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四章 開眼

 スフィアは、大賢者の館の中を走り回っていた。

あの花畑での戦いの後、インジュに逃げられていた。インジュに手を出してしまったディンは、ニーナの風も真っ青な怒りを買い、ゾナとディコ共々正座で散々説教されて今大人しい。だが、彼があれで懲りたとは誰も思っていなかった。だからだろうか、ずっとリティルを避けていたディコとゾナが、やっと彼を頼ったのは。

まだまだ安全になったわけではない。それでも、ずっと、食事と就寝以外近寄れなかった我が家――大賢者の館に帰れ、スフィアはホッとしていた。

「おじさま、インジュ見なかった?」

食堂の一番端のテーブルで、ゾナとディンと話をしていたリティルに、スフィアは訪ねていた。

「インジュ?さあ、知らねーな。まだ寝てるんじゃねーのか?」

「そう、ありがとう、おじさま!」

スフィアはバタバタと食堂を走り出ていった。彼女が去ってしまうと、リティルはおもむろにテーブルの下を覗き込んだ。

「スフィア、行っちゃったぜ?おまえ。どうして避けてるんだよ?」

「ええとですね。ボクはたぶん変わっちゃったので、顔を合わせづらくてですね」

インジュは、その身長では苦しいだろうにテーブルの下に隠れていた。

「逃げ腰なのは変わらないんだね」

「インジュ、逃げていないで、スフィアに早く瞳を作ってやりたまえ」

「言ってくれるなぁ、お二人さん」

「ごめん」「すまない」

リティルが腕を組んで、二人の顔を交互に見ると、二人はすぐさま頭を垂れて謝った。

「まあ、結果的にはよかったんだろうけどな。インジュ、昨日眠れたか?大丈夫か?」

「え?大丈夫です……。でも、本当はリティルがノインの役をやるはずだったなんて、実行されてたら、ボク、死んじゃってますよ!主君を握りつぶすなんて、考えただけでも気が失えます」

一夜明けたが、ノインはまだ姿を現さなかった。インファを見送ったあとすぐにノインのもとへ行ったが、彼は謝る必要はないと、疲れた顔で、しかし怒りなく笑って、インジュの封印が無事解けたことを喜んでくれた。

「ハハ、おまえのその癒やし系なとこがなくならなくて、オレは満足だぜ」

「癒やし系って、癒やしをもっと追求したほうがいいですか?リティルと飛ぶのには、あまり必要性を感じませんけど」

冗談に真面目に返してきたインジュに、リティル達は遠慮なく笑った。

「それで、方向性は決まったのかね?」

「まだです。ボクの力は自由度が高いので、たぶん、何者にもなれます」

「器用貧乏ってこと?」

そんな感じでしょうか?と、インジュは机の下から答えた。

「インジュ、前衛に抵抗あるなら、一人で飛べって言わねーから安心しろよ」

「ありがとうございます。でもたぶん、大丈夫です。化身すれば、戦えますから」

「常にオウギワシか?それ、かなり疲れるぜ?」

「ボクも霊力の泉ですから、疲れませんよ」

「なんていうか、インファがもう一人いるみてーだな。あいつも案外無茶苦茶だからな。よし、今度組んで飛んでみろよ」

「ええ?お父さんとですか?ちゃんと武器を使わないと、怒られそうです」

「だからいいんだろ?勉強になるぜ?おまえまだ、問題山積みだからな」

そう言われて、インジュはテーブルの下にさらに隠れてしまった。

「あのー、ディンのことなんですけど」

「ん?ニーナに粘着されてるな」

「ああいう人でしたっけ?」

「どういうこと?」

「人は、あれほど変われるものなんでしょうか?雰囲気が、どんどん変わっているようなきがしてですね、スフィアのことを好きみたいですから、ボクは恋敵なんですけど、殺意の向け方が、らしくないというかですね」

「おおい、今さらっと問題発言したぜ?」

「はっ!き、聞かなかったことに――」

「インジュ」

不意にかけられた声に、インジュはビクッと慌てて頭をあげた。テーブルが一瞬浮き上がるほど頭をぶつけて呻いた。

「何をやっている?おまえというヤツは……」

リティルの肩に手を置いて、ノインはテーブルの下のインジュを呆れた顔で覗き込んだ。

「ノイン、もういいのかよ?」

リティルは、すぐ隣にあるノインの端正な顔をそっと観察した。まだ癒えきっていないようだが、峠は完全に越えたようだなと胸をなで下ろした。

「ああ、心配をかけた」

不調を完全に隠して微笑むノインが、癇にさわる。最上級だと上級だと関係なく、ああいった場でのノインの判断能力はリティルよりも上だ。防御系魔法に優れるノインの風の障壁は、リティルであっても破ることは難しい。完全に出し抜かれ、痛みに対する耐性が低いのに、あんな役をやらせてしまったことが悔やまれた。

「涼しい顔で……この野郎!フロインが間に合わなかったら死んでたぜ?」

いや、一時完全に死んでいた。体を構成する風が散っていかないように押し止めたが、ああなった精霊は死んだと言うのだ。インファが来てくれなかったら、ノインは生き返れなかっただろう。

「彼女は間に合った。風の王、命令無視の懲罰はなんだ?」

ふてぶてしいなと憎らしげな瞳で、リティルはノインを睨んだ。

「フロイン」

リティルに名を呼ばれ、キラキラ輝く金色の風が立ち上った。風はノインを取り巻き、彼を前から抱きしめるフロインの姿に落ち着いた。その様子は、心からノインの無事を喜んでいるようだった。

「フロイン、ノインをおまえにやるよ。好きにしろよ」

フロインはピクンッと反応すると、リティルを本当に?と言いたげに振り向いた。

「そうきたか」

「もうなあ、フロインでもつけておかねーと、信用できねーんだよ!精々、追いかけ回されて辟易しろ!」

フンッとリティルは怒ってそっぽを向いた。

「リティル、オレは怒りを買ったままでいい。おまえが無事ならば。インジュを借りていく」

来いと言われ、インジュは慌ててテーブルの下から這い出した。ノインはフロインに、首に抱きつかれたまま引きずるように歩き出し、それを見たインジュが、慌てて彼女を引き離しにかかっていた。

 ノインは風の王の騎士だ。彼の気持ちがわからないでもない。だが、リティルは、ノインに甘えるわけにはいかないのだ。

「はあ……あの野郎!今度やったらただじゃおかねーよ!」

こんな誰が見て聞いているともしれないところで、リティルは隠さずに怒りを露わにしていた。そんなリティルが珍しく、ディコは気圧されていた。

「リティル、ディンがすまなかった」

「ああ?ディコの息子じゃなかったら、オレ、ぶち切れて斬ってたぜ?オレの家族を私利私欲で傷つけやがって!フロインに時魔法とか、あいつ、いかれてるぜ!」

「ごめん……」

萎縮するディコの様子に、ハアとリティルは大きくため息をついて怒りを収めた。

「ディン、どうしちまったんだよ?心当たり、ホントにねーのかよ?」

インジュから力を奪おうなどと、浅はかにもほどがある。インジュの言うように、どこかおかしい。ディンは勤勉だった。魔道士である彼が、精霊から力を奪っても使う事ができないことを、知らないはずはない。

「ディンには、監視をつけるぜ?」

もう昨日からつけているが、リティルは二人に宣言した。

「リティル、その……」

「風の王の魂が、ディンをまだ殺すなって言うんだよ。ディコ、心配するなよ。助けられる命は、助けるのが十五代目のやり方なんだよ」

激甘だろ?笑ってくれていいんだぜ?と、リティルは力強く笑った。

ディコは、リティルの慈悲にただただ頭を下げるしかなかった。

「命を奪うのは、オレには簡単なんだ。ディコ、ゾナ、その時は躊躇わねーからな」

リティルは哀しそうにそう言うと、席を立ち、食堂を出て行った。

 優しいだの、甘いだの言われるが、リティルは言われるほど、優しくはないと思っている。限りある命だからこそ、この世で生きて償ってほしい。影響が大きく、償う機会すら与えることができない場合は容赦なく斬るが、そうでないのならば。

風の精霊であるリティルは、死の先には何もないことを知っていた。死すれば、裁かれることもなく、罪を償うこともできない。ただ、始まりに向けて終わるだけ。

グロウタースに暮らしていたことがあるリティルは、生き死にを歴代風の王の誰よりも近くで、知っていた。どんな命も、やがて死という終わりを迎える。慕われる者にも、嫌われる者にも等しく、始まる為の終わりがやってくる。

リティルは優しくないと思っている。ここでリティルが手を下さなくとも、抗いようのない老いという死に神が、やがてその者の命を奪い取る。それこそ、無慈悲に、感情なく、等しく。ならば、世界が持つこと自体が罪と定めるその力を奪い取り、その後終わりまで生きろと突き放した方が、力を欲する者には大いに罰となる。

 リティルが関与するのは、世界にとって有害であるときだけだ。決して、グロウタースの正義を執行しているのではない。風の王の前では、悪も正義も等しく断罪の対象となる。

烈風鳥王と呼ばれるまでの力を手に入れたリティルには、魂の輝きが見える。リティルは己の目を信じ、断罪を行っていた。

ディンの、鮮やかに燃えるような色の魂は今、宇宙のような深い青に飲み込まれそうだった。スカーレットがコバルトブルーに完全に変わったとき、リティルは彼を斬ろうと決めていた。


 大賢者の館の中庭には、薄く広がった雲を通して、淡い日が差していた。

ノインは、フロインに説教しているインジュを盗み見ながら、彼の霊力を探っていた。

「インジュ」

「はい?」

ノインは、振り向いたインジュの喉元に剣を突きつけていた。切っ先がわずかにインジュの喉に触れていた。

「どうしたんですか?」

インジュは全く恐れることなく、何事もないかのようにノインを見返していた。ノインは切っ先を外すと、袈裟懸けに切りつけていた。

「痛いじゃないですか。あの、まだ怒ってます?そうですよね、すみません」

インジュは痛みは感じるようだが、平然と自身の傷を癒やしノインを見返した。

「インジュ……!」

その光景を東屋の影から見ていたスフィアは、蹌踉めきながら三人の精霊の前に姿をさらした。ここで見ていろと、ノインにそう言われて隠れていたのだ。

「スフィア?どうしたんですか?そんな顔して」

「どうした?どうしたですって!あなた、わからないの?あんなに、怖がってたじゃない!争いも、武器も!あんなに怖がってたじゃないの!」

必死な剣幕のスフィアに手首を掴まれ、インジュは戸惑っていた。

そして、自覚はないのだが、彼女達から見て常識とは違う状態にあることを悟った。そしてそれを、すんなり受け入れられた。

「やっぱりボク、変わっちゃいました?」

その言葉に、スフィアはハッとした。そして、インジュの穏やかで哀しげな瞳に見下ろされ、言葉を失った。

「スフィア、もうボクに近づかないでください。スフィアに、危険なことはしたくないですから。心配しないでください。必ず、右目は作りますから」

微笑むインジュを、スフィアは恐ろしく思ってしまった。手首を離せないでいるスフィアに、インジュはゆっくりと手を伸ばした。

「ぃやっ!」

咄嗟に、スフィアはインジュの手を拒んでいた。ハッとして、傷ついたような瞳で見上げてきたスフィアに、インジュは微笑んだまま頷いた。

「あ、インジュ……」

「フロイン、スフィアをお願いしますね」

フロインは素直に頷くと、スフィアをそっと押しとどめた。インジュとノインは、軽く踏み切ると空に舞い上がり飛び去ってしまった。

「インジュ!あたし――!」

『戦いを知っている、あなたの反応は正しいわ。今は、そっとしておいてあげて。スフィア、あなたも今は離れていた方がいいわ』

フロインの優しい微笑みに、スフィアは顔を覆って頽れた。フロインはそっと、その小さな背中を抱いて、頬を寄せた。

「フロイン……!インジュは、インジュは治る?」

刃を向けられて恐れるのは、自分の命が脅かされるからだ。インジュは、自分が刃を握ることさえ恐れていた。それは、それを向けられる者の痛みを、きちんと想像できていたからだ。なのに、今のインジュはそれを失っていた。自分の命が脅かされることも、おそらく他人の命を奪うことさえ躊躇いがない、殺人者の目をしていた。

インジュは、我を失っていたあの状態でも、他者を傷つけることに躊躇いがあったのだ。

温室育ちのオウギワシでは、洗練された野性のオオタカたちには敵わない。我を失って荒れ狂えば、討ち取る以外にないと安易に考えてしまった。

インジュの誤算は、我を失ったことだった。ノインのギリギリの賭けに、インジュは負けたのだ。

『ごめんなさい、わからないわ。インジュは、命をリティルに返そうとして、無理な化身を実行してしまったの。そして、ノインを――臆病で優しすぎるインジュには、耐えられないことだわ』

「インジュ、死のうとしたってこと?」

フロインは顔を上げたスフィアに、哀しげに頷いた。

『封印を解く術を知らなかったインジュは、焦ってしまったの。わたしには、インジュの叫びが聞こえていたわ。この力をリティルに返し、フロインがスフィアに右目をあげてほしいと。そのために、リティルに殺されたいと、願っていたわ。ノインは、そんなインジュに未来を示してくれた。その命を犠牲に封印を解いてくれた。あとはインジュが、決めなければならないわ』

