゾナ、その言葉に感謝する」

ノインは深々と、ゾナに頭を下げた。そんなノインの様子に、ゾナは困って微笑んだ。

「この記憶は、オレと君にとって、夢のようなものではないか。オレはもう、翻弄されることはないよ。ノイン、君とは一度、腹を割って話したいものだね」

「オレもそう思っていたところだ」

フッと二人は、視線を交えて微笑んだ。二人の和解を感じて、ホッとするリティルの様子を見て、インファは、よかったですねとつぶやいた。

 さて、整理しましょうか?とインファが皆の顔を見回した。

「時の精霊の反乱については、ディンが伝えてくれたことと一致しますね。そして、肝心の居場所についてですが、ナーガニアが知っていることと、魔書に座標を記すとありましたね」

「ようは、ゾナが居場所を知ってるって、そういうことなのか?座標がどんなものなのかしらねーけど、手紙にはなかったよな?」

「しかし、時の精霊を討つとなると、問題がありますよ?」

「討つならば、ケルディアスを呼ぶしかないな。時の精霊は、一瞬でも存在を失えない精霊の一つだ」

再生の精霊・ケルディアス。彼は、その場で精霊を生まれ変わらせることができる。彼がいるからというのは、乱暴な物言いだが、時の精霊のしでかしたことは、重い罪だ。話が通じなければ、風の王は彼等を斬るしかない。

「月、太陽ときて、今度は時の精霊かよ?イシュラースも問題だらけだな。ゾナ?どうしたんだよ?」

リティルは、考え込むようにして俯くゾナに気がついた。

「……リティル、どうやら、オレはここまでのようだ」

ゾナは、魔道書を体の中へしまうように吸い込ませた。

「時の精霊の居城を示すには、すべてのページを分解し、つなぎ合わせるしかないのだよ。それを、やっと思い出せた。初代ディコは、オレに死まで用意してくれていたようだね」

ゾナはどこかホッとしたような顔で、リティルを真っ直ぐに見つめていた。

「な、何だって?ゾナ!早まるなよ?今、風の城の奴らが、時の精霊にやられた精霊達を解放してる。ナーガニアなら、時の精霊の居場所を知ってるんだろ?だったら、おまえが犠牲にならなくてもいいんだよ!」

リティルはバンッと机を叩き、身を乗り出していた。しかし、リティルの当然の剣幕にも、ゾナの水を打ったかのような静かな心持ちに、波風立てることはできなかった。

「リティル、永遠に生きることは、オレであっても耐えられることではないのだよ。ここで終わるのなら、それを、天命と思ってはくれないかね?」

ゾナはただ静かに、リティルを見返していた。これが……たった一人でカルティアという大国を、人間の王が何代も替わる長い時間、影から支配していた宮廷魔道士・ゾナデアンか?と、リティルはうろたえた。リティルの記憶にあるゾナは、圧倒的な力とカリスマで、皆を魅了して君臨していた。

その彼が、再会した彼は、ずっと弱気な顔で、自信なく、下ばかり向いている。そして今、死があるのだと聞いて安堵していた。

リティルは唐突に、老いを感じた。自分達精霊にはない、その抗いようのない時の流れを感じた。その大きさに、リティルは途方もなくなった。

「ゾナ!おまえはまだ――」

「オレは、君を鍛え導く為に生み出された魔道書だ。その目的が果たされ、それなのになぜ存在しているのか、ずっと疑問だったのだよ。目的を失って生きるのは、案外苦痛なのだよ?」

「だから!風の城に来いって言ってるだろ!」

「行ってどうするのかね?所詮、グロウタースの民のコピーであるオレでは、君の力になれはしないよ。君の城の図書室で眠るのならば、ここ楽園であっても同じではないか」

「ゾナ……!」

彼からは沢山のことを学んだ。闇の中を彷徨うような、自分を見失っていた時、ゾナは手を差し伸べ続けてくれた。それなのに、今、死に安堵するゾナに、どんな手を差し伸べていいのかわからなかった。風の王の魂が、もうゾナデアンを送ってやれとそう言っていた。

「君は、ずいぶん、涙もろくなったのだね。それとも、泣き落としかい?」

引き留められない……死を、揺るぎなく選んでしまったその心を、風の王として尊重しなければならない。

また一人、失うのか?わかっていたことだった。生と死のあるグロウタースの民と関われば、その悲しみをこの胸に刻まなければならないことなど、とっくに理解していた。

けれども、悲しい。悲しくて、たまらない!

「バカ、野郎……!」

昔のおまえは、そんなじゃなかっただろ!そう叫べなかった。昔のように、むき出しの感情を彼に遠慮なくぶつけられなかった。リティルもまた、容姿は変わらなくとも、ゾナの心情を理解できるまでに精神が成長してしまっていた。

「ゾナ、目的があればいいのか?」

言葉を失って涙するリティルの頭に、手を置きながらノインが尋ねた。

「オレは道具だ。使い道があれば、たしかに生きていけるが、魔道書ではこれ以上の使い道はないのではないかい?」

「我々は、時の精霊を討つ。ゾナ、おまえが新たに目覚める時の精霊の中心を担え」

ノインの言葉に、リティルは驚いて顔を上げた。

「待てよ!容量オーバーだったらどうするんだよ?苦痛の中で、ゾナは死ぬんだぜ?そんな、継げるかどうかもわからねーことをやらせられねーよ!」

「できるかもしれませんよ?修行中の未熟者ですが、インジュの力ならば、足りない箇所を補えます。もっとも、息子はノンビリしていますからね、なかなか力を発現しませんが」

