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三章 暴走

 ゾナと決裂してしまったスフィアは、楽園の花畑にきていた。今日も空は澄んでいて、高く高くどこまでも真っ青だった。

「すみません……ボクが一緒にいて、リティルがいなくて」

「いいって言ってるの!あなた、どうしてそんなに弱腰なの?」

「すみません……」

「だから!もう、いいわ」

どこまでもオドオドしているインジュに、スフィアはプッと吹き出すと笑った。

「おじさまがあなたを置いていったんですもの、きっと、あたしに対してもいいことなんだわ」

『わたしもいるわ』

花びらを美しく巻き上げながら、フロインが女神の微笑みで舞い降りてきた。

「あなた、しゃべれたのね」

「やめてくださいって、言っているんですけどね……」

「あら、どうしてよ?意思の疎通ができていいのに」

「しゃべり方が問題なんですよ」

「しゃべり方?」

「風の王妃と、ソックリなんです……フロイン、リティルも戸惑ってましたよ?やめましょう?」

『シェラ以外、誰の模倣をすればいいかしら?』

「模倣はやめましょう?」

『インジュも、インファの模倣をしているわ?』

「ボクは違いますよ!あの人の模倣など、できるわけないじゃないですか!もおお!勘弁してください」

そんな二人のやりとりを見て、スフィアは思わず笑ってしまった。

「アハハハ。ご、ごめん。ねえ、インジュ、フロインとノインって何かあるの?」

「はい?な、何もないですよ?どうしてですか?」

「あるんだ?インジュ、隠すの下手すぎ!」

スフィアはまた楽しそうに笑った。

「……あなたの持っている首飾りと同じものを、ノインも持っているんです。これ以上はもう、ボク言いませんよ!」

「へえ、お揃いなんだ。なんだか嬉しい。でも、なんで照れるの?」

『わたしは、ノインの返事待ちなの』

「返事?」

「わああああ!フロイン、いけません!薄々わかってるでしょう?ノインに、そんな気ないですよ!」

『けれども、今でもわたしの羽根を持ってくれているわ?』

「どこまでわかって言っているんですか?あなたは!そのしゃべり方やめてください!リティルもリティルですよ……散々焚き付けるようなこと言って……」

「ああ、あれは牽制だと思うわ。先生も、どういうつもりだったのかな?フロインを気にしてたもの」

「ゾナがですか?嘘ですよね?」

『わたしはノインを選んでいるわ』

「だから!そういうことを言わないでください!ノインが何か被害に遭ったらどうするんですか?あなたはそれでなくても、有象無象惹きつけてしまうんですから」

「先生もその口かな?先生、人じゃないし」

「だと、いいんですけどね。とにかく、本当にやめてください。ノインに迷惑かけないでください」

「インジュ、ノインのことは好きなのね。インファ様は苦手なのに」

「うう……ボクは、ずっと籠の鳥だったんです。鳥かごにいたのは、フロインじゃないんです。ボクなんです」

インジュは座り込んだまま、高い高い空を見上げた。そして、取り留めなくぎこちなく、話し始めた。

「ボクも、皆と一緒に飛びたいですよ。けれども、怖いんです。フロインのように、リティルのために具現化したフロインのように、揺るがない意思を持てないんです。ボクはたぶん、道を誤ると世界を滅ぼしてしまいます。ボクの力はたぶん、そういう力なんです」

「とても、そんな力あるように見えないのにね」

スフィアの隠さない言葉に、インジュは力なく微笑んだ。

「副官として城を切り盛りしているお父さんには、気持ちをとても打ち明けられませんでした。ボクの気持ちに気がついてくれたのは、ノインだったんです」

『リティルは遠くて、インファは近寄りがたくて、ノインは歩み寄ってくれたのよ。インジュを救ってくれたから、わたしはあの人が好きよ』

「フロイン、それは、純粋な感情じゃないですよ?ボクやリティル、レイシの感情を通して見るのはもうやめてください。ノインに失礼です」

ピシャリと言われて、フロインはすねたようにフイッとそっぽを向いてしまった。

「フロインにはキチンと言えるのね」

「こんな幼い人、野放しにできないじゃないですか!正直、ノインが引き取ってくれたら安心なんですけどね……」

インジュはハアとため息をついた。フロインのまき散らす、魅了の色香をものともしない洗練された精神力の彼なら、フロインの力を制御できるだろう。だが、補佐官として城の皆の間に立つノインは、リティル、インファと並んで多忙だ。こんなお荷物、背負ってくれなどとは言えなかった。

「ねえ、インジュ、あなたの力ってどんな力なの?煌帝って聞いてもピンとこなくて」

「でしょうね。ボクは、名で力を理解されないように、そう名乗っているんです」

「どうして?」

「それだけ、危険だからです。ボクは、どう生きればいいんでしょうか……臆病なままで使える魔法って、どんなものなんでしょうか?」

「防御系かな?怖いなら、インジュは攻撃しちゃいけないと思う。相手を傷つけることは、自分も傷つく覚悟をしないといけないから。インジュにはできるとは思えないわ。あとは、回復系?傷を癒やしたり、状態異常を治したり、そういうのは?」

「治癒は操れますよ。あとは、こんな魔法くらいです」

インジュはそういうと、足下をキョロキョロとした。そして、まだ幼い若葉を見つけて手をかざした。

若葉は見る間に成長して、花を咲き誇らせると種を残して枯れてしまった。

「時間を操ったの?」

「いいえ?種を残せるように力を送っただけです。種を残すには、多くの力がいりますから、力添えしたんです。ボクの能力の基本です」

「へえ、あたしの理解力じゃ、あなたの力がなんなのか見当もつかないわ」

「それでいいんです。スフィア、防御系って、具体的にはどうすればいいんですか?」

「攻撃系と組んで、攻撃系が傷を負わないように守るの。物理攻撃を弾く盾とか、魔法を防いだりとかそういうの。フロインと組むなら、そういう方向でもありじゃない?」

フロインと組むならと言ったのは、インジュとフロインが度々二人で楽園を訪れていたからだった。精霊なのに精霊っぽくないインジュと、魔法の話はしたことなかったなと、スフィアは今更ながら思った。そして、ゾナといられないことが悔しく思った。ゾナなら、インジュを正しく導けると、そう思うからだ。

リティルと決裂してしまい、ゾナとディコはこちらを避けるようになってしまっていた。

盾……とつぶやいて、インジュは一人の世界に入ってしまった。

 そんな悩める精霊をスフィアと見守っていたフロインはふと、空を見上げた。どうしたのかとスフィアが顔を上げると、フロインはおもむろに歌い始めていた。

──心に 風を 魂に 歌を 君といられるなら 怖いモノなど 何もない

──花の香りが この身を包む 叫べ 風に攫われぬうちに

──痛みと 涙が 君を曇らせても 歌え この旋律を 心のままに……──

楽しそうに歌う、フロインの声に合わせるように吹いた風が、色とりどりの花びらを巻き上げて踊る。その風に合わせ、フロインは控えめに体でリズムを取った。

──君が守ると言ってくれるから わたしは隣で生きよう

──たとえ 辛くとも

──たとえ 輝きを失っても

──たとえ 疲れ果てても

──心に 風を 魂に 歌を 不可能じゃない 繋いだ手を 放さずにいこう

──願いの果て 君の微笑みに 会えたのだから

──わたしは この風の中 生きていける……──

「風の奏でる歌って、ラブソングなの?」

スフィアは、フロインの歌に耳を傾けながら、ゆったりと体でリズムを取った。

「そう聞こえるんなら、そうなんですよ。スフィア、あなたは恋をしたことって、ありますか?」

「ないわね」

スッパリと言い切られて、インジュは苦笑した。

「ディンは?」

「ディン?ないない!だって、兄弟の子供なのよ?生まれたときから知ってるし」

「そうなんですか?すみません。ディンには違うみたいなんで、気になったんです」

「長命種だと、二百歳くらいの年の差全然ありだものね。でも、ディンはあたし的にはないのよね。精霊も、年月は関係ないわよね?」

「そうですね。ボクの両親も、言ってみたらもの凄い年の差婚ですしね」

「インファ様とお妃様、どっちが年上なの?」

「母です。母は古参の精霊で、精霊史が始まったころから生きている精霊ですから」

「へえ、途方もないのね。どっちが口説いたの?」

「ええ?紆余曲折あったと聞いていますけど……本当にこういう話、好きですね」

インジュはうちの両親は、リティルに命じられての政略結婚だとは、彼女の夢を打ち砕いてしまいそうで、とても言えなかった。

「だって、楽しいじゃない。結ばれるってわかってるなら尚更」

そう言って、スフィアは本当に楽しそうに笑っていた。

可愛いなと、インジュは唐突に思った。そして、慌ててその思いを打ち消した。これはあれだ!フロインの歌った風の奏でる歌のせいだと、そう思い込もうとした。

フロインの歌には、恋心を応援する力がある。尻込みする心に勇気を与え、告白を促す。始まらなければ、命は生まれないわけで、フロインの歌に宿る力は、恋愛成就だ。

――インジュは無いものを作り出すことができると思うわ

不意に、シェラの声が蘇ってきた。インジュは、小さく息を飲むと、意を決したように言った。これくらいの気持ちは、たぶん許されるのではないか?インジュは初めて自分の力を使おうと思った。

「スフィア、あの、右目、ほしいですか?」

「え?そりゃあ、ね。慣れたけど、やっぱりないことを隠さないといけないのは、苦痛よ」

「ボクの力なら、右目を作れるかもしれません。ボクの今の理解力では、無理ですけど、もし、スフィアが待ってくれるならボクは、頑張ろうと思います」

「インジュ……ありがとう。期待しないで待ってるわ!」

「はい!がんばりますよ、ボク」

真面目に拳を握るインジュに、スフィアは微笑むと、こちらも意を決したように、ゆっくりと、髪を掻き上げた。

スフィアのこの素顔を見た者は皆、必ず一瞬息を飲み、驚く。スフィアに右目がないことを聞いて知っていても、皆驚く。

インジュも同じ反応だと思っていた。オドオドと怖がりなインジュは、きっと臆すると思っていた。

「うーん、瞳があるとすると、このあたりでしょうか?」

インジュは、忘れ去られたかのように何もない、スフィアの右半分の顔を、マジマジと見つめて、真面目に思案していた。

「驚かないの?」

スフィアの右目は、瞳がないとかそんなレベルではない。まぶたも、瞳が収まる穴さえもなく、本当にないのだ。それはやはり、異様だった。スフィア自身もそう思っていた。

「はい?ないことを知っているのに、どうして驚くんですか?うーん、ここまで何もないと、目の構造を知らないと、無理ですね……スフィア、図書室に人体の本ありますよね?調べたいんですけど、付き合ってくれますか?」