我を忘れながら、インジュはフロインに訴えていた。

スフィアとの約束を果たし、そして、今度こそ、リティルを守る刃になりたいと。

彼もやはり精霊だ。精霊は力が形を得た存在。原初の風の願いが、インジュという精霊を目覚めさせた。

インジュは、風の王・リティルの刃として目覚めた精霊だ。それが彼の、存在理由だ。

思い出してしまったインジュは、遅かれ早かれ、封印を解いただろう。たとえ、心が壊れてしまったとしても、存在理由に従う為に。

グロウタースの民からすれば、強大な力を持ち、永遠の命を生きる精霊だが、その存在に自由はない。存在理由という鎖に縛られ、初めから何者であるのかを決められている。

「どうして――こんなこと!どうして!」

『それは、あなたが、愛されたから。ありがとう、インジュに光をくれて』

スフィアの驚いた左目が見開かれ、すぐに歪んで涙が流れた。

そんなインジュを、拒んでしまったのに?スフィアは言葉にならず、フロインに抱きしめられて泣いた。


 風の城の応接間のソファーで、インファは眠りに落ちていた。

セリアから力を受け取れない今、次元の刃を振るう力はインファにはなかった。それでも、ノインが命がけで伝えてきたインジュの危機に、駆けつけないという選択はできなかった。シェラのゲートでは、行きたい場所の、その周辺にしかいけない。ナーガニアがいない今、次元の刃だけが行きたい場所の座標を捉えることができた。

次元の刃を使い、楽園へ飛んだインファは、失いそうになる意識と戦いながらインジュと対峙した。本当に、気迫と根性のみだった。

閉じそうになるゲートをくぐり、応接間に戻ったインファは、そのままソファーで寝てしまった。

「インファ兄、起きない?」

ナシャがソファーに近寄ってきて、そっとシェラに話しかけた。

「ごめんなさいね、もう少し寝かせてあげてね。どうしたの?ナシャ」

レイシは顔を洗ってくると言って、席を外していた。

「うん、あのね、ルディルを調べててわかったんだけど、生き物みたいな鼓動、一人分じゃないんだ。三つあって、寄生してるみたい」

「それは、病原菌のようなものなの?」

「グロウタース風にいうとそうなのかな?三つも意識に入り込まれたら、そりゃおかしくなるよ。もう、根が深くて、無理に取り除こうとすると、寄生されてるほうも道連れになっちゃうから、できなくて……」

ナシャは歯がゆそうに奥歯を噛んで俯いた。

「三つ……三人……」

ソファーの背もたれに手が置かれ、インファが体を起こした。

「ルキ、ルディルの夢に潜ることはできますか?」

ルキはソファーの一人席にいて、この城に来たときからほとんど動いていなかった。

「できなくはないけど、ルディルの精神がどういう状態なのかわからないから、おすすめできないね」

「どんな危険がありますか?」

「ルディルが錯乱したままなら、何度も彼に襲われることになるかな?インファ、何を探したいのかな?」

彼、相当強いよ?とルキはわかりきったことを警告して、ニンマリ笑った。

「ルディルはうわごとで、出て行けと好きにはさせないと言っていたことから考えると、誰かからの干渉を受けていたんです。夢の中に、その痕跡が残っていないかと思いまして。ルキ、ルキルースで皆の夢を見ていましたよね?どうでした?」

ルキは紫色の瞳を鋭く細めると、唇に拳を当てて考え込んだ。

「そういえば、三つだったね。三つのイメージが、同時に襲いかかってきた。ごちゃ混ぜで処理できなくて、押しつぶされそうだった。あれは、それぞれの記憶だったのかな?」

「三つのイメージですか。ここも三ですね」

「こだわるね。なんなのかな?」

ルキは猫の目でインファを見つめながら、頬杖をついた。

「三に関係する精霊が一人だけいるんですよ。時の精霊・グロウ・ソラ・ミリオネです。彼らは古参で、安否の確認が取れていない精霊です。ルディルの残したメッセージとも一致します」

「でも、時の精霊って干渉できないんじゃなかった?」

干渉できないのに、どうやってこっちに攻撃してきてるの?とナシャは首を傾げた。

「そうですね。彼らに至る道も、突き止められません。歴史の保管所にも、彼らの所在に関する記述はありませんでした。しかし、何かあるはずなんです。何か……」

インファは不意に、欠伸をした。

「インファ兄、もう少し寝てて!レイシもうすぐ戻ってくるし」

「大丈夫ですよ、ナシャ。もう、十分休みましたから」

「十分……ね。インファ」

フッと微笑んだルキは、彼の名を呼んだ。反応したインファの鼻先に、フウッと息を吹きかけた。

「おやすみ、お兄ちゃん」

幻夢の霧をまともに浴びて、インファはソファーに倒れ込んでいた。その様子を見つめながら、シェラは一口紅茶を飲んだ。

「ありがとう、ルキ。こうでもしないと、インファはまともに休もうとしないから。セリアがそばにいるようになって、こういうことは減っていたのに」

シェラは、魔方陣の中で眠る雷帝妃に視線を向けた。

「ふーん、セリア、あんなでも役に立ってたんだね。インファにあげて正解だったみたいで、安心したよ」

宝石三姉妹は、ルキの手足だ。その中でも、末妹のセリアは自覚はないが、三姉妹の要だった。インファと恋に落ち、両思いなのに煮え切らない二人の背を押したリティルは、セリアが重要な精霊だと知り、わざわざルキに了解を取りに来た。ルキは、リティルがほしいならと、あっさりインファに嫁がせたのだった。

セリアか、いけるかもしれないなと、ルキは魔方陣の方へ視線を移した。

 そこへ、城の奥へ続く扉を開いて、レイシが戻ってきた。レイシはあまり頭を使うことには向いていないようで、肩でも凝っているのか腕をしきりに回していた。

ルキはそんなレイシを観察していたが、トンッとソファーを降りるとこちらに戻ってくる彼を捕まえた。

「レイシ、ちょっと、ボクとデートしない?」

「え?猫の散歩の間違いじゃないの?」

レイシは鋭い瞳に、笑みを浮かべて返した。

「で、どこ行くの?」

「セリアの夢の中」

「えー?それ、兄貴に怒られない?」

「うまくすれば、セリアを取り戻せるかもって言ってもかな?」

ニンマリ笑うルキの言葉に、レイシは食いついた。

「付き合うよ、散歩。母さん、いいよね?」

「ええ。気をつけてね、レイシ」

シェラはフンワリ微笑んだ。

「あ、インリーにルキとデートしてくるって言っておいて」

じゃあねと言って、レイシはルキと眠っているセリアの方へ行ってしまった。

 レイシのその言葉に、シェラは、あらあら、ヤキモチは焼いてほしいのねと思い、思わず笑ってしまった。

インリーは今、選択を迫られている。

――お母さん、わたし、どうすればいいの?

泣きそうな顔で、インリーは縋ってきた。事情を聞くと、レイシに口説かれているという。

レイシが?と、にわかには信じがたかったが、その後、インファに確かめると、そのようですねと肯定された。ただ、あまり色っぽい事情ではなさそうだと、インファは付け加えた。母親のシェラがレイシに確かめるわけにもいかず、シェラは額面通りに受け取ることにした。

シェラはインリーの悩みに、ずっとレイシにまとわりついていたのに、何を今更?と思ってしまったが、怖がっているのか、恋愛感情にずっと蓋をしてレイシの隣にいる娘には、いい機会なのかもしれないなと思った。

――インリー、何が正解なのではなく、あなたがどうしたいかよ?

インリーの固有魔法・レイシの隣。あの魔法は、次元の大樹である神樹の力だ。そして、レイシにピンポイントで座標を指定するには、おそらく一心同体ゲートが必要だ。

一心同体ゲートは、花の姫だけが使うことのできる、特定の一人の体内に開く特殊なゲートだ。シェラはそのゲートをリティルの中に開き、会話や力の受け渡しを行っている。このゲートはこの人と決めた相手のみにしか開けない。故に、一心同体ゲートで繋がる二人は、婚姻の証であるアクセサリーを贈りあわなくても、夫婦とみなされる。

おそらく、レイシの体内にはインリーの一心同体ゲートが存在している。おそらくというのは、不完全なのか気配は感じるものの、遠目では存在を確認できないからだ。

しかしシェラは確信していた。カルシエーナが、二人を夫婦だと言い切ったり、ルディルがなぜか夫婦に見えるときがあると言ったり、初対面の精霊達は大抵間違うからだ。

二人はすでに、一心同体ゲートで繋がる夫婦なのだ。

けれどもシェラは、そのことを気がついていない二人に、教えるつもりはない。

混血精霊として覚醒したレイシは、インリーと向き合おうとしてくれている。だが、インリーは?娘が自分でレイシと向き合い、ゲートと固有魔法・レイシの隣を思い出さない限り、心は繋がれない。ただレイシに負担をかけるだけの、一方的な関係のままだ。それは、夫婦とは言えないと、シェラは思っていた。

今のままのインリーでは、前へ進もうとしているレイシの重荷にしかならない。

――インリー、あなたにとって、レイシは、何者なの?

インリーが自分で答えを出してあげなければ、リティルの刃になることを望んでいるレイシは、インリーと王への忠誠の板挟みに遭い、この城を出ざるを得なくなる。

シェラはレイシを、リティルのそばにいさせてあげたい。レイシの父親ではなくなったと思い込んでいる夫に、インリーのことが枷になって、リティルこそが父親だと言えないでいるレイシに、伝えさせてあげたかった。

 シェラは、机に置かれた水晶球が光を発するのを見て、それに応えた。

「ノイン?」

『シェラ、インファはいるか?』

「今、眠っているわ。わたしで代理は務まるかしら?」

『問題ない。シェラ、君は壊れた精神を癒やせるか?』

壊れた精神?ずいぶん物騒なことを聞くなと、シェラは不穏なモノを感じた。

「程度によるわ。わたしは、体専門だから」

『そうか。インジュが、恐怖を感じなくなった。切りつけても、笑っているような恐ろしい状態だ』

インジュ?インジュが?シェラは思わず立ち上がっていた。

「すぐに城へ戻して。リティルはそばにいる?わたしが話すわ!」

『シェラ、やっぱりそういう反応だよな?』

「リティル!インジュの力は解放されているのでしょう?鳥かごへ戻して!今のインジュは危険よ!」

『シェラ、ボクはどう危険なんですか?』

「インジュ……あなたは今、命の価値がとても低い状態にあるわ。ちょっとしたこと、例えば肩が当たっただけで相手を殺してしまうわ」

それだけではない。彼の力は創造の力。たがの外れた思いのまま力を振るってしまったら、世界を破壊してしまうかもしれない。怖い想像はいくらでもできた。

『それは怖いです。けれども、城へ戻ったら、それはそれで危険なんじゃないんですか?』

「残念だけれど、鳥かごへ隔離させてもらうわ」

『あの、シェラ、ボクが手を下しそうになったら、止めるようなこと、何かできませんか?』

「それは、城へ戻りたくないと言うこと?」

『約束を、果たしたいんです。それが終わったら、ボクは隔離されても、封じられてもいいですから、それだけは、果たしたいんです』

意思のないインジュが、こんなに意思を持ってしゃべるなんてと、シェラは驚いていた。

シェラは唇を噛んだ。今のインジュはたがが完全に外れている。殺人鬼状態といっていい。早く手元に戻したいが、インジュの想いを遂げさせてやりたかった。このままなら彼は、本当に眠らせなければならないかもしれないからだ。

シェラは、固唾をのむと言った。

「わかったわ。わたしがあなたに戒めをかけるわ。そちらへ行くからリティル、迎えにきてくださる?」

『了解、お姫様。待ってるぜ?』

シェラは頷くと、ナシャを見た。

「ごめんなさい!誰かが戻ったら、わたしは楽園だと伝えて!」

「うん。いってらっしゃい」

シェラはソファーを立つと、次元の扉を開きすぐさま飛び込んでいった。

 ゲートを抜けた先は、楽園の上空だった。

「リティル!」

飛び込んだ先は、知ったぬくもりだった。シェラはリティルの腕の中で顔を上げた。

「びっくりしたか?大分ゲートの使い方慣れたんだぜ?」

シェラはナーガニアやインファの次元の刃のように、座標を指定してゲートを開けない。そのシェラの出現座標を把握して、待ち伏せししていたリティルに、シェラは素直に驚いていた。シェラには、一心同体ゲートでリティルの居場所はわかっても、彼のそばにゲートは開けないのだった。それは、正確な座標を指定する能力が低いからだった。