「尻を叩くか」

「ですね」

「おいおい!あんまり虐めるなよ、うちの癒やし系を!」

「虐めではない。惰眠をむさぼる怠け者を、叩き起こすだけだ」

「ノイン、手伝ってくれませんか?」

「インジュは、ディコとニーナのところか?」

「ええ、彼等にも手伝ってもらいましょう」

「おーい!二人とも、無茶するなよー!」

副官と補佐官は、リティルの声を撥ね除けて、足早に部屋を出て行ってしまった。

 たぶん、ゾナと二人にしてくれようとしたのだなと、リティルは二人の優しさを察した。

「あの二人は、本気なのかね?」

「あいつらを本気にするかどうかは、おまえ次第だぜ?ゾナ。嫌がるヤツを、無理矢理精霊にはできねーからな」

ゾナは、力なく笑った。その笑みに、リティルの心はズキリと痛んだ。

「リティル、君と過ごした十年間が、オレには一番楽しい時間だったよ」

「何だよ?手のかかるガキのオレといたほうが、楽しいのかよ?今なら、おまえと肩を並べられるぜ?」

フッと、ゾナは視線を机に落とした。

「今、オレは地獄の中にいるよ。ディンを見捨てられないと、君と、敵対しなければならなくなったとき、この身など、燃えてしまえばいいと思ったものだ」

「ゾナ――」

「オレは今でも、君の魔道書以外のモノにはなれはしないよ」

「だったら、だったら! 時の精霊になれよ!そうすれば、オレといられるじゃねーか!」

「リティル、いつまでオレを働かせるつもりなのかね?もう、疲れてしまったよ」

「ゾナ……オレは、おまえに会いたかったんだ。今なら、ちゃんと話せる気がしてたんだ。成長も衰退もしない種族でも、三人育てた今のオレなら、おまえと対等に話せると思ってた。ゾナ!いいのかよ?ホントに、このまま終わっていいのか?」

「もちろんだとも。悔いなどもう、とっくにないのだよ。君の背中を、見送らせてくれたまえ」

揺るがない瞳だった。この瞳を知っている。シェラと共にイシュラースへ帰った、二五〇年前、ゾナは同じ瞳で、一緒にイシュラースへ行こうと言った、リティルの申し出を断った。あの頃と、ゾナは変わっていない。彼は本当に、リティル以外の者に仕えることが苦痛だったのだ。リティルを選べず、ディンのそばにいなければならないことが、何より辛かったのだ。

「おまえを裏切ったのは、オレなのか?そうなのかよ!ゾナ!だったら、どうして!黙ってたんだよ!オレは……オレは!間違っちゃいけねーところで、間違ったのか?間違ったから、おまえは――死ぬのか――?」

目の前が真っ暗になった。頽れて、再び泣き始めたリティルの前に、ゾナは膝を折った。

「君は、今までどれだけ傷ついてきたのかね?そんなに、泣かないでくれたまえ。狡いではないか」

「どれだけ傷ついたっていいんだよ!オレは、風の王であり続けるんだからな!死ななくてもいい奴が死ぬくらいなら、死なないオレが!どれだけでも、傷ついてやるんだよ!」

「ありがとう。だがリティル、君に別れを言わせてほしい。すまない。もう、オレには生きる力が残っていないのだよ。君の魔道書で、終わらせて――」

リティルはゾナを抱きしめていた。抱きつかれると思っていなかったゾナは、驚いて言葉を失った。

「ごめんな……!オレ――ごめん……ごめんな!」

詫びる必要など、欠片もないのに……ゾナは、リティルの謝罪の言葉が何に対してなのか、わかっていた。リティルはずっと、風の王への道を遠回りしたことを気にしていた。遠回りの間、荒んで、ゾナに散々絡んだ。そのことを恥じていた。しかし教育係だったゾナに言わせれば、それは、ただの反抗期だ。成長の過程だ。

強がって素直になれないリティルを見ているのは、案外楽しかった。そのリティルは、再会したリティルは、ずいぶん素直になったものだ。ノインとインファのおかげなのだろうなと、ゾナは思った。風の王として、強がっていなければならないリティルを、二人は解きほぐしながら、共にいてくれているのだなと思った。

そうでなければ、リティルが、オレには決して弱さを見せようとしなかったリティルが、泣きながら抱きついてくることなど、あり得ないと、ゾナは抱きしめ返せずに涙を堪えた。

「リティル、背負うのはやめたまえ。オレは、君が、今も、風の王であり続けてくれている事実だけで、救われているよ。父親にまでなって、そんな姿を見られただけで、十分、救われているよ。リティル……君を――」

誇りに思う――……成長しないリティルにとってゾナは、彼を遙かに超えてしまった今でも、聳える壁だった。あの日、圧倒的な力で砂浜に転がされて、リティルの上に影を落としながら見下ろして笑うゾナ。その姿こそが、リティルにとってのゾナだった。

闇から何とか脱し、風の王の力を継ぎ、やっとゾナと向き合えたとき、彼は君を認めているよと、言ってくれた。ほしかった言葉だった。散々迷惑をかけたゾナに、認めてほしかった当時のリティルは、その言葉が別れの言葉だとは察することができなかった。

今、ゾナが耳元で囁いてくれたその言葉は、さよならという言葉を使いたくない彼の、別れの言葉だ。今のリティルには、それがわかった。

「ゾナ……!ごめん……」

泣き止めないリティルの小さな背中を、ゾナはポンポンと優しく叩いた。

ゾナは、なぜ、ノインがそばにいるのかわかったような気がした。インは、生まれ変わってでも、こんなリティルを守ろうとしたのだろう。

――もう、我は必要ないだろう?

そう言って別れたのに、インは、リティルを手放しきれなかったのだろう。

ノインとあの夜対峙したゾナは、彼の中に確かにインを感じた。しかし、そこにいたのは父親としてのインではない、もっと対等な絆だった。

そんな絆を、リティルと築けるとは思えなかった。対等であるには、ゾナは、力を失いすぎていた。未来を夢見られないこんな心では、とても、彼等と肩を並べる自信がなかった。ノインにすべてを明け渡し、リティルのそばにいようとしたインのような強さは、悔しいがゾナにはなかった。

これが、元グロウタースの民であるゾナの限界だった。


 リティルは、降るような星空の下、楽園の外れにある花畑にいた。

「呼びつけて悪かったな。ケルゥ」

身長二メートルにもなるエフラの民と同等に、魔道士である彼等よりもがっしりとした体躯の男が、ノッソリとリティルの前に立った。

「いいってことよぉ。やるんかぁ?その、時の精霊」

「ああ。オレの恩師が、奴らの居場所を教えてくれるぜ?」

「恩師ぃ?おめぇにも、先生がいたんかぁ?」

「ああ、そいつはな、すげーヤツなんだぜ?」

リティルは夜風に髪を揺らしながら、星に埋め尽くされた空を見上げた。

もう、時は戻らない。ゾナが逝くというのなら、見送るのが、リティルの務めだ。

星空を見上げて瞳を閉じたリティルの様子に、ケルゥは寂しさを感じていた。

「なあ、おめぇよぉ、大丈夫なんかぁ?」

「ああ、これでいいんだ。これで……」

そんな風に見えないけどなと、ケルゥは思ったが言わなかった。口にしたこところで、無意味だ。かつての居場所も、リティルを傷つけるだけならば、早く解決して、城に戻そう。風の城がリティルの安らげる場所だ。その場所に、リティルを早く戻してやろうと、ケルゥは単純にそう思った。