「インジュのくせに……」

「はい?はっ!すみません、女性の顔をジロジロと!」

インジュは慌てて、瞳をそらすと謝り倒した。そんなインジュに吹き出して、スフィアは右目を髪の毛でもとのように隠すと、笑った。

いけない。インジュ相手に、ちょっとときめいてしまった。

「インジュ、あなたは、ないの?誰かを好きになったこと」

「ありません。ずっと、閉じこもっていましたから。家族以外で異性と話す機会は、ここでくらいですし」

「あたしくらい?」

「そうですね。面と向かってというと、スフィアくらいです。ボクはまだ、生まれてから二十年しか生きていませんし」

「もの凄く、年下だったのね」

「そうですよ?もの凄く年下です」

そう言って、インジュは屈託なく笑った。その笑みが、不意にリティルと重なる。ああ、インジュはリティルと血縁関係にあったなと、スフィアは眩しそうに左目を細めた。


 リティルはノインとブルークレーを飛んでいた。

昨夜、ノインから衝撃的なことを聞いて、実はまだ内心動揺していた。

「リティル、では、先に楽園へ行っている」

「ああ、絶対無理するなよ?知ってるだろうけどな、闇の王も時の精霊も侮れねー相手だからな」

「心得ている」

「それから、ゾナと喧嘩するなよな!」

「ハハハ、了解した。もう大人げないことはしないと、約束しよう」

ノインは涼やかな笑みを浮かべると、リティルと同じ翼を一度大きくはためかせて、ルセーユ島へ向かって行ってしまった。

ノインと別れたリティルは、大きなため息をついた。

 彼が悪いのではない。むしろ、謝らなければならないのは、リティルの方だった。

リティルが飛び起きたときには、とうに深夜を過ぎていた。慌てて応接間に戻ると、ノインはランプの明かりでインファが集めた資料を読んでいた。

いつ戻ってきたのか、ケルゥとカルシエーナがソファーで寝入っていた。ルキも人型のまま、猫のように丸まって熟睡していた。

「ごめん!ノイン」

「いいや。オレも先ほどまで寝ていた。ケルゥとカルシエーナに、寝てこいと散々言われてな」

ノインは召使いの鳩に書類の片付けを頼むと、おもむろに、話があると切り出してきた。

そして、ここではなんだからと中庭へ出た。中庭の東屋で、彼は服の下からフロインの羽根の首飾りを取り出した。

「おいおい、これ……」

「フロインがオレにと。リティル、指示を仰ぎたい」

目眩がした。つまりは、受けるか壊すかの判断をしてくれと言われているのだと、リティルは理解してしまったからだ。

リティルは、フロインをいつかノインに押しつける気でいた。しかし、今はまだフロインは幼すぎて、押しつけられたノインの負担を考えると、話すらできる状態ではなかった。なのに、フロインは先走ってしまった。

「オレが判断するのかよ……」

リティルは頭を抱えた。

「仕方ないだろう。フロインは、おまえの持ち物だからな」

「フロイン、何か言ってたか?」

「オレの助けになりたいと、そう言っていた。確かに、助けにはなるが、返事はほしいらしい。そういう視線を感じる」

あのバカオウギワシ!と、リティルは呆れた。あの容姿で、毎回毎回人の顔にあの大きな胸を押しつけて、平然としているような精神年齢のヤツが、プロポーズの返事をもらおうだなんて、どうかしている。しかも、相手は大人なノインだ。落とせるわけねーだろ!とリティルは、自分のことではないのに恥ずかしくなった。

「ごめんな!で、おまえは?」

「好きでも嫌いでもない」

「だよな……。そういう感情抜きにして、できるか?」

「命令ならば」

「だよな!おまえ、そういう奴だよ!」

できないと言ってほしかった。こんな時に、騎士の顔をしないでほしい。ノインは大事な家族だ。彼の気持ちを無視して、こんな形で命令は下したくなかった。

だから、リティルはフロインの成長を待っていた。ノインに相応しくなるまで、彼女を育ててから提案するつもりだった。その上で、ノインに決めてほしかったのだ。

「フロインを叱るな」

「ノイン!教えないわけにはいかねーだろ?これ以上粘着されたら――」

おまえだって、心穏やかじゃいられないだろ?フロインの心が、これ以上ノインに向けば、さすがの彼も、魅了の色香に惑わされてしまうかもしれない。そんな偽物の心で、始まってほしくなかった。

「叱らないでやれ。彼女が、オレを案じてくれた気持ちは本物だ」

「ノイン!でもな!」

「もともと、魂を分け合う行為は、感情なく行われていた。風が、情緒面で進んでいるだけだ。オレとおまえが、それを受け入れられないだけだ。フロインは精霊として正しい」

そう言われてしまったら、リティルには何も言えなかった。

「ノイン、おまえの答えは受けられないでいいんだよな?」

「この城の気質を考えると、受けられない」

「命令抜きにして、感情なしだと?」

「彼女を道具のようには扱えない」

「わかった。ありがとな、ノイン。これはオレが壊すよ」

リティルはそう言うと、羽根の首飾りを軽く空に放り、愛用のショートソードで切った。羽根はバラバラになって机の上に落ちた。それを、雀たちがすぐさま掃除に駆けつけた。

「リティル、インファの補佐は、レイシに任せろ。オレが共に楽園へ行く」

ノインが応接間に戻ってすぐ、レイシは帰還した。炎の王・エセルトに手こずっちゃったと笑っていたレイシに、インファの補佐ができるか?と聞いてみた。レイシは驚いた顔をしたが、やるよ!とどこかムキになるようにそう言った。ルディルの弟子となり、自分の力を手に入れたレイシは、インファやリティルを助けたいと強く思うようになってくれた。まだ、魔物狩り以外でリティルの補佐につけることはできないが、風の城に留まっての補佐なら、何とかやれるだろうと、ノインは判断した。風の城には、シェラとルキがいる。不慣れなレイシを導いてくれるだろう。

問題はリティルだった。一、二時間と言っていたのに、リティルは目覚めることができなかった。それほど疲労が濃かったのだ。案外時間に正確なリティルが、見誤った。これは、かなり無理をしていると見えた。

「正気かよ!フロインがいるんだぜ?それに……ゾナも……」

「無論だ。ナーガニアがいない今、シェラのゲートに頼らざるを得ないとなれば、おまえを一人行かせるわけにはいかない。インファは王の代理と原因究明で動けないとなれば、オレしかいない。破壊と再生か、レイシとインリーを、おまえにつけるわけにはいかないだろう?」

「ぐうの音も出ねーよ。セリアが無事だったら、インファを動かせたのにな……ノイン……ごめん」

「気にするな。妙なことに巻き込んですまなかった」

静かにフッと微笑む大人な彼に、リティルは何も言えなかった。

 ニーナを知っているリティルが彼女を捜すしかなく、ノインを一人楽園へ向かわせるしかなかった。リティルにできることは、早くニーナを捜し楽園へ行くことしかない。

フロインは、首飾りが壊されたことをすでにわかっているだろう。彼女がなんと思うのか。どう行動するのかリティルにはわからなかった。

フロインがシェラを真似てしゃべることも、ノインは知っていた。リティルは、己の守護鳥のことさえ、把握しきれていなかった。


 大賢者の館に昼間居づらくなってしまったスフィア達は、図書館から人体に関する本を持ち出すと、花畑にきていた。

「ノイン?」

インジュは、誰よりも早く気配を察知して、空を見上げた。フロインもスフィアも目をこらしたが、何も見えなかった。

「ノイン、リティルはどうしたんですか?」

しばらくすると、確かにノインが舞い降りてきた。

「ニーナという女性を捜して、ブルークレーだ。すぐに戻ってくる」

「姉さん?おじさま、どうして姉さんを捜してるの?」

スフィアは首を傾げた。

「ディコ達と決裂したと聞いた」

「ニーナは、こちらの味方なんですか?」

「そのようだ。我々にできることは、未だ監視のみだ」

「主力が二人もここにいて、城は大丈夫なんですか?」

「ルキルース、太陽の城と決着がついた。オレとレイシ達の手が空いた」

「そうなんですか……あの、お父さん、あの、大丈夫……ですか?」

自分の父の安否を問うのに、ここまで緊張するのか?とノインは苦笑した。

「インファは仕事があれば安定している。イシュラースも問題が山積みだ。落ち込んでいる暇はない。心配するな」

「あまり、心配なく聞こえないですよ!」

「それでも、インファはインファだ。気にするな。おまえはどうだ?」

「どういう風に生きていいのか、まだわかりませんが、スフィアの右目を作ろうと思って、目の構造について調べています」

「人体か。オレでは専門外だ。シェラかナシャならば、くわしいか」

「皆、忙しいでしょう?ボクが自分でやります。あの、ノイン、ゾナの授業が受けられなくなってしまったので、魔法の修行、お願いできないでしょうか?」

「やる気があれば、いくらでも付き合う。その前に、フロインを借りていく」

「え?え、ええええ、わかりました」

インジュは本のページを破りそうなほど握ってしまい、スフィアに手の甲をつねられた。

フロインは、どこか哀しそうに、ノインを遠巻きにしていた。昨日とは態度が違うことには気がついていたが、今朝から話しかけても一向にしゃべらなかった。スフィアは、彼とは離れていたのにどういうわけか、彼女の気落ちはノインのせいなのだと感づいた。

 ノインは二人から見えない位置に、フロインを連れていった。スフィアは気になったが、インジュに止められてしまいこっそり覗くことができなかった。

「フロイン、許せ。昨夜、君の羽根についてリティルに話した。そして、破棄することが決まった。すでに、わかっているな?」

フロインはコクリと頷いた。

『残念だわ』

「許せ。オレには君を、道具のようには扱えない。フロイン、案じてくれたこと礼を言う。ありがとう」

『ノイン、大丈夫?』

「やれるようにやるだけだ。戻ろう」

フロインはコクリと頷くと、ノインの後をトボトボついてきた。想像できたことだったが、気落ちしたフロインの様子に、ノインは胸が痛んだ。

しかし、どうしてやることもできない。その姿がどんなに痛々しくても、心は生まれることはないのだから。


 インジュはノインについて、思い浮かべたモノを具現化する練習を行っていた。

「意識を集中して思い描く。精霊はそれだけで魔法が発動する。細部まで細かく描ければ、それだけ緻密な魔法として発現する」

ノインは片手の平に金色の風を集めると、オオタカを作って見せた。魔法で作り出したとは思えない、生きているかのようなオオタカだった。

フロインはひたすら、キラキラ輝く金色のバラを量産していた。それをつなぎ合わせて、スフィアに花の冠を作ったりして遊んでいた。

「インジュ、初めはオウギワシを作れ。己の投影だ。それも難しければ、目の前にあるもの。例えば、この花でもいい」

ノインは足下に咲いていた花を一輪摘むと、インジュの目の前に差し出した。

「はい」

ノインの差し出した花を見つめながら、インジュは手の平にキラキラ輝く金色の風を集める。そして、寸分違わない花を作り出してみせた。

「それはできるんだ」

「はい。さすがに基本ですから。ただ、そこから先へ進むことに抵抗があって、集中できないんです」

手の平に集めた風で、オウギワシを作ろうと試みたが、鳥だということは辛うじてわかるが、あやふやな形になってしまう。

ノインは摘んでしまった花を、手の届く距離でこちらに背を向けていたフロインの髪に、何気なく挿してしまった。髪に触れられてハッと振り返ったフロインは、ノインが気がつかずにインジュと話している姿を見て、寂しそうに恨めしそうに見つめていた。それをばっちり見ていたスフィアは、なんだか甘酸っぱいような気分になった。

「インジュ、何に興味がある?」

「興味ですか?鳥かごにずっといたので、花や鳥かごなら、思い浮かべられるような気がします」

「鳥かごか。面白い。それでいこう。まずは、形だ。慣れてきたら、材質、雰囲気、装飾と複雑にしていく」

ノインの両手の上に、かなり凝った作りの籐の鳥かごができあがりつつあった。できあがる頃、すねたフロインが小鳥を作り出して、ノインの鳥かごの中に強引に入れ込んできた。