「ええ、なぜわかったの?」

「うーん、愛の力だぜ?」

「冗談ばかりなのだから」

教えて!とせがまれて、リティルは意地悪に笑った。

「帰ったら教えてやるよ。そしたら、シェラもオレの隣にゲート開けるんじゃねーか?」

インリーみたいにと、リティルはそれっていいよなと笑った。

「そうね。なら、リティルが帰って来るまでに、やり方を突き止めるわ」

楽しみにしていてねと言って笑うシェラに、宿題だなと、リティルは楽しそうに笑った。

「インジュはどこ?」

「花畑だよ」

「リティル!わたしも飛べるわ!きゃあ!」

リティルはシェラを横抱きに抱き上げると、一気に急降下した。オオタカの急降下には定評がある。シェラは思わず、ぎゅっとリティルの首に抱きついていた。しばらくすると、フワリと風が和らいで、トンッと軽く大地に降りた振動が伝わってきた。

「もお!リティル!こんなときに、わたしで遊ばないで!」

「ハハ、いいだろ?君が出てくるの、久しぶりなんだからな!」

リティルは楽しそうに笑っていたが、シェラは彼の無理を感じていた。リティルの腕から降りながら、シェラはノインのそばに立っているインジュを見た。

 城へ戻ったら伝えるつもりでいるが、インファが今眠っていてよかったと思った。

ボンヤリ微笑むインジュの瞳には、どこか狂気が宿っていた。一刻も猶予がないことは、シェラにはすぐわかった。

「インジュ、あなたに逆転の治癒の戒めをかけるわ。もし、誰かを手にかけそうになったら、血が沸騰するから気をつけてね」

シェラは、そっとインジュの胸に手を当てた。もっと、何かしら抵抗を受けると思っていたのに、すんなり触れさせたなとシェラは一瞬油断していた。

「!」

シェラの首に伸ばされたインジュの手を、リティルが止めていた。インジュの瞳にはまるで殺気がなく、むしろ友好的にすら感じられた。シェラを後ろから抱きすくめ、片手でインジュの手を止めたリティルは、その瞳を鋭く睨んでいた。

「インジュ、オレのお姫様は首が弱いんだ。おまえには触らせねーよ」

「ええ?そうなんですか?」

インジュはニッコリと微笑んだ。その笑顔を見返しながら、リティルは彼の手を押し戻していた。さすがはオウギワシ、細いくせにかなりの握力だった。こんな力でシェラの首に何をしようとしていたのか、それを思うとリティルは哀しくなる。あの、優しくて臆病なインジュは、あのとき、リティルに殺されようとしたとき死んでしまったと思うと、憤りを感じる。

そうまでして、スフィアに右目を作ってやりたかったのかと、本気の想いを感じて切なくなった。しかしリティルは、インジュの想いの中に、リティルがいることを知らなかった。

「そうだぜ?良い声で鳴くんだぜ?」

え?

耳元で低く静か紡がれた言葉に、シェラはゾクッと甘いうずきを感じてしまう。夫の顔を見なくても、シェラには彼がどんな瞳をしているのかわかってしまった。

まさか、こんなところで?シェラはリティルの指が、こめかみから頬を撫で下るのを感じた。そして、首筋を――

「きゃあ!」

「痛って!」

パシーン!と乾いた音が響いていた。シェラは思わず、リティルをひっぱたいていた。

「ご、ごめんなさい!し、城に戻るわ!」

シェラは真っ赤な顔でそう叫ぶと、ゲートを開いて逃げるように飛び込んで行ってしまった。

「はは、ありがとな、シェラ」

シェラの平手打ちを受けて片膝をついたリティルは、そうつぶやくとおもむろに立ち上がった。そして、大丈夫ですか?と微笑むインジュを見上げた。

「ああ、可愛いだろ?オレのお姫様」

そう言って挑戦的に笑うリティルに、インジュは人の良さそうな顔で笑っていた。その瞳の奥には、飢えたオウギワシがいた。たぶんもう、乗っ取られている。

――絶対におまえを取り戻してやるからな?インジュ!

目的を果たしたら、鳥かごから二度と出られなくてもいいと考えていたインジュは、リティルにこんなことを想われているとは思いもよらなかった。

インジュは、城の皆に愛されていることを、知らなかった。


 楽園は、珍しい雨に打たれていた。皆の寝静まる中、雨音は子守歌のように優しく屋根を叩いていた。

そんな、夜の闇の中、インジュはうなされて飛び起きていた。

恐れの中、手探りで、インジュはサイドテーブルに置いていたものを、ひったくるように乱暴に掴んでいた。片手の中に収まるそれは、男性が持つには綺麗なデザインの髪留めだった。臆病でいいと言って、リティルがくれたそれを強く握りしめて、インジュは上がった息と煽る心臓を落ち着けた。

「もう、戻れない……ボクは、戻れない……でも、けれども――」

インジュは髪留めを手に、ヨロリと部屋を抜け出した。中庭を囲む列柱廊には、壁がないが魔法によって廊下に雨のしずくが入らないようになっていた。

インジュは雨の降る中庭に、魔法の壁を抜けて出ていた。

見上げたインジュを、暗い空から落ちてくる雫が打った。思いの外、冷たい雨だった。

「ボクは……生きていていいんですか?教えてください……お父さん……」

 風の城の皆は強くて、真っ直ぐで、正しくて、父親のインファはそんな城の中心にいた。応接間で、雲の上のような存在の風の王と肩を並べて。

そんなに強い力を秘めた精霊ではないのに、自分より強い精霊達と対等に渡り合っていた。太陽王からも一目置かれて、フロインでさえ、彼に一睨みされると大人しくなった。精霊の強さに、上級だ最上級だと関係ないことを、父はその背中で語っていた。近寄れなかった。応接間で、王の副官の顔をしているインファに、インジュは近づくことができなかった。

インファは忙しく、たまにこちらに視線を向けて何か言いたげでも、家族や仲間に呼ばれてしまい、未熟な時期、父といた記憶があまりなかった。そして、インジュは、雷帝・インファをいつしか恐れるようになった。

「様子を見に来てみれば、大丈夫ですか?インジュ」

暗い空から、金色の風が舞い降りてきた。雨を遮られ、インジュは呆然と舞い降りてきた彼を見つめていた。白い光をまとった風に守られ、インファは雨の中でも濡れていなかった。

「ずぶ濡れですね」

インファは、小さく苦笑するとスッと横に撫でるように手の平を動かした。雨に濡れていたインジュは、瞬間乾いていた。

「お父さん?」

「はい、あなたの父ですよ?」

僅かに首を傾げて、優しく笑っているこの目の前の人は誰だろう。この人の、厳しい瞳しか知らないと、インジュは疲れた心で思った。

「オレが怖いんですね?」

「そんなことは、ない、です」

「その間は何ですか?」

「あ、あああの、ボク、今危険らしい、ですよ?」

「ええ、聞いていますよ。危険人物の対応には慣れていますから、あなたも気兼ねはいりませんよ?」

本当に、目の前の人は誰だろう?これは夢なんだろうか?父がこんなに優しいはずがないと、インジュは戸惑っていた。でも、幻でも夢でも、今目の前にいるこの人になら、何でも話せる気がした。

「ボクは、どうしたらいいですか?なくなった心は、もう、戻らないんでしょうか?戻らなかったとしたら、ボクは、どうすればいいんでしょうか?」

流れ出すように気持ちを吐露したインジュに、インファは困ったような顔で微笑んでいた。

「インジュ、手に何を持っているんですか?」

インファはインジュの右手を指さした。そういえば、握りしめたままだったと、インジュはそっと手の平を開いた。そこには、リティルがくれた、羽根の装飾の髪留めがあった。

「王ですか?わざとですかね?あの人は」

インファは困ったように笑った。わざとの意味がわからないインジュに、インファは風を操り普段は背中に流れている、自分の長い髪を肩に垂らした。そして、その緩い三つ編みを留めている髪留めを、持ち上げて見せた。羽根と白百合の装飾の髪留めだったが、インジュのそれとデザインがとてもよく似ていた。

「オレは弱い精霊です。風の王はそんなオレを守ってくれようとしたんです。あなたのそれにも、同じ願いが込められているんでしょうね」

そういう人だと、インファは照れたように笑った。

「リティルはボクに、臆病なままでいいって言ってくれました。なのに、ボクは、そんなリティルを裏切ったんです」

らしくないことをしそうになったら、思い出せと言ってこの髪留めをくれたのに、インジュはリティルに殺される選択をしてしまった。そして今また、裏切りそうだ。リティルを守りたくて生まれてきたのに、それができなくて、だったらいっそと、また思ってしまう。

「裏切られたとは、思っていませんよ王は。今でも、あなたを助けようと必死でしょうね。インジュ、あなたはなぜ、自分を弱い精霊だと思い込んでしまったんですか?」

「秘めた力の強さが強さじゃないことを、お父さんが示していたからです。どう見ても、お父さんより強い精霊が従う姿に、怖くなってしまったんです。ボクが、あの人達に認められなかったら、お父さんの威厳に傷をつけてしまうんじゃないか。お父さんの邪魔になってしまうんじゃないかと思ったら、外に出ない方がいいんじゃないかと……」

インファはハアとため息をついた。

「インジュ、オレに威厳なんてありません。あるのは、適材適所だけです。オレの采配は絶妙だそうで、皆さんどこまで本気なのか知りませんが、やれと言われるのでやっているだけです。今、城は王妃が仕切っていますよ。別に、オレでなくてもいいんです」

インファは少し寂しそうに微笑んだ。

「すみません。オレは強い精霊ではありません。父さん――王と飛べなくなったことが、苦痛だったんです。それで、あなたに期待してしまいました。優しく臆病なことを知っていたのに、王と飛んでほしかった。オレのエゴが、あなたを追い詰めたんですね?すみません……」

「お父さん……違うんです!ボクは、リティルを殺してしまったとき、風の王の刃になりたくて、それで、フロインと別れる道を選んだんです。あのとき、四分の一の欠片になったのは、ボクの意志だったんです。あのまま、願いと力で具現化することだってできました!あの時のボクは、自分の力をすべて知っていましたから。それをしなかったのは、生まれる前のボクは、あなたを――」

あなたを投影し、リティルの刃として相応しい手本にしようとした――

なのに、一人の精霊として生まれてきたインジュは、それを忘れ、憧れは恐れへと姿を変えた。なぜ?すべてが真逆になってしまったのだろうか。

インジュはリティルのくれた髪留めを握りしめて、それにすがるように拳を額に当てた。その閉じた瞳から、涙が流れていた。生まれる前は確かに、インファの隣に立ち、共に風の王を守ることを夢見ていたのに!

 そっと、インジュの両肩に手が置かれた。

「風の王の刃……それが、あなたの存在理由でしたか。セリアを選んだのは、オレの妻だったからですか?あなたは、オレに、憧れてくれたんですか?」

インジュは素直に頷いた。

セリアはあの時、原初の風の声を聞いた。だが、選ばれた理由がそれだけではないことは、インファにはわかっていた。あのとき、最上級精霊として肉体を再構築したリティルは、原初の風のすべてを引き継げる肉体を手に入れていたからだ。

そして、生まれてきたインジュの顔を見たとき、血縁を感じることのできる容姿で目覚めた彼に、インファは選ばれたことを知った。インファは、原初の風を、女性だと思っていたからだ。同じ原初の風であるフロインと似た姿で生まれてくることを、皆想像していた。しかし、インジュは女性的ではあるが、フロインではなくインファに似ている。フロインとは容姿が著しく異なって目覚めたインジュは、風の王の守護鳥であるフロインとは違う、存在理由を持っているのかもしれないなと、インファもリティルも思っていた。成長するインジュが、優しく、戦いとは無縁だったこともそう思わせた理由だった。

インファは、それならそれでいいと思っていた。フロインが、インジュには戦う力がある。彼は自分を偽って封じていると聞かなければ、過度な期待を持つことも、躍起になって封印を解こうとすることもなかった。

「リティルの中から見てました。風の王の傍らにあって王を守っているお父さんは、ボクの理想でした。だから、刃になりたかったボクには、雷帝・インファの血と力が必要だったんです。それなのに、ボクは――」

――殺すな!フロイン!