「そういやぁ、ルディルが起きたぜぇ?」

「そっか!あいつ、怒ってなかったか?」

ルディルと聞いて、リティルの雰囲気がいくらか明るくなった。

「怒ってた怒ってた!ここに来てぇって言って、シェラを困らせてたなぁ。だからなぁ、リティル、早く終わらせて帰ろうぜぇ?」

「ああ!早く、終わらせようぜ」

ケルゥは、凶悪に笑った。そして、忘れていたと、なぜか背中に隠れて出てこない彼を、ムンズと掴んで、リティルの鼻先にズイッと差し出した。

「ディン」

『はい。申し訳ありません』

コミカルなお化けの猫のマペットに宿らされたディンが、ケルゥに体を掴まれたまま頭を垂れた。そんな様子に、リティルは脱力した。

「ディン、おまえ、ゾナのこと好きか?」

『恩師です』

「そっか……。ディン、これから起こること、目を逸らさずに全部見ろ。それを背負って、生きろ」

『!』

「悪いな、二人とも先に行ってくれねーか?」

ケルゥはディンを肩に乗せると、リティルを残し花畑を後にした。

 リティルは二五〇年前、砂漠の国にいた頃のことを思い出していた。炎のカルティアと呼ばれる国で、リティルは十歳から十九歳まで過ごした。

ゾナはずっと、リティルの指導者として圧倒的な力を持ってそばにいた。

リティルと、当時を知っている者達が、黒い時期と呼んでいる度が越えた反抗期の時、ゾナに酷い言葉を投げかけていたことが、思い出されていた。

――目なら……覚めてるよ!ゾナ!ぶっ殺す!

あの時届かなかった刃が、今度は届いてしまう。本気だったわけではないその言葉が、今現実になってしまう。

「ゾナ……」

不意に、瞬く星達が歪んで混ざり合った。

「狡い、か……そうだよな……でもな、悲しいモノは悲しいんだよ……!」

歪んで混ざり合った星を見上げたまま、リティルはその場に膝から崩れ落ちていた。

時の精霊の居場所へは、次元を司るナーガニアに頼めばわかる。彼等は、ナーガニアを封じる為に、古参の精霊達を内側から攻撃して支配したのだ。今、ナーガニアは解放されて風の城にいた。花の姫の母である彼女は、リティルを婿殿と呼んで世話を焼いてくれる。

リティルは、彼女を呼ばなかった。それどころか、時の精霊のことを聞かなかった。

ゾナを送るため、ゾナに意味のある死を迎えさせてやるために。

リティルはゾナの願いを、聞き入れたのだ。

「リティル」

その声に、リティルは涙を拭うと、睨み上げた。

「何しに来たんだよ?今のオレは危険だぜ?」

彼を責めても無意味だ。ディコは、ディンの父親であるだけで、責められるいわれのない相手だった。だが、冷静ではいられない。ディンは未熟だった。その彼を、ディコは導き損なったのだから。

「ごめん。でも、今じゃないとダメなんだ」

「何だよ?」

「ゾナは……嘘をついてるんだ。ゾナは、ディンの為に――!」

「だとしても!だとしても、あいつがここで終わりたいのは本心だよ。オレの中の風の王がそう言ってるんだ。ディンの犯した罪を、大半肩代わりするために決断してたとしても、魔書のまま、終わりてーんだよ」

「それを選ばざるを得ないんだよ。君を、リティルを裏切ってしまったから。一度でもリティルを裏切った自分がそばにいたら、また裏切るかもしれないから!だから、できないんだよ!そうだよね。君の周りにいる精霊達は、絶対に裏切らないからね!さっき会った、凶悪犯罪者みたいなケルディアスも、そうでしょう?君を、絶対に裏切らない。ごめん。ボクがリティルに話せなかったから、ゾナは……だから、だから!」

「ディコ」

食い下がってくるディコを、初めて鬱陶しく感じた。もう、ディコと話をしたくなかった。ディコと話しても、ゾナの決意を変えることはできないのだから。

「どうして、二人ともそんな顔してるの?おかしいよ!傷つかなくてもいいんじゃないの?ゾナもリティルも!その術、君は知ってるよね?」

「ゾナには伝えたよ。それでも、あいつは選んだんだよ。嘘でも誠でも、あいつは選んだ!オレはな、ディコ、こうなると無力なんだ。オレは、風の王は!生きとし生けるものの意思を、例えそれが他人から見たら間違いに見えても!決めたことを受け入れなくちゃならねーんだよ」

「そんなの、おかしいよ。ゾナもリティルも望んでないのに!こんな終わり方で、納得できるの?」

「納得する、しないじゃねーんだよ。オレには、ゾナを説得できなかったんだ。ディコ、これが、風の王の仕事なんだよ」

もう、苦しめないでくれと、リティルは言った。ディコにはもう、為す術はなかった。


「なあ、シェラ、どうにかなんねぇかぁ?」

『王と本人の決定では、わたしには何もできないわ』

「でもなぁ」

『ケルゥ、あなたの憂いはわかるわ。けれども、悲しくとも、納得できなくても、受け入れる意外にないのよ。今は、せめてリティルのそばにいてあげてね』

「兄ちゃんとノインがいるぜぇ?やるせねぇなぁ。こんな結末しか、ねぇんかぁ?」

『死が、必ずしも悲劇とは言えないの。死は、新たな生の始まりよ。風はどこへでも行けるわ。その飛んだ先で、生まれ変わった命と出会えるかもしれない。その命は、前の命とは違うけれど、それでも確かに生きているわ。それを慰めに、風は生きるの。しばしの別れに、リティルは葬送の涙を流して送るのよ』

「よく受け入れられるなぁ。オレ様にゃぁ無理だぜぇ」

『受け入れられなくても、リティルは受け止めるのよ。それが王の務めだと思っているから。ゾナは、リティルの大切な人だから、いつもより悲しいのよ。わたしも、胸が痛いわ』