「フロイン、急にどうした?」

ノインは珍しく動揺して、作り出した鳥かごがフッと風となって消えてしまった。問われたフロインは、ツンッとそっぽを向いた。その様子に、ノインは優しく苦笑した。

その笑みを見たスフィアは、ノインは本当に少しも気がないのだろうかと疑った。

「フロイン、ノインの邪魔しちゃダメです。はっ!ノイン、凄いギャラリーなんですけど、ボク達目立ってるんでしょうか?」

見回すと、遠巻きだがかなりの数のエフラの民がこちらに注目していた。

「三人も精霊がいれば、目立つ。おまえ達は特に、見目麗しい」

「それ、ノインがいいます?」

「ここにいるのが、オレではなく、インファだったなら、オレ達と言っただろうな」

ハハハと、ノインは声を出して笑った。

「インファ様って、そういうキャラなの?」

「お父さんは、間違いなく言いますね。あの容姿も、武器ですから」

インジュはインファを避けているが、意外にインファの事を知っている。気になるならそばに行けばいいものをと、ノインは度々思っていた。

「インファはかなり面白い男だ」

「面白がっているのは、ノインだけですよ!お父さんはかなり怖い人です」

「あなた、自分のお父さん、どこまで苦手なの?」

「仕方のない」

「うう、近寄りがたいんですよ。完璧すぎて」

「完璧?それは幻想だ。インファはずっと苦悩して生きている。今も。そのすべては、リティルの副官でいるためだ。近寄りがたいのは、仕方がない。それだけ、真剣だということだ」

「真剣……ですか。ノイン、お父さんも間違うんでしょうか?」

「間違わない者などいるものか。リティルもオレも、同じだ。だから、一人で判断しない。一人で判断しなければならないときのために、揺るがない一つを決めている。ただそれだけだ」

「揺るがない一つとはなんですか?」

「絶対に、命を失わないことだ」

「!」

「我々は、何があっても、リティルを置いて逝かない誓いを立てている」

そう言い切ったノインに、フロインがそっと寄り添った。その姿は、わたしも同じだと言っているようだった。どちらともなく視線を交え、力強く頷く二人にインジュは眩しそうに目を細めた。

スフィアは、二人に絆を感じて、それを感じるからこそ、ノインがフロインの気持ちを受け取らなかったことに、疑問を抱いた。

「ノイン、どうしてフロインを振ったの?」

スフィアは思わず問うていた。ハッとして口を押さえたが、出てしまった言葉はもう戻らなかった。

「オレは、フロインに誠実でありたいだけだ」

フロインは哀しげに眉根を潜めると、オウギワシへ化身して空へ舞い上がっていった。空のずっと高くで旋回するフロインを、ノインは見上げていた。

「ノイン、気にしないでください。叶わない想いの方が、ずっと多いんですから」

「叶えてやりたかったが、できなかった」

「いいんです。それで」

ノインの隣に並んだインジュは、そう言って、瞳を伏せた。

スフィアは、胸の中心が痛くて切なくて、そしてインジュを見ていた。


 インファは応接間の机の上に書類を並べて、考え込んでいた。

ルディルの言い残したという、病に冒されていない最上級精霊を捜せという言葉だ。

病に冒されていないと言ったということは、古参の精霊の中でなのだろう。そう思って絞り込んで出てきたのは、

所在不明で安否不明な、時の精霊と音の精霊。

魂が帰った記録がないため、どこかで生きているのだろうが、どう捜せばいいのか見当もつかなかった。

「さて、どうしましょうか」

世界を巡る風も知らないとなれば、風の城にいてはもう捜せない。あとは、ユグラの所にある歴史の保管所だが、城から出るとなると、眠れる精霊達の監視、風の集めてくる新しい情報の把握、リティルからの通信への対応が――

「インファ、歴史の保管所へ行ってみるわ」

一緒に情報の整理をしていたシェラが、そっと立ち上がった。

「母さん、オレが行きますよ」

「あなたはここにいなければ、ダメよ」

「オレ様達が一緒に行くぜぇ。急に魔物どもも大人しくなりやがったからなぁ、オレら暇なのよぉ」

「わかりました。ケルゥ、カルシエーナ、よろしくお願いします」

「任せて。わたし、本は大好きだ」

目を輝かせるカルシエーナに、インファは思わず優しく笑って、そうでしたねと言った。

 三人を送り出し、カルシエーナのおかげでいくらか心が軽くなったインファは、小さく安堵のため息をついた。疲れた兄を見てとって、インリーがお茶入れるねと言って部屋を出て行った。その後を、ルキが珍しくついて行った。そんな二人の後ろ姿を見送って、レイシは目頭を押さえているインファに提案した。

「兄貴、今のうちに休んだら?そのリスト調べるために徹夜してたよね?」

「ばれてました?ノインがいないので、小言を言う人はいないと思っていたんですけどね」

フフフとインファは平気な顔で笑っていた。

「兄貴、インジュのこと心配なんだ?」

「いいえ。父さんとノインがついていて、心配することはありませんよ」

「即答するほど心配なんだ。なんでわからないんだろうね、インジュは」

レイシはフンッと鼻で笑った。

「そういうツッコミを入れてくるのは、レイシあなただけですよ。インジュには悪いと思っていますよ。彼は、自分の力を正しく理解しています。それ故に、力を発現させないことを選んでいるんです」

「なんで?凄い力を初めから持ってるっていうのに、それを使わない道を選んでるなんて、理解できないよ!あいつ見てると、苛つくんだ。昔のオレを見てるみたいで」

雷帝夫妻には悪いけど!と、レイシは感情を隠さず露わにした。

「インジュは、オレの子とは思えない、とても優しい心を持って生まれてしまいました。フロインのように、躊躇いない残虐性を持っていないと理解したとき、どうすれば託された力を守れるのか考えたんです。そして出した答えが、皆を欺くことだったんですよ」

「何それ?欺くって?」

「成功していますよ?自分は落ちこぼれの精霊だと、皆に思わせていますからね」

「実は使えるって?それ、信じられないな」

「幼い頃、封じてしまったんです。父さんもまだ封印には気がついていませんね。彼は優秀ですよ。オレが散々突きましたが、どんな封印を使ったのか、その片鱗すら見えません」

「兄貴が見抜けないって、ホントにあるの?そう思ってるだけじゃないの?」

「フロインがそう言うので、おそらくそうなのでしょう。彼女は同じ存在ですからね」

「フロイン、しゃべれるの?それとも、思念会話?」

「いいえ、彼女は母さんを模倣してしゃべりますから」

「母さん?あの容姿で母さん?それ、複雑……」

性をまるで感じさせないシェラとは正反対に、フロインの体はとても目を引く。そのために努めて露出の少ない服装をしているが、力の性質上、精神の幼い彼女では隠すことは不可能だった。そんな色気の彼女が、シェラの口調でしゃべるのは、聞いている方としてはとても抵抗があった。

「ええ、ノインが珍しく困惑していましたね」

「キョドるノイン、見てみたいな。あの二人、くっつけばいいのに」

「さあ、どうなんでしょうね?彼女のことまで、ノインに押しつけるのは、どうかと思いますけどね」

理性的で本当に大人なノインが引き受ければ、あの色香はかなり押さえられるでしょうねと、インファは苦笑した。

「しゃべれるなら、そう思ったほど、オウギワシでもないんじゃないの?」

「あの容姿で迫られるノインを想像すると、不憫です」

「あー、見たい」

アハハハとレイシは大きく笑った。インファは穏やかに微笑むと、書類に目を落とした。

「それはそうと、あなたはどうなんですか?」

「何が?」

「オレが気がつかないとでも思っているんですか?インリーですよ」

「あー、さすが兄貴」

レイシはソファーにだらけて座ったまま、何気ない様子で答えた。

「何も変わらないよ。悪いけど」 

「しかし、今更なぜですか?オレ達はインリーを、疎ましく思っていませんよ?人前で触れ合うことはありませんし」

「うん、兄貴はそう言うと思った。セリアも寛大だよね?就寝間際、寝室の扉開けられても許せちゃうんだからさ」

「今は鍵をかけてますから、大丈夫ですよ」

ついでに防音も完璧ですと、インファは問題ないと笑った。

「そうやって甘やかすから、インリーはずっと子供のままなんだよ」

「ああ、なるほど。そんなインリーに不満なのは、あなたの方でしたか」

「兄貴!怒るよ?」

「そういうことでしょう?それ以外に、今更インリーにちょっかいを出す理由があるんですか?」

「それ、いつから気がついてたの?オレが、インリーを兄妹だって思ってないこと」

「オレが力に目覚めたころですから、十二年生きたあたりでしょうか?レイシ、偽ってはいけませんよ?」

「オレは別に……。……兄貴、ホントはオレ、わからないんだ。インリーとどうなりたいのか、どうしてほしいのか」

インリーを口説いていいか?なんて、そんな大それたこと、出任せだったのに、自分で言ったその言葉に振り回されていた。

「インリーはオレのこと、どう思ってるんだろう?」

「昔からレイシのことが好きですよね?」

「それってさ、どういう好き?」

「オレが愛情だと言ったとしても、あなたは信じないでしょう?レイシ、一度距離を置いてみますか?」

離れるとわかることもあると、インファは言った。

「インリーが、離れさせてくれたらね」

「風の城に、遠慮しなくていいんですよ?離れていても、あなたは風の王の第二王子であり、オレの弟です」

「オレは……ここにいたい。……兄貴、オレ、ここにいてもいいのかな?」

「叱った方がいいですか?」

「ありがとう。でも、オレ……父さんになんて言っていいのか、わからないんだ。風の王・リティル以外に、オレの父親はあり得ないのに、それを、わかってもらえないんだ……」

オレが道を踏み外したから……と、レイシは俯いてしまった。

「父さんはただ、あなたに自由でいてほしいだけですよ。父さんの本音が聞きたいなら、酔わせてみることですね。愚痴ってくれますよ?」

「え?父さんって酔うの?」

かなり強かったと思うけど……と、この応接間で一人、死屍累々を介抱して回っていたリティルの姿が蘇った。あのときは、インファもノインも潰れていたと記憶している。

「オレとノイン、ルディルの三人で酔わせました。手強いですよ?」

「三対一?なんでそんなことしたの?」

「何か、一人で抱えていたようなので、暴かせてもらいました。父さんは秘密主義ですからね。酔わせて口を割らせたことは、内緒です」

内容については、口外できませんとインファは笑った。風の王であるリティルは、昔から苦労が絶えない。誰にも話せずに黙っていることも、あるのだろうなと、レイシは普段笑っているリティルを案じた。

「オレ、父さんの力になりたいんだ」

「ならば、迷わないでください。風の王を助け、守り、そして死なないことを誓ってください。ですが、インリーのことは背負わなくていいですよ?」

背負う?インリーの隣にいることは、背負うことなのだろうか。背負っていると見えるくらい、オレ、しんどい顔してるのかな?と優しく笑うインファの顔を見ながら思った。

「レイシ、少しこの場を預けます。楽園から通信が入ったら、お願いします」

了解と返し、レイシは部屋を後にする兄の背を見送ることも忘れて、中庭をボンヤリ見つめていた。

 インリーがオレをどう思っているか?だって?レイシは自分が問うた問いなのに、何を今更と思った。

彼女の答えなんて、初めから決まっている。

――わたしの居場所は、レイシの隣だよ?