風の王の刃として、王に仇なす者に襲いかかったフロインを、リティルはその翼を傷つけてでも阻止した。その事件からフロインは、リティルの命令がなければ命を奪ってはいけないと戒められた。

その記憶を共有した生まれたてのインジュは、混乱した。敵を殺すなと言われ、リティルは刃を欲していないのではないかと、存在理由をあっけなく疑った。

それが始まりだった。戦いを恐れ、恐れで戦えなくて、戦う力がなければ、分かれてしまったこの原初の風の欠片を守れない。誰にも奪われるわけにはいかないこの力を、どうやったら守れるのか、生きる目的は、未熟な心によってあっさりすげ替えられた。

「お父さん、ボクはどうすればいいですか?生まれる前の心を取り戻しても、あの頃のように、風の王の刃になりたいと思えないんです。リティルを守るには、何か違う気がするんです。ボクは、何者……?」

風の王の刃になりたいという願いから生まれたインジュの本性は、殺戮のオウギワシだ。ノインによって封印が解かれ、想いのすべてを思い出したインジュだったが、リティルをこれまで見てきて、ただ殺すだけの刃は必要ないことがわかっていた。けれども、今のインジュには、ただ殺すだけの刃にしかなれそうになかった。

「何者なのか決めるのは、あなたです。あなたにしか、決められないんですよインジュ。見つけてください。心の中に、揺るがない一つを」

未熟だった頃、インファも彷徨った。風の王の副官として生まれたインファであっても、惑い、迷い、踏み外して、リティルを追いかけた。今も、副官としてどうすべきか、悩んでいる。

「お父さんの揺るがない一つは、何ですか?」

インジュは顔を上げ、父に尋ねていた。

「皆に悲しみを与えないことです」

風の城は戦い続ける過酷な城。インファの采配で、皆の運命が決まる。皆を必ず城へ帰すため、インファは事象を見極めている。誰も命を失わないように。すべてを背負ってしまうリティルを、悲しませないために。

「インジュ、オレの中にも獰猛なイヌワシがいます。野生を解き放てば、オレも獲物を仕留めたとき喜びますよ。その力を精神で操るのが精霊です。あなたの中の野生を手なずけなさい。誰もが認める臆病さで、その爪をねじ伏せなさい。あなたの強さならきっとできます。オレの手助けが、必要ですか?」

インジュは、労るような優しい声色の父の腕を、思わず掴んでいた。

「そばに、いてほしいです……!お父さん!お父――さん!そばにいてください!」

「わかりました。オレが導きます」

暖炉の火のような温かさだった。冷たいと思っていた父の瞳は、本当はこんなに温かだったのだと、インジュはやっと知った。恐れに追い詰められていた心が安堵して、インジュは気を失うように眠りに落ちていた。当然のように抱き留めてくれた体温を感じながら、インジュはやっと深く眠りに落ちた。


 楽園は、深夜まで雨に包まれていた。インジュを寝かせて、インファはリティルの部屋を訪れていた。

「まさか、おまえがくるとは思わなかったぜ?インファ」

セリアのことは気になったが、インファが自ら来たのだ、その行動に水を差すことはない。

「一度死んだノインは休息が必要でしょう?今城の仕事は、頭しか使わないですし、彼にはちょうどいいですよ。ついでにフロインと親睦を深めてもらいましょうか?フロイン、城に戻しますよね?」

「深まるか?親睦。城には、うるせーのがわんさかいるぜ?おまえ、ノインを守る気だな?」

「あまり虐めては可哀想ですよ。オレがノインの立場でも、同じことをしたと思います。オレの場合、セリアの身代わり宝石を使ったと思いますけどね」

体も命も張りませんと、インファは笑った。

「父さん、今、ルキとレイシがセリアの夢に潜っています。ルキに何か考えがあるようなので、そちらの結果待ちです。しかし、こちらも時の精霊ですか?」

「ああ。オレも全く知らねー精霊だ。ケルゥも知らねーんだろ?それよりどうしてあいつ、古参なのに無事なんだよ?」

「それなんですが……ケルゥはですね、何かが霊力に入り込んでくる気配は感じていたそうなんですが、カルシエーナの破壊の力が、入ってくるそばから駆除していたようで、まったく気がつかなかったようです。ナシャの診察で発覚しました」

「カルシーのおかげなのかよ?あの二人、魂分け合ってねーのにその連携かよ?に、しても、ケルゥ鈍すぎねーか?」

精霊の婚姻は、自分の一部で作ったアクセサリーを贈り合って成立する。その為、自分の一部――魂を分け合うという言い方で、精霊の婚姻を表現したりもしていた。

「ケルゥは細かいことは気にしませんから。さて、ディンにはどう落とし前をつけてもらいましょうか?」

結果的にインジュの封印は解かれたが、インジュの負った心の傷は深く、ノインは平然と見えるが、絶対安静だ。フロインがくっついていなければ、いつ体が崩れてもおかしくない状態だった。息子と守護精霊を傷つけられ、インファが心穏やかでないことは明白だ。

「インファ、目が怖えーよ。まあ、無理もねーけどな。そういや、インジュが、ディンがおかしいって言ってたぜ?オレも違和感がずっとあるんだ。インジュは確信があるみてーだから、あいつに聞いてくれよ」

「了解しました。一度、ニーナと一緒にディンとも話してみます」

「大丈夫かよ?まだ殺すなよな」

「まだとは、いつなら殺していいんですか?」

笑わない瞳で、インファは口元にだけ笑みを浮かべた。言葉は冗談だが、インファはかなり怒っている。これは、穏やかには済みそうにないなと、リティルは苦笑した。

「はは、この会話、インジュに聞かせてやりてーよ。おまえの父さん、こういうヤツだぜ?って。あいつ、おまえにすげー幻想抱いてるだろ?」

「ええ、オレを神か何かのように思っていますね。おかしいですね。そんな振る舞い、した記憶はないんですけどね」

リティルの中から見ていて、憧れていたと言われたが、あの頃は、確か、セリアを捕まえようと躍起になっていた時期で、かなり無様だったと記憶している。そんな姿を見て、憧れられるのか?とインファは苦笑するしかなかった。

好きすぎて苦手とは、インジュはセリアの息子だなと思った。インファは変化球はもういらないとため息をついた。

「風の城は、おまえに頼りすぎてるのかもな。通いの仲間も、おまえの采配に不満一つ言わねーしな」

「皆さん、どこか麻痺してるんですよ。ルディルは何を振っても喜んで行きますよ?どこまで無茶していいのかと、つっこんだことがあったんですが、ケロッとしていました。さすが、父さんの元祖ですね」

悪い、ちょっと壊しすぎたわ!と豪快に笑いながら、戻ってくるルディルが懐かしい。早く彼にも目覚めてもらいたい。

「オレ、あんな豪快には行けないぜ?インファ、一緒に飛んでくれよ!おまえ、飛べねーっていいながら、飛べるだろ?」

「無理です」

「なあ、そう言わずに!」

「嫌です。死にたくありません」

「拗ねるぞ?」

「子供ですか?」

親子は同時に吹き出して笑った。

「に、しても、ここまで来たな」

「ええ、反撃しますよ。風の怖さ、思い知らせてやりましょう」

「ああ!ってことで、寝るか?」

「はい。おやすみなさい」

「って、おまえがベッドで寝るのかよ!」

「最近ソファーで寝ていたのでできれば、こっちがいいんですが」

「セリアがいねーと、グダグダだな」

インファ!睡眠!と言って、仕事の隙間を見つけては寝室へ連行するセリアは、インファの心と体を守ってくれていた。仕事に没頭すると時間を忘れるのは、リティルも同じで、もお!セクルースの精霊なんだから、ちゃんと寝て!と、よく怒られていた。

昼の国・セクルースは昼の国と言われているが、グロウタースと同じように一日が移り変わる。故に、セクルースに属する精霊は、睡眠が必須だった。

「ですね。早く起きてほしいですよ――」

短い仮眠でしばらく何とかなる風の王親子は、放っておけば応接間でうたた寝し、数十分で起きてまた仕事を再開する。ようは、仕事バカなのだ。

風の城は多忙だが、寝る間も惜しんでするようなそんな仕事は滅多にない。故に、怒られるのだった。やはりそんな睡眠では、疲れが取れないからだ。

「あ!この野郎、寝やがった!しょうがねーな。明日からまた、大変だからな。ゆっくり休んでくれよ?インファ」

リティルはフッと微笑むと、眠りに落ちた息子にそう声をかけて、部屋を出た。この隣の部屋は空いていることを知っていたのだ。

外はまだ雨の音に支配されていた。リティルは、インジュの気配をそっと探ってみる。

今夜は、穏やかに眠っているようで、なんだ、インジュはちゃんとインファを信頼していたのだなと思った。


 翌朝、雨は上がっていた。真っ青な空の下、花畑の花々は雨粒を宝石のように煌めかせていた。

ノインはインファが来ていたことに素直に驚いていた。そして、交代を言い渡されたが、それにはすんなり従った。病の原因が時の精霊かもしれない事を話し、ルキとレイシの帰還待ちであることを伝えると、ノインは意外な組み合わせだなと興味深そうに言った。

「フロイン、ノインと共に城へ戻ってください。こちらは、インジュにやらせますから」

フロインは不安そうな顔をしていた。

「心配するなよ。やばくなったら、呼び戻すからな」

フロインには、リティルが呼べば、瞬時にリティルの風から具現化できる固有魔法・王の招集がある。

リティルの言葉にフロインはコクリと頷くと、シェラの開いてくれたゲートへ向かって、ノインと飛び立っていった。

「さて、インジュ、オウギワシの瞳になってますから、正気に返りましょうね?」

「え?あの、それ、わかるんですか?」

「わかりますよ。危険人物の対応には慣れていると言ったでしょう?あとで思う存分戦ってあげますから、いい子で待っていてください」

では、と言って、インファは大賢者の館の方へ飛び去っていった。

「インファの奴、吹っ切れたんだな」

リティルはやれやれと、言いたげにため息をつくと首をさすった。

「あの、リティル、あの人は誰ですか?本当にお父さんですか?」

朝起きると、インファがいることに、インジュはひっくり返りそうなほど驚いた。昨日のあれは、夢だと思っていたのだ。自分の知っているインファと、違いすぎると思ったからだった。インファの姿に硬直したインジュに、父は底冷えする冷たい瞳ではなく、温かな瞳で傷つきますねと言って笑っていた。

「あれがみんなが知ってるインファだぜ?よっぽどおまえの封印を解きたかったんだな。フロインがどうしても口を割らねーから、あいつ、拗れちまったんだよ。許してやれよな、インジュ。父さんは、おまえのことが心配で気が気じゃなかったんだよ」

あいつはあれで、不器用なんだよとリティルは言った。

「ボク、お父さんに見捨てられてたわけじゃなかったんですか?」

「おまえ、ホントにインファのこと誤解してるな?まあ、これからすべて覆るから、おまえの反応楽しんで見とくぜ」

誤解と言われても、インジュは自分が不甲斐ない精霊だったことは事実で、そのために父を怒らせていたとしても仕方がないことだと思っていた。父の言葉に背き続け、鳥かごからほとんど出なかった。父が忙しい合間に、鳥かごを訪れていたことを、知っていたというのに。すべては、自分の態度の悪さだとインジュは思っていた。それなのに、父のあの態度は彼の不器用さ故だというから、とても信じられるはずもなかった。

でも、けれども、インファに憧れて、彼の血と力が欲しくて、その息子として生まれることを望んだ気持ちを思いだした。今からでも、インファの隣に立てるのなら、立ちたいなとインジュは素直にそう思えた。

 大賢者の館の中庭は、キラキラと雨粒に日の光を反射させていた。

ディンはニーナに呼び出され、彼女の部屋を訪れた。無視してもよかったが、小煩い母親だ。大人しく従ったほうが、早く解放される。

そう侮ってディンは、扉を開けた。そして、待っていた人物を見て、一瞬瞳を見開いた。

大賢者の妻の椅子に座っていたのは、切れ長の瞳の美しい精霊だった。冷たい金色の双眸に、隠さない殺気があった。

「お久しぶりです、ディン。オレの息子が、お世話になったようですね」

瞳に灯る殺気とは裏腹に、その声色は穏やかだった。

「インファ――様」

敬称を言わされていた。

「いつまで入り口に立っておる。中へ入らぬか」

インファの隣に立って控えていたニーナに促され、ディンは部屋に入らざるを得なかった。

「さて、聞かせてもらいましょうか?インジュの力を奪う暴挙に出た理由を」

ディンは、背中に冷たい汗が流れるのを感じていた。

「あなたもやはり、ご自分の子息の方が可愛いのですね」

「家庭を持ったこともないあなたに、そんなことを言われるのは心外ですね。そして、その問いの答えは当たり前です。オレはインジュが大切です。あなたも守られている身の上で、母親を前にしてよくそんなことが言えますね」

「守られている?違いますよ。わたしをどうすることもできずに、ただ留め置かれているだけです。わたしを恐れて、手が出せないのですよ。父もゾナも!」

「あなたの時魔法ごときに?ディコとゾナが?本当にそう思っているんですか?」

「わたしの魔法は、フロインを止めました。彼女よりも弱い精霊のあなたなど、敵ではありません」

「ディン!」

ニーナが割って入ろうとするのを、インファは止めた。ディンの魔法は完成し、インファの背後に星空のような青黒い空間が開いて、中から鎖が飛び出してきてインファを締め上げた。魔法をかけられてインファは、まるで動じず、小さくため息をついた。

「思い上がりも甚だしいですね」

フッと微笑んだインファから、拘束していた鎖がほどけて青黒い空間に帰って行った。それを見たディンは、明らかに動揺していた。

「どうしました?これくらいのこと、オレでなくてもできますよ?時魔法の継承者であるディコ相手ならば、あなたの魔法は発動すらしていないでしょうね」

インファはゆっくりと立ち上がった。ディンはあっけなく動揺し、一歩下がっていた。

「インジュはスフィアを救いますよ?闇の王からも、あの呪われた姿からも」

「黙れ!あんな、力があるのに力を使わない選択をするような輩に、わたしが負けるわけがない!」

「まだ、わからないんですか?あなたは、すでにインジュに負けています。インジュは、スフィアのために大切に守っていたモノを差し出しました。それにより、彼は成長しました。時の精霊と契約しているあなたは、成長しません。うちのインジュと勝負したいなら、とりあえず時の精霊との契約を解除するんですね。今のままでは、話になりません」