「シェラ、泣くなやぁ。オレ様、命令違反しちまいそうだぜぇ」

『ごめんなさい……けれどもケルゥ、ダメよ?ゾナが苦しんでいるのなら、もう、苦しませないであげて』

「了解。時の精霊にゃぁキッチリ引導わたしてやらぁ。っていっても、やるのは風三人だけどよぉ」

『ありがとう、ケルゥ』

「いいってことよぉ。オレ様、風の城が好きだかんなぁ。んじゃぁな、シェラ、その辺にいるヤツに、慰めてもらえよぉ?」

『クスクス、わかったわ。気をつけてね?おやすみなさい、ケルディアス』


 翌朝、ゾナは崩れた剣狼の塔のよく見える高台にいた。澄み渡る空が、どこまでもどこまでも高くて、翼があったらどこまでも飛んで行けそうなほどに深かった。

ここなら、楽園からも十分に距離があり、巻き込む心配もない。

「いいんですね?」

「早くしろと、急かされたほうが踏ん切りがつくのだがね」

フッと、ゾナはインファに微笑んで見せた。

「ゾナ、最後、きっちり決めてくれよな!」

リティルはゾナの前に、晴れやかな笑顔で立った。

「ああ、任せておきたまえ。このゾナデアンを、侮ってもらっては困るのでね」

小柄な風の王を見下ろして、ゾナは信頼してくれる彼の笑顔に応えて笑った。

――さようなら。オレの唯一の主

ゾナはリティルに背を向けると、魔道書を手に瞳を閉じた。

魔道書は独りでにページを繰り、そのページが一枚、一枚、外れて空に貼り付けられていった。ページの場所は入れ替わりながら、次第に空に大きな魔方陣を描き出していく。

「あれは、ゲートか。初代ディコ、ナーガニアからも奪っていたか」

ゲートの力は、グロウタースの民が魔法でどうにかできるものではない。一体どんな手を使ったのか、インの記憶を持つノインにもわからなかった。ノインの脳裏に、二メートル近い身長の、熊のような体格の大柄な魔道士の姿が浮かんでいた。青い炎を操る、冷酷魔道士。初代ディコはそう呼ばれていた。彼は、先見の明があったなと、ノインはインの記憶を呼び起こしていた。そして彼は、どんな絶望的な状況下でも決して諦めなかった。貪欲に生きる男だった。

「恐ろしい魔道士だったようですね。インはよく許しましたね」

そうだなと、ノインはうなずくに留めた。今、当時を語ることはできなかった。リティルに、インが死にたいと思ってしまったことを悟られたくないからだ。

後ろに控えているケルゥは、前に並ぶ風三人の真ん中に立つ、リティルの背中を見ていた。

「ケルゥ、本当に、これでいいんでしょうか?」

「まあなぁ。けどよぉ、本人が決めたことなんだろう?じゃあ、しゃあねぇわなぁ。おめぇもしってんなら、見届けてやれやぁ」

インジュは頷いたものの、不安そうにディンの封じ込められたマペットを胸に、風三人を見つめていた。

 ゾナの心は静かだった。

これが、死なのかと、ゾナは痛みもなく分解されていく、自身を見つめていた。

二五〇年前、リティルを見送ってこの地に来たとき、もう二度と会うことはないと思っていた。再会は不本意な形だったが、偽りながらも、リティルと過ごせたことを嬉しく思う。この存在を生命だと、魂のある存在だと言ってくれるリティルに、来世というモノがあるのなら、真っ新な命でまた出会いたい。

そばにいるには、お互い傷つきすぎた。

「――それでも、オレには、君以外の主はいないのだよ?」

ゾナは、瞳を閉じた。そして、まぶたの裏にいるリティルにそっとつぶやいた。

もう、分厚かった魔道書に、ページが残されていない。ゾナは表紙と背表紙だけになった魔道書を掲げる。最後の一点を描く為に。

『――させません。私の力を、無断で使用することは許しません』

波紋のような透明な力だった。空に貼り付けられたページが波打つ。波紋がページを引き剥がした。

リティルは、空に突如現れた、頭に鹿の角を生やした白い髪の精霊を見た。

「ナーガニア!」

すべてのページを胸に、神樹の精霊は冷たくゾナを見下ろしていた。

なぜ、彼女がここに?リティルはナーガニアに何も話していない。それどころか、風の城に今日何を行うのか、それすら誰にも伝えていなかった。

「リティル、時の精霊はここです。婿殿を渡らせるのは私の仕事。どこの馬の骨ともしれぬ者のゲートなど、潜らせるものですか。ディコ!これは私の復讐です」

ナーガニアは倒れそうになるゾナの腕を掴むと、千切れたページを押しつけ、斜めに空を指さした。

ディコ?ナーガニアは初代ディコと面識があったのか?と、リティルは思いながら彼女を見返していた。

「飛びなさい、風よ」

空に、星空のような穴が開いていた。インジュに抱かれたディンは、その色を知っていた。

ああ、あそこだ!あそこに、時の精霊がいる。

「ナーガニアおまえ……」

「ええい!飛びなさい!」

ナーガニアの叫びに、名しか呼ばせてもらえなかったリティルは、頷くと大地を蹴った。その後に副官と補佐官も続く。

ケルゥとインジュは、彼等の背を追い崖の端で立ち止まった。

「さてと、どうすっかなぁ?」

ケルゥはナーガニアをチラリと見た。ゾナを座らせたナーガニアは、ツンッとそっぽを向いた。

「復讐ったぁ本当かぁ?おめぇ、昨日の会話、聞いていやがったなぁ?どうすんだよぉ?風の仕事、邪魔しちまいやがってよぉ」

「婿殿だけでなく、娘まで悲しませるような男に、慈悲などかけるものですか」

「ああん?ひでぇな。インジュ、おめぇ、魔法使えっかぁ?」

「はい」

「んじゃぁ、オレ様迷わねぇ。ゾナさんよぉ、覚悟しとけよぉ?未来永劫の罰、与えてやっからなぁ?」

ケルゥは、瀕死のゾナの前にガラ悪く膝を折ると、魔道書に触れた。バラバラに壊れた魔道書は、その瞬間に再生されていた。

「リティルを、泣かせてんじゃぁねぇよ。城以外の奴らなぁ、あいつの涙にゃぁ激弱なのよぉ。そのうち、怖いおっさんも来るぜぇ?」

「ルディルですか?それはちょっと、マズイんじゃないですか?」

「どうせ、どっかで覗き見してやがるぜぇ?あいつ、リティルが心配でよぉ、ウズウズしていやがったからなぁ、我慢できずに出てくるぜぇ?」

ケルゥはどこか楽しそうに、凶悪に笑った。

リティルが心配?あんなに強いリティルなら、時の精霊ごとき、無傷で断罪しそうなものなのに?とインジュは時の異空間に視線を戻した。

 

 一切の動きのない空間だった。星のような輝きの集合体が渦を描いて、見えているのに触れられないどこかにあった。

――こんな寂しいところに、たった三人でいたのか?