兄妹だろうが、家族だろうが、他人だろうが、インリーは変わらない。肩書きなんて何でもいい。レイシの隣がわたしの居場所。無邪気に信じているのだ。肩書きを変えなければ、失うかもしれないことを彼女はわからない。

精霊は本来、恋愛感情のない種族だ。それを持っている、風の精霊が異例なのだ。

感情などなくても、精霊達は相手の力を手に入れる為に、婚姻を結んできた。

何を躊躇っている?レイシの中のレイシが問いかける。

精霊の婚姻を結べば、インリーは揺るがない肩書きを手に入れて、堂々とレイシの隣にいられる。対するレイシは、ずっとほしかった風の力を手に入れられる。躊躇うことなど、ないじゃないかと、レイシの中のレイシが暗く笑う。

 レイシは、頭を振った。違う。何かが違う!レイシはただ、インリーに、当たり前に息をさせてくれる、空気でいてほしい。ただ、今まで通りそばにいてほしい。たったそれだけだ。他に、何も望まない。変わらずそばにいてくれるなら、触れられなくても構わない。なのに、それも違う気がする。

オレはもしかして、インリーに好きだよって言ってほしいんだろうか?突然そう思って、レイシは驚いた。これじゃあオレが、インリーのこと、そういう風に好きみたいじゃないか!と。

 応接間を出たインファは、やはりというべきか、部屋を出たところで立ち尽くすインリーと遭遇した。傍らにいたルキは、インファの姿を見ると、じゃあ、任せたからと言って、インリーの代わりにお茶の用意の乗ったワゴンを押して、応接間にさっさと戻っていった。

「お兄ちゃん……わたし、レイシの隣にいちゃダメなの?」

なかなか戻ってこないので、もしやと思っていたが、ルキによって会話を聞かされたらしいなとインファは察した。

「今のままでは、許されないでしょうね。インリー、あなたにとってレイシは何者なんですか?」

「何者……?」

「レイシは、あなたがハッキリしないので困っていますよ?このまま答えを出せなければ、レイシは父さんを裏切らない為に、風の城を出て行くでしょうね」

我ながらヒドイ物言いだ。こんなことを言っては、インリーがとる行動など一つしかないというのに。

 インファは、レイシを風の城から出すつもりはなかった。太陽光の力を持つレイシは、とても危険な精霊だ。風の王という強力な鎖でその首を繋いでおかないと、レイシは、他の混血精霊と同じく、風の城に討たれる運命を辿るだろう。

わたしの居場所はレイシの隣――頑ななインリーの願いの底にある想い。

花の姫・シェラの娘であるインリーは、きっと混血精霊という危険な存在のレイシを、永遠に守ることができるだろう。これでもインファは、愚かで可愛い妹に期待していた。


 精霊は、食べ物を食べなくても生きていける種族だと、スフィアは初めて知った。

というのは、リティル達がスフィアの作る料理を断ることなく、普通に食べてくれていたからだ。お腹がすくことには抗えず、インジュが付き合うと言ってくれたことを断って、スフィアは小さな小鳥サイズに変化したフロインと、そうっと大賢者の館の食堂にきていた。ここに住んでいるスフィアは、どうしてもここに戻ってこなければならなかった。

「インジュは、一緒ではないのですか?」

スフィアは、彼らに出くわさないように、時間をいつも変えて食堂を利用していた。それなのに、インジュのいない今日に限って、彼に待ち伏せされてしまった。

インジュのいない今日に限って?そう思ったことに、スフィアは心の中で首を傾げた。いたところで、安心感などないはずなのに、フロインのほうが数倍頼りになるのに、なぜだろう。今、インジュがいないことに、とても心細さを感じていた。

「イ、インジュはノインと一緒よ」

「そうですか、ノインが派遣されましたか」

彼は一体誰だろう。リティルと決裂したあの日から、ディンは変わってしまった。とても冷たい瞳をするようになった。風の精霊達を敵視していることを、隠さなくなった。

「おじさまもいるわよ!どうしちゃったのよ?ディン。あたしをどうにかしたいなら、目的は同じなのに、なんで、インジュ達と敵対するの?」

「インジュ達?」

ディンに睨まれて、スフィアはビクッと臆した。それでも、スフィアはぐっと見返した。

「気に入らないのは、インジュなの?なんで?」

ディンが図星であることに、スフィアは驚いた。なぜ、虫も殺せないようなインジュを、気にするのだろうか。ディンは、リティルに不穏な感情を向けていると思っていたのに。

「インジュは、何を司る精霊なのですか?」

「煌帝でしょ?あたしがわかると思うの?教えてくれたけど、わかるわけないじゃない」

「彼の魔法を見たと、いうことですか?」

「気になるなら、インジュに聞けばいいじゃない。インジュ、ちゃんと、魔法使えるわよ?」

「どのような、魔法でしたか?」

「も、もう、何も言わないわ!」

スフィアはインジュの身を案じ、ディンの前から逃げ出していた。

『ありがとう、見たことを言わないでくれて』

「やっぱり、言っちゃいけないことだったの?よかった……もお!お昼食べ損ねたー!」

そう言って憤りながら、スフィアはとても気分がよかった。そして、早く、インジュのところに帰りたかった。

 花畑では、インジュが魔法の修行に打ち込んでいた。

――何か、何か見えそうな気が……どうして、ボクは固有の魔法をほとんど発現させられないんでしょうか……?

「――ジュ、インジュ――インジュエル!」

「はっ!え?ノイン、ボクの本名知ってましたっけ?」

やっとノインが呼んでいることに気がついたインジュは、なぜ呼ばれていたかよりも、フルネームを呼ばれたことを驚いていた。

「何を今更。おまえは、風の宝石。フロインは歌う風だろう?」

「フロインは、フローライトの風じゃなかったでしたっけ?」

「それは、ルディルの冗談だ。フロインが具現化したとき、蛍石のセリアをからかったとき、そんな発言をしていた。フロインは精霊語のフローとインで、歌う風だ」

インジュの母である、宝石の精霊・セリアセリテーラは、蛍石の化身だ。蛍石は、フローライトとも呼ばれる宝石で、それとフロインの名をかけて、ルディルはそんな発言をしたらしいが、いったいなぜなのかインジュは知るよしもなかった。

「お母さん、未だに誤解してます」

「それが、セリアの可愛いところだ。インファは、まだ訂正していなかったのか」

「あの、ノイン、ボクには、何か封印でもかけられているんでしょうか?」

「なぜだ?」

「今、ノインに本名を呼ばれたとき、何か、感じたんです。ボクは過去に何かしたんでしょうか?」

「オレの知る限り、おまえの身に何か起こったことはない。考えられるとするならば、おまえ自身が何かを思い、封じたのかもしれない」

「どうすれば、解けますか?」

インジュの意思のある瞳で見つめられ、ノインは手始めに霊力を探ってみた。だが、封印らしきモノを探し出せなかった。ないと決めつけるのもよくないなと、ノインはインジュの父であるインファに尋ねることにした。

「封印を突き止めるしかないが……インファに確かめよう」

「お父さんに?」

インファと聞いて、インジュは臆病に瞳を曇らせた。ノインからすれば、頼りになる相棒だ。そのインファをこうも避けられるのは、少しというかかなり複雑だった。

「インジュ、あまりインファを怖がるな。こちらからすると、インファが不憫でならない。話を聞きたくないのなら、少し離れていろ」

インジュはその言葉に従い、スゴスゴと離れていった。それを見たノインは、苦笑するしかなかった。

「インファ、質問があるのだが……レイシか?」

『ノイン?何?兄貴は寝てるよ?』

「そうか、インジュのことで聞きたいことがあったのだが、また改める」

『待ってよ、それって、封印のこと?見つけたの?』

「おまえが知っているとは思わなかったが、インジュが解きたいと言っている。何か聞いているか?」

『兄貴も解こうとしたって。でも、封印らしきモノすら見つけられなかったって。フロインが知ってるらしいから、フロインに聞いてよ』

「了解した。レイシ――」

『兄貴なら何とかやってるよ。こっちは心配しないでよ。そっちは実質二人でしょ?集中してないとやばくない?』

「フッハハハハ!了解した。空の翼殿、雷帝をよろしく頼む」

『任せてよ、じゃあね』

頼もしくなったモノだなと、レイシの成長を喜ばしく思いながら、ノインは水晶球を風の中にしまった。

 さて、フロインかと、ノインが大賢者の館の方を見やると、スフィアが駆け戻ってくるところだった。

「インジュ!」

「スフィア、早かったです、ね?」

「あたしより、背が高いんだから!ちゃんと、受け止めてよね!」

のほほんと、戻ってきたスフィアに手を振っていたインジュは、彼女に飛びつかれて花畑に背中から倒れていた。フロインは巻き込まれる前に離脱して、ノインの前で人型となって降り立った。

「スフィアが、急に飛びかかってくるからでしょう!どうしたんですか?」

「ディンに気をつけて」

インジュの上から退かずに、顔を上げて短く告げた。

「はい?どうして、ボクがディンに狙われるんですか?取り柄なんて、ないですよ?」

「わからないけど、とにかく!気をつけて。何?何かついてる?」

体を起こしたスフィアは、ニコニコしながらインジュに見つめられ怯んだ。

「はい。髪の毛に花がついて、可愛いですよ?」

か、可愛い?スフィアは瞳を瞬いた。可愛いなどと言われたことなど、なかったからだ。

「インジュのくせに……」

スフィアは気恥ずかしくなって、髪の毛をグシャグシャとかき回してしまった。そんな姿にインジュは心底残念そうに体を起こすと、何を思ったか、そのまま手ぐしでスフィアの髪を整え始めた。あまりのことに、スフィアはされるがまま、大人しく髪を整えられてしまった。

「うまくできると、いいんですけどね」

そう言うと、インジュは両手に風を集めた。そして、スフィアの頭にそおっとかぶせるように置いた。

「ノイン!できましたよ!」

はしゃぐインジュに、スフィアはどう反応していいのかわからずに、何かが乗っている感触に、頭に触れた。何かが乗っている?スフィアは恐る恐るそれを壊さないように頭から外した。