インファはディンの前に立った。

「あなたは誰ですか?」

探るような瞳で見つめられ、ディンは瞳を見開いた。

「オレの知っているディンは、父に似て優しく聡明で、母親譲りの熱さがありました。今のあなたには、それが一つもありません。ただただ醜悪に、力に溺れた愚者でしかありません。本当に、あなたはディンなんですか?」

己の姿を、一度見つめ直した方がいいと、インファは忠告した。だが、今の彼に言葉が届くことはないだろうなと思った。

「オレがきたからには、これ以上の暴挙許しません。覚えておいてください。オレは風の王ほど優しくはありませんよ?ニーナも、いいですね?」

ニーナは瞳を閉じると、頷いた。情けなかった。これが、未熟な者の安易な選択の代償なのだと思い知った。いかに、リティル達風が優しく、グロウタースに愛を持って接してくれているかがわかった。

「ディン、スフィアがなぜインジュを選んでしまったのか、まだ、その心に少しでも彼女を想う気持ちがあるのなら、考えてください。時の精霊にすべてを止められていても、心だけは自由です。見なさい。恐れずに。その恐れから逃げている限り、あなたの向かう先は孤独な闇です」

インファは、ディンの隣をすり抜けると、部屋を出て行った。

 ディンは、ニーナの前だというのに思わずその場にへたり込んでいた。容赦のない威圧感だった。リティルもノインも、ディンに対して怒りを向けたことはなかった。インジュを暴走させたあのときでさえも。

「のう、ディン、いつまで意地を張るつもりじゃ?普段のリティルなら、そなた、とっくに斬られておるぞよ?優しい彼らしか知らぬそなたには、風の恐ろしさわからぬか?ディコもゾナも、そなたの巻き添えで斬られねばならぬのじゃぞ?」

昔の仲間である二人を、リティルが斬れるわけがないとディンは侮った。怒らず、後手に回り手をこまねいているリティルを、ディンは未だ取るに足らないと思っていた。

「インファは、風の王の心を最優先に考えるノインとは違うのじゃ。たとえ、リティルが傷つこうとも、怒りや憎しみを買おうとも、改めなければそなたを斬るぞよ?そなたは、そんな相手を引っ張り出してしもうたのじゃぞ?インファに手を下させるほど、リティルは狡くはない。ディン、そなたが相手にするのは烈風鳥王じゃ。逃げ場はないぞよ」

ノインの魔法に閉じ込められて、手も足も出なかったリティルを、ディンは思い出していた。インジュのことも、ノインのことも救えなかったリティルを、皆なぜそんなに恐れ敬うのか、理解できない。

「スフィアも、インジュに遠ざけられたまま終わる娘ではない。インジュがいかに優しさで遠ざけようとも、真っ直ぐに、行ってしまうのじゃろうのう。たとえ、結ばれない運命だとわかっておってものう」

インジュに構うスフィアの心も、ディンには滑稽だった。終わりを二人ともわかっているようで、そんな割り切った関係をなんと呼ぶのか知っているのか?とあざ笑った。

それは、遊びだと言うのだ。

インジュにとってスフィアは遊びでしかないのに、スフィアは彼に入れ込んで熱を上げている。彼は、あっけなく捨てて行ってしまうというのに、それが愛だと思い込んでいるのだ。もっと、頭のいい娘だと思っていた。失望していた。

それでも、スフィアがほしかった。


 楽園の外、剣狼の塔と呼ばれる崩れた遺跡の下に移動して、インファの帰りを待っていたインジュは、後ろから抱きつかれて悲鳴を上げていた。スフィアがこちらに近づいてきていることに気がついていたリティルは、それを静観していた。スフィアがずっと後をつけてきていることには気がついていたが、リティルは気がつかないふりをしていたのだった。

「ス、スフィア!だめです!、ボク、今、危ないんですよ?は、離れてください!」

無言でスフィアは、インジュの腹に背中から腕を回して、放さないと言いたげに抱きしめていた。

「それくらい許してやれよ。おまえ、シェラの戒めで、手を出す前に倍返しくらうようになってるしな」

「ええええ?これ、リティルが許していいんですか?御法度ですよね?」

「おまえら、わかってて付き合ってるんだろ?だったら、オレは何も言わねーよ。大いに間違えろよ。それで、傷ついたらいいんだぜ?ただし、別れの時、オレはおまえを容赦なく連れ帰るぜ?」

「間違えて、傷つけって……それ、教え諭すところじゃないんですか?」

「はあ?教え諭されて止まる想いなのかよ?おまえら、キスまでしといて、ずいぶん希薄な関係なんだな」

「わっ!え?な?」

「バカか?おまえ。監視してたに決まってるだろ?まあ、それを咎めるのはオレの仕事じゃねーよ」

リティルはそう言うと、空を見上げた。インジュもつられて空を見上げると、インファが舞い戻ってくるところだった。

「インジュ、この状況、説明しなさい」

バサッと舞い降りてきた父の姿に、インジュは恐れおののいていた。それを感じたスフィアは、無理もないなと思いながら、当然のように自分が矢面に立とうとした。しかし、インジュの体から放とうとした手を、掴まれて止められていた。

「お、お父さん!彼女は、スフィアはボクの恋人です!禁忌を犯してすみません。ボク達は別れをわかっていますから、だから、だから、今は許してくれませんか?」

スフィアには、インジュの震えが伝わっていた。インファを相当に恐れていたのに、臆病なのにインジュは示してくれた。どうしよう。泣きそうだ。

「あなたも風です。軽率な行動は控えなさい。今回は二人とも理解しているようですから、不問にしますが、インジュ、くれぐれも一線は越えてはいけませんよ?」

「は、はい!」

「そうだぜ?おまえ、越えたら一発だからな。特性上」

「え?あ、はい?」

越えたら一発という言葉に、インジュはすぐには何を指しているのかわからなかった。まさか、インファに怒られずに済むと思っていなかったインジュは、そのことで胸が一杯だった。

「インジュ、諸々発散させてあげますから、来なさい。父はこの数ヶ月、頭しか使わせてもらっていないのでなまってしまいました。準備運動くらいにはなってくださいよ?」

インファが風の中から槍を抜いた。スフィアは慌てて手を放すと、インジュの背をドンッと押した。

 インファの前に押し出されたインジュは、恐る恐る父を見上げた。

「化身は禁止です。もっとも、化身した時点で王妃の戒めが発動しますけどね。あなたは武器を扱えないので、オレの攻撃、避け続けてください。行きますよ?温室オウギワシ!」

間合いを取ったインファが、一気に攻め込んでくる。インジュは咄嗟に反応できなかった。ドンッと弾かれて顔を上げると、リティルがインファと左手一本で切り結んでいた。

「立てよ、インジュ。そう何回も助けてやらないぜ?」

楽しそうに笑うリティルの姿に、インジュは慌てて立ち上がった。インファの視線が、スッとインジュに向けられる。息を飲み、インジュは父を見据えた。

「少しは、いい目をするようになりましたね。インジュ、オウギワシの瞳になったら殴りますから、自分を保ちなさい」

「はい!」

 リティルはスフィアのそばに戻ってきた。そして、花畑に腰を下ろすと、スフィアにも座るように促した。気が抜けたようにストンッとスフィアは座り込んだ。

「インファ様、すごいスローテンポ」

「ハハ、あれでもインジュには速えーよ。ついていくのに必死だぜ?なあ、スフィア、どうしてあいつだったんだよ?おじさんビックリだぜ?」

「理由なんて、おじさまだって答えられないくせに」

「まあ、そうだな。シェラを選んだことに、好きだって理由以外ねーな。オレは、おまえ達を引き離さなくちゃならない。ごめんな」

「うん。インジュは精霊で、あたしはグロウタースの民だから、わかってるから大丈夫。でも、おじさま、慰めてくれる?」

「ああ。いっぱい泣けよ?インジュはもう来させてやれねーけど、オレ達三人はちょくちょく来てやるからな」

うんと言って、スフィアは膝に顔を埋めてしまった。そんなスフィアを、リティルは痛そうな、けれども優しい眼差しで見つめていた。

 スフィアは立てた膝に顎を乗せて、雷帝親子を見ていた。

「おじさま、インジュ、治る?」

「どうだろうな?けど、何とかなるんじゃねーか?案外がんばってるぜ?」

見れば、インファに追い詰められながら、インジュは未だ逃げ回っていた。

「おっと、言ってるそばからオウギワシかよ。まあ、保ったほうだよな」

リティルは、インジュがインファの槍を素手で止めるのを見た。インファはすかさず、腹に容赦のない蹴りを叩き込んでいた。乾いた赤い砂を巻き上げてインジュは倒れたが、すぐに起き上がった。しかし、様子がおかしい。インジュは立ち上がれずに、再び大地に伏した。

「はあ、はあ、ううう――」

「インジュ、苦しみなさい。体が、痛みを覚えるまで。その痛みを、対峙した相手も受けるのだと理解するまで。父さん!手合わせお願いします!」

シェラのかけた戒めで苦しむ息子を見下ろしながら、静かに言うと、傍観している風の王に声をかけた。

「やっと出番かよ!待ちくたびれたぜ?」

インファの声を受けて、リティルはおもむろに立ち上がった。スフィアは、え?とリティルを見上げた。

「インジュに見せるんだよ。あいつの中のオウギワシを、極限まで刺激してやるんだ。オレ達は、身内にも厳しいんだぜ?スフィア、インジュについててくれよ。ただし、半径一メートル以内に近づくなよ?」

リティルは両手に剣を抜くと、翼を広げ、鋭くインファに斬りかかった。スフィアでさえ目で追うのが精一杯の速さで、二人は空へ舞い上がった。金色の風と白い閃光が空に荒れ狂う。荒々しくも、綺麗で、スフィアは瞳を奪われながら、リティルに言われた通りインジュに近づいた。インジュは顔を上げられずに、荒い息を吐きながら時折呻いていた。

こんなインジュを見ているのが辛かった。見ていることしかできないことが、辛かった。

発端は、あたしだと思うからこそ、スフィアはいたたまれない。何もできないことが歯痒かった。

「うわわっ!」

「インジュ!」

インジュの悲鳴を聞いて、スフィアは思わず駆け寄りそうになった。それを感じたのか、インジュは胸を押さえたまま、視線をあげた。その瞳が鋭く、痛みを受けているのに爛々と輝いていてスフィアはそれ以上動けなかった。

「い、けま、せん!」

「インジュ……」

泣、か、な、い、で。と、インジュの唇が動いた。そして、その瞳が優しく笑ったのを最後に、インジュは気を失って倒れた。

「おじさま!インファ様!」

それを見たスフィアは、空を仰ぎ、力の限り叫んでいた。楽しそうに切り結んでいた二人は、すぐに反応して舞い降りてきてくれた。

「インジュのヤツ、なかなかいい精神力してるじゃねーか」

「ええ、見直しましたよ。この分なら、心配いりませんね」

風の王親子はそう言って、安堵したように笑っていた。

「喜べよ、スフィア!インジュの心は壊れてねーよ。心の一部を麻痺させてただけだ。オウギワシをコントロールできるようになれば、ちゃんと外に出られるぜ?」

リティルは、泣いているスフィアに手を貸しながら、そう嬉しそうに言うと、いきなり抱きついた。リティルに抱きしめられて、驚いたスフィアは涙が引っ込んでいた。リティルははしゃぐように、よかったよかったと繰り返していた。

そんなリティルの姿を見ながら、気を失ったインジュを抱き起こしたインファは、ホッとしたように微笑んでいた。

 インファの本性も、獰猛なイヌワシだ。

未熟な頃、インファも恐怖を失ってリティルに迷惑をかけた。この荒療治は、リティルがインファのためにニーナと編み出した方法だった。あのとき、インファに戒めをかけてくれたのはディコだった。

インファにとっても、ディコとニーナはかけがえのない人達だった。その人達を、悲しませたくない。彼等の息子を、断罪したくなかった。

インファは、臆病だが道を外れずに育ってくれたインジュに、感謝していた。恐れしかもたらさない父親だったのに、インジュは優しく育ってくれた。

そんなインジュを誇りに思う。

「ちょ、ちょっと!リティル!ギャラリー!ギャラリー!」

慌てた様子で、どこから走ってきたのかディコが息を切らしながら現れた。見渡すと、遠巻きにかなりの数のエフラの民がこちらを伺っていた。雷帝と風の王の演武を観戦しようと集まったことは明らかだった。