リティルは少しだけ時の精霊に同情した。目覚めた時からこんな場所で、セクルースや、ルキルースを見ていたと思うと、暗く陰惨な感情に支配されても――

リティルはそう思って、首を横に振った。いや、だからと言って、他者を傷つけていい言い訳にはならない。

「時の精霊、グロウ、ソラ、ミリオネ!オレの名はリティル!第十五代風の王だ。オレが来た理由、言わなくてもわかってるな?言いてーことはあるか?」

『世界の刃、我らを断罪にきたか?言葉などない。我らはすべてを憎む』

三人の声が同時にした。そして、青黒い鎖が襲いかかってきた。リティルを狙ったその鎖を、インファとノインが切り裂き立ちはだかる。

「インファ!ノイン!過去と未来、任せるぜ?」

「「了解」」

風の王の号令で、三人は一斉に飛んだ。鎖の先へ向かって。

背筋を伸ばして立つ老人を中心に、両脇に双子とおぼしき幼い少女と少年が立っていた。三人の紫色の瞳は同じ、暗い表情をしていた。インファとノインが、同時に双子のソラとミリオネに仕掛けていた。ソラとミリオネは、青黒い鎖を伸ばしながら無表情にインファとノインに応戦する。

「寂しかったのか?」

リティルは、ショートソードを抜いたが構えず、グロウにつぶやくように尋ねた。グロウは、答える代わりに鎖で襲ってきた。

リティルはその鎖を避けると、頬をかすめたそれを掴んだ。

「満足かよ?誰かを傷つけて、満足かよ!」

リティルは鎖を掴むと、グイッと引いた。鎖を強く引かれグロウが蹌踉めく。この鎖は、グロウと繋がっている。

「来いよ!オレが引導を渡してやる!」

ジャラジャラと音を立て、グロウはさらに暗い青色の鎖をリティルに放った。リティルは両手に剣を抜くと、鎖を断ち切った。

『風の王、世界の犬め。我々は願いを授受させる』

リティルの背後に、ナーガニアが開いたままにしておいてくれたゲートが、眩しく輝いて見えた。グロウは鎖を巨大な波の様に操り、小柄なリティルにぶつけた。

「リティル?」

インジュは、暗い青色の鎖の塊がゲートを越えて突き抜けてくるのを見た。鎖の塊の隙間から金色の風が漏れ出てきたかと思うと、キンッと音を立てて鎖が弾け飛んだ。中からリティルが出てきたが、その身が傷ついていた。

「おい!リティル、油断してるんじゃぁねぇ!」

ゲートを越えて、コバルトブルーの鎖を操る老人が這い出してくるのを見て、ケルゥは思わず叫んだ。そんなケルゥとインジュの目の前で、リティルの体を鎖が貫いていた。

いけないと、ケルゥが飛び出そうとすると、その腕をゾナが掴んだ。なぜ止めるのかと彼を睨むと、ゾナは、言いたいことを言わせてやってほしいと、そう言った。

言いたいこと?ケルゥは、上空のリティルを見上げた。リティルは、腹を貫いている鎖を断ち切り、それを引き抜いている所だった。

「――風に目つけられて、それで、滅ぼされて!おまえはそれで満足なのかよ!生きたいって、そう、思わねーのかよ!こんな、結末を導く前に、どうして、オレを!オレ達に頼ってくれなかったんだよ!グロウ!ソラ!ミリオネ!」

リティルの声が空気を震わせる。けれども、届かない。グロウの憎しみは、彼等の心を塗りつぶしてしまっていた。

ゾナにはわかっていた。リティルの青臭い説教は、彼等には届かない。リティルもまだ、学ばなければならないことがあるようだなと、ゾナは力強いリティルの姿を見つめながら思った。

「叫べよ!生きたいって!おまえは、何の為に生まれてきたんだよ!」

「そんなこと、時を司るために決まってる」

リティルに迫った鎖を、霊力剥き出しの無骨な大剣が断ち切った。リティルの傷ついた体を、後ろから力強く包んだのは、初代風の王であり、夕暮れの太陽王・ルディルだった。

「ル、ディル?」

リティルは驚いて真上にある彼の顔を見上げた。

「リティル、何やっていやがる。無駄に傷ついてるんじゃぁねえぞ。こういう輩にはなぁ、さっさと引導渡してやれ。おまえが、いちいち背負うこたぁねえんだ」

リティルはルディルの腕を乱暴に払い逃れると、真っ正面から睨み付けた。

「うるせーよ。これが、オレのやり方なんだよ!」

リティルに噛みつかれたルディルは、小さくため息をつくと、いきなりゴンッとリティルの額に自分の額を打ち付けた。

リティルは一瞬意識を失いそうになって、慌てて頭を振った。とたんに、額がズキズキと痛み出す。

「バカが。仕方のない」

ルディルは一言そういうと、リティルを押しのけ背に庇うと立ちはだかった。

「グロウ、オレを覚えていやがるか?元風の王のルディル様だ!このオレが引導わたしてやるわ!十五代目はやたらと優しいからな、これ以上てめえらに傷つけさせねえさ。覚悟しやがれ!」

「ルディル!何、勝手に!」

リティルはルディルの言動に驚いて、彼の腕を掴んだ。ルディルはもう、風の王ではない。今までもリティルがどんなに危うくても、見守ってくれていたというのに、こんな出しゃばることは初めてだった。