それは、金色の小さなバラでできた花冠だった。

「すみません。フロインが作っているのを見て、作りたいと思ったんです。散々失敗したんですけど、やっと上手くいきました」

そう言って、屈託なくインジュは笑った。スフィアはどう反応していいのかわからずに、硬直していた。そんなスフィアの様子に、インジュが気がつくことはなかった。


 フロインは、鳥かごの中に吊されたブランコに座っていた。そして、彼女は困っていた。

そんなフロインの前には、幼いインジュが、緊張気味に浮かんでいた。

「フロイン、封印のしかたを教えてください!ボクは、この力を封じたいんです。フロインに共犯になれとは言いません。ボクが、自分でやりますから」

フロインは困惑しながら、自分と同じ欠片を持つ幼い精霊を見つめていた。彼の決意は固かった。フロインは頷くと、そっと、インジュの額に触れた。

「ボクが、ボクの力で、誰かを――……」

一戦を越える強さを手に入れても、守れるとは限らないことを、フロインは言えなかった。

フロインが恐れずに戦えるのは、この身が滅んでも、リティルが生きている限り、何度でも肉体を再構築できるからだ。

幼いインジュは、すべてにおいて理解不足で、頼らなければならないのに、大きすぎた風達に不安や恐れを打ち明けられなかった。

風の城は、常に戦いの渦中にある。戦う力のあることが、幼いインジュの正義だった。

けれども、何かを悩んでいたインジュには武器を取れなかった。自分と同じ欠片を持つフロインが、当たり前のように行使することも、彼を追い詰めた。

未熟さ故インジュは、強く雄々しい大人達を頼れなかった。

 フロインは、封印を突き止めたノインとリティルに、隠すことなく話した。

話を聞いたリティルは、言葉を失って俯いた。ノインは、そんなリティルを見つめていた。

 スフィアの中の闇の王は、胎動を始めていた。

 ディンは、焦りを募らせていた。

 精霊達の知らないところで、至高の宝石は狙われていた。


 スフィアは、楽園の外れの小川にインジュを連れ出していた。

「スフィア、こんな夜に出掛けるのはやっぱり、まずいんじゃないですか?」

「夜じゃないと、見えないのよ。ほら、ついた。もお、オドオドしないの!」

スフィアはインジュの背中をバシッと叩いた。痛たたたとインジュは顔をしかめながら、スフィアを振り向いた。スフィアは手にしていた提灯の明かりをフウッと消す。

二人を、夜の闇が覆い被さるように包んだ。インジュは、闇の中にスフィアが消えてしまい焦った。

「スフィア!」

慌てて手を伸ばすと、思いのほか近くに彼女がいて頭に手が当たってしまった。

「す、すみません」

「いいから。ほら、周り見て」

スフィアは明るくそう言うと、インジュの手を取った。闇の中、温かな体温を感じて、インジュはホッとして周りを見回した。そして、緑色の小さな光が舞う様を見た。

え?これは魔法?インジュは驚いて目を見張った。

「蛍よ。インジュのお母さんと同じ名前の虫よ」

「お母さんが光るところは、見たことないですけど。蛍って、虫なんですね」

知らなかったと言って笑うインジュの横顔を見ながら、スフィアは胸に小さな痛みを感じていた。

「ねえ、インジュ」

スフィアはインジュを促して、小川のほとりに腰を下ろした。湿った草の匂いが、鼻孔ををくすぐる。インジュは他意なく、スフィアの体に触れるくらい近くに腰を下ろした。

「はい?」

「インジュは、あたしの中の闇の王を滅したら、イシュラースに帰るのよね?」

「はい」

「今すぐ、帰りたい?」

「そうですね。お母さんのこと心配です。お父さんとも、ちゃんと話したいですし……」

「そうね」

「ありがとうございます。ボク、スフィアに会っていなかったら、たくさんのことを知らないままでした」

「あなたねえ、これからずっと生きていくのに、こんな些細なことで満足するの?」

「風の城に帰ったら、ボクはずっと鳥かごにいようと思います。ボクはきっと変われません。風は、自分で死を選べないので、悪用されないようにこっそり生きます」

スフィアは、少しはインジュが前を向けたと思っていた。スフィアの右目を作ると言ってくれたり、ノインに自ら魔法修行を頼んだり、前向きに生きることを選んでくれたと思っていた。それなのに、彼はまだ、頑なに自分自身を封じ込めようとしていた。

そんなに、危険な存在なのだろうか?とても、そうは思えなかった。

スフィアは、大半の楽園に暮らす人々と同じように、この狭い島から出ることはないだろう。だからなのか、この綺麗な翼でどこまでも飛べるインジュに、空を諦めてほしくなかった。それは、望んではいけないことなのだろうか。

「インジュ!そんなのいけない!外に出てよ!守る力を自分で作ったらいいのよ!ねえ、一人で外に出るのが怖いなら、あたしが一緒に出る!だから、そんなこと言わないでよ」

スフィアは膝で立つと、インジュの細い肩を強く掴んでいた。身長差が四〇センチもあると、座ったままでは掴みにくかったのだ。インジュは痛みに顔をしかめていたが、放すことができなかった。

「そんな、哀しいこと言わないでよ……」

俯いたスフィアの、片方の肩に手が置かれた。顔を上げると、インジュの顔をとても近くにあった。

「ありがとうございます。こんなボクを憂いてくれるのは、スフィアだけですよ。あなたが、ここにいると思えば、ボクは生きていけます」

夜目の利くスフィアには、哀しげに笑うインジュの顔がしっかり見えていた。白い輝きをまとった青と緑の混じった虹彩。それは彼特有で、多分宝石というその名の由来となった、瞳の色だ。

その綺麗な両目に、もっと世界を映してほしい。翼があるのだ、スフィアよりももっともっと多くを見に行ける。蛍如きに、こんな目を輝かせるのなら、もっともっと、たくさん知って喜んでほしいと思った。

二十年――そんな短い時間を生きただけで、自分のすべてを決めてほしくなかった。

スフィアは、彼の父、インファが未熟だったころの姿を知っている。七年しか生きていないのに、風の王の副官という自分の存在理由を理解していて、それに向かってがむしゃらに突き進んでいた。あまりの勢いに、リティルが御しきれず、ディコとニーナを頼ったほどだった。

そんなインファの息子であるインジュ。こんなに頑なに、自分を封じようとしているのだ。彼もたぶん、自分の存在を正しく知っている。心が外へ向かい、その手でつかみ取りに行ったインファとは違うが、危険だという力が他に影響を及ぼさないようにと、封じ込めるインジュもまた、真っ直ぐだなと思う。

「あたしは!そのうち死んじゃうのよ?精霊の時間の中じゃ、一瞬よ!」

住んでいる世界が違う。命の長さが違う。何もかも違う。だから、出会ってはいけない。

精霊となんて不毛だと、リティルに言ったばかりだった。

でも、だけど、この気持ちは恋なんだろうか。それとも、ただの同情なんだろうか。

「それでも、死ねないボクは、思い出だけで生きていけます」

嫌だと思った。インジュに俯いていてほしくないと、なぜだかスフィアは強く思った。

「インジュ!あなた、今どんな顔してるか知ってる?見えないと思った?あたし、バッチリ見えてるのよ?」

「え?ああ、スフィアは夜目が利くんですね。でも、もう、情けないボクのこと、見慣れてますよね?」

ニッコリ笑って、インジュは首を傾げた。

「ねえ、戦う力だけがすべてじゃないでしょ?なんでこだわるの?」

「風の城は、そういう城なんです。戦えないボクは、閉じこもって、せめて迷惑をかけないように生きたいんです」

ボクには、何の力もないからと、インジュは瞳を伏せた。

そんなインジュの態度に、スフィアは苛立った。どうして苛立つのだろうか。わからなかったが、インジュの生き方は、インジュにとって何か違うと思った。

「顔上げて!顔上げてって言ってるの!」

「は、はい?」

至近距離で怒鳴られて、インジュは慌てて顔を上げていた。スフィアの怒った顔がすぐ目の前にあった。顔を掴まれて動けなかった。

「あたし、インジュが好き!」

言ってしまって、スフィアはそうなんだと思った。どうして、彼なんだろう。リティルも、インファも、ノインも、あんなに格好いいのに、なぜ、こんな俯いてばかりいるインジュが好きなんだろう。

後ろ向きで、ウジウジしていて、すぐに閉じこもろうとして。ただ、優しいだけで、些細なことに感動できるくらい、純粋で。その笑顔が、どことなくリティルに似ていて……。

「――あ、ありがとうございます。あ、あの、近いです」

「目を、そらさないで」

「は、はい……どうして、泣くんですか?」

「哀しいからよ。決まってるでしょ?」

精霊となんて、不毛だ。別れる以外の結末はないのに、どうして、選んでしまったんだろう。好きだなんて、告げてしまったんだろう。

「ボクの、せい?ですよね」

「他に誰がいるの?」

「泣かないでください」

「無理。無理だよ……!だって、インジュなのよ?なんで、よりによって、インジュなのよ……!」

スフィアはインジュから手を放すと、涙を拭いながら浮かしていた腰を下ろすと、さらに泣いた。

インジュは、スフィアはこんなに小さな女の子だったかな?と思いながら、泣いている彼女を見下ろしていた。今、彼女に触れることは、許されるのだろうか。この先の未来はないのに、許してもらえるのだろうか。

ボクは精霊だ。許されるはずなんて、ないのに……と、心は後ろ向きだった。しかし、よりよってと言ってくれたスフィアは、禁忌であることをちゃんと知っていた。

これは夢だと、お互いに知っていれば――

「あの、夢か魔法だと思ってくれませんか?ボクは精霊で、スフィアは――」

言葉を詰まらせたインジュの次の言葉を待つように、スフィアは涙の止まらない瞳で見上げた。

 誰からも愛されないこんなボクを、好きだと言って泣いてくれるなんて、抗いようがないとインジュは芽生えてしまった心に、従うことにした。

インジュは言葉をつなげる代わりに、スフィアの見上げてくれている顔に手を伸ばした。武器を扱ったことのない、綺麗な指がスフィアの頬を撫でて止まる。

「いつ、目を閉じるんでしたっけ?」

「そんなこと、今聞く?閉じたくないなら、閉じなければいいのよ」

「そうなんですか?ボクとしては、閉じてもらえるとありがたいんですが……」

「見られるのが嫌なら、塞げば?あたし、片方しかないし」

ほぼ真上を向いているために、スフィアの瞳のない右側も露わになっていた。けれども、恐れないインジュには晒しても平気だった。インジュはやはり、右側を気にすることなく、スフィアの大きめな左目を見返していた。

スフィアは、このまま見つめていたら、インジュは退くかなと思ってもいた。それならそれでいいと思った。インジュとあたしじゃ不毛だと、スフィアは心の中で自嘲していた。

しかし、ややあって、インジュは言った。

「そうします」

緊張気味なインジュの顔が、彼の手に遮られて見えなくなった。そして、唇が重ねられた。

この先の未来はないのに、許しちゃったなと、スフィアは思いながら、インジュのくれたぎこちない口づけを受けた。

「あ、あの、ゆ、夢か、ま、魔法ですからね?」

「なんで、インジュの方が動揺してるの?もお、今のは蛍が見せた魔法の夢よ」

しょうがないなと、スフィアは苦笑して小さくため息をついた。すみませんと、いつものようにインジュは謝った。


 早朝の花畑に、リティルとあまり背の変わらない、娘盛りのウルフ族の女性がいた。

短い灰色の髪を揺らし、大きく腕を振り上げて、朝の楽園の空気を胸いっぱい吸い込んだ。そんな彼女の足下には、青みがかった毛並みの大きなオオカミが寄り添っていた

「ハハ、ニーナ、この世にいないかと思ったぜ?」

「何を言うておる?わらわが、そう簡単にくたばるわけがないじゃろう?」

ミストルティンがおるのじゃ、大事ないと、オオカミの頭を撫でながら、フフンッとニーナは目を細めて笑った。

「しかし、驚いたのう。そなたがわざわざ迎えに来るとは思わなんだ。すまぬなぁ、うちのバカ息子が」

「いいよって言いてーところだけどな、これはさすがに無理だぜ」

リティルは穏やかに苦笑しながら、そう言った。隠さないリティルに、ニーナは心の底から感謝していた。そして、ディコとゾナがとっくに、リティルに伝えているものと、思い込んでいた自分に呆れた。リティルは多忙で、ニーナも遠慮してしまったが、駐屯してくれているのなら話は別だ。普通頼るだろ?とニーナは、ディコとゾナの態度に疑問しか浮かばなかった。