「ハハハ。悪い悪い、ここなら人も集まらねーと思ったんだけどな。エフラの民、侮れねーな」

大がかりに戦うことになるために、楽園から離れた場所を選んだのだが、彼等の好奇心からは逃れられなかったようだ。

「こんな場所で何してたの?」

「ディコ、それは詮索ですか?」

「ご、ごめん」

「冗談ですよ。悪ふざけがすぎましたね。インジュの精神を診ていたんですよ」

冗談を真に受けてしまったディコに、インファは穏やかにそう言った。

精神?とディコは、インファに上半身だけ起こされた格好で、意識がもうろうとしているようなインジュを見下ろした。

「ずっと逃げていたオウギワシを、いきなり目覚めさせてしまったので、コントロールがきかなかったんです。オレも覚えがありますから、もしやと思ったんですが、正解だったようですね」

「じゃ、じゃあ!インジュ、心が無事だったんだね?よかった……」

「ああ、一安心だぜ。ホントに壊れてたら、封印するしかなかったかもしれねーからな。なあディコ、どこなら戦っても迷惑にならねーんだよ?」

「え?ああ、そうか、これ何度も戦うしかなかったよね?もう、ここでいいよ。何とか人払いしておくよ」

「悪いな。インジュの力が安定したら、闇の王を何とかしてやるから、それまで騒がせてもらうぜ?」

「うん、いいよ。……インファ、ディンのことだけど……」

ディコは申し訳なさそうに、切り出した。ニーナ立ち会いの下話をしたことを、彼女から聞いているはずだが?とインファは思った。

「王の決断がまだなので断罪はしませんでしたが、オレに権限があるのなら斬っていました。しかしどうも、オレの知っている彼ではないような気がします。力に溺れたといっても、あれは変わりすぎです」

「そっか、おまえもインジュと同意見なのか。とすると、契約した精霊の影響を受けて、ディンの人格が歪んでるってヤツか。あれからな、一応調べてみたんだよ」

オレは契約するヤツ、ちゃんと選ぶから妙なことになったことがないと、リティルは言った。インファも頷いて、未熟者と契約しても何も成せないからと言った。

「そんなことがあるの?」

「ああ、そうらしいぜ?精神の未熟な者が、あんまり強力な精霊と契約すると起こることがあるらしいんだよ。あとは、初めから乗っ取るつもりで契約したかだな。そもそも、どうやってディンは時の精霊達に会えたんだ?ディコは会ったことあるのかよ?」

「ないよ。魔法を継承するのに、精霊と会う必要ないからね。特に、時魔法は禁呪だしね。ねえ、ディンが選ばれた理由、何なのかな?」

「精霊は、想いが希薄なくせに、グロウタースの想いに反応するからな。それだけ、ディンのスフィアに対する想いが強かったんだろうな。ああ、スフィア、気にするなよ?おまえが悪いわけじゃねーんだ。勝手に先走ったディンが悪いんだからな」

「うん。ディンには悪いけど、あたし気にしないから。インジュはやっぱり、桁違いに格好良くて相手にならないわ」

「だ、そうですけどインジュ、格好良さに身に覚えありますか?」

「う、え?あるわけないじゃないですか!ディンは、ずっと力から逃げていたボクと違って、ちゃんと力に向き合ってきた魔道士ですよ?ボクが、敵うはずないじゃないですか」

ボンヤリしていたインジュは、いきなり会話を振られて、一気に覚醒した。

「インジュ、あたしの右目と真剣に向き合ってくれたのは、インジュが初めてよ?ディンもやっぱり怖がったもの。でも、あなたは違った。もう、恋に落ちるしかないじゃない」

「え?スフィアの右側、怖いですか?ボクには、それがよくわからないんですけど」

インジュは困惑していた。怖いとは思わないがリティルやインファでさえ、違和感を感じていた。どうしてないのだろうかと思う心が、スフィアには奇異の目で見られているという気分にさせた。

「そんなことよりインジュ、右目、作ってやれそうなのかよ?」

「はい、多分。でも、スフィアちょっといいですか?」

そう言うと、インジュはスフィアの髪を掻き分けて、右目のあるあたりに触れた。それを見たインファは、思わずインジュの頭を叩いていた。

「痛いです!」

「あなたという人は!もう少し遠慮なさい!いきなり、失礼だとは思わないんですか?」

「はっ!すみません。でも、わかりました。もっと人体の構造を知らなければ、作れそうにないです」

「そうなのか?オレ専門外だからな。まったくわからねーよ」

「同感です。インジュ、闇の王のほうはどうですか?」

「気配は、ここへ来たときより強くなってますね。でも、食い破る心配はないです。今はこれ以上近づけないですよ。ボク、暴走しちゃいますから」

「オウギワシが、だよな?」

「はい、そうですよ?他に何かあります?」

インジュは純粋無垢な瞳で、首を傾げた。

「父さん、あんまり穢れた瞳で息子を見ないでくれませんか?」

「アハハ。おじさま、インジュはこれだもの。心配いらないわ」

「そっか……蛍の夜事件で、手が早えーなって思っちまって、どうも、信用ならねーんだよな」

二人に責められて、リティルは困った顔で頭を掻いた。

「蛍の夜事件?」

インファの瞳がギロッとインジュを睨んだ。インジュはアワアワと閉口した。

「ほお?この父に言えないことを、しでかしていると、そういうことですか?なるほど。構えなさい、インジュ!もう一戦行きますよ!」

「う、あ、は、はい!」

槍を抜いたインファから、インジュは逃げ出した。それを追うインファは心なしか楽しそうだった。そんなインファの様子を見ながら、リティルも楽しそうに笑っていた。

「えー?さっきまで倒れてたのに、もうあんなに元気なの?」

「ああ、あいつの固有魔法、霊力の泉だからな。簡単に言うとな、魔力が無限に湧くんだよ。魔力は精神の力だ。精霊は肉体より精神よりだからな。あんな生っちょろいけど、タフだぜ?」

「へえ、じゃあインジュは力の塊なんだね。神樹から無限の癒やしを得られるシェラと、なんだか似てるような?」

「ごめんな、あいつの力は教えられねーんだ。ただ、あいつとフロインは、シェラ以上に腐敗の力と反属性なんだ。闇の王退治に必要なのは、戦う力じゃねーからな、インジュの力が安定したら、スフィア、仕掛けるぜ?」

闇の王の腐敗は、風の王の左の片翼、死の翼・インスレイズが、飢えた赤子に同化した結果生まれた魔物だ。

死とは与える力。欲した赤子に力を与えたインスレイズは、赤子の食欲に絶対的な死を与える腐敗を具現化させた。あれは、すべてに死を与える存在だ。

原初の風の力は、受精という生命を作り出す力。死と対である生の力だ。

生とは奪う力。完全なる生であるインジュは、死を与えられず死を奪い取って生へ変換する。闇の王の天敵中の天敵だ。

「いよいよなのね。緊張する」

スフィアは、期待と不安の入り交じった瞳で、どこか助けを求めるようにリティルを見た。

「大丈夫、オレとインファもいるからな。やるのはインジュだ。信じられるだろ?」

スフィアは頷くと、インファと戯れるように逃げ回るインジュに、視線を向けた。

リティルは、スフィアの揺るぎない瞳を、切なげに見つめていた。


 そこは、風の城によく似ていた。真夜中の風の城だった。

レイシは、猫の姿のルキと共にセリアの夢に潜っていた。セリアが錯乱したままなら、彼女と戦わなければならないらしいが、誰もいないかのように静かだった。

「うん?」

『どうかした?』

「うん、誰かいる。オレの知らない誰かだ」

レイシは光の中からレイピアを抜いた。こっちだと、レイシは見知った城の廊下を進んだ。レイシの後に続きながら、リティルがレイシは敏感だと言っていたことを思い出した。なんとなく、レイシをパートナーに選んだが、人選はまちがってなかったかな?とルキはニンマリ笑った。そして、レイシはある部屋の前で立ち止まった。

そこは、雷帝夫妻の寝室だった。

「開けたら雷帝夫妻だったら、オレ、多分立ち直れない」

『全部終わったら記憶消してあげるから、ひと思いに見ちゃいなよ』

変なことに気を使うレイシに、ルキはますますニンマリと笑って急かした。頷いて、息を飲むとレイシは、扉を大きく引き開けた。

………………中は確かに寝室だったが、不思議な光に満たされていた。

床に描かれた模様が光っている。この色とりどりの光は、セリアの力だろうか。かすかに風の力を感じた。

「あんた、誰?」

レイシはズカズカと部屋に入ると、魔方陣の前で立ち止まった。拒まれて攻撃されたら嫌だなと、魔方陣の中へは入らなかった。魔方陣の中には、黒い袋状の長い袖を持つ、丈の長い服を着た、若い男がいた。精霊なのだろうか。頭の天辺に一本角が生えていた。

「わたしは、ディンと言います。セリアという方を、ご存じでしょうか?」

「セリアを知ってるの?どこにいるの?」

レイシの言葉にディンは、視線を床に落としてしまった。

「セリアさんはわたしをここへ閉じ込めて、囮となって行ってしまったのです」

『ああ、セリアはそれでやられたんだね。だから錯乱して、インファに』

ルキは、インファが塞ぎ込む代わりに、寝る間も惜しんで仕事に没頭していることを知っている。だから、たまにはグッスリ眠れるように悪夢を遠ざける幻夢の霧を使って、強制的に眠らせていた。そろそろ、本物の安らぎを目覚めさせてやりたいものだと、しみじみ思った。

「セリアさんは、インファ様に討たれてしまったのですか?なんと言うこと……」

「インファ様?ちょっと待って、あんた兄貴を知ってるの?」

「兄貴?あなたも、リティル様のご子息なのですか?」

「うん、オレ、風の王の第二王子。って言っても養子だけど。ディンって言ったっけ?あんたがいるこの夢、兄貴の奥さんの夢だからね?ちなみに、セリア、無事だから」

兄貴の奥さんの夢?とディンはつぶやいた。そして、茶色の瞳をこれでもかと見開いた。

「インファ様の奥方様なのですか?セリアさん――セリア様は!」

あ、セリア言えなかったんだと、レイシは照れ屋な姉を懐かしく思った。

「あのさ、聞きたいんだけど、あんたなんでここにいるの?」

「申し訳ありません。この事態を引き起こしたのは、わたしなのです。わたしが、時の精霊の甘言に乗ってしまったために、彼等と時を同じくして生まれた精霊達が、道連れになってしまったのです」

レイシとルキは視線を交えた。

『どういうことかな?事と次第によっちゃ、ボクがこの場で引導渡しちゃうよ?』

ルキは紫色の瞳を爛々と輝かせた。

「すべてを語ったあとに、お願いします。それから、今話すことをリティル様に伝えてください。わたしの家系は、代々時魔法を継承しています。わたしもいずれ継承することになっていました。しかし、その力もないのに、わたしは気が焦り禁呪に触れてしまいました。そんな時だったのです。時の精霊達が語りかけてきたのは」

これは、インファの推理が当たったのかな?とルキは思った。時を連想させる力は一度も働いていないが、インファはどこか確信しているようだった。

『時の精霊はね、三人で一つの力を司る特殊な精霊なんだ。面識ない精霊だから、よくわからないけど、別の次元にいて、古参の精霊でも所在を知ってるのは、本当に一部だろうね』

ルキの前世である、幻夢帝は古参の精霊だった。だが、その名は知っているモノの、所在の記憶はない。知っているのは、次元を司る精霊であるナーガニアだけか、初代風の王であるルディルだ。風の王は、すべての世界を行き来する権限を持つ世界の刃。古参である彼も、知っている可能性は高かった。

「はい。彼等は出ることも行くこともできない空間にいます。わたしは、わたしの意識は窓として使われました」

『乗っ取られたんだね。君はグロウタースの民だよね?体は今奴らの好きにされてるのかな?』

時の精霊は、どの世界にも干渉できない場所にいる。今まで、精霊が関わっていることがわかっていても、何の力も感じられなかったのはその為だ。ああ、インファはそこに目をつけたのかと、ルキは思った。ここまで大がかりな事態を引き起こしているのに、力の正体が一向に掴めない。それは、干渉できない精霊が行っているからだと、インファは考えたのだろう。干渉できないのに、どうやって世界に影響を?インファはそれをずっと悩んでいた。その答えが、どうやらこのディンらしい。

時の精霊は、グロウタースにいるディンを解して、神樹で繋がるイシュラースに攻撃を仕掛けていたのだ。とすると、一番初めに掌握されたのはナーガニア?

「ここにいるわたし、理性だけを逃がしましたから、かなり危険な人物として楽園にいることでしょう」

「楽園だって?楽園って、今、父さん達がいるんじゃ?」

『そうだね、リティルとノイン、それと煌めきコンビが行ってるね』

「ノイン様も行っているのですか?でしたら、もう断罪は済んでいるかもしれませんね。リティル様はこんなわたしのことも、救ってくれようとしてくれましたが、ノイン様が知れば、捨て置けないでしょうから」

他人事のようにディンは言った。どうやら彼に、覚悟はできているらしい。それにしても、インファだけではなく、リティルとノインとも知り合いとは、もし本当にディンを斬らなければならなくなったとしたら時の精霊、ただじゃおかないと、ルキの心の中は怒りが渦巻いていた。ルディルは、リティルに肩入れしすぎだと忠告してくるが、構うものか!