「リティル、こいつらまで背負わなくていい。どうせ、生まれ変わっても変わらん。オレも一回やってるんだわ」

「!」

リティルはまさかの言葉に、絶句した。彼等は一度風の王に討たれ、そして生まれ変わって、再び風に討たれようとしているなど、思いもよらなかった。

「生まれ変わって、それでさらに恨みを深くしちまったんだな。止まらん連鎖だ。こいつらのこの攻撃みてぇにな」

ルディルは剥き出しの刃で、襲ってきた鎖を断ち切った。

「奴らが世界に干渉する方法を覚えちまった今、おまえはこれから何度も戦うことになるだろうぜ。そのたびに、そんな戦いかたしてたら体が保たねぇわ」

ルディルは、すでに癒えたリティルの腹に触れた。

ディンを甘言で誑し込んだ時の精霊は、同じ手を使って、入ることも出ることも叶わない異空間から、こちらの世界にアクセスする。心に憎しみがある限り、世界の脅威であり続ける。

 リティルはルディルの影から、何の言葉も発しない、憎しみだけをその瞳に浮かべた老人に、何とも言えない衝動に突き動かされて叫んでいた。

「グロウ!ソラ!ミリオネ!それでいいのかよ!」

「無駄だ。届かねぇ。リティル、そういう輩もいるってこと、学べ。おまえの欠点は、その優しさだ!……断然、長所だけどな」

グロウの背後にあるゲートから、ドンッと金色の風が突き抜けて、少女の姿が貫かれ霧散した。その直後、ゲートを越えて出てきた少年の体を、白い刃が薙いだ。

インファとノインが、ソラとミリオネに引導を渡したのだ。二人の風がゲートを越えて戻ってきた。

「リティル、このオレがやってやる。だから、おまえはもう、傷つくな」

向き直ったルディルの大きな手が、リティルの肩に労るように置かれた。

――こんな……こんな精霊の為に、ゾナは、みんなは翻弄されたのか?

思わず、リティルは思ってしまった。

ディンが助けたいという心を利用され、ゾナが死を覚悟した。古参の精霊達は意味もわからずに精神を蹂躙されて錯乱し、懇意にしていた者に襲いかかった。

こんなに皆が傷ついて、それで、それで、討っても止まらないというのか?と、リティルは悔しく思った。一瞬でも存在を失えない精霊故に、再生の精霊・ケルディアスの力を使って、死ぬと同時に生み出さなければならない。しかし、生まれ変わりには前世の記憶が残ってしまう。この強烈な恨みは、生まれ変わった精霊に受け継がれてしまう。

「リティル様!討ってください!その恨みの連鎖、わたしが断ち切りましょう!それを、わたしへの罰としてくれませんか?」

リティルは声に下を見下ろした。

叫んでいたのは、ディンだった。分かたれていた心を一つに戻し、本当の自分を取り戻したグロウタースのか弱い民でしかないディンは、途方もない提案をしていた。自分が、時の精霊を引き継ぐと。

もちろん、リティルには許可できようもなかった。ディンに背負わせることは、できない。精霊は永遠の生を生きる存在だ。いつか、ディンの心を壊してしまう。かつての仲間の息子に、そんな運命を与えるわけにはいかなかった。

グロウタースの民として、やり直しのきく彼等だからこそ、そのまま、罪を償いながら生きてほしい。それが、リティルの願いだった。

「で、き――ねーよ」

風の王の迷い。突如、青空が星々の煌めきを内包した青黒い色に浸食された。

『我、時を戻さん』

ルディルがハッとして攻撃に転じるが、遅かった。ルディルの体は時を止められて動かなかった。それは、リティルやインファ達も同じだった。

しまった!リティルは、咄嗟に判断できない弱い自分を殴ってやりたかった。こんな凶悪な精霊をこっちに引っ張り出したあげく、彼等の復讐に手を貸してしまった。

「時よ!未来へ針を動かせ!」

その声の力強さは、二五〇年前から変わっていない。小柄なリティルよりさらに小さかった天才魔道士は、二五〇年の時を経て、楽園の長である大賢者にまで上り詰めていた。

彼の底なしの魔力は健在だ。

大賢者・ディコは、時の精霊の魔力に抗っていた。

ゾナに並んだディコは、時魔法の使い手ゆえに時の精霊の影響を受けなかった。

「未来へ!今を保存し、時計の針を未来へ動かさん」

ディコの魔法に、ディンの魔法が重なった。まだまだ未熟な心優しい魔道士。未熟故の焦りが道を誤らせてしまった。

今、父に並び、杖を振り上げるディンに危うさはなかった。

「時の歩みは止まることはないよ。グロウ、君は、すでにそれを示されていたではないか。初代ディコは、恐ろしい魔道士だよ。君のそんな行動をも、見越していたのだよ。時の針よ、今に楔を打ち、現在を保存せよ」

ゾナの掲げた魔道書が、激しくページを繰った。青空を犯して広がり始めていた青黒い闇は、透明な懐中時計の幻の中に封じられる。ゾナが初めて使った時魔法だった。

「リティル!ボクが!ボク達が、時の精霊を継ぐよ!ボク達は、現在、過去、未来だから!」

現在のディコ、過去のゾナ、未来のディン。同じディコの名を持つ者達だった。

ディコは、静かに隣にたたずむニーナを、見下ろした。ディコのそばで、彼の魔法の余波によって守られたニーナには、グロウの魔法は効いていなかった。

「ごめん、ニーナ、ボクは行かなくちゃ」

「しかたないのう。そなたは、遙か昔からリティル一筋じゃからな。わらわのことはよい。思うように生きよ。そんなそなたが、わらわは好きじゃ」

ニーナはフフッと笑い、魔法の手を休められない夫の大きな体にそっと寄り添った。

「しかし、精霊達を出し抜くとなると、チャンスは一瞬じゃ。グロウを討ち、その力を引き寄せて奪い取る。できるかのう?」

「やるよ!風の最強魔法四人分なら、何とかね」

急がなければ、リティルは無茶苦茶だ。きっと、自力で時の精霊の魔法を破ってしまう。

「さ、せ、る、か!」

ほらきた。リティルの指が震えるのを、四人は見た。四人は頷くと、透明な懐中時計の中心に捕らえたグロウを見据えた。

「「「「インファルシア!」」」」

ありったけの魔力を込め、風の王の息子と同じ名の魔法を、四人は声を合わせて唱える。金色の風は輝くオオタカの姿を取り、グロウに襲いかかった。ドンッと透明な懐中時計を打ち抜き、グロウはその身を破壊されていた。ゾナはグイッと手繰るような動作をして、風のオオタカを引き寄せた。