「で、あろうのう。すまぬ。大事にならぬよう、ゾナとディコに託しておったのじゃが、男どもめ!不甲斐ないのう!リティルと決裂するなどとは、アホか!腸が煮えくりかえっておるわ!」

尻尾の毛を逆立てて、鬼の形相で怒り狂うニーナを見て、リティルは楽しそうに笑った。

「ハハ、オレ、頼りねーからな」

「そんな冗談、笑えぬぞ?……まさか、本気で言うておるのか?」

思いの外ビックリされて、リティルの方が驚いた。

「リティル、そなたのその威圧感の前で、侮る者などいぬぞ?そなたを侮るとしたら、それは、己の技量もわからぬ愚か者じゃ。何があったか知らぬが、胸を張れい!」

バンッと容赦なく背中を手の平で叩かれて、リティルは思わず蹌踉めいた。痛てーなと、ニーナを見ると、彼女は上から目線で、愚痴るか?と聞いてきた。そのありがたい申し出に、リティルはやめとくと、丁重に断った。そして、二人で心の底から笑った。

「のう、リティル、スフィアの中の闇の王はどういう状況じゃ?」

すぐに、スフィアの話題に移してしまった彼女の様子に、自分の息子のことだというのに、ニーナはサッパリしてるなと、リティルは思った。ディンが断罪されてもそれはそれと言わんばかりの態度に、こんな割り切れるものなのか?と思ってしまった。

いや、違うなとリティルは、真っ直ぐな視線を向けてくるニーナを見つめた。ニーナはリティルを微塵も疑っていないのだ。どういう結末になろうとも、そなたは抗い、戦ってくれるじゃろう?とそんな信頼を感じた。

「ああ、あまりいいとは言えねーな。オレとフロインの力で抑えてはいるんだけどな、膠着状態だ」

とりあえず、お手上げだとリティルは言った。

「のう、インジュの力は一体何なのじゃ?フロインと同じ存在じゃとは、とても思えぬがのう」

「あいつは、うちの癒やし系だ。アイドルだ。歌って踊らせとくさ」

「はぐらかすのう。それほどの力と言うわけじゃな。理解した、もう聞かぬ。じゃが……インジュは、スフィアを救ってくれぬかのう。それはちと、虫がよすぎるかのう」

ニーナは瞳を細めて、空を見上げた。朝靄の去りゆく空は、次第に澄んだ青に染まっていく。

「たぶん、あいつの力が発現したら、救えるんだ……でもな、それをするには、インジュが信じて守ってるモノを、手放さなくちゃならねーんだ」

「迷っておるのかの?」

「ああ。インジュはどこまでも綺麗なヤツなんだ。ホントに、あいつの力そのものって言ってもいいくらいな。だからな、そんなインジュを守ってやりてーんだよ」

うちで唯一の籠の鳥だと、リティルは言った。

腰に手を当てて、ぐっと空を見上げるリティルを、ニーナは憂いの瞳で見つめていた。

「矛盾してるよな。スフィアとインジュ、どっちを優先するのかって言ったら、スフィアしか選べねーのにな」

リティルの瞳が、ずっと高くを見るように細められた。

「すまぬな」

「いいんだ。オレ達は風だ。インジュも、風なんだからな……」

風に、花たちが揺れる。

「のう、インジュとスフィア、あのままでいいのかのう?」

「ああ?ああ、いいんじゃねーか?二人とも、お互いの存在をよくわかってるみてーだからな。インジュは、最後の一線は越えねーよ。あいつはやっぱり、優秀な雷帝の優秀な息子なんだよ」

リティルは俯くと困ったように頭を掻いた。けれども、その表情は優しかった。

「しっかし、みんな色づいてるよな?」

とっくに楽園へ戻ってきていたリティルは、昨夜コッソリ出掛けていったインジュとスフィアを監視していた。ディンの心がかなり不穏な今、二人を守れるように後をつけていた。そして、悪いとは思ったが、すべて聞かせてもらった。

「グロウタースはどんな季節でも、いつでも春じゃ。そなた達からすれば、この命なぞ、花々のように儚いじゃろう?」

そうだなと、リティルは寂しそうに微笑んだ。今こうしている瞬間も、瞬きして戻ればなくなっている。精霊の時間の流れは驚くほどゆっくりだ。長命種のニーナも、リティルが知らぬ間にいなくなってしまうのだろう。

――それでも、死ねないボクは、思い出だけで生きていけます

「切ないこというなよな!インジュ……」

二人は、儚い恋で終わらせるつもりだ。その決意が、切なくて寂しい。

このまま許せば、別れの時、二人はとてもとても傷つくのだろう。それでも、それをわかっていても、リティルには引き離す選択は今できなかった。

それが、その想いが牙を剥くのなら、力尽くで止めてやろう。リティルは、空を見上げると、風の奏でる歌を、レイシと揃いの魔水晶の笛で奏で始めた。

 リティルの笛の音に耳を傾けていたニーナは、力強い羽ばたきを聞いて、空を仰ぎ見た。見れば、化身したフロインに乗せてもらい楽しそうに笑うスフィアがいた。彼女の瞳はまっすぐに、ピッタリくっついて飛ぶインジュに向けられていた。応えて笑うインジュの笑顔を、リティルは笛を奏でながら目を細めて見つめていた。

――楽しそうに笑いやがって。おまえのそんな顔、城で見たことねーよ

そして、インファが言っていたように、覚醒したら、本当に強い精霊になるのだろうなと、リティルは思った。

先に舞い降りてきたのは、ノインだった。ノインはリティルに並ぶと、空を楽しそうに飛ぶオウギワシ達を見上げた。

「リティル、インジュの封印を解く相手、オレが務めよう」

「言うと思ったぜ。けどな、ノイン、誰になんと言われようと、その役、オレ以上の適任はいねーよ」

こんな役回りの押し付け合いならぬ、引き受け合いをしている自分達が滑稽だなと、リティルは思った。インジュの封印を解くのには、命を賭けなければならない。その役目は、痛みに強く、死から一番遠い者こそが適任だった。

「わかってるだろ?オレなら、後でシェラとインファに怒られるだけで済むんだ。けどな、おまえじゃ下手したら……これは命令だぜ?ノイン」

「過程をわかっていて、オレに静観しろと言うのか?おまえの言葉が正しいとわかっていても、耐え難い」

「耐え難いだけで済むならいいじゃねーか。おまえ、冷静になれよ。オレはな、ノイン、おまえも大事なんだぜ?」

「……っ!……了解した」

ノインはまだ言い募ろうとしたが、言葉を失っていた。真っ直ぐに見上げてくるリティルの、燃えるような金色の光の立ち上る瞳に、彼の選択が最良だとわかっているから、ノインでさえも力なく承諾せざるを得なかった。

「あとは!どうやって、その方向に持っていくかだな!インジュ本人に知らせちゃいけねーってのは、かなりハードル高いぜ?」

「オレに聞くな」

「ノイン、拗ねるなよ。オレは誰も、失う気はねーんだよ」

「わかっている!」

ノインは荒々しく短く答えた。そんな、こちらを見なくなってしまったノインに、リティルはありがとなとつぶやいた。

「仲良しじゃのう。リティル、安心したぞよ?」

ニーナはノインとは初対面だ。インの生まれ変わりだと明かされたが、ニーナには微塵もインに見えなかった。確かに父性は感じるが、リティルとは年の離れた友人のようだなと思ったのだ。

「ハハ、オレは恵まれてるんだよ。だからな、どんなに辛くたって大丈夫なんだよ。ディンは、どこで間違っちまったんだろうな?」

楽園の穏やかな空気。スフィアは過酷な運命の中にいるが、風の精霊達に守られ安泰だ。それなのに、なぜ、時の精霊と契約などという暴挙に出なければならなかったのか、リティルにはいまいちわからなかった。

「楽園は、困難の少ない場所じゃ。バカ息子は、軟弱なのじゃ。スフィアに告白する勇気もないくせに、拗らせおって!」

「ホントに、その想いだけでこんなことになったのかよ?」

時の精霊は、未だに所在が掴めない。そんな相手と、契約して、世界の刃である風の精霊に楯突くとは、ディンが真面目な魔道士だっただけに、信じられない。本当に、今のディンはディンなのだろうか。本当はもう斬らねばならない。だが、リティルは斬ってはいけない気がして、決断をくだせないでいた。

「スフィアは、誰にも心を動かされない娘でのう。昔から結構色々とアプローチは受けておるのじゃ。じゃが、少しも心を動かされなんだ。スフィアは目が肥えておるのじゃよ!接しやすく優しく強いそなた。見目麗しく兄のような瞳のインファ。そして、父のような包容力を持つノイン。誰が太刀打ちできるのじゃ?」

優しく強い?面と向かって褒められてリティルは、面食らって思わず照れてしまった。それを取り繕ってノインを見上げると、ノインも戸惑ったのか、こちらを困ったように見下ろしていた。

「そう言われてもな……あいつ、ヒョロヒョロおどおどのインジュを選んだぜ?」

リティルの言葉に、ニーナは空を戯れるように飛ぶ、インジュを観察するように視線を合わせた。

「……それにしても、眩しいくらいにいい男じゃな……」

ニーナがマジマジと、インジュを見つめてつぶやいた。

「はあ?インファの方が眩しくないか?」

「そなた、それは親の欲目というのじゃ。ほれ、見てみよ!優しさに溢れ、インジュの笑顔はそなたに似ておるのう」

「オレに似てるか?オレ、美形の要素皆無だぜ?」

「何も、美形だけがイイ男の条件ではないわ。そなたのその、太陽のような笑顔は魔性じゃ」

「はあ?魔性?なんだよ、魔性って?」

「それにはニーナに同意する」

「ノインまで、真顔で変なこというなよ!」

「ほれ、笑ってみよ、リティル。ノインと二人しかおらぬが、似ておるか否か、判定してやろうぞ」

二人にジッと見つめられ、リティルはたじろいだ。そして、逃げるように顔を腕で隠して、そっぽを向いた。

「バ、バカ!そんな、笑えるかよ!」

「照れておるのか?初ヤツじゃのう。フフフ、すまぬ。そなたに会えて、嬉しいのじゃ」

散々からかって、ニーナは明るく笑った。そんなニーナに心を解されて、リティルのみならず、ノインも笑みを浮かべていた。

「ハハ、オレもだぜ?はあ、平和だな。平和すぎて、インファが心配だぜ」

「レイシに任せろ。ルディルがよく鍛えてくれた。我々はこちらをなんとかせねばな」

「ああ。とにかく、インジュに武器持たせてみるか?」

 リティルが手を振ると、フロインが舞い降りてきた。インジュは当然のように、スフィアに手を貸してフロインの背から降ろしてやっていた。

「おはよう、色男」

「い、色男?何なんですか?いきなり。ボク、何かしました?」

仁王立ちで見上げてくるリティルの笑顔が、心なしか怖い。

「ああ?インジュのくせにいい度胸だな」

「リティル、リティル、昨夜のことは咎めぬのじゃろう?」

ニーナは笑いを堪えながら、ヒントを出してやった。

「さ、昨夜?何でしたっけ?」

「しらばっくれるなよ。オレ達に何も言わずに、出掛けやがって。何かあったらどうするんだよ?おまえじゃ、スフィアを守ってやれねーだろ?」

「あ……すみません」

「おじさま、誘ったのはあたしなの!インジュは、付き合ってくれただけよ。悪いのはあたしよ。それに、守ってもらわなくたって、あたし、そこそこ強いわよ?」

スフィアが庇うことはわかっていた。彼女は咎められた時のことまで考えて、インジュを誘い出したのだろう。

「はあ、インジュ、この状況どう見るんだよ?なあ、護身術ぐらい習わねーか?それくらいなら、抵抗ねーだろ?」

あのとき、ディン達に何かを仕掛けられないかと、インジュも思わなかったわけではない。スフィアに誘われたことが嬉しくて、浮ついてしまったことは認めるが、もし、襲われていたら、スフィアは今と同じく、当然のように矢面に立っただろう。そう思うと、不甲斐ない。インジュは初めて、誰かの為にそう思った。