烈風鳥王と呼ばれるまでになったとしても、リティルの優しさは変わらない。

リティルが自分を傷つけてまで優しいのは、彼を風の王として生かす為に守ってくれた人が、望まない生き方をして、そしてそのまま死んでしまったからだ。

それはトラウマだ。リティルの優しさは、彼の心が病んでいるが故だ。

ルキは優しいリティルが好きだ。そして、歪んでいることを自覚していて、それを貫き通そうとしているリティルの強さを、助けたかった。

「オレ冷たくできてるから、同情はしないけどさ、どうやって心の一部をセリアの夢に逃がしたの?」

心を切り離すなんて、よくそんな怖いことできたねと、レイシは身震いした。それは、精神を壊すということだ。元に戻れる保証なんて、どこにもない。この事態が自分のせいだとしても、すんなりできることではない。オレならできないと、レイシはディンの思いっきりの良さに感心していた。

「時の精霊と時を同じくして生まれた精霊達の精神は、互いに繋がっているのです。それも、彼等の謀でした。彼等は自由を得られない己の存在を呪っています。そして、入り込みやすい精神を待っていたのです」

「それが、あんただったんだ」

ディンは頷いた。

「わたしは逃げ出して、古参の精霊達の精神を転々としました。そして、セリアさんにたどり着いたのです。セリアさんは、わたしを追い出そうとはせず、話を聞いて守ってくれようとしました」

それなのにと、言ってディンは悔しそうだった。

「敵がいるってこと?」

「はい。時の精霊が、古参の精霊達をいいように操るために放った、寄生型の精霊です。それぞれ、時の精霊達、グロウ、ソラ、ミリオネに似た姿でいます」

「セリアは、彼等にやられたって?」

「おそらく。古参の精霊達のことを知り尽くしていて、攻撃も防御もできないとセリアさんが言っていました。この魔方陣は、特殊だから大丈夫とも」

「うん。兄貴の霊力がガッチリ混ぜてあるよ。ということは、オレとルキならなんとかなりそうだね。ディン、このままここにいる?それとも、オレ達とくる?」

「わたしは未熟なので、お役には立てないと思いますが、セリアさんをお助けしたいです」

ルキは、レイシがディンを連れ出そうとするとは思わなかった。放って行くと思っていた。

「セリアが守ろうとした人なら、どんな極悪人でも守るよ。姉さんを悲しませたくないからさ」

レイシは、まるでルキの心の声が聞こえたかのように、説明するように言った。

「ありがとうございます。あの、差し支えなければ、あなた方の名前をお教えいただけないでしょうか?」

「レイシ。敬称いらないから。オレ、混血精霊だし。こっちはルキ。彼は幻夢帝だよ」

「わかりました。レイシさん、幻夢帝、よろしくお願いします」

ディンは深々と頭を下げた。調子が狂うほど腰の低い男だ。それに、リティルにからくりを伝えようとして、精神を切り離してもいる。こんな人が、本当に過ちを犯してしまったのか?とレイシは疑問に思った。

『レイシ、何か感じる?』

「うん、たぶん。でも、なんか兄貴っぽい。敵かな?」

「インファ様に会ったら逃げてください。無敵です」

「あー、セリアが作っちゃったのかな?あの人、どこまで可愛いのかな?」

『夢の産物なら、ボクの敵じゃないね。あのインファを蹂躙できるなんてね。アハハハ!ゾクゾクする』

「ルキ、偽物でも兄貴を辱めないでよ?オレ、キレるよ?」

幻夢帝に対してもこの態度、なかなか楽しい男だなと、ルキはレイシを好ましく思った。媚びられるのも、恐れられるのも退屈だ。ルキは、覚醒前の軟弱なレイシを知っている。それがどう変わったのか、見てみたかった。そして、レイシは期待を裏切らなかった。ヤルならやっていいよ?と言いたげな態度が、荒廃的で、ただのいい子ちゃんより頼もしい。

『君、いい性格してるね。わかったよ。サクッと行くから任せてよね』

「よし、とりあえず、兄貴を無力化ね!」

レイシは魔水晶の笛を取り出して、扉を開いた。そして、廊下の様子をうかがう。近くではないが、インファらしい気配を感じた。レイシは廊下に滑り出ると、二人に合図して歩き始めた。

 レイシは、後をついてくるディンに興味が湧いていた。

セリアはほだされやすいが、幻惑の暗殺者なだけに敵味方は瞬時に見抜く。セリアの魔方陣に守られていたということは、味方なのだろうなと思った。しかし、インファと引き離される原因を作ったこの男に、少しも怒りを感じなかったのだろうか。

「ディン、セリアに怒られなかった?」

「怒られました。好きな人の為といっても、やっていいことと悪いことがあると言われました。その通りです。意地を張らずに、リティル様を頼ればよかったのです」

レイシの意図しないことを返されたが、その説教の仕方がセリアらしいなと、照れ屋な姉を思い出して、思わずニヤリと笑ってしまった。

「へえ、好きな人の為に道踏み外したんだ?」

「はい、その通りです。頼ってほしかったのです。わたしがどんなに努力しても得られないモノを、リティル様が持っていることに、嫉妬してしまいました」

未熟だったと、ディンは言った。

「たしかに、父さんに嫉妬とかないね。それだけの道歩いてきてるから、勝ち目なんてないよ。父さんを頼ってるその子は、全うだよ」

『そうでもないね。その子って、スフィアだよね?ほら、インジュの恋人の』

はあ?誰の恋人?レイシとディンの反応は、奇しくも同じだった。

「あのさ、聞き間違い?インジュって言った?待ってよ待ってよ。相手グロウタースの民だよね?インジュってあれでも精霊だよね?」

『どこからどう見ても精霊だね』

「あいつ!外に出た途端、それ?父さんも兄貴も、あいつに甘くない?」

「いいえ。厳しいと思いますよ。リティル様も、インファ様も」

「どこが!」

「心が繋がってしまう前に引き離した方が、優しいですよ。インジュさんもスフィアも愚かではありません。わかっていて、惹かれあってしまったのなら尚更。お聞きしてもいいですか?インジュさんは、スフィアを救えますか?」

ルキは人型を取ると、頭に血が上ったレイシにしゃべるなと手を軽く上げて制すると、紫色の瞳をディンに向けた。

「リティルはそう信じてるね。リティルが信じるなら、インジュ、やると思うよ?ボク、君のこと守ってあげるよ。インジュが楽園を去った後、スフィアのそばにいる人が必要だからね」

ルキは、リティルがスフィアを大事にしていることを知っている。このディンという男、そのスフィアの為に必要な存在かもしれないことを感じ、ルキは、リティルの為に守ってやろうと瞬時に決めた。

 ルキの判断基準は、リティルにとって有益かどうかだった。

盲信と言われても構わない。永遠の中にあって、永遠ではない風の精霊を守るには、それくらいしなければならないと、ルキは感じていた。特にリティルは、極力命を奪わない選択をしようとする。他者の心と関われば関わるほど、心は疲弊し傷つくというのに。

今回のこと、ディンに怒りがないわけではない。むしろ、リティルを今も追い詰めている彼に、憎しみすら湧く。それでも、リティルの心を守る為に必要ならばと、ルキは爪を引っ込めたにすぎない。

「わたしでは、役不足です。ずっとそばにいたのに、スフィアを、振り向かせることができなかったのですから」

「フフフ、君はまだ生きてないよ?もう終わるつもりかな?まあ、いいや、行こうか。レイシ、君の相手がインリーでよかったね」

「それ嫌み?はいはいそうだね!インジュ、帰ってきたらまた二十年くらい引き籠もるんだよね!今度はオレが許さないよ」

あいつ、応接間にも出てこないんだ!と言って、フンッと怒りを露わに、レイシは廊下を一人歩き始めてしまった。ルキは猫の姿に化身すると、ニンマリ笑った。

なんだ、レイシはインジュのこと嫌いじゃないんだと、ルキは思ってしまった。

「レイシさんは、インジュさんのことを心配しているのですか?」

『彼、素直じゃないから、どうなんだろうねぇ?君は、インジュのことも知ってたんだね』

ディンはレイシを追って歩き始めながら、足下を歩くルキを見下ろした。

「はい。とても優しい精霊です。わたしは彼のこと、好きですよ?」

そう言って、ディンは穏やかに笑った。ディンの憧れる、インファの息子。リティルとインファを足して二で割ったかのような精霊だと、ディンはインジュにそんな想いを抱いていた。なぜか力を使う事を恐れて迷っていたが、リティルは導けただろうか。

『本当の君は、インジュを殺したいほど、憎んでいたりしないのかな?』

「さあ?ここにいるわたしは、わたしの一部でしかないのでなんとも。けれども、そんな激情があるとしたら、わたしも、戦っていけそうです」

ディンはどこか晴れやかに前を向いた。


 風の城の応接間のシャンデリアが、あんなに暗く灯る姿を、セリアは見たことがなかった。

セリアは、膝を抱えて座るか、立つかしかできない狭い空間に囚われていた。いや、囚われているというより、守られていると言った方がいいだろう。たぶん、この狭い空間を作ってくれているのは、シェラだからだ。

 セリアは、白くボンヤリ輝くガラスの筒の中から、この応接間を自由に歩き回る得体の知れない者達を睨んだ。いったい、あれからどれくらいの時が経ったのだろうか。あの得たいのしれない三人に捕まって、意識が混濁して――気がついたらこの筒の中にいた。

ディン――インファの力を使って、魔方陣を描いて閉じ込めてきたが、セリアもこんな状態では助けに行けない。インファが持っていてくれと言ってくれた霊力が、本当に役に立った。見越していたわけではないのだろうが、頼れる夫に感謝しかない。

無事だろうか。この事態を引き起こしたのは、自分だと告白してくれた、強い意識。とても、甘言に乗るような、隙のある心には思えなかった。自分は心の一部だと言っていたところを見ると、様々な心が合わさって、ディンという人ができていることになる。今ここにいたディンは、ディンであって、ディンではないということになるのかな?とセリアは考えていた。本当の彼は、どんな人なのだろうか。

 そんなことを真剣に考えていると、ドンッと音がして突如壁がぶち抜かれた。

「うっわ!兄貴ごめん!か、加減効かなくて」

もうもうと立つ砂煙の中、得体の知れない三人に奪われてしまったインファが、転がり込んでくるのが見えた。セリアはいきなりのことに、ヒッ!と小さく悲鳴を上げた。

『なに謝ってるのさ?これで!いいの!さ!』

床に転がったインファに、黒い塊が襲いかかった。セリアは、思わず立ち上がってガラスの筒に手をついて目を凝らしていた。

あれは、ルキ様?

ルキがインファの上から退くと、彼は大人しくなっていた。夢の中の産物であるインファの洗脳を解いたようだ。インファを作ってみたはいいが、得体の知れないモノにあっけなく洗脳されて、襲いかかってきて本当に困った。

「ルキ様!」

セリアはガラスの筒を叩きながら、幻夢帝に呼びかけた。

「あ、セリア」

壁の穴から、レイシとディンが出てくるのが見えた。セリアは見知った者の姿にホッとしたが、ハッと気がついた。あの三人がいない!

「みんな気をつけて!敵が三人いるの!」

レイシはどこか飄々と、応接間に無防備に足を踏み入れた。

「大丈夫。もう、きっちり補足してるからさ!」

レイシは何もない空間に向かい、レイピアで鋭い突きを見舞っていた。

「まずは、一体」

レイピアに貫かれて、少女の影のようなそれは崩れて消えていった。

「ディン!右!」

「ファラミュール!」

レイシの声に鋭く反応したディンは、憶測だけで炎の玉を放っていた。炎の玉は壁に当たり、あたりが赤い光に照らされると、立ち尽くす少年の影が姿を現した。その影を間髪入れずに切り裂いたのは、インファだった。

「兄貴!セリアの後ろ!」

レイシは笛を鋭く吹いた。七つの色の小さな妖精達が現れ、その中の一匹である赤い色をした透明な妖精が天井へ走った。途端にシャンデリアが明るく輝いた。その光に照らされて部屋が昼間の明るさに包まれた。セリアの囚われたガラスの筒の後ろに、老人のような影が立っていた。その影に向かい、インファが走る。結果は、もう見なくてもわかった。インファの槍を受けて、影は崩れ去っていた。

『これで終わり?』

「ちょっと、待って…………うん、終わり」

レイシはあたりの気配を探り、もう何の気配もないことを確かめた。

「レイシ、ルキ様!どうしてここに?」

警戒を解いた三人は、やっとセリアの周りに集まった。

『ボクはずっと、君たちの夢を監視してたのさ。それで、一番攻略が簡単そうな君を選んだわけ。君はさ、最後まで微妙に意識があったみたいだし、何とかなるかなぁってね』

セリアは、ありがとうございますとルキに礼を言って、嬉しそうに笑った。

「ディン!無事でよかったわ。体に戻れそう?」

「どうでしょう?わたしの体はすでに、リティル様に断罪されている可能性があります」

「そんなことないわ!きっと、リティル様ならわかってくれるわ」

『だとしても、急いだ方が良さそうだね。セリア、ディンに体、作れる?』

「はい。でも、わたし、このままじゃ……」

「うん、ここから出たら母さんに起こしてもらうよ。待っててよ」

「わかったわ、待ってる。レイシ、ありがとう」

どういたしましてと、レイシは鋭い瞳にフッと笑みを浮かべた。


 楽園の夜は、静かだった。スフィアも、いつものようにグッスリと寝入っていた。

そんな彼女の部屋の扉の鍵が、ゆっくりと解除された。闇に紛れて部屋に滑り込んできたのは、ディンだった。

ディンは迷いない足取りで、眠っているスフィアのベッドの脇に立った。

――……

スフィアは何か、声のような音のようなモノを聞いた気がして、目を覚ました。

「あっ!ああ!な、にするの?ディン!」

体が動かない。スフィアは左目を見開いた。存在を犯されるような不快な感覚に、心も体も恐怖して、ディンのかけているらしい魔法を拒絶していた。

「闇の王の核となる前まで、あなたの時を戻します。そうすれば、あなたは、闇の王にもう怯えなくてすむ!」

「なん、です、て?」

それはつまり、今までの時間を、なかったことにするということ?今まで生きてきた時間を、無にするということ?