 彼の手の中に、青黒い星々の煌めきを閉じ込めたかのような、寂しそうな輝きの懐中時計が握られていた。


 その時計は、あんなに恨みにまみれていたというのに、とても澄んだ色をしていた。

力とはやはり、それを行使する者の心に左右されるモノ。自分の思う正しさで扱わなければ、ただ、疎まれるだけのモノになってしまう。

悲しい時計だと、ゾナは思った。時は、過去から未来へ皆を押し流す無情な力だが、沢山の喜びも生んでくれる。

時のイタズラで、ゾナは再び、リティルに会うことができたのだから。

「ゾナ!それを返してくれよ!」

グロウが討たれたことで、魔法の解けたリティルが舞い降りてきた。詰め寄るリティルとゾナの間に、ディコとディンが立ちはだかった。

精霊は、精霊にしか滅することはできない。グロウタースの民に討たれたグロウの魂は、結晶となって奪われていた。

「ディコ、ディン、無謀なことはやめてくれ!グロウタースの民が、精霊になるなんて、心が永遠に耐えられねーよ!ニーナ、おまえ二人を失っていいのかよ?説得しろよ!」

「無理じゃな。エフラの民は、魔道狂いじゃからのう。魔道狂いが高じて、精霊になる者が現れても、わらわは驚かぬよ」

ニーナのいっそ清々しい物言いに、リティルは絶句した。そうだった。ニーナはこういう女だったと、リティルは今更思い出して閉口した。

「してやられましたね。ゾナ、この人数の精霊を相手に、勝てると思っていますか?」

「いやぁ?そいつはどうかなぁ?」

ケルゥがのっそりと、ゾナの背後に立ったインファの前に割って入ってきた。

「ケルゥ!おまえ、何やってるんだよ?」

ケルゥの行動に、そう来ますかと、やれやれとため息をついたインファとは対照的に、リティルは驚いた。

「いいじゃぁねぇか。こいつら精霊にしてよぉ、風の城に置いとけばいいだろう?そうすりゃ、時の反乱は収まるんだぜぇ?おめえも、泣きじゃくるほど大事な魂達を、手放さずにすむじゃぁねぇかぁ」

泣きじゃくると言われて、リティルはうっと一瞬息を詰まらせた。しかし、それで黙るリティルではない。かつての仲間達の心がかかっているのだ、リティルには許すことはできなかった。

「そんな理由で、運命を捻じ曲げられるかよ!精霊なんて動きのねー世界、辛いだけだぜ?グロウタースの民の心は、揺れ動くようにできてるんだ!いつか、崩壊するときがくる!そんな姿、見たくねーよ……」

「君だって、元グロウタースの民じゃないか。シェラだってそうだよね?」

ディコがすかさず食い下がってくる。そうだった。ディコは昔から食い下がってくる。それで、何度もリティルの無謀を止めてくれた。

「オレは!元から風の王だよ!シェラは、オレがいれば大丈夫なんだよ……」

「そこで、惚気るかね?万年発情猛禽類め」

「そ、そんなにがっついてねーよ!嫌み魔道士、調子戻してきやがったな」

睨み合う両勢力を傍観していたインジュが、リティルとディコ達の間に入ってきた。

「リティル、ボクはゾナにつきます。ボクの力があれば、みんなを苦痛なく精霊にできますし」

「あのなあインジュ、精霊にしてーなんてオレ一言も言ってねーよバカじゃねーかおまえこの風の王に背いてただで済むとおもってるのかよおまえの綺麗な翼引っこ抜かれたくなかったらひっこめ!」

リティルの矢継ぎ早な怒りに、インジュはディコとディンの後ろにサッと隠れた。

「す、すみません……でも、翼くらい抜かれてもいいです。すぐに生えてきますし」

どうしたものか、埒があかない。このままでは、静観しているノインやルディルまで、多数決に参戦してしまいかねなかった。もっとも、多数決ならばすでにリティルサイドは負けているが。

「インジュ」

ゾナがそばに来たインジュにそっと声をかけた。インジュはそっとゾナに近づくと、彼の言葉を聞いた。それを聞いたインジュはコクリと頷いた。

「それがたぶん、一番いいです」

二人の画策を、睨み合っていた皆は気がつかなかった。

――カチカチ

澄んだ時計の音がする。どこから?と、言い争っていた皆は視線を巡らせた。

「ゾナ!」

ディコとディンを押しのけたリティルは、ゾナの体の中に時の精霊の魂が吸い込まれていくのを見た。青ざめてインジュを押しのけたリティルに、ゾナは観念したようにフッと微笑んだ。

「これが、一番現実的ではないのかね?」

「おまえ――嫌がってたじゃねーか!なんだよ!何なんだよ!オレの涙返せよ!」

ゾナが胸を押さえてグラリと蹌踉めいた。容量オーバーだ。無理もない、元の時の精霊でさえ、三人で一つの力を担っていたのだから。

「ほら、無理するなよ!返せよ!今なら、まだ間に合うぜ?」

「ゾナ!狡いよ!早くボクに現在をわたしてよ!」

「そうです、先生!一人で背負うなんて無謀です。わたしに未来ください」

「だあああ!おまえら黙れ!オレは転成なんて許可してねーよ!」

わっとよってきた魔道士親子にリティルは怒りを向け、再び口論を始めた。そんな三人を隠れ蓑に、ゾナはインジュに目配せした。

「すみませんリティル!ボクの翼、あとで思う存分引っこ抜いてください」

そうオドオドした様子で断って、インジュはそおっとゾナの背中に触れた。インジュの宣言に、リティルはインジュを引き離そうと一旦腕を掴んだが、諦めたようにその手を離した。そんなリティルに、インジュはさらに火に油を注ぐ。

「あの、できたら名前つけてください」

「ああ?」

ギロリと睨まれて、インジュはタジタジとした。

「す、すみません!」

インジュは謝りながら、ゾナの中から何かを引っ張り出した。その大きさに、思わずリティルはのけぞった。

大きな皮膜のある翼を持つドラゴンが、ズルリとゾナの体から抜け出てきた。青黒い色の鱗の中くらいのドラゴンだった。その首に、金の鎖が巻き付きジャラリと音がして歯車が剥き出しの懐中時計が下がった。