 リティルは風の中から、愛用のショートソードを抜くと、差し出してきた。

護身術……それくらいなら、できるだろうか。

インジュはリティルの剣に、手を伸ばした。

――ボクが、ボクの力で、誰かを――……

剣に触れた瞬間、強烈な目眩がして、気がつくとインジュはリティルの足下に頽れていた。

「インジュ、大丈夫?」

倒れなかったのは、どうやら咄嗟にスフィアが支えてくれたからだと、インジュは悟った。

「は、はい、大丈夫です?」

「本当に、大丈夫?」

「すみません……ボクは……」

戸惑うインジュに、スフィアは不安を募らせた。

「おまえ、筋金入りだな。恐れ入ったぜ」

見上げると、リティルが優しく苦笑していた。その表情にも、インジュは戸惑った。呆れられると、そう思ったのだ。

「じゃあ、どうするかなあ?」

インジュはどうやら、封印に安全装置をかけているらしい。封印があること自体念入りに隠して、なおかつ、封印を破る可能性のある危険に対して、拒否反応が起きるようにしていたのだ。これだけのことを、まだ未熟な時分にやってのけたのか?とリティルは、薄ら寒さを覚えた。

『リティル、普段、武器にならないものならどうかしら?』

「うわ!フロイン!くそっ!慣れねーな、そのしゃべり方」

横から顔を覗き込まれたリティルは、一瞬シェラと錯覚してドキリとした。フロインは改める気はないようで、そっと手の平に風を集め、鉄扇を取り出した。

『これなら、どうかしら?』

フロインはインジュの前に膝を折ると、彼の前に差し出した。インジュは手を伸ばした。ズキリと頭が痛んで、咄嗟に頭を抑えながら、何とかフロインの鉄扇に触れた。

――ボクが、ボクの力で、誰かを

「ボクが……ボクの力で、誰かを、誰かを――…………」

インジュはハッとして、顔を上げた。鋭い瞳のリティルの顔が、目の前にあった。鉄扇に触れていたはずの手を、リティルに掴まれて鉄扇から引き離されていた。

「リティル?」

「もう、いい」

「え?」

「もう、いいって言ったんだ。インジュ、おまえはすげーヤツだな」

リティルはフッと呆れたように、けれどもこの上なく優しく笑った。そんなリティルに、インジュは戸惑うしかない。ただ、武器に触れるだけだというのに、それすらもできないのに、なぜ褒められるのか理解できようはずもなかった。

「インジュ、オレの託した力を、そうまでして守ってくれて、ありがとな。それから、ごめんな」

「リティル?」

「おまえは、そのまま行けよ。オレ達みたいに、血にまみれることなんてねーんだよ」

「ボクは、風の城に、いらないんですか?」

「そうじゃねーよ。おまえに、綺麗なままでいてほしいんだよ。生まれる前のおまえの姿を、オレは知ってるんだ。オレが目を奪われるくらい、本当に綺麗でキラキラしてた。インジュエル。おまえは、オレにとって至高の宝石なんだ。手放すわけねーだろ?」

そう言って笑うリティルに、インジュは、底なしの優しさを感じた。この優しさを知っている。そして、その危うさも。

ボクは――ボクはリティルのこの優しさを守る為に――!焦りのような突き動かす感情が、唐突にインジュの中に湧き上がった。このままでは、リティルがどこかへ行ってしまう!ボクはそれを知っている!インジュの心がそう叫んで、何かが目覚めるのを感じた。

――こいよ、一緒に行こうぜ?

生まれる前、リティルが差し出してくれた手を、インジュは思い出していた。あの時、この人の助けになろうと、フロインと共に決めたのに……インジュの瞳が揺れて、俯いてしまった。

「リティル、ボクはどうやって、ボク自身を封じてるんですか?教えてください。教えてください!知ってるんですよね?」

こんな、役に立たない石ころを綺麗だと言って、手放さないと笑ってくれるリティルから、もう、逃げるわけにはいかない。生まれる前、原初の風はリティルを殺した。それを許し、笑って手を差し出してくれたリティルを守る為、原初の風は四分の一の欠片をセリアに託し、リティルから独立した強い精霊として生まれることを望んだのだ。

それなのに、インジュはそれを忘れた。リティルから離れることを選んだのは、この欠片を守るためではなく、リティルを守る為だったのに、インジュはいつしか守るべきモノを違えた。それがわかった。

リティルは、必死に見上げてくるインジュの瞳に、こんな目もできるんだなと思った。それだけ、スフィアの存在が大きいのだと思った。そして、封印を必ず解いてやろうと思った。インジュの自ら課した条件とは違うやり方を、見つけてやろうとそう思った。

「インジュ、その封印が、おまえの強さなんだ。解こうと思ったんだけどな、それをすると、おまえはたぶん壊れちまう。おまえと引き換えになんて、できるわけねーだろ?その精神の強さは、インファ譲りだな。怖すぎてお手上げだぜ、まったく」

立ち上がろうするリティルを、インジュは強く掴んでいた。いつも控えめなインジュに、いきなり掴まれると思っていなかったリティルは、倒れそうになって何とか踏みとどまった。見れば、強い光を秘めて、真っ直ぐ見つめるインジュの瞳と視線がぶつかった。

「リティル!でも、それじゃあボクは――ボクは!スフィアに右目をあげられません!約束したんです。約束したのに……それに、ボクは――」

泣いているように俯いたインジュは、それでもリティルの腕を放さなかった。スフィアは、何も言えなかった。こんなに思ってくれるインジュに、もういらないとは、とても言えなかった。

「壊れてもいいです」

「インジュ」

「ボクは、壊れてもいいですから!」

「インジュ!それじゃ、意味ねーだろ?頭冷やせよ!」

「壊れて……いいです……!ボクは、いいですから!ボクは……ボクは、なんてことを!」

そんなはずないのに、オレ、死なないからと言って、優しさを振りまいてしまうリティルから、死を遠ざける為に生まれたのに、その想いも違え、スフィアとした約束も果たせない。自分の願いを叶える力がここにあるのに、それを自ら捨ててしまった。なんて、愚かなことをしたのか。インジュは悔しそうに顔を覆った。

「おまえは優しいな。インジュ、おまえが本気で望むなら、その封印、解く方法を探し出してやる。だから、焦るなよ」

「でも……」

眠りから目覚めた思いが、押し寄せてくる。存在する目的がわかり、インジュの中の精霊が声高に、存在意義を主張していた。

「スフィアは、今日明日どうにかなるような、状態じゃねーよ。インジュ、何とかなるさ。オレを信じろよ」

インジュはリティルを見られずに、絞り出すように言った。

「すみません……一人にしてください……」

インジュは、リティルを掴んでいた手を離した。優しいリティルの言葉を、インジュは受け止めきれなかった。ずっと閉じこもっていた心は、突然前向きにはなれなかった。

「わかった。オレ達はすぐそばにいるからな。インジュ、信じてるからな?」

リティルは頷くと、皆を促した。ニーナがよいのか?と聞いてきたが、リティルはただ頷いた。

 インジュがここまで意思表示することは、初めてだった。今一人にして、大丈夫か?ともちろんリティルも頭をよぎったが、インファに似て頭のいい男だ。スフィアを悲しませるようなことはしないだろう。

「フロイン、空にいてくれ」

フロインは頷くと、オウギワシに変化すると空へ舞い上がった。

リティルは、スフィアの肩を抱くと強引に連れ出した。スフィアも、ここへ留まろうと思って、動かなかったわけではない。インジュが声を荒げる姿が初めてで、それがスフィアのためであることに頭が真っ白になってしまったのだ。

「おじさま、インジュの封印って?」

聞かれるとは思っていた。

「インジュには言うなよ?あいつが、知らないまま実行しねーと意味がねーんだ。約束できるか?」

スフィアはコクリと頷いた。


「インジュの封印を解く方法はな、インジュが、インジュの力で、誰かを殺すことだよ」


あのインジュに、できるとは思えなかった。

「あいつにとって、最高の封印だよな。誰かが争う姿を見ただけでひっくり返れるヤツだ。武器に触れただけで目眩起こすヤツだ!そんなインジュが、誰かを殺す?そんなこと、あいつが壊れでもしねーかぎり無理だぜ」

リティルはガシガシと頭を掻いた。

「それを、インジュが自分でかけたの?なんで?」

「未熟だったインジュは、戦う風の運命に臆した。自分と同じはずのフロインがまるで抵抗なく戦えることも、インジュを追い詰める要因になってしまった。インジュにとって、戦う力こそすべてだったのだ。それなくして、リティルから託された力を守れないと思い込み、守るためにはどうすべきかを、一人で考えてしまったのだろう」

「それがどうして、誰かを殺すことになるの?」

「インジュは、固有魔法をほぼ使えねーんだ。最上級精霊だぜ?普通ありえねーよ。そんなあいつを、狩りに出せねーよ。狩りに出なければ封印は解けねーよな?城から出なければ、自分の身が脅かされることはねーよな?インファが強行しなければ、オレはあいつを出すつもりはなかったんだ。ここ楽園が、あいつにとって初めての外の世界なんだよ」

「今まで誰も、封印のこと気がつかなかったの?」

「それ言われるとな……そうなんだよ。インファもフロインに聞いたらしいからな。あいつの場合、解く条件は教えてもらえなかったみてーだけどな。なあ?未熟な時にかけた封印を、オレ達は雁首そろえて見抜けなかったんだよ。すげーだろ?どんだけ強い力を秘めてるんだよって話なんだよ」

「見事に欺かれたな。あの城で、何もしないでいることは、苦痛だっただろう。憐れなことをしてしまった」

「スフィア、待ってやってくれねーか?あいつはたぶん、自力で解くぜ?オレ達も手伝うしな」

なあ?とリティルがノインを見上げると、彼は躊躇いなく頷いてくれた。

「凄い精霊だったのね。インジュって。あたし、右目のことはどっちでもいいの。インジュは希薄に見えたから、生きる理由になったらいいなって、そう思っただけだった。封印が解けないって知って、打ちのめされたインジュに、もういいよって、言ってあげられなかった。おじさま!インジュ、死んだりしないわよね?」