スフィアは嫌だ!と叫びたかった。走馬灯のように、ニーナやディコ、リティル達の顔が浮かんだ。

嫌だ嫌だ嫌だ!スフィアの心は悲鳴を上げていた。

今までの、苦しみも、悲しみも、喜びもすべて、失いたくなかった。風の皆がくれた優しさ、暖かな心の数々。

そして、初めて知った切なさ!

「インジュ!」

スフィアはその名を叫んでいた。

「はい。ここにいますよ?スフィア」

ディンは後ろから腕を掴まれていた。そして、容赦なく引き剥がされて突き倒されていた。体を打った痛みに呻いて顔を上げると、影になったその顔でも、どこに瞳があるのかわかるくらい鋭く視線に射貫かれていた。

「インジュ……!」

スフィアはガバッと体を起こすと、庇うように背を向けたインジュの腕にしがみついた。

「廊下に、リティルもいます。大丈夫です」

インジュの息が上がっていた。シェラの戒めが、彼を蝕んでいるのだと、スフィアは感じた。思わず殺気が芽生えてしまうほど、インジュが怒ってくれているのだと、スフィアにはわかった。

「ディン、どうしてですか?どうして、スフィアまで苦しめるんですか?あなたは、スフィアが好きだって言ったじゃないですか!」

「そうですよ。だから、わたしにある力で、スフィアを救うのです!」

「それは、望まない力の使い方です。ディン、あなたはボクに、誰かの為に力を使うなら、相手の望むように使わなければ意味がないって、そう教えてくれたじゃないですか!そのあなたは、どこに行ったんですか?」

インジュの言葉に、ディンは笑い出した。

「いないですよ?彼ならもうね」

「あなたは、誰なんですか?」

「誰?ディンですよ。知っているでしょう?」

ディンは立ち上がると、挑発するように笑っていた。

「待って!インジュ!」

スフィアは咄嗟にインジュの頭の上を飛び越えて、ディンと彼の間に立った。

「そこを、退いてください!」

「そんな目で、何をしようとしてるの?そんな目で、あたしを救うつもりなの?」

インジュの目には、スフィアがディンを庇っているように見えた。

「どうしてですか?どうして、そんな人を、庇うんですか!ボクは、スフィアを――」

「あたしが何?あたしの為だって言うの?そんな目で、ノインを傷つけたかぎ爪で、今度はディンを餌食にするの?」

「スフィア!」

インジュは顔を歪ませ、掻き毟るように自分の胸を強く掴んだ。荒い息遣いに、今にも倒れそうだというのに、彼の瞳は爛々と輝いていた。スフィアは、インジュの怒りをまともに受けて、もう、立っているのもやっとだった。もの凄い威圧感だった。これが、煌帝・インジュの本当の姿なのだと思った。けれども、負けるわけにはいかなかった。スフィアはインジュを静かに睨んでいた。

「ディン、行けよ。今すぐオレの前から消えろ」

廊下にいたリティルは、ゆっくり部屋に入ると、スフィアに庇われているディンに静かに声をかけた。ディンは何も言わず、リティルを一瞥もせずにさっさと部屋を出て行った。

スフィアはリティルに肩を抱かれ、やっと安堵した。もう、足が言うことを聞かない。

「リティル!どうしてですか?もう、握りつぶしたって、いいじゃないですか!」

シェラの戒めにここまで対抗できるのか?と、リティルはインジュの精神力に感心していた。今まで眠っていた分を取り戻すかのように、目覚めたインジュは急成長を遂げていた。しかし、力に心が追いついていっていなかった。具現化したばかりのフロイン、未熟だったころのインファにその姿が重なるようだった。

「驕るな。こんな安い挑発で、命を奪っていいわけねーだろ?おまえ、スフィアの声が聞こえてねーのかよ?」

「何、を」

「スフィアが守ったのは、おまえだよ。そんな濁った心でディンを殺したら、おまえ、立ち直れねーだろ?あいつの目的は、おまえなんだよ、インジュ」

「な、に――」

インジュは荒く息を吐きながら、その場に頽れた。

「ディンは、スフィアの心を奪ったおまえを、殺してーんだよ。インジュ、おまえは綺麗だ。だからな、覚えておいてくれよ。心は、綺麗なだけじゃねーんだ。暗く淀んだ心もある。オレの中にもあるんだ。薄汚い穢れた感情がな」

「リティルが?そんな――」

「嘘だと思うのかよ?そんなことねーんだよ。オレだって、殺してやりたいって思うことがある。そんな時は、シェラを思い浮かべるんだ。あいつに恥じない自分でいようってな。オレ達風は命を簡単に奪える。だからこそ、見誤れねーんだよ。誤るな、インジュ。ディンに手を下すのは今じゃねーよ」

「でも、おじさま、あたし、身の危険感じたわよ?」

ジロリと、スフィアは未だに肩を抱いてくれているリティルを睨んだ。寝込みを襲われて、本当に怖かった。もっとちゃんと守ってよと、スフィアは断固抗議した。

「ちゃんと監視してるぜ?インジュのヤツ、行けって言ってるのに、尻込みしたんだよ!」

リティルはしょうがないヤツだと言いたげに、呆れた視線をインジュに送った。

もう少し遅かったら、オレが行ってたよと、ため息交じりに笑った。

「や、あ、あの、ちゃんと行ったじゃないですか!」

「酷い!すごく、怖かったんだからね!」

スフィアに泣かれて、インジュはアワアワと焦った。

「す、すみません。オウギワシが騒いで、自信なかったんです!」

駆け寄ってきたインジュとは反対に、リティルはスフィアから手を放すと、数歩さりげなく後ろに下がった。泣きながらへたり込んだスフィアにどう触れていいのかわからない様子だったが、インジュは彼女の前に膝を折り、一生懸命慰めようとしていた。

リティルはそっと二人から離れると部屋を出た。

「二人とも、今夜は特別だからな?」

そうつぶやくと、リティルは扉を閉めた。

 泣いてしまったスフィアを、インジュはどうしていいのかわからないまま、そっと抱きしめた。インファにそうしてもらったとき、心が落ち着いたことを思い出したからだった。

「泣かないでください。臆病ですみません」

「インジュ……忘れなくて、よかった……」

スフィアはインジュに体重を預け、安堵したようにつぶやいた。

「ボクを忘れることが、怖かったんですか?」

「そうよ?他に何があるの?」

スフィアは顔を上げると、インジュを見た。

「あの、それ、凄く嬉しいんですけど」

「あたしは、インジュが怒ってくれて嬉しかったわ」

二人は、どちらともなく瞳を細めると、そっと口づけした。一度離れた唇を名残惜しそうに見つめて、二人は互いを求め合うように、何度も何度も口づけを交わした。


 リティルは部屋を監視できる中庭に立っていた。部屋の向こう側、窓から出られてもわかるように、監視のミミズクも放っていた。ディンは大人しく部屋に戻ったようだ。そちらの窓側にも飛ばしていたミミズクも、動いていない。

リティルは、様々な鳥達を同時に操ることができる。それが、鳥王と呼ばれる所以だった。

湿り気を帯びた夜の空気に、薬草の独特な花の香りが溶けていた。

リティルは水晶球が輝くのを感じて、風を手の平に集めた。

『リティル、こんばんは。いい夜だね』

「ああ、ルキ。セリアの夢、どうだったんだよ?楽しかったか?」

『フフン、楽しかったよ?ちょっとした拾いモノもしたしね。そっちに、ディンって男いるよね?もう殺しちゃったかな?』

ディン?なぜルキが彼を知ってるのだろうかと、リティルは訝しがった。しかも、断罪対象であることを、なぜ知っているのだろうか。

「いや。まだ不確定だからな」

『そうなのね!よかった……』

ヒョイッと現れた彼女に、リティルは驚いて思わず水晶球を落としていた。

『きゃっ!リティル様?リティル様!敵?敵がいるの?』

リティルは慌てて水晶球を拾い上げると、ピンク色の髪の精霊の顔をマジマジと見た。

「…………本物だよな?」

『本物ですぅ!おはようございます!ちょっと、寝過ぎちゃったわね』

テヘッとセリアはイタズラっぽく笑うと、肩をすくめた。

『リティル様、ディンを殺さないでほしいの。そこにいるディンは、ディンであってディンじゃないの。時の精霊に精神を攻撃されて、心の一部を失ってる状態にあるわ。わたしの夢に、ディンの理性を匿っていて、今一緒にいるわ』

「はは、早まらなくてよかったぜ。ディン、いるのか?」

おずおずと、お化けの猫のぬいぐるみが顔を覗かせた。

『リティル様、お久しぶりです。申し訳ありません、大変なことをしでかしてしまいました』

それを聞いて、リティルは安堵のため息をついた。

ああ、ディンだ。オレの知ってるディンだと、そう思ったのだ。

「まったくだぜ。おまえ、しでかしたことを聞いたら、きっと、死にたくなるぜ?」

『そうですか。やはり酷いことになっているのですね』

「まあな。ディン、罰は受けてもらうぜ?」

『それでいいのでしょうか?』

「たぶんな。おまえを体に戻して、どんな態度を取るかによるけどな。オレの知ってるおまえなら、どんな罰が一番堪えるのかわかってるからな。覚悟しとけよ?」

『わかりました』

『あの、リティル様、インジュのことで変なこと聞いたの。それ、本当?』

「ん?ああ、そのことか。インジュのことは旦那に聞けよ。セリア、許可してやるから今からこっちに来いよ。インファに迎えに行かせてやるから」

「それには及びませんよ」

バサッと雄々しい羽音がして、リティルの背後にインファが舞い降りた。水晶球の中で、セリアの瞳が見開かれるのをリティルは見た。

インファは次元の刃を抜くと、軽く振るった。水晶球の中のセリアがリティルから顔をそらす。

「インファ!」

リティルの背後で、セリアの肉声が聞こえた。リティルは振り返らずに、ごゆっくりと微笑むと、静かに飛び立った。

「で?他に報告あるか?」

『うん、あのね――』

リティルは飛びながら、再び城の面々との会話を再開した。

 インファの開いたゲートを通って、セリアは走り出ると真っ直ぐにインファの胸に飛び込んでいた。そして、その大きな胸に顔を埋める。力強い腕が背を包み、ずっとほしかったぬくもりと香りがセリアを包んだ。

「顔を、見せてくれないんですか?」

そう言われて、セリアは慌てて顔を上げた。僅かに見下ろしていた金色の暖かな瞳と、視線が交わった。

「セリア、さすがに取り繕えませんよ」

セリアの意志の強そうな瞳を見返して、インファは、憎しみのこもった瞳で射貫かれた記憶が、上書きされるのを感じた。避けられても、逃げられてもいい。オレのことを好きだと言って、こうやって腕の中に帰ってきてくれると、インファは信じている。だが、あの瞳には心がえぐられた。あんな瞳で見つめる者のもとへは、もう何をしても戻ってきてくれない。セリアが抗ってくれなければ、心を殺されていた。

「イ、インファ、いやだ、な、泣かないで!」

インファの涙を初めて見て、セリアは動揺した。哀しい顔はしても、決して泣かない人だった。あのインファが、たかがわたしが昏睡状態になっただけで?セリアは慌てて、とにかく彼の涙を止めようと、指で涙を拭った。インファは頬に触れてきたセリアの手を掴んだ。ギュッと強く掴まれて、手が痛い。でも、離さないでほしいと思ってしまう。

「無理です。止まりませんよ」

のしかかるように、インファはセリアを再び抱きしめた。

「インファ、そんなにあなたに想われて、わたし……光栄だわ」

その抱擁が、存在を確かめるようで切なくなる。セリアの緑と青の瞳からも、涙があふれていた。再び見つめ合った二人は、やっと微笑んで、口づけを交わした。

 その後、落ち着いたインファから、インジュのことを聞いたセリアは、ひっくり返りそうなくらい驚いたのだった。そして、今すぐリティルに謝罪すると言って聞かない妻を、インファは苦笑交じりに宥めたのだった。


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