インジュはなおもゾナから引っ張り出す。今度は、蛇のような姿の龍だった。先に抜け出たドラゴンと同じく青黒い色で揃いの懐中時計が胸に下がっていた。

「リティル、名を、つけてくれたまえよ。新たな過去と未来に」

リティルは、空を舞うドラゴン達を見上げてため息をついた。生まれてしまったモノを、命の守り手である風の王が否定することはできない。ならばせめて、命を祝福してやろう。

「過去を司りし長針、おまえの名は、カジトヴィール」

名を呼ばれ、スラリとした長い一対の角を持つドラゴンが、鋭くリティルを見た。青黒い色の男性的な瞳だった。

「未来を司りし短針、おまえの名は、ミリスヴィール」

名を呼ばれ、太短い一対の角のフサフサとした毛に覆われた龍が、女性的な体をくねらせて降りてきた。二頭のドラゴンは、名付けたリティルに従うように頭を垂れた。

「時を司る高貴なおまえ達に、名付け親である風の王・リティルが命ずる。現在を司る秒針、時の魔道書・ゾナデアンを守り、共に生きろ!ゾナ、永遠の時間の重さ、覚悟しとけよ?」

カジトヴィールとミリスヴィールは、サッと踵を返すと、ゾナの両脇に付き従った。ゾナは二頭のドラゴンの顔を交互に見て、リティルに視線を向けた。彼の紫色だった瞳が、青黒い色に変化していた。

「過去の時計と、未来の時計かね?少々短絡的ではないかね?」

そう言いながらも、ゾナは二頭のドラゴンの名を、気に入っていた。

「うるせーよ!精霊の名付け親は結構権限強いんだぜ?カジトとミリス、けしかけるぜ?ったく、ヒヤヒヤさせるなよな!オレの傲りのせいだけどな……」

ゾナは、優しく知的にフッと微笑んだ。

「そのおかげで、我々は、納得のいく答えにたどりつけたのだよ。迷ってくれたこと、礼を言おうではないか、風の王」

まだ、リティルには教えるべきことがありそうだと、ゾナはあの戦いを見て思った。ルディルという友人がその役目を負ってくれそうだが、ディンの提案を聞いたとき、心が決まった。あの場の誰かが時の精霊を引き継げば、時の永劫の反乱を止めることができる。そして、その役目に一番相応しいのは、生きようと思えば永遠を約束されているゾナだった。

ノインが言ったように、役目さえあれば、存在理由さえあれば、ゾナはすんなり生を受け入れられる存在なのだから。

「嫌みだなー!今回は、久しぶりにやらかしたと思ったぜ」

「やらかしてますよ。父さん」

「まったく、仕方のない。無駄に傷つくなと言っているというのに」

ホッとしたリティルに、すかさずインファとノインが戒める。

「ははははは。ホントに、しょうもねーな。ゾナ、これからよろしく頼むぜ?ディコ、ディン、しっかり生きろよ?途中で死んだら、許さねーからな?」

風の王を出し抜いて精霊の体を破壊したあげく、その魂を奪って力を手に入れようとした。その事実だけでも、断罪ものだ。ディコもディンも覚悟していた。

ディコは、さすがに無罪放免は許されないのでは?と一応の抗議はしてみた。

「リティル、それ、甘すぎると思うよ?」

「もう、いいんだよ……罰だ何だって、オレ、そういうことには向いてねーんだよ。そんなことしてるオレが、一番罰受けてる風になっちまうんだよ!なあ……もう、帰っていいか?さすがにグダグダすぎて、凹むぜ」

リティルは疲れ切った様子で俯いた。それを見て、ナーガニアとルディルが駆け寄ってきた。

「婿殿!早く風の城へ。ゲートを開きます。ルディル!」

「言われなくてもな!おら、リティル、行くぞ?」

「へ?待て待て!まだ終わってねーよ!待てって!この野郎!人の話を聞けーーーー!」

ルディルはリティルを、物のようにヒョイッと小脇に抱えると、抗議するリティルを無視してナーガニアの開いたゲートに強制連行してしまった。

まだ仕事が!と叫ぶリティルにルディルが、そんなもんインファにやらせとけ!と言い放つ声が聞こえた。

「はあ、ルディル、それでも元風の王ですか?仕方のない人ですね。ゾナ、時の精霊は不可侵です。イシュラースからはもう出られませんよ?」

風の王の仕事を押しつけられたインファは、ため息をつきつつ、キチンと代理を務めた。

「それだけの自由があるならば、何の問題もないと思うがね?」

「そうですか。居城が決定するまで、仮の住まいとして風の城にいてください。ノイン、案内をお願いします」

「了解した」

ノインに、新たな時の精霊を託し、インファは楽園に残った。

 そして、ジロリとインジュに視線を向ける。インジュはドキリと身を震わせた。

「インジュ、初仕事お疲れ様でした。ですが、風の王には背いてはいけませんよ?」

「すみません!」

「背きたいなら、どんな方法でも構わないので、王を納得させてください。王に言いくるめられるようではまだまだです」

え?とインジュは顔を上げた。そんな二人に、ケルゥがのっそり近づいた。

「だな、やり方色々だよなぁ」

「そうです。黙らせたら勝ちです」

「えええ?そ、そんなこと!」

「いいんですよ。王を決して裏切らず、傷つけない心さえあれば」

インファは、悪魔のような笑みを浮かべた。そんな父に、インジュはゾッとした。いったい父には、いくつの顔があるのだろうか。

雷帝・インファルシア。侮れない、風の王の揺るぎない副官。

「兄ちゃん、オレ様帰った方がいいかぁ?」

「出番なく呼び寄せて、すみませんでした。あなたさえよければもう少しいてくれませんか?父さんかノインが戻るまで、オレ一人では荷が重いんです」

「ああん?まだなんかあるんかぁ?」

「闇の王です」

ああと、ケルゥは頷いた。そして、グロウタースの民の顔を見回した。そして、小柄な片眼の娘に視線を固定する。

「いつまで待つんだぁ?」

「インジュ次第です」

「すみません。出てきてくれないことには、手が出せません」

へえーと、ケルゥはジイッとスフィアを見つめていた。


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