「それはできねーから、大丈夫だぜ?オレ達風は、輪廻の輪を守る特性上、自分で死を選べねーからな」

「そう、よかった……よかったの、かな?」

「心配するな、スフィア。言っただろ?あいつ、すげー精神力だからな、ちゃんと立ち直るさ」

リティルは、そろそろインジュの様子を見に行こうかと、きびすを返した。

そんな時だった。フロインの鋭い声が、空気を切り裂き響いたのは。


 本当に、一人にしてくれるとは思わなかった。

戦う力を一切持たず、ディンになぜか狙われているらしいというのに、リティルはインジュの気持ちを汲んでくれた。インジュはやっと立ち上がって、空で旋回しているフロインを見上げた。

あんなに感情的になったのは、たぶん初めてだった。

壊れてもいいなんて聞かされて、リティルは驚いただろうなと、インジュは優しい王を困らせたことを気に病んでいた。

「ボクは……なんて、愚かなんでしょうか……」

スフィアを笑顔にできる力を持っていながら、それを自分の意思で使えないようにしてしまっていたとは、考えもしなかった。

どうすれば、解くことができるのか、リティルは教えてくれなかった。

封印を解くことと、この心が引き換えならば、それでもいい。

そうも思ったが、スフィアや、このままでいいと言ってくれたリティルを裏切ることはできなかった。もう、手に負えない。手に負えないなら、手を差し伸べてくれるリティルやノインの手を取ればいい。

 やっとそう思えて、インジュはリティル達を追おうとした。そんなインジュの耳に、フロインの鋭い声が響いた。

「あなたのその力、わたしが有効利用してあげましょう」

え?こんなに間合いを詰められていたのに、気がつかなかった。インジュは目の前にいたディンの手が、己の胸に押し当てられるのを見た。

「ディ、ン?」

「スフィアを救える力を持ちながら、使わないと言うのなら、わたしにください」

インジュの胸から、キラキラと輝く金色の風が抜き取られようとしていた。

「そんなことをしても、この力は、あなたには使えないですよ?使えるのは、ボクとフロインだけです」

オウギワシに化身したままフロインが空から舞い降りて、ディンに攻撃を仕掛けていた。その彼女に鋭く反応して、ディンは時の魔法をフロインに打っていた。フロインは宇宙のような青黒い空間から飛び出してきた鎖に縛られて、身動きできなくなってしまった。インジュは力ない瞳で、あのフロインの体の時を止めるなんて、ディンは凄い魔道士だなと、ぼんやり思っていた。

「ならば、どうして使わないのですか?スフィアは苦しんでいるというのに!」

「ディンは、スフィアのことが好きなんですね?ボクに手を出してまで、救いたいんですか」

「そうですよ!いけませんか?力があるというのに、使わないのならばないのと同じではないですか!」

「そうですね。ないのと同じですね。力を使える者が持った方が有意義ですよね」

力を使える者?もし、この命を失うことができれば、原初の風の欠片はリティルに戻る。リティルに戻れば、原初の風の化身であるフロインがこの力を使える。独立した存在ではなくなってしまうが、封印が解けなければこのままインジュでいても仕方がない。

けれども、風は自分で死を選べない。ボクは自分で死を選べない。ならば――

「ああ、目的と約束を守る方法、見つけましたよ。ディン、ありがとうございます。ボクは、生まれた意味を示せそうです」

「何を?」

インジュには、オウギワシに化身する能力すらなかった。それは、力の大半を封じてしまっているためだった。

――リティル、すみません。ボクは、生まれた理由を思い出してしまいました。それを果たせないなら、生きている意味がないんです。ボク、これでも精霊ですから

ディンに魂を奪われそうな今なら、命が弱っている今なら壊すことができる。インジュは意識を捨てた。

自分で死を選べないならば、殺されればいい。未熟な心は、再び道を誤った。

 キラキラと輝く金色の風が渦巻き、ディンを弾いていた。ディンが顔を上げる頃、目の前には巨大な金色のオウギワシが、その凶悪な翼を広げていた。

オウギワシは、空を仰ぎ見ていた、白い輝きに青と緑を溶かしたような色の瞳を、ギロリと地上に向けた。もの凄い威圧に、ディンは足の力を奪われてその場にへたり込むしかなかった。

「インジュ!おまえディン!あいつに何したんだよ!」

駆けつけたリティルとノインが、ディンの前に立ちはだかった。インジュは狙いをリティルに定めていた。それに気がついたノインが、襲ってきたオウギワシの巨大なかぎ爪を、長剣で受ける。リティルは、ノインの長剣が一撃で砕かれるのを見た。彼の剣を簡単に砕くとは、すさまじい力だ。

「ノイン!退け!」

リティルはショートソードを両手に抜くと、ノインの前に立とうとした。

「許せ、リティル!」

そんなリティルを押し止め、ノインは風を操った。

「お、おい!ノイン!」

ノインは、リティルの周りに風の障壁を張り、閉じ込めていた。ノインが何をするつもりなのか悟ったリティルは、すぐさま自分を取り囲んでいる金色の檻を壊そうとしたが、極限まで強固に織り上げられた網の檻は、リティルの軽い剣を簡単に弾いた。スピードに特化した、リティルの剣の攻撃力は低い。剣では、この檻を壊すことに時間がかかると判断したリティルは、ならば魔法で!と風を集めようとしたが、檻の周りにノインにだけ従う風が渦巻き、リティルは風すら封じられていた。

「ノイン!やめろ!インジュに意識がねーんだ!強行したら、おまえもインジュも!」

死んでしまう!

ノインは自身を、インジュと互角くらいの大きさのオオタカの姿に変え、飛びかかる。二羽はもつれながら空高く舞い上がっていった。壊すことのできない檻の中で、リティルはそれをただ見ていることしかできなかった。

 ノインにはリティルの叫びが聞こえていた。だが、これは好機だ。インジュの意識がない今なら、彼に殺されることができるからだ。ノインはツバメにメッセージを託し、放つとインジュに向かい合った。

『インジュ!オレの声が聞こえるか?』

ただただ闘志のみに支配された瞳に、インジュの意識は欠片もなかった。オウギワシの弾丸のようなタックルをヒラリと躱し、ノインは再びインジュの眼前に躍り出る。

『オレが、おまえの封印を解く!目を覚ませ!インジュ!』

温室育ちのオウギワシは、ただひたすらに目の前のオオタカを掴もうと猛然と襲いかかってくる。我を失っているとはいえ、この力を引き出したのはインジュ本人だ。これだけの力を瞬時に引き出せるというのに、何が、彼に自分は弱い精霊だと思い込ませたのだろうかと、ノインは不思議でならなかった。

『インジュ!スフィアを救え!おまえには、それができる!託すぞ!煌帝・インジュ!』

「ノイーーーーーーン!」

リティルの叫びが、ノインの作った檻を消し飛ばしていた。術者を失った風の障壁は、脆く、儚く消えていった。

リティルの瞳の中で、無慈悲なオウギワシは、オオタカの体をその凶悪なかぎ爪で無残に握りつぶしていた。

時を止められていた、フロインの翼がグググッと動き、体を拘束していた鎖が弾け飛んだ。ディンの魔法を破ったフロインは、一直線に、もう動かないオオタカを未だ締め上げているインジュに向かって飛んだ。

フロインの殺気に、インジュは動かないオオタカから、標的をあっけなく切り替えた。インジュは血まみれのオオタカを放すと、フロインと戦い始めた。

リティルは血と羽根をまき散らして落ちてくるオオタカを、風の腕で受け止め、彼がこれ以上の苦痛を受けないように大地へ降ろした。

「ノイン!しっかりしろ!ノイン……!」

変化の解けたノインは、うつ伏せに倒れピクリとも動かなかった。雄々しく美しい両翼を無残に折られ、その体も握りつぶされていた。リティルは、自身の風と、体に宿っている花の姫の癒やしの力を混ぜ合わせ、ノインに送る。しかし、もう手遅れであることはわかっていた。ノインの体が淡く輝き、金色の光の粒がその体を離れ始めていた。

 空中では、二羽のオウギワシがなおも激闘を繰り広げていた。その青空が唐突に一文字に切り裂かれた。それは、次元の刃の力だった。

「フロイン退きなさい」

静かなその声に、フロインは攻撃をやめ、突如現れた彼の背後に回ると、すぐさま地上に舞い降りていった。

フロインを追っていたインジュは、雄々しいイヌワシの翼を背負った美しい精霊を、次の標的に定めて襲いかかっていた。

インファは、インジュのかぎ爪をスルリと躱すと、巨大なオウギワシの頬に平手打ちしていた。その威力はすさまじく、オウギワシは空中でヨロリと蹌踉めくほどだった。

「これ以上の愚行は許しませんよ?」

インファの底冷えするような怒気に、オウギワシは戦意を消失していた。

「インジュ、何をしたのか、わかっていますね?そして、なぜノインがその命を犠牲にしたのか、理解していますね?」

インジュの変化が解けた。インファは、呆然とこちらを見ている頬を腫らした息子を、憂いの瞳で見つめ返していた。

「お父さん……ボクは、ノインを……?」

「ええ、見事に殺しましたね」

父の飾らない言葉に、インジュは瞳を見開いた。そして、血にまみれた両手を見つめた。たぶん、叫んだと思う。その両手で顔を覆う前に、インジュはインファに抱きしめられていた。そのぬくもりに、インジュは壊れそうな心が守られるのを感じた。

「インジュ、ノインの言葉は届いていましたか?これから、どうすればいいのかわかりますね?」

「はい、お父さん……ボクは、スフィアを救い、風の王・リティルの刃になります」

インジュは、インファの肩で瞳を閉じた。その瞳から、溜まった涙が流れ落ちた。

「下を見なさい」

インジュは、インファの肩越しに地上を見下ろした。そこには、リティルとノインがこちらを見上げている姿があった。

「ノ、イン?」

インジュは目を疑った。ノインの命を奪ったことを、この手は感じていたのに、初めてのことで、感じ誤ったのだろうか。

「フロインが間に合って何よりです。しばらく姿は保てませんが、彼女は本望でしょう」

消えゆくノインに、フロインが同化することで彼を救ったことを、インジュは悟った。リティルの中に原初の風がある限り、何度でも体が再生する彼女ならではの救い方だった。「また、鳥かごに戻りたいですか?」

「……戻れません。命を奪う感触を、知ってしまいましたから。もう、戻れません」

「今まで、よくがんばりましたね。辛く当たって、すみませんでした」

「お父さん、ボクはもう、逃げません。この力と共に、生きていきます。長い間、偽って――すみま、せん!」

力と心が、インジュに戻ってきていた。インジュはインファにすがって、泣いた。そんなインジュを、インファは突き放すことなく、抱きしめていてくれた。

「行きなさい、インジュ。もう少しそばにいたいですが、オレは戻らなければなりません」

インファはやっと、息子から手を放した。

「大丈夫です。ボクはもう、飛べますから」

インジュは、哀しげに瞳を伏せると微笑んだ。もう、戦いを恐れていた自分を思い出せなくなっていた。インファはそんな息子の肩に一度だけ触れると、踵を返した。

 インファは、消えていく次元の傷に飛び込んで行ってしまった。父が、インジュを正気に返すためだけにきてくれたことに、驚いていた。それにしても、あの平手打ちは効いたなと、もう癒えてしまった頬を、インジュは撫でた。

「ありがとうございます。お父さん」

インジュは、未だに体に残る、インファの体温を感じていた。この心が体から出ていかないようにつなぎ止めてくれたその腕に、インジュは素直に感謝していた。